奴隷制度 雑感
[ 1 : 人類発祥の地からの移動 ]アフリカは人類発祥の地として知られていますが、最古の 「 ヒ ト 科動物 」 が アフリカ東部に住んでいたのは今から 三百万 〜 四百万年も遡った頃だったといわれています。その後 人類は進化を重ねながら人口が増え、やがて 10 万年前から 現生人類の祖先を含む 新人類 ( ホモ ・ サピエンス、Homo sapiens、知恵のある人 ) の時代となりました。( 1−1、ミトコンドリア D N A ) 最近の分子生物学 ・ 分子人類学の研究によれば、ほとんどすべての生物の細胞に広く含まれている物質の一つに ミトコンドリア ( Mitochondria ) がありますが、我々が肺から吸い込んだ酸素は、血液の流れによって体内各部の細胞に運ばれます。細胞の中には 「 細胞内の構造物 」 である ミトコンドリア があるので、運ばれた酸素は糖や脂肪を燃やす燃料として使われます。つまり ミトコンドリア は、 エネルギーの生産に不可欠な役割 を果たしています。 ところで我々の体を構成する細胞には 「 核 」 があり、その中には遺伝情報が詰まった 遺伝子 ( 染色体 ) が含まれていますが、「 ヒ ト 」 の場合にはご存じのように 23 対 ( つい ) 46 本の染色体があり、父親と母親からそれぞれ 23 本ずつ受け継いだ遺伝情報が記録されています。 右図の大から小の順に染色体に番号を付けた 「 染色体配列図 」 では、 23 番目の染色体が 「 X Y 」 となっているので、これは男性の 「 染色体配列図 」 であることが分かりますが、参考までに女性の場合には、この配列が 「 X X 」 となります。 研究が進むにつれて 1968 年に ミトコンドリアの構造の中に、従来から知られている 体細胞の遺伝子とは別の 新しい遺伝子が発見されましたが、 これを ミトコンドリア DNA と呼びます。 さらに ミトコンドリア D N A の研究が進展したことにより、体細胞の DNA とは異なり ミトコンドリア DNA は、すべて母親から遺伝子を受け継ぐ 母系遺伝 をすること が確認されました。したがって ミトコンドリア D N A を調べれば、母親 ・ 母親の母親 ・ さらに母の母の母のーーーーと女系をたどることができ、「 ヒ ト 」 の母系の先祖を推定できるようになりました。 これにより、人類の アフリカ 単一 起源説 がほぼ証明され、また 10 万年前に誕生した新人類は 6 万 〜 7 万年前 に アフリカから世界各地に移動し 拡散しましたが、その集団の系統も推定できるようになりました。 ( 1−2、新人類の、出 ( しゅつ ) アフリカ 記 ) 人類の アフリカ 単一起源説 によれば、 アフリカ東部に居住した新人類のうち、アフリカ に留まった新人類 ( ホモ ・ サピエンス ) は赤道付近の強い紫外線から身体を保護するために メラニン 色素 ( Melanin 、褐色 〜 黒色の色素 ) が肌に沈着し次第に黒くなり、 黒人種 ( ニグロイド、Negroid ) を形成しました。 アフリカ を出て ヨーロッパ の高緯度地方に移動した新人類は、冬季の日照不足から ビタミン D の体内生成が不足し骨格形成に支障を及ぼすために、進化論でいうところの 「 適者生存の原則 」 から、 ビタミン D を皮膚から吸収し易いように次第に肌が白くなり 白人種 ( コーカソイド、Caucasoid ) を形成しました。 その一方で中緯度地域に移動した新人類は、その中間である 黄色人種 ( モンゴロイド、Mongoloid ) を形成するようになりました。つまり後述する白人 ・ 北米大陸の インディアン ・ 中米 南米大陸の インディオ ・ 太平洋の島々に住む島民も、すべて アフリカに起源を持ち、そこから人類移動という未知の旅に出た新人類の後裔 ( こうえい、子孫 ) でした。 ではなぜ新人類は アフリカを出て世界中に 、 「 極端な例を挙げれば南米大陸最南端の後述する マゼラン 海峡に面した フエゴ島まで 」、 6 万 キロ の距離を何世代も掛けて移動したのでしょうか ?。 その答については あたかも 回遊魚 の 鮭 ( さけ ) や 渡り鳥 のように、新人類 ( ホモ ・ サピエンス ) の持つ遺伝子の中に 未知の土地を目指して遠く旅に出よ という情報 ( 指示 ) が、 本能として組み込まれていた からだとするものでした。 写真は種類により異なりますが、 1 年 〜 6 年間に及ぶ太平洋での回遊を終えた鮭が生まれ故郷の川 ( 母川、 ぼせん ) の河口付近に帰り、海水と真水が混じり合い塩分濃度が低い汽水域 ( きすいいき ) で、子孫を残すために川の上流への遡上( そじょう ) に備えて体を慣らす群れです。 [ 2 : 大航海時代の幕開け ]大航海時代 とは 15 世紀から 17 世紀前半にかけて、ポルトガル ・ スペインなどの ヨーロッパ諸国が、航海 ・ 探検により海外進出をおこなった時代のことですが、それにより ヨーロッパ以外の広大な大陸 ・ 無数の島嶼 ( とうしょ、島々 ) や そこに住む住民の存在を初めて知ることになりました。 ちなみに私は中学 ・ 高校 ・ 大学を通じて 大航海時代 などという言葉を一度も見聞したことがありませんでしたが、当時は 「 地理的発見の時代 」 ( The Age of Geographic Discovery ) もしくは 「 探検の時代 」 ( The Age of Exploration ) という言葉が使われていていました。 しかし昭和 38 年 ( 1963 年 ) に岩波書店から 「 大航海時代叢書 」 第 1 期 ・ 全 11 巻 別巻 1 が出版された際に、文化人類学者の増田義郎によりそれまでの ヨーロッパ人の立場 からの見方ではなく、より広い視点や歴史観に基づき この時代を 大航海時代 ( The Age of Great Mavigation )と 「命名しました 」。 コロンブスが 発見 (?) した 当時の新世界 ( 中米 ・ 南米 ) それに加えて北米には、 何千年も前から 先住民族である インディオや インディアン が約 4 千万人 も住み、彼等なりの マヤ文明や インカ文明などを持ち ナスカの地上絵に見られる特殊な技術を持ち暮らしていました。その島々や大陸を 発見した などと称することは 明らかに誤りであり 「 おこがましい、出過ぎたこと 」 とする考え方によるものでした。( 2−1、何が大航海時代をもたらしたのか ? )
1453 年 に コンスタンティノープル ( Constantinople、現 ・ イスタンブール ) が オスマン ・ トルコ [ オスマン ( Osman 1258〜1326 年 ) が建国した トルコ系 イスラム国家 ] に占領され、何世紀も続いた ビザンチン帝国が遂に滅亡したこと。 それまで熱帯 アジア原産の胡椒 ( こしょう ) ・ 肉桂 ( にっけい ) ・ 丁子 ( ちょうじ、香辛料のクローブ、Clove ) など ヨーロッパ人にとって、羊肉 ( ひつじにく ) や冬季の塩漬け貯蔵肉の臭みを消すのに使う貴重品である料理の香辛料は、すべて アラビア人や イタリアの商人が遠い灼熱の熱帯地域から陸上 ・ 海上を経由して運び大きな利益を挙げていました。 ところが東洋と西洋とを結ぶ交通の要衝 ( ようしょう、重要な地点 ) にある コンスタンチノープル( 現 ・ イスタンブール ) が前述の オスマン ・ トルコ に支配されるようになると、アジア産商品の流通に支障が生じたため、 特に胡椒 ( こしょう ) の原産地である インド南西部の マラバール地方 への新しい海上航路を開拓する必要が高まりました。 ヨーロッパの南西の隅にある イベリア半島の大部分は 711 年の イスラム軍の侵攻により イスラム勢力に支配されていましたが、 イスラム教徒から イベリア 半島を キリスト教徒の手に奪回する 国土回復運動 ( レコンキスタ 、Reconquista ) により、最後の イスラム王朝であった グラナダ王国の首都である アルハンブラ宮殿 ( La Alhambra ) で有名な グラナダ( Granada ) の 陥落 ( 1492 年 ) により、国土回復戦争 が終了しました。 その勢いはその後は キリスト教 ( カトリック ) の布教活動となって海外へ向かって行きましたが、 日本で最初に キリスト教を布教した フランシスコ ・ ザビエル が 1549 年に鹿児島へ上陸した のもその一連の流れであり、来日のきっかけとなったのは鹿児島出身の元 武士で 「 ヤジロー、又は アンジロー 」 と中国の マカオで会ったことで、彼を通訳として伴い来日したのでした。 15 世紀になると造船技術が目に見えて向上し耐波性 ( たいはせい、航海に耐えられる性能、Sea Worthiness ) に富んだ船が造られるようになり、そのうえ羅針盤 ( らしんばん、コンパス ) の性能も向上して長い航海が可能となり、さらに鉄砲が広く使われるようになり、海外発展の際の強い武器となりました。 ( 2−2、ポルトガル航海学校の卒業生たち ) 大航海時代の先頭に立ったのが ポルトガルの エンリケ 航海王子 ( Henrique o Navegador )、英語表記では ヘンリー 航海王子 ( Prince Henry the Navigator、1394〜1460 年 ) で、彼が創設した当時最新の航海技術を教える航海学校の卒業生である 航海者 バルトロメウ ・ ディアス ( Bartolomeu Dias、1450 頃〜1500 年 ) が 1488 年に アフリカ南端の喜望峰を発見しました。 同じく ポルトガルの航海者 兼 ・ 探検家の、 バスコ ・ ダ ・ ガマ ( Vasco da Gama、1460 頃 〜1524 年 ) が、 4 隻の船団を率いて ポルトガルの首都 リスボンから アフリカ南端の喜望峰を経て当時貴重品でした 胡椒 ( こしょう ) を産出する インド への航路を開拓した最初の ヨーロッパ人となりました。絵図は ガマ が乗る旗艦 サン ・ ガブリエル ( 聖なる天使 ガブリエル ) 号 120 トンです。 さらに イタリア生まれで スペイン ( カスティーリア) の イサベル女王 1 世 ( Isabel I de Castilla ) の援助を受けた探検家 ・ 航海者の コロンブス ( Columbus、1451〜1506 年、彼は航海学校の卒業生ではない ) は アメリカ大陸の近くにある カリブ海の島々に到達し、インド付近であると判断して西 インド諸島と名付け 住民を インディオ ( インド 人 ) と呼びました。 ポルトガル人の航海者 ・ 探検家である フェルディナンド ・ マゼラン ( Ferdinand Magellan、1480〜1521 年 ) は、 スペイン船 5 隻からなる艦隊 ( 乗組員 280 人 ) を率いて スペインの グアダルキビール川 ( Rio Guadalquivir ) を遡った川岸の港町 セビリア ( Sevilla ) を 1519 年 8 月に出航しました。 航海の途中 1520 年 に南米大陸最南端と 前述した フエゴ島 ( 南緯 54 度 ・ 西経 69 度 ) との間にある、最狭部 3 キロメートルの大西洋と太平洋とを結ぶ海峡 ( マゼラン海峡 ) を発見し 7 日かかって通過しましたが、 その付近には先住民が既に住んでいて 、マゼランの艦隊を警戒して崖の上で烽火 ( のろし ) を焚いていました。フエゴ島を 「 火の陸地 」、 ( Tierra del Fuego ) と名付けたのはそれによるものでした。 大西洋から太平洋に出た艦隊は西に向かい 3 ヶ月間陸地を見ずに航海を続けましたが、 フィリピンの マクタン島 で先住民の王 ラプラプ ( Lapu-Lapu 、1491〜1542 年 ) との戦闘で マゼランは戦死しました。 その後 香料諸島で大量の香料 ( クローブ、Clove ) を積み込み、出航から 3 年後の 1522 年 9 月に史上初の世界一周 ( 西回り ) の航海を達成して セビリアに帰港したのは、5 隻の艦隊 ( 乗組員、280 人 ) を構成した内の僅か 1 隻の ビクトリア号 ( 85 トン ) で 18 人 の乗組員と 、航海の途中に 南米で奴隷として乗せた インディオの生き残りの 3 人 だけでした。 ビクトリア号を指揮したのは フアン ・ セバスティアン ・ エルカーノ ( Juan Sebastian Elcano ) でしたが、国王 カルロス 1 世より地球の図に 汝は我を周航せる最初の者 という文字を配した紋章が与えられましたが、再度の世界 一周途中に太平洋上で壊血病と栄養失調で死亡 ( 50 歳 ) しました。 なお 新世界 を ヨーロッパ人として初めて訪れた探検家 ・ 航海者そして 奴隷商人 ・ インディオの虐殺者 であった クリストファー ・ コロンブス ( Christopher Columbus、1451 年頃〜1506 年 ) について詳しく知りたい方は、下記にあります。 [ 3 : アフリカの奴隷貿易の幕開け ]アフリカでは歴史時代に入って各地に王国が興亡し多様な文化が生まれましたが、特に 9 世紀の頃に ニジェール( Niger、ラテン語で黒の意味 ) 川の上流にあった国 マリ ( Mali ) は、アラブ人から 「 黄金の国 」 として知られていました。 ヨーロッパと接触以前の アフリカでは共通の祖先を持つ数百人規模の血縁集団が無数にあり、それぞれが中心的存在である指導者を持ち、 日常生活における 調停者 ・ 裁判官 ・ 他部族との戦闘における司令官などの役割を果たしていました。 近代における アフリカの奴隷貿易は 15 世紀に ポルトガル人が始めましたが、そのきっかけは 1441 年 に前述した ポルトガルの エンリケ航海王 ( 旧 ・ 航海王子 ) が毛皮と食用油を得るために、臣下の 一人である アントニオ ・ ゴンザルベス ( Antonio Gonsalves ) を アフリカの西岸への派遣でした。絵図は エンリケ航海王 ( 英語表記では ヘンリー、 Henry The Navigator ) です。 ボハドール ( ボジャドール、Boujdour ) 岬 ( 現 ・ 西 サハラ、下図参照 ) の近くに上陸した船長の ゴンザルベスは、そこでいくらかの砂金と 10 人の アフリカ人 を捕獲して船に積み首都 リスボンに戻りましたが、黒人を初めて見た エンリケ王は非常に喜び アフリカ人 奴隷を ローマ法王に進呈 ( しんてい ) しました。 これに応えて ローマ法王は エンリケ航海王に、以後発見される アフリカ西岸 セネガル 川の北約 300 マイルの所にある ブランコ岬 ( カボ ブランコ、Cabo Branco = Cape Branco、西 サハラ と モーリタニア の間にある岬 ) より東側 ( つまり、未知の領域 ) のすべての土地の所有権を エンリケ航海王に与えましたが、ポルトガルの探検者たちは アフリカが物資の宝庫であることをすぐに知りました。 アフリカ西海岸一帯では、胡椒 ( こしょう ) ・ 金 ・ 象牙 ・ ゴムなどを産したので、ヨーロッパ産の商品との 「 物々交換 」 により容易に入手できましたが、これらの産品に加えて、住民である黒人が 奴隷として交易品に加えられた のは、人類の歴史において最大の悲劇となりました。その後 ポルトガルへ連行された奴隷の数は 1447 年までに 927 人 、15 世紀末までには 2 万 〜 3 万人 にも上り国内の労働力不足を補うのに使用されました。( 3−1、敵対する部族 ・ 黒人国同士による奴隷狩り ) 最初は ポルトガル人が直接 アフリカの住民を捕獲して奴隷にしましたが、そのうちしだいに巧妙な方法をとるようになりました。海岸に黒人を一時的に収容する奴隷倉庫 ・ 交易所を含む砦 ( とりで ) を建て、 黒人部族間の対立や ベニン王国 ( Benin Empire、 12 世紀〜1897 年 )・ ソンガイ帝国 ( Songhay、1464〜1590 年 ) などの黒人国同士の争いを利用して、、互いに敵対する黒人が相手の住民を捕獲して交易所に連行し、そこで ヨーロッパ産の品物と物々交換をするようになりました。 右図の説明文には 「 奴隷市場へ向かう 捕獲された アフリカ人たち 」 とありますが、女性以外は大人も子供も両手を縛 ( しば ) られて男性は 「 首かせ 」 をはめられ、女性や子供は犬のように革ひもで首を結ばれていましたが、その 一行を ムチ を持つ黒人が追い立てています。 物々交換に使用された ヨーロッパの商品には、 綿布 ・ 絹布 ・ ナイフ ・ 刀類 ・ 旧式の鉄砲 ・ 弾薬 ・ ラム酒 ・ 安価な腕輪などの装身具が使用されました。 このうち鉄砲と弾薬はそれを交換で得た部族や国同士の戦闘に一方的優勢をもたらしましたが、それにより捕獲される住民数の増加をもたらし奴隷貿易の発展につながりました。 ゴンザルベスのアフリカ西岸への航海から 20 年も経たない内に、奴隷貿易は ヨーロッパ 市場において 最も収益性の高い商売となりましたが、このうまい ビジネスを他国が見逃すはずがなく、やがて スペイン ・ イギリス ・ フランス ・ オランダなどもその後、奴隷貿易に参入するようになりました。 ( 3−2、アラブ人による奴隷貿易 ) 日本ではあまり知られていませんが アフリカ人を奴隷にしたのは ヨーロッパ人だけでなく、 アラブ人も奴隷貿易をおこなっていました。その歴史は非常に古く、650 年 〜 1900 年までの間に、1 千万人〜1 千 5 百万人の アフリカ人が アラブ人奴隷商人によって奴隷にされ、紅海や インド洋を船で運ばれ、あるいは アフリカの サハラ砂漠を徒歩で越えて移動したと歴史家は推測しています。 右図は アラビア人の奴隷商人に捕獲されて移動する アフリカ人の集団ですが、両手にある白い物は板に手首が入る穴を開けた木製の 「 手かせ 」 で、両手の自由を束縛する道具であり、陸地を移動する場合も船で運ばれる場合も、目的地に到着するまでに多くのアフリカ人が虐待により死んだといわれています。 ヨーロッパ人が 奴隷海岸など アフリカ 西部 を勢力範囲にして要塞を建設しそこに奴隷倉庫や交易所を置いたのに対して、アラブ人は主に アフリカの 東部や北部で 現地人を捕獲して、徒歩あるいは紅海を ダウ船に乗せて北上し、主に イスラム諸国へ奴隷として売却していました。 写真は東 アフリカにある現 ・ タンザニア連合共和国の ザンジバル ( Zanjibar ) にある奴隷の石像記念碑で、奴隷たちは後手に縛られ クサリでつながれています。 [ 4 : 白い奴隷たち ]軍用飛行機に興味のある方であれば、 ベトナム戦争の際に アメリカ海軍が使用した艦上攻撃機の A-7 、 コルセア ( Corsair ) をご存じと思いますが、ここでの 「 コルセア 」 とは 17 世紀初めに地中海や北海で猛威を振るった 海賊のことです 。 オスマン帝国 ( 1299〜1922 年 ) の支配下にあった北 アフリカ沿岸地域には、ここに本拠地を置く コルセア ( フランス語では コルセール Corsaire ) と呼ばれる海賊集団がいましたが、北 アフリカの海岸地域 ( トリポリ、チュニス、アルジェ ) の呼び名でもある バルバリー ( Barbary ) から、別名を バルバリア海賊 ( Barbarian Pirates ) とも呼ばれました。 コルセア は イギリスをはじめとする ヨーロッパ各地の沿岸で船を襲い、船乗りや乗客などを奴隷にして アフリカで売却しましたが、人種差別意識が強く有色人種を常に見下す イギリスなどの白人たちが、こともあろうに アラブ人の奴隷にされ、 ムチ で打たれてこき使われたという屈辱の事実のせいで、イギリスでは長年歴史家により触れられずにいました。 イギリスの海事裁判所 ( Admiralty Court ) の記録によれば、 1677 年から 1680 年にかけて 160 隻の イギリス船 が コルセア に襲われて、7 千人から 9 千人の健康な男女が奴隷にされたと推定されていますが、若い男は 「 ガレー船の 奴隷 」 ( Galley Slave ) にされ、地獄の苦しみに遭わされた者もいました。「 ガレー船 奴隷 」 について知らない方は、下記の動画をご覧下さい。( 4−1、 ガレー船 奴隷 ) 著作 「 死に向かって船を漕ぐ 」 の記述によれば、長さが 45 メートル足らず、幅は 9 メートルほどしかない ガレー船の甲板に、450 人もの漕ぎ手が詰め込まれました。長さ 2.3 メートル、幅 1.25 メートル ほどしかない仕切られた区画の中で、5 人の男性が ベンチに鎖でつながれたまま 一度に数か月のあいだ共に過ごし、オールを漕ぎました。漕ぎ手にはそれぞれ座るための スペースがわずか 45 センチほどしかありませんでした。 あまりに狭かったため、 オールを漕ぐ際に腕を曲げることさえできませんでした。1 本の オールの長さは少なくとも 12 メートルあり、重さは 130 キロ以上ありました。数時間続けて漕ぐのはひどく骨の折れる仕事で漕ぎ手の筋肉は裂け、体力と スタミナは著しく消耗しました。それは熱帯性気候の中で行なわれる最も過酷な労働に相当しました。 ガレー船 奴隷 ( Galley Slave ) のおよそ 3 分の 1 が、3 年以内に死に 、全体的に見ても半数は生き残れなかった、とある歴史家は説明しています。 コルセアは船を襲撃するだけでなく、ヨーロッパの海岸地域の町や村も襲いました。1631 年に海賊の襲撃を受けた アイルランド南端にある港町 ボルティモア ( Baltimore ) では、住民の大半が拉致されたといわれています。 コルセアにより捕獲された男女は アラブ人奴隷商人の手により奴隷市場で売却されましたが、白人の女性は黒人女性の 2 倍の高値で取引されたといわれていて、若い美人は イスラム教徒の愛人となり、そうでない者は売春宿や家内奴隷、つまり召使いや使用人にされました。 [ 5 : 奴隷輸出先の変更、ヨーロッパから 中米 ・ 南米へ ]( 5−1、労働力の不足 ) イタリア生まれの探検家 ・ 航海者の コロンブス ( 1451〜1506 年 ) は スペイン ( カスティーリァ ) の女王 イサベル 1 世 ( Isabel I de Castilla ) の援助により大西洋を インドに向けて航海し、1492 年に 北米 フロリダ半島の南東にある バハマ諸島の サンサルバドル島 ( San Salvador Island、聖なる救世主の島 ) に上陸し、新世界 ( the New World ) の存在を初めて知りました。 次に キューバ島、ハイチ島 を探検し、以後 3 回の航海で南米大陸 ・ 中米の海岸に到達しました。 これを契機にして スペイン による新世界 ( 中米 ・ 南米大陸 ) における領土獲得が始まり、黄金を求めて先住民である インディオに対する略奪や 大規模な虐殺 ・ 虐待や強制労働 をおこない 、さらに スペイン人が持ち込んだ天然痘などの伝染病により、 16〜17 世紀の間に、南米 ・ 中米の インディオの人口は 1492 年当時の 4 千万人から、 1570 年には 1 千万人 へと 4 分の 1 に減少した といわれています。 新世界に領土を獲得しただけでは何も利益を産まないので、先住民 ( インディオ ) を使い当時白い ダイアと呼ばれた砂糖 ・ コーヒー ・ タバコなどの農業生産を始めようとしましたが、中米 ・ 南米では先住民の インディオを多数虐殺 ・ 虐待したために人口が減少し、農業生産に必要な労働力が不足するようになりました。( 5−2、奴隷供給に関する契約 ) それを補うために、大西洋の対岸にあるアフリカの西海岸から黒人奴隷を輸送し、労働力として使用することにしました。しかし当時の スペインは ポルトガルよりも劣勢のため、 アフリカ西海岸 ・ 奴隷海岸などに奴隷集積地の拠点を築けなかったために、16 世紀末に請負い契約である アシエント ( 注 参照 ) によって黒人奴隷の安定供給を目指しましたが、これは 18 世紀後半まで続きました。 注 : アシエント ( Asiento 、スペイン語で契約の意味 ) 17 世紀から 18 世紀にかけて、イギリスをはじめとする ヨーロッパでは 喫茶の風習 が広まり、それによりかつては 「 白い ダイア 」 とも呼ばれた貴重品である砂糖の需要が急激に高まりました。当時は砂糖の主要な生産地は西 インド諸島の特に キューバ島および ブラジル北東部などでしたが、農業労働力としての奴隷が必要となりました。 、 [ 6 : 奴隷貿易の主役、スペインから イギリスへ ]最初に アフリカから中米 ( 西インド諸島 ) に対する 奴隷貿易を始めたのは スペインで 16 世紀初頭のことでしたが、1588 年に当時世界最強を誇った スペインの無敵艦隊 ( アルマダ、Armada Invencible ) が、 イギリスと フランスとの間にある ドーバー海峡で イギリス艦隊と戦い大敗しました。これが契機となり スペインによる大西洋支配が次第に衰え、以後は イギリスの台頭をもたらしました。( 6−1、奴隷海岸 ) 18 世紀の奴隷貿易で最多の取扱い量とそれに伴う 最大の利益を挙げたのは イギリスですが、B B C ニュースの資料によれば、毎年 150 隻 もの奴隷船が繊維製品 ・ ラム酒 ・ 旧式銃 ・ 弾丸 ・ 安物の装飾品などを積み、 ロンドン ・ リバプール ・ ブリストル 港から出港して西 アフリカ 及び ギニア湾に面した象牙海岸 ( Ivory Coast ) や、 奴隷海岸 ( Slave Coast ) に向かいました。 ちなみに奴隷海岸とは現在の ガーナ共和国 ・ ペナン人民共和国 ・ ナイジェリア連邦共和国にかけての海岸地域。象牙海岸とは コートジボワール共和国にある海岸のことで、かつて ヨーロッパ人が主に 17 世紀から 18 世紀にかけて、この地方から大量の黒人を奴隷として 南北 アメリカ大陸や中米 カリブ海諸島へ積み出したためにこの地名が付きました。 イギリス ・ フランス等の ヨーロッパ勢力が海岸近くに砦 ( とりで ) を築き、そこを拠点として奴隷の交易や船積み待ち奴隷の収容所にしましたが、そこは、6 畳ほどの部屋に 15〜20 人が押し込められ、1 箇所あたり数百人もの奴隷が収容されていました。 奴隷海岸に到着した船員の仕事は南米 ・ 西 インド諸島 ・ 北米などの目的地に奴隷を運ぶために、約 50 日間の航海に必要な食料 ・ 水を積み込み、家畜にするように奴隷の肌に熱した鐵の文様 ( 焼き印 ) を押して消えることのない 「 ヤケドの跡 」 を所有権識別の証拠としました。 揺れる奴隷船の縄梯子を昇るのを嫌がる奴隷に ムチ打ちして昇らせ、船上では 二人 一組の 「 足かせ 」 をはめて、横になるのがやっとの ぎゅうぎゅう詰め ( タイト ・ パックト、 Tight packed ) の船内に追いやりました。一隻あたり奴隷を 500 人〜 600 人積み込むのが普通でしたが、黒人奴隷に許された空間は、1 人当たり、長さ 180 センチ、幅 40 センチ、高さ 80 センチほどしかなく、あまりの狭さと不衛生極まりない環境下に、途中で病気になると海に捨てられました。 デュボイス ( W. Du Bois ) が編纂した アフリカ百科事典 ( African Encyclopedia ) によれば、 1 人の黒人奴隷を生きたまま新大陸に運ぶまでに、5 人が途中で死んだ と記されていました。 ( 6−2、三角貿易 ) 三角貿易 という言葉をご存じですか?。 二国間の貿易では収支の均衡がとれない場合に、第三国を介入させて全体の収支の均衡を図り、貿易量を拡大しようという貿易方法のことですが、経済史上 18 世紀に盛んだった奴隷貿易が有名です。 前述した アフリカの港から ブラック ・ カーゴ ( Black Cargo、黒い貨物 ) と呼ばれた 黒人奴隷 を満載した奴隷船は 中間航路 ( ミドル ・ パッセィージ、Middle passage ) と呼ばれた 南米 ・ 西インド諸島 ・ 北米に向かい、そこで黒人奴隷を売却して得た資金で、今度は砂糖 ・ ゴム ・ 綿花などの農産品を積んで ヨーロッパに帰りました。 ( 6−3、野口英世と アクラ ) ( 6−1 ) の右側にある写真は ガーナ共和国の アクラ ( Accra ) にある砦 ( とりで ) ですが、 私は小学校の教科書で野口 英世 ( のぐち ひでよ、1876〜1928 年 ) のことを習いました。福島県 猪苗代湖 ( いなわしろこ ) 近くの 貧農の家に生まれた彼は苦学して医師になり、ペンシルベニア大学医学部を経て ロックフェラー医学研究所研究員となり細菌学の研究に従事しましたが、梅毒や熱帯 アフリカと中南米の風土病である黄熱病 ( おうねつびょう ) 等の研究で業績を挙げました。 ノーベル生理学 ・ 医学賞の候補に 三度名前が挙げられましたが、 ネッタイ シマカ などの 「 蚊 」 によって媒介される黄熱 ウイルス ( yellow fever virus ) を病原体とする黄熱病の研究のために、 当時 イギリスの植民地でした ガーナの アクラを訪れ研究中に自身も黄熱病に感染し、 51 歳でその地で死亡しました。 右は アクラ市内の ガーナ大学 医学 スクールの中にある、野口英世 記念館前の銅像です。 野口英世は 2004 年に発行された千円札の肖像画として今も顔なじみですが、年金暮らしの 貧しい傘寿 ( さんじゅ、80 歳 ) の老人にとって、最近の物価値上げがもたらす生活苦の中で、 彼の肖像画との辛い別れを毎日しています。 [ 7 : 奴隷制に荷担 ( かたん ) した、ローマ教皇 ]1452 年のこと 第 208 代 ローマ教皇 の ニコラス 5 世 ( Nicholaus V、在位 1447〜1455 年 ) が、前述した エンリケ航海王の甥である ポルトガルの王 アフォンソ 5 世 ( Afonso V ) に、キリスト教に敵対する者すべてを 奴隷にする権利 を与える教書 を与えましたが、それによれば、( 前略 ) アフォンソ 国王に サラセン人と異教徒、並びに キリストに敵対する いかなる者をも襲い ・ 攻撃し ・ 敗北させ ・ 屈服させた上で、彼等の王国 ・ 公領 ・ 主権 ・ 支配 ・ 動産 ・ 不動産を問わず ・ あらゆる所有物を奪取し ・ その住民を終身奴隷 に貶 ( おとし ) めるための、完全かつ制約なき 権利を授与する 。と記されていました。サラセンとは中世においては イスラム教徒の総称ですが、その教書には、たしかに ポルトガル人に対して 異教徒や キリストに敵対する者を永遠の奴隷にする許可 いわば ローマ教皇の 「 お墨付き 」 を与えていたために、それ以後 ポルトガル人や スペイン人たちは大手を振って アフリカの黒人を奴隷にし、中米の先住民 ( インディオ ) たちの奴隷狩りをおこない、その過程において大虐殺をおこないました。 一神教である キリスト教徒は、自分たちの価値観や考え方と異なるものを全て排除しようとする点で 不寛容で独善的であり 、自己の立場を非妥協的に主張する点で攻撃的 ・ 暴力的であることは否定できない事実です。また唯一の神である イエス ・ イリストを信じる キリスト教徒にとって、 キリストの代理人 ( ラテン語で、 Vicarius Christi ) である ローマ教皇の言葉は絶対であり、この点から言えば ローマ教皇は 何千万人もの被害 をもたらした奴隷貿易の拡大に 積極的に荷担したことは否定しがたい事実でした。 ( 7−1、キリスト教徒である、黒人奴隷の扱い方 ) 上述した ローマ教皇の 「 教書 」 については 反対の解釈 ( 注 参照 ) があり、異教徒や キリストに反対する者を 「 奴隷にしてよい 」 のであれば、 逆の論法から キリスト教徒を奴隷にすることは できないはずである 。つまり キリスト教徒に対する 奴隷化 を禁止するものである とする解釈が成り立ちました。 [ 注 : 反対解釈とは ]後に この解釈は、黒人奴隷が キリスト教へ入信する際に、自由を与えるべきかどうかの問題を引き起こしました。キリスト教徒の団体は、入信の儀式である洗礼を受けることが 「 奴隷の自由 」 を意味するのであれば、奴隷所有者はそれを拒むであろうと指摘しました。右図は黒人少女たちの洗礼式ですが、結局 バージニア植民地議会は 1667 年に、 奴隷であれ自由人であれ、洗礼はそれを受ける人の 地位 ・ 身分 を変えるものではないとする法律を定め、この問題に決着を付けましたが、教皇の教書に対する解釈からは外れていました。 ( 7−2、多神教 対 一神教 ) 欧米を含め一部の宗教学者によれば、日本の神道は宗教の範疇 ( はんちゅう、同じ性質のものが属する部類 ) に入らない、 つまり宗教ではない のだそうです。その理由とは神道には、
[ 8 : アフリカ から大西洋を渡った奴隷の数 ]奴隷船で アメリカに運ばれた奴隷の数を述べる前に、まずは 1492 年に コロンブスが新世界を発見 ( 地理上の発見 ) をする以前の、 アメリカス [ Americas 、米州のこと、 すなわち南米 ・ 中米 ( 西 インド諸島を含む ) ・ 北米大陸 ] に住んでいた 先住民の数 については多くの説があり、学術的に確定した値は 現在もありません 。 たとえば 19 世紀の終わりには、先住民の数は 1 千万人 とされましたが、20 世紀の終わりになると 4 千万 〜 5 千万人 となり、ある学者によれば 1 億人 であったとされました。 そのことを理解した上で、以下の記述をお読み下さい。アフリカの西側海岸から奴隷船に詰め込まれて、 アメリカス ( 米州 ) に送られた 奴隷の数 は、正確な記録が無いので分かりませんし、歴史家や研究者たちが主張する 人数 についても、前述した先住民の数と同様に、人により 大きな違い があります。そのために下記の数字も、参考程度に思ってください。
上表の数字はあくまでも 1650 年から 1900 年までの 250 年間に イギリス ・ スペイン ・ ポルトガル ・ フランス ・オランダなどの奴隷船が アフリカから運んだ黒人奴隷の数ですが、 データ無しの部分については以下のとおりです。
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