秩 父 事 件 、 前 後 の こ と


[ 1: は じ め に ]

重税

皆 さんは 明 治 17 年 ( 1 8 8 4 年 ) 1 0 月 3 1 日 から 1 1 月 9 日 に か け て 、埼 玉 県 ・ 秩 父 郡 ( ち ち ぶ ぐ ん ) で 武装 した 農 民 が 大 規 模 に 蜂 起 ( ほ う き ) し た 秩 父 事 件 、別 名  秩 父 困 民 党 ( こ ん み ん と う ) 事 件 が 起 きて、隣 接 する 長 野 県 に 波 及 し た こ と を ご 存 知 ですか ?。

原 因 は 不 況 による 生 糸 価 格 の 暴 落 ・ 松 方 財 政 による デ フ レ 政 策 ( 後 述 ) のため 、地 方 税 増 税 などの 農 民 に 対 する 経 済 的 負 担 が 急 激 に 増 加 し た こ と。

金 融 制 度 が 不 備 のため 、貧 し い 農 民 は 生 活 資 金 不 足 を 一 時 的 に 「 金 貸 し 会 社 」 や 「 高 利 の 「 貸 金 業 者 」 、質 屋 に 頼 っ た が、不 況 のため 借 り 手 が 多 く 金 利 が 法 外 に 高 騰 し たこと。

そのため 借 金 が 払 えな くなった 農 民 が 続 出 し 、地 租 ( ち そ、土 地 に 課 す 税 金 ) の 減 額 ・ 負 債 の 据 え 置 き、ある い は 年 賦 返 済 に 借 り 直 し などが 農 民 の 共 通 した 要 求 となり、 数 千 人 規 模 の 武 装 蜂 起 ( ほ う き ) に 発 展 した。

明 治 政 府 は 内 務 卿 ( 内 務 大 臣 ) 山 県 有 朋 ( や ま が た あ り と も ) の 報 告 を 受 けて、数年前 から 全 国で 頻 発 した 農 民 による 騒 動 とは 全 く 異 質 の 、 反 政 府 的 性 格 と 規 模 を 持 つ も の と 判 断 した。


[ 注 : カ ネ に 汚 い 山 県 有 朋 ]

彼は 長州出身 であるが 藩 士 ではなく、足 軽 ( あ し が る ) よ り 身分 が 低 い 「 蔵 元 付 仲 間 組 」 と い う、「 武 家 奉 公 人 」 に 過 ぎなかった。 詳 しくは、下記を ク リ ッ ク 。

明 治 新 政 府 初 の 汚 職 事 件

山 県 有 朋 によれば、

暴 徒 ノ 首 魁 ( し ゅ か い 、首 謀 者 ) タ ル 者 ハ 、 自 由 党 員 又 ハ 博 徒 ( ば く と 、賭 博 の 常 習 者 )、 三 百 代 言 ( さ ん び ゃ く だ い げ ん、資 格 のな い 弁 護 士 ) ノ 輩 ( や か ら ) ナ リ

と 朝 議 ( ち ょ う ぎ、朝廷 で の 会 議 ) で 報告 した。それにより 憲 兵 隊 ・ 鎮 台 ( ち ん だ い ) 兵 の 戦 時 出 動 を 命 じ る こ と に な っ た。

{ 注 : 鎮 台 と は }

鎮 台 ( ち ん だ い ) は、明 治 4 年 ( 1871 年 ) か ら 、明 治 2 1 年 ( 1888 年 ) ま で 存 在 し た 日 本 陸 軍 の 編 成 単 位 である。常 設 されたも の と し て は 、最 大 の 部 隊 単 位 で あ っ た。


( 1-1、秩 父 の 自 然 風 土 )

河岸段丘

埼玉県 の 西 端 にある 秩 父 は 、周 囲 を 武 甲 山 ( ぶ こ う さ ん 、1 , 2 9 5 m ) ・ 両 神 山 ( り ょ う が み さ ん、1 , 7 2 3 m ) ・ 大 霧 山 ( お お ぎ り や ま、7 6 7 m ) ・ 丸 山 ( 9 6 0 m ) などに 囲 まれた 盆 地 である。

盆地 の 西 側 には 奥 秩 父 を 水 源 とする 荒 川 が 流 れ、東京湾 に 注 いで いる。両 岸 は 河 岸 段 丘 ( か が ん だ ん き ゅ う ) を 形成 して 平 地 は 少 な く 、畑 は 斜面 や 山を 拓 ( ひ ら ) い た 「 焼 き 畑 」 で、地 味 は 痩 せて い る。

「 米 」 の 収 量 は 平野部 に 比 べて 格 段 に 低 く、か つ て 住 民 は 大 麦 ( お お む ぎ ) ・ 粟 ( ア ワ ) ・ ソ バ を 、常 食 と し て い た。

江戸時代 の 文 化 ・ 文 政 期 ( 1 8 0 4 年 ~ 1 8 2 9 年 ) に 書 かれた 武 蔵 国 の 地 誌 である   『 新 編 武 蔵 国 風 土 記 稿 』   ( し ん ぺ ん む さ し の く に ふ ど き こ う ) に おける 秩 父 郡 の 総 説 に よ れ ば、

( ふ 、夫 の あ る 女 性 ) も 男 と 斉 ( ひ と ) し く 短 褐 ( た ん か つ、丈 の 短 い 粗 末 な 布 の 衣 服、作 業 衣 ) を 着 ( ち ゃ く ) し 山 野 に 動 揺 し ( ど う よ う し、動 き ま わ り )、凍 寒 ( と う か ん、 凍 り つ く よ う な、厳 し い 寒 さ ) に 至 り て も 只 ( た だ ) ( か つ ) を も て 重 ね 襲 ( お そ ) ( 普 段 着 を 重 ね 着 す る ) の み。

い ぬ る ( 寝 る ) に も 臥 具 ( が ぐ、寝 具 ) の 設 ( せ つ、備 え 付 け ) な く、夜 も す が ら ( 終 夜 ) 夫 妻 子 母 燼 火 ( じ ん か 、燃 え 残 り の 火 ) を 擁 ( よ う し て、囲 ん で ) ( ね む ) り、燈 ( あ か り ) は 松 根 ( し ょ う こ ん 、油 分 の 多 い 松 の 根 ) を 焚 ( た ) け り---。

自給自足

深 谷 窮 民 ( し ん こ く き ゅ う み ん 、深 い 谷 間 の 傾 斜 地 に 住 み 、苦 し い 日 常 生 活 を 送 る 人 々 ) の さ ま は、他 郡 の 風 俗 と は 違 ( た が ) え る 所 多 か る べ し。

と あ る。

ま た 秩 父 郡 ・ 芦 ヶ 久 保 村 ( あ し が く ぼ む ら) 、( 現・ 秩 父 市 横 瀬 ) の 条 に は、

も と よ り 山 多 く 険 阻 ( け ん そ、け わ し く ) に て、畑 は 嵯 峨 ( さ が、高 く 険 し い 場 所 )  に よ り て、水 田 は 僅 計 ( わ ず か ば か ) り 谷 間 に あ り、用 水 は 谷 水 を 引 け り。

ま ま
( と き ど き ) 早 損 ( か ん そ ん 、干 ば つ  に よ る 被 害 ) を 患 ( わ ず ら ) ふ。 土 地 宜 ( よ ろ ) し か ら ず。諸 作 実 登 り 悪 く ( し ょ さ く も つ 、み の り わ る く ) 、 年 穀 半 年 を 支 ( さ さ ) ふ と 云 う ( 田 畑 の 収 穫 で は 、半 年 分 の 生 活 し か 維 持 で き な い と い う )


( 1-2、米 の 収 穫 量 )

武 蔵 国 改 革 組 合 村 々 石 高 ・ 家 数 取 調 書 ( 新 編 埼 玉 県 史、資 料 編 14 付 録 ) によれば、


組合名村 数郡 域石 高家 数1 戸 当 たり の 収 穫 石 高
大 宮 郷
(秩父町)
寄場
18秩 父8,4623,3182.5 5
荒川村
(贄川村)
秩 父1,0065771.7 4


一石

参 考 まで に 「 米 」 1 石 ( こ く ) と は 、昔 の 人 一 人 が、1 年間 食 べ る の に 必 要 な 米 の 量  ( 10 斗 ( と )、= 1 5 0 キ ロ グ ラ ム ) で あ り、米 俵 に 換算 す る と 2 俵 半 で あった。

即 ち 大 宮 郷 ( 秩 父 町 ) 寄 場 ( よ せ ば ) の 農 家 では 、1 戸 当 た り 2.5 人 分 の 米 し か 生 産 できず、荒 川 村 ( 旧 ・ 贄 川 村、に れ が わ む ら ) の 農 家 では 、1 戸 当 た り 1.7 人 分 の 米 しか 収 穫 できなかった。

しかも 当 時 の 農 村 で は、1 戸 当 た り 6 ~ 7 人 の 家 族 数 が 普 通 で あ っ た の で、こ れ を 見 る 限 り 、米 の 自 給 自 足 に は 、ほ ど 遠 い 状 態 で あった。

そのため 前 述 したように、水田 に 恵 ま れ な い 大 多 数 の 農 家 では 、「 焼 き 畑 」 農 業 を し て 大 麦 ( お お む ぎ ) ・ 粟 ( ア ワ ) ・ ソ バ を 、常 食 と し て い た。

ところで 秩 父 の 農 民 は 、江 戸 時 代 の 中 頃 か ら 換 金 性 の 高 い 仕 事 = 養 蚕 ( よ う さ ん ) ・ 生 糸 ( き い と ) ・ 機 織 り ( は た お り ) に、 大 き く 依 存 する 状 態 であった。それにより 得 た 収 入 で 隣 接 県 や 、他 の 地 域 か ら 運 ば れ て 来 た 食 糧 の 「 米 」 や 、「 稲 ワ ラ 」  を 購 入 し た。

ナワ

その 理由 は 田 が 少 な い た め に 「 炭 焼 き 釜 」 で 炭 を焼 いても 、入 れて 運 ぶ 炭 俵 を 編 む の に 使 う 「 稲 ワ ラ 」 が、不 足 するからであった。

ちなみに 当時 は 炭 俵 一 つ の 重 さは 1 9 K g 、 ( 約 五 貫 ) で あ り、下 の 写真 の 女 性 は 二 俵 だ か ら 3 8 キ ロ を 背 負 っ て い た。

稲ワラ

しかも 当時 は 米 1 俵 ( 6 0 キ ロ ) 買う の に 火 持 ち の 良 い 「 ク ヌ ギ 」 の 上 級 炭 で は 1 0 俵 、雑 木 の 下 級 炭 で 約 1 4 俵 必 要 で あった。参 考 までに 現 代 の 「 米 」 の 卸 売 り 価 格 を 、下 記 に 表 に し て 示 す。


( 1-3、米 の 卸 売 価 格 )

  令 和 2 年 ( 2020 年 ) に 全 農 ( 全 国 農 業 協 同 組 合 連 合 会 ) 県 本 部 が 、県 内 の J A ( 農 協 支 部 ) に 示 し た 産 米 の 主 な 概算金( 1 等 6 0 キ ロ 当 たり ) と 、それに 基 づ く 1 石 = 1 5 0 キ ロ 当 た り の 卸 売米 価 を 下 表 に 示 す。


産 地銘 柄6 0 キ ロ 概 算 金1 石 当 たりの 価格
栃 木コ シ ヒ カ リ1 万 2 4 0 0 円 3 万 1 千 円
宮 城ひ と め ぼ れ1 万 2 6 0 0 円3 万 1 5 0 0 円
秋 田あ き た こ ま ち1 万 2 6 0 0 円3 万 1 5 0 0 円
福 島会 津・コシヒカリ1 万 2 6 0 0 円3 万 1 5 0 0 円
滋 賀コ シ ヒ カ リ1 万 3 6 0 0 円3 万 4 0 0 0 円
山 県つ や 姫1 万 6 3 0 0 円 4 万 7 5 0 円
鹿児島コシヒカリ(早期)1 万 5 0 0 0円3 万 7 5 0 0 円



私 は 昭 和 2 1 年 ( 1 9 4 6 年 ) か ら 3 年 間 、秩 父 町 ( 当 時 ) の 「 熊 木 、く ま き 、現 熊 木 町 」 に 居 住 したが 、場 所 は 秩 父 公 園 の す ぐ 近 く であ っ た 。

熊木

お 盆 の 時 期 に な る と 、毎 晩 のように 秩 父 公 園 の 広 場 で 「 盆 踊 り 」 の 「 予 行 練 習 」 が お こ な わ れ た が、現 在 では そ こ に 市役所 や 市民会館 が 建 て ら れ て い る。


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長 じ て か ら 、関 西 から 転 勤 で 昭 和 5 4 年 ( 1 9 7 9 年 ) か ら 5 年 間 横 浜 に居 住 した 際 には、奥 秩 父 の 登 山 を 趣 味 に した。

東京都 の 最高峰 、雲 取 山 (2,017 m ) ・ 甲 武 信 岳 ( こ ぶ し が た け 、2,475 m ) ・ 金 峰 山 ( き ん ぷ さ ん 、2,599 m ) ・ 十 文 字 峠 (1,962 m )・ 両 神 山 ( り ょ う が み さ ん、1,723 m ) などに 登 った。

下 山 路 を 毎 回 秩 父 方 向 に とって 市 内 で 泊 まり、秩 父 三 十 四 箇 所 観 音 霊 場 を 、つ いでに と 言 えば 失 礼 になるが、お 参 り し た。ちなみに 定 年 退 職 後 は、四 国 霊 場 八 十 八 箇 所 を 歩 いて 巡 る 千 二 百 キ ロ の 旅 を 完 歩 した。

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江戸時代 後 期 の 文 化 ・ 文 政 期 に 始 ま っ た と さ れ る 「 盆 踊 り 」 の 際 に 歌 われる 「 秩 父 音 頭 」 の 歌 詞 に も、

い く ら 秩 父 に 田 が 無 い と て も ( 繰 り 返 し )、盆 と 正 月 、ア レ サ 、 米 の 飯

と い う の があり 、秩 父 の 食 糧 事 情 を よ く 表 して い た。や ぐ ら の 上 の 「 歌 い 手 」 に 合 わ せ て、男 の 子 も 女 の 子 も 大 人 たちに 混 じ っ て 踊 ったり、大きな 声 で 秩父音頭 を 歌 っ た り し た 。


小 休 止 ( C o f f e e - B r e a k )

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下 記 は 秩 父 音 頭 発 祥 の 地 、秩父郡 ・ 皆 野 町 の 盆 踊 り

秩 父 音 頭


毎年 12 月 3 日 の 「 秩 父 神 社 の 夜 祭 」 の 際 に は、六 台 の 「 祭 屋 台 」 が 市 内 を 巡 行 し た あ と に、「 見 せ 場 」 で あ る 団 子 坂 の 急 坂 を 登 り、市 役 所 がある 秩 父 公 園 広 場 の 端 にある 秩 父 神 社 の 「 お 旅 所 」 ( お た び し ょ ) 前 に 勢 揃 い する。

そこは 神 社 の 祭 礼 = 神 幸 祭 ( し ん こ う さ い ) に お い て 、 一 般 には 御 神 体 を 乗 せた 神 輿 ( し ん よ 、み こ し ) ・ 山 車 ( だ し ) ・ 祭 屋 台 が、巡 行 の 途 中 で 休 憩 、ある い は 神 幸 ( み ゆ き ) の 目 的 地 と な る 場 所 で あ る。


秩 父 神 社 の 夜 祭 り


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貧乏百姓

最近 の 統 計 によれば、秩父郡 で は 8 4 パ ー セ ン ト が 森 林 で、農 地 は 僅 か 2.6 パ ー セ ン ト に 当 た る 2 , 3 4 6 ヘ ク タ ー ル ( h a ) に 過 ぎ ず、1 戸 当 た り の 平均 耕作 面積 は 0.6 ヘ ク タ ー ル ( = 6 0 アー ル ) で 、昔 か ら 「 小 作 人 」 の 貧 乏 百 姓 の 代 名 詞 で あ っ た 「 五 反 百 姓 」 ( ご た ん び ゃ く し ょ う ) と、ほ ぼ 同 じ で あ っ た。


[ 2 : 養 蚕 ・ 絹 織 物 ]

養 蚕 ( よ う さ ん ) は 、米 の 穫 れない 山 国 秩 父 の 農 民 にとって 、現 金 収 入 を 得 る た め の 副 業 と して、古 く か ら お こ な わ れ て い た。

前述 し た 『 新 編 武 蔵 風 土 記 稿 』 の 中 でも、

「 農 の 隙 ( す き、合 間 ) に 男 は 山 稼 ぎ { 伐 木 ( ば つ ぼ く ) ・ 採 薪 ( さ い し ん、た き ぎ 採 り ) ・ 炭 焼 ・ 狩 猟 な ど を し て 生 計 の 補 ( お ぎ な ) い に す る こ と } 、女 は 蚕 ( カ イ コ ) を 養 い 絹 織 ( き ぬ お ) る こ と を 業 と す 」

と 記 して いた。

ところで 私 は 敗戦 前年 の 昭 和 1 9 年 ( 1 9 4 4 年 ) 7 月 に、東 京 都 ・ 豊 島 区 ・ 巣 鴨 から 長野県 ・ 小 県 ( ち い さ が た ぐ ん ) 郡 ・ ( 旧 ) 室 賀 ( む ろ が ) 村 にある 山奥 の 寺 に 、小 学 校 5 年 男 子 7 5 名 と 共 に 米 軍 機 の 空 襲 を 避 けるため 、 学 童 集 団 疎 開 を し た。

勤労奉仕

当時 その 村 では 養 蚕 が 盛 んであり、戦時中 のため 働 き 手 が い な い 養 蚕 農 家 に 勤 労 奉 仕 に 行 く と、 桑 畑 から 桑 ( く わ ) の 葉 を 小 枝 ごと 切 り 取 り、丸 い 「 背 負 い カ ゴ 」 に入 れて カ イ コ 部屋 へ 運 び 込 み、「 桑 の 葉 」 を カ イ コ に 与 え た り し た。

カ イ コ に 触 れたのは その時 が 最 初 で あ っ た が、沢 山 の カ イ コ に 触 れると 、冷 た い 感 触 が したのを 覚 え て い る 。 カ イ コ 部屋 に 入 ると、無 数 の カ イ コ が 桑 の 葉 を 食 べ る 音 が 聞 こえてきたが、カ イ コ が 糸 を 吐 いて 繭 ( ま ゆ ) を 作 る 様 子 も 見 る こ と が で き た 。

下記 は 皇 后 陛 下 ( 現・上 皇 后 ) の ご養 蚕 の 動 画 ( 3 0 分 ) であり、卵 か ら 「 ふ 化 」 し た カ イ コ が 繭 ( マ ユ ) を 作 り、絹 糸 になるまでを 分 かり易 く ま と め ら れ て い る。

薄 緑 色 の 天 蚕 ( て ん さ ん 、 野 生 の カ イ コ 、山 繭 蛾 = や ま ま ゆ が ) の 飼 育 を 、私 も 今回 初 め て 見 る こ と が で き た。

こ こ を ク リ ッ ク


( 2-1、海 外 貿 易 の 開 始 )

嘉永 6 年 ( 1 8 5 3 年 ) 米 国 東 イ ン ド 艦隊司令官 ペ リ ー 率 いる 黒船 が 来航 したのを 契機 に、それまで 貧 し い 漁 村 に 過 ぎなかった 横 浜 が、安 政 5 年 ( 1 8 5 8 年 ) に 「 開 港 場 」 とな り、生 糸 ・ 蚕 種 ( さ ん し ゅ 、カ イ コ の 種 ) が 日 本 からの 有 力 な 輸 出 品 となった。

猛威

当 時 の ヨ ー ロ ッ パ では 、北 イ タ リ ア から 南 フ ラ ン ス の 養 蚕 地 帯 に 掛 けて、1 8 5 0 年 代 初 頭 から カ イ コ の 幼 虫 に 黒 い 斑 点 ( 写 真 ) が 出 て 死 ぬ 微 粒 子 病 ( び り ゅ う し び ょ う、『 あ る 種 の 菌 類 の 寄 生 』 に よ り 生 じ る ) が 猛 威 を 振 る い 、欧 州 の 養 蚕 事 業 は 大 打 撃 を 受 け て い た。

そこで フ ラ ン ス 政 府 は 幕 府 の 「 蚕 種 ( さ ん し ゅ ) 輸 出 禁 令 」 を 無視 して 、 日本産 の 蚕 種 ( さ ん し ゅ、 カ イ コ の 卵 ) 、蚕 蛾 ( さ ん が ) に 産 卵 させた 厚紙 を 蚕 卵 紙 (さ ん らん し / さん し ) と いうが、これ を 密 かに 国外 へ 持 ち 出 さ せ た。

調 査 の 結 果 、日本産 カ イ コ が 病 気 に 強 い 種 類 であることが 判 明 すると、幕 府 に 対 して それまで 禁止 して い た 蚕 種 の 輸 出 を 解 禁 するよう 要求 し た。

その 結果 日本の 蚕 種 は 、慶 応 元年 (1 8 6 5 年) 6 月 以 降 は 「 自 由 貿 易 品 目 」 に な り、そ の 後 明治 8 年 (1 8 7 5 年 ) ま で の 約 1 0 年間 、蚕 種 は ヨ ー ロ ッ パ 養 蚕 国 へ 大量 に 輸 出 さ れ て 、「 微 粒 子 病 ま ん 延 」 による 欧 州 養 蚕 業 界 の 危 機 を 救 っ た。


[ 3 : 養 蚕 、絹 織 物 の 歴 史 ]

養 蚕 は 今 から 五 ~ 六 千 年 以 上 前 の 中 国 で、野 生 の 桑 子 ( ク ワ コ / カ イ コ ) を 「 家 畜 化 」 し たのが 始 まり と いわれて い る。

中 国 大 陸 から 日 本 に 伝 播 し た の は、「 日 本 人 の 先 祖 の ひ と つ 」 とされる 中 国 からの 移 住 者 ( 弥 生 人 ? ) が、稲 作 と 共 に 養 蚕 技 術 をもたら したとされて いる。

弥生時代 の 前 期 末 ( 紀元 前 三 世紀 ) の 遺 跡 である 福岡市 ・ 早 良 区 ( さ わ ら く ) ・ 有 田 遺 跡 からは 、絹 を使った 織 物 が 出 土 して いる。

甕棺

また 佐賀県 ・ 神 埼 郡 ・ 吉 野 ヶ 里 町 と 神 埼 市 に ま た が る 「 吉 野 ヶ 里 遺 跡 」 ( よ し の が り い せ き ) から 出 土 し た 甕 棺 ( か め か ん、遺 体 を 納 め る た め の カ メ ) の 中 から 麻 や 絹 の 布 片 が 発 見 さ れ て い る

こ の こ と か ら 九 州 北 部 で は 、紀 元 前 三 世紀 頃 に は 養 蚕 技 術 が 存 在 して い た こ と が、推 測 さ れ て い る。

日本書紀 によれば、第 1 5 代、応 神 天 皇 ( お う じ ん て ん の う 、在 位 2 7 0 年 ~ 3 1 0 年 ) の と き に 、 弓 月 君 ( ゆ づ き の き み ) が 百 二 十 県 ( あ が た ) の 人 夫 を 率 い て 新 羅 ( し ら ぎ ) から 渡 来 し、日 本 に 帰 化 し た と あ る。

彼 は 秦 氏 ( は た う じ ) の 先 祖 とされ、平安時代 初期 の 弘 仁 6 年 ( 8 1 5 年 ) に、第 5 2 代 、嵯 峨 天 皇 の 命 により 編 纂 された 古 代 氏 族 名 鑑 の 『 新 撰 姓 氏 録 』 ( し ん せ ん し ょ う じ ろ く ) では 融 通 王 ( ゆ う ず う お う ) とも 称 され、 中 国 における 秦 ( し ん ) の 始 皇 帝 ( し こ う て い 、在 位 紀 元 前 2 5 9 年 ~ 紀 元 前 2 1 0 年 ) の 、子 孫 と さ れ て い る。


( 3-1、秩 父 の 養 蚕 )

か つ て は 秩 父 の 絹 織 物 は 有 名 で あったが、その 歴 史 は 前 述 した 九州北部 ほど 古 い も の で は な い。 秩父市内 に あ る 「 秩 父 銘 仙 ( め い せ ん ) 館 」 の 資 料 によれば、第 1 0 代 、崇 神 天 皇 ( す じ ん て ん の う ) の い わ ば 「 神 話 の 時 代 」 に 、知 々 夫 彦 命 ( ち ち ぶ ひ こ の み こ と ) が 住 民 に 、養 蚕 と 機 織 ( は た お り ) の 技 術 を 伝 えた ( ? ) こ と に な っ て い る。

ところで 天 平 6 年 ( 7 3 4 年 ) に 当時 秩 父 の 一 部 であったと 考えられる 男 衾 郷 ( お ぶ す ま ご う 、現 ・ 埼玉県 大 里 郡 寄 居 町 ) か ら、奈 良 の 正 倉 院 に 調 布 一 端 ( 反、た ん ) 献 納 の 文書 が 残 って いる。

それに 関連 する 出来事 と しては、第 4 0 代 、天 武 天 皇 の 1 3 年 ( 6 8 4 年 ) 5 月 に 、 こ の 地方 に 帰 化 人 の 秦 ( は た ) 氏 が 移住 して い る の で、織 物 と 鉄 文 化 を 持 った 秦 氏 は、養 蚕 の 技 術 を 当然 持って い た 可能性 が 高 い。

しか し 秩 父 盆 地 で 一 般 農 家 が 養 蚕 ・ 機 織 ( は た お )りを 始 め た の は、江 戸 中 期 ( 1700 年 頃 ~ 1750 年 頃 ) 以 降 からだと 考 えられて いる。


( 3-2、絹 の 持 つ 特 徴 に つ い て

  1. 軽 い ・ 丈 夫 ・ 柔 らか い ・ 吸湿性 が 良 い ・ 染色性 が 良 い ・ 通気性 が 良 い。

  2. 絹 は、蚕 ( カ イ コ ) の 繭 ( マ ユ ) から とった 天 然 の 繊 維 で、1 個 の 繭 ( マ ユ ) か ら 約 8 0 0 メート ル ~ 1 , 2 0 0 メート ル の 繊 維 がとれるため、天 然 繊 維 の中 では 唯 一 の 長 繊 維 である。

  3. 絹 織 物 は 独 特 の 光 沢 を 持 ち 、上 流 階 級 の 衣 服 と し て 好 ま れ た 。 古 代 ロ ー マ で は、「 絹 は 同 じ 重 さ の 金 と、 等 し い 価 値 が あ る 」 と さ れ た。

  4. 6 世紀 に 絹 の 製 法 は 東 ロ ー マ 帝 国 に 入 っ た が、養 蚕 は 自然 環 境 の 影 響 を 受 け 易 く、 生 産 は 東 洋 から 中 近 東 ・ ヨ ー ロ ッ パ の 帯 状 地 域 の 一 部 に 限 ら れ 、人 々 の 旺 盛 な 需 要 を 満 た す こ と は で き な か っ た。


[ 4 : 幕 末 か ら 維 新 に か け て の 武 力 衝 突 ]

江 戸 幕 府 による 安 政 5 年 ( 1 8 5 8 年 ) の 「 外 国 貿 易 港 」 と し て の 「 横 浜 開 港 」 は 、 鎖 国 を 継 続 し 、「 攘 夷 」 を 主 張 する 第 1 2 1 代 、孝 明 天 皇 ( 在 位 1 8 4 6 年 ~ 1 8 6 7 年 ) の 頑 迷 ( が ん め い ) な 考 え に 反 す る も の で あ っ た

そこで 「 尊 王 攘 夷 派 」 ( そ ん の う じ ょ う い は ) の 急 先 鋒 ( き ゅ う せ ん ぽ う ) であった 長 州 藩 ( 周 防 国 と 長 門 国、現 ・ 山 口 県 ) に 倒 幕 の 気 運 を も た ら し 、幕 府 軍 と の 武 力 衝 突 が 始 まった。

  1. 元治 元年 ( 1 8 6 4 年 ) 7 月 1 9 日 の 「 禁 門 の 変 」 で は、長州藩 の 軍 勢 が 会 津 藩 ・ 桑 名 藩 ・ 薩 摩 藩 を 中心 とする 幕府側 勢力 に 対 して 、武 力 攻 撃 を おこなった。

  2. それに対 して 幕府 も 、第 1 次 長 州 征 伐 { 元治 元年 ( 1 8 6 4 年 ) 8 月 2 4 日 ~ 1 8 6 6 年 1 月 2 4 日 } 及 び、第 2 次 長 州 征 伐 { 慶 応 2 年 、( 1 8 6 6 年 ) 7 月 1 8 日 ~ 1 0 月 8 日 } の 出 兵 を し た。

  3. 明治 10 年 ( 1 8 7 7 年 ) に 西 南 戦 争 が 起 きたが、これは 日 本 史 上 最 大 に し て 、最 後 の 武 士 に よ る 内 乱 で あった。

    「 征 韓 論 」 に 敗 れ た 西 郷 隆 盛 は 職を 辞 して 鹿児島 に 帰 ったが、明 治 新 政 府 は 明 治 6 年 ( 1 8 7 3 年 ) に  徴 兵 令 ( ち ょ う へ い れ い ) を 公 布 し、満 2 0 歳 以上 の 男 子 に、三 年 間 の、兵 役 ( へ い え き ) の 義 務 を 課 す こ と に し た。

    士 族 は これまでの 武士 の 特 権 ( 帯 刀 ・ 俸 禄 など ) を 次 々 と 奪 われたが、こ れ に よ り 士 族 の 不 満 が 募 ( つ の ) り 、西 郷 隆 盛 を 中 心 に 士 族 による 反 乱 が 起 き た。明治 1 0 年 ( 1877 年 ) 9 月 2 4 日 、城 山 に 籠 っていた 西郷隆盛 が 幹 部 らとともに 自 刃 し、『 西 南 戦 争 』が 終 結 し た。

軍 事 行 動 は 、物 価 高 騰 による 経 済 的 負 担 を 増 大 さ せ 、資 金 不 足 に 悩 む 江 戸 幕 府 は 戦 費 に 充 当 するため、1 9 世紀 の イ ギ リ ス 領 イ ン ド にあった 植 民 地 銀 行 である 、オ リ エ ン タ ル ・ バ ン ク ( O r i e n t a l - B a n k 、英 国 東 洋 銀 行 ) の 横 浜 支 店 を 窓 口 に して 、 6 0 0 万 ド ル の 借 款 契 約 ( し ゃ っ か ん け い や く ) を 締 結 し た。

しか し 資 金 不 足 の 足 元 を 見 られ、年 利 、 1 5 % ~ 1 8 .2 % と いう 非常な 高 率 で あった。


[ 5 : 諸 物 価 の 高 騰 ]

混乱

山 口 和 雄 1 9 4 3 年 著 の  「 幕 末 貿 易 史 」 に よ れ ば、安 政 6 年 (1 8 5 9 年 ) から 慶 応 3 年 ( 1 8 6 7 年 ) までの 約 9 年間 に 、江 戸 の 諸 品 相 場 は、下記 のように 高 騰 ( こ う と う ) し た。

「 米 」 が 3 .7 倍 、水 油 ( 液状の 油 の 総称。頭 髪 用 の 「 つ ば き 油 」・ 調 理 用 「 ご ま 油 」 や 、灯 油 用 の 「 な た ね 油 」 な ど ) 4 倍 、繰 綿 ( く り わ た 、種 の 部分 を取り 去 った だ け の、まだ 精 製 して いな い 綿 ) 4 . 3 倍 、煎 茶 ( せ ん ち ゃ ) 1.3 倍 、砂 糖 3 . 2 倍 、干 鰯 ( ほ し か、鰯 = イ ワ シ を 干 して 乾 燥 させた 後 に 固 めて 作った 肥 料 ) 3 倍 に な っ た 。( 以下 省 略 )


( 5-1、そ の 原 因 は )

明治 5 年 (1872 年 ) に 太 政 官 ( だ じ ょ う か ん ) 布 告 ・ 第 3 4 9 号 に よ り、国 立 銀 行 条 例 が 公 布 されたが、それによって 設 立 され た 銀 行 は ナ シ ョ ナ ル ・ バ ン ク ( N a t i o n a l - B a n k ) 、つまり 「 国 立 銀 行 」 と 呼 ば れ た。

しか し こ の 名 前 に 惑 ( ま ど ) わ さ れ て は い け な い。実 際 は 「 国 法 に よ っ て 立 て ら れ た 銀 行 」 の 意味 であり、国 立 銀 行 ( ? ) と いう 名 前 の 、 私 立 銀 行 で あ っ た。

当 初 は 「 民 間 資 本 家 」 が 法 律 に 基 づ い て 設 立 し、 経 営 を お こ な っ た。し か も 金 貨 ( 銀 貨 ) と の 交 換 義 務 を 持 つ 「 兌 換 ( だ か ん ) 紙 幣 」 発 行 権 を 与 えられて いた 。

『 兌 換 ( だ か ん ) 紙 幣 』 と は

正 貨 ( 一 般 的 に は 金 ・ 銀 の こ と ) と の 交 換 が 保 証 さ れ て い る 紙 幣 の こ と を い う。 紙 幣 の 価 値 は 正 貨 によって 保 た れ て い る が、発 行 元 の 正 貨 保 有 量 が 紙 幣 発 行 量 の 上 限 に な る と い う 制 約 が あ る。

『 不 換 ( ふ か ん ) 紙 幣 』 と は

正 貨 と の 交 換 が 保 証 さ れ な い 紙 幣 の こ と を い う。 紙 幣 の 価 値 は、発 行 元 の 信 用 や 経 済 力 に よ っ て 保 た れ る。「 発 行 量 」 に 上 限 は な い が、「 発 行 量 」 が 増 え れ ば 増 え る ほ ど 、「 不 換 紙 幣 」 の 価 値 は 下 落 す る。

明 治 6 年 ( 1 8 7 3 年 ) に 渋 沢 栄 一 ( 1840 年 ~ 1931年、大 蔵 官 僚 、 実 業 家 ) が 、日本 初 の 国 立 銀 行 ( ? ) で あ る 第 一 国 立 銀 行 ( 現 ・ み ず ほ 銀 行 ) を 設 立 し た が、そ の 後 第 二 ・ 第 四 ・ 第 五 の 四 つ の 国 立 銀 行 ( ? )が 順次 設 立 さ れ た。

明 治 9 年 ( 1876 年 ) の 国 立 銀 行 条 例 の 改 正 に よ り 、 「 不 換 ( ふ か ん ) 紙 幣 」 の 発 行 な ど が 認 め ら れ る よ う に な る と 、海 外 貿 易 や 国 内 産 業 の 振 興 を 金 融 面 で 支 え る た め、国 立 銀 行 ( ? ) の 設 立 が 急 増 し た。

明 治 1 2 年 ( 1 8 7 9 年 ) ま で に 全 国 で 1 5 3 行   の 国 立 銀 行 ( ? ) が 設 立 さ れ た が、あ ま り の 数 の 多 さ に 、明 治 政 府 は 以 後 の 設 立 申 請 を 却 下 し た。

と こ ろ で 令 和 の 時 代 に な っ て も、 当 時 の 名 前 ( ナ ン バ ー 銀 行 ) の ま ま で 1 4 0 年 以 上 も 、営 業 を 続 け て い る 銀行 が 下 表 に 存 在 す る。


全 国 ナ ン バ ー 銀 行 リ ス ト


銀 行 名読 み 方本 店 所 在 地
第 三 銀行だ い さ ん ぎ ん こ う三重県 松阪市
第 四 銀行だ い し ぎ ん こ う新潟県 新潟市
十 六 銀行じ ゅ う ろ く ぎ ん こ う岐阜県 岐阜市
十 八 銀行じ ゅ う は ち ぎ ん こ う長崎県 長崎市
七 十 七 銀行し ち じ ゅ う し ち ぎ ん こ う宮城県 仙台市
八 十 二 銀行は ち じ ゅ う に ぎ ん こ う長野県 長野市
百 五 銀行ひ ゃ く ご ぎ ん こ う三重県 津市
百 十 四 銀行ひ ゃ く じ ゅ う よ ん ぎ ん こ う香川県 高松市


[ 6 : 松 方 正 義 に よ る 財 政 再 建 ]

西 南 戦 争 の 戦 費 や 国 の 近 代 化 政 策 の た め 、多 額 の 不 換 ( ふ か ん )紙 幣 を 発 行 し た こ と が 禍 ( わ ざ わ い ) し て 、イ ン フ レ ー シ ョ ン ( I n f l a t i o n ) が 起 き て 物 価 が 高 騰 した。

明治 14 年 (1881 年 1 0 月 ) の 政 変 に よ り、佐 賀 藩 出 身の 大 蔵 卿 ( お お く ら き ょ う 、 大 蔵 大 臣 ) だった 大 隈 重 信 ( お お く ま し げ の ぶ 、後 の 第 八 代 ・ 第 十 七 代 総 理 大 臣、 早 稲 田 大 学 創 立 者 ) 一 派 が 追 放 されたため、「 薩 長 藩 閥 」 による 権 力 体 制 が 確 立 した。

彼 の 後 任 と して 参 議 兼 、大 蔵 卿 に 任 命 さ れ た のが、薩 摩 藩 出 身 の 松 方 正 義 ( ま つ か た ま さ よ し、後 に 第 四 代 ・ 第 六 代 内 閣 総 理 大 臣 に 就 任 ) であ り、彼を 中 心 に 国 家 財 政 の 立 て 直 し を 図 る こ と に な っ た。

  • まず 実 施 したのは 、これまで 「 乱 発 された 紙 幣 」 を 回 収 し 整 理 することであった。 当 時 の 財 政 状 態 は 、明 治 14 年 ( 1 8 8 1 年 ) 度 の 紙 幣 発 行 高 1.5 億 円 に 対 し、本 位 貨 幣( 銀 ) の 準 備 高 が 0.1 億 円 ( 準 備 率、 僅 か 7 % ) であった。

    翌 年 に 日 本 銀 行 を 設 立 したが、明 治 18 年 ( 1 8 8 5 年 ) 度 には、紙 幣 発 行 高 1.2 億 円 に 対 し 、本 位 貨 幣 ( 銀 ) 準 備 高 は 0.4 5 億 円 ( 準 備 率 3 7 % ) まで 回 復 した。

    明 治 1 5 年 (1 8 8 2 年 ) 、明 治 1 8 年 (1 8 8 5 年 ) に は 最初 の 日 本 銀 行 兌 換 ( だ か ん ) 銀 券 を 発 行 して、紙 幣 の 一 元 的 発 行 を おこなうようになった。

    福の神

    写真は 日 本 銀 行 が 発 行 した 最 初 の 「 兌 換 紙 幣 」 だ が 、 青 矢 印 で 示 す 箇 所 を 右 か ら 左 へ 読 む と 、 『 日 本 銀 行 兌 換 券 』  と あ る。

    赤 矢 印 の 箇 所 を、( 右 から 左 へ 読 む と )、 下 記 の 文 言 が 記 されている。

    此 券 引 か え に 貨 拾 圓 相 渡 可 申 候 也

    [ 読 み 方 ]

    ( この 券 と 引 き 換 え に 銀 貨 拾 圓 を あ い 渡 し 申 す べ く そ う ろ う な り )。

    なお 紙 幣 右 側 の 絵 図 は 、神 道 の 大 国 主 命 ( み こ と ) と い う 神 と 密 教 の 大 黒 天 ( だ い こ く て ん ) が 、神 仏 習 合 { し ん ぶ つ し ゅ う ご う 、外 来 の 仏 教 信 仰 と 日 本 固 有 の 神 祇 ( じ ん ぎ ) 信 仰 と を 、融 合 調 和 す る こ と。神 仏 混 交 と も い う } さ れ た 、日 本 独 自 の 神 様 の 「 大 黒 さ ま 」 で あ る 。

  • 緊 縮 財 政 を 実 施 して 政府 の 歳 出 を 切 り 詰 め 、酒 税 ・ タ バ コ 税 など の 徴 収 を 厳 格 化 す る。

  • 歳 入 の 余 剰 金 で、正 貨 の 買 い 入 れ と、不 換 ( ふ か ん ) 紙 幣 の 償 却 を おこなう。

  • 地 租 ( ち そ 、土 地 に 課 す 税 金 ) の 増 税。

    1. 地 租 は、土 地 の 収 益 を 基 礎 に 地 価 を 算 定 する。

    2. 土 地 に課す 税 金 は、その 地 価 の 100 分 の 3 とする。( その 後 、明治 10 年 に 100 分 の 2.5 に 引 き 下 げ た )

    3. 地 主 が 農 民 ( 小 作 人 ) に 土 地 を 貸 し て い る 場 合 に は、 土 地 所 有 者 が 地 租 ( 土 地 税 ) の 納 入 義 務 を 負 い、 現 金 で 納 税 する。

    4. 豊 作 ・ 凶 作 に か か わ ら ず 、地 租 ( 土 地 に 課 す 税 金 ) は 増 減 し な い。

    5. 地 券土地 の 所 有 権 を 示 すために 、所 有 者 に 地 券 を 発 行 し、 所有者 を 地 租 の 納 税 義 務 者 とする。ちなみに 写真 の 地 券 の 標 題 は 、「 地 券 之 證 」 である。

    6. この 改 革 により、日本で 初 めて 土 地 に 対 する 私 的 所 有 権 が 確 立 し た。


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