勝 海 舟 の こ と
[ 1、は じ め に ]勝 海舟 の 名前を聞 いて す ぐ に 思 い出すのは、 神戸出身 の 台湾系 華 僑 で 日本に 帰 化 した 「 歴 史 著 述 家 」 で 直木賞 作家 の 、 陳 舜 臣 ( ち ん し ゅ ん し ん、2015 年 に 9 0 歳 で 没 ) の 言 葉 である。「 歴 史 は 勝 者 に よ っ て 書 か れ る 」 も の だ が、特 に 正 史 で は 勝 者 に 有 利 な 記 述 が 行 わ れ る 傾 向 にあるため、 敗 者 の 歴 史 記 述 や 秘 匿 ( ひ と く ) された 文 書 、または 正 史 でも 勝 者 に 不 利 なものや 反 省 を 含 んで 記 述 された 箇 所 の 方 が 比 較 的 信 頼 に 足 る 。と 述 べて いる。 下表 は 明 治 新 政 府 における 内 閣 総 理 大 臣 と、そ の 出 身 藩 および 武 士 社 会 における 身 分 を示 す。
これを見ると、最初は 徳川幕府 を 倒 すのに 貢 献 した 薩 摩 と 長州藩 で 内 閣 総 理 大 臣 の ポ ス ト を 交 互 に 占 めて いたが、やがて 少 年 時 代 に 生 育 環 境 の 悪 か っ た 山 縣 ( 山 県 ) 有 朋 ( や ま が た あ り と も ) のような 、 カ ネ に 汚 い 利 権 の 権 化 ( ご ん げ ) の 経 歴 を持つ 者 まで 出 世 の 階 段 を 上 り 、総 理 大 臣 の 椅 子 に 座 るようになった。 ( 1-1、 近 代 日 本 初 の 汚 職 事 件 ) 明治 5 年 ( 1872 年 ) には 、 山県 による 明 治 新 政 府 初 の 汚 職 事 件 ( 山 城 屋 事件 ) が 発 覚 した。 抵 当 も 取 らずに 「 陸 軍 の 公 金 」 、 1 5 万 ド ル が 山 県 の 縁 故 で 兵 部 省 ( 陸軍省 ) の 御 用 商 人 となった 山 城 屋 和 助 に 貸 し 付 けられて いたことが 発覚 し、長州系 軍人 官吏 らは 貸 し 付 け の 見返 り と して 山 城 屋 から 多 額 の 献 金 ( ワ イ ロ ) を 受 けた とされて いる。 桐 野 利 秋 ら 薩 摩 系 陸軍 軍人 の 激 しい 追 及 に遭 い、 当時 陸軍 中 将 だった 山 県 は 、近 衛 都 督 ( このえ と と く 、新 設 された 近衛部隊 の 総 指 揮 官 ) を 辞 任 することになった。 翌 明治 5 年 (1872 年 )、江 藤 新 平 率 いる 司法省 による 本格的 な 公 金 横 領 事 件 の 調 査 が 始 まろうと した 同年 11月 に 、山 県 から 公 金 6 5 万 円 の 返 済 を 求 められた 山 城 屋 は、それが 不可能 であったため、兵 部 省 ( 陸軍省 ) の 応接室 で 割 腹 自 殺 した。 一説 によれば 自殺 を 指 示 したのが 山 県 であり、その 際 に 関係 する 帳 簿 と 長州系 軍人 の 「 借 金 証 文 」 などが 焼 き 捨てられたため、事 件 の 真 相 は 闇 に 包 まれ、山 県 も 責任 を 免れ、刑 務 所 に 行 かず に 済 んだ。 この 金 額 が いかに 多 額 であったかは、明治 4 年 10 月 から 5 年 11 月 までの 14 ケ月 間の 政府の 経 常 歳 入 が 2 , 4 4 2 万 円 であり、明治 4 年 の 陸 軍 費 8 0 0 万 円 、海 軍 費 50 万 円 、臨 時 軍 事 費 2 5 万 円 と 比 べてもわかる。 これ以外にも 山 県 は、「 三 谷 三 九 郎 事 件 」 と呼ばれる 前記 に 似 た 汚 職 事 件 にも 関与 して いた。 三谷家 は 12代 続 く 江戸 の 富豪 で、代 々 両替商 の 家柄 であった。陸軍省の 御 用達 となった 三 谷 は、山形屋と同様 に 巨 額 の 資 金 を 陸軍省 から 借 り 出 し、金 融 市 場 におけるその 勢 いは 「 三 井 ・ 小 野 組合銀行 」、 ( 第 一 国立銀行の 前身、現在の みずほ 銀行 )をも 凌 ぐ ほどであった しか し 三 谷 の 手代 渡 辺 弥 七 らが、油 の 「 相 場 取 引 」 に 失敗 し、陸軍省 から借 りた 公 金 を 使 い 込 んで いたのが 明 らかになった。三 谷 は 驚 いて、横浜 の 外国商人 から 1 0 万円 を 借りて 一 時 を し の い だ が、遂 に 東京市中にある 五十余カ所 の 三谷家 の 地所を 抵当 と して 陸軍省 に 提出 し、明治 8 年 ( 1875 年 ) に 破 産 の やむなきに 至った。 後年、三谷家 の 奥 で 「 娘 分 の 扱 い 」 を受 けて いた 『 ま さ 』 から の 「 聞 き 書 き 」 によると、三谷家 の 破産 の 裏 には 、山 県 をは じめ 陸 軍 の 長 州 系 士 官 たちが、 あたかも 砂 糖 に た か る 蟻 の よ う に 群 が っ て 、 三 谷 家 の 財 産 を 食 い 荒 ら し た 事 が 明 らかになった。 ところで 話を 総理大臣 の件 に 戻 すと、人 材 難 から 同 じ 人 物 を 再度 総理大臣 に 任命 するなど 、人 事 が 回 らな くな り、 薩 長 ( さ っ ち ょ う 、薩 摩 藩 ・ 長 州 藩 ) 以外 の 出身者 も 総理大臣 に 任命 せざるを得 な くなった。 一 説 によると、太平洋戦争 の 原因 を 作 ったのは 山 県 有 朋 であると 言 われている。それは 、明治 33 年 ( 1900 年 ) に 軍 部 大 臣 現 役 武 官 制 ( 陸軍大臣 ・ 海軍大臣 の 就任資格 を、予備役 ( よびえき、引退 した軍人 ) ではな く、 現 役 の 大将 ・ 中将 に 限定 する 制 度 ) を 作 ったのは 、第 2 次 「 山 県 内 閣 」 であったからである。 この 制度 は 大正 2 年 ( 1913 年 ) に 改正 廃止 されたが、そのような 体制 に したことが 軍 を 暴走 させ、『 二 ・ 二 六 事 件 』 後 に 発足 した 広 田 弘 毅 ( ひろた こうき、1878 ~ 1948 年12月に、 東京 国 際 軍 事 裁 判 による 絞 首 刑 ) 内 閣 が、この制度を 昭和 1 1 年 ( 1936 年 ) に 復 活 させ、 昭和 1 2 年 ( 1937 年 ) に 日・独・伊 「 防 共 協 定 」 の 締 結 で 、 第 二 次 世 界 大 戦 の 原 因 になったと 言 われて いる。 ( 1-2、 サ ン シ ャ イ ン 6 0 ) ところで 私が 子供 の 頃 は 、東京都 豊島区 池 袋 3 丁目にある サンシャイン 6 0 の ビ ル がある 場所 には、コ ン ク リ ー ト の 高 い 塀 に 囲まれた 巣 鴨 刑 務 所 ( 巣 鴨 拘 置 所 ) があり、その周囲 には 雑 草 の 生 えた 広 い 空 き 地 になって いて、兄 たちと 一 緒 に ト ン ボ や バ ッ タ 取 りを した 記憶 がある。 昭和 15 年 ( 1940 年 ) に は 日本各地で 皇 紀 2 6 0 0 年 を 祝 う 行 事 が 行 われたが、夏 には、刑務所横 の 広 場 で 「 や ぐ ら 」 を 組 んで 盆 踊 り 大 会 があり、東 京 音 頭 に 合 わせて 人 々 が 踊って いたのを 覚 えて いる。 敗戦後 は 巣 鴨 刑 務 所 から 巣 鴨 プ リ ズ ン ( P R I S O N ) にな り、多 く の 戦 犯 を 収 容 し 処 刑 がおこなわれたが 、昭 和 5 3 年 (1978 年 ) には 跡 地 に サンシャイン 6 0 が 建 てられた 。 第二次世界大戦当時 の 池 袋 は、 駅 東口 の 近 く に 巣 鴨 刑 務 所 があったほど、場 末 の 雰 囲 気 を 漂 わせた 所 であった。駅 前 から 刑 務 所 ( 現 ・ サ ン シ ャ イ ン 6 0 ) へ 非 舗 装 の 広 い 道 が 通 じ 、デ パ ー ト や ビ ル などは 無 く、駅前 に 映画館 ら しき 建物 が 一つ あったように 記憶 して いる。 池 袋 が にぎやか になったのは 敗戦後 のことで、駅周辺 に 闇 市 が 広 がり、ヤ ク ザ 同士 の 縄 張 りを 巡 って、 第 三 国 人 ( 戦 勝 国 の 立 場 を 主 張 し 違 法 行 為 を 繰 り 返 す、 在 日 韓 国 ・ 朝 鮮 人 ) と の 抗 争 事 件 が 多 発 した。 ちなみに 戦勝国 の 定 義 については、次 の 1-3 項 を参 照 の こ と 。 国連憲章 第 5 3 条 「2 項 」、本条 1 項 で用 いる 敵 国 と い う 語 は、第二次世界戦争中に この憲章の いずれか の 署 名 国 ( つまり 連合国側 ) の 敵 国 で あ っ た 国 に 適用される。同 じ く 国 連 憲 章 第 107 条 この憲章 のいかなる 規定 も、第二次世界大戦中 に この 憲章 の 署名国 ( つまり 連合国側 ) の 敵 で あ っ た 国 に 関 する 行動 で、その 行動 について 責任 を 有する 政府 ( 連合国、例 えば ロ シ ア ) がこの戦争の結果と して ( 例えば 北 方 四 島 を ) 取 り 、又は 許可 したものを 無 効 に し 、又は 排 除 する も の で は な い 。 [ 2、西 郷 隆 盛 の 銅 像 ]幕末 から 明治維新 にかけての 歴 史 にも 、薩 摩 藩 ( 現 鹿児島県 ) と 長 州 藩 ( 現 山口県 ) に とって 都合 の い い 様 に 改 竄 ( か い ざ ん ) された 部分 がある。 西郷 隆盛 は 明治新政府 に 対 して 西南戦争 ( 明治 10 年 = 1877 年 1 月 ~ 1877 年 9 月 )を 起 こ したが 、その結果 戦死者 は 官 軍 6,9 2 3 名 、薩 軍 7,1 8 6 名 の、合 計 1 4,1 0 9 名 も 出 たと いわれている。 絵は 当時日本を 訪 れて いた フ ラ ン ス の 挿絵画家 フ ェ リ ッ ク ス ・ レ ガ メ が 描 き、フ ラ ン ス の 新 聞 ル ・ モ ン ド ・ イ リ ュ ス ト レ ( L e - M o n d e - I l l u s t r a t e 英語 ) に 掲載 された 薩摩軍 の 挿 絵 であ り、中央 の 椅子 に 座 るのが 西郷 隆盛 とされる。そ の 薩摩軍 総 指 令 官 であり、言 わば 国 に 反 逆 し た 国 賊 であったはずの 西郷 隆盛 の 銅 像 が、東京 上野公園 の入 り 口 に 存在 するのは 、おか し な 話 である。ちなみに 彼 は 、靖国神社 に 祀 られて いな いが、当然 のことである。 明治 2 2 年 ( 1889 年 ) 大日本帝国憲法 発布 に 伴 う 大 赦 ( た い し ゃ ) により、西郷 の 「 反 逆 者 」 の 汚 名 が 解 かれ、その 上 なぜか 正 三 位 の 位 までも 追 贈 され た。 薩摩藩 出身で 西南戦争に 荷担 しなかった 有力軍人 ( 例 えば、弟 で 陸軍中将 だった 西 郷 従 道 、つ ぐ みち など ) が 、新政府 に 働 きかけたことが 当然想 像 された。 薩摩藩出身者 が 主導 した 彼 の 銅像建設計画 によれば、 当初 は 第 9 6 代 後醍醐 天皇 ( 1288 年 ~ 1339 年没、 南 朝 の 初 代 天 皇 ) に 付 き 従 い、「 建 武 の 新 政 」 に 協 力 した 楠 木 正 成 の 銅 像 ( 写 真 ) が 現在 建つて いる 宮 城 ( 現 ・ 皇 居 ) 外 苑 に 建 てられる 予 定 であった。 さすがに 反対論 があり 、最終的 には 現在 の 上野公園 入り口 に 設置 されたと いわれて いる。この銅像について西郷隆盛の 三番目の 妻 だった 糸 子 は、西郷の 銅像 を初 めて 見 て次 のように 言 ったと 伝 えられて いる。 あ れ ま あ ! う ち の 人 は 、こんな お 人 で は な か っ た の に !。明治 31 年 ( 1898 年 )12 月 18 日 の 銅像除幕式 にお いてで あった。 [ 3、勝 海 舟 の 生 い た ち ]彼は 文 政 6 年 ( 1823 年 )1 月 3 0 日 に 生まれたが、 明治 新政府が 1872 年 に グ レ ゴ リ オ 暦 ( 太 陽 歴 ) を 採用 し、明治 5 年 12 月 2 日 ( 旧暦 ) の 翌日を、 明治 6 年 1 月 1 日 ( 新 暦 ) と した。そのことから、誕生日を 2 月 11 日 に 改 めたとされる 。 江戸 ・ 本所 亀沢町 ( 現 ・ 墨田区 両国 四丁目、本所警察署 付近 ) に 住 む 、石 高 ( こ く だ か ) 4 1 石 ( 米俵 に 換 算 すると、年 収 1 0 3 俵 ) の 貧 乏 旗 本 勝 の 家 に 生 まれた。 ちなみに 玄 米 1 俵 ( 6 0 kg ) の 価 格 は、平成 2 9 年 9 月 の 時点 で 、1 5,5 2 6 円 、四捨五入 して、 1 6,000 円 である。つまり 勝 家 ( か つ け ) の 年 収 は、 僅 か 1 6 4 万 8 千円 に 過 ぎなかった。彼は 通称 麟 太 郎 ( り ん た ろ う ) 、名 は 義 邦 ( よ し く に )、後 に 安 芳 ( や す よ し ) と 改 名 した。海 舟 と 号 し、後に 安 房 守 ( あ わ の か み ) と 名乗 った。 ( 3-1、旗 本 株 の 購 入 ) そもそも 勝 家 ( か つ け ) は、父親 の 勝 小 吉 ( こ き ち ) が 婿 養 子 になる 形 で 同家 の 旗 本 株 を 買 っ た も の で 、小 吉 の 生家 である 旗 本 の 男 谷 家 ( お だ に け ) も、副業 と して 「 金 貸 し 」 を 営 んで いた 。 小 吉 の 祖 父 である 男 谷 検 校 ( お だ に け ん ぎ ょ う = 最高位 の 盲 人 ) は 越 後 ( 新 潟 ) の 出身 で、三百文 を持って 江戸 に来て 金貸 しを して 「 三 十 万 両 」 を 残 したと 言 われて いた。彼 は 孫 の 小 吉 のために 勝 の 家 が 持 つ 「 旗 本 株 」 を 買った のであった。 勝 小吉 は 17 歳で 旗本 になったものの、言わば 普段は 仕事の 無 い 無 役 の 旗 本 であった。 それでは 役手当 が 無 く 収入 が 少 な いので、将軍や 江戸城の 警護を 担当する 「 番 入 り 」 を目指 して 就職活動 を してきたが、夢 が 叶 わず 37 歳 で 隠居 し、 麟太朗 ( りんたろう、後の 海 舟 ) に 家督を 譲 っ た。 注 : 旗 本 株 の 売 買 と は 旗本株 を 売 却 すると 同 時 に 、買った 人 を 養子縁組 に した 旨 の 届 を 幕府 へ 提出 する。また 自身 に 男子 があれば 廃 嫡 ( は い ち ゃ く、相続人 の 地位から 除 く ) の 届 けを 出 して、自分の 後継者 を 買 人 に 指定 する。こう した 手続 きを しないと、旗 本 株 の 買 人 に 株 の 権利 が 生 じな くなる。 その上で 買人 が 御用 を 勤 められそうならば ( 当然 上司 に 「 付け届 け 」 等 を してお いて ) 、自身は 「 御 役 御 免 」 ・ 「 隠 居 」 を 申 し 出る。それ以降 は 買 人 に 遠慮 して 、あまり 表 面 に 出 な いのが 大体 の ルール であった。勝 海舟 は 剣道 を 直 心 影 流 ( じ き し ん か げ り ゅ う ) の 島田虎之助 に 学 び、21 歳 で 剣術 の 免許を とり、師匠 の 代理 で 弟子 に 稽古 をつける ほどになったが、島田 の 勧 めで 西洋 の 兵 学 を 志 ( こころざ ) した。 その勉強 ぶりは 有名 で、当時 6 0 両 と 高 価 な 蘭 和 辞 書 ( ら ん わ じ しょ、「 ズ ー フ ・ ハ ル マ 」、 オランダ 語 と 日本語 の 辞書 ) を、その 所有者 である 蘭 方 医 ( オ ラ ン ダ 医 ) の 家 に、 弘 化 4 年 ( 1847 年 ) の 秋 から 毎 夜、1 年 がかりで 通って 二 組 筆 写 し、1 組 を 10 両 で 売 り 所有者 に 損 料 と し て 支払 ったと いう。 こう して 嘉永 3 年 ( 1850 年 ) から 自宅 で 蘭学塾 を 開 くようになり、安政 2 年 ( 1855 年 ) には 大久保 忠寛 ( ただひろ ) に 推挙 されて 蕃 書 ( ば ん し ょ ) 翻 訳 所 に 出 仕 した。同年 さらに 海 軍 伝 習 生 の 頭 役 ( と う や く、世話人 ) と して 長崎 の 海軍伝習所 に 赴 き、オランダ 士官 より 航海術 の 訓練 を 受 けた。 3 年後に 江戸 に 帰 り 、勝海舟 は 築地 鉄砲州 にある 軍艦操練所 の教授方 頭取 に迎えられた。 ( 3 - 2、咸 臨 丸 乗 組 み の こ と ) 咸臨丸 は オランダ で 建 造 され 安政 4 年 (1857 年 ) に 進水 し、同年 長崎 に 到 着 したが、幕 府 が 10 万 ド ル で 購 入 した 軍 艦 であった。長 さ 4 9 m 幅 7 m 三 本 マ ス ト の バ ー ク 型 で 、100 馬力 の 蒸気機関 を 備 えた 汽 帆 併 用 船 で、大 砲 1 2 門 を 備 え、排 水 量 6 2 5 ト ン であった。 名前の 「 咸 臨 」 ( か ん り ん ) とは、『 易 経 』 ( えききょう 、 易 占 い の テ キ ス ト であり、東洋最古 の 書物 ) から 引用 した 言葉 で、 「 お 互 い に 感 じ あって、心を 一 つ に して 臨 むとき、その 臨 むところが 正 しければ、結果 良 し 」 で、「 君 臣 互 いに 親 しみ、協力 せよ 」 との 教 えであった。 万 延 元 年 ( 1860 年 ) には 、日米 修好通商条約 批准書 を 交 換 する 幕府 の 遣米 使節団 の 正 使 である 新 見 正 興 ( し ん み ま さ お き ) ら 一 行 は 、アメリカ の 軍 艦 『 ポ ー ハ タ ン 号 』 ( U S S ・ P o w h a t t a n ) に 便乗 して 、サンフランシスコ まで 行 くことになった。 それに 随行 して、勝 海舟 が 艦長 になった 咸 臨 丸 ( か ん り ん ま る ) も、軍艦奉行 の 木村喜毅 ( き む ら よ し た け、写真 ) が責任者 に 選 ばれたが、木 村 には 提督 や 船 将 ( 艦 長 ) などの 称号 は 与 えられず、幕府 からは 未熟 な 日本人 だけで 太平洋横断 は 危険 な の で、航海 に 熟 練 した 米国 の 海軍士官 を 同乗 させよ 、と いう 条件 が 付 けられた。 その当時 測量船 『 ク ー パ ー 号 』 ( Cooper ) 100 ト ン で 日本に 来航 し、神奈川 で 投 錨 停 泊 中 に 台 風 に 遭って 難破 し、廃 船 となった ク ー パ ー 号 の 米 海軍大尉 ブ ル ッ ク ス ( B r o o k s ) 以下 11 人 は、帰国 の 便を 探 して いた。 そこで、ブ ル ッ ク ス が 日本人 乗組員 に対 する 指導 を 兼 ねて 咸臨丸 に 乗船 することになった。しか し 38 歳 の 艦長 海 舟 は 日本人 の み に よ る 運行 を 主張 し、 単 な る 便 乗 者 と いう 名 目 で 彼 らを 受 け入れた。 乗員 は 日本人 9 6 名 と 、ブ ル ッ ク ス 一 行 ( 11 名 ) で 107 名 となったが、食 糧 の 米 だけでも 約 二百 俵、石炭 は 八万四千 斤 ( き ん ) 、水 百 石、薪 千三百五十 把 ( わ )、醤油 七 斗 五 升、味 噌 ( ミ ソ ) 六 樽 ( た る ) 、という 厖大な 量 の 荷物 を 積み 込 んだ。 咸臨丸は、万延 元年 (1860 年 ) 年 1 月 13 日に 品川 を 出 航 し、横浜 で ブ ル ッ ク ス 一 行 を 乗 せ、浦 賀 で 水 と 生鮮食料 を 積 み、1 月 19 日 に 太平洋横断 の 航海 に 出 たが、勝 海舟 は 出航前から 体調 を くず して いた。 軍艦奉行 木村喜毅 の 供 に 中津藩士 の 福 沢 諭 吉 が いて、彼は 自ら希望 して 咸臨丸 に乗組 む と 、木村 の 従者 と して身の回りの 世話 を した。木村が 選んだ 通 訳 には、 中 浜 ( ジ ョ ン ) 万 次 郎 が いたが、彼は 土佐の 漁師 に生まれ 鳥島 に 漂着 の末 アメリカ の 私立学校で学び、捕鯨船の 1 等航海士を務めた 経験 があった。 [ 4、船 酔 い で 、艦 長 の 指 揮 権 移 譲 ]江戸 と サンフランシスコ を結ぶ 最短距離 の 航路 を 、現代 では 「 大 圏 航 路 」 ( G r e a t- c i r c l e - r o u t e ) というが、航空機 の 場合は 大 圏に近い コースを 飛 び、北 米 アラスカ 州 の アンカ レージ( A n c h o r a g e 、北緯 61 度 09 分 、西経 150 度 12.4 分 ) 付近 まで 北上 することになる。この 付近 の 地磁気 の 偏 差 ( V a r i a t i o n 、バ リ エ イ シ ョ ン )、つまり コンパス の 差 す 北 [ 地磁気 の 北 極 ( 磁 北、じ ほ く ) ] と、 [ 地 球 の 北 極 ( 真 北、しんほ く ) ] との 差 は 2 5 度 東、イースト ) にもなる。 ちなみに サンフランシスコ の 偏 差 は 16 度 東、イースト、東京付近の 偏 差 は 6.5 度 西、ウエストである。 冬期 の 北太平洋 は 、寒風 が 吹 きすさび 荒 天 の 日 が 多 い。 咸臨丸 の 場合 は 航路図を見る限 り、北緯 44 度 付近 まで しか 北上 しなかったのではな いかと 想像 する。なお 咸臨丸 の 操 船 と 見 張 りの 航海当直 は、日本人 士官 ( 直参、じ き さ ん、江戸幕府 直属 の 旗本 ) が 「 二 人 一 組 」 で 四 時間 交代 の 体制 が 敷 かれた。 しか し 当直 は 厳 格 には 行 われず、しかも 外洋 で 帆 走 するため の 「 操 帆 」 や 「 操 舵 」 の 技 量 に 日本人 士官 も 水夫 も 乏 し かった。日本人乗組員は 外洋 での大きな 時化 ( し け ) に 伴 う 揺 れに 遭遇 し、勝 艦長 以下 大部分 が 船酔 いにかかり ベッド に 寝 たままで、仕事 を しな く なった。 ところで 船 に 弱 い ( b a d - s a i l o r ) の 不肖 私 も 、ハ ワ イ へ の 遠洋航海 の 際 には 東京湾 を 出 てから 三日間、船酔 いで 食事 が 取 れず、これでは ハ ワ イ に 着 く 前 に 餓 死 し て し ま う と 思ったほどで した。下記を 読 まれた し。 ( 4 - 1、ブ ル ッ ク ス 大 尉 の 日 記 ) 日本人 たちは、完全 に、我々に 頼 りきって いるようだ。このような 深刻 な 状況 でなかったならば、 日本人 たちが、操 艦 の すべてを、完全 に、我 々 米国人 の 2 人 ~ 3 人 に 委 せきっているのを見るのは 面白 いことに 違 いな いのだが。 この 船 の中では、 秩 序 ( O r d e r ) と か、 規 律 ( D i s c i p l i n e ) と いうものが まった く なかった 。 我 が 国 ( アメリカ ) の 海軍 におけるような、きちんと した 秩 序 と 規 律 は、 日本人 の 生活習慣 に 馴 染 ( な じ ) まな い ものら し い。 日本人 水夫 たちは、船室 で、火 鉢 と、熱 い お 茶 と、タ バ コ の 煙 管 ( き せ る ) を そばに 置 かなければ 満足 しな いのだ。酒を 飲 むことも 禁止 されて いな い。 これに 加 うるに、( 日本人 士官 の ) 命 令 は す べ て オ ラ ン ダ 語 で な さ れ る が 、オ ラ ン ダ 語 の 命 令 が 分かる 水 夫 は 数 人 しか いな い のだ。大部分 の 水夫 は、どんな 命 令 が 下 されたのかを 理解 できないで 仕事 を して いる 状態 である。 秩序 と 規律 を 欠 いた 毎日 の 仕事 がどんな 有様 なのか、部外者 にも 想像 できると 思 う。 勝 艦長 は、まだ 寝台 に 寝 たきりであり、木村 提督 も 同様 である。 そこで ブ ルックス 大尉 は 直接 勝 艦長 に 掛 け 合 い、こう 言 った。 艦 長 の 指 揮 権 を 私 に お 譲 り 下さ い。艦 内 に は 規 律 が 無 く、日本人 の 水 夫 で 働 く 者 は 少 数 であり、士 官 も 同 様 である。規 則 を定 めて 航海術 を 学 ばせるには、私 に 指 揮 権 が 必 要 である。自 ら 指 揮 を 執 れな い 勝 艦長 は、 指 揮 権 移 譲 を 認 め る ほか は 無 かった。このあと す ぐ に 事 件 が 起 きた。艦長命令で 飲料以外 の 水 の 使用 が 禁 じられていたが、アメリカ 人の 「 帆 縫 水 兵 」 が 自分 の下着 を 洗濯 して いた。 それを 見 た 士 官 の 吉岡勇平 は、いきなり 水兵 の 顔 を足 で 蹴 りあげた。水兵 は 大声 を上げて 仲間を 呼 びに 行 き、加勢 を 得 た 水兵 は、吉岡 に ピ ス ト ル を 向 けた。 吉岡 も 刀 の 柄 ( つ か ) を 手 で 握 り 水兵 に にじり 寄 り、甲 板 に 殺気 がみなぎった。そこへ 勝 ・ 万次郎 ・ ブ ルックス が 、急を 聞 いて 飛 び 出 してきた。 通 訳 の ( ジ ョ ン ) 万次郎 を 介 して 経緯 を 聞 いた ブルックス は 、吉岡 にこう 言 った。 よろ しい、彼 を 斬 って く れ。 共同生活 の 掟 ( お き て ) を 破 ったのは 水兵 だ、処 刑 して く れ。しか しその 場 は 、勝 が ブルックス と 握 手 を して、とりな した。 ブ ルックスの 公正な 態度 に 日本人 士官 も 彼を 見 直 し、ブ ルックス の 指示 に 従 うようになり、日本人 水夫 も マ ス ト に 登 り 「 縮 帆 作 業 」 を 覚 え 、日本人の 操 船 技 術 も 次 第 に 向上 した。 写真 は 横浜 の 「 港 み ら い 地区 」 に 固定 係留 されている 初代 練習帆船 の 日本丸 である。昭和 59 年 ( 1984 年 ) に 引退 した 日本丸 の マ ス ト で 、帆を 帆 桁 ( ほ け た ) に く く る 「 縮 帆 作 業 」 ( し ゅ く は ん、 リ ー フ ィ ン グ 、R e e f i n g ) の 最中の 様子 である。当時 私は 横浜市 磯子区 に 住んで いたので、引退 したばかりの 日本丸 を 見 に行った 記憶がある。 ところで、ブ ルックス 大尉 以下 11 名 の 米国海軍の 乗組員 が いなければ、咸臨丸 の 太平洋横断 航海は 到底 不可能 であったと 思 われる。 出港直後に嵐 に 遭 遇 する 不運 もあったが、 日本人乗組員は、捕鯨船の 副船長まで務め 外洋航海 に 経験豊富な 中浜 ( ジョン ) 万次郎 を 除 いて、 勝 艦長以下 日本人乗組員全員は 激 しい 暴風雨 と 荒 れ 狂 う 北太平洋を 航海する 技量 と経験 はまったくなかった。 しかも 勝 艦長 は、航行中 病気 と 船酔 いのため 艦長室に 閉 じ籠もって、デッキ に 出 てこず、ブ ルックス 大尉 が、やむを得ず 事実上の 艦長と して艦を指揮 し、 米国人水兵 10 人を 中心 と して 船 を航行させた。ブルックス大尉は、このことを 航海日誌 に記載 している。 しかし、勝 艦長や 日本人士官 たちの 名 誉を 傷 つけることがな いようにとの 配慮 から、航海日誌 を 公開 しなかった。さらに、 死 後 も、50 年間、「 航 海 日 誌 」 の 公開 を 禁 じて い た。 昭 和 3 5 年 ( 1960 年 ) に、この 「 日 誌 」 が 公 開 さ れ て 、咸臨丸 太平洋横断 の 往路航海 の 実 態 が 初 めて明 らかになった。 ブルックス 海軍大尉 は 後 の 半生 を 海軍 ではな く、バージニア 陸軍大学 の 物理学教授 と して 過 ご した。 ( 4 - 2、サ ン フ ラ ン シ ス コ 到 着 ) 安政 7 年 ( 1860 年 ) 年 2 月 26 日 に、咸臨丸 は 37 日 間 の 太平洋横断 を 無事 に 終 えて、サ ン フ ラ ン シ ス コ に 入 港 したが、到着 するや 市民 や 市当局者 から 大歓迎 を 受 けた。 その後 サンフランシスコ 滞在中 は 見るもの 聞 くもの 全 てに、大きな カ ル チ ャ ー ・ シ ョ ッ ク を受 けた。正使を乗 せた 「 ポ ー ハ タ ン 号 」 は、嵐 と ホ ノ ル ル 寄港の ため、3 月 9 日 に 遅 れて 到着 した。 遣米使節団 一 行 は 、そこから更 に 「 ポ ー ハ タ ン 号 」 で 太平洋岸 の パ ナ マ ( P a n a m a ) に 向 か い 、5 年前 ( 1855 年 ) に 開通 したばかりの パ ナ マ 運 河 鉄 道 で パ ナ マ から 大西洋岸 の 港 町 コ ロ ン ( C o l o n ) に 行 く予定 であった。 咸臨丸 は、太平洋の 荒波 にもまれ 損傷 を 受 けた船体 の 修理 のため、3月3日に、サンフランシスコ の 北 にある メーア 島 海軍造船所 ( M a r e - I s l a n d - N a v y - Y a r d ) に 入 渠 ( にゅうきょ、ドック = 船 渠 に入る ) し、乗組員 たちはその 官舎に 宿泊 した。 入渠以来約 40 日、破損箇所 の 修繕、破 れた 帆 の 新調、マスト の 取替 え、船体塗装、と大掛 かりな 修理 を 終了 し、閏 ( う る う ) 3 月 12 日 に 咸臨丸 は メーア 島 を 出帆 して サンフランシスコ に 投錨 し、3 月19 日 ( 太陽歴 5 月 8 日 ) 同 港 を 出港 し 帰国の 途 に 就 いた。 帰 りの 航海 では 北東 から 吹 く 貿易風 の 追 い 風 に 乗 り 、途中 ハ ワ イ の ホ ノ ル ル ( 北緯 21 度、西経 157 度 ) に 寄港 した 後、万延 元年 ( 1860 年 ) 5 月5 日 ( 太 陽 歴 の 6 月 2 3 日 ) 、浦賀 に 入港、翌日 品川沖に 投錨 して 咸臨丸 は 太平洋横断 の 航海 を 終 えた。 勝海舟 は 帰国すると幕府 の 老中 に 呼 ばれ、「 何 か 目 に 付 いたことがあったら、言上 せよ 」 と言 われた。これに 対 して 彼 は、 少 し 目 につきま したのは、ア メ リ カ では、政府 でも 民間 でも、およそ 人 の 上 に 立 つ 者 は その 地 位 相 応 に 利 口 です。この 点 だけは、まった く 我 が 国 と 反対 のように 思 います。と言って の けた。彼 には 徳川幕府 のために 粉 骨 砕 身 ( ふんこつさ い しん、身を 粉 に して 力 の 限 りを 尽 くす ) しようなどの気持は 少 しもな く、幕府 や 幕藩体制 と いうものをすでに 見放 して いた。
|