勝 海 舟 の こ と ( 続 き )



[ 5、死 者 と 病 人 の 発 生 ]

咸臨丸 では、往路 太平洋横断 の 航海末期 に 多 く の 水 夫 が 病気 に 倒 れ、サ ン フ ラ ン シ ス コ 到着後 には 3 名 が 帰 らぬ 人 となり、 8 名が 入院 した。彼らの 病名 は 不明 であったが、勝海舟 を 擁護 する 説 には、イ ン フ ル エ ン ザ とするものもあった。

病死者

死者の 3 名 は、塩 飽 ( し わ く、し あ く とも 読 む ) 諸島 の 佐柳島( さなぎ じま ) 出身 の 富 蔵 ・ 同 じ く 塩 飽 の 「 讃岐 広島 」 の 青木浦 出身 の 源 之 助 ・ 長崎出身 で 火 焚 ( ひ た き、火 夫 ) の 峰 吉 であった 。写真 は 左 から 富蔵、中央 峰吉、右 が 源之助 の 墓 標。

注 : 塩 飽 諸 島 と は

岡山県 ( 前 ・ 中 ) と 、香川県 ( 岐 ) に 挟 まれた 西 備 讃 瀬 戸 ( に し び さ ん せ と ) にある 多数の 島 々 から 成 る。

名前 の 由来 は 製 塩 法 の 一 種 である 「 藻 塩 焼 く 」 ( も し お や く ) か ら 「 塩 焼 く 」 ( し お や く ) 、そこから塩 飽 ( し あ く ) になったとする。別 の 説 によれば、 潮 流 の 激 しさから 「 潮 湧 く 」 ( し お わ く ) に 由来 する、とも いう。

戦国時代には、瀬戸内海 西部にある  芸 予 諸 島 ( げ い よ し ょ と う ) 広島県 ( 安 国 、愛媛県 ( 伊 国 を 縄張 りとする 村上水軍 と 並 び、塩 飽 水 軍 ( し あ く す い ぐ ん ) が活躍 した 地域 でもあった。

多 く の 島々 が 重 なっている 難所 が 多 い 備 讃 瀬 戸 の 航行 では、 通行料 ( 帆 別 銭 ) を 払 うことで、この 難所 を 安全 に 航海 できるよう、水先案内 を して いたのが 塩 飽 の 水軍であった。

日本人墓地

なお 咸臨丸 の 死者 は 現在 サンフランシスコ から車で 20 分ほど 南 にある、 コ ル マ ( C o l m a ) 市 にある 日本人 共同墓地 ( J a p a n e s e - C e m e t e r y ) に 埋葬 され、慈恵会 により 管理 されて いる。


( 5 - 1、船 乗 り に と っ て、呪 わ れ た 病 気 )

死亡原因 は も しか したら 、ポ ル ト ガ ル から ア フ リ カ 大陸 最南端 の 喜望峰を 通 り、胡 椒 ( こ し ょ う、P e p p e r ) の 産地 イ ン ド へ の 航路 を 発見 した バ ス コ ・ ダ ・ ガ マ や 西回 り の コ ー ス で 香 料 諸 島 ( モ ル ッ カ 諸 島、S p i c e - I s l a n d s ) を 目指 し、南米大陸最南端 の マ ゼ ラ ン 海峡 を 発見 した マ ゼ ラ ン たちが 苦 しめられた 病気 かも 知 れない。

ちなみに マ ゼ ラ ン 海峡 の 太平洋側 ( 西 側 ) を 出 てから、 一 度 も 嵐 に 合 うことな く 太 洋 を 横断 し、グ ア ム 島 に 到 達 したことから、 マ ゼ ラ ン が 「 平 穏 な 海 」 ( M a r e - P a c i f i c o 、マ ー レ ・ パ シ フ ィ コ ) = 「 太 平 洋 」 と 命 名 した。

大航海時代 ( 1 5 世紀 半ば ~ 1 7 世紀 半 ば ) に、船乗 りにとって 「 呪 われた 病気 」 と いわれた 壊 血 病 ( か い け つ び ょ う、S c u r v y ) だったかも しれな い。

ジ ョ ナ サ ン ・ ラ ム の 最新 の 著書 『 壊血病 : 大航海の 病 』 、( S c u r v y : T h e - D i s e a s e - o f - D i s c o v e r y ) によれば、数百年 もの 間、誰 ひとり と して、病気 の 原因 に た ど り 着 く ことが で き な か っ た と 述 べ て いる。当時、 2 0 0 万 人 の 船乗 りが、壊血病 で 命 を 落 と したと 書かれて いた。

更 にこれとは 別 に 航海者 たちを 悩 ませたものに、ビ タ ミ ン B-1 の 欠 乏 により 生 じる 心不全 と 末梢神経障害 をきたす 病気 の 脚 気 ( か っ け、B e r i b e r i、ベ リ ベ リ ) もあったが、これについては ここを ク リ ッ ク さ れ た い 。

ところで 咸臨丸 は、その 後 も 品川 と 神奈川 間を 要 人を 乗 せたり、軍 艦 操 練 所 の 練習艦艇 と して 使用 されたが、 船体 の 損 傷 が 激 し く な り、 慶 応 3 年 (1867 年 ) には 蒸 気 機 関 を 撤 去 され、軍 艦 と して の 役目を 終 えた。


[ 6、徳 川 幕 府 崩 壊 へ の 道 ]

勝 海舟 が 初 めて 西郷 隆盛 と 会 ったのは、元治 元年 (1864年 ) 9 月11日 のことであり、その 当時 西郷 隆盛 は 「 大 島 吉 之 助 」 と 称 して いた。両者の 話題 となったは、 約 二ヶ月前 の 7 月19 日 に 「 京 都 出 兵 事 件 」 を 起こ した 長州藩 の 処分 について であった。

西郷 は 海舟 のことを、 広 い 見 識 を 持 つ 人 物 と いう 評判 を聞 いて いたため、 「 禁 門 の 変 」 の 武力衝突 を 起 こ した 長 州 藩 を、どう 処分 するかについて 海舟 の意見を聞 く ためであった。

西郷 は 武力 で 叩 き の め した 長 州 に 対 して、きわめて 苛 酷 な 処分 の 考 えを 持っていたが、海舟 の 意見 によれば、幕府 に 代 わる 「 雄 藩 連 合 内 閣 」 の 構想 を 西郷 に 示 したと いわれて いる。


( 6 - 1、 大 政 奉 還 )

対 外 問 題 ( 攘 夷 ・ 開 国 の 是 非 ) における 第 121 代、孝明天皇 ( 即位 1847 ~ 退位 1867 年 ) ・ 第 122 代、明治天皇 ( 即位 1867 ~ 退位 1912 年 ) と、 幕 府 との 方針 の 不一致 、薩 摩 ・ 長 州 ・ 土 佐 などの 倒幕勢力 の 拡大 により、幕府 による 統 治 の 正統性 が 次第 に 失 われて 来 た。

そこで 、第 15 代 将軍 徳川 慶喜 ( よ し の ぶ ) は 、幕府 が 倒 される 前 に 生 き 残 り を 賭 け 、先手 を 打って 慶 応 3 年 ( 1867 年 ) 10 月14 日 ( 太陽歴 11 月 9 日 ) に 、徳川 家康 以来 260 年 以上 にわたって 幕府 が 保有 して いた 「 施 政 権 」 を、朝廷 に 返上 することを 明治天皇 に 奏上 し、翌 15 日 に 天皇 が 奏 上 を 勅 許 した。これを 大 政 奉 還 という

その 年 の12月 には 薩摩藩 を 中心 とする 勢力 が 政 変 を 起 こ し 、朝 廷 内に いた 公 家 ( く げ ) などの 攘夷 封建勢力 を 制 圧 して、 1868 年 1 月 3 日 に 江戸幕府 を 廃 止 し、君主政体 に 復 した 新政府の 設立を 宣言 した。これが 「 王 政 復 古 の 大 号 令 」 と 呼 ばれる出来事であった。

同時 に 徳川 慶喜 の 領 地 返 還 と 内 大 臣 職 の 辞 職 ( 辞 官 納 地 ) が、 新体制派 により 決定 された。


( 6 - 2、大 阪 か ら 逃 げ 帰 っ た 徳 川 慶 喜 )

第 15 代将軍 徳川 慶喜 ( よ し の ぶ ) に 対 する、大政奉還後 の 前述 した 処 遇 ( 領地 返還 など ) に 不満 を持つ 旧幕府軍 が 、慶応 4 年 ( 1868 年 ) 1 月 3 日 ~ 慶応 4 年 1 月 6 日 に 、新政府軍 ( 薩 摩 ・ 長 州 ) と 鳥羽 ・ 伏見 ( 現在 の 京都市 南区・伏見区 ) で 武力衝突 した。

これを 「 鳥羽 ・ 伏見の 戦 い 」 と いうが、その後 1 年半続 く 戊辰戦争 ( ぼ しんせんそう ) に 至 る 前哨戦 となった。 「 鳥羽 ・ 伏見の 戦 い 」 に 敗 れた 徳川幕府 の 最高指揮官 徳川慶喜 は 大坂 ( 阪 ) 城 に いて、幕府軍 に対 して 大坂城 で の 徹底抗戦 を 命 じた。

ところが 信 じ られな いこと に、 その 夜 慶喜 は 僅 かな 側近 である 老 中 二名 ・ 会津藩主 松平容保 ( かたもり ) ・ 桑名藩主 松平定敬 ( さだあき ) と 共 に 、密 かに 城 を 抜けだ し 大坂湾 に 停泊中 の 幕府軍艦 開陽丸 に乗 り、 江戸 に 逃 げ 帰って しまった。

総大将 が 逃亡 したことにより 、旧幕府軍は 継戦意欲 を 失 い 総崩 れとな り、大坂城 を 放棄 して 各自 江戸 や 自国領 などへ 、帰って しまった。ちなみ に 戊辰戦争 の 「 戊 辰 」 ( ぼ し ん ) の 名 称 は、慶応 4 年 / 明治 元年 ( 1868 年 ) の 干 支 ( え と ) が 、戊 辰 ( 訓 読 みで、 つ ち の え ・ た つ 、 音 読 みで ぼ し ん ) であることに 由来 する。


( 6 - 3、徳 川 慶 喜 、追 討 の 発 令 )

朝廷 は 1 月 7 日、徳川 慶喜 追討令 を 発 し、追討軍 の 大総督 ( 総 司 令 官 ) に 『 有 栖 川 宮 熾 仁 』 ( あ り す が わ の み や た る ひ と ) 親王 が 任命され、西郷 隆盛 はその 参謀 となった。

1 月 10 日 には 徳川 慶喜 ( よ し の ぶ ) ・ 松平 容保 ( かたもり、会津藩主、元 京都守護職 )・ 松平定敬 ( さだあき、桑名藩主、元 京都 所司代 ) を 初 め 幕閣 など 2 7 人 の  「 朝 敵 」 の 官職 を 剥 奪 し、京都藩邸 を 没収 するなどの 処分 を 行った。

官軍

その後 薩 摩 ・ 長 州 を 主力 とする 新政府 の 倒幕軍 は、「 錦 の 御 旗 」 を 前面 に 掲 げて 進 軍 したが、「 朝 敵 ・ 賊 軍 」 となった 旧幕府側 に 精神的に 大きな 打撃 を 与 えた。「 錦 の 御 旗 」 で 「 官 軍 」 の 立場を 誇 示 しながら、江戸幕府 攻略 のために 東海道 や 東山道 を 東進 した。

それと 共 に 日本最初 の 軍 歌 ・ 行 進 曲 である、「 宮 さ ん、宮 さ ん 」 ( ト コ ト ン ヤ レ 節 または、ト ン ヤ レ 節 とも いう ) が 作られ 歌 われた。

作曲 は 幕末 ・ 明治の 軍学者 であった 長州藩 の 大村益次郎 、作詞 は 松下村塾( しょうかそん じゅ く、幕末期に 長門国 萩 の 松本村 ( 現・山口県 萩市 ) にあった 私塾 ) の 卒業生、品川 弥二郎 と伝 えられているが、証拠 はな い。

この歌の 歌詞 にある 「 宮 さ ん 」 とは、追討軍 の 総司令官 『 有 栖 川 宮 熾 仁 』 ( あ り す が わ の み や た る ひ と ) 親 王 のことであり、 「 一 天 万 乗 」 の 「 一 天 」 とは、「 天 下 す べ て 」 のことで、それを統治する 天 子 ・ 君 主 などの 前置詞 に使用された。

 「 万 乗 」( ば ん じ ょ う ) とは、昔 中国で、天子 は 馬 4 頭 で 引 く 兵 車 1 万 台 を 供 給 すことのできる 国土 を有 して いたところから、 でた 言葉 である。

薩 長 土 肥 ( さ っ ち ょ う ど ひ ) とは、薩 摩 ・ 長 州 ( 山口県 ) ・ 土 佐 ( 高知県 ) ・ 肥 前 ( 佐賀県 ) であり、肥 後 ( 熊本県 ) ではないので、要 注意。

日 本 最 初 の 軍 歌

つまり 東征軍 ( 薩 摩 ・ 長 州を 主力 とする 倒幕軍 ) の 目的 は、「 慶 喜 追 討 」 であり、それは 「 朝 命 」 つまり、天皇 の 命令 であった。

辞書 の 「 大 辞 林 」 によれば、追 討 ( つ い と う ) とは 「 敵を 追って 討 つこと 」 とあり、討つ と は、相手 を 攻 め 滅 ぼすことである。


[ 7、江 戸 無 血 開 城 ]

江戸時代末期 の 慶 応 4 年 ( 1868 年 )3 月 から 4 月 にかけて 、倒幕 のために 明治新政府軍 ( 東 征 軍 ) が 江戸に 向 けて 進軍 し 、江戸 の 間近 に 迫 るなか 新政府軍 の 代表 と 旧幕府 代表者 との 間 で、江戸城 の 引 き 渡 しなどについて、 一 連 の 交 渉 が 行 われた。「 江戸城 明け 渡 し 」 交渉 とも いう。

交渉人

通 説 によれば、幕府側 の 交渉 担当者 は 勝 海 舟 、新政府軍 代表 は 西 郷 隆 盛 であり、この二人により 江戸無血開城 の 交 渉 ( 絵 図 ) がおこなわれたとされる。

その 結果 江戸城 の 無血開城 が 合意 に 達 し、勅 許 ( ちょっきょ、天皇の 許可 ) を 経 て 実施 され、江戸 1 0 0 万 の 市民 も 両 軍 の 攻 防 戦 による 戦 火 を 受 けずに 済 んだと いわれて いる。しか し 幕府側代表者 に 関 しては、 事 実 で は な い

大正 15 年 ( 1926 年 ) に 明治神宮 外苑 に 創 建 された 聖徳記念 絵画館 ( せ い と く き ね ん か い が か ん ) 内 に 、昭和 10 年 ( 1935 年 ) 頃 から 結城素明 ( ゆうき そめ い ) が 描 いた 上記 の 壁 画、 「 江 戸 開 城 談 判 」 が 展示 されて いるため、人々 の 誤解を 招 くことになった。


( 7 - 1、第 1 回 交 渉 )

剣士

山岡 鉄太郎 ( 鉄 舟 ) をご 存知 か?。彼は 剣術 に 優 れ 、幕府 の 講武所 で 剣術 の 教授 方 世話役 となる。文久 3 年 ( 1836 年 ) 浪士組 の 浪士取扱 となり 、上京 。 慶応 4 年 ( 1868 年 )15 代将軍 徳川慶喜 の 身辺 警固役 と して 精鋭隊 頭 ( か し ら ) に 任 ぜられた。

「 江戸無血開城 」 の 交渉 の 準備 は、慶応 4 年 ( 1868 年 ) 旧暦 の 3 月 5 日 に、山岡 鉄太郎 ( 鉄 舟 ) が 勝 海舟 を 訪 れたのが 始 まりであった。

元将軍 の 徳川慶喜 にすれば、その時点で 徳川幕府 は すでに 崩壊 しており、身近 にいる 山岡 鉄舟 に 命 じて 徳 川 家 存 続 のため 、東征軍 大総督 「 有 栖 川 宮 」 の いる 駿 府 ( すんぷ、現 ・ 静岡市 ) に 派遣 し、幕僚 の 西郷隆盛 と 「 降 伏 条 件 」 など について 協議 させることに した。

そこで 山岡 は、曲 がりなりにも 幕府側 陸軍 ・ 海軍 の 総責任者 ( 軍 事 取 扱 ) の 立場 にあった 勝 海舟 のところを 前日 に 訪 れて、相談 したのであった。ところで 交渉相手 の 西郷 隆盛 は、山岡 鉄舟 の 「 人 物 」 について 事前 に 情報を得て いた。

山岡 鉄舟 が 駿府 ( すんぷ ) に 行 く 途中、 薩 摩 ・ 長 州 藩士 成る 新政府軍 の 支配地域 を 通行 する 際 に、彼 の 安全を 護 るため 、旧知 の 間柄 であった 薩摩藩士 の 益満休之助 ( ま す み つ き ゅ う の す け ) が、駿 府 へ 同行 することになった。

山岡 鉄舟 は 3 月 6 日 に 江戸を 出発 し、昼夜兼行 で 道 を急 ぎ 3 月 9 日 に 駿府 に 到着 して、西郷 隆盛 と 会 談 を 行った。ここで 重要 なことは、第 1 回 の 東征軍 ( 官 軍 ) と 幕府側 との 会談 には、 勝 海 舟 は 出 席 し て い な か っ た ことである。

山岡 は 徳川慶喜 が 新政府 に対 して、 衷 心 ( ちゅう しん、心 の 奥 底 ) より  恭 順  ( きょう じゅん、命令 に 対 して か しこまって 従 う )  謹 慎  ( き ん しん、言動を 反省 し、行 いをつつ しむ ) 旨を 伝 えた。

これに対 して 西郷 は ただちに 大総督宮 の 所 に行 き、有栖川宮 ( ありすがわのみや ) からの 五 ヵ 条 ( 別 の 資 料 によれば 、七 ヵ 条 ) の 「 書 付 け 」 が 山岡 に 示 された。その 内容 とは、

  • 江 戸 城 を 明 け 渡 す こ と

  • 城 中 の 人 数 を 向 島( む こ う じ ま ) へ 移 す こ と。

    ( 注 釈 ) 

    政治経済の中心地と して活発に成長を続 け、武家地 ・ 町人地 ・ 寺社地 が混在 している 江戸の 市街地 から は 離 れ、隅田川 を 挟 んだ 対岸 に 位置 して いる 向島 の 地 は、 都市 の 近 郊 農 村 と して 米 や 野 菜 を 供給する 役割 を 担って いた。 そ して 江戸城 に 住 む 連中 を、そ こ ( 農 村 ) へ 移 動 させよ と のことであった。

  • 兵 器 を 渡 す こ と

  • 軍 艦 を 渡 す こ と

  • 徳 川 慶 喜 ( よ し の ぶ ) を 、備 前 藩 ( 備前 岡山藩主 池田章政、いけだ あきまさ ) へ 預 け る こ と

以上が 実行 されれば、徳川家 に 対 して 寛 大 な 処 置 もあるとのことであった。これに対 して 山岡 鉄舟 が 断固 受 け 入 れを 拒 否 したのは、 慶 喜 を 備 前 藩 に 預 け る 条 に 対 してであった。

その理由は 先祖 代々 徳川家 に 仕 え 、恩 顧 ( お ん こ ) のある 家臣 は、これを 決 して 承 服 せ ず 、官 軍 を 相手 に 最後 まで 戦 い、むな し く 数 万 ~ 数 十 万 の 人 命 が 失 われるであろう。

これは 帝 ( み か ど ) の 軍 の することではな い。たとえ 「 朝 命 」 であっても 受 け 入 れを 拒 否 する

と 述 べ た。その結果 西郷 からは 、徳川 慶喜 の 件 ( 身柄 を 備前 に 預 けること ) につ いては、そうならな いよう に  「 私が 引 き 受 け 、取 り 計 らう 」 旨 の 返事 をもら い 江戸城 に 帰 った。 

大総督宮 の 「 書 付け 五ヶ条 」 ・ 西郷隆盛 との 約束を 詳 し く 参 政 ( 旗本 から若年寄 に 昇進 した 徳川 家臣団 の トップ グループ ) の 大久保 一翁 ・ 勝 安房守( 海 舟 ) らに 報告 した。

これに 対 する 徳川 慶喜 の 喜 びは、言語 に 尽 くせぬ ほどであった。直ちに 江戸市中 に、官軍 との話 し合 いが 付 き、寛大 な 処置 が 約束 されたので、安心 して 家業 に 専念 するようにという 高 札 を 立 てた。右は 高 札 場 。

勝 海舟が 最も 重要 な 第 1 回 の 会 談 に 出席 しなかった 証 拠 は、 彼 の 日 記 を 見 れ ば 分 か る

山岡氏 東 帰。駿 府 ( すんぷ ) にて 西郷氏 へ 面談、君上 ( 慶 喜 のこと ) 之御意を 達 し、且 ( か つ ) 総督府之御内書、御処置之箇所 条書 を 乞 ふて 帰 れり。嗚 呼 ( ああ ) 山岡氏 沈 勇 に して、其識高 く、能 (よ)く 君 上 ( 慶 喜 ) 之 英意を 演説 して、残 す 所 な し、尤 ( もっと )も 以 て 敬 服 するに 堪 えたり。

滅 多 に 人を 褒 めな い 勝 海 舟 が、最大級 の 賛 辞 を 山 岡 に 贈 って いた。


( 7 - 2、第 2 回 江 戸 薩 摩 邸 に お け る 交 渉 )

第 1 回 の 交渉 では 四項目の 内容 に 関 して、一応 の 約 束 というか 合 意 が 成立 したも の の 、幕府を 代表する 山岡 鉄舟 の 当時 の 肩 書き ( 精鋭隊 頭 ) について、官軍側 からすれば、 よ り 高 位 の 人 物 に よる 確 認 が 求 められた。

現代風 に いえば、数千億円 の 事業契約 について、取引相手 から 課長 クラス ではな く 次回 は 執行部 役員 の 保証 を求 めたようなものであった。そこで 3 月13 日に 幕府 からは 山岡 鉄舟 と 軍 事 取 扱 ( 陸海軍 総 裁 ) の 勝 海舟 、新政府軍 からは 西郷 隆盛 が 江戸 に 来 て、高輪 にある 薩摩屋敷 で 会談 を おこなった。

主題は 公武合体 のために、 文久 2 年 ( 1862 年 ) に 第 14 代 徳川 家茂 ( い え も ち ) の 正室 となり、明治天皇 の 叔 母 にあたる 静 寛 院 宮 ( せ い か ん い ん の みや、和 宮 、1846~1877 年 ) の 身 の 安全 に 関 することであった。

幕府側 と しては 高貴 な 女性 を 人質 に 取 るような 、卑 劣 なことは しな いと 約束 したが、東征軍 の 主力 である 薩摩藩主 島津家 一 門 の 娘で 、第 1 3 代 徳川 家定 に 嫁入 り した 天 璋 院 ( て ん し ょ う い ん ) 篤 姫 ( あ つ ひ め )、(1836 ~ 1883 年 ) の 安全 についても、話題 になったかも 知 れな い。

ちなみに 島津家 は 77 万 石 の 大 名 とは いえ 、徳川 の 本 家 に 嫁 入 りするに は 「 家 の 格 」 が 低 い の で 、摂 政 ・ 関 白 に なれる 「 五 摂 家 」 ( ご せ っ け ) の 一 つである 近衛家 に 一時的 養女 となって 「 娘 の 家 の 家 格 」 を 上 げ、徳川 の 本 家 に 嫁 入 り した。

西郷 と 幕府側代表 は、明日また 会 うことを 約 して 別 れた。


( 7 - 3、第 3 回 の 交 渉 )

東征軍 ( 官 軍 ) による 江戸城 総攻撃 は 当初 から 3 月 15 日 と 予定 されて いたが、その 前日 の 3 月 14 日 に 今度 は 芝 の 薩摩屋敷 で 会 談 することとなった。勝 海舟と 山岡 鉄舟 は、第 1 回 の 会談 で 西郷 が 山 岡 に 提示 した 降 伏 条 件 文書 につ いての 嘆 願 書 を 携 えて、西郷 隆盛 の 所 を 訪 れた。 

西郷 は 勝 から 手 渡 された 嘆願書 を 読 み、勝 と 恭 順 の 条 件 について 話 した 後、隣 室 に 控 えて いた 薩摩 藩士 の 村田 新八 ・ 桐野 利秋 を 呼 び、 明 日 の 江 戸 総 攻 撃 の 中 止 を 伝 えた。これによ り 江戸城の 無血開城が 確定 した。

記念碑

J R 山手線 ・ 京浜東北線 「 田 町 駅 」 より 北東側 徒歩 数分 の 場所 に、三菱自動車工業の 本社 ビ ル があるが、その ビ ル の 歩道 わきに 「 西郷南洲 ・ 勝海舟 会見之地 」 西郷吉之助 書 と書 かれた 記念碑 が 立って いる。

そこには 「 慶応 四年 三月 十四 日 此地 薩摩邸 に 於 い て 、西郷 ・ 勝 両雄 ( りょうゆう、二 人 の 英 雄 ) 会見 し 江戸城 開城 の 円満 解決を 図 り、 百万 の 民 を 戦 火 より 救 ひたるは 其の 功 誠 に 大 なり。 平和を愛する吾町民深 く感銘 し 以て之を 奉 賛 す 」 と記されている。 ちなみに 西郷 吉之助 とは、西郷南洲 ( 西 郷 隆 盛 ) の 孫 で ある。


[ 8、主 役 た ち の そ の 後 ]

( 8 - 1、西 郷 隆 盛 の 場 合 )

明治維新の 後、新政府 により従来 の 身分制度 の 再編 が 図られ、これまで 武士階級 の 特権 の 象徴 であった 苗 字 ( み ょ う じ、名 字 ) ・ 帯 刀 ( た い と う ) も、明治 3 年 ( 1870 年 ) に 「 平 民 苗 字 許 可 令 」 が 定 められ、平民 も 苗字 ( 名字 ) が 持 てるようになった。

明治 4 年 ( 1871 年 ) に は 「 散 髪 脱 刀 勝 手 た る べ し 」 とする 「 散 髪 脱 刀 令 」 を 発 し、武士 は 髪 ( ま げ ) を 結 ( ゆ ) わな くても よ く、刀 を 差 さな く てもよ く なった。

さらに、明治 6 年 ( 1873 年 ) には 「 徴兵令 」 が 発布 され、農民 から 軍人 になることも 可能 になった。

同 じ 明治 6 年 ( 1873 年 ) 西郷隆盛 は 板垣退助 などと共に、 排 日 ・ 鎖国下 の 朝 鮮 に 出兵 しようと 征韓論 を 主張 したが、1 年半 続 いた 戊 辰 ( ぼ し ん ) 戦争 で 疲 弊 ( ひ へ い ) した 国内経済 の 回復優先を 唱える岩倉具視 ・ 木戸孝允 ・ 大久保利通 らの反対 で、西郷隆盛 らは 官 を 辞 した。

鹿児島 に 帰った 彼 は 、私学校 を建 て 士族 の 教育にも 当 たったが、明治政府が 士族 の 持つ 特権 を 次 々 に 廃止 し、それによって 士 族 と しての プライド も 傷 つけられ、経済的基盤 の 崩 壊 も 始まった。

当時、明治政府は 人口 わずか 5 % の 士 族 に 対 して、国家予算の約 4 割 に 当たる 給料 を与えており、財政困難に 陥って いた。その 状況 を 変えるべ く、 秩 禄 処 分 ( ち つ ろ く し ょ ぶ ん、士 族 ・ 華 族に対する 俸禄支給 を 整 理、廃 止 した 措置 )、金禄公債条例 発布などを行い、士 族 へ の 給料を大幅 に 削 減 した。

これらの 経済的困窮 や、士 族 に 対 する 明治政府 の 政策 に 対 する 不平 ・ 不満が 溜 まり、西郷 もこれを 抑 えることができず やむなく 西南戦争 を 起 こ したが、戦 い に 敗れ て 自害 した。享 年 50 であった。


( 8 - 2、山 岡 鉄 舟 の 場 合 )

徳川家 存続 のため 駿 府 へ 赴き、西郷 隆盛 と 談 判 し、勝 海舟 との 会談 を 実現させ、江戸城無血開城に 貢献 した 山岡 鉄太郎 ( 鉄 舟 ) は、その 能力 を 新政府 に 評 価 され 、維新後 には 静岡藩 権大参事 ( ごん だ いさん じ、副 知 事 ) 、伊万里 ( い ま り ) 県 令 ( 後 の 知 事 ) などを 経 て 宮中 へ 出 仕 ( しゅっ し、官 に 仕 えること ) した。

侍 従 や 宮内 小輔 ( く な い しょう ゆう ) などを 歴 任 し、明治天皇 の 側近 と して 仕 えた。朝 敵 となった 徳川 慶喜 の 身辺警護 を 務 めた 男 が、維新後 には 明治天皇 の 側 近 となるのは、非常 に 珍 し い ことであった。

鉄 舟 が 天皇 の 侍 従 になり、初 めて 伺 候 ( し こ う ) した 時 の やり 取 りが、南条範夫 の 「 山 岡 鉄 舟 」 に 書 いてある。

  • 天 皇  「 山 岡、お前は 朝 敵 の 家来 だそうだな」

  • 鉄 舟 「 お上、畏 れながらそれは 違 いまする 」

  • 天 皇 「 だが、お前は徳川家 の 直 参 ( じ き さ ん、江戸幕府 の 旗本、御家人の 総 称 ) 」

  • 鉄 舟 「 お上、徳川家 は 朝 敵 でござ いま した。しか し 只今 は 陛下 の 恭 謙 ( きょうけん、慎 み 深 く、へり くだること ) な 臣 下 でござ います。不肖 山 岡 もかつて 朝敵 の 家 臣 でござ いま したが、只今は 陛下の 忠 良なる 臣 民 でござ います。現在 我が 国 に、 朝 敵 などは 一人 も 存 在 しておりませぬ

山岡 鉄舟は、次項で 述 べる 「 子 爵 」 ( し し ゃ く ) を 後に 授与 され 、華 族 に 列 せられたが、その 時 に 詠 んだ 狂 歌 は、

食 う て 寝 て 働 き も せ ぬ ご 褒 美 に、蚊 族 ( 華 族 ) と な り て 又 も 血 を 吸 う

であった。なお 西郷 は 鉄舟 のことを、

命 も いらず、 名 も い ら ず 、官 位 も 金 も い ら ぬ 人 は 始 末 に 困 るものなり。 此 の 始 末 に 困 る 人 な ら で は ( で な く て は )、艱 難 ( か ん な ん、困難 に 遭 って 苦 し み 悩 むこと ) を 共 に し て 国 家 の 大 業 は 成 し 得 ら れ ぬ な り ( 得 ら れ な い の だ )。

と 称 賛 し、『 西 郷 南 洲 遺 訓 』 そ の 生 き 方を 自分 の 鑑 ( かがみ ) に した。


( 8 - 3、恵 ま れ た 勝 海 舟 の 、そ の 後 )

明治維新後 も 勝 海舟 は 旧幕臣 の 代 表 格 と して 外務大丞 ( が いむ た い じ ょ う 、現在で言えば 外務省 の ナンバ ー 4 の 地位 )、兵部大丞 ( ひょうぶ たい じょう 、軍政を 司る 行政機関 の ナンバ ー 4 ) を 歴 任 した。

明治元年 (1868 年 ) に 太政官制 が 復活 し 、大 臣 と 納 言 ( な ご ん ) は 公 卿 ( くぎょう ) と 諸 侯 ( 諸 大 名 ) 出身者 で 占 められる 一方で 、参 議 は 薩長土肥 ( 薩 摩 ・ 長 州 ・ 土 佐 ・ 肥 前 ) などの 維新功労者 から任命 された。

しか し 幕 臣 であった 海 舟 は 慣 例 にとらわれずに、 参 議 兼 海 軍 卿 ( 海 軍 大 臣 )、元老院 議官、枢密院 ( すうみついん ) 顧問官を 歴 任 した。

しか し 明治政府 への 仕官 に 気 が 進 まず、これらの 役職 は 辞 退 したり、短期間 務 めただけで 辞 職 するといった 経 過 を 辿 り、元老院 議官を最後 に 、中央政府 へ の 出 仕 を 辞 退 した。

日本 の 華族制度 は、明治 2 年 ( 1869 年 ) に 創 設 され、昭和 2 2 年 ( 1947 年 ) に 終 了 したが、偉 い 順 に

公 爵 → 侯 爵 → 伯 爵 → 子 爵 → 男 爵

となって いた。最高位の 公 爵 ( こ う し ゃ く ) の 位 ( く ら い ) をもらったのは 、公家 ( く げ ) の  五 摂 家 ( ご せ っ け ) つまり 近 衛 家 ・ 九 条 家 ・ 鷹 司 家 ・ 一 条 家 ・ 二 条 家 の 五 家であり、武家 では 徳川家 の 本 家 が 公爵 となった。

公 爵 も 侯 爵 も 発音 は 同 じ 「 こ う し ゃ く 」 なので、世間では 「 公 爵 」 を 『 き み こ う 』、侯 爵 のことを 『 そ う ろ う こ う 』 と 呼 び 区別 した。

勝 海舟も 伯爵を 授与 され 従 2 位 、勲 1 等 をもらったが、咸臨丸 に 乗 り 一 緒 に ア メ リ カ を 往復 した もと 中津藩士 の 福沢 諭吉 ( 慶應義塾大学 の 創設者 ) の 辛口 の 批評 によれば、

三百年 の 徳川幕府 を あ っ さ り と 敵 に 売 り 渡 し、二 君 に 仕 え る と は ?。勝 と い う の は 傑 物 ( け つ ぶ つ 、飛び 抜 けて 優 れた 人 物 ) か も し れ ん が、武 士 の 風 上 に も 置 け ぬ 人 物 だ 」

と勝 のことを 嫌 って いた。多 くの 幕臣 が 禄 ( ろ く、給与 ) を 失 い 生活 が 困窮 する 中、勝は 悠々 自適 の 人生 を 送 り続 け、77 歳で 他界 した。死 後 「 正 2 位 」 が 贈 られた。


[ 9、紅 毛 碧 眼 ( こ う も う へ き が ん ) の 孫 ]

広 く 知 られているように、勝 海舟 には 多 くの 愛 人 が いた。その中 の 一人、『 く ま 』 ( 梶 玖磨、か じ く ま ) は 、海舟 が 安政 2 年 ( 1855 年 ) に 長崎海軍伝習所に入所 し 、足かけ 4 年 長崎 に 滞在 した 時代 から 続 いた 愛 人 であった。

二人の 間 には 男子が 出生 したが 『 梅 太 郎 』 と 名 付 けられ、 海舟 の 本妻 民子 の 子も いたため、戸籍上 は 三男 であった。後 に 「 く ま 」 が 若 く して 死亡 したため、 生家である 梶 ( か じ ) の 姓 を 継 ぎ 育 てられた。

来日

その 梅太郎 が 明治 19 年 ( 1886 年 ) に 結婚 したのが 4 歳年上 の アメリカ 人、 「 ク ラ ラ ・ ホ イ ッ ト ニ ー 」 ( C l a r a ・ W h i t n e y ) であった。ク ラ ラ の 父 ウ ィ リ ア ム ・ ホ イ ッ ト ニ ー は 、国立 の 商 法 講 習 所 ( 後 の 一 橋 大 学 )  設 立 のために 政府 から 招 かれて 、妻 の ア ン ナ と 三人 の 子供を連れて 明治 8 年 ( 1875 年 ) に 来日 したとされる。写真は、ク ラ ラ 。


( 9 - 1、ク ラ ラ の 日 記 )

子沢山

梅太郎 ・ ク ラ ラ 夫妻 は 一 男 五 女 をもうけたが、ク ラ ラ は 明治 33 年 ( 1900 年 ) に アメリカ へ 帰国 するまで、当時 の 日本の 風俗、有名人 や キリスト 教 布教 の様子 など 、明治 の 人々 の 日常 を 、生き 生きと 描写 した 大 小 の ノート 17 冊 に 及 ぶ 日 記 を 記 した。写真 にある 幼 女 「 ヒ ル ダ 」 のことを 、覚 えてお かれた し。

父 の 海舟 が 存命中 は 、 「 遊 び 人 」 で 生 活 能 力 が 乏 し い 梅 太 郎 に対 して 何 かと 経済的 支援 を してきたが、明治 32 年 ( 1899 年 ) に 海舟 が 病死 すると、 二人の 生活 が たちまち 苦 し くな り、梅太郎 と クララ は その 1 年後に 離 婚 した。そ して ク ラ ラ は 子供たちを 連 れて 、米国 フ ィ ラ デ ル フ ィ ア に 帰 国 した。

孫娘

ところで 昭和 49 年 ( 1974 年 ) に、日本の各新聞 は、海 舟 の 孫 娘 の ヒ ル ダ ( H i l d a ) 74 歳 が 来日 して、生 まれ 故郷 を 訪 れ、祖 父 勝 海 舟 の 墓参 りを したことを 報 じて いた。 その際に 母親 の 遺 品 であった 17 冊 の 日記帳 を持参 し、日本の 親 族 に 手渡 した。

それを 基 に 出版 されたのが 「 ク ラ ラ の 明治 日記 」 ( 上・下 巻 ) であり、私も 今回 これを書 く 際 に ざっと 読 んで み た。


[ 10、最 後 に ]

幕末 から 3 0 年 が 経 過 して、当時 の 幕 臣 や 新政府 の 主要 な 人物 も、大部分 が 世 を 去 った。木戸 孝允 ( た か よ し ) は 明治 10 年 ( 1877 年 ) に 病 死 し、大久保 利通 は 翌 年 ( 1878 年 ) 武士の特権を奪われたことに不平不満を持つ 士族 の刺 客 により 暗 殺 された。

遣 欧 使 節 の 全権大使 を 務 めた 岩倉 具視 ( と も み ) は 明治16年(1883 年 ) に 咽頭癌 により死亡 し、山 岡 鉄 舟 は 1888 年 に 世 を 去 り、東征軍 の 総司令官 有栖川宮 熾 仁 ( たるひと ) は 1895 年 に 亡 くなった。

勝 海舟 は、老齢 のため、明治 30 年 頃 から たびたび 床 に 就 くようになったが、自分も 長 くは 生きられないのを 悟 ったのか、次の 狂 歌 を 詠 んで いる。

長 門 人 ( な が と び と、長 州 人 ) ・ 薩 摩 隼 人 ( さ つ ま は や と、薩 摩 人 ) の こ の 頃 や 、我 が 末 の 世 と か わ ら ざ り け り

明治 32 年 ( 1 8 9 9 年 ) 1 月 19 日 に 、数え年の 7 7 歳 で 亡 くなった。当時 と しては 充分 過 ぎるほどの 長寿 であった。


( 10 - 1、勝 海 舟 の 銅 像

国 家 に 弓 を 引 いて 反 逆 者 となった 西郷 隆盛 は 、薩摩 派閥 の 力 学 ( り き が く ) により、見事 に 復活 して、上野公園 の 入り口 に 明治 31 年 ( 1898 年 ) に 銅 像 が 立てられてた。

海舟ゆかり

し か し、勝 海舟 の 銅 像 が 無 いのは おか し いと 考 える 「 勝 海 舟 の 銅 像 を 建 て る 会 」 の 人 々 の 努力 により、海 舟 ゆかりの 地である 隅田 区役所 前 の 「 う る お い 広 場 」 の 緑地内 に 、西郷 に 遅 れること 105 年、平成 15 年 ( 2003 年 ) に 海舟の 銅 像 が ようやく 建 立 された。


since R 1、Jly. 20

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