移民について
「 帰国を望んでいる アメリカ市民が中国だけでも 3,300 人いると計算している。彼らとの交換要員として、 同数の日本人を ( 日本へ ) 送り込まねばならないので、日本との交換協定を継続し、 そのために急いで 中南米にいるすべての日本人 を追放し、米国内の 抑留施設に収容する 」 努力を続けることが必要である。 とありました。これとは別の 1973 年に東京で出版された ミチコ ・ ウェグリン ( Michiko Weglyn ) の著書 「 Days of Infamy 」 ( アメリカ強制収容所 : 屈辱に耐えた日系人 ) の中でも ハル 国務長官の書簡をとりあげていました。その中で、 中南米地域に在留する交戦国の ドイツ人 ・ イタリア人については、危険分子とその家族だけを追放し、東洋系である日本人については 「 全員を追放する 」 とした点から、国務長官 ハル の有色人種に対する 強い 「 人種的偏見 ・ 差別主義 」 を指摘していました。ハワイや カリフォルニア州に居住していた日本人や日系人 ( 米国市民権を持つ二世 ) を 「 交換要員 」 として日本に送り帰すことは 、沿岸防衛上の理由から陸軍に反対されました。 付近の海岸や地形を知り尽くしている連中を日本に帰国させれば、彼らを 道案内にして 日本軍が上陸する危険性がある。というのがその理由でした。 ( 6-5、日本への旅路 ) ANA の元 パイロットで私と同年代の 「 F 」 氏 ( 故人 ) がいましたが、彼から生前聞いた話によれば 小学生の時に 一家で住んでいた ペルー から強制連行 ・ 強制移動させられ、遠く離れた北米の テキサス州の収容所に抑留され、そこで 1 年数ヶ月間過ごした。 1943 年 ( 昭和 18 年 ) の秋のこと、窓に ブラインドを降ろした列車に乗せられて テキサス州から ニューヨークに運ばれた。ニューヨーク港から スウェーデン ( 中立国 ) 船籍の 交換船 ( 注参照 ) に乗せられて、 ポルトガル ( 当時 中立国 ) 領の ゴア ( Goa、インド大陸西岸の港町、現 ・ インド領 ) に着いた。 そこで 日本や中国から アメリカ人抑留者を運んで来た日本船に乗り換えて、ようやく帰国できた。とのことでした。 注 1 : 交換船 戦争が始まると交戦国や国交断絶国に残された外交官 ・ 企業の駐在員 ・ 宗教関係者 ・ 研究者 ・ 留学生 ・ それらに帯同した家族などの民間人の帰国方法が問題になる。 しかし政府間の直接交渉が不可能なため、永世中立国 スイス などを仲介として 国同士が互いに 戦時交換船 や 抑留者交換船 の運航を打診し、合意に達すれば双方が中立国の港まで責任をもって相手国の人員 ・ 貨物などを輸送する。 そこで互いに乗客 ・ 貨物の交換をおこない、それぞれの母国に帰国の航海をおこなう。注意すべき点は スイスは山国なので船が無く 、それ以外の中立国の船か、あるいは自国の船を使用することになる。 下記は交換船 浅間丸が南 アフリカの ポルトガル領 ロレンソ ・ マルケル港で第 一 次の抑留者交換をする様子であり、 1942 年 ( 昭和 17 年 ) 8 月 25 日付の、 「 社団法人 日本映画社 」 による映像 「 日本 ニュース 」 である。 ( 6-6、安導券を持つ阿波丸の撃沈 ) ところが第 2 次大戦末期に安導券を持ち シンガポールから多数の在留邦人を乗せ日本へ航行していた貨客船 阿波丸 1 万 2 千 トン が、あろうことか アメリカの潜水艦により撃沈される事件が起きました。 阿波丸の安導券では、寄港地 ・ 航路 ・ 日時 ・ 大きさ ・ 形状 ・ 白十字の標示個数 ・ 夜間の灯火による十字の標示方法 ・ 速度などが事前に アメリカとの間で合意されていました。 アメリカ軍の極東所在艦艇に電信で安導券を持つ 「 阿波丸の航行情報 」 が周知 ・ 連絡されていたにもかかわらず、1945 年 4 月 1 日午後 10 時頃 台湾海峡において アメリカ 潜水艦 クィーン ・ フィッシュ により雷撃されて沈没しました。 救助されたのは戦果を確認のため潜水艦が救助した船の コック ( 下田勘太郎 ) 1 名 だけで、日本に帰国する乗客 2,130 人、船員 146 人の計 2,276人 は全て死亡 しました。 潜水艦長 ラフリン中佐は海上にあった 「 霧 」 のために阿波丸を目視確認できなかった ことにされ 、職務上の不注意により 「 戒告処分 」 を受けただけでした。ある日本人新聞記者によれば、阿波丸に対する魚雷攻撃は、 「 限りなく 故意 に近い過失 」 であった。とのことでした。 敗戦後の昭和 23 年 ( 1948 年 ) 秋、 日本政府は G H Q ( 占領軍総司令部 ) シーボルト外交局長からの 要求により 、アメリカに対する 「 阿波丸の損害賠償請求権 」 を 放棄させられ ましたが、国会決議では米国政府による 日本に対する食料援助にかんがみて 、 日本政府 自身が 阿波丸の損害賠請求権を 放棄する 形式を取りました。そして犠牲者 1 人当たり 7 万円 の見舞金を、遺族に支払いました。占領中の日本に対する アメリカからの食料援助は無料ではなく、実は 「 現物の貸与 」 つまり有料であったとして アメリカ政府は講和条約締結前に、 代金 20 億 ドル ( 当時の為替 レートで、 7,200 億円 ) の支払いを請求してきました。 となると米国政府による占領中の日本に対する 食料援助を勘案して 、阿波丸の損害賠償請求権を 放棄させられた事実は 、どう判断すればよいのでしょうか?。 戦争のため アメリカが輸出ができずに、国内で 「 余りに余っていた余剰農産物 」 を タダ でくれたのだと思い、国会では アメリカに感謝決議までしていたのに、あれは 「 貸した物 」 だから カネ を払えとは ?。 詐欺師 ・ ペテン師のする行為でした。 ( 6-7、病院船の撃沈 ) 移民とは無関係な話ですが、日本軍の病院船が アメリカの爆撃機に爆撃され沈没した事件も起きました。 ニューギニアの東にある ニュー ブリテン 島の ラバウル( Rabaul )と、そこに隣接する ココポ ( Kokopo ) から傷病兵 1,129 名 、従軍看護婦とその他便乗者 63 名を乗せ、パラオ に向かっていた 日本の病院船 「 ぶえのすあいれす丸 」 ( Buenos Aires、良い 風 「 空気 」 丸、9,625 トンがありました。 ところが 1943 年 11 月 27 日午前 8 時ごろ、 ハーグの戦争法規に違反した アメリカ軍爆撃機により爆撃を受けて沈没しました。 この船は 一目で病院船と分かるように船体を白く塗り、緑色の線を1本船首から船尾に引き、赤十字の マークを大きく甲板上や船体の各部に表示していたにも係わらず攻撃されたのでしたが、それだけではありませんでした。 救命 ボートに乗り移った遭難者に対しても飛行機から銃撃を加え、死者を出しました。敗戦後 日本国のみを処罰するために開かれた東京裁判では、 非戦闘員の大量虐殺である 原爆投下 をはじめ、連合国による ハーグ の戦争法規違反、国際法違反の残虐行為は、 裁判管轄外 ( 審理の対象外 ) として取り上げられませんでした。 これこそが 正義と文明の名 の下に 勝者が 敗者だけ を裁いた 東京裁判の本質でした。--- アメリカ人は自らの行為について、聖書に恥 じよ ---。 [ 7 : ブラジル移民 ]大正 12 年 ( 1923 年 ) 9 月 1 日 に関東大震災が起きましたが、その 2 年後に日本は 海外移住を国策 としました。その理由は国内の貧困 ・ 人口の急増 ・ 景気の悪化という三重苦が重なり、このままでは将来餓死者が出ると予想し、外国への活路を求めました。国は移住者に ブラジルまでの船賃と移民会社の手数料を支給することにしました。南米大陸に広がる ブラジル連邦共和国は百箇国以上からの移民によって構成された多民族国家であり、日本の 23 倍の国土を持ちますが、日本にとって 「 一番遠くて、近い国 」 といわれてきました。 日本から見ると地球の裏側にあり時差は 12 時間ありますが、この国には約 26 万人の日本人移民が渡り、現在日本人を祖先とする日系人は 約 140 万人 を数え、もっとも日系人の多い国となっています。その ブラジルへ日本人移民が最初に渡ったのは明治 41 年 ( 1908 年 ) 4 月のことで、第 1 回 ブラジル移民 799 人を乗せた移民船 笠戸丸 ( 6 千 トン、平均速度約 10 ノット ) で サントス港に到着しました。 最後の ブラジル移民船 が出港したのは日本の高度成長期の最中である昭和 48 年 ( 1973 年 ) 2 月 14 日、横浜港大桟橋を出港した 「 大阪商船三井 」 の移民船 「 あるぜんちな丸 、1 万 9 千 トン 」 を客船に改装した 「 にっぽん丸 」 で、日本初の世界 一周 クルーズ航海に出港しました。この 「 にっぽん丸 」 の乗船者 400 人のうち 285 人が南米移住者であり 、この人達が船による最後の日本人移民となりました。その内訳は ブラジル 222 人 ・ アルゼンチン 36 人 ・ パラグアイ 25 人 ・ ボリビア 2 人でした。 残りの 115 名は日本人の クルーズ船による世界一周の観光客 ・ 留学生などで、世の中は戦後の食うや食わずの時代から、大きく様変わりしました。ちなみに ブラジルをはじめとする南米 ( アルゼンチン ・ ペルー ・ ボリビア ・ パラグアイ ) への移民を運んだ移民船の 運航回数は、ブラジルの パウリスタ新聞の 1973 年 ( 昭和 48 年 ) 6 月 19 日付紙面によれば、 太平洋戦争以前 ( 1908 ~ 1941 年 ) は延べ 316 回、戦後 (1952 ~ 1973 年 ) は延べ 324 回 を数えました。 戦時中の運航中止を除いて 54 年間に日本からの移民船は 640 回 ブラジルへ往復したことになります。 「 にっぽん丸 」 による最後の航海以降の移住は、40 日かかった船から航空機による 2 日間の渡航の時代へと代わり、移住者の職業も農業移民から技術者移民へと変質しました。[ 8 : 朝鮮半島への移民 ]1910 年 ( 明治 43 年 ) 8 月に締結された 「 韓国併合ニ関スル条約 」 に基づいて、日本が併合した大韓帝国 ( 朝鮮 ) の領土に目を付けた日本政府は、日本人の朝鮮移住を計画し 内鮮一体化 [ ない せん いったいか、内地 ( 日本本土 ) と朝鮮を差別待遇せず 一体にする ] という スローガン を使い宣伝しました。 第 1 回朝鮮移民は明治 43 年 ( 1910 年 ) に始まりましたが、応募戸数は僅か 160 戸 に過ぎませんでした。初期の農業移民は朝鮮各地とも交通の便がまだ開かれていない所に入植したので、汽車から降りると家族 一行が荷物と共に牛車に乗り、駅からかなり離れた土地に入り込み、耐乏生活をしながら農地を開拓していきました。 しかしその後 農業移民の応募戸数は順調に伸び、第 5 回募集までの累計は 2,540 戸 となり、1 戸当たりの平均耕地面積は 1 町 7 反 ( たん ) 5 畝 ( せ ) 29 歩 ( ぶ ) 、 約 1.7 ヘクタール ( ha ) に達しました。 昔から 内地における零細農家 ・ 貧乏百姓の代名詞であった 五反 ( ごたん ) 百姓 ( 9-1 で後述、耕地面積が 0.5 ヘクタールの小作農家 ) に比べ、 約 3 倍以上 の耕地面積を持つに至りました。
農業移民はやがて米価の高騰により生活状態が好転し、 養豚 ・ 養鶏 ・ 養蚕 ・ 果樹園 ( りんご園 ) の経営 その他の多角経営 で地方の産業育成に貢献しました。 そもそも日本人農民は、朝鮮農民の 粗放農業 ( そほう のうぎょう、注参照 ) とは異なり 集約農業 ( 注参照 ) に慣れていたので、集約的多角経営によって定着し、農民は生活が向上しました。 注 : 粗方農業 ( そほう のうぎょう ) 粗方農業とは単位面積当たりの土地に対する投下資本、投下労働力が少く、土地の生産性や利用率が低い、いわば原始的農業をいう。 これと対極にあるのが集約的農業であり、単位面積当たりに投下される労働力、資本の集約度合いの高い農業形態をいう。 具体的には灌漑施設の造成、水防工事による洪水の防止、生産 ・ 共同出荷施設の建築、化学肥料 ( 金肥、きんぴ ) の施肥、 殺虫農薬の使用、必要に応じ農民相互の金融組合などに資本を注入する。このように労働力や資本力を集中的に投下する農業形態を集約農業という。日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田 ・ 良田を安価で強制購入するよりも、朝鮮半島の農民が 一顧 ( いっこ、ちょっと目にとめて見ること ) だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の開拓を行なう者が多くいました。 日本人農民の朝鮮半島開拓は、明 ・ 清 ( しん ) 王朝下で 五百年に及ぶ冊封 ( さくほう、属国の国王に封爵を授ける ) 体制にあった李氏朝鮮 ( りし ちょうせん、1392 ~ 1910 年 ) による農耕国家では、全く考えられないほどの農業革命をまき起こしました。 当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて午後は寝て暮らす、 明日は明日の風が吹く というのが 一般的な農作業の方法でした。雨や雪の日の労働を忌 ( い ) み嫌い、冬季になると室内に蟄居 ( ちっきょ、家の中に閉じこもり ) して 無為徒食する状態でした 。 朝鮮の農民にとって、日本人農民が老若男女 ( ろうにゃく なんにょ ) の差なく 家族ぐるみで農作業に従事し 、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異でした。そして日本農民の自力更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡りました。 それまで男尊女卑の風習から 朝鮮人女性は屋外で労働する習慣が無く 、屋内に隠れていて他人に顔を見せないようにしていましたが、女性の屋外勤労奨励により少しずつ田畑で働くようになり、農業移民による改良農業による収穫の増加を見た朝鮮人農民も、次第に新品種 ・ 新農法を取り入れるようになりました。 これらは 小作人に対する収奪しか知らなかった 李氏朝鮮の両班 ( やんぱん、貴族階級 )支配時代には見られなかった光景でした。 日本が 朝鮮人の土地を収奪し朝鮮を搾取した などとする左翼主義者や在日の主張 は、
( 8-1、清国 ・ 朝鮮への移民の法的地位 ) 中国の清 ( しん ) 朝鮮 への移民は、その当時 法律上移民の定義に含まれていませんでした 。その理由は明治 29 年 ( 1896 年 ) 制定の移民保護法における 移民の定義 によると、 労働ニ従事スルノ目的ヲ以テ 清 ( シン ) ・ 韓 ( カン ) 両国以外ノ外国 ニ渡航スル者及ビ其ノ家族ニシテ之ト同行シ又ハ其ノ所在地ニ渡航スル者ヲ言フとあったからで、1932 年 ( 昭和 7 年 ) 満州国建国以前の満州 ( 清の東北部 ) や、1910 年 ( 明治 43 年 ) の朝鮮併合以前の朝鮮への移民は移民保護法の適用外として、旅券発給審査を免除しました。これ以外にも清 ・ 韓 二国に行く場合の便宜政策としては、
[ 9 : 満蒙 ( まんもう ) 開拓団 ]1929 年 10 月 24 日に ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを契機として世界的な規模で、株価の暴落 ・ 金融混乱 ・ 経済活動の規模縮小が各国の経済に波及し、 世界大恐慌 が起き、「 暗黒の木曜日 」 ( Black Thursday ) と呼ばれました。その影響が日本にも押し寄せ、農村の窮乏はますます深刻になっていきました。 1931 年 ( 昭和 6 年 ) に起きた 「 満州事変 」 の結果、日本は中国大陸進出の前進基地とするため、さらに中国革命の波及を阻止する拠点として、中国東北部にある黒竜江省 ( こくりゅうこう しょう ) ・ 吉林省 ( きつりん しょう ) ・ 遼寧省 ( りょうねい しょう ) ・ 熱河省 ( ねっかしょう、現 ・ 内 モンゴル自治区 ) を統治する満州国を、1932 年 ( 昭和 7 年 ) に樹立しました。 左の地図は太平洋戦争前の中国大陸 ・ 朝鮮半島 ・ カラフトなどの勢力図であり、当時の中国では国民党の 蒋介石 ( しょうかいせき ) 率いる中華民国軍と、毛沢東の中国共産党軍との間で 内戦が行われていました 。 日本の敗戦後に共産党軍が内戦に勝利し中華民国軍は台湾に追い払われ、中華人民共和国を成立したのは 1949 年 ( 昭和 24 年 ) 10 月 1 日のことでした。 満州国は首都を新京 ( 現 ・ 長春 ) に置き、1911 年に起きた辛亥 ( しんがい ) 革命により廃帝となった、清朝 ( しんちょう、満州族 ) の第 12 代皇帝で最後の皇帝 ( ラスト ・ エンペラー ) となった愛新覚羅溥儀 ( あいしんかくら ふぎ ) を、執政 ( しっせい ) として満州国の統治に当たらせました。( 9-1、百万戸、五百万人の移民計画 ) 1936 年 ( 昭和 11 年 ) に起きた 二 ・ 二 六 事件は 、政府が疲弊 ( ひへい ) した農村の救済に無策であったという不満が背景にありました。 そこで事件後に誕生した広田弘毅 ( こうき ) 内閣は農村対策として、 20 年かけて 100 万戸、( 500 万人 ) を満州へ移民として送り込む という 一大国家 プロジェクトを計画し、陸軍と拓務省 ( たくむしょう、植民地の統治事務と海外移民事務を担当 ) が後押しすることになりました。 現在 80 歳近くの人は御存じだと思いますが、太平洋戦争前から戦中にかけて 五族 ( 日本人 、 漢人 、 朝鮮人 、 満洲人、・ 蒙古人 ) 協和 ・ 王道楽土 ( 注参照 ) の建設 という スローガンを政府が掲げ、満州国への移住促進を図りました。 注 : 王道楽土 ( おうどう らくど ) 王道 ( おうどう ) とは、 「 武力 」 により国を治める 覇道 ( はどう ) ではなく、儒家 ( じゅか、儒教の学者 ) の理想とする 仁 ・ 徳に基づく政治をおこなうこと であり、古代中国の 魯 ( ろ ) の思想家であった孟子 ( もうし、紀元前 372 ~ 前 289 年 ) により大成された思想に基づく統治方法をいう。 楽土 ( らくど ) とは、王道により政治が行われる 平和で理想的な土地 のことをいう。狭い農地を耕し人口増加による生活苦にあえぐ日本国内の 五反百姓 ( 注参照 ) の次男以下や、耕地の乏しい山村などの人たちを 満州に分村させる ために、 「 満蒙開拓団 」 ( まんもう かいたくだん ) が組織され、満州や内蒙古 ( ないもうこ、現 ・ モンゴル東部 ) に開拓移民として送り出すことにしました。 それにより内地の農村窮乏を緩和する一助にすると共に、満州における土地を日本人農業人口の面でも固め、合わせて関東軍の戦力補強にも役立つ重要な方策とされました。 満州に農業移住すれば、一戸当たり 20 町歩 ( 20 ヘクタール、ha ) の土地がもらえるとの 勧誘の言葉に惹( ひ ) かれて---。 注 : 五反百姓 ( ごたん びゃくしょう ) とは 五反( ごたん ) とは農地面積 0.5 ヘクタール( ha )= 50 アール ( a ) のことで、坪数にすれば 1,500 坪のことです。 五反百姓 とは昔から 「 零細農家 」 ・ 「 貧乏百姓 」 の代名刺でした。その五反百姓の一家や次男、三男以下などを、農業移民に勧誘したのでした。 それと共に昭和 13 年 ( 1938 年 ) 1 月に 満蒙だった開拓青少年義勇軍を設立し、15 歳から19 歳までの少年を対象にして、建国したばかりの満州に広がる未墾の地に青少年を送り出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊な農村を築きあげ、日本と満州の一体、民族協和の実をあげる事にありました。 茨城県 東茨城郡 内原町 ( 現 ・ 水戸市 内原町 ) に 「 内原訓練所 」 を設け、そこで2~3ヶ月間の訓練をした後に満蒙に送り出し、農業実習のかたわら 「 兵士予備軍 」 として軍事訓練を受け、主に ソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれましたが、入植者総数は 86,530 名でした 。 下記の ユー チューブ 映像は 49 分と長いので、時間の無い方は、最初と最後の部分だけ御覧下さい。 ( 9-2、満蒙開拓団等送り出し人数 ) 下表は満蒙開拓団及び満蒙開拓青少年義勇軍として満蒙の地に赴いた人数ですが、山国からの出身者が多いことが分かります。自発的に希望して移民に応じた人もいる反面、周囲の圧力や人間関係から移民を選択した人も以外に多く、トップ 10 位の 高知県では 高岡郡 ・ 十川村 ( 現 ・ 四万十町 ) のように 「 くじ引き 」 で移民を選んだ村もありました。 なお東京が トップ 9 位に位置したのは、植民都市 ・ 東京の生活で落ちこぼれた地方出身者を対象に多摩川農民訓練所を設立し、 最底辺の労働予備軍 ( ルンペン、Lumpen、ボロな服を意味するドイツ語から、それをまとった 浮浪者 ・ 失業者 ・ 乞食、現在で言えば ホームレス など ) を集めて農業訓練し、満州農業移民として送り出したためでした。 訓練所があった場所は東京都 大田区の J R 蒲田駅 ・ 西口から発着する 東急多摩川線 で二つ目の駅 「 武蔵新田 」 から徒歩10分、多摩川の岸近くの 現 ・ 大田区 下丸子 2 丁目 30 番 付近でした。
[ 10 : 友達のこと ]国木田独歩 ( くにきだ どっぽ、1871 ~ 1908 年 ) の短編小説に 「 忘れ得ぬ人々 」 がありますが、これから述べるのは小学生の時に同級生だった子供のことであり、別に記憶 しようとしたわけでもないのに、「 満州 」 の言葉を聞くと、なぜか思い出しました。私が昭和 15 年 ( 1940 年 ) に入学した小学校は、東京市 ( 当時 ) 豊島区 巣鴨の仰高北( ぎょうこう きた ) 小学校でした。私たちが戦争末期の昭和 19 年 ( 1944 年 ) の 8 月に長野県の山中の寺に 学童集団疎開 をした留守中の、昭和 20 年 4 月 13 日に東京大空襲があり、学校を含む周辺 一帯が焼け野原になりました。 その小学校の 2 年生の時に教室で隣の席に座っていたのが、「 斉藤 みどり 」 という女の子でした。ところが、 その子が満州 ( まんしゅう、現 ・ 中国東北部 ) という所に引越すことになり 教室に来てお別れの挨拶をしました。「 みどり 」 ちゃんのお父さんは警察官でしたが、今度満州に行くことになり、そこでも警察官の仕事をするとのことでした。
満州がどこにあるのか当時は知りませんでしたが、仲良しの級友と別れることは子供心にも寂しいことでした。満州への引越 しから 4 年後に敗戦となり警察官の子供だった 「 みどり 」 ちゃんが、満州でどんな運命をたどったのか知る同級生は誰もいませんでした。無事に帰国できて元気でいれば、今年 八十二 歳 になるはずです。 ( 10-1、中川村、分村の場合 ) 私は敗戦の翌年 ( 1946 年、昭和 21 年 ) の春に小学校を卒業すると、埼玉県 秩父市の 「 旧制中学 」 ( 後に 六 ・ 三制の教育改革により、新制高校の併設中学に改称 ) に入学しましたが、その近くに 1943 年 ( 昭和 18 年 ) に 旧 ・ 中川村と 旧 ・ 白川村を合併してできた 荒川村 がありました。 中川村は元々 米の収穫に乏しい山国 秩父の西のはずれにあるために耕作地には恵まれず、養蚕による生糸の生産を 経済基盤にしていましたが、1929 年の ウォール街の株の暴落をきっかけとする世界経済恐慌 ( きょうこう、パニック状態 ) の影響をまともに受けました。 生糸の輸出先であった米国では、奢侈品 ( しゃしひん、ぜいたく品 ) である生糸の需要が大幅に減ったため、価格が 半分に暴落して大損害を受けた ので、( 経済的に ) 特別助成村に指定されていました。 貧困と人口過多にあえぐ中川村では村の将来のために 満州に分村する ことを決め、 135 世帯、 593 名を分村移民 として満洲に送り出しました。 ハルビン ( Harbin 、黒龍江省の省都 ) 訓練所では農耕や建築の知識を蓄えるだけでなく、現地人から農業技術を学ぶために中国語の勉強を行いました。実際、中川村分村に入植した後、農業生産には現地人の協力が不可欠でした。 ( 10-2、小作人から地主へ変身 ) 満州国へ渡った移民たちが入植した土地は未開墾の原野ではなく、大部分がすでに開墾された土地であり、日本では想像できなかった広大な農地を入手できました。その理由は満州国では日本から大量の農業移民が来るというので、彼らの入植地の確保が急務となりました。 そこで 「 満州拓殖公社 」 を設立し、現地人 ( 満州人 ・ 中国人 ) が持つ農地を安値で半強制的に買収するという安易な方法を採り、それを日本の農業移民たちに割り当てました。 日本では耕作地の不足に苦しんできた彼らは、1 戸当たり 20 町歩 ( 20 ヘクタール ) という広大な農地を手にすると、自分たちの労働力に見合った分の農地を耕し、それ以外の農地は 土地を買い取られて失った現地人を小作人として使用することにより、たちまち地主化して行きました。 最初は短期間で終わると思われていた日中戦争はどろ沼の戦いとなり、農村の成年男子の不足から 1938 年 ( 昭和 13 年 ) からは満蒙開拓青少年義勇軍が創設され、ソ連との国境付近に送られました。 さらに若い義勇隊員や開拓団員の満州定着を図るために、今度は若い女性たちが 「 大陸の花嫁 」 として満州へ渡っていきました。 [ 11 : 敗戦による逃避行 ]埼玉県の秩父で私が住んでいた家は 市役所のある公園のそばで、最寄りの駅は 秩父鉄道の 「 御花畑駅 」 でした。そこから下り方向へ 三つ目の駅に 「 武州中川駅 」 があり、四つ目の駅は 「 武州日野駅 」 でした。 「 武州中川駅 」 の近くには 樹齢 600 年の 「 しだれ桜 」 のある 清雲寺 [ 現 ・ 秩父市 荒川 上田野 ( 旧 ・ 荒川村 ) ] がありますが、その寺には昭和 28 年 ( 1953 年 ) に建てられた荒川村 ( 旧 ・ 中川村 を合併 ) の満州分村開拓団の 慰霊碑 があります。 また 「 武州日野駅 」 の近くの浅間神社には、旧 ・ 中川村開拓団の 拓魂碑 ( たくこんひ ) があります。 国策に沿って満州に分村移民した荒川村 ( 旧 中川村 と 旧 白川村を合併 ) の分村移民たちが住む満州開拓地に、 1946 年 ( 昭和 21 年 ) 4 月まで有効であった 日 ・ ソ 中立条約に違反 して、 ソ連 ( ロシア ) の大軍が 8 月 9 日に戦車を伴い突然 不法侵攻したために 戦場を逃げまどうことになり、多くの犠牲者を出したことが記されていました。 下記の中川村開拓団 拓魂碑にある碑文の ( ) 内は、管理人が記したものです。昭和 14 年 ( 1939 年 ) 旧 中川村 ・ 旧 白川村合計 794 名 で満州に分村移民しましたが、死者 ・ 行方不明者 518 名 を出して分村移民 ( 開拓団 ) は悲惨な結末を迎えました。 死亡率 65.2パーセント 、生きて故郷の土を踏んだ者は 276 名、 34.8 パーセントに過ぎませんでした。 ( 11-1、 満州母子地蔵 ) 日本の敗戦間近の 1945 年 ( 昭和 20 年 ) 5 月、つまり敗戦の僅か 3 ヶ月前にも、日本から 満蒙開拓団が 「 満州国 」 へ出発して行きましたが、開拓団員に対しては危険情報というものが全く知らされていませんでした。 それだけでなく満州方面に配備されていた関東軍は、ソ連の参戦が迫ると満州国の南東部で持久戦闘を展開するため、在留邦人・ 農業移民を現地に残したまま密かに南下を始めましたが、ソ連に気付かれるのを恐れて、民間人には情報を一切与えませんでした。 日ソ中立条約に違反して ソ連軍が満州国に侵入攻撃すると、ソ連軍の南下を遅らせるために満州国内の河川に架かる鉄道の鉄橋を爆破させました。日本人避難民を乗せた列車が南下中であったにもかかわらずです。 開拓団員たちは広野に取り残され 徒歩での避難をおこない、途中でソ連兵による 「 略奪 」 ・ 「 暴行 」 ・ 「 強姦 」、満州人 ( 中国人 ) による襲撃 ・ 迫害などで、開拓団は多くの犠牲者を出しました。それに加え飢えと寒さにより、多くの子供 ・ 女性を含む人々が命を落としました。 東京 浅草にある浅草寺の入り口にある雷門と本堂との中間にある宝蔵門の右横に、 「 奉納 母子地蔵尊 」 と記された赤い幟 ( のぼり ) が立つ区画があります。 そこには 「 まんしゅう母子地蔵 」 が安置されていますが、下記の建立 ( こんりゅう ) 由来が記されていました。
( 11-2、 根本中将の例外 ) 日本の陸軍には創設以来 「 在留邦人 = 国民 の生命 ・ 財産の保護 」 の考えなど、 全く存在せず 、彼らにとって国民とは 「 作戦行動の邪魔者 」 に しか過ぎませんでした、唯一 の例外を除いて--- 。 注 : その例外とは 日本が 1945 年 8 月 15 日に ポツダム宣言を受諾する 6 日前の 8 月 9 日から、満洲国に侵攻してきた ソ連軍による日本人移民に対する略奪 ・ 暴行 ・ 虐殺が伝えられていたため、内蒙古 ( モンゴル ) を警備区域に持つ駐蒙軍司令官 根本博 陸軍中将は 在留日本人 4 万人を保護するため 、敗戦後も大本営からの 武装解除命令には従いませんでした 。理由の如何を問わず、陣地に侵入する ソ連軍 を断乎撃滅すべ し。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負うと部下に命令して8月15日、16日に侵攻してきたソ連軍と激しい戦闘をした結果、ソ連軍は戦車 15 輌を破壊された末に退却していきました。 その後在留邦人全員 ( 4 万人 ) を安全地帯の天津まで護衛付きで貨車輸送し、日本に無事に帰還させましたが、根本中将指揮下の軍隊 だけが北東 アジアにおいて在留邦人を守った例外でした。 [ 12 : 移出民と移入民 ]外務省の発表によれば、平成 26 年 ( 2014 年 ) 10 月 1 日現在の集計で、わが国の領土 外 に在留する 日本人( 前述した 移出民 ) の総数は、 129 万 175 人 で、本統計を開始した昭和 43 年 ( 1968 年 ) 以降最多となりました。 このうち、「 長期滞在者 」( 3ヶ月以上の海外在留者のうち、海外での生活は 一時的なもので、いずれわが国に戻るつもりの邦人 )は 85万 3,687 人 で在留邦人全体の約 66 % を占め、「永住者」( 当該在留国等より永住権を認められており、生活の本拠をわが国から海外へ移した邦人 ) は 43 万 6,488 人となっています。 これに対して法務省が平成 26 年 3 月 20 日に発表した データ ( 移入民 ) によれば、平成 25 年末現在における在留外国人数は、 206 万 6,445 人 でした。 なお 1991 年 ( 平成 3 年 ) の 入管特別法施行により 、在日韓国 ・ 朝鮮人は子孫に至るまで 特別永住者として 「 日本では認めない二重国籍者 」 と同様の権利( 永住権 ) が認められましたが、在日は 「 強制連行の被害者 」 であるとする、虚偽の主張 に対する私の見解は、
太平洋戦争中を除き、戦前は 1908 年 ( 明治 41 年 ) から、戦後は 1952 年 ( 昭和 27 年 ) から 1973 年 ( 昭和 48 年 ) にかけて、ブラジルは主な移民先であり 26 万人が移民しましたが、その ブラジルからも、 18 万人もの日系 ブラジル人 たちが 「 出稼ぎ移民 」 に来る世の中になりました。 時代が変わったことを感じるのは、私だけでしょうか! 。 さらにこの表から言えることは、日本に在留する外国人数のトップを占めるのは、もはや在日ではなく中国人にとって変わり、統計上 在留外国人のうち 三 人に 一人は中国人であり、四 人に 一人は在日になりました 。 [ 13 : 最後に、犯罪目的での来日 ]警察庁 刑事局 組織犯罪対策部 の発表による 平成 25 年の来日外国人犯罪統計 によれば、国籍別の 検挙人員は 、
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