国旗、国歌に対する非礼

その 一、回れ右、事件

昭和 45 年 ( 1970 年 )3 月 16 日前橋市桂萱 ( かいがや ) 中学校の卒業式の冒頭に 「 君が代 」斉唱を行う際に、卒業生である 3 年 1 組担任の小作貞隆 ( おさく、ていりゅう )教諭 ( 51 才 )が、突然 「 3 年 1 組は回れ右 」 の号令を掛けて、 生徒 48 人全員 が後ろを向き、「 君が代 」を歌わないという出来事がありました。

父兄来賓はあっけにとられ、式後 「 造反教師をなぜ放って置いたのか 」、「 ふだんの教育はどうなっているのか 」と騒ぎになりました。( 昭和 45 年 3 月 17 日付、朝日新聞 )

その 二、「 日の丸 」 引きずり下ろし事件

昭和 61 年( 1986 年 ) 3 月沖縄県の読谷村にある読谷 ( よみたん ) 高校の卒業式の際に、校長が掲揚しようとした「 日の丸 」 を女子卒業生の 1 人が引きずり下ろして、溝に捨てた事件が起きました。

その 三、「 日の丸 」 の焼き捨て事件

沖縄では昭和 62 年 ( 1987 年 ) に海邦国体と名付けて国体が行われましたが、その際に ソフトボール会場となった読谷 ( よみたん )村の会場に掲げられていた 「 日の丸 」 を、10 月 26 日に 村で スーパーを営む 知花昌一 という男が、引きずり下ろして焼き捨てました。

その 四、「 君が代 」 斉唱時、着席事件

東京都板橋区の板橋高校では平成 16 年 ( 2004 年 ) 3 月 11 日の卒業式において、君が代斉唱の際に卒業生 270 名のうち 約 9 割が着席する という事態になりました。これに対して横山教育長は、教員が 自らの主義主張を 生徒を使って具現化する のは卑劣な行為であり、処分の対象とすると述べました。( 毎日新聞 )

その 五、ピアノ伴奏拒否事件

平成 11 年 ( 1999 年 ) のこと、東京 ・ 日野市にある公立小学校の音楽専科の教諭に対して、校長が近く行われる入学式に際して、ピアノ伴奏をするよう職務命令を出したところ、彼女はこれに応じられない旨の返事をしました。4 月 6 日に行われた入学式においても、司会者が開式の言葉を述べるのに続いて「 国歌斉唱 」と言ったが、女性教師は ピアノの椅子に座ったままでした。

校長は女性教師が ピアノを弾き始める様子がなかったことから、あらかじめ用意しておいた「 君が代 」の録音 テープの使用により、国歌斉唱が行われました。

彼女は職務命令違反で戒告処分をうけたので 思想、良心の自由 を理由に処分取り消しの裁判を起こし 1 審、2 審ともに敗訴しましたが、2007 年 2 月 28 日に最高裁から上告棄却、処分は合憲の判断が出ました。

自分が受けた職務命令に対する選択肢は、民間会社では二つしかありません。その命令に従うか、それとも 会社を辞める かです。

日教組に所属する公務員の彼女にとって、 職務命令に従う義務違反をしても自分の行動の自由を主張するのであれば 教師を辞める のが当然であり、国民の大多数も女性教師が 職務上の義務に違反し、 左翼主義に基ずく わがまま を押し通した とする判断に賛成するはずです。

彼女にとって最も大切なことは職務上の義務を忠実に遂行することではなく、 左翼主義の独断的教条 ( ドグマ、Dogma ) を忠実に守り それに従う ことでしたが、このような 偏向教師から教育を受ける生徒は不幸というべきです。

アーレフと名前を変えた オーム真理教を今でも信仰するのは本人の 「 心の自由 」 ですが、危険な宗教を信じるだけでは処罰の対象になりません。しかし教義に従い 具体的な違法行為 をすれば、処罰されるのは当然のことであり、前述の バカな音楽教師は 「 心の自由 」 と、「 行動の自由 」 の区別  さえも、 哀れなことに 理解できなかったのでした。



[ 1: 作られた沖縄の 虚像  日の丸 アレルギー ]

日本本土復帰前の沖縄では、復帰前の奄美大島と同様に、「 日の丸 」 の旗は日本への復帰運動の象徴として扱われていました。今では信じられないことですが、米軍占領下や、昭和 27 年 ( 1952 年 ) に発効した日米平和条約後の米国施政下の沖縄で、「 日の丸 」 掲揚を熱烈に願いそのための運動を続けていたのは、知識階級であった 教職員会 ( 当初は組合ではなかった )の人達 でした。

[ 2 : 日の丸 掲揚禁止に対する、沖縄教職員組合による緩和運動 ]

昭和 27 年 ( 1952 年 ) 4 月に日米平和条約が発効すると沖縄は依然米軍の施政権下にあったものの、政治的な目的を除き家庭、集会、祝宴など私的な場所に於ける「 日の丸 」の掲揚が許可されましたが、公共の建物、学校での掲揚は依然禁止のままでした。

それに対して沖縄教職員組合は昭和 27 年 5 月から 「 日の丸 」 掲揚の緩和を求めて運動を始め、学校に於ける入学式、卒業式、創立記念日、運動会、学芸会、祝日、政治目的を持たない教育者集会にも掲揚許可を求めました。

[ 3 : 教職員組合による 日の丸 の購入運動 ]

日の丸行進 更にこの年の 9 月からは 「 日の丸 」 購入運動を始めたのです。掲揚したくても 「 日の丸 」 が当時の沖縄には無かったので、毎年児童、生徒から購入希望を募って本土から購入しました。元沖縄教職員組合委員長の 石川元平氏の証言によれば、その数は、 毎年 1 万本近く 、になったそうです。

そして沖縄の本土復帰を求める行進に対して、 沿道の人々は 日の丸 を振って応援しました

沖縄教職員組合が 「 日の丸 」 掲揚運動に熱心に取り組んだことの証拠となる文書があります。 昭和 27 年 ( 1952 年 ) 12 月 19 日付けで各学校長に宛てた屋良朝苗 ( やらちょうびょう ) 教職員会 ( 当時 ) 会長名の 「 新年の挙式並びに国旗掲揚について 」 です。屋良氏は後に公選による初代主席に、その後は戦後初の沖縄県知事になりました。

( 3−1、教職員組合による 日の丸 掲揚運動 )

前述の文書の続きによれば

各戸に 国旗を掲げるよう 奨励しましょう、国旗購入が間に合わない児童生徒は学校で紙の旗を制作して掲げるように御指導ください、国旗のない 一般家庭にも希望するものには学校で配布して頂き、なお多くの家庭が掲げるよう勧奨致しましょう。

国旗の注文は第 2 次、第 3 次といつでも学校でまとめて下さって地区教育会主事を通じて申し込んで下さい。

( 以上は異民族への抵抗のシンボル日の丸運動、元沖縄教職員組合委員長、福地昿昭著から引用 )

日の丸アレルギーの正体とは、本土復帰後のイデオロギー

[ 4 : 教職員組合の方針転換 ]

ここまで読めば、沖縄住民の日の丸に対するそれまでの態度がお分かり頂けたと思います。戦争終了後も本土復帰までの 27 年もの間、あれほど熱烈に抱いてきた 「 日の丸 」 に対する尊敬の念や掲揚運動が、本土復帰後になぜ失われてしまったのでしょうか?。

その理由は ベトナム戦争最盛期の昭和 47 年 ( 1972 年 ) に行われた米国からの施政権返還、即ち沖縄の日本復帰前後に、本土から大量にやってきた、 ベトナム反戦、反米、反基地闘争 の為の拠点作り、組織作りのための左翼活動家、組合運動家などによる熱心な 教育宣伝、洗脳活動の結果 によるものでした。

それによって沖縄教職員組合が、これまで長年にわたり熱心に取り組んで来た 「 日の丸 」 掲揚運動を放棄するという、 180 度の方針転換 をしたからです。

その方針の大転換が 「 日の丸 」を復帰運動の象徴としての 尊敬すべき地位 から、 唾棄すべき軍国主義の道具 にまで引きずり下ろしたのです。そしてその考え方が、地元の人達にも広がり、学校教育の現場でも生徒に擦り込まれました。

[ 5 : 日教組活動家の殺し文句と、元教職員の証言 ]

教育宣伝、洗脳活動は 一般に相手が人生経験の未熟な若いうちがやり易いものですが、戦後 27 年間米国の施政権下にあり、本土との質的、量的情報格差のあった沖縄の場合には、本土からやって来た日教組の指導を受けた中高年についてもかなり効果的でした。

沖縄は本土から見るとかなり遅れていますね!。[ 日の丸、君が代 ] は本土では軍国主義の象徴なんですよ。今どき 日の丸 を掲げる人は本土では 1 人もいませんよ!。

貴方達も本土に復帰したからには、 恥をかかない内に、時代錯誤の国旗掲揚運動など、 すぐにお止めなさい

私達沖縄の者は長い間の抑圧されてきた歴史体験から、本土の人達から 低く見られる のが何よりも辛かったのです。恥を掻きたくなかったのです。そのために国旗の掲揚運動をすぐに止めることにしたのです。これまで毎年購入してきた何万本もの 「 日の丸 」の旗が、そのために無駄になりました。

「 日の丸 」を見ると方針転換の時の惨めな気持ちを思い出しますが、戦争末期の住民殺害事件を思い出す人など、その当時の沖縄には誰もいませんでしたよ。

戦後生まれの若い人が復帰後に 日の丸 に対する拒否反応 を口にするようになったのは、 やまとんちゅー( 大和の人 = 本土の人 )からの 入れ知恵 によるものです。

注:1)
冒頭に述べた「 日の丸焼き捨て事件」の犯人、知花昌一でさえも、ある本の中で

自宅には染 ( し )みのついた 日の丸がある 。沖縄が本土に復帰する前、憲法記念日や正月に掲げた。平和憲法へのあこがれの象徴だったが、復帰後も米軍基地はそのまま残り、日の丸は押入れに仕舞い込まれた。

と述べていました。

注:2)沖縄戦での住民集団自決事件のその後
米軍の上陸に際し慶良間列島や沖縄本島で、米軍に追い詰められた住民らが、守備隊長の命令で自決したと多くの出版物で記されましたが、補償金欲しさに「 命令があった 」と証言していた座間味島の住民が、後に なかった と訂正しました。平成17年8月6日の読売新聞の記事によれば、

住民に集団自決を命じたなどと、虚偽の記述のある書籍を出版され、名誉を傷つけられたとして、旧陸軍の元少佐・梅沢裕さん ( 88才 )と元大尉・赤松嘉次さん( 死去 )の弟( 72才 )が5日、出版元の岩波書店と作家の大江健三郎さんを相手に、出版、販売の差し止めと、慰謝料 2 千万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。

とありました。原告らは 「 そんな命令はしていない。あやまった記述で非道な人間と誤解され続けてきた。戦後 60 年を機に、 真実を知って欲しい と思った」などと訴えていました。

[ 6 : ウソの宣伝文句 ]

偏向報道や沖縄 サンゴ事件などのねつ造記事を得意とする 朝日新聞をはじめ、左翼活動家が作り上げた ウソの宣伝文句 、すなわち

沖縄戦末期の日本兵による住民殺害行為の結果、住民が 日の丸に対する拒否反応 を示した

のでは決してないことがお分かり頂けたと思います

もし彼等の主張が正しいのであれば、 毎年 1 万本近くの国旗を日本から購入し、沖縄の全校児童生徒の家庭にまで国旗の購入や、国旗掲揚運動が 普及するはずがなく 、また沖縄の新聞各社が本土復帰を祝う紙面に、後述の 日の丸入り写真 などを掲載しなかったはずです。

日の丸の鉢巻きをする人々

左の写真は米国との沖縄返還交渉激励のために結成された沖縄県民代表団が、昭和 46 年( 1971 年 ) 6 月に日本本土を訪れた際のものですが、日の丸の鉢巻きをした姿を見ても、敗戦当時から日の丸に対する拒否反応が沖縄県民の間にあった などという、 左翼主義者や偏向 マスコミが作り上げた 大 ウソ を貴方は信じたいのですか?

画面左端で唯一鉢巻きをしていない男性 ( 黄色の丸印 ) は、沖縄返還に努力した当時の佐藤栄作総理大臣です。


注:)沖縄サンゴ事件
朝日新聞の カメラマンが沖縄の テーブル ・ サンゴに意図的に キズを付けた上で写真撮影をおこない、それを基にして 「 サンゴにキズを付けたのは誰だ! 」 という題目で、自然保護(?)の啓蒙記事を 平成元年 ( 1989 年 ) 4 月 20 日の夕刊紙上に掲載しましたが、後に報道機関としてあるまじき卑劣な犯行が発覚しました。詳しくは下記の ホームページを参照されたし。

(1 : 自作自演の筋書き )
( 2 : 朝日新聞の謝罪 )

[ 7 : 論より証拠、復帰の際の 「 日の丸 」 報道 ]

那覇市内の祝賀風景 論より証拠で昭和 47 年 ( 1972 年 ) 5 月 15 日に、本土復帰をした翌日の沖縄の新聞紙面を飾ったのは、どの新聞も 一面に大きく日の丸の旗を持って復帰を喜ぶ県民の姿や、日の丸を掲げた祝賀風景でした。( 右の写真は那覇市内にある、銀座通りの祝賀風景 )

大売り出しの 「 ノボリ 」 にさえぎられてよく見えませんが、通りに面した商店では日の丸の旗を掲げています。

繰り返しますが沖縄の 「 日の丸 」に対する拒否反応は、本土復帰以前にはまったく存在せず、復帰後に左翼主義者達により、 本土から意図的に持ち込まれた ものであり、朝日をはじめ左翼 マスコミが虚偽の宣伝により広めたものなのです。

沖縄教職員組合の方針がこれまでの国旗掲揚運動に対する反作用と、日教組の指導により左へ大きく偏向し、反戦、反米、反基地闘争という、 イデオロギィーにより大きく歪曲されたもの に変化しました。その結果、 生徒に擦り込んだ偏向思想 が著しく増殖拡大し、前述の事件を起こしたものに間違いありません。

沖縄教職員組合の 変節 には、当然の事ながら現地の新聞の投書欄にも批判が続出しました。

日本復帰運動の中では、沖縄の全家庭に日の丸を買わせておきながら、今になって なぜ日の丸に反対する のか?。

それに対して県教職員組合からの責任ある回答や、県民が納得できる説明は最後まで得られませんでした。

その当時本土に比べて教職員の社会的地位がかなり高く、尊敬される立場にあった者として、体面上からも本土の日教組から言われるままに 無批判に、盲目的に従った とは言い辛かったからだと思います。

注 : )
毎年発表される全国学力調査の都道府県別結果によれば、沖縄県の成績は小学校、中学校共に 毎年全国で 最下位 でした 。かつて鳩山文相が日教組の活動と学力とを関連付けた発言をしましたが、なるほどと感じました。政治活動に うつつを抜かしていれば、本業が疎かになるのは当たり前のことです。

国の学習指導要領によれば、卒業式などでは 「 国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする 」 としています。


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