日系人強制収容所
[ 1 : 大統領行政命令、第 9066 号 ]日本とアメリカとの間に戦争の危機が高まった昭和 16 年 ( 1941 年 ) 初め、アメリカ政府は国内に居住する日本人を先祖に持つ( Japanese Ancestry )日系人に対して、住所 ・ 氏名 ・ 職業などの登録義務を課すと共に、万一の事態に備えて日系人の 名簿を作成しましたが、開戦と同時にその名簿に基づき指導的地位にあった日系人を次々に逮捕しました。
開戦から 2 ヶ月後の 1942 年 2 月 1 9日には第 32 代大統領 フランクリン ・ デラノ ・ ルーズベルト は大統領行政命令 第 9066 号を公布して、 約 12 万名 の アメリカ在住の日系人を、アメリカ国内の僻地に設けられた 10箇所の強制収容所 に収容しましたが、 その三分の二は アメリカの市民権 を持つ者であり、しかも半分以上は子供たちでした。 写真は識別札を着けさせられた、日系人の持田さんの一家ですが、同じ敵国でも ドイツ系、イタリア系の市民には、この措置は 適用されませんでした。
[ 2 : 人種差別主義と、祖父の 恥ずべき蓄財方法 ]かつて オランダは Dutch East Indies [ 蘭印 ( らんいん )、または蘭領 ( らんりょう ) 東 インド ] と呼ばれていた ジャワ ( 現在の インドネシア )を、 350 年 にわたって苛酷な植民地支配を続けました。 その オランダ系移民 の子孫であり、 人種差別主義者 の フランクリン ・ デラノ ・ ルーズベルト ( 大統領 )が、 日系人を嫌い 隔離政策を取った からでした。18 世紀中頃から イギリスの東 インド会社 ( The British East India Company ) が、インド産 アヘンを中国に売り込む アヘン貿易により莫大な利益を上げましたが、これを見た アメリカも、トルコ産の アヘンで中国との アヘン貿易に参入して大きな利益を得ました。 その主役を務めたのが 1823 年に米国で設立された アヘン を専門に取り扱う商社の ラッセル ・ アンド ・ カンパニー ( Russell & Company ) でした。平成 9年 ( 1997年 ) 6月 28日の ニューヨーク ・ タイムズ紙に カール ・ マイヤー が書いた アヘン戦争の記事によれば、
大統領になった ルーズベルト ( 在任期間 1933年 〜 1945年 ) の狙いは、祖父の代に アヘン貿易により味を占めた 中国に対する アメリカの利権獲得 が 最大の目標 でした。 その旨味のある市場に対して アメリカを差し置いて有色人種の日本が進出し、昭和 6年 ( 1931 年 ) には革命により廃位させられた清朝最後の王、溥儀 ( ふぎ )を元首にして、中国東北部に満州国 ( 日本の植民地国家 ) を設立しましたが、権益獲得に先を越された彼が 日本 ( と日系人 ) に対して、 強い 怒りと敵意を持った ことが容易に想像されました。今では 出版物などにより日系人強制収容の事は広く知られていますが、占領下の日本ではもちろんのこと、日本が独立した昭和 27 年( 195 2年 )以後も、この事実が日本人に知られるようになるまでには、かなりの年月がかかりました。
[ 3 : 日本の水 ]私がこのことを知ったのは昭和 30 年 ( 1955 年 ) の秋に、海上保安大学の練習船に乗り、 遠洋航海に行った時のことでした。ハワイの ホノルル港にある アロハ ・ タワー近くの桟橋に着くと、日系人が大勢水筒を持って船を訪れましたが、東京港で船の真水 タンクに補給した水、つまり 「 日本の水 」 を、母国日本への懐かしさから もらいに来て、水道の蛇口から水筒に詰めていました。 当時の日本は米軍による占領から独立後僅か 3 年しか経過せず、貿易収支が毎年赤字のために外貨不足の状態で海外旅行も自由化されず、日本から訪れる者も公用旅行者か日本船の乗組員に限られていたために、日系人達は祖国日本とのつながりを求めていました。
我々学生は日系人の団体や県人会などから連日招待を受けましたが、ある宴会の席で向かい合って座った群馬県出身で浄土真宗の住職をしていた人から、移民当時の苦労話をはじめ太平洋戦争中の話を聞きました。 それによると開戦と同時に FB I によって逮捕連行され、メインランド ( Main Land 、ハワイの人々は アメリカ本土のことをこう言います ) の テキサス州南部のメキシコ国境に近い、 クリスタル ・ シティー ( Crystal City )にある司法省管轄の収容所に強制収容されたことを初めて聞きました。写真の赤印は、53 年まえの紅顔可憐な (?)私です。
[ 4 : ハワイへの移民 ]ハワイの移民史をみると必ず 元年者 ( がんねんもの )という言葉が出てきますが、これは当時独立国でした ハワイ王国と徳川幕府との間に結ばれた和親条約 ( 1867年 ) に基づいて、日本人が正式に ハワイに移民をしましたが、明治元年 ( 1868年 ) に写真の サイオト号 に乗り、移民をした第1陣、 148名 ( 153名の資料もあり ) のことでした。 188 年 ( 明治18年 )からは 日本国と ハワイ王国との約束事による移民と言う意味から、 官約移民 と呼ばれた移民がおこなわれ、移民再開の 第 1 陣 946 名 が客船の シテイ ・ オブ ・ トウキョウ号で ハワイに到着しました。その中には山口県出身者が 420 名、広島県人は 222 名 いましたが、その後も両県出身者が ハワイ移民の中で多数を占めました。
ちなみに シティ ・ オブ ・ トキョウ などの名前は、日本航空が昭和29年(1954年)に国際線に進出した時の飛行機である D C−6 B にも シテイ ・ オブ ・ キョウト、オオサカ、ナラ などのように名付けられました。 遠洋航海から帰国して翌年 4月に海上自衛隊の幹部候補生学校に入りましたが、9ヶ月後の昭和 32 年 (1957年 )1月に仮卒業のまま、アメリカ海軍飛行学校へ留学するため、羽田空港から プロペラ機の シティ ・ オブ ・ トウキョウに乗り渡米しました。 今の ジェット機に比べて半分の スピードで、半分以下の低い高度を飛び、しかも東京から 北米 西海岸の都市には直行できずに、燃料補給のために、7 時間の距離にある太平洋上の ウェーキ島 ( Wake Island、北緯19度17分、東経166度38分 ) と、さらに 8 時間かけて ハワイ の ホノルルにも立ち寄り、合計 24 時間かかって サンフランシスコに着きましたが、50 年以上まえのことでした。
太平洋戦争開戦当時の ハワイ諸島では 総人口 43万人の 三分の一 以上 は日系人で占めていましたが、オアフ島にある パールハーバー( 真珠湾 )が日本海軍の飛行機により攻撃されると、米軍はかねてから用意しておいた ブラック・リストと写真をもとに、FBI、警察、憲兵を動員してその日の午後 4 時から日系人指導者の逮捕を始め、深夜までに数十名を逮捕しました。写真は炎上する戦艦 バージニアです。 その後も逮捕が続き日系人社会において指導的立場にあった 日系人会幹部、日本語新聞社幹部、日本語学校校長、仏教関係指導者などの、数百名が逮捕されましたが、戦時中にはその数は 2千名にのぼっりましたが、その 三分の二 が 一世で、残りが 帰米組 と呼ばれた少年期に日本に留学経験を持つ 二世たちでした。 彼等は取り調べの際に白人係官から何の罪も犯していないにもかかわらず、 殴る蹴るの暴行を加えられ 、理由も告げられずに長期拘留されるなどの 非人道的な処遇を受けた者 もいましたが、スパイ行為や破壊活動で起訴された者は誰もおらず、数百人が釈放されました。 しかし指導層の日系人は米国本土に移送され強制収容所に収容されましたが、その数は 700名 にのぼりました。
[ 5 : 敵性外国人 ]真珠湾攻撃を受けると大統領 ルーズベルトは、ただちに 大統領布告 第 2525号 を発しましたが、それによれば、現在わが国に在留し、いまだ帰化していない 14 才以上の日本人を、以後 敵性外国人 と呼称するとありましたが、これを読む限り米国にすでに帰化した日系一世や米国の市民権を持つ二世、三世は 対象外に思われますが、実際にはそうではありませんでした。西部防衛軍管区司令官 デウイット中将は
日系人は 敵国人種 であり、たとえ アメリカで生まれ、その市民権を有する二世、三世の多くがいかに アメリカ社会に同化しているとしても、その 人種的 血縁が断ち切れるわけではない。 現在太平洋岸には、11 万 2 千人もの 潜在敵である日系人 が野放しになっている。彼等は組織化され、好機到れば 一致団結して行動できる準備を整えている兆候がある。と述べました。ハワイの真珠湾攻撃による大損害が 軍関係者にもたらした恐怖心、猜疑心、一般大衆の病的興奮、政治家の責任逃れの発言 ( 注参照 ) や、捏造報道をして世論を扇動する「 イエロー ・ ジャーナリズム 」としても有名な ハースト系新聞 のでたらめ記事などにより引き起こされた世論などにより 、前述した大統領行政命令第 9066号が公布されました。それによれば、
軍司令官に対して、適宜、 必要と判断する 場所 を軍事地域に指定し、そこからその 居住者のいかなる者 をも 排除 する ( exclude )権限を付与する。 と記されていましたが、軍事上の必要性(?)を理由に掲げて日系人を狙い撃ちにしたことは明らかで、ロサンゼルス市内で雑貨店を営んでいた者も、広大な農場の中の1軒屋で農業に従事していた者についても、 その場所が 軍事地域に指定 され、立ち退かされて強制収容所へ収容されました。写真は軍隊の監視下で輸送列車を待つ日系人。
注:) 日本軍による攻撃の際に、極めて効果的な 第 5 列の活動 ( つまり日本を支援するスパイ活動 ) があったこと、( だから日本軍の攻撃が成功したのだ )、それゆえにアメリカの市民権を有する者を含めて、全日系人の ハワイ諸島からの排除が必要である旨の発言をしましたが、これは日本軍がもたらした損害の大きさに驚き、 海軍長官としての 自らの責任を回避するための 作り話でした 。 大統領行政命令 9066 号の公布 1ヶ月後には 軍令違反処罰法 ( 公法第503号、1942年3月21日 )が出されて、大統領行政命令違反者にたいする刑罰が規定されました。
[ 6 : 法的根拠の欠落 ]前述した大統領行政命令 第 9066 号及びこの法律が軍に求めたものは、 日系人の指定軍事地域からの 排除 だけであり、 拘留 を含むものではありませんでした。日系人 12 万人に対する強制収容所における集団拘留は、なんら犯罪の容疑事実もなく、正規の法的手続きを踏むこともなしに、 国の防衛に潜在的危険性がある という理由でおこなわれました。 軍事上の必要性を 口実にすれば、なんでもできる という考えが軍と政府首脳部にあったからであり、これは法に基づかない 集団的な予防拘留であり、明らかに 法と正義に違反した権力の乱用 でした。
これに関連して、似たような事柄が起きました。 ニューヨークの W T C ( 世界貿易 センター ・ ビル )に対する 9 ・ 11の自爆 テロ以後の イラク戦争で、アルカイダの容疑者として逮捕された多数の イスラム教徒や イラク人、アフガン人、パキスタン人などが、キューバ 東端にある グアンタナモ( Guantanamo )アメリカ海軍基地内で、 裁判も受けずに 長期間拘留されているのは周知の事実です。 そこは私がアメリカ海軍飛行学校に在学中の 1958 年 ( 昭和 33 年 )に、テキサス州から10 時間洋上飛行して中米の パナマ運河地帯( Panama Canal zone )へ行った卒業飛行の帰途に訪れた場所でもありましたが、当時は腐敗堕落した親米派の バチスタ政権と、フィデル ・ カストロを指導者とする キューバ革命軍との間に戦闘がおこなわれていて、基地外への外出は禁止されていました。 ところでアメリカの白人は、自分が被害者になると 大声で人権侵害を叫ぶ ものの、加害者の立場になると外国人に対してはもちろんのこと、自国の少数民族である黒人や日系人に対する人権侵害にも、 極めて冷淡な態度を取るのです。 子供の頃に占領軍から教え込まれた 自由と平等の国 アメリカ の 真の姿を、50 年前に渡米して初めて見た私は 、建前と本音の余りにも違いの大きさに驚かされましたが、日系人に対する人種差別や強制連行、強制収容所の実態については、下記の動画がすべてを物語っています。 Japs keep moving とは、ジャップはここに留まらずに他所に行け、This is a White man`s neighborhood ( Land )とは、ここは白人の住む地域 ( 土地 )だ、の意味です。
[ 7 : 忠誠登録審査 ]1943 年 ( 昭和 18 年 ) 初めには、米国本土に対する 日本の軍事的脅威がなくなった ので、アメリカ政府は 2 月〜 3 月にかけて強制収容所に収容中の 17 才以上の日系人を対象にして、アメリカに忠誠を誓うかどうかの審査をすることにしました。その年の 2 月から始まった忠誠登録用紙に記載された 42 の質問のうち下記の質問内容が収容者の激しい怒りをかいました。
合衆国改定法令集、第 30 章 [ 帰化 、 Naturalization ] 本章の規定は、自由 ( Free 、つまり奴隷ではない ) 白人の外国人 と、アフリカ生まれの外国人、および アフリカ人を祖先とする者に適用される。とあり、黄色人種については一切言及していません。そのことから黄色人種である日系人は 帰化不能外国人 とされ、1924 年 ( 大正 13 年 )にアメリカ連邦議会は移民法を改正し、「 帰化不能の外国人の移民を認めない 」 という、いわゆる 日系人排斥条項 を加えました。 アメリカ政府も忠誠登録審査における質問内容と日系人が置かれた現実の立場、処遇に 矛盾を認め 、日系人の主張に理解を示した結果、第1項の質問内容を次のように 「 無条件の忠誠 」 から 「 妨害行動をしない 」 に変更しました。
あなたは、合衆国の法律を遵守し、合衆国の戦争努力を 妨害するような行動 をとらないことを誓いますかその結果日系人の忠誠登録の騒動は収まり、結局 17 才以上の登録対象者 77,957 名中 87 パーセントに当たる、 68,018 人 が アメリカに対して無条件忠誠 ( あるいは戦争努力に対する妨害行動をしないこと )を誓いましたが、その日系人たちには兵役に就くことを認め、ここから日系収容者に対する兵役が スタートし、後述する 二世たちの 100 大隊や 442 部隊の編成につながりました。 しかし市民権を持ちながら アメリカによって 自由と権利そして自尊心 を踏みにじられた 日系人の中には、 アメリカへの忠誠を誓うことを拒否した人や、市民権を放棄した人、忠誠ではないと判断された人たち 9 千人 がいました。 彼等は 1 万 8 千人の収容能力がある最大の日系人強制収容所である ツール ・ レーク収容所に移動させられました。そこはひときわ高い鉄条網の壁が設けられ、周辺には戦車 6 台が配備され厳重に警備された収容所でした。
彼等は敗戦の翌月から翌年、昭和 21 年 ( 1946 年 ) 3 月に強制収容所が閉鎖されるまでの間に解放され、その後はもとの アメリカの出身地などに帰りましたが、市民権を放棄した日系人や アメリカに対する忠誠を拒否した市民権を持たない者など数千人は、外交用語でいうところの 「 好ましからざる人物 」 ( ペルソナ ・ ノン ・ グラタ、Persona non grata ) の烙印を押されて日本に送還されました。 しかし市民権を持つ 忠誠拒否 グループの 5 百人 は、 メキシコ国境近くにあった前述の クリスタル ・ シティー の司法省収容所 ( 上の写真 )に再び隔離されました。ここで更に 二年間抑留されたのち釈放されました。
[ 8:日系人の国籍 ]ご存じのように国籍の決め方には 属人 ( 血統 )主義と、属地 ( 出生地 )主義 がありますが、属人主義 ( 血統主義 ) を採る日本の国籍法第 2 条によれば、子は左の場合には、日本国民とする
そのために 192 4年 ( 大正 13 年 )以前に アメリカや ハワイ生まれの日系二世は、生まれながらにして 二重国籍を持つようになりました。しかも日本国籍を放棄することができたのは 18 才までであり、それ以後は 37 才になるまで日本国籍の放棄は認められませんでしたが、その理由は満 20 才からの 日本の兵役義務 があったからでした。 その後 1924 年に国籍法が改正され、1924 年 12 月 1 日以前に生まれた日系二世は 内務省 ( 在外公館経由で ) に届けを提出すれば、年齢にかかわらず日本国籍の放棄が可能となり、子供に関しても誕生後 2 週間以内に親が在外公館に出生届を 提出しない場合には 日本国籍は付与されずに、自動的に アメリカ国籍( U.S. Citizenship、市民権 )だけを持つようになりました。
[ 9 : 日系 100 大隊、442 連隊 ]太平洋戦争が始まると千数百人いた日系の徴兵や志願の兵士はすぐに 「 敵性外国人 」 に分類され、オアフ島にあった スコフィールド基地に集められて隔離され、武器も取り上げられて労働隊に編成されました。 軍の基地で働く日系人労働者は、明日から来なくてもよいと解雇されました。しかし 二世にとって彼等の祖国は アメリカなので、アメリカへの忠誠心を証明するために自分達に兵役の任務を与えてくれるように何度も陸軍当局に嘆願した結果、1943 年 1 月に日系人部隊の編成がおこなわれました。もともとは ハワイで編成され 1,300 人程度であった第 100 大隊は、ヨロッパー戦線に投入されて奮闘し 900 名以上もの死傷者を出したために、本土の 二世部隊である第 442 連隊に編入されました。その後 442 連隊は 680 名が戦死し、67 名が M I A 、( Missing In Action 、 戦闘中行方不明 )となり、交代補充兵を含めて 9,486名が戦傷 を負いました。 その結果 442 部隊は 「 個人勲章獲得総数 18,000 個 ・ 全米軍の部隊中 1 位 」、「 累積死傷率 320 パーセント ・ 全米軍の部隊中 1 位 」、「 名誉負傷勲章獲得者 6,700名 ・ 全米軍、部隊中 1 位 ( 1人あたり平均 2 個 )」という 前代未聞の勇敢さを示す大記録 をうち立てました。 戦争終了後の トルーマン大統領の国民に向けておこなった演説の中でも、 と述べましたが、 二世たちが戦った 真の相手とは 、 アメリカにおける人種差別 でした。写真は 442 連隊を視察する当時の トルーマン大統領。 ちなみに当時の ハワイは有色人種の日系人が多いために、 「 州 」 への昇格ができずに、現在の プエルトリコ、北 マリアナ諸島 ( サイパン、テニアン、ロタ島 )、グアム などと同様に、一応自治権が与えられたものの限定的であり、連邦政府が強い権限を持つ 「 準州 、organized territory( 自治的領域 )」 でした。 その ハワイが州に昇格したのは昭和 34 年( 1959 年 ) のことであり、49 番目の アラスカ州に次いで 50 番目に昇格しましたが、その陰には前述した日系二世の若者で編成された100 大隊や 442 部隊 の隊員達が Go for Broke ( 注参照 )を合い言葉に、祖国 アメリカに対する強い忠誠心を発揮して ヨーロッパ戦線で アメリカのために戦い、多数の兵士達が戦死したことによる多大な貢献と高い功績があったからでした。
注:)
[ 10:人種の罪 ]戦時再定住 センター( War Relocation center ) という名前の日系人に対する強制収容所は日本の敗戦 ( 1945 年 ) により閉鎖されましたが、収容者 12 万人のうち、強制収容前に住んでいた西海岸に戻ることができたのはその半数の 5 万 4 千人でした。他所 ( ハワイを含む ) に定住の地を求めたのは 5 万 3 千人でしたが、その内の 二割までが労働需要が多く、人種的偏見の少ない シカゴ を中心とする イリノイ 州に集中しました。
写真左は カリフォルニア州の マーセドにあった日系人集結 センター( Assembly center ) に最初収容され、そこから コロラド州 グラナダにある戦時再定住センター( 強制収容所 ) に移送された日系人たちが、ここから出征して戦死した 二世兵士や抑留中に病死した人々のための慰霊碑を、収容所閉鎖に先立ち、昭和 20 年 ( 1945年 ) 9 月に建てたものです。
同じく右は 1 万人の日系人が抑留されていた、カリフォルニア州の マンザナール 強制収容所に建てられたものですが、 全米で 16,000人 の息子たち ( 日系二世兵士 ) がハワイから、あるいは 10 箇所の強制収容所から兵役に志願して、祖国 アメリカのために命がけで敵と戦いました。
しかし 680 名が戦死 し、9,486 名が戦傷 を負っている間も、その親たちは日系人であることの罪、つまり 人種の罪 ( Racial Sin ) を着せられて 強制収容所に抑留されたままでした その後 1983 年 ( 昭和 58 年 ) に連邦議会に設置された 「 日系 アメリカ人の排除と拘禁に関する調査委員会 」は、全員一致で日系人の強制収容を人種的な偏見と戦時の ヒステリー状況、及び政治指導層の失敗により引き起こされたものであり、軍事上も強制収容する正当性はなかったと結論づけました。 [ 11 : 大統領の謝罪と補償 ]1988 年に、当時の ロナルド ・ レーガン大統領は、日系人強制収容措置を 深刻な不法行為 であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元日系収容者に対して、1 人当たり 2 万 ドル ( 200万円 ) の賠償金を支払うことを決定しました。しかし反対する議員も多く、実際に支払われたのは 1990 年 10 月 9 日からでした。2 万ドル( 200 万円 )の小切手に添えられた ブッシュ大統領署名の謝罪文には
( 前略 )心からの謝罪を表明し、償いをなす法律を制定することによって、あなたがたの仲間である アメリカ国民は、自由と平等と正義という アメリカの伝統的理想に邁進しようという決意を新たにしたのです。( 後略 )これはあくまでも 生存中の日系アメリカ人、( つまり自国民 ) に対してだけ支払われたものであり、有色人種であるがゆえに前述の 帰化不能外国人とされ 、抑留された永住権を持つ日系一世は対象外でした。
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