教育勅語

注:1
難しい言葉には( )内に読み方と意味を入れ、句読点、段落を加えました。

注:2
明治維新以後、日本が諸外国の進んだ文化、学問、技術を取り入れるのに熱心な余り、これまで祖先から受け継いで来た 日本古来の道徳教育を、なおざりにする傾向 がみられました。

そのため時の政府が、明治天皇幼少の折りにその教育係りを勤めた元田永孚 ( ながざね ) と明治憲法を執筆した井上毅( こわし )に命じて起草させたのが 「 教育に関する勅語 」であり、一般には「 教育勅語 」 と言われています。

注:3
起草に際しては、広く国民に受容され易いように宗教には触れず、天皇個人の 道徳や教育に関する考えの表明 という形式を取っていま す。

注:4
明治 23 年 ( 1890 年 ) 10 月 30 日に発布されましたが、その後、学校教育を通じて国民に徹底され、天皇制の精神的支柱になると共に、国民の道徳的規範の役割を果たしました。内容としては守るべき 12 の徳目を挙げ、これらは先祖からの遺訓であり、日本国内のみならず、国際的 にも通用する 普遍性のある道徳である としています。

注:5
勅語の文言について、「 一旦緩急 アレハ ( あれば )義勇公 ( こう ) に奉じ 」 の「 ア ハ 」 は、明らかに文語文法上の間違いであり、「 ア ハ( あらば )」が正しいとする説が後に出されました。

しかし天子の綸言 ( りんげん、天皇の言葉 ) 汗の如し ( 汗が体内に戻らぬ如く、ひとたび天子の口から出た言葉の取り消し、訂正はしない ) の表現がある如く、「 天皇の無謬性 」 によって、勅語の文言訂正は遂に行われませんでした。それだけでなく、文法上の誤りの指摘や、その公表自体も禁止されました。

注:6
教育勅語は他の勅語とは異なり、末尾に各国務大臣の副書 ( 署名 ) を付けず、法的拘束力のある国務詔書とは区別しています。




朕 ( チン )、惟 ( オモ ) フニ我カ皇祖皇宗 ( コウソコウソウ、歴代天皇の祖先 )、国ヲ肇 ( ハジ ) ムルコト広遠ニ、徳ヲ樹 ( タ ) ツルコト深厚ナリ。

我カ ( が ) 臣民克 ( ヨ ) ク忠ニ、克ク孝ニ、億兆 ( オクチョウ ) 心ヲ一 ( イツ ) ニシテ、世々厥 ( ソ ) ノ美ヲ済 ( ナ ) セルハ、此レ我カ国体ノ精華 ( セイカ、最も優れているところ ) ニシテ教育ノ淵源 ( エンゲン、成り立って来たみなもと ) マタ実ニ此ニ存ス。

爾 ( ナンジ ) 臣民、父母ニ孝ニ、兄弟 ( ケイテイ ) ニ友 ( ユウ ) ニ、夫婦相和 ( アイワ ) シ、朋友相信 ( ホウユウアイシン ) シ、恭倹 ( キョウケン、つつしみ深く控え目に振る舞う ) 己 ( オノレ ) ヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、

学ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器 ( トッキ、身に備わる徳行と器量 ) ヲ成就シ、進 ( ススン ) テ公益ヲ広メ、世務 ( セイム、世の中のつとめ ) ヲ開キ、常ニ国憲ヲ重 ( オモン ) シ国法ニ遵 ( シタガ ) ヒ

一旦緩急 ( イッタンカンキュウ、ひとたび危難が差し迫る ) アレハ 義勇公 ( コウ、おうやけ ) ニ奉シ、以テ天壌無窮 ( テンジョウムキュウ、天地と共に永久に続く ) ノ皇運 ( コウウン、天皇の勢威 ) ヲ扶翼 ( フヨク、助け守る ) スヘシ。

是 ( カク ) ノ如キハ独 ( ヒトリ ) 朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又 ( マタ ) 以テ爾 ( ナンジ ) 祖先ノ遺風を顕彰スルニ足 ( タ ) ラン。

斯 ( コ ) ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶 ( トモ ) ニ遵守スヘキ所、之 ( コレ ) ヲ古今ニ通シテ謬 ( アヤマ ) ラス、之ヲ中外 ( チュウガイ、国の内外 )ニ施( ホドコ ) シテ悖 ( モト ) ラス ( 道理にかなう )。

朕、爾 ( ナンジ ) 臣民ト倶 ( トモ ) ニ拳々服膺 ( ケンケンフクヨウ、常に心中に銘記し忘れない ) シテ咸 ( ミナ ) 其 ( ソノ ) 徳ヲ 一 ( イツ ) ニセンコトヲ庶 ( コイ ) 幾 ( ネガ ) フ。

明治 23 年 10 月 30 日、

御名御璽 ( ギョメイギョジ、天皇の署名と天皇の印鑑 )

勅語の失効

戦後は日本の占領政策に直接の権限を持つ連合国極東委員会の指令により、G H Q の民政局の指示を受けて、昭和 23 年 ( 1948 年 ) 6 月 19 日 に衆議院、参議院の教育勅語失効決議により失効しました。

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