コロンブスの、みやげ
[ 1 :絵に書いた モチの契約書 ]1451年の秋、イタリア北西部の ジェノバで一人の男の子が生まれましたが、織物職人の家柄である コロンボ ( 鳩の意味 ) 家に生まれたその子は、クリストフォロ ( Christophorus ) と名付けられました。
その彼が後年に クリストファー・コロンブス ( Columbus 、1451〜1506 年 ) と呼ばれる航海者、探検家になりましたが、スペイン ( 当時の カスティリア王国 ) の女王 イサベラ ( Isabella ) 1 世 ( 1451〜1504 年 ) により、大洋提督に任ぜられました。 コロンブスが新大陸発見の航海に出発する 4 ヶ月前の 1492 年 4 月 17 日に、 グラナダ郊外の サンタ ・ フェ ( Santa Fe ) において王室側と契約書を結びましたが、それによれば、という内容が記載されました。ところが結論をいえば 彼が スペイン王室と結んだこの好条件に溢れた契約は、ほとんど 実行されずに終わりました 。 [ 遺骨の行方 ] コロンブスの新大陸発見が、その後の スペインに広大な植民地と莫大な富をもたらす大きな貢献をしたにもかかわず、彼の最大の支援者でした イサベラ女王が 1504 年に死ぬと、 契約書の履行を嫌がった スペイン王室は、とたんに彼を冷遇しました 。 貴族に列せられ大洋提督の肩書きを持つ コロンブスが、女王の死から 2 年後の1506 年 5 月 20 日に小さな家でひっそりと死んだ際には、スペイン王室、市当局からの弔問使は 1 人も訪れず、死亡広告も出ず、市の記録文書に彼のことが 1 行も記されませんでした。王室の態度に憤慨した遺族が 、彼の遺骨を新大陸発見の航海で上陸した エスパニョーラ ( Espan~ola ) 島 ( 現在の ドミニカ ) に埋葬しました。ところが ドミニカは 1795 年に、スペイン領から フランス領になったので、その際に スペインによれば、 コロンブスの遺骨を当時 スペインが支配していた キューバへ移したのだそうです。
しかし 1898 年に スペインが アメリカと米西戦争をした際には、彼の遺骨を キューバから今度は スペインの セビリアへ再度移したと スペインは主張しました。ところが不思議なことに 、1877 年に ドミニカ ( 現、共和国 ) の首都 サント ・ ドミンゴ ( Santo Domingo ) にある大聖堂の中から、 コロンブスの名が書かれた遺骨の箱が見つかりました。( 写真はその大聖堂 ) 。結局 彼の遺骨は スペイン、ドミニカ、キューバ が、それぞれ自国にあると現在も主張しています。
未知の大陸 ( ? ) の島 に上陸した コロンブスは、 2 人の船長を証人とし、船団の記録官および上陸した者達の前で スペインの国旗を立て 、 イサベラ女王のために この島を領有することを正式に宣言し、それを文書に記録させました。 彼等がそこで見たものは高価な宝石で身を飾った インド人や シルクの衣装を着た中国人ではなく、驚いたことにほとんど素裸の連中でした。 コロンブスはこの島を サン ・ サルバドール ( 聖なる救世主 ) と命名しましたが、この新大陸を発見した翌日の航海日誌 ( 1492 年 10 月 13 日 ) に、コロンブスは先住民について、
と書き留めました。カナリア諸島とは アフリカ大陸から 約 100 キロ 離れた大西洋に浮かぶ スペイン領の島々で、カナリアの原産地として知られているところですが、古代 ローマの時代から 北 アフリカ系の グアンチェ族が住んでいました。
コロンブスは インド大陸の東にある島々 ( 実際は現在の バハマ諸島、Bahamas のこと ) を発見したと信じたので、先住民を スペイン語で インド人を意味する インディオ ( 英語では、インディアン )と呼びました。 インド大陸発見の旨を後に スペインの イサベラ女王に報告しましたが、それが原因で カリブ海に浮かぶ島々を 人々は西 インド諸島 ( West Indies )と呼ぶようになり、その住民を ウエスト ・ インディアン ( インド人 ) 、北米の先住民をアメリカン ・ インディアン ( インド人 )、中南米から南米にかけて住んでいた先住民を インディオ ( インド人 ) と呼ぶようになりました。ちなみに当時は アフリカ大陸との 奴隷貿易がおこなわれる以前 でしたので、現在 北米大陸、中米、西 インド諸島、南米大陸に数多く居住する アフリカ系奴隷の子孫である黒人は、これらの地域に未だ存在しませんでした。
では インディオはどのようにして、 この地域に住むようになったのでしょうか?。先住民たちの祖先である 蒙古系 ( モンゴロイド、Mongoloid ) の人々は、 旧石器時代後期の 2 万年前の氷河期に シベリア大陸から民族移動をおこない 、結氷した幅 100 キロの ベーリング海峡を徒歩で横断して北米大陸の アラスカに渡りました。 その後 一部は彼らの言葉で 「 生肉を食べる人 」 の意味である、 エスキモー ( Eskimo、現在では人間を意味する イヌイット を使用 ) として アラスカや カナダに残留したものの、大部分の集団は温かい気候と豊かな食糧を求めて北米大陸を南下し、中米、西インド諸島、南米大陸の南端にまで移動してそこに定住しました。その結果 蒙古系の インディオ が、その地域の先住民となりました。
[ 3 : 人生の絶頂期 ]コロンブスは 3 ヶ月以上も サン ・ サルバドール島の周辺海域を探検しましたが、あるのは裸の先住民が住む島ばかりで、金銀財宝などは影も形もありませんでした。そこで彼は宝探しを諦めて スペインへ帰ることを決め、1493 年 3 月 15 日に母港である スペインの パロス港に 7ヶ月ぶりに帰りましたが、 新大陸を発見した コロンブスはそこで英雄として迎えられました。
コロンブスの一行は バルセロナにあった スペインの王室まで陸路で向かいましたが、彼は新大陸に到達した証拠として 現地で捕獲した、6 人の西 インド諸島の先住民である 「 インディオ 」 を行列に加えましたが、ヨーロッパ人が見たこともない鮮やかな色彩の オウムを籠に入れて彼等に捧げ持たせ、黄金の装飾品を身に着けさせました。 バルセロナに向かう沿道には群衆が溢れ、提督と捕虜である異教徒の インディオ を興味深く眺めましたが、この時が彼の人生において最も輝いた時期でした。新大陸発見の労をねぎらい、イサベラ女王は コロンブスを貴族に列しました。ところで彼の船には様々な新大陸からの品物が積み込まれていましたが、その中にはこれまで見たこともない トウモロコシ や タバコ がありました。
[ 4 : トウモロコシ ]最初の探検航海の際に、 コロンブスの船団は現 カリブ海にある キューバ島に到達しましたが、彼の息子はその日記の中で、 そこには耕された広大な大地があった。根菜類、一種の ソラ豆、 メイズ ( Maize 、トウモロコシ ) と呼ばれる 一種の小麦 などが栽培されている。メイズ ( トウモロコシ ) は かまどで焼いたり、乾燥させて粉にしたりするが、たいへん美味である。と述べていました。コロンブスが最初の航海で新大陸から持ち帰った トウモロコシは、なぜか当時の西 ヨーロッパでは栽培されませんでした。それが ヨーロッパに広まったのはそれから半世紀後のことであり、しかも不思議なことに地中海の東方からやって来たと記録されていました。なぜ ヨーロッパの東部から トウモロコシが広まったのでしょうか。 ある説によれば、コロンブスがもたらした 「 それまで食べたことがない 」 トウモロコシを、 スペインの商人達が他の品物と交換してしまい 、それが ペルシャ、トルコなどで栽培されて広まったとするものでした。別の説では コロンブスの新大陸発見に刺激された航海者たちが、黄金を求めて新大陸に続々と航海しましたが、そこから別 ルートで持ち込んだ トウモロコシ が中東各地で栽培され、ヨーロッパにもたらされたとするものでした。
現在では トウモロコシ は世界の 三大穀物の 一つになりましたが、 世界の主食のうち 4 割が小麦、3 割が米、そして トウモロコシが 2 割で、あとの 1 割は芋類です 。しかし忘れてはならないのは トウモロコシの用途であり、人々の主食になるだけではなく、家畜の飼料として大量に消費されていることです。 日本のある ハンバーガー店の広告によれば、その店で使う肉牛は 300 日以上にわたり、トウモロコシなどの 穀物飼料を与えて 肥育 させている とありましたが、コロンブスのお陰で トウモロコシの最大の生産国である アメリカは、年間 3 兆 5 千億円もの売り上げを得ています。 ところで日本における トウモロコシの語源は、唐から来た 「 モロコシ 」 の意味ですが、「 モロコシ 」 とは辞典の大辞林によれば、「 その 1 」 は唐の呼び名の他に、唐から伝来した物に付ける語であり、「 その 2 」 は、 アフリカ原産の 1 年草の とうきび ( 唐黍 ) のことで、 形状は トウモロコシ に似る、とありました。 トウモロコシのことを 「 アメリカ英語 」 では コーン ( Corn ) ですが、研究社の新英和大辞典によると 「 イギリス英語 」で コーン は 「 麦、小麦 」 の意味に使われます。では トウモロコシのことを何というのかといえば、インディアン ・ コーン ( Indian corn ) でした。
[ 5 : タバコ ]タバコ ( Tobacco )と コロンブス一行との出会いについては、コロンブス航海記 ( 岩波文庫 ) によると、
と記していました。上の写真は タバコの葉を収穫して乾燥させたもので、コロンブスの第 1 回航海における航海日誌を要録した、ラス ・ カサス ( Las Casas 、1484〜1566 年 ) 神父によれば、葉巻煙草について
この草は乾いた葉に包んであって、紙鉄砲のような形につくられており、その 一端に火をつけ、反対の端を吸って、息と共にその煙を吸うと、肉体が眠ったようになり、ほとんど酔っぱらったようになる。それで疲れが治るのだという。この紙鉄砲を、彼らは タバコ と呼んでいる。 と述べていました。初めて タバコに接した コロンブスは黄金を探し求めていたために、興味を示しませんでしたが、乗組員達は違いました。先住民が 「 煙りを吸う 」 のを見て大変驚きましたが、次には自分達も タバコを吸うのを試してみました。帰国に際しては タバコの葉を大量に船に積み込みましたが、スペインに着くまでの間に乗組員達はすっかり タバコの 「 とりこ 」 になりました。 なお当時の タバコといえば前述した如く、乾燥した葉を巻いた文字通りの葉巻 タバコ ( シガー、Cigar )でしたが、葉巻の正しい吸い方は煙を肺まで入れずに 「 吹かす 」のだそうです。
通常 タバコの木は 1 メートル 50 センチほどの高さに成長しますが、この木から葉を摘み取る際に、原住民は上部、中部、下部と 三つに分けて摘み取ります。上部の葉は ニコチンの含有量が大で、下に向かう葉ほど ニコチンを含む割合は小さくなります。しかも点火するためには 三種類の葉を上手に ブレンドしないと、うまく着火しないのだそうです。 同じ木から採った葉を混ぜるのではなく、なるべく離れた場所で育った木の葉を ブレンドするのが 「 こつ 」 なのだそうです。コロンブス達は先住民が長年の経験で身につけた秘伝も学び、タバコの葉と共に スペインに持ち帰りました。ナス科の多年草 ( 温帯では一年草 ) である タバコの種子は、コロンブスの新大陸への第二回航海に参加した、ローマン・ペーンが 1518 年に スペインに伝えたといわれていますが、日本へ タバコがもたらされたのは慶長年間 ( 1596〜1615 年 ) に南蛮船によるとされます。しかし スペインに残っている記録によれば、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した翌年の慶長 6 年 ( 1601 年 ) に、スペインの フランシスコ会の司祭 一行が、京都の伏見で徳川家康に 「 たばこ 」 の膏薬 ( こうやく ) と タバコの種子を献上したことが記されています。
それは コロンブスが ヨーロッパに タバコ をもたらしてから 108 年後のことでしたが、日本でもたちまち タバコが流行りました。ところが幕府は、慶長 14 年 ( 1609 年 ) に、喫煙禁止、タバコの売買および栽培禁止の法令を出しました。その理由は、喫煙は無益な浪費であり、失火の原因ともなり、また タバコの栽培は良田をつぶし田畑を荒らすなど種々の弊害がある、と言うものでした。 ところがこの禁止令は なかなか守られず、何度も繰り返し発令されましたが、効果があがりませんでした。厳しい禁止令をもってしても、人々の喫煙の習慣を止めさせることは困難と判断した幕府は、寛永年間 ( 1624〜1644 年 ) に方針を転換し、喫煙を黙認することにしました。
[ 6 : 病気の広がり ]コロンブスの一行が スペインに帰国してから 3 ヶ月もしないうちに、それまで聞いたこともないような症状の病気が港町に広がりました。発熱し、気分が悪くなり、皮膚は じくじくした発疹>で覆われました。この病気は スペインの パロス港の住民のうち、特に船乗りに多く発病して熱と出血に苦しみました。 長い間航海を続ける船乗りたちは、ビタミン C の不足から壊血病と呼ばれる病気に罹ることがよくありましたが、患者を診察した医師は壊血病の特徴がみられないことから、この病気は壊血病ではないと診断しました。これがその後世界中に蔓延 ( まんえん ) することになった 梅毒と、文明社会の医者との初めての出会いでした。
一説によれば女性が背中を大きく見せる夜会服 ( イブニング ・ ドレス ) の流行は、その女性が梅毒に感染していない、従って皮膚に バラ疹 ( しん ) などが無いことを誇示すために始まったともいわれています。 15 世紀以後の ヨーロッパは梅毒の流行に適した環境にあり、コロンブスが帰国して 1 年後には、梅毒は猛烈な勢いで蔓延 ( まんえん )して行きましたが、その原因となったのは戦争でした。コロンブスが帰国した翌年に フランス王の シャルル 8 世 ( 1470〜1498 年 ) は イタリアの ナポリの王女と結婚した父親の遺産を相続し、ナポリを自分のものにするのは当然と考えました。そこで兵を進め 1495 年には港町の ナポリを包囲し陥落させましたが、征服軍の兵士たちはここで売春婦などと遊び興じたために、多くの兵士が新大陸直輸入の新種の病気である性病の梅毒に感染しました。
さらに悪いことに シャルル 8 世の軍隊は フランス人だけでなく、友好関係にあった他国の兵士や傭兵からなる多国籍軍人の集団でしたので、 ナポリ戦争 ( 1494〜1495 年 )終了後には、この軍人たちは各地に散り、ヨーロッパ全土に梅毒の病原菌である スピロヘータ ・ トレポネーマ ・ パリダム ( Spirochete Treponema Pallidum ) を撒き散らしました。 この病原菌は直径 0.1〜 0.2 マイクロメートル ( μm、= 10 の マイナス 6 乗 メートル )、長さ 6〜20 マイクロメートル ( μm ) の螺旋状菌ですが、通常 の明視野 光学顕微鏡では視認できず、暗視野 顕微鏡で観察されます。その際に 青く見える ことから パリダム ( pallidum ) つまり、英語の パリッド ( Pallid 、 青白い ) の種名が与えられました。 この梅毒のことを イタリアでは、侵入した フランス軍が運んできたのだとして フランス病 と呼び、一方 フランスでは ナポリ戦争から軍が引き上げてきて国内に流行したため、 ナポリ病 あるいは イタリア病 と呼びました。 この病気は約 10 年で ヨーロッパ中に広がりましたが、ドイツでは 「 フランス病 」、ポーランドでは 「 ドイツ病 」、ロシアでは 「 ポーランド病 」、 トルコでは 「 クリスチャン病 」、ペルシャでは 「 トルコ病 」 と呼んでいました。 では日本では何と呼んだのでしょうか ?。その答は後で述べます。
[ 7 : 大航海時代のせいで ]15 世紀から 17 世紀前半にかけておこなわれた ポルトガル、スペインなどによる大航海時代の幕開けとなった コロンブスの探検航海により、ヨーロッパ社会に もたらされた主要なものは 三つありましたが、それらは前述した 新大陸の発見と、タバコ、梅毒 でした。 新大陸の発見により、西インド諸島 ( West I ndies 、現 カリブ海諸島 ) の風土病として何千年もの間 先住民である インディオの体内で時を過ごした梅毒の病原菌が、ある程度の免疫力を持つようになった インディオの体内から、新しい宿主 ( しゅくしゅ ) である免疫力の無い ヨーロッパ人の体内に侵入すると、突然活性化し梅毒の害毒を増大させました。コロンブスの後を追うようにして新大陸の発見航海に出た航海者がいましたが、イタリアの航海者、兼 商人の アメリゴ ・ ベスプッチ( Amerigo Vespucci 、1454〜1512 年 ) でした。彼は南米大陸沿岸を航海した経験を基に、帰国後の 1504 年に小冊子 新大陸 を出版し、新大陸の存在を発表しました。 その中で彼は インディオ 女性の良さ を センセーショナルに書きましたが、新大陸の名前が 「 それを最初に発見した コロンブス 」 ではなく、宣伝の巧みな アメリゴ ・ ベスプッチの名前から 「 アメリカ 」 と名付けられたことは周知のことでした。
ポルトガル人の航海者の バスコ ・ ダ ・ ガマ ( Vasco da Gama 、1469?〜1524 年 ) は1497 年に、4 隻からなる船団を指揮して探検だけでなく交易の使命も帯びて ポルトガルを出航しましたが、 ヨーロッパ人として初めて アフリカ南端の喜望峰を回り インドの カリカット ( Calicut、バンガロールの南西にある港町、別名 コージコード ) に到達しました。 ここで胡椒 ( こしょう ) と シナモンを積み込んで帰途につきましたが、往復の航海に 2 年間を要しました。しかしその船員たちの中に梅毒患者がいたために、 1498 年には インドにも梅毒が広がりましたが 、コロンブスの帰国から僅か 5 年後のことでした。インドに広がった梅毒は各地の港を経由して中国の沿岸部へ、別の ルートでは シルクロードを通り1510 年頃には中国内陸部にまで広がりました。
イギリス ( イングランド ) 国王の へンリー ( Henry ) 8 世 ( 1491〜1547 年 ) は好色で有名でしたが、教義上離婚を認めない カトリックの総本山 ローマ教皇 パウルス 3 世と大喧嘩の末に カトリック教会から破門されたので、国王を教会の首長とする イギリス国教会 ( Anglican Church of England ) を創設しました。 彼は生涯で 6 人の女性と結婚しましたが、念願が叶って 2 人の妻とは離婚し、別の 2 人には姦通の罪を着せて ロンドン塔で 断頭刑に処し、1 人は病死しました。彼は 56 才で死亡しましたが、死因は 慢性梅毒でした 。なぜこのような高貴な方々の間にも梅毒が広がったのでしょうか?。コロンブス以後も新大陸で捕獲された先住民の男女が ヨーロッパに奴隷として運ばれましたが、前述した イタリア人の アメリゴ ・ ベスプッチ が出版した小冊子の影響から、上流階級の男性の間では インディオの女奴隷を 賞味すること が流行したためであり 、その女奴隷を通じて新大陸の風土病であった梅毒に罹ったとする説がありました。 ところで梅毒を患った西洋の有名人の中には、 ドイツの実存哲学者 ニーチェ 、「 女の一生 」 を書いた フランスの小説家 モーパッサン 、画家の ゴーギャン 、マネ、ロートレック、偉大な音楽家の ベートーヴェン ( 先天性梅毒による難聴 説もあり )、シューベルト、ドイツの詩人 作家の ハイネ、などがいましたが、皆さんはご存じでしたか ?。そして尊敬する芸術家たちが、實は 梅毒患者 だったことに対する ご感想は ?。
[ 9 : 日本の梅毒 ]日本に梅毒の病原菌である スピロヘータ をもたらした犯人は、ポルトガル人でも中国人でもなく、13 世紀 〜 16 世紀にかけて、中国や朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた 倭寇 ( わこう ) と呼ばれていた、日本人の海賊たちでした。大阪の南にある泉州の堺には室町時代 ( 1336〜1573 年 ) に 名医の家系として名高い竹田家がありましたが、武田昌慶は後円融天皇 ( ごえんゆう、北朝第 5 代天皇、1358〜1393 年 ) や将軍 足利義満 ( 1358〜1408 年 ) の病気を治したことで、その孫の昭慶は足利義政 ( 1435〜1490 年 ) の難病を治したことで、ともに法印 ( ほういん、僧の最高位で医師にも僧に準じて与えられた ) に叙せられました。昭慶の子の 竹田秀慶 ( しゅうけい ) は 月海録 の著者ですが、それによると、
永正 9 年 ( 1512 年 )、人民に多く 瘡 ( そう ) あり、浸淫瘡 ( しんいんそう、じゅくじゅくする皮膚病のこと ) に似たり。( 中略 ) 之 ( これ ) を 唐瘡 ( とうがさ )、琉球瘡 ( りゅうきゅうがさ ) と呼ぶ。とありましたが、これが日本における梅毒発生について記した最初の文献であり、 梅毒が倭寇 ( わこう )を経由して琉球 ( 沖縄 ) に入り、そこから畿内に流入して 「 琉球瘡 ( りゅうきゅうがさ ) 」 と呼ばれたとありましたが、倭寇の主力は北九州、瀬戸内海の水軍、土豪、沿岸漁民たちでした。その翌年には
唐瘡 ( とうがさ ) この年多く出で、其形 ( そのかたち ) 癩 ( らい、ハンセン病 )に似る。との記述があるので、病状からみて 唐瘡 ( とうがさ ) ・ 琉球瘡 ( りゅうきゅうがさ ) は梅毒のことであるとされます。ちなみに辞典の大辞林によれば、 瘡 ( そう ) の訓読みは 「 かさ 」 ですが、「 できもの 」、「 はれもの 」 などの皮膚病の意味を持つと共に、 梅毒の俗称 とありました。 永正 10 年 (1513 年 ) に甲斐の国 ( 山梨県 ) の妙法寺の僧侶が書いた記録文書の 妙法寺記 によれば、 此年、天下に 「 たうも 」 と云、 大成瘡出て 平愈 ( へいゆ、治る ) する事良久 ( よく )。其形謦 ( そのけいけい、形状 ) は 癩人 ( ハンセン病者 )のことし ( 如し )。食は達者なる人の様にすゝむ也。とありましたが、近畿で流行してから僅か 1 年で山梨県まで梅毒が広がったことが分かります。すぐに治るように書いてありましたが、梅毒には
ポルトガルの イエズス会宣教師 ルイス ・ フロイス ( Luis Frois、1532〜1597 年 ) は 1563 年に来日し、近畿 ・ 九州各地で キリスト教を布教しましたが、彼は 「 日本史 」、「 日欧文化比較 」、「 日本覚書 」 を書きました。その中で梅毒 ( 性病 ) の初期症状である 横根 ( よこね ) つまり鼠蹊部 ( そけいぶ、股の付け根 ) の リンパ腺が炎症を起こして腫れることについて、以下の 記述をしていました。写真は ルイス ・ フロイスの像。
われらにとっては、横根が腫れる ( つまり性病に感染する ) など、汚く恥ずかしいことであるが、日本では、男も女もそれを ありふれたこと として、少しも恥とはしない。とありましたが、現代の日本女性にとっては 「 死語となった 」 貞操観念 が欠落 しているのは今に限ったことではなく、フロイスのいた戦国時代を遙かに遡った 「 性におおらかな 」 神世の昔からおこなわれていた 、 祭りの夜の乱交風習 に由来するとする説もあります。 ところで日本医学の中興の祖である 曲直瀬 玄朔 ( まなせ ・ げんさく ) が、慶長 12 年 ( 1607 年 ) に書いた世界初の カルテである 医学天正記 には、1576 年〜1606 年までの 30 年間の診療記録がありますが、中風 ( ちゅうふう、脳溢血、脳梗塞などのこと ) から麻疹 ( はしか ) に至る病気を 60 の病類部門に分類して、患者の実名、年齢、診療の年月日を入れ、日記風に記載されていました。 患者としては、上は第 106 代、正親町 ( おおぎまち ) 天皇、第 107 代、後陽成 ( ごようぜい ) 天皇を初め、織田信長、豊臣秀吉、秀次、秀頼、徳川秀忠などの関白 ・ 将軍や、公卿は 左大臣近衛公を筆頭に、公達 ・ 女院 ・ 文人墨客 ・ 毛利輝元 ・ 加藤清正などの諸大名 ・ その他の重臣 ・ 家臣から、下は足軽 ・ 一般庶民に至るまで 345 例に及ぶ治療記録が掲載されていました。 それによれば朝鮮に出兵した 加藤清正 ( 1562〜1611 年 ) も梅毒に罹り、徳川家康の 次男で越前 北の庄 67 万石 ( 福井城 )の 初代藩主となった結城秀康 ( 1574〜1607 年 ) も、梅毒のため鼻が落ちて ( 第 3 期梅毒 ) 遂に死亡しました。 徳川幕府の 3 代将軍 家光 ( 在位 1623〜1651 年 ) の時代に輸入された薬の中には、 梅毒薬が 13 万 8 千斤 ( きん 、重さの単位で 1 斤=約 600 グラム、合計約 79 トン ) もあったということで、当時の日本国内に梅毒が如何に蔓延 ( まんえん ) していたかが想像できます。 18 世紀に日本国中を旅した 永富 独嘯庵 ( ながとみ ・ どくしょうあん ) という医者がいましたが、彼は 1788 年に次のように書いています。
予( は ) 諸国ヲ経歴セシ内、肥前 ・ 長崎或ハ ・ 京 ・ 大阪 ・ 江戸ナドノ如キ都会繁華ノ地ハ、10 人 ニ ( つき )、8 ・ 9 人ハ此病 ( 梅毒 ) ヲ患 ( わずら ) ウヲ看ル。とありました。しかし最近の考古学の研究によると、この梅毒患者の割合はそれほど大げさな数値ではありませんでした。江戸の墓地に埋められていた頭蓋骨の調査に基づいて、ある人類学者が 江戸の人口の 55 パーセントが梅毒に罹っていた という結論を出しました。 社会階級による差もあり、武士階級と思われる人の約 40 パーセントが梅毒にかかっていて、町人の下層階級では 約 70 パーセント にもなっていたそうです。 となると 16 世紀以来梅毒菌に冒され続けてきた我々日本人も、西 インド諸島の インディオの例からして、 自然の摂理により ある程度の 梅毒に対する免疫抗体を 、母子間などの世代交代を通じて、獲得してきたのかも知れません 。
[ 11 : 子供の頃の記憶 ]私は子供の頃 [ 昭和 8 年 ( 1933 年 )〜昭和 19 年 ( 1944 年 ) ] には東京都豊島区巣鴨にある現在のお婆ちゃんの原宿と呼ばれる、トゲ抜き地蔵の近くに住んでいましたが、戦前の JR 大塚駅周辺は現在の JR池袋駅付近並みの賑わいでした。大塚駅前には白木屋 デパートがあり、付近には寄席の大塚鈴本、映画館、三業地がありました。 三業とは今では死語になりましたが 料理屋、芸者 ( 置き ) 屋、待合茶屋のことで、いずれも当時は警察の鑑札 ( 許可 ) が必要でしたが、三業地とは前述の三種類の営業が許可された地域のことでした。
JR 大塚駅の付近には 花柳病 の看板を大きく掲げた医院があったので、小学生の頃は はなやなぎ病 と読んでいましたが、その当時新派の女形俳優に有名な花柳 ( はなやぎ ) 章太郎 ( 1894〜1965 年 ) がいたので、 この人は はなやなぎ病 に罹った人だと思っていました 。大きくなってから花柳 ( かりゅう ) 病とは 花柳界などに普遍的だった、淋病、梅毒などの性病であることを知りました。
ところで敗戦後は栃木県の田舎に疎開した両親の元に長野県の学童集団疎開先から帰りましたが、その僻地の村には 鼻欠けさん と呼ばれていた 60 才台 半ばの爺さんがいました。いつも顔に マスクをしていて、村人の ウワサによれば若いときに東京に出て働いていましたが、女遊びをして梅毒に感染し治療を怠ったために鼻に梅毒性の潰瘍を生じ、遂に鼻が溶けて落ちてしまったとのことでした。 マスクを外した時の顔を見た人によれば、顔の真ん中に不気味な 「 孔 」 だけが 一つあったそうで、鼻が無い梅毒持ちの男には嫁の来手もなく、その年齢まで独身でした。
[ 12 : 梅毒の治療薬 ]コロンブスの 一行が新大陸からの 「 お土産 」 として ヨーロッパに持ち込み世界中に広がった梅毒は、その治療薬がなかった為に感染すると、局部、顔や身体の皮膚に症状が現れ、それが潰瘍になり、やがて内臓や骨を冒して死亡し、あるいは脳や脊髄を冒し精神障害、歩行困難になりました。 第 2 次大戦末期に抗生物質の ペニシリンが発見されるまでは、梅毒の治療薬といえば世界中で唯一 サルバルサン ( Salvarsan ) だけでしたが、この薬は ドイツ人の パウル ・ エールリッヒと日本の 秦 ( はた ) 佐八郎 が共同研究の末に開発に成功した梅毒の特効薬でした。
秦 ( はた ) 佐八郎 ( 銅像 ) は北里柴三郎が設立した伝染病研究所で細菌学の研究をしていましたが、1907 年に ドイツに留学し、1909 年に フランクフルトの国立実験治療研究所に移って、梅毒の治療薬の研究に従事しました。彼は動物実験を担当し、同年 6 月に 606 番目に テストした有機砒(ヒ)素化学物質が梅毒に効果があることを確認しましたが、サルバルサンの別名を 606 号 と称したのは、これによるものでした。 戦前の小学校の教科書には、偉人として細菌学者 野口英世 ( 1876〜1928 年 ) のことが記載されていましたが、彼は黄熱病の研究のために アフリカの ガーナに行き、研究中に黄熱病に感染して首都の アクラで死亡しました。 ところで梅毒が進行すると脳や神経の組織が破壊されて精神障害が起こりますが、この 「 麻痺性痴呆 ( ちほう )」や「 脊ずい癆 ( ろう ) 」は、梅毒が原因であることは当時まだ知られていませんでした。野口英世は患者の組織を顕微鏡でたんねんに調べた結果、そこに梅毒の病原菌を発見して病気の原因をつきとめましたが、彼の業績のうち、最高の賞賛を得たのはこの発見でした。
[ 13 : 梅毒性 病原菌の先祖 ]昭和 45 年 ( 1970 年 ) に エール大学の リチャード ・ リー 率いる アメリカの疫学者達が、アマゾンの熱帯雨林へ赴き、外界と殆ど接触せずに生活していた先住民族の カヤポ 族について、梅毒に関連した病気の有無についての調査をおこないました。 彼等は血液の サンプルを採取して厳重に保存してから、先住民を診察して梅毒関連の患者がいないかどうかを調べました。その結果は性病の梅毒はおろか、その親戚にあたる病原菌の トレポネーマ ( Treponema ) による、 いかなる病気や症状も発見されませんでした。
ところが アメリカに帰国後に現地で採取した血液を検査したところ、驚くべき結果がでました。カヤポ 族の人々の梅毒性の病原菌 ( トレポネーマ ) 抗体の陽性率が極めて高く、40 才以上の集団では 90 パーセントにのぼる という結果が出ました。 つまりその地域には梅毒やその親戚の病原菌 ( トレポネーマ ) による患者が存在せず、過去に流行した形跡も無いにもかかわらず、人跡未踏の ジャングルに住む先住民が梅毒の抗体反応に陽性を示したということは、 宿主 ( しゅくしゅ ) である彼等の体内で梅毒の病原菌の先祖が 良性のままで 、何百年間も世代を越えて 受け継がれて来た証拠でした。 ではその梅毒の先祖に当たる 人体に無害な病原菌は 、どのようにして先住民の体内に侵入したのでしょうか?。梅毒の病原菌は現在に至るまで、北回帰線 ( 北緯 23 度 27 分、キューバーの ハバナ付近の緯度と同じ ) 以南の中米、南米に生息する サル の体内からは まったく発見されていないので、霊長類以外の何かの動物が持つ梅毒性 病原菌の ( トレポネーマ ) が、ある時突然に ジャングルの中で種の壁を越えて先住民にとりついたのかも知れません。
卑近な例では、これまで 人間には感染しなかった 鳥の インフルエンザ ・ ウイスルが、車でいうならば、ある日突然に フル ・ モデル ・ チェンジ をして その性質を一変させ、2003 年には鳥から 人にも感染する 強い感染力を持つようになり、しかも 50 パーセント以上の死亡率を出すまでに 毒性を強めた実例 がありました 。
ウイルスや病原菌の世界では、突然変異により 宿主 ( しゅくしゅ ) を変更し、あるいは性質が急激に変化するのは、 少しも珍しくないのだそうです
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