太平洋戦争の原因(一)

はじめに、世界史の常識テスト

[ 質問 その1 ]
2011 年 7 月現在 国連に加盟する独立国の数は 193 箇国 、そのうち アフリカでは 54 箇国 ですが、太平洋戦争が起きた昭和 16 年 ( 1941 年 ) 当時、 アジア及び アフリカ に存在した独立国の数はいくつでしたか?。

  1. 5 箇国

  2. 50 箇国

  3. 75 箇国

[ 質問その2 ]、
東京裁判における裁判官の構成は、永世中立国である 「 スイス 」 と、戦勝国で構成されていた。

  1.  その通りである。

  2.  中立国 スイスの裁判官は最初から除外され、戦勝国の裁判官だけで構成されていた。

上記の質問に対する貴方の答はいかがでしたか ?。 正解は下記の [ マルクス史観について ] の最後部の [ 注 ] にあります。

[ 歴史に関する基本的態度について ]
歴史について述べる場合には、その基本的態度や考え方を明確にしておくことが必要ですが、私の基本的立場は以下の通りです。

[ マルクス史観について ]
マルクス史観には反対します。なぜなら マルクス主義を信奉する国では 人々は革命の道具にしか過ぎず、自由と人権を抑圧して不幸にする からであり、 マルクス主義 ( 正確にはマルクス ・ レーニン主義 ) を正当化するために、歴史を 歪曲 しているからです。 当然のことながら 「 マルクス主義 」 に忠実であればある程、「 マルクス主義 」にとって有利な事柄を過大に評価し、その反面不利な事実 を無視し、時には歴史を平気で ねつ造する ( 注参照 )という極端な偏向性を示すから です。

歴史を検証すれば明らかな如く、共産党、社民党 ( 旧社会党 )などの左翼主義政党がどれ程言葉巧みにその 綱領 を書き換 え偽装してみても、マルクス主義の 究極の目的は

手段を選ばない 階級闘争による、 社会/共産主義革命の実現です

その イデオロギー の信奉者が主張し、本に書き、教える歴史とは、真実や公平性とは無縁のものです。彼等にとって最も重要なことは 真実よりも、イデオロギーを 守ること だからです

注:)質問の答え
ここと 、そして ここにあります が、もし間違った答をしていたら、世界史における戦前戦後の日本について、自分では検証もせずに他人や他国 ( 戦勝国 ) の主張をそのまま受け入れ、 子供のように 無邪気に ・ 無批判に信じ込んだ 結果です。


[ 共産党の 仮面 ]

過去の歴史を見れば昭和 20 年 ( 1945 年 )12 月 1 日に開催された 第 4 回共産党大会 において、共産党は
軍事的、警察的 天皇制権力 によって強行された強盗侵略戦争によって云々
と天皇制を最大級の言葉で非難し、日本共産党行動綱領では真っ先に天皇制の打倒を掲げました。それ以来天皇制は共産主義にとっては容認できないものとして、長年廃止を主張してきました。

ところが平成 1 6年 ( 2004 年 ) 1 月の 第 23 回共産党大会 では、共産党は綱領を変更して 天皇制を認める ことに決めましたが、結党以来半世紀以上も天皇制打倒を叫んできた連中が、急に共産主義が天皇制と共存できるなどと言ったところで、まともに信じる者は誰もいません。それまで プロレタリア ( 労働者 ) 独裁を叫んできた連中が、選挙の度に議席を減らす 共産主義の退潮を食い止める ために、やむを得ずに 「 狼 」 が、一時的に羊の皮を被って偽装したのに過ぎないからです。

[ 人間は 革命の道具 、マルクス主義の思想的失格 ]

ケ小平に率いられた共産主義の中国が、それまでの統制経済政策を放棄して1978 年 から改革解放、市場経済路線を導入しましたが、その理由は行き詰まった共産主義経済と決別し、資本主義経済への実質的転換を図るためでした

マルクス主義総本山の ソビエト連邦が 1991 年 に崩壊し共産党が解体され、頑迷な北朝鮮が未だに飢餓や貧困にあえぐのは、 人々を革命の道具とみなして 自由と人権を奪う ことに尽きる マルクス主義や、そこから派生した主体 ( チュチェ ) 思想の欠陥が露呈したからです。

つまり 「 マルクス主義 」 が ソ連における 70 年 以上にも及ぶ 「 社会実験 」の結果から、 思想的失格を宣告され 否定された明白な証拠です。ちなみに

マルクス ・ レーニン主義を標榜する共産主義の中核理論とは、

  1. 私有財産を否定した、 共有財産制 の実現。

  2. 労働価値の平等 ( 個人の 能力、労働意欲とは無関係 な賃金制 )。つまり勤務評定に反対する、日教組の主張の 原点はここ

  3. 全ての 宗教の禁止 。

  4. 共産党による、 一党独裁の政治体制の実現。( 中国共産党 ・ 北朝鮮労働党

です。

[ イデオロギーの下僕になると ]

敗戦後東大教授の大内兵衛 ( おおうちひょうえ、1888〜1980 年 ) に率いられ、隆盛を極めた マルクス 経済学派 も今ではさすがに影を潜めましたが、歴史の分野では依然として マルクス史観が はびこって います。 イデオロギーの下僕 ( げぼく ) たちが 「 マルクス 主義 」 が失格し否定された世界の趨勢、歴史の現実に目を向けようとせず、学派の衰退や彼らの信念の否定、ひいては失職につながる事 態を、頑なに拒否し続けているからです。

イデオロギー とは 一般人にとって、思考力や判断力を失わせる 麻薬 のようなもの です。イデオロギーに身を託してさえいれば、問題に対する全ての答えを、党の指導部や マルクス主義を信奉する仲間達が教えてくれる ので、自分で考え判断する必要が無くなるからです。そこでは教えられた 正しい 答え ( ? ) を、子供のように 無邪気に信じる だけで良いのですから。

[ 朝鮮戦争の原因について ]

ソビエト連邦崩壊の結果、ソ 連内部の資料や公文書が公開されましたが、それによれば北朝鮮の 金日成 が武力による朝鮮半島統一を計画し 、スターリンに対して

南の解放は短期間で成功する

と述べたので、彼が金日成に 同意を与えました 。その結果、北朝鮮が韓国を侵略し朝鮮戦争を起こした事実が明白になりましたが、ではなぜ金日成は戦争に踏み切ったのでしょうか?。彼は朝鮮半島に戦争が起きても、 アメリカ は介入しないだろう とする彼の判断を スターリン に述べていました。

その根拠となったのが、昭和 25 年 ( 1950 年 )1 月に アメリカ の アチソン 国務長官が上院の外交委員会及び、ナショナル ・ プレス クラブ の演説で明らかにした下記の主旨の演説でした。

朝鮮半島は、我々 アメリカ の防衛地域から除く
この発言は アメリカ にとっては大失敗であり、その結果 5 ヶ月後の 6 月 25 日には朝鮮戦争が起きましたが、金日成にとっても アメリカ の参戦や国連軍の派兵は想定外 のことでした。彼の計画では李承晩 ( リ ・ ショウバン ) 大統領の下で腐敗堕落し弱体だった韓国を容易に解放 ( 占領 ) することができ、朝鮮半島を武力により統一できると判断して朝鮮戦争を始めたのでした。

[ 注 : 1、歴史のねつ造 ( その一 )]

昭和 34 年 ( 1959 年 ) に発行された 岩波新書の 「 昭和史 ( 新版 ) 」 、著者グループ、藤原彰、今井清一、遠山茂樹、における記述によれば、

1950 年 6 月 23 日、在日 アメリカ空軍戦闘機部隊は、九州に集結した。そして 25 日、北朝鮮が 侵略したという理由 で、 韓国軍は 38 度線を越え進撃した
つまり朝鮮戦争の原因は、米軍の支援のもとに韓国側が仕掛けたとする 大 ウソ が、歴史書に堂々と書いてありました。左翼主義の歴史学者達がどのような思想信条を持とうともそれは本人の自由ですが、問題は マルクス主義にとって有利になるように、 意図的に歴史の真実を歪曲して記述したことの是非です 。それは目的の為には手段を選ばない、マルクス主義者の 常套手段 でした。

[ 注 : 2、歴史のねつ造 ( その二 )]

当時の 社会党 ( 現 ・ 社民党 ) は党の公式文書である 「 朝鮮をめぐる情勢と、当面する我が党の政策 」、[ 昭和 49 年 ( 1974 年 ) 6 月発表 ] において、

朝鮮戦争は、 米軍が 北朝鮮を侵略したのが原因である。
と明確に規定しました。マルクス主義を信奉する政治家、言論人、歴史学者、教育者達はこれに基づき、ねつ造された歴史を真実とする発言を公式の場で長年繰り返すと共に、虚偽の歴史を本に書き、学校でも日教組の教師達が虚偽の歴史を生徒に教えてきました。

[ 注 : 3、歴史のねつ造 ( その 三 )]

[ 北朝鮮の代弁者 ・ 社民党 ( 旧 社会党 ) ]
拉致の問題 についても 社民党 ( 旧社会党から 1996 年に名称変更 ) は平成 9 年 (1997 年 ) 以来、5 年間も党の ホームページに掲載してきた、「 食料援助を拒否する日本政府 」という下記の拉致否定論文を、小泉、金正日会談で拉致の真相が判明してから 17 日も経った平成 14 年 10 月 4 日になって、他から指摘を受けてようやく削除しました。

拉致 疑惑 事件は朝鮮 ( 北 )に食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件であり、 横田めぐみさん の事件についても、朝鮮 ( 北 ) には日本人少女を拉致する理由がない。証拠は何一つ無い でっち上げ 事件である

と述べていました。 歴史を ねつ造 するだけでなく社会党 ( 現 ・ 社民党 ) は北朝鮮に対して 過去 20 回 も訪朝団を派遣して親密な関係を築きましたが、昭和 40 年 ( 1965 年 ) に調印成立した日韓基本条約の存在を平成 5 年 ( 1993 年 ) まで 28 年間も認めず、しかも 朝鮮を代表する国は唯一 北朝鮮だけである とする ドグマ ( 思想上の独断的教義 ) により、1988 年には ソウルで オリンピックが開催されたにもかかわらず、韓国の存在を長年認めませんでした。

北朝鮮の代弁者として拉致事件の存在そのものを長年否定し続け、拉致事件の真相が明らかになった以後も、あろうことか朝鮮労働党との 友党関係を未だに保持して いますが、これこそ正に社会主義革命を目指す、イデオロギーの権化 ( ごんげ、特性のかたまり ) というべきものです。

その対応を含めて、北朝鮮、中国、ソ連をこれまで熱心に擁護し、地上の天国とまで礼賛し、その宣伝に荷担してきた マルクス主義者達は、歴史の真実が明らかになった後も自らが犯した過去の発言、主張の過ちを訂正、謝罪もせずにいます。そして今も恥じることもなく マスコミ業に従事し、国会議員を務め、歴史について論評し、教科書を書き、学校では児童、生徒に 平和教育 と称して、 マルクス主義 に偏った思想教育をしています。

[ 工作船の引き揚げにも反対 ]

平成 13 年 12 月 22 日夜、高速で日本の領海から逃走中の北朝鮮工作船が発砲したために、追跡中の巡視船 「 あまみ 」、「 きりしま 」、「 いなさ 」 が被弾しましたが、このため、巡視船側が反撃したところ、逃げられないと思ったのか同船は自爆して、九州南西の水深 90 メートルの海底に沈没しました。ところが工作船を引き揚げる件に関して、社民党や左翼主義者たちが反対しましたが、 北朝鮮の国益擁護 のためのその主張とは

工作船を引き揚げれば、北朝鮮との間に 修復できない亀裂が生じる

ということでした。工作船の引き揚げを阻止することにより、日本人の拉致や麻薬の密輸などに使用された 明確な物的証拠の隠蔽 ( いんぺい ) を図ろうとしましたが、警備当局の 北朝鮮による犯罪の証拠保全のため引き揚げるべし という主張を世論が支持したために、引き揚げられました。その結果工作船の船体構造はもちろん、船体内部に格納し、麻薬運搬、人員の密出入国用に使用した小型連絡艇や ロッケット発射器、機関銃、小銃など、1,000 点以上の証拠品が押収されました。

注:)北朝鮮への卑屈な態度
これについては以下のおもしろい エピソードがあります。昭和 53 年 ( 1978 年 ) の第 5 次訪朝団の際に、キム ・ イルソン ( 金日成 ) 主席との会食で、北朝鮮側の人間が主席の質問にいちいち ハシを置き、起立して答える様子を見た社会党の連中が、いつの間にか、主席の質問に同じように起立して答えるようになった・・・というものでした ( 原彬久著 『 戦後史のなかの日本社会党 』 中央新書より )。

つまり 20 回も訪朝していながら日本の政党人、政治家としての品位に欠ける、卑屈な態度を取り続けることに務めたのでした。社会党の代表団は訪中もしていましたから、そこでも中華人民共和国に対する 属国の代表 として相応しい(?)態度を取っていたに違いありません。

[ 賞味期限切れ ]

社会党 ( 現社民党 )は平成 2 年 ( 1990 年 ) の衆議院選挙では 136 議席も獲得しましたが、その後明らかにされた北朝鮮や中国に対する追従一辺倒の姿勢が国民から愛想をつかされ、それ以後は選挙の度に議席を減らし続け、平成 15 年 ( 2003 年 ) の選挙では議席が 三 分の 一 に激減しました。土井党首自身も兵庫 7 区 ( 西宮 ) の小選挙区で落選して、比例区でようやく復活しましたが、社民党は僅か議席しか得られませんでした。

土井党首は平成 9 年 ( 1997 年 )10 月 23 日、東京都千代田区の朝鮮会館で開かれた 金正日総書記、推戴祝賀宴 にも出席していましたが、まさに 「 朝鮮総連詣で 」の典型でした。平成 17 年 9 月の選挙でも、棚から ボタ餅式に自民党比例区から議席を一つもらったものの、土井 センセ は落選し、秘書給与をだまし取り詐欺罪で懲役 2 年執行猶予 5 年の有罪判決を受けた 辻本清美 センセ も地方区で落選し、比例区でようやく当選しましたが、社民党は 7 議席 しか取れませんでした。

時代の変化にも気が付かず、 バカ のひとつ覚え のように 時代錯誤の護憲念仏や自衛隊反対 に 「 うつつ 」 を抜かしていては、賞味期限が切れた社民党に対する選挙民の支持を失うのは当然のことです。

[ 反核運動の本質 ]

彼等は昔から米国の核実験は 「 侵略戦争に使用する為 」 と称して反対してきましたが、ソ連や中国の核実験は 「 平和を守る為である 」 として反対しませんでした。 放射能自体に侵略や平和の区別などあるはずがなく 、危険な レベルの放射能はあくまでも危険なはずですが、ソ連や中国を革命の先輩であり祖国と仰ぐ マルクス主義者が唱える 平和や反核運動 とは、それほど偏向した内容なのです。

毎年 8 月になると旧社会党 ( 現社民党 )、総評系の左翼主義者たちが主催する 原水協 、( 原水爆禁止日本協議会 ) と、共産党系が主催の 原水禁 の 2 派に分かれて、核兵器反対の集会が広島と長崎でおこなわれています。日本に核の脅威を現実に与える左傾した韓国の核開発による プルトニュム抽出事件や、2005 年 2 月 10 日に北朝鮮が発表した核兵器保有宣言について、左翼主義政党や反核運動をする連中は、抗議や反対もせずに黙認していました。

これこそ正に西側の核についてだけ反対するという、 左翼主義の忠実な下僕 ( げぼく )に過ぎない 反核運動の本質 を露呈したものです。

[ 自虐史観 ]
自虐史観にも異議があります。個人に長所、短所がある如く、いずれの国の歴史にも光と陰、功と罪の部分が存在します。その人や国を貶( おとし )める目的で、ことさら短所や陰、罪の部分だけに光を当てることは公平な態度とはいえないからです。

まして近隣諸国の 「 陰や罪の部分 」には目を塞いでおきながら、それらの国の主張を事実かどうかの検証もせずに無批判に受け入れてその主張を代弁し、自国( 日本 )の過去の行為のみを声高に非難する行為は、日本国籍所有者としての態度として理解し難いものです。

愛する人や国を批評する際には根底に、その人や国に対する 暖かい気持ち が必要です。 「 あら探し 」という悪意の視点からしか日本の歴史を見ようとせず、しかも歴史について是々非々( 良い所は良い、悪い点は悪いと公平 率直に判断する ) の態度を取ろうとしない人達は、中国、韓国、北朝鮮などの 「 召使い 」か、それらの国の 精神的国籍所有者 なのかも知れません。

まして国の将来を担う児童、生徒に対して、偏った視点から日本の陰と罪についてのみ教育することは日本人としての誇りを失わせ、 日本の国土やそこに住む人達を愛する心 の育成を阻害するのは当然です。自虐史観を主張し支持する者達は国際的な常識である自国や自国民を愛する気持ちを否定し、代わりに彼等が憧れ、思いを寄せる 中国や朝鮮半島の国の利益 を意図することに間違いありません。さらにそれらの国の意向に従い、 戦争や植民地支配などの加害責任について 世襲制 さえ導入しようと主張しているのです。

参考までに植民地支配について謝罪し補償した国は、G−8 諸国を初め、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダなどの旧宗主国のうちで、日本以外にありませんが、 それが国際社会の常識 だからです。国際常識に無知な日本は、韓国などに際限の無い謝罪と カネ の支払いを要求され、応じています。

注 :

かつて江藤隆美元総務庁長官が朝鮮半島の植民地支配について、日本も悪いことだけでなく、 良いことも行った と発言しました。この発言に対して韓国が強く反発し、その尻馬に乗って日本のマスコミや、自虐史観の支持者も一斉に非難しました。しかし日本の植民地政策を見た場合、「 欧米の植民地収奪支配国に比べて格段に優れた統治政策 」 が存在したことは否定できない事実でした。
それについての詳しい説明についてはここをクリック。

[ 皇国史観 ]

だからといって皇国史観を採るつもりはありません。日本の長い歴史の中で天皇が自ら政治をおこなった期間は敗戦までせいぜい 5 百年前後でしたが、その期間を除き天皇は庶民にとっては無縁の存在でした。

皇国史観華やかなりし戦時中でも私達が国史( 歴史 ) の時間に習った天皇、皇后の敷いた善政とは、 124 人もいた歴代天皇 の中で 僅か 2 例 だけでした。第 16 代仁徳天皇が、高殿から見て民の 「 かまど 」 から立ちのぼる炊煙が少ないのに気付き、3 年間租税を免除した事 ( 注参照 )と、奈良の正倉院に第 45 代聖武天皇の遺品を納めたことで有名な 光明皇后 ( 701〜760 年 ) が、病人の為に悲田院、施薬院を建てて社会事業をおこなったことだけでした。

明治維新以後軍国主義と共に盛んになった皇国主義 ( 史観 ) は、ともすれば愛国主義と同一視されますが、 両者は峻別 されなければなりません。

皇国民教育を受けて育ち、敗戦当時は小学校 6 年生でした私にとって天皇制とは、千数百年以上もの間 マッカーサー を含めて時の政治権力者に 、その権威を 利用されることのみに 存在意義 ・ 価値 があり 、国民にとっては 有害無益な 寄生虫 である と思ってきました

しかし年を取るにつれて考え方も穏やかに変わり、世界に例がない 125 代 (?)も続く天皇制の 文化財的価値 / 生きている 文化遺産 から、その存在を認めてもよいと思うようになりました。誤解のないように申しますが、象徴天皇の 「 王制復古 」 や 「 親政 」を願うつもりなど、毛頭ありません。

[ 注 : 日本書紀、巻 11 ( 仁徳天皇 ) ]

高殿

群臣に詔 ( みことのり ) して曰 ( のたま ) はく、「 朕 ( ちん )、高臺 ( たかどの ) に登りて、遙かに望むに、烟気 ( けぶり ) 域 ( いき ) の中に起たず。以為 ( おも ) ふに百姓 ( おおみたから ) 既に貧しくして、家に炊 ( いいかし ) く者 ( ひと ) 無きか−−−。」 中略

「 今より以後 ( のち ) 三年 ( みとせ ) に至るまでに、悉 ( ことごとく ) に課役 ( えつき ) を除 ( や ) めて百姓 ( おおみたから ) の苦 ( たしなみ )を息 ( いこ ) へよ 」 とのたまふ。

[ 概略の意味 ]
仁徳天皇が高殿に上って大阪平野を望むと炊事をする煙が見られなかった。人々が貧しくて食事を作る者がいないようなので、今後 3 年間は税を免除することにしようといわれた。

彼は 慈悲深い為政者 として歴史書に名を残しましたが、死後は エジプトの ク フ ( Khufu ) 王 の大 ピラミッドや蓁 ( しん ) の始皇帝の墳墓よりも大きい、三重の水濠を持つ世界最大の墳墓である仁徳天皇陵 ( 前方後円墳、長さ 486 メートル ) に葬られました。

この事実から強大な権力を持つ独裁者 であったに違いありません。なぜなら巨大な陵墓を作るに要した労働力を、京都大学工学部の高橋逸夫 ( いつお ) 氏が計算した例があります。

それによると仮に 1 立方 メートの土を 1 人が 1 日に 250 メートル運ぶとすれば、延べ 140 万 6 千の工数 ( マン ・ パワー ) が陵墓の造営に要したと推定されます。したがって 1 日 千人の労働力を使用しても約 4 年近くの歳月が必要となります。彼の施した仁政と、人口の少ない四世紀に 仁徳陵造りに駆り出された多くの人々の苦しみとを、どのように整合させればよいのか判断に迷います。

愛国心から

普段は自覚しない 日本という国や日本人を愛する心 は外国との比較において、あるいは外国を訪れて外から日本を見ると、日本という国の良さが改めて分かり、そこから国を愛する心が自然に生まれるものです。敗戦から半世紀以上が経過しましたが、その間、国内外の政治的意図や イデオロギーによって、 歪められた歴史や、偏った歴史の見方を改めること が日本の将来にとって必要と考えました。

その観点から古希を迎えた男がこれまで思ったこと、調べたことを、身の程をわきまえずに H P に掲載することにしたものです。

1:他人任せの思考プロセス

多くの日本人、特に戦後の教育を受けた若い世代の人達は、太平洋戦争は 日本が始めた侵略戦争 であったと思っています。しかし奇妙なことにこの認識は自分で調べたうえで、そのように納得したのであればまだしも、 自分では考えずに他人や他国 ( 特に戦勝国 ) の思考に任せ、 その解釈を鵜呑みにした にすぎないのです。

侵略戦争であったとするならば、それがどのような歴史的経緯によって起きたのか、英国の アヘン戦争( 1840〜1842 年 )を初め、欧州列強や ロシアによる中国大陸への侵略や、南下政策を採った ロシアによる朝鮮半島への侵略はどのように展開されていたのか。

民主主義の守護神、正義の味方であると占領軍から教え込まれた アメリカの過去の行動は、果たして侵略主義や植民地主義とは無縁であったのか?。オランダ、イギリスが アメリカと共謀して太平洋戦争開始の 5ヶ月 も前から 対日禁輸、対日資産凍結をし、日本を挑発した行為は、アジアにおける白人種による植民地支配体制の維持とは無関係であったのかどうか?。

太平洋戦争について他人や他国が種々の政治的 プロパガンダ、思惑をもって発信し、提供した情報だけを信じることは、情報の信頼性や公平性とは無縁であり、正しい認識を構築する上で危険なことです。

それ故に自分自身で何が真実かを見分け、検証する必要があります。

最初に日本を侵略国家と断罪した東京裁判 ( 極東国際軍事裁判、昭和 21 年 5 月〜23 年 11 月 )それ自体について、以下に指摘する 疑問点と事実 をどのように考えますか?。まずは 先入観を捨ててお読み下さい

東京裁判の虚構

  • [ その 1: 中立国の裁判排除 ]
    正義と文明の名の下に裁くと称した東京裁判において アメリカなどの戦勝国は、 自らの行為 についても同時に審理の対象として、その 理非曲直 ( りひ きょくちょく、どちらが正しく、どっちらが間違っていたか ) を法廷で裁き、法の客観性と、公平性、そして正義 を裁判所に求めたのかどうか。

    「 その答 」
    ノー です
    。太平洋戦争には スイス などの中立国 が存在したにもかかわらず、それらの国の代表者を裁判には参加させませんでした。戦勝国が思い通りの裁判をするためには、中立国による公平な立場からの意見、判断は邪魔な存在となるからでした。

    東京裁判が人道に対する罪を裁くと称して
    南京虐殺 (?)、バターンの死の行進 ( フィリピン )などを裁きながら、連合軍兵士が戦場において日本兵や日本人捕虜に対して犯した数多くの殺人 ・ 残虐行為や、米国が東京大空襲を初めとする 60 もの都市 に対する無差別爆撃や、広島、長崎への原爆投下などの際に 数十万人 もの 非戦闘員を無差別に大量虐殺した 戦争犯罪 は、決して裁かれませんでした。

    更に戦争終了後にもかかわらず、ソ連が ポツダム宣言 ( 注参照 ) に違反して 60 万人 もの日本兵捕虜を満州 ( 中国東北部 ) や朝鮮から シベリア に移送し、強制労働に従事させ 6 万人の死者 を出した、裁判当時も進行中の犯罪についても同様でした。

    注:)
    ポツダム宣言第 9 項 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ、平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

    ハーグ陸戦条約第 20 条:平和回復の後は、なるべく早く捕虜を返還する。

    平和に対する罪を裁くのであれば
    昭和 21 年 ( 1946 年 ) 4 月まで 有効であった日ソ不可侵条約を 一方的に破り 、 日本が ポツダム宣言を受諾し降伏する 1 週間前の昭和 20 年 ( 8 月 8 日 ) に、突如日本に軍事攻撃を開始した ソ連の戦争犯罪 も、当然裁かれるべきでした。それだけでなく判事席、検事席にいたソ連 ( 現、ロシア )は、第 2 次大戦の初期に 侵略国 として国際連盟 ( 現、国連の前身 ) から除名された国でした。

    同じく日本の侵略を裁いた英、仏、蘭 ( オランダ ) も、当時は アジア再侵略 の最中でした。イギリスは 1765 年から昭和 22 年 ( 1945 年 )まで インドを植民地支配し、マラヤ ( マレーシア ) ・ シンガポールを1786 年から昭和 32 年 (1957 年 ) まで植民地支配し、第 2 次大戦中は日本軍により ボルネオ島、シンガポール、マレー半島の植民地から勢力が一掃されたものの、戦争終了後には再び 「 再侵略 」 のため舞い戻り、植民地に軍政を敷きました。

    4 百年間植民地支配を続けた オランダが、インドネシアの独立を目指す人民軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判の判決が出た翌年の昭和 24 年 ( 1949 年 ) のことでした。

    フランスが支配していた ベトナムでは ホー ・ チ ・ ミン率いる民族解放軍との間で戦争が継続中であり、昭和 29 年 ( 1954 年 ) の 「 ディエン ・ ビエン ・ フー 」 の大包囲作戦の結果 フランスが大敗するまで、フランスは ベトナムの 「 再侵略 」 を諦めませんでした。その後釜に座り、ベトナム戦争 ( 1960 年〜1975 年 )を再開したのが米国でした。

    なぜ欧米の侵略が裁かれなかったのか?。その理由とは、 連合国の犯した戦争犯罪が法廷で 裁かれない様に 、東京裁判の条例 ( 原語では、 Charter つまり憲章 ) を彼等に都合の良いように定め 日本と日本人のみを裁くことに決めた からです。

    東京裁判を分かり易くいえば、 J A が喧嘩をした場合に、 J A のここを殴った、あそこを蹴ったという A の訴えを採り上げ法廷で審理をするが、 喧嘩の原因となった A が相手 J を挑発した行為や、J に加えた残虐な大量殺人の犯行 は一切審理しなかったということです。 ここのところをしっかりと理解する必要があります


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