日の丸、君が代 (その 2)
[ 9:君が代 の歴史 ]( 9−1、万葉集 )ひらがな、かたかなが発明される以前の古代では、日本語を表記するのに中国から伝来した漢字の意味を無視して発音だけを借り、あるいは訓読みにして、 表音文字 として使いましたが、万葉集に多く使われたので 万葉仮名 とも呼びました。万葉集は奈良時代 ( 710〜794 年 ) の末期に編集され、4,500 首の和歌を収めたものですが、その中には万葉仮名で記された 君之齒 ( キミガヨ ) の語がすでに載っていました。 万葉集の巻 1 にある中皇命 ( なかつすめらみこと ) 往于紀伊温泉之時作歌( 紀伊の温泉に行った時に読んだ歌 )で、
君之齒母 ( キミガヨモ ) 吾代毛所知哉 ( ワガヨモシラム ) 磐代乃 ( イワシロノ ) 崗之草根乎 ( ヲカノクサネヲ ) 去来結手名 ( イザムスビテナ )歌の意味は、あなたの寿命も私の寿命も司るという磐代の岡の草を さあ結んで長寿を祈りましょう ( 9−2、古今和歌集 ) 君之齒 ( キミガヨ )や 「 君が代は 」 ではなく、その元歌 ( もとうた ) である 「 わがきみは 」 とする 文言が文献上に最初に登場したのは 古今和歌集 です。これは醍醐 ( だいご ) 天皇の勅命により、紀 ・貫之 ( きの つらゆき )、紀 ・友則、凡河内 ・ 躬恒( おおしこうちの みつね )、壬生忠岑 ( みぶの ただみね ) の 4 人が編集に当たり、913 年頃に成立しましたが、略して古今集ともいいます。
それには 1,110 首の和歌が収められていますが、その巻 7 、 賀歌 ( がのうた ) の部には 22 首 あり、その筆頭に、君が代の 元歌 が載っています。この歌は 「 題知らず、よみ人知らず 」 ですが、それには作者が不明の場合と、作者の身分が低いので敢えて載せなかった場合もありました。( 乞食や遊女が詠んだ歌もありますが )
わがきみは ちよにやちよに さざれ石の 巌( いわお )となりて 苔のむすまで。しかし当時の書籍の作成は もっぱら写本に頼っていたために、古今和歌集には古くから種々の写本 ・ 伝本があり、歌のことばにも差が生じていて、上の歌も
「 我が君は千代に ましませ さされ石の巌となりて苔 の むすまて 」 としたり、あるいは最後の句で の が無くなり、「 巌となりて こけむすまで に 」 と記した写本もありました。 室町時代になると第二句の終わりの、 「 に 」 を 「 を 」 と変えて 千代に八千代 をと歌うこともかなりありましたが、 何々 に 何々 を 加える / 重ねる、のような表現が昔からあったので、千代に八千代を加える意味で変化したものと思われます。 ( 9−3、わがきみと、君が代 ) 古今集に次ぐ歌集は新選和歌集 ( 930〜934 年ごろ成立 ) で、360 首の和歌を収めていますが、その賀 ( が ) の部のはじめに、
わが君は ちよにやちよに さされ石の巌となりて苔のむすまてという形で載せてあります。古今集ができてから 100 年後に 和漢朗詠集 ( わかんろうえいしゅう、1013 年頃成立 ) ができましたが、下巻の祝いの部には
わかきみは ちよにやちよにさされ石の いはほとなりて 苔のむすまてとありました。では 「 わが君 」 がいつ頃から 「 君が代 」 に変化したのかといえば、和漢朗詠集の版本 ( 木版印刷本 ) に関する限り 江戸時代 であるといわれていますが、地歌、長唄などにもとり入れられて 祝賀の歌詞 として用いられました。なぜ 「 わが君 」 が 「 君が代 」 に変化したのか確かなことは不明です。 「 君が代 」の語源は 「 君が齢 ( よわい ) 」 であるとする説がありますが、「 わが君は 」 とするよりも意味が深くなり、下に続く 「 千代に八千代に 」 に対して、より意味が適うと思います。
[ 10: きみ とは天皇のことか、貴方のことか ]
本論に入りますが、「 君が代 」 の 「 きみ 」 の解釈については昔からさまざまな説がありますが、江戸時代中期に本居宣長 ( もとおりのりなが、1730〜1801 年 ) という国学者が書いた 古今集遠鏡 ( こきんしゅう とおかがみ、古今集の注釈書 6 冊、1793 年までに成立 ) によれば、この歌について次のように述べていました。
こまかい石が大きな岩ほ になって苔の生えるまで、千年も万年もご繁盛でおいでなされ、こちの君はということでした。ここには 「 わが君 」を 「 こちの君は 」と解釈していますが、これは 「 わが君 」 を以て、その 祝賀を受ける人 を指したものであり、それが天皇を特定するものではないことを示しています。つまりこの歌は祝賀に際して、 誰に対しても贈ることができる 祝い歌 なのです。 ひとつの例だけでは信用できないと思われる方のために古今集にある別の例を挙げますと、仁和の御時 ( おんとき、885〜889 年 )、僧遍昭 ( へんじょう、六歌仙の 1 人、816〜890 年 ) に 七十の賀 ( が ) 賜いける時の御歌という説明の次に、
かくしつつ とにもかくにもながらえて 君が八千代 にあうよしもがなとありましたが歌の意味は、今このようにあなたの古稀 ( 70 才 ) の祝いをしていますが、わたしも何とかして共に生き長らえて、 あなたの八千代のお祝い にも巡り合いたいものです。 ところでこの歌を詠んだ人は誰だと思いますか?。実は第 58 代の 光孝天皇 ( 830〜887 年 ) でしたが、天皇みずからが臣下であり歌人の僧遍昭に対して、 君が八千代に −−−と詠んでいました。これをみれば 「 きみ 」 が 天皇をさすとは限らない 有力な証拠です。 ( 10−1、君に関する古今集解説書、総理説明 ) ところで敗戦後に出版された古今和歌集の解説書で 、「 君 」 がどのように書かれているのかを見ると
明治以後盛んになった皇国史観や神格化された天皇制のもとでは、天皇が臣下の長寿 ( 君が八千代 ) を共に祝おうなどと歌を詠むなどは到底考えられないことですが、現にそういう時代があったのです。歴史を正しく判断 ・ 評価するには、その時代に 生きた人の立場に身を置いて 考えることが必要ですが、当時詠まれた 和歌の解釈 にも同じことが当てはまります 。
国歌 「 君が代 」 の 君 とは日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく 天皇のことを指しており 、 「 君が代 」 は日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする 我が国のこと であり、「 君が代 」 の歌詞もそうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である(以下省略)とありましたが、時代により時の政府により、「 君が代 」 の 「 君 」 の解釈が、「 貴方 」 から 「 天皇のこと 」 に変化したのでした。では万葉の昔に 天皇だけのことを何と呼んだのかといえば、その答は一目瞭然、解釈に異論の出る余地がない 大君 ( おおきみ / おおぎみ )です。 ( 10−2、海ゆかば )
太平洋戦争中によく歌われた歌に 「 海ゆかば 」 がありますが、「 続日本紀 」( しょくにほんぎ ) によれば原典は 、聖武天皇が天平 21 年 ( 749 年 ) 4 月 1 日に発した 宣命 ( せんみょう、宣命体で書かれた詔勅 ) です。これが 「 万葉集 」 巻 18 に記載されている 賀陸奥国出金詔書歌 に引用されたものです。 天平 21 年 2 月 22 日に 陸奥国から産出された黄金 ( 砂金、13 キログラム ) が初めて朝廷に献上されたので、奈良の都に建造中の東大寺 盧遮那仏 ( るしゃなぶつ、大仏 ) に使う金が初めて国内から発見されたことを喜んだ第 45 代聖武天皇 ( しょうむてんのう、701〜756 年 ) が、詔書 ( 宣命 ) を出しました。 その中に大伴 ・ 佐伯氏の先祖からの忠勤を誉める詞があったので、大伴家持 ( おおともの やかもち、718 ?〜785 年、万葉集で最多の歌数の歌人 ) がそれを祝って長編歌を詠んだ中に、宣命に書かれた文言を借用して詠んだ部分がありましたが、 後年 「 海ゆかば 」 と名付けられました。
海行かば 水漬 ( みづく ) 屍 ( かばね ) 山行かば 草生( む ) す屍 大君の 辺( へ ) にこそ死なめ かへりみはせじ。「 海ゆかば 」 について更に知りたい人は、 ここを クリック 。
[ 11:君が代の扱い方 ]鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) になると 「 君が代 」 は人の長寿を祝うだけでなく、 祝いごと全般 にも用いられるようになりました。
舞ながら歌うこの歌を聞いて激怒した頼朝が彼女を殺そうとしましたが、関東の名門北条氏出身で、 平家により伊豆に流刑にされ挙兵するまで弱い立場だった頼朝と結婚し、尻の下に敷く妻の政子になだめられました。 鎌倉を去った静御前はその後歴史の舞台からぷっつりと姿を消しましたが、一説によれば奥州に逃れた義経が藤原基衡の軍勢に攻められて自害したことを聞き入水したとか、あるいは剃髪して 22 才で病死したとかで、悲劇の ヒロインらしく各地に静御前の墓がありますが、写真はその内の一つ、奥州街道に面した栗橋の宿場、埼玉県 ・ 栗橋町の駅近くにある墓です。
[ 12:文部省の君が代 ]明治政府が文部省に設けた音楽取調べ掛から明治 14 年 ( 1881 年 ) に小学唱歌集の初編を出版しましたが、その中に 「 君が代 」 と題する歌があります。
古来からの 「 君が代 」 をそのまま使わずに詞 ( ことば ) を付け加え、あるいは歌詞を 二番まで作成していますが、これを見るかぎり明治初期には 文部省が 「 君が代 」 を国歌とは思っていずに、昔から めでたい場合の舞、謡曲などに取り入れられ、長い間 人々の支持を受けて広く伝えられてきた歌 と、認識していたからでした。 その後は明治 26 年 ( 1893 年 ) に文部省は、小学校において祝日 ・ 大祭日の儀式を行うの際、唱歌用に供する歌詞ならびに楽譜として告示しましたが、その冒頭に置かれたのが「 君が代 」 でした。明治 33 年 ( 1900 年 ) に公布された小学校令施行規則の28条により 職員及び児童 「 君が代 」を合唱す と規定されたために、全国の小学校で祝典が行われる際には必ず君が代を歌うことになり、事実上の国歌の扱いを受けるようになりました。 ところで太平洋戦争中の昭和 17 年 ( 1942 年 ) の教科書 ・ 初等科修身 ( 二 ) 、( 現在の小学校 4 年生用 ) の 2、「 君が代 」 には、
この歌は、「 天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年もつづいて、おさか ( 栄 ) えになりますように 」 という意味で、国民が心からおいはひ ( お祝い ) 申し上げる歌であります。とありましたが、当時 2 年生でした私も、記憶にはありませんが 4 年生の時にこの本で習ったにちがいありません。 しかしあくまでも文部省令であり、国民を対象にしたものではありませんでしたが、国歌としての法的根拠を得たのは平成11年 ( 1999 年 ) に公布された、国旗及び国歌に関する法律 ( 国旗国歌法 ) によってでした。
[ 13:日本語も侵略の道具ではないのか ? ]前述の如く日教組を初めとする左翼主義者、反日主義者にとって、日の丸、君が代は アジア侵略の象徴であり、使われた道具であると規定し、それ故に式典における国旗に背を向けて侮辱し、あるいは国歌斉唱や音楽教師が ピアノ伴奏を拒否したのでした。 そういう連中に、私は言いたいのです。戦場において 撃て、突撃、万歳と叫んでいた 日本語 の扱いはどうなのかと ?。 彼らの理屈からすれば日本語も当然、侵略戦争の道具であったと解釈すべきです。そこで質問、
参考までに北朝鮮の ミサイル発射、核実験に対して、本年 ( 2009 年 ) 4 月 7 日に衆議院に提出された 北朝鮮非難決議 に対して、日教組が支持する政党である 共産党は 決議に反対し 、社民党は 欠席 ( 参議院では棄権 ) しましたが、 国民を守るための政党ではなく、左翼 イデオロギー を守るための政党 であることが、今回もよーく分かりました。かつて アメリカの核実験は侵略のためであるとして反対しながら、ソ連 ( 現ロシア )、中国の行った核実験は、平和を守るためとして少しも反対しなかったように。
[ 14:世論調査 ]平成 21 年 3 月 13 〜 14 日にかけて テレビ朝日の News Station がおこなった電話による世論調査によれば、
God save our gracious Queen ! / Long live our noble Queen ! / God save the Queen! / Send her victorious, happy and glorious, / Long to reign over us, / God save the Queen !があります。ところで世界には スペインのように国歌に歌詞がなく メロディーだけの国や、ニュージーランドのように国歌が 二つもある国もあります。一つは 1840 年から 70 年間イギリスの植民地であったので、イギリス国歌であり、もう一つは 「 God defend New Zealand 、神よ ニュージーランドを守りたまえ 」ですが、1977 年には イギリス国歌と同等の地位を持つ国歌に昇格しました。
[ 15:最後に ]現在、「 日の丸 」、「 君が代 」 に反対を唱える日教組を初めとする労働組合員はすべて戦後生まれの人たちであり、戦争や空襲体験、さらに身近な人を戦場に送った経験もありません。そういう人たちが敗戦後のマスコミ、左翼主義者による、日本の過去の歴史を全て悪であると否定する考えを信じ、それを基にしたのが彼らの 「 日の丸 」、「 君が代 」 に対する考え方の基本でした。さらにいえば日の丸を否定するのであれば、 それに代わる国旗の代案 を出すべきなのにその話も聞いたことがありません。かつて なんでも反対社会党 という言葉がありましたが、反対するだけで何の代案も示せない、いわば小児的体質の党でした。 ところで代案が無いといった君が代については、実は 「 代案みたいなもの 」 があったのです。昭和 25 年 ( 1950 年 ) 頃に新聞社、放送局、日教組が加わって国民歌の募集がおこなわれたことがありました。しかし、後に日教組と一緒ではまずいと判断した新聞社や放送局は、計画の途中で降りてしまいました。最終的に日教組単独によってできたのが 「 緑の山河 」という歌でした。 日教組はこの歌を新国民歌として 起立して斉唱 する運動 を始めましたが、 国歌としてふさわしい 品格 ・ 荘重さ ( おごそかで重々しいこと ) が欠落した歌 は、国民の支持を得られずに消え去りました。 日教組の組合歌か、どこかの高校の応援歌 みたいな くだらない歌を聞きたい人は、 これを国歌にすることに貴方は賛成しますか?。日教組の国歌に対する センスの無さが、よく分かる歌でした。
ところで今回新たに政権を獲得した民主党は 連合 ( 日本労働組合総連合会 ) が最大の支持母体であり 、加盟組合員 680 万人 の中には日教組も含まれるので、これまで日教組嫌いでした小沢新幹事長が仕切る民主党が、社民党、国民新党と連立政権を組み、「 日の丸 」、「 君が代 」 問題を どのように対処するのか これからが見ものです 。 鳩山新首相が就任の翌朝に最初に会談した民間人は、連合の高木会長 ( 写真 ) でしたが、選挙を圧勝に導いた原動力の会長に丁重に礼を述べたとのことでした。つまり連合、自治労、官公労など、労働組合依存体質の党に 何ができるのか 「 お手並み拝見 」 です。
|