続、日系人強制収容所
[ 1 : カナダの場合 ]カナダは ロシアに次いで世界第 二の面積を持つ国ですが、 「 村 」 を意味する イロコイ ・ インディアン の言葉である カナダ ( Canada ) を、最初に訪れた白人が地名と勘違いしたことに由来するといわれています。 日本人がいつ頃から カナダに住むようになったのかは、新保満の 「 日系 カナダ人社会史、 石もて追わるるごとく 」 に詳しく述べられていますが、日系人の渡航が増加したのは明治 20 年 ( 1887 年 ) 以後のことでした。
カナディアン ・ ロッキー山系に水源を発し、ブリティッシュ ・ コロンビア州南部を西に向かって流れ太平洋に注ぐ、延長 1,368 キロ ・ メートルの フレーザー川 ( Fraser River ) があります。 明治 20 年 ( 1887 年 ) に、和歌山県 日高郡 三尾 ( みお ) 村 ( 御坊市の西側にある現 ・ 美浜町 ) 出身の工野 ( くの ) 儀兵衛 ( 1854〜1917 年 ) が太平洋を越えて カナダの バンクーバーに到着しましたが、彼が近郊を流れる フレーザー川で見たものは、日本では見たこともない大量に遡上する サケ の大群でした。 ここで サケ 漁ができると判断した彼は、郷里の村に電報を打ちました。「 フレーザー 川に サケ が 湧 く 」この情報がきっかけとなり、海と背後の険しい山に挟まれて農地が乏しく、半農半漁の貧しい暮らしの 三尾 ( みお ) 村の住民たちは、より良い生活を求めて太平洋を越えて移民することに決め、カナダへの移住、出稼ぎが始まりましたが、その多くは漁業に従事しました。この情報はたちまち和歌山県内にも広がり、県内各地からも カナダへの移住、出稼ぎが始まり、その数は 2 千人 にも及びました。
このため バンクバーの南側にある スティーブストン ( Steveston )には日本人の居留地ができ、そこでは、和歌山県出身者、とりわけ 三尾村 ( 御坊市の西側にある現 ・ 美浜町 )出身者が大きな割合を占めました。 移民や出稼ぎの人々を送り出した三尾村は、後年には移住者からの故郷への送金で潤い、出稼ぎ帰りの人が建てた モダンな家が並び、通称 アメリカ村 ( アメリカ大陸の意味で、実際は カナダのこと )とも呼ばれるようになりました。その頃には サケ漁の繁忙期になると アメリカからの季節労働者も含めて数千人の日本人がこれに従事しましたが、川口の スティーブストンには サケ、ニシン、タラ、マスの加工場の、 キャナリー ( Cannery 、缶詰工場 ) が建てられて、日系人が漁業で生計を立てて暮らしました。 ところが英国の自治領 ( 英領北米法が当時の カナダの憲法 ) でした カナダの法律改正により、1892 年 ( 明治 25 年 ) からは領海内で漁業をするには、英国民に発給される 漁業 ライセンスが必要 となったため、日本人漁民は定住を経て英国籍を取得するようになりましたが、漁業者には資格、就業形態により以下の 三種類がありました。
日系人には 「 A 」 と 「 B 」 が大部分でしたが、1908 年の推計では日系人の総漁業者数、 2,770 名 のうち、前述した スティーブストンに 1,500 名、スキーナ 川に 800 名、その他が 470 名でした。 1907 年 ( 明治 40 年 )の資料によれば、フレーザー川の サケ漁に出漁した漁船 775 隻のうち、 68 パーセントに当たる 525 隻 が日系人の操業によるものでした。その後日系人は自前の船を持つようになり、それで漁業をするようになりました。
[ 2 : 日系人口の変化 ]
[ 3 : 開戦前の日系人登録 ]太平洋戦争開戦前の カナダにおける日系人に対する取り扱いは、アメリカの模倣でした。昭和 16 年 ( 1941 年 )1 月 6日に カナダ首相の キングは、「 B C 、ブリティッシュ ・ コロンビア州 ( 太平洋沿岸 ) 在住の、日系人特別新登録 」 の実施と、 「 東洋系 二世は カナダの軍隊に召集しない 」 旨を発表しましたが、 ここでも白人種である ドイツ系、および イタリア系移民はこの登録対象から除かれました。
その結果、ブリティッシュ ・ コロンビア州に住む カナダ国籍を持つ日系人は、帰化した 一世、カナダ生まれの 二世も含め全て R C M P ( Royal Canadian Mounted Police 、カナダ連邦騎馬警察 )の役所に出頭して、1941 年 3 月 4 日から 8 月末までの間に登録する義務を課せられました。 上の写真は赤い制服が特徴の R C M P の警察官で左は女性で、開戦の当日になると、カナダ政府はそれまで準備していた一連の計画をただちに実施しました。
開戦当夜に カナダ首相 キングは、カナダ国民に向かってつぎのような演説を放送しました。
太平洋の防備は着々と進行しつつあり、最も危険だと思われる 日系人は開戦と同時に逮捕 ・ 抑留してあるから 、国民はこの際安心して業務に精励してほしい。
[ 4 : 日系人移動計画 ]カナダ政府は 1927 年に成立した戦時特別措置法を根拠にして、防衛地区 ( 太平洋沿岸 ) から日系人を内陸部へ移動 ( Relocate ) させることにしました。バンクーバー( 島 ) 周辺以外の日系人は、バンクーバー市内の ヘイスティング( Hasting )公園に設けられた 畜産共進会用の 家畜小屋 に 一旦収容し、監視 ・ 隔離するという、ひどい処遇を受けしました。 ところで戦時捕虜の資格、処遇には、以下の 4 種類があるといわれております。
[ 5 : 日系人が失ったもの ]強制全員移動 ( Total Evacuation ) をさせられた結果、日系人は殆どのものを失いました。2 万 3 千 名のうち労働人口は 6 千名といわれましたが、彼等は仕事を失い、生産の手段を失いました。 漁師は漁船と網を、農業者は農地、農機具を、商人は商店と品物を。さらに私有財産である家屋、家具、車、漁船なども敵国財産とみなされ没収され、非常に安い価格で売られました。日本の敗色が濃くなった昭和 19 年 ( 1944 年 ) 8 月 4日、カナダの首相 キングは日本の敗戦を見越して次のように下院で演説をしました。
アルバータ州では 5.8 倍 に、サスカチュワン州では 2.1 倍 に、マニトバ州では 28 倍 に、オンタリオ州では 37 倍 に、ケベック州では 23 倍 に日系人の数が増えました。 これは太平洋沿岸の B・C 州から日系人を カナディアン ・ ロッキー 山脈の東側に定住させる、また各地に拡散させるという、 カナダ政府の方針によるものでした。
[ 6 : 戦後も続く日系人差別 ]昭和 20 年 ( 1945 年 )の日本の敗戦により、カナダ国籍を持つ日系人に対する法的差別が無くなったと思いがちですが、実際には 1948 年 3 月 31 日まで法律上の権利の大幅な制限が続きました。
アメリカが強制収容された日系人に対して 1 人 2 万 ドル の補償金を支払ったことが引き金となり、カナダ政府も 1990 年に モロニー 首相の手紙と共に、1 人当たり 2 万 1千 カナダ ・ ドル ( 約 200 万円 ) を、個人補償金として抑留された日系人に支払いました。
ほぼ半世紀前、戦時の混乱において、カナダ政府は何千という 日本人子孫を不当に投獄し、資産を押収し、市民権を奪いました 。金銭では不正を正し、損害を元通りにし、傷をいやすことはできません。しかし、道徳上のみならず、明確な方法でこの問題について言及することで、我々の決意が象徴されていますーーー。という内容でしたが、あくまでも当時 カナダ国籍を持つ者 ( 自国民 ) を対象にした補償でした。
[ 7 : オーストラリアの場合 ]オーストラリアといえば我々の年代の者にとっては、すぐに 白豪主義 ( White Australia Policy ) を連想させます。 18 世紀末に イギリスの囚人流刑地として出発した オーストラリア植民地は、1848 年に ニュー ・ サウス ・ ウェールズ州で金鉱が発見され、次いで1851年に ビクトリア州でも発見されると、アメリカ同様に ゴールドラッシュが起きました。それにより ヨーロッパ大陸からの移民が急増しましたが、それと共に アジアからは中国人の移民も急増することになりました。すると、
オーストラリアは、 白人のみ が居住する国であるべきだとする考え方が国内に広まり、それに伴い オーストラリアに住む 非白人系移民 に対する敵意や排斥が次第に高まりました。1901 年に連邦政府が結成されると 移民制限法が制定され、 非ヨーロッパ系 ( つまり有色人種 ) の移民を閉め出す、 白豪主義が国是 ( こくぜ、国としての方針 ) になりました。 具体的には 非白人系の移民希望者 には英語による書き取り テストを実施して振り落とし、肌の色は絶対に落とした理由にはしませんでした。 しかし英語に堪能な非白人 ( たとえば イギリスの植民地でした インド人など ) の場合には、英語以外のいかなる ヨーロッパ 系言語で テストしても良かったので、 必ず落とされる仕組みでした。
オーストラリア大陸には 4 万年前から 先住民の アボリジニ ( Aborigine )が住んでいましたが、狩猟採取民族であるその数は 30 万人 〜 50 万人 ともいわれています。 しかし ヨーロッパからの入植者たちにより、アボリジニ は人間の部類ではないと見なされて虐殺され、 昭和 5 年 ( 1930 年 ) までは 狩猟の対象 にもされましたが 、もちろん 「 人口統計 」 にも入れらず、絶滅の危機に瀕しました。 現にオーストラリア大陸の南東にある タスマニア島では 虐殺により先住民が絶滅 しましたが、その数については、
日本人の移民についても白豪主義のもとで 厳しく制限された結果 、ハワイ、アメリカ、カナダなどとは大きく異なり 、下表にある如く太平洋戦争開戦年の昭和 16 年には、全体で僅か 1,175 人 が居住するだけで、しかも オーストラリアの会社に雇われて真珠の母貝を採る潜水夫が 27 パーセントを占めていました。
木曜島 ( Thursday Island )とは、オーストラリア北部の クイーンズランド州北端、ヨーク岬から北西 35 キロにある島で、 真珠養殖に必要な母貝 の アコヤ貝、クロチョウ貝、シロチョウ貝、などの潜水採取 で有名でした。 一時は潜水採取の適性、技量に富む日本人潜水夫の独壇場で、潜水夫の 85 パーセントが日本人でした。写真は、1900 年 ( 明治 33 年 ) 当時の木曜島です。
この島は1789 年 ( 寛政元年 )に英海軍の帆船 バウンティー号で起きた有名な反乱 ( Mutiny on the H M S Bounty )の際に、厳格な性格のために乗組員から嫌われていた ブライ( Bligh ) 艦長が、艦長派の仲間と共に船から ボートに乗せられて追放されましたが、漂流航海中にこの島を木曜島と命名したとされます。 ところで紀伊半島南端、和歌山県串本町潮岬には、木曜島で働いた ダイバーたちを顕彰する石碑がありますが、その碑文には、
とありましたが、木曜島で働いた潜水夫は、和歌山県出身者がほとんどを占めていたからでした。
太平洋戦争開始と同時に オーストラリアに住む日本人だけでなく、日本人の血を引く オーストラリア国籍保有者も警察により逮捕抑留されましたが、国内に設けられた 19 箇所に戦時捕虜収容所が設置 されましたが、その半分は民間人の抑留者用でした。写真は南 オーストラリアの リバーランド地区にある、ウーレンヌーク ( Woolenook ) 収容所ですが、高いフェンスに囲まれていました。
[ 8 : 白豪主義の看板だけは降ろしても ]オーストラリアは太平洋戦争後も かたくなに 白豪主義 を守り続けましたが、それを改めるきっかけとなったのは ある事情があった からでした。
イギリス連邦 ( 旧称、the British Commonwealth of Nations )を構成する一員として、 母国への回帰 にも似た ヨーロッパ文化圏、経済圏への仲間入り が、白豪主義を掲げる オーストラリアにとっては 長年の夢 でしたが、 その 見果てぬ夢 が 拒否された ことが原因でした。 つまり酪農製品、羊毛、小麦などが事実上 ヨーロッパ市場から閉め出された結果 、これまで白豪主義のもとで 有色人種に対して人種差別をおこない、 軽蔑の対象にしてきた アジア諸国に対して、 貿易による活路を求め、接近せざるを得なくなったという、 経済的事情が生じたからでした。 昭和 50 年 ( 1975 年 )になってようやく( 有色 )人種差別禁止法を成立させ、表面上は白豪主義の看板だけは降ろしましたが、人種的偏見は決して消えたわけではありません。 反捕鯨運動に名を借りた日本人に対する 人種差別や偏見は、 アングロサクソンが主流である オーストラリア人の心の中に深く刻み込まれたものであり 、ベトナム、中国などの アジア系移民が増えた シドニー で平成 17年 ( 2005 年 ) に起きた人種暴動のように、 機会を捉えて必ず噴出する ものであることを肝に銘じる必要があります。
[ 9 : 歴史の扱い方 ]この随筆を書くに当たって私が調べたところでは、1998 年版の ブリタニカ 国際百科事典 ( Encyclopedia Britannica ) には、 「 白豪主義についての記述 」 は全くありませんでした。 同じ理由から イギリスの小、中学の教科書には道徳的に 恥ずべき アヘン戦争の記述 も無いといわれています。いずれの国の歴史にも 光と陰の部分 がありますが、世界中で読まれる イギリスの百科事典から過去の不名誉な歴史上の事実を抹殺することにより、英国や英連邦に属する オーストラリアの名誉、威信の維持に努めようとしたことが推測されました。 ひるがえって日本ではどうでしょうか?。国の歴史における 光の部分 を無視し、 陰の部分 をことさら取り上げて、学校教育の場で教えるように要求する 反日左翼主義者の主張および、韓国政府の要求に屈して、 従軍慰安婦 のことまでも中学、高校の教科書に載せました。 教科書の内容に 外国政府の介入を許す という、主権国家としての 日本政府のあるまじき愚行 は、英国とは大違いでした。最近自衛隊を クビになった、田母神 ( たもがみ ) 元航空幕僚長の発言によれば、
日本の 悪口を言う ことが正しいことであり、日本は 良い国である と言ったら クビになった。とのことでしたが、子供に自分の国を愛することを教えない国は、近隣諸国を含めて世界中で日本だけです。これで良いのでしょうか?。
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