日の丸、君が代 (その 1)
その理由は日の丸が嫌いだからでは決してなく、それを購入して 祝日に立てるほどの国旗に対する関心や習慣が、 申し訳ありませんが、単に無かった だけのことです。私は健康上の理由から毎日 1 万歩の散歩をしていますが、私が見る限り祝日に市内で国旗を掲げる家は極めて少なく 、1 時間半歩くうちに毎回 2〜3 軒を見るだけでした。
[ 1:国旗の歴史 ]ヨーロッパ諸国の国旗は十字軍にその起源を持つといわれています。 ローマ教皇 ( 法王 ) ウルバヌス 2 世( Urbanus the second 、1042頃〜1099 年 ) がその当時 イスラム教徒に奪われていた、 キリスト教の聖地 エルサレム ( イスラム教、ユダヤ教にとっても、共に聖地 )を奪還するという大義名分を掲げて、キリスト教諸国から十字軍を編成し中東に派遣しました。
1096 年の第 1 回から 1270 年まで 7 回にわたり十字軍の遠征がおこなわれましたが、諸国から集まった兵士たちは、甲冑 ( かっちゅう、よろいかぶと ) に身を固めると敵と味方の区別がつきにくく、何らかの標識を持つ / 付ける必要に迫られました。
そこで選ばれたのが キリスト教を意味する 十字の印で、戦場で兵士たちは布地に十字を描いた旗を持ち、あるいは盾や服に十字の印、紋章を加えて出身地や身元などを明らかにするようになりました。第 1 回の遠征には 2 万人の兵士が参加し、イスラム教徒や兵士など 7 万人を殺害し略奪をしました。
兵士たちを輸送する十字軍の船にも十字の旗印が付けられるようになりましたが、帆以外に船の舳先 ( へさき ) にも印を掲げたので、これが旗の元祖になりました。一般の船にも旗を掲げるようになったのは、地中海では 12 世紀後半、北 ヨーロッパでは 13 世紀中頃のことでした。
ヨーロッパ諸国の国旗には大別すると十字 ( Cross ) 型と三色旗 (Tricolor) 型がありますが、前者には ノルウェー、デンマーク、スエーデン、フィンランド、ギリシャ、スイスの国旗などがあります。 特殊なものでは 3 種類の十字 [ イングランドの 聖 ジョージ旗、( 白地に赤十字 ) に、 スコットランドの聖 アンドリュー旗 ( 青地に赤の斜十字 )、北 アイルランドの聖 パトリック旗 ( 白地に赤の斜十字 )] を組み合わせた英国旗がありますが、赤の斜め十字は、左右対称ではないことに注目。左上図の左側は ノルウェー国旗、右側は英国旗ですが、三色旗型はこの頁の最下部にある ドイツと、イタリア国旗を参考にして下さい。
[ 2:日の丸の起源 ]日の丸は日章旗とも呼ばれますが、太陽を形に表した旗であることは間違いありません。日本には古代から太陽を崇拝する信仰がありますが、記紀 ( 古事記、日本書紀 ) 神話によれば日本列島を作った イザナギ ( 男神 )が 、火の神を出産した際の火傷で死んだ妻の イザナミを探しに黄泉国 ( よみのくに、死者の国 ) に行き、妻の変わり果てた姿を見て逃げ帰りました。そこで彼は 「 死のけがれ 」 を川で洗い落とす( みそぎ )際に、彼の左目から生まれたのが、太陽神の 天照大神 ( あまてらす おおかみ ) という女神でした。天皇家の祖先神として天照大神は伊勢神宮の内宮に祭られていますが、日本には今でも元旦の 初日の出 を拝み、あるいは富士山や他の高山でも山頂から、 御来光 を拝む習慣が続いています。
平安時代初期 ( 797 年 ) に成立した勅撰の史書である 続日本紀 ( しょくにほんぎ ) によれば、大宝 1 年( 701 年 ) に朝廷の儀式に 日幡( ひばた ) 、月幡 ( つきばた ) を用いた との記録がありましたが、これらは 一種の装飾のある旗印であって、近代の国旗といえるものではありませんでした。( 右図は日幡の想像図 )
室町時代以降になると中国の明 ( みん ) との間に勘合貿易 ( 割り符を用い、正式な貿易船であることの確認をした貿易 ) がおこなわれ、それには室町幕府による明王朝への朝貢という形式をとりましたが、実際は有力守護大名や寺院がおこなう交易であり、莫大な利益をあげました。 勘合貿易船には日本船であることを示すために船尾に日の丸を掲げてしましたが、倭寇( わこう、海賊 ) による八幡船 ( ばはんせん ) や、徳川幕府により 一時期おこなわれた官許の貿易船である 御朱印船 ( ごしゅいんせん ) にも赤丸の旗がもちいられ、日の丸は戦国時代の武将たちの旗印などに、使われたこともありました。 江戸時代になると幕府所有の船舶や幕府の御城米 ( ごじょうまい ) の輸送に当たる公用船には、 日の丸幟 ( のぼり )と称して 1 〜 4 箇の 赤丸 を付けた幟旗 ( のぼりばた ) を立てて表示しました。
幕末になると日本は諸外国から国交を求められたので、国旗を持つ必要にせまられましたが、薩摩藩主の島津斉彬 ( なりあきら )、水戸藩主の徳川斉昭 ( なりあき )、老中の阿部正弘らが相談したところ、徳川斉昭 ( なりあき ) が白地に赤丸にすべしという、下記の建議書を提出しました。
日を表し候 日の丸 を、公儀 ( 幕府 ) の御印に用ひ候は如何 ( いかが ) と存じ候。最終的に幕府は ペリー ( 黒船 ) 来航の翌年、嘉永 7 年 ( 1854 年 ) 7 月 9 日に、老中の阿部正弘が、
異国船に不紛様 ( まぎれざるよう )、 日本総船印 ( そうふなじるし ) は白地日之丸之幟 ( しろじ ひのまるの のぼり ) 相用ひ候様 ( あいもちい そうろうよう )という 船印之儀に付御触書 ( ふなじるしのぎ につき おふれがき ) を布告しました。各国の旗章に類似のものがなく、「 弁識 ( べんしき、識別のこと )もよかるべし 」 ということで決まりました。 1860 年に咸臨丸が日米修好通商条約批准のために アメリカに向かった際には、 「 日の丸 」を国旗として掲げましたが、さらに文久 3 年 ( 1863 年 ) には「 御国印 」と定めました。徳川幕府崩壊後明治 3 年 ( 1870 年 ) に太政官布告題 57 号により 郵船商船規則 が公布されましたが、そこでは 「 御国旗の事として国旗の掲揚や旗 ( 大 ・ 中 ・ 小旗 ) の寸法や デザイン ( 赤丸の大きさ、円の中心位置 )」 を定めました。
絵は 「 嵐の海を航海する咸臨丸 」 の木版画ですが、アメリカまで往きの航海に同乗した アメリカ海軍の ブルック大尉の「 航海日誌 」 によれば、航海の 3 分の 2 は ブルック大尉が操船の指揮をとり、勝海舟を初め日本人の多くが船酔いで部屋に閉じこもり仕事ができず、同乗した 11 名の アメリカ人水夫の手で航海を続けました。勝海舟をはじめ日本人の多くは、 私と同様、船に弱い バッド ・ セイラー( Bad Sailor )でした 同じ年に海軍旗章・国旗章・並諸旗章の太政官布告が出て 軍艦用の国旗 を定めましたが、一般の国民が使用する国旗に対しては 法律上の規定 ・ 根拠が何も無いままに 、平成 11 年 ( 1999 年 )まで 120 年以上にわたり、 「 日の丸 」 が事実上国旗として扱われるようになりました。 ( 2−1、国旗が持つ意味 ) 国旗とは国家を表す尊厳な標識であり国の識別標識であるだけでなく、 国の主権 を象徴する 神聖な性質をも有するものです。かつて 15 世紀の大航海時代に コロンブスが初めて新大陸の サン ・ サルバドール ( 聖なる救世主 ) 島を発見し、上陸した際に 最初におこなったことは 、スペインの国旗を立ててその土地の領有を宣言し、その旨を記録させたことでした。 今では世界中の 一定の大きさ以上の船舶は自国の国旗を掲げて国籍を明示し、飛行機の場合は機体 ( 主翼、胴体、あるいは尾翼など ) に登録国の国籍を示す標識や、登録記号 ( 日本の場合は 、J A−−−− ) が付けられています。
ところが最近前代未聞の事が起きましたが、小沢民主党代表代行が来るというので鹿児島県 ・ 霧島市の民主党支持の バカ者が 、 2 枚の 「 日の丸 」 を切りきざんで 1 枚の民主党の党旗を作り、それを決起集会会場に掲げたのです。真ん中に縫い目のある二つの 「 日の丸 」 を見たのは 76 年の人生で初めてでしたが、 国旗が持つ意味について 小学生程度の 理解力も無く、国旗に対する尊敬の念の欠落から起きた事件でした。
[ 3:昔の小学校の教科書 ]昭和 12 年 ( 1937 年 ) 5 月 20 日 発行、文部省の 尋常小学校国語読本 ( 巻 12 ) の第 13 課 国旗 の抜粋によれば、
今日一国家を形成する国々にして、国旗の制定さられざる所なし。国旗は実に国家を代表する標識にして、其の徽章 ( きしょう ) 色彩にはそれぞれ深き意義あり。今我が国を始め主なる諸外国の国旗に就いて述べん。とありました。
私は太平洋戦争開戦の前年である昭和 15 年 ( 1940 年 ) に東京都豊島区巣鴨にある小学校に入学しましたが、当時は国が定めた 祝祭日のことを旗日 ( はたび ) と呼んでいて、カレンダーに日の丸の印や旗がついていたからでした。 旗日になると多くの家では家の前に国旗を立てて、四方拝 ( 元日 )、紀元節 ( 2 月 11 日、現、建国記念の日 )、天長節 ( 4 月 29 日、昭和天皇の誕生日、現、昭和の日 )、明治節 ( 11 月 3 日、明治天皇の誕生日、現、文化の日 ) などの 四大節 ( しだいせつ ) を祝いました。 旗日には学校では式典だけがおこなわれ、「 君が代 」 斉唱、四大節それぞれに固有の歌があったのでそれを歌い、校長先生が講堂でうやうやしく読む 教育勅語 を、気を付けの姿勢で頭を垂れて聞いたものでした。戦争が始まる前までは紅白のまんじゅうか、菊花の模様を押した落雁 ( 干菓子 ) をもらって帰宅しましたが、開戦後は物資不足からお菓子の支給は中止されました。家の近くには都電が走っていましたが、今も唯一残る 早稲田と 三ノ輪橋を結ぶ、 路面電車の都電 「 荒川線 」 で、旗日 ( はたび ) になると、電車の前にも小さい日の丸を立てて走りました。
[ 4:敗戦後 ]敗戦により、これまでの価値観が一変し、 日の丸 ・ 君が代は侵略戦争に使われた 道具であり その象徴 、あるいは戦争の惨禍を思い出させる 遺物 などとして、左翼主義者や反日主義者からは目の仇にされましたが、敗戦の翌年 ( 1946 年 ) に入学した旧制中学 ( 後に併設中学と改名 )、新制高校の教育では、国旗 ・ 国歌に対する教育はもちろんのこと、外国のそれに対する敬意についても学んだことはまったくありませんでした。その後の日本の学校教育において、国旗 ・ 国歌に対する教育 ・ しつけの欠落がもたらしたものとは、( 4−1、国旗の尊厳に対する無知 )
[ その : 1 ]、
事件が起こったのは、夕方の 6 時丁度でした。どこかで笛の音が ピーッ と鳴るのを聞きました。その笛は国旗降下の合図だったのです。ケニア国民は直立不動の姿勢をとらねばならず、また外国人とて同じです。( しかし ) 私は起立もせずに下を向いて漁網作りの仕事を続けていました。[ その : 2 ]、 フィリピンに派遣された青年海外協力隊のある隊員は、大学の農場の管理維持の作業に従事していました。
その大学は国立だったので、朝晩 国旗の掲揚と降下をおこないました。彼が指導していた農学部の学生たちは農作業をまじめにやらず ( 注参照 )、日本の協力隊員任せなのに腹を立てていました。そのために夕方の国旗降下の音楽を聴いても、国旗掲揚塔のある大学本部に向かって、直立して敬意を示さずに農作業を続けました。すると隊員のとった態度が大学で問題になりましたが、彼が フィリピンの国旗や国家に対して侮辱をした というのです。 敗戦後 長い間平和 ボケした日本で育ち、自国の国旗国歌に対してはもちろんのこと、外国のそれに対しても 敬意を払うという世界の常識 を子供の頃から全く教えられず、成人してからも わきまえない若者 の行為が原因でしたが、日教組による偏向教育がはびこる教育界の長年にわたる欠陥が図らずも露呈したわけです。偏向教師に指導された生徒による日の丸、君が代に対する非礼な行為については、 ここをクリック。
注:)
[ 5:国旗 ・ 国歌への尊敬 ]
別の立場で見れば南下政策をとった ロシアの朝鮮半島侵略に対して日本の独立を守り通し、太平洋戦争により一時的にせよ欧米の植民地勢力を アジアから追い払ったことが、白人には到底勝てないと思っていた アジアの植民地住民に勇気を与え 、戦後の独立運動につながったことは否定できない事実でした。 その契機を作ったのは日本であるという、 輝かしい 「 日の丸 」 の歴史 を知らなければなりません。 日の丸に対する歴史の汚れを主張するのであれば、欧米の国々、G−8 諸国はみな 過去に侵略や植民地支配をした国であり、 中国と北朝鮮も朝鮮戦争の際に 韓国を侵略した ことから、彼ら 二国の国旗もまた、 侵略の歴史で汚 ( けが ) れている といわなければなりません。ところで諸外国における国旗の取扱いについては、 [ アメリカ合衆国 ]
アメリカの小学校では州により異なるものの、毎日教室で全員が姿勢を正し、教師の合図で教室に掲げられた国旗に正対して、次の合図で左胸に手を当てて、国旗と国歌への 忠誠を誓います がその文言とは、
"I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all."「 忠誠の誓い 」 の意味など大部分の児童にとっては理解できないと思いますが、それでもいいのです。かつて日本でも明治維新まで、子供達は寺子屋の師匠から読み ・ 書き ・ そろばんを習いましたが、読み方といえば 「 いろは 」 の次は名前の文字で、次は孔子の論語でした。難しい文章を子供たちは子 ( し ) のたまわく−−−−( 孔子さまがおっしゃるには−−− ) と文章の意味や文字も分からずに、教えられたままに声を出して読む 素読 ( そどく ) をさせられました。 ことわざに、「 門前の小僧、 習わぬ経を読む 」 がありますが、学ぶ環境が大切であり、成長するにつれて次第に意味が分かるようになるものです。子供の頃からの躾け教育は、国旗 ・ 国歌に対してもするべきだと思いますし、それに対する自分自身の考え方や国家観の確立は、成人してからで十分間に合います。 [ 中華人民共和国 ]
右の写真を見てください。韓国旗にひざまづき謝罪する男の背中の張り紙の文字は、 昭和天皇 裕仁 と書かれていますが、昭和天皇が韓国旗に土下座して謝罪しているのだそうです。それだけでなく当 HP の掲示板への投稿 「 韓国に、二度もだまされるな 」 を引用させてもらいますと、 西 ドイツの ブラント元 首相が ポーランドの ホロコースト記念碑に ひざまずいて( Genuflection ) 謝罪したように、 明仁天皇も韓国に来て同様な方法で謝罪せよと韓国の李大統領が イギリスの タイムズ紙との インタ−ビューで述べています。ちなみに彼は大阪府出身の もと在日で、1946 年に 5 才で帰国するまで、日本での通名は月山明博 ( つきやま ・ あきひろ ) でした。 掲示板の投稿を見るには ここをクリック。 植民地支配の記憶が無いかあるいは経験しない世代にも、 1945 年の日本の敗戦以来 今も続く 反日 教育 の成果により、このような事態が起きるのです。 さらに言えば、韓国の歴史とは古代から中国に侵略されたのを初め、豊臣秀吉に侵略され、李氏朝鮮が中国の 明 ( みん )、清 ( しん )の 属国の地位に 400 年間も甘んじ 、中国を世界の中心と崇める小中華思想を信奉して国の近代化を怠りました。 当時の朝鮮国王を指導、監督した中華民国の臨時大統領 袁世凱( えんせいがい、1859〜1916年 ) によれば、 朝鮮は世界における 最貧の国である と述べましたが、ロシアや清の領土にならずに日本の植民地となったことは、結果的には共産主義の支配を受けずに彼らにとって幸せでした。 自力では国の独立も果たせず、日本の敗北後は熱烈に希望したものの戦勝国陣営には入れてもらえずに、敗戦から 3 年後 ( 1948 年 ) になって、ようやく アメリカから独立を与えられるなど、韓国にとっては 惨 ( みじ ) めで、屈辱に満ちた国の歴史 しかありませんでした。 戦後の復興も嫌いな日本に資金と技術援助を頼まざるを得ず、1997 年に起きた アジアの通貨危機では、韓国自体が破産状態に追い込まれ、IMF ( 国際通貨基金 ) の管理下に入るという屈辱を味わいました。 韓国の求めた経済支援に応じて、日本は 2.8 兆円を支援 しましたが、例によって韓国人の 民族的悪癖 である 「 良いことは常に自分の手柄、悪いことはすべて他人の せい 」 とする身勝手な考え方から、( 植民地支配をした日本 )が支援するのは当然だとして、少しも感謝しませんでした。
更に昨年の リーマンショックでは、韓国の国際経常収支がまたも 251 億 ドル ( 2 兆 4 千億円 ) の赤字に転落しましたが、そのために通貨 「 ウオン 」 の価値が大幅に下落し多くの日本人が喜んで韓国旅行に行きました。日本に対する拭いきれない劣等感と教え込まれた、 虚偽の歴史から日本を恨み 、 「 うっぷん晴らし 」 に走るのです。
今朝 ( 9 月 16 日 ) の読売新聞によれば、韓国の大統領が日韓併合 100 年に当たる来年に天皇の訪韓を要請したとありましたが、1992 年の昭和天皇訪中と同様に、相手が政治的に天皇を利用し、「 頭を下げに来た 」 と自らの地位向上のために宣伝する魂胆が見え見えです。 なお韓国の マスコミは天皇 ( Emperor ) の語を意図的に使用せず、天皇より格下の 日 王 ( にちおう、日本の王、King ) という表現を使用することにより、天皇を日頃から侮辱することにより、溜飲 ( りゅういん、不満や恨みなどによる胸のつかえ ) を下げている(−−−がなくなり胸をすっとさせる )のです。
[ 6:国旗に対する侮辱 ・ 損壊 ]日本の刑法第 92 条には、 [ 外国国章の損壊 ] の規定がありますが、
外国に対シ侮辱ヲ加フル目的ヲ以テ其国ノ国旗其他ノ国章ヲ損壊、除去又ハ汚穢 ( オワイ ) シタル者ハ 2 年以下ノ懲役又ハ 200 円以下ノ罰金ニ処ス但外国政府ノ請求ヲ待テ其罪ヲ論スというものです。しかし外国政府の処罰請求が必要なために、1907 年の法律制定以来この罪の適用例はありませんでした。注意すべき点は 日本の国旗損壊に対する刑法の規定が 無いこと ですが、明治 40 年 ( 1907 年 ) に刑法が成立した時点で、そのような事態が起きることは全く予想されていなかったからでした。 従って日本国内で 「 日の丸 」 に火をつけて燃やしても、あるいは踏みにじっても、破いても 「 日の丸 」 は外国旗に該当しない ので、せいぜい軽犯罪法が適用される程度であり、拘留 ( 1 日以上 30 日未満 ) または科料 ( 10 銭以上 20 円未満 ) と軽い罰則です。
聞いたところによれば、中国政府に対する弱腰の態度が評判だった当時の福田総理の意向で、この事件は穏便に納めたそうですが、中国の インターネット上では、80 代の老人から日の丸を奪った彼を、英雄に仕立てあげて礼賛していたそうです。
中国人が書いた本によれば、自らの非行に対して 相手が寛大な態度を取るのは、
沖縄などで日本人による日の丸損壊事件が起き、多数の中国人、韓国人などが日本を訪れ、あるいは日本に住む現状においては、外国の国旗だけを法で守るのではなく、自国の国旗についても国旗損壊罪を設け、意図的に損壊あるいは侮辱した者に対しては相応の処罰をすべきだと思います。 ちなみに中国の国旗法では国旗や国章を侮辱した者に対しては、軽度の場合は 15 日以下の拘留、重い場合は 3 年以下の懲役 または政治的権利剥奪などの規定があり、また一般人に対しては春節 ( 旧正月 ) には、国旗掲揚の義務が課せられています。 ( 6−1、アメリカの場合 ) 1970年代のこと、政府の ベトナム戦争介入に反対する多くの市民が各地で立ち上がり、星条旗に平和の シンボルを付け、あるいは国旗を上下逆さまに掲げ、さらに燃やすなどして抗議をしました。しかし司法当局は連邦法に触れる行為であったにもかかわらず、この行為を不問にしましたが、その理由とは、
侮辱は国旗や国家に対して行われたものではなく、アメリカの 政策を決め、それを実行した者 に加えられたのである。との理由付けをしたからでしたが、政府もこれ以上問題を大きくしたくなかったからだと思います。 ( 6−2、国旗及び国歌に関する法律 ) 前述したように明治初年の太政官布告以来、 120 年以上にわたり法的地位があいまいなままでした国旗の地位が、幸いなことに平成 11 年 ( 1999 年 ) 8 月 13 日に「 国旗及び国歌に関する法律 」 が公布 ・ 即日施行されたので、日教組などの反対派にとっては反対の根拠を失う結果となり結構なことでした。 しかし残念なことは、この法律にも、「 日の丸 」を毀損 ・ 公然と侮辱してもそのための処罰規定が無いことですが、外国のように法制化する必要があります。
[ 国旗 ] 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
[ 国 歌 ] 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第 2 のとおりとする。
[ 7:国旗 ・ 国歌への批判 ]
2、78 才で今年の春 ( 2009 年 4 月 ) 亡くなった故人の、 「 君がーよーは 」 に代わる 「 我らが世は 」 の説には、一考の余地がありますが、彼女と年齢的に近い私の天皇制に関する考えは、ここにあります。 3、に関連していうならば、 国旗国歌を敬う気持ち は自然に ( 換言すれば本能的に ) 生じるものでは決してなく、そこには子供のころからの躾け教育が必ず必要だと思います。だからこそ社会主義諸国はもちろんのこと、それ以外の新興国でも子供の頃から家庭や教育の場でおこなっているのです。 4,に関しては後述する 「 日の丸 」、「 君が代 」 の歴史に対する、会長の呆れるほどの無知ぶりであり、これを見れば左翼主義に陶酔 ( とうすい、酔い痴れる ) した歴史教育者協議会の 偏向性 がよく分かるというものです。 君が代への批判を大別すると
注:) [ 8:国旗の変更について ]日の丸に反対する人々の中には新しい国旗を作ることを求める人もいますが、その根拠としたのは第 2 次大戦において、日本 ・ ドイツ ・ イタリアの 3 国が軍事同盟を結び連合国と戦い敗れましたが、敗戦後に ドイツと イタリアは国旗を変更したのに 、 日本だけが変更せずにいる と主張していました。しかしよく調べてみるとこの説には ウラ がありました。
ドイツでは1933 年 ( 昭和 8 年 ) に ヒトラーが政権をとると、それまでの ドイツ国旗を廃止して ナチス党の ハーケンクロイツ ( カギ十字 ) の党旗を ドイツの国旗にしました。( 左側の旗 ) しかし敗戦により 「 カギ十字 」 の国旗は廃止されて、東 ・ 西 ドイツとも ワイマール( 東 ドイツの小都市の名で、ドイツ革命により成立した共和国の通称 ) 共和国時代の黒 ・ 赤 ・ 金の三色旗を復活させ、東 ドイツの国旗は後に旗の中に国章を加えましたが、東西ドイツの統一後は 1933 年以前の国旗 に戻しただけの話でした。
イタリアの国旗についての事情も似たようなもので、フランス革命、ナポレオン戦争後の事態収拾のため、1814 年に ウイーン国際会議が開かれたものの会議ははかどらず、 会議は踊る、されど会議は進まず の言葉で有名になりましたが、 ヨーロッパの国際秩序がようやく形成されました。 自由と統一を求めるイタリア国旗の 緑 ・ 白 ・ 赤の 三色旗は フランスの三色旗にならって作られましたが、1861 年に イタリア王国が樹立されると、旗の中央に サボイア( Savoia )王家の盾の紋章が入りました。 第 2 次大戦後、 イタリアでは君主制か共和制かの国民投票が行われた結果、君主制は 1946 年に廃止され、三色旗にあった サボイア王家の紋章も消去されました。つまり イタリアの国旗も昔の姿に戻った だけでのことでした。 ところで「 日の丸 」 の国旗に対する 私の考えは 、前述した通り 400 年という長い歴史のある 「 日の丸 」 として、人々の心に昔から広く受け入れられているので、別の国旗に変える必要など全くないと思います。
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