移民について
[ 1 : 言葉の定義について ]民族の移動や対外的発展を意味する言葉に 移民 と 植民 がありますが、 「 移民 」 は国外移住を志す 個人の移動の面 を重視するのに対して、 「 植民 」 は植民地の建設や経営を目的とする 国家的活動の面 からとらえる概念です。 「 移民 」 とは個人あるいは集団が 「 経済的 ・ 政治的 ・ 宗教的 あるいは 社会的 ( たとえば人種的迫害 ・ 人口過剰などの ) 要因から 、 より良い生活を求めて 」 あるいは 「 その他の目的 」 のために、自国から他国へ移り住むことをいいます。( 1-1、移出民と移入民 ) 移民には 二種類あり、自分の国から他国へ出て行く移住を Emigration、( エミグレイション )、移住する人 を エミグラント ( Emigrant ) 移出民 とも言います。 これに対して外国から自国に移り住む移住を Immigration ( イ ミグレイション ) 、移住する人を イ ミグラント ( Immigrant )、 移入民 と呼びます。 日本では明治の初めから移民といえば国外へ出て行く 「 移出民 」 のことを意味し、明治初年 ( 1868 年 ) から 1945 年 ( 昭和 20 年 ) の敗戦までに 100 万人以上もの移民を海外に送り出してきましたが、最近では アジア諸国や南米からの、 「 移入民 」 が増加するようになりました。 移住は長期にわたる居住を意味しており、 定住目的ではない移民の労働者は、 「 出稼ぎ移民 」 ( Migrant worker ) と呼びます。 2005 年における国連の推定によれば、これまで移民した人の総数は 1 億 9 千万に達しました。
ドイツ における移民の例を挙げると、1950 年代 ~ 1960 年代においては、労働力不足から外国人労働力の導入を積極的に行い、大量の 「 出稼ぎ移民 」 の流入が見られました。 ここには掲載していませんが 1959 年から 1998 年までの 40 年間に、トルコ ・ ポーランド ・ ロシア ・ イタリア ・ カザフスタン ・ ルーマニア ・ セルビアなどの国々から、合計 3 千万人の 「 出稼ぎ労働者 」 が ドイツに移入しました 。 その後 出稼ぎ労働を終えた 約 2 千 万人 が自国に帰りましたが 、現在も 約 1 千 万人 の移民労働者が ドイツ国内に残留し、 あるいは定住しています。 これらのうち宗教の違い ( 例えば イスラム教徒の カザフスタン人 ・ トルコ人など ) や、ドイツ語を話せない 「 帰化 ドイツ人 」 の増加、定住する移民の失業率が ドイツ人に比べて 二倍も高い ことなど、種々の難しい国内問題が起きていて、これまで移民の労働力を頼りにして 経済発展を続けて来たドイツ国内の 「 負の要素 」 が、 クローズアップ されています。 [ 2 : 日本における移民の始まり ]日本では 14 世紀から 17 世紀にかけて東南 アジア地域に貿易の拠点を作り、各地に 「 日本人町 」 が誕生しました。 16 世紀末 ( 1590 年 ) に天下を統一 した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制 し、倭寇 ( わこう ) を禁止する必要から、1592 年に初めて朱印状を発行 して マニラ ・ アユタヤ ( タイ ) ・ パタニ ( Patani 、マレー半島に存在 したマレー人王国 ) などに交易船を派遣 しました。 秀吉に続く徳川家康も朱印船貿易を積極的におこなったことにより、インドネシアの ジャカルタ など東南 アジア各地に日本人町が誕生し、アユタヤの日本人町は最盛期で 1,000 人 ~ 1,500 人 の日本人が居住していたといわれています。江戸時代初期に沼津藩主 ・ 大久保忠佐 ( ただすけ ) に仕え、六尺 ( ろくしゃく、駕籠かき ) をしていた 山田長政 ( ? ~ 1630 年 ) がいましたが、1612 年に朱印船で長崎から台湾を経て シャム ( Siam 、タイ王国の旧称で 1939 年に タイと改称 ) に渡りました。 そこで首都 アユタヤの日本人町の頭領となり、内戦を収め国王の信を得て重臣となりましたが、政敵により毒殺されました。 その後 徳川幕府が キリシタン禁教政策を採り、1635 年 日本人の海外渡航 ・ 帰国を禁止する 鎖国令を公布 したため朱印船貿易は終了し、 日本人町は消滅しました 。
向後、学科修業又は商業のため海外諸国へ相越 したき志願の者は、願書次第御差 し許 し相成るべく候 [ その意味 ] これから後は、海外諸国へ勉強や商売に行きたい者は、願書を提出することにより許されるであろう。しかしこの通達以前の元治元年 ( 1864 年 ) に 「 国禁 ( こっきん ) を犯して 」 密かに海外渡航した者たちがいました。 例えば後に文部大臣になり 一橋大学を創立 した 薩摩藩士の 森 有礼 ( もり ありのり ) や、後に 同志社大学を創立 した上州 ( 現 ・ 群馬県 ) 安中 ( あんなか ) 藩士の 新島 襄 ( にいじま じょう ) などでした。 この通達の直後に アメリカ ・ イギリス ・ オランダ ・ フランスから在留外国人の雇用する日本人の海外渡航、及び外国船に日本人が作業員として乗り込むことを認めるよう、要求が出されました。 日本がこの要求を受け入れると、在留外国人が帰国や他の国に移動する場合だけでなく、日本人だけを海外へ送ること ( 移民の斡旋 ) も広くおこなわれるようになりました。つまり日本人に対する最初の 移民斡旋 は、外国人によって行われたのでした。
[ 3 : 元年者 ]日本人の移民に関する本を読むと、慶応 4 年 = 明治 元年 ( 1868 年 ) に グアム島 及び ハワイ へ集団で 「 出稼ぎ移民 」 した人々、つまり 元年者 ( がんねんもの ) と呼ばれる移民たちのことが出てきます。 彼らに渡航許可を出したのは徳川幕府の神奈川奉行所であり、移民の斡旋 送り出しを行ったのは アメリカ領事館の書記生として来日し、後に ハワイ王国の 駐日総領事の地位を入手した オランダ系 アメリカ人の、 悪徳 商人兼 斡旋屋 の ヴァン ・ リード ( Van Reed ) でした。( 3-1、グアム島移民について ) 当時 スペイン領でした グアム島への 農業移民 42 人 は、江戸城明け渡しの前日である、1868 年 5 月 2 日に日本を出発しました。 ところが現地では過酷な労働、1 ヶ月 4 ドル の賃金の不払い、劣悪な食事で病死者が続出し 42 名中 14 名が死亡 ( 死亡率 33 % ) しました 。 3 年契約の期限満了後は帰国の旅費を支給する契約でしたが、雇用主のグアム島 鎮台 ( ちんだい、その地方の守備に当たる軍隊機関 ) の長 フランシスコ ・ モスコリー は支払いを拒否したため、明治政府が船を派遣して 生き残った移民 28 人 を日本に帰国させました。明治政府は彼らの救出に 7,000 ドルを支出しました。 ( 3-2、高橋是清の受難 ) 明治 ・ 大正 ・ 昭和の時代に日本銀行総裁や、大蔵大臣を 6 回務め、第 20 代総理大臣にもなった ( 旧 ) 仙台藩士の高橋是清 ( これきよ ) がいましたが、 1936 年に起きた 二 ・ 二六事件の際に暗殺されました。写真は昭和 26 年 ( 1951 年) 発行の 50 円札にある、彼の肖像画です。 彼が 13 歳の時 ( 慶応 3 年、1867 年 ) に アメリカへ留学した際にも、斡旋した ヴァン ・ リード と彼の 狡 猾 ( こうかつ、ズル 賢い ) な両親 によって 「 カ モ 」 にされ、ひどい目に遭いました 。 学費や渡航費を着服されただけでなく 、 アメリカにおける ホームステイ 先であった リードの両親にも騙 ( だま ) されて 学校にも行かせてもらえませんでした。 後に年季奉公の契約書に サインさせられ、知らぬ間に オークランドの ブラウン家に 5 0 ドル で奴隷同様に 人身売買されました 。その後 牧童や ぶどう農園で、奴隷同然の労働生活を強いられたと言われています。 彼が幕府の サンフランシスコ 名誉領事 ブルークス ( Charles Brooks ) に相談した結果、ブラウン家が ヴァン ・ リード の両親に支払った彼の身代金 ( みのしろきん ) 5 0 ドル を高橋是清 自身が支払うことにより、 「 身売り契約 」 がようやく破棄され 、1 年数ヶ月の苦難の アメリカ生活を終えて、1868 年 12 月に横浜に帰国しました。 [ 4 : ハワイ移民について ]開国以前の日本と ハワイの交流は無いに等しい状態でしたが、詳しく見ると以下の話がありました。
( 4-1、無許可で ハワイへ移民 ) 日本における ハワイへの移民は、明治元年 ( 1868 年 ) に明治新政府になってからのことでした。 明治政府は前述の ヴァン ・ リード が斡旋した移民を、 奴隷貿易の疑いから出航禁止 にしようとしました。 ここでも ヴァン ・ リード は政府に抗議する 一方で、パスポートが発給されない状態の 出稼ぎ移民 153 名 を乗せた イギリス船の サイオト 号を、 5 月 17 日に 明治政府に無断で出航させてしまいました。 この件については外務省の記録、 「 布哇 ( ハワイ ) 国総領事 「 ウエン リート 」 ( ヴァン ・ リード ) 無免許 本邦農民 傭入同国へ渡航一件 」 に記されています。 元年者の ハワイ移民はそれ以後の移民と同様に 移住を目的 としたものでなく、 3 年間で 100 ドル 貯めて 故郷に錦を飾ることを夢見た 「 出稼ぎ移民 」 でしたが、現地に到着後、耕地 ( サトウキビ 大農場 ) への人員配分後に じきに苦難に遭遇しました。 炎天下の 12 時間労働、労働時間中の休憩なし、少し怠けていると ルナ ( 小頭、こがしら ) に ムチ で殴られ、少し位の体の不調は休業の理由とならず、まさに仕事は虐待の 一語に尽きた。 日常生活も物価高と日本品の欠乏であり、暑さと失望のあまり 自殺する者も 3 名 に達した。このような ハワイ移民からの不平 ・ 不満および 救出嘆願書 が日本政府に届いたので、政府は使節団を派遣し移民の調査とその対策を講じました。 調査の結果、移民の状態は予想したほど劣悪ではなく、言葉の障害と風習の違いからくる誤解 ・ 農作業への不慣れ ( 農業 未経験者 ) が不平 ・ 不満の原因でした。 使節団は ハワイ政府と協議の結果、移民に対する待遇改善、移民契約期限 ( 3 年 ) 満了後、帰国希望者は ハワイ 側の費用で帰国することを決めましたが、約 三割に当たる 43 名 が直ぐに日本に帰国しました。 残る約 110 名 は無事に 3 年間の就労を終えましたが、その後、日本に帰ったのは、わずかに 11 名 だったといわれています。 それ以外の元年者の半数は、賃金のより高い アメリカ本土へ移住し、 ハワイに残留したのは 40 名強 でした。ハワイに残留した元年者のほとんどは ハワイ人の女性と結婚し、本当の ハワイ移民となりました。 ( 4-2、官約移民と、契約移民 ) その後日本と ハワイ王国との間で 「 移民条約 」 が結ばれ 、 ハワイへの移民が公式に許可されるようになりましたが、明治 18 年 ( 1885 年 )1 月、政府公認の第 1 回 移民船 『 シティ ・ オブ ・ トーキョー 号 』 で 946 人 ( 927人の説もあり ) が横浜を出発しました。 日本 ・ ハワイ王国の政府間で労働条件などを定めた約定書に基づく移民であることから、この移民は 「 官約移民 」 ( かんやく いみん ) と呼ばれましたが、第 1 回の移民 600 人の公募に対して実に 46 倍に当たる 2 万 8 千 人の応募 があったといわれています。 以後、日清戦争の前年 明治 26 年 ( 1893 年 ) まで、この制度の下で 26 回の送り出しで、 2 万 9132 人 が ハワイに移民として渡航したとされます。 日清戦争開戦の年の 1894 年 ( 明治 27 年 ) に政府は、移住者が移民斡旋業者にだまされたり、不当な損害をうけたりする事を防止するために 「 移民保護規則 」 、1896 年に 「 移民保護法 」 を公布し、移民事業を政府の手から民間移民会社に移しました。 その結果、移民斡旋会社が 40 社にも達するようになり、約 4 万人もの人が ハワイへ移住しましたが、これを 「 契約移民 」 と呼びました。 ( 4-3、出稼ぎ移民と、錦衣帰郷 ) 日本の移民は 「 官約 」 も 「 契約 」 も、海外への 「 永住を目的としたもの 」 ではなく、数年間の契約労働を目的にした 「 出稼ぎ労働者 」 であり、なるべく多くの カ ネ を貯めて 錦 衣 帰 郷 [ きんい ききょう、故郷に錦を着て ( 美しい衣服で飾って ) 帰る ] のが目的であり、この頃が ハワイ移民の全盛時代でした。 沖縄からの出稼ぎ移民は 1899 年 ( 明治 32 年 ) に 26 人の沖縄県人が 、初めて ハワイへ渡航し サトウキビ農場で働きました。 この第 1 回移民の歴史がその後、ハワイ ・ 北米 ・ 南米に広がる 沖縄系移民 34 万人の 始まり とみなされますが、1934 年 ( 昭和 9 年 ) に沖縄の 一著名人が次のように発言しています。 海外移民として彼らが渡航する際に携行した物は、旅行用の安物洋服 一着と渡航書 ( パスポート と労働契約書 ) だけに過ぎなかった。渡航者の家族が那覇の波止場に見送りに来て、 「 出来るだけ多額の カ ネ を貯めて帰って来てくれ 」 という激励の言葉を発しているのが聞こえた。ちなみに沖縄からの第 1 回移民の成功者には金武村 ( きんそん、現 ・ 国頭郡 金武町 ) 出身者が多く、大金を貯めて帰郷し 田畑を買い、 住宅を新築して、 近隣者からは 羨望 ( せんぼう、うらやましく思うこと ) の的となりました。 [ 注 : アメリカ村 ] 同じような例が 和歌山県 日高郡 美浜町 三尾 ( みお ) の、通称 アメリカ ( 大陸 ) 村にありましたが、こちらは カナダの ブリティッシュ ・ コロンビア州に 漁業の 「 出稼ぎ移民 」 を多く送り出し、錦衣帰郷した人が カナダ風の色彩豊かな家を建てました。しかし、ハワイは明治 31 年 ( 1898 年 ) に、 アメリカに併合されてしまい、アメリカの 「 契約移民禁止法 」 が ハワイにも適用されて移民が困難となりました。 外務省が移民会社に ハワイ移民停止を言い渡したのは明治 41 年 ( 1908 年 ) でしたが、その時点における ハワイ在住日本人は、 6 万 6 千人 であったといわれています。 [ 5 : アメリカ本土への移民は、海難漂流者から ]1860 年 ( 万延元年 ) に首都 ワシントンにおいて、日米修好通商条約の批准書交換のために新見豊前守正興 ( しんみ ぶぜんのかみ まさおき ) 一行の外交使節団が渡米して日米の国交が始まりましたが、 初期の移住者は遭難船の漂流者から始まりました 。
( 5-1、黄禍論と、有色人種差別 ) 19 世紀末の日清戦争 ( 1894 ~ 1895 年 ) に日本が勝利し、 世界中の誰もが ロシアが勝つと信じていた日露戦争 ( 1904 ~ 1905 年 ) に日本が勝利すると、ヨーロッパ ・ 北アメリカ ・ オーストラリアなどの白人国家では、有色人種が将来白人に 禍 ( わざわい ) をもたらすという 人種差別的な黄禍論 ( こうかろん、Yellow Peril ) が広がりました。 その後 黄色人種の移民増加を警戒 し ・ 嫌悪 し ・ 排斥 し ・ 遂には自国への 移民を禁止する ようになりました。 1880 年代より北 アメリカの カリフォルニアに移住した日本人移民は、 下記 ( 5-2 ) の表にある如く 1900 年代初頭に急増しました。 かつて西海岸の カリフォルニア 州の州都 サクラメントから東に向かい、 ロッキー山脈を越えて ユタ 準州 ( 当時 ) に通じる大陸横断鉄道 ( セントラル ・ パシフィック鉄道 ) の鉄道線路建設には、大勢の中国人移民が従事しました。 ロッキー 山中の難工事の現場では 「 線路の枕木の数 」 だけ死亡 した とされる中国人労働者が、 1869 年に工事が完成すると排斥されたのと同様に、日本人も現地の白人社会から排斥されるようになりました。
それまでの排日法は カリフォルニア州法でしたが、これは連邦法であり、アメリカの国全体として日本人移民を排斥することにしたもので、中国大陸における利権獲得に 「 遅れてやって来た帝国主義の アメリカ 」 がそれまで主張してきた、 「 門戸開放 ・ 機会均等 」 の趣旨にも反するものでした。 これは 日本を敵視し人種的偏見から排斥したのであり、 1899 年 ( 明治 32 年 ) に締結した 「 日米通商航海条約 」 に明らかに違反した行為でした。 日露戦争で勝利した日本を白人種にとって危険な国、また中国大陸に市場を求める アメリカ資本主義にとって 邪魔な国 とみなすようになったのです。つまり黄禍の対象を 日禍に絞り込んだ のでした。 誤解しないように述べますが、東京裁判において日本が中国を侵略したとされる盧溝橋 ( ろこうきょう ) 事件 ( 1937 年、昭和 12 年 ) が起きる 13 年も前の出来事でした。 ( 5-2、日本経済の不況 ) 人種的偏見から日本人に対する移民拒否が当時の日本人に与えた心理的影響は大きなものがありました。その理由は日露戦争後の経済不況に軍縮の波が襲い、農村には除隊した兵士が溢れたにもかかわらず、 巷 ( ちまた ) には職がなく、出稼ぎ移民の道が閉ざされたからでした。 1923 年 ( 大正 12 年 ) には関東地方に マグニチュード 7.9 の大地震 ( 関東大震災 ) が起きたため、東京を中心に関東地方の内陸と沿岸に、 日本災害史上 最大級の被害 をもたらしました。 さらに1929 年 ( 昭和 4 年 ) に アメリカで始まった世界恐慌 ( きょうこう、経済活動全体の 一時的麻痺 )が日本にも波及し、農民だけでなく サラリーマンにとっても不況で職に就けない人が続出し、 大学は出たけれど という映画が作られ、流行語になりました。 日本経済の不況の大きな原因は、イギリス ・ フランス ・ アメリカなどの主要国が自国を中心に いくつかの同盟国や植民地から成る 排他的 ・ 閉鎖的 経済 グループである ブロック ( Block ) 経済圏 を作り、その圏内での貿易によって経済を運営したことでした。 人種的偏見により 移民先を閉め出され、国内に過剰な人口を抱えた日本は、乏しい国内資源しかなく、しかも アメリカの 「 ドル ブロック 」、イギリスの 「 スターリング ( sterling ) ブロック 」、フランスの 「 フラン ( franc ) ブロック 」 などの 「 ブロック経済圏 」 による、圏外の国に対する 高い関税障壁 ( かんぜい しょうへき ) 設定により、国内製品の輸出も閉め出されました。 経済的に困窮した日本が弱肉強食の帝国主義の時代に 他の列強諸国同様に( 例えば アヘン戦争 ) その解決策を中国大陸に求めたとしても、それは生きるためにやむなくやったことであり、その原因 ( ブロック経済による外国貿易の締め出し ) を作ったのは 米 ・ 英 ・ 仏などの白人帝国主義国でした。
昭和 16 年 ( 1941 年 ) 12 月の日米開戦当時、アメリカ本土には日系 1 世 ・ 2 世 ・ 3世含めて 12 万 748 人 が住み、そのほとんどが太平洋岸の カリフォルニア州を中心に、オレゴン州、ワシントン州に住んでいました。 ハワイには 15 万 9,534 人 ・ カナダには 2 万 3,149 人 が住んでいましたが、アメリカや カナダにいた 日系人 ( 市民権を持つ者を含む ) が、どのような 違法な処遇 を受けたのかは下記にあります。 [ 6 : ペルー移民 ]日本人初の ペルー への移民 790 名 が移民船 佐倉丸 ( 2,953 トン、速力 12 ノット ) に乗り首都 リマ の西部に位置する 最大の港町である カヤオ ( El Callao ) に到着したのは明治 32 年 ( 1899 年 ) 4 月 3 日のことでした。彼らは ペルー の海岸地帯にある サトウキビ 大規模農場から依頼を受けた 「 森岡移民会社 」 が募集した契約移民でした。 ペルー の代表的な新聞 「エル ・ コメルシオ 」 の記者によれば、移住者は大部分が 20 歳から 30 歳くらいまでの頑丈な体格を持った健康そうな人たちで、いかにも賢そうな顔をしている。全員が誰からも強制されず、自分の意思で移住に応募した人たちであるためか、その表情は非常に明るく楽しそうであるし、農業に適した者だけが選抜されて来たということである。との記事がありました。ペルーは 1821 年に スペインの植民地から独立し、海岸地帯の サトウキビ 大規模農場で働いていた黒人奴隷を解放したために、労働力が不足していました。 それを補うために清国から 苦力 ( クーリー、coolie ) と呼ばれる中国の下層で ・ 非熟練 労働者を騙 ( だま ) して 350 トン程度の小型船に 200 人以上積み込み、奴隷船のような劣悪な状態で ペルー に送られてきました。 1850 年から 1880 年までの 30 年間に 約 10 万人の苦力 ( クーリー ) が中国から ペルーに運ばれ 、航海中に 15.5 % もの労働者 が死亡しましたが、ペルー に到着すると甲板上で彼らの労働契約書が売買され、実態は 奴隷貿易と全く変わりませんでした。 ( 6-1、マリア ・ ルス 号 事件 ) 明治 5 年 ( 1872 年 ) のこと、横浜港に停泊中の ペルー 船籍の マリア ・ ルス ( Maria Luz ) 号から 一人の中国人が海に飛び込み脱走し、停泊中の イギリスの軍艦 ( アイアン ・ デューク、 Iron Duke 、右写真 ) 号に救助を求めました。 143 年前の写真のため、画質が悪いのはお許しのほどを。 調査の結果中国人労働者 ( 231 名 ) が奴隷のように売買され ペルー に運ばれる途中であることが判明し、日本政府は マリア ・ ルス号を拿捕 ( だほ ) し裁判の結果、中国人全員を解放し母国へ送り返しました。 これが契機となって日本は南米諸国の中では 一番先に ペルー と国交を樹立し、両国の間で日本人契約移民制度が成立しました。しかし前述した第 1 回 ペール移民の 790 名のうち 4 年の契約期間が終わるまでに、 154 名が マラリアなどの風土病で死亡 ( 死亡率 19.5 % ) しました。 後続の移民たちは風土病を恐れ なるべく首都の リマ で働くことを希望し、サトウキビ農場からの脱走が盛んになりました。 ( 6-2、日米開戦後の移民たち ) ところで リマ の新聞 「 エル ・ コメルシオ 」 ( El Comercio、貿易通商 ) によれば、 1941 年 ( 昭和 16 年 ) の日米開戦 ( 現地では 12 月 7 日 ) から 3 日後の、ワシントン 12 月 9 日発の情報として、 開戦時 ラテンアメリカ ( 南米の スペイン語 ・ ポルトガル語圏 ) 諸国に居住している敵国人である日本人と日系人の総数は 約 25 万人 であり、その内訳は 下表の通りであるとしました。 南米大陸にあるほとんどの国は アメリカの主導により日本と国交断絶あるいは宣戦布告をしましたが、アルゼンチンと チリ政府だけは別でした。アルゼンチンが日本に宣戦したのは 1945 年 ( 昭和 20 年 ) 3 月 27 日であり、チリ政府は同じ年の 4 月 11 日でした。 ( 6-3、北アメリカへ追放 ・ 抑留された移民たち ) ペルー駐在 アメリカ大使館に外交官の エマーソンが日米開戦後に赴任してきましたが、彼の役目は日本人対策でした。彼の著書 「 The Japanese thread 」 ( 日本人の 糸 )、日本語訳の題名 「嵐の中の外交官」 によれば、 在留日本人は日本への愛国心が強く日本人会という組織のもとに、暗黙のうちに指導者の指示に従うということに気がついた。一日でも早く ペルー の日本人集団の力を削 ( そ ) ぐためには、危険人物と考えられる日本人指導者を、ペルーから追放することである。と記されていました。 そのために開戦の翌年 1942 年 4 月から ペルー在住の日本人指導者だけでなく、例外を除き日本人全て ( 6,126 世帯、約 2 万人 ) を、北アメリカに追放し、そこで抑留する計画が実施されました。 ( 6-4、あきれた抑留の口実とは ) 追放された日本人が ペルー の港から アメリカの客船に乗船すると、そこには アメリカの係官が待ち受けていて、日本人 ・ 日系人全員から パスポートを取り上げました。 一行を乗せた船は太平洋から パナマ運河を通過し、カリブ海の ユカタン海峡を抜け メキシコ湾に入り、 アメリカ南部 最大の港湾都市 ルイジアナ州の ニューオーリンズ ( New Orleans ) の港に着き、そこで船を降ろされました。 下船した日本人を待ち受けていた入国審査官からは パスポートの提出を求められましたが、ペルーから乗船した際に アメリカの係官から取り上げられた旨を説明しても彼らは聞き入れず、全員を パスポート 不携帯のままで 不法入国を図った罪 として身柄を拘束したのでした。 アメリカ国務省にしてみれば、外国である ペルーに住んでいた日本人を アメリカ本土で長期間抑留するためには、国内法である入国管理法違反の 犯罪構成要件の該当性が必要 だったわけで、 「 不法入国の罪 」 という 「 見え透いた濡れ衣 」 を全員に着せて抑留したのでした。そこからは列車に乗せられ、アメリカ各地の抑留所に分けられて抑留されました。
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