コーヒーと紅茶

コーヒー、ティー

昭和 42 年 ( 1967 年 ) にアメリカで出版された スチュワーデス物語 4 編のうちの最初の題名は、 コーヒーにしますか、紅茶、それとも 私 ?( Coffee, Tea or Me ? 、副題は、 The Uninhibited Memoirs of Two Airline Stewardesses ( 二人の航空会社 スチュワーデスによる、抑制されない回顧録 ) でしたが、有名になり後に映画化されました。今回の題名は コーヒーと紅茶です。

[ 1 : コーヒー の発見 ]

コーヒーの木

コーヒー の発見については、伝説めいた話がいくつも存在しますが、その内の一つが アフリカ大陸の エチオピアにおける話です。ある時 エチオピアの山羊飼いが、山羊の群れが赤色の木の実を食べると妙に興奮して騒ぎ、夜もあまり眠らずにいることを知りました。

そこで自分も試しにその実を食べてみると、どうやらその実には気分が壮快になり興奮させる成分があるらしいことに気付き、地元の指導者にそのことを伝えました。指導者はその実を食べるのではなく、乾燥させてから ゆでて、その汁を飲むという新たな加工法を考え出しました。彼は夜通し続く宗教儀式の際に眠りを防ぐために、この汁を飲んだということでした。

イエメン

別の話では、 エチオピアとは紅海を挟んで対岸にある アラビア半島南西端に イエメンという国がありますが、その港町 モカ、 ( Mokha ) の外に広がる荒野で、オマルという男が道に迷い餓死目前の状態になりました。オマルは幻 ( まぼろし ) に導かれて コーヒー の木にたどり、その実を食べたところ元気になり、モカの町に無事に戻ることができました。

モカの人々は、神が コーヒーの存在を人類に伝えるために オマルを生きて帰したのだと考え、それ以後 コーヒー は モカ で人気の飲み物になりました。モカの港から積み出された アラビア産 コーヒーのことを モカ 、Mocca と呼ぶのは、これに由来します。

以上述べた二つの物語には、多少の真実が含まれているのかも知れません。なぜなら コーヒー は エチオピアの高原地帯が 原産地であるとする説が支配的であり、アラブ世界にいつ頃どのように伝えられたのか、正確には分かっていませんが、おそらく幅が 50 キロに満たない アフリカ大陸と アラビア半島の最狭部にある バベル ・ マンデブ ( Bab el Mandeb ) 海峡を小舟で渡り、コーヒー が アラビア半島に運ばれたに違いありません。

マメを炒る

当時の エチオピアでは コーヒーを飲み物とする習慣は 一部でしかなく、豆を乾燥して ガムのように口の中で噛んだと考えられていて、現在も アフリカの一部の地域にその習慣が残っています。 コーヒー の実から飲み物を作る方法を編み出したのは、イエメン人で イスラム神秘主義の修行者、ムハンマド ・ アル ・ ザブハーニ ではないかといわれています。彼は 1470 年頃に死亡しましたが、この頃までに イスラム神秘主義者が コーヒーを飲む習慣を取り入れていて、神に近づくために夜通し コーランを詠唱する宗教儀式の際に、眠気を防ぐために コーヒー を飲んだのだそうです。写真は コーヒー 豆を煎るところ。

[ 2 : イスラム教と コーヒー ]

イスラム教の預言者 モハメット ( アラビア語の発音では ムハンマド ) は、 ワインを含めて アルコール飲料を飲むことを全面禁止しましたが、そのきっかけとなったのは酒宴の席で、彼の 二人の弟子が喧嘩をしたことだったといわれています。このような事態を避けるための方法について ムハンマドが神の アッラーに訊ねると

ワインと賭け事は悪魔が作り出した醜悪なものであるから、手を出してならない。そうすれば汝等は富み栄えるであろう。
むち打ちの刑

との託宣 ( たくせん、神のお告げ ) がありました。それ以後 イスラム教では飲酒をした者には、40 回の ムチ打ちの罰が課せられるようになりました。 飲酒運転どころか、 飲んだだけでも 40 回のムチ打ちですぞ ! 。ムチ打ちは イスラム法にのっとり斬首同様公衆の面前でおこなわれますが、右にいるのは ムチの回数を数える係りで、数を間違えると彼も ムチ打ちにされます。

正餐式

ライバルである キリスト教の特に プロテスタントにおいては、キリストの肉体と血の象徴として パンと ワインを信徒に授ける聖体拝受 ( せいたいはいじゅ )、聖餐 ( せいさん ) の儀式がありますが、そこでは ワインが中心的役割を担っていることも、イスラム教が ワインを忌み嫌う理由の 一つになりました。ところが イスラム教の宗教学者の中には コーヒーには人を酔わせる効果があるので、ワインと同様に宗教上の理由から、コーヒーも禁止すべきであると主張する者が現れました。

そこで 1511 年 6 月に現 サウジアラビアの メッカにおいて、 コーヒーが人を酔わせる作用の有無について イスラム法の専門家を交えて審議会を開いた結果、コーヒーの販売および消費が禁じられることになり、違反者には ここでも ムチ打ちの刑に処すことを決めました 。しかし数ヶ月後には エジプトの カイロにある イスラム法の上級当局がこの裁定を覆したので、まもなく コーヒーは再び飲まれるようになりました。

イスラム聖職者が懸念したのは コーヒーが人体にもたらす陶酔 ( ? ) 作用よりも、実際は コーヒーが市中で飲まれる環境に対してでした。コーヒー ・ ハウスは陰口やうわさ話、政治的討論、世相を風刺する話題の温床となり、チェスや西洋 スゴロクの場にもなり、そこでは人々がしばしば ゲームに金を賭けていたからでした。 1610 年に エジプトと パレスチナを旅行した イギリス人旅行者によれば

酒場はないが、それに近いものとして コッファ ・ ハウス ( コーヒー ・ ハウス ) がある。人々はそこで 小さな陶器 に入れた コッファ ( コーヒー ) と呼ばれる飲み物をすすりながら、おしゃべりをして 一日の大半を過ごす。 コッファはできるだけ熱くして飲む。それは スス ( 煤 ) のように真っ黒で、味も ススと大差ない。
と記していました。

[ 3 : コーヒー・ハウスの発達 ]

クレメンス8世

イスラム社会で盛んになった コーヒーが キリスト教社会に受け入れられるためには、ローマ教皇の承認が必要でした。そこで ベネチアのある商人が少量の コーヒーを、第 231 代 ローマ教皇 クレメンス 八世 ( 在位 1592〜1605 年 ) に差し上げて味見をして頂いたところ、教皇はその味と香りにすっかり魅せられたので、キリスト教徒が コーヒーを飲むことを許可しました。それ以来 コーヒー は、西 ヨーロッパに急速に広がりました。

教皇自身も コーヒー が好きになりよく飲んでいたため、次のような真偽不明の話が生まれました。あるとき教皇の側近が 「 コーヒーは イスラム教徒の飲み物で悪魔のものだから禁止しては ? 」と進言しましたが、教皇は次のように答えました。「 それにしても悪魔はいいものを飲んでいる。いっそのこと コーヒー に洗礼を授けて、こちらのものにしてしまってはどうだろうか!。」

イギリスといえば ティー( 紅茶 ) をすぐに連想しますが、ティーが輸入される以前は コーヒー が流行りました。ロンドンに初めて コーヒー ・ ハウスができたのは 1652 年のことで、イギリス商人の召使いをしていた パスカル ・ロゼという アルメニア人が店を始めました。ロゼの主人が近東 ( Near East、エジプト、イラク、トルコなどのこと ) を旅行中に コーヒー の味を覚え、その魅力に取りつかれました。

帰国後も彼は家で毎日数回、召使いの ロゼに コーヒー を入れさせていましたが、ロンドンの友人たちにも飲ませたところ、誰もがたいへん気に入ったために、彼は ロゼに コーヒー ・ ハウスを出店させました。ロゼの店は大変なにぎわいを見せたために コーヒー ・ ハウス を開店する者が増え、1663 年には 83 軒に達しましたが、 17 世紀末までには数百軒に増えました。

コーヒーハウスのアイドル

当時の イギリス人にとって コーヒー ・ ハウスは コーヒーを飲むだけでなく、異なる社会階級、異なる職業の人が同じ テーブルで話をしたり、議論しあう場所でもあり、情報交換、商談の場所でもありました。 注意すべき点は、コーヒー ハウスには女性客が入れなかったことで、現代の スタグ ( Stag 、男鹿 )・ パーティー や スタグ ・ バーのように男性たちだけの世界でした。しかし アイドル ( Idol ) と呼ばれた女性 だけは例外でしたが、アイドルとは店の看板女性 (?)のことで、カウンターのところにいて、コーヒー や茶を入れる係りをしていましたが、店の経営者の場合が多かったといわれています。美人の アイドルに言い寄る客や、嫌がらせをする客なども少なくなかったそうです。

[ 4 : コーヒー独占の崩壊 ]

17 世紀末までは、アラビアは世界各地への コーヒーの供給国として独占的な地位を築いてきました。 アラビア人たちは独占状態を守るために、コーヒー 豆から コーヒー の栽培を防ぐ為に、芽が出ないように豆を熱処理してから出荷したり、コーヒー の生産地域への外国人の立ち入りを認めませんでした。アラビアによる独占を最初に切り崩したのは オランダ人でしたが、オランダの船乗りたちが アラビアの コーヒー の木から枝を切り取って盗みだし、アムステルダムに持ち帰ったので、それを温室栽培で増やしました。そこでできた苗木を植民地である インドネシアの ジャワ島に持ち込み、コーヒー 栽培に成功しましたが、それが ジャワ産 コーヒー の始まりでした。

カリブ海に浮かぶ西 インド諸島産の コーヒー については、以下の話があります。

コーヒー苗木

フランス領だった西 インド諸島のある島に駐屯していた フランスの海軍士官が 1723 年に パリを訪れた際に、王立植物園の温室で標本として大事に育てられていた コーヒー の木の枝を コネ を利用して貰い受け、西 インド諸島行きの船に持ち込みました。ひどい凪 ( なぎ、無風状態 ) のために帆船は海上でしばらく足止め状態になり、飲み水が配給制になりましたが、海軍士官は自分に割り当てられた少量の飲み水を 30 日以上 コーヒー の木と分けあい、枯らさずにようやく目的地に運びました。

2 年後にこの木から初めて コーヒー 豆を収穫し、栽培用に枝を切って友人たちにも配りましたが、7 年後 ( 1730 年 ) に西 インド諸島産の コーヒー豆を、 フランス本国に輸出することができましたが、後の ブルー ・ マウンテン ( ジャマイカにある最高峰 2256 メートル の山 ) の銘柄で知られる、ジャマイカ産 コーヒーの始まりでした。右上の絵は コーヒー の木に自分に割り当てられた、貴重な水を与えているところです。

このようにして コーヒー は世界各地に広がりましたが、それではどこの国で多く飲まれているのでしょうか?。世界なんでも TOP 10 ( 1996 年版 ) のデータ から、国民 一人当たりの コーヒーの年間消費量を、1 キログラム当たり150 杯として算出しますと、


順位国名キログラム
フィンランド13.321,998
スウェーデン11.1.1,665
オーストリア10.031,505
デンマーク9.611,442
ノルウェー9.611,442
オランダ9.341,401
ドイツ7.911,187
スイス7.511,127
キプロス6.25938
10フランス5.73860
−−−−−−−−−−−−−
番外アメリカ4.28642
番外イギリス2.63395


これを見ると意外なことに コーヒー 好きと思われていた アメリカ人が番外であり、1 位になった フィンランド人が 1 日に平均 5 杯の コーヒー を飲むのに対して、その三分の一しか コーヒーを飲まないことが分かりました。ティー しか飲まないと思われていた イギリにも、日本以上に コーヒーの愛好家がいました。


[ 5 : 茶、Tea ]

すべての道は ローマに通じるという言葉がありますが、すべての茶の ルーツは中国にあるといわれています。文献の上では紀元前 5 世紀に書かれた 僮約 ( どうやく ) という書物に茶の記事があるそうですが、この頃はまだ茶の文字がなく、 荼 ( と ) という文字が使われていました。

茶の原産地

茶の原産地は中国南西部の雲南省と貴州省にまたがる山岳地帯の雲貴高原とされていて、昭和 36 年 ( 1961 年 ) には雲南省の西双版納 ( シーサンパンナ ) の山中で、樹齢 1700 年を越える野生の茶樹が発見され、この付近が茶の原産地であることが裏付けられました。写真はその茶樹ですが、茶は学名を ツバキ科 ツバキ属 カメリア ・ シネンシス( Camellia Sinensis ) 種という常緑樹 で、その葉や芽だけでなく、種類によっては花も乾燥させて煎じて飲みます。

中国から日本に茶が伝えられたのは遣唐使 ( 630〜894 年 ) や留学僧の往来が盛んだった 8 世紀頃で、中国の文物を盛んに日本に持ち帰った時代でした。禅宗の修行のために唐に渡り、後に天台宗の開祖となった最澄 ( さいちょう、767〜822 年 ) も中国で茶を喫して効能を体験し、延暦 24 年 ( 805 年 ) に帰国した際には茶の種子を持ち帰ったといわれています。

当時の中国では茶は不老長寿の妙薬と信じられ、僧侶たちは修行中の眠気ざましや疲労回復の薬として飲んでいました。記録に残るものでは日本後記 ( 792〜833 年の史実を記載した歴史書 ) の 815 年 4 月 22 日の条に、僧の永忠 ( えいちゅう ) が嵯峨天皇 ( さがてんのう、786〜842 年 ) に茶を煎じて奉ったとあり、これが最古のものとされます。

当時の茶は 葉を煮出して作る 「 煎じ茶 」 でしたが、特権階級の人たちが飲む程度で庶民の口には入りませんでした。現在の日本茶のもとになったのは鎌倉時代初期に、臨済宗の開祖となった栄西 ( 1141〜1225 年 ) 禅師が 二度中国の 宋( そう ) に渡った際に種子を持ち帰り、九州筑前 ( 佐賀県 ) の背振山 ( せぶりさん、標高 1055 m ) の麓に植えたのが始まりといわれています。彼は更に京都の栂尾 ( とがのお ) の高山寺を再興した明恵 ( みょうえ )上人 ( 1173〜1232 年 ) にも種子を贈ったとされていますが、上人は高山寺の前庭で種子から茶樹を育てて良質の茶を作り、その種子を宇治、大和、伊勢、駿河などの各地に送り茶の普及につとめました。なお栄西自身も 1211 年に、日本で初の茶に関する本の喫茶養生記を書きました。

[ 6 : 伝搬ルートの違い、茶の呼び名 ]

茶は中国から陸路を経由して チベット、モンゴルへもたらされ、シルクロードを経由して中央 アジア、イスラム諸国、トルコ、ロシアに伝わり、また海を経由して ヨーロッパに伝わりました。

東方案内記

オランダの地理学者であった リンスホーテン ( 1563〜1611 年 ) が、インドの ゴアに赴いた時の見聞記である 「 東方案内記 」 を 1596 年に出版しましたが、その中で当時の ヨーロッパでは知られていなかった、アジア各地の地理 ・ 歴史 ・ 民族等の情報を記述しました。その第 26 章には 「 ヤパン島 、 日本 」 と言う章を設けていて、

彼等は食後に、ある種の飲み物を飲用する。この チャ と称する薬草の、ある種の粉で調味した熱湯云々−−−。

という記述がありましたが、オランダの東 インド会社が中国茶を ヨーロッパに伝える 14 年前のことでした。写真は東方案内記です。

茶の呼び名については面白いことに、中国から陸路を経由して茶が伝えられた国々では 広東語系の チャ ( Cha ) が使用され、海路で茶が伝えられた ヨーロッパの多くの国では、 福建語系の テ− ( Te ) が主に使用されていますが、それぞれの言語を使う広東省、福建省の人々が茶の交易に従事し、あるいは品物の輸送に関係したからと思われます。


広東語系表現発音福建語系表現発音
ロシアchaiチャイイギリスteaティー
チベットjaジャフランスthe
インドchaチャドイツteeテー
イランcaチャオランダスtheeテー
日本チャイタリアte


中国の茶といってもその種類は産地、茶樹、茶摘みの時期、発酵方法などにより種類が分かれ、一説によれば数百あるいは 1 千種類以上もあるといわれています。日本人にも馴染みのある緑茶 ( Green Tea ) は摘んだ葉を発酵させずに、すぐに熱処理する 発酵茶 であり、烏龍 ( ウーロン ) 茶に代表される青茶は茶葉を揺すったり混ぜたりして発酵をゆるやかに促し、途中で発酵を停止させて作る発酵茶 です。今回主に述べる紅茶 ( Black Tea ) は茶葉を完全に発酵させて作るので、 完全 発酵茶 に分類されます。

紅茶の代表は キームン ( キーマン、Keemun ) ・ ゴンフー( 祁門工夫 ) ですが、これは 1875 年に新たに製法が考え出されたもので、イギリスを初め欧米各国に輸出され、1915 年には パナマにおいて催された万博で金賞を受賞し、中国の キームン ( キーマン ) ・ ティー として国際的に最も知られた中国の紅茶です。形、味、香り、水色とも優れ、蘭の花のような香りがして、インドの ダージリン ( Darjeeling )、スリランカの ウバ ( Uva ) と共に世界 三大紅茶の銘柄とされます。


[ 7 : 紅茶の製法 ]

茶が ヨーロッパに初めてもたらされたのは 1610 年のことで、オランダの東 インド会社の商人たちが中国広東省の マカオ ( ポルトガル領 )や九州の平戸 ( ひらど ) で買い付けた茶を船に積んで、本国の アムステルダムに向けて輸送したのが最初でした。その後 オランダから1630 年代に フランスへ伝わり、1650 年代には イギリスに伝わりましたが、最初に輸入された茶は中国人が好んだ緑茶 ( Green Tea ) でした。紅茶は明朝 ( 1368〜1644 年 ) になってから製法が開発されましたが、ヨーロッパ人たちは緑茶と紅茶はそれぞれ、 別の種類の茶樹から採れるものとばかり 思っていました。紅茶の製法については、

原料とする茶葉の生葉をしおらせ ( 水分を減らし )、十分に揉みながら、葉などに含まれている茶汁 ( ジュース ) を葉の外ににじみ出させる。そして茶汁の中に自然な状態で含まれる 酸化酵素 の働きを 十分に活性化させる。 空気中の酸素に触れさせることによって、タンニンなどの カテキン類やその他を 酸化発酵させる が、この時に酵母とか イースト菌などは全く使わない。十分に発酵が進んだところで熱風により発酵を中止させ、乾燥させて仕上げる。
のだそうです。これに対して我々が日頃飲む緑茶は、 最初に茶葉を蒸気で蒸した後に 熱風で乾燥させながら何度も機械あるいは手で揉み、最後に形を整える為に揉みます。

[ 8 : 茶の勧め ]

茶は コーヒー に比べて 百年以上遅れて ヨーロッパにもたらされたものの、当初はあまり普及しませんでしたが、その理由は茶の値段の高さが原因でした。オランダでは最初は高価な医薬用飲料として飲まれましたが、その健康的効用について賛成、反対両派が活発に議論しあいました。賛成派の オランダ人医師 コルネリウス・ポンデクーによれば

全国民に、そして世界中の人々に茶を推奨する。男性も女性もこれを毎日、できるならば毎時間飲むことを勧める。1 日 10 杯から始めて、その後は  胃が許す限り、できるだけ服用量を増やす といいだろう。病人ならば 1 日 50 杯 は飲んだ方がよく、上限は 200 杯である。
としましたが、後に彼は茶の売り上げに貢献したとして、オランダの東 インド会社から表彰されました。茶に牛乳を加えて飲む ミルク ・ ティーを始めたのも ヨーロッパ人でしたが、最終的に ヨーロッパで最も茶を好む国になったのは、 フランスでも オランダでもなく皆さんもご存じの イギリスでしたが、この件については後述します。

ホームページの 表紙の第 7 項に、前立腺肥大手術 ・ 体験記に書きましたが、私が手術を受けた際には膀胱出口や尿道内の傷口を尿で洗浄する目的から、毎日 2 リットル以上の水分を摂るように医師から命じられました。 ポリ ・ タンクに 2 リットルの水を入れて退院後も 2 ヶ月間毎日飲みましたが、200 CC 入りの コップで 10 杯分でした。夏期ならばともかく手術は 4 月でしたので、かなりの努力が必要でした。

小さなカップ

それを私の 5 倍に当たる 50 杯も飲むとなると、その分だけ当然水分を排出するわけですから、健康な人でも病気になりそうだと思いました。ところがよく調べてみるとこの考えは間違いであり、当時使われていた ティー ・ カップ が 非常に小さいもの であることが分かりました。右の絵の女性が持つ、小さなティー ・ カップに注目してください。


[ 9 : 紅茶が普及した理由、混ぜ物の混入 ]

18 世紀初めの イギリスでは茶を飲むのは極く少数の者だけでしたが、18 世紀の終わりになると誰もが茶を飲むようになりました。1699 年におよそ 6 トンだった茶の輸入量が 1 世紀後には 1 万 1 千 トンに増え、18 世紀末の 茶 1 ポンド ( 約 450 グラム ) の値段は、1 世紀前に比べて 12 分の 1 に低下してしまいましたが、 その原因の一つは 「 偽もの茶 」の横行であり、茶葉に対する 「 混ぜ物の混入 」 でした。

もし茶の業者が、サクラ属の葉や甘草 ( かんぞう ) の葉、あるいは使用後の茶の葉、あるいはその他の木や灌木や草の葉を、茶に似せて染めたり加工したりした場合( 以下略 ) には、すべての茶葉を没収され、罰金として 10 ポンド支払わなければならない。
と書かれた 1731 年の法文書が残っていることから、さまざまな手段で、にせ茶作りに励んだ人が多かったに違いありません。茶の人気が高まるにつれて、「 イギリスで作られた偽もの茶 」 が、かなり出回るようになりました。最初に輸入された茶は前述したように緑茶 ( Green Tea ) でしたが、やがて紅茶の人気が高まりました。その理由は完全発酵させた紅茶の方が、中国から ティー ・ クリッパー ( Tea Clipper 、茶の輸送用快速帆船 ) に積み込み、長い航海を続けても商品が傷みにくかったことと、混ぜ物による副作用にも関係があったからでした。

緑茶の 「 にせもの 」 を作るのに使われた化学物質である、緑色の着色剤の多くには毒性があり、たとえ混ぜ物をしたとしても 紅茶の方がより安全だったからでした 。このような理由から緑茶ほど口当たりがよくなく、苦みの強い紅茶に人気が出るにつれて、飲みやすくするために砂糖と牛乳を加える習慣が普及しました。


[ 10 : アフタヌーン ・ ティー ]

キャサリン王妃

茶の普及に拍車をかけたのは1662 年におこなわれた イギリスの チャールズ 2 世 ( 在位1660〜1685 年 ) と、 ポルトガル王 ジョン 4 世の娘の キャサリン ・ オブ ・ ブラガンザ ( Catherine of Braganza ) の結婚でした。

彼女はかなりの茶好きでしたので莫大な持参金、財産の他に、茶箱に入れた茶も持参しましたが、小さな カップで茶を飲む習慣がたちまち イギリスの王室や貴族の間に流行しました。彼女の影響で ティー はおしゃれな飲み物となり、社会的にも普及するようになりました。

1706 年に ロンドンで コーヒー ・ ハウスを開業した トーマス ・ トワイニング ( Twining ) が、11 年後に店の隣りに紅茶専門店の ゴールデン ・ ライオンを開店し、婦人にも茶葉を売り、ティーを飲ませる ティー ・ ハウスを開き繁盛しましたが、それまでは茶葉は高価のために茶箱に入れて蓋に カギを掛けて保管し、一家の主婦 ( 夫人 ) 以外は手を触れることができない貴重品でしたので、使用人に大金を預けて茶を買わせることはしませんでした。しかし トワイニングの店でなら、女性もこの最新のおしゃれな飲み物をその場で飲むことができたし、家で使う茶葉を買って帰ることもできました。

デルバー ・ コートにある トワイニングの店では、貴婦人たちが群れをなし、数 シリングの金を払っては、  小さな カップ入り の元気になる飲料をすすっている
という文章も残されていました。

上品な飲み方

上流階級の人々の間では茶の知識があることや、自宅の優雅な雰囲気のなかで日本の茶道のように、 儀式のような作法で 上品に 茶を飲むことが洗練さの象徴とみなされる ようになりました。茶の正しい入れ方はもちろんのこと、イギリスではその当時から現在に至るまで社会の階級が厳然と存在しますが、 異なる階級の客人がいた場合に茶を出す順序はどうすべきか、どんな食べ物を出すのか、客の主人に対する謝辞の述べ方など、さまざまな作法が決められました。

アンア・マリア像

上流階級の人々にとって ティー は単なる飲み物ではなくなり、新しい習慣である アフタヌーン ・ ティー ( 午後の軽食 ) を生み出しました。これは 1840 年に ベッドフォード侯爵夫人の アンナ ・ マリアが、軽食付きの午後のお茶会を始めたのが社交界で評判になり、これが アフタヌーン ・ ティー の習慣の始まりといわれています。

招待状

参考までに アフタヌーン パーティー と正式には呼ばれる ティー ・ パーティーの招待状を示しますが、初めと終わりの時刻を指定してあることが、イブニング ・ パーティーとの違いです。

午後のお茶

日本では 一部の人が誤解していますが、アフタヌーン ・ ティー とは午後に 紅茶を飲むためのものではなく  本来は社交のための遅い ディナー に備えて、午後 4 時頃に 軽い食事を摂るためのもの でした。イギリスの上流階級に 憧れ あやかりたい人は 、この経緯を記憶された方がよろしいかと思います。

ちなみに ロンドンで初めて ティー ・ ハウスを営業した トワイニングの店は、王侯貴族などから絶大な支持を得るようになりましたが、ビクトリア女王即位 ( 1837 年 ) の際には王室御用達の栄誉を受け、トワイニングの歴史は英国紅茶の歴史とまでいわれ、現代にまで続く紅茶の銘柄 トワイニングになっています。

[ 11 : ティー ・ カップには、把手 ( とって ) が無かった ]

茶碗

前述したように中国から ヨーロッパに茶を運ぶ船に積んだのは緑茶 ( Green Tea ) が主でしたが、それだけではなく、帆船の バラスト ( Ballast 、船の安定性を保つ為に船底に積む重量物 ) として陶器類も大量に積み込みました。当時の ヨーロッパの陶器は質も デザインも粗末なものでしたので純白で薄く、硬く艶やかな硬質磁器は ヨーロッパでは未だ作り出せませんでした。

そこで中国製の陶器、磁器や九州の平戸に設けられた オランダ商館から、 オランダ船で輸出された日本製の陶器、磁器、たとえば肥前国 ( 佐賀県 ) 有田の有名な陶工、酒井田 ・ 柿右衛門 ( 1596〜1666 年 ) に代表される優れた伊万里焼 ( 伊万里港から積み出される、有田地方で産出された陶磁器の総称で有田焼ともいう ) が、 ヨーロッパで非常にもてはやされました。

茶や コーヒーなどが伝わる以前の ヨーロッパでは、ビールも ワインも冷たい飲み物であり、ホット ・ ドリンク ( 熱い飲み物 ) を飲むという社会習慣が無くその為の コップ類もなかったので、茶は同時に輸入された 茶碗を使い飲むことになりました

茶碗の持ち方

ところが熱い液体の飲み方に慣れていないために、茶碗を独特な持ち方をしたり、あるいは茶碗を受け皿 ( ソーサー、Saucer ) に乗せて、熱い茶を受け皿に少量ずつ こぼして ( 移して ) 適当な温度に冷ましてから、皿からすすって飲む方法にしました。イギリスでは昔から酒類を飲むために把手 ( とって ) 付きの大型 カップが用いられていましたが、1715 年頃に ドイツの マイセンが良質の陶器を作るようになり、 イギリス国内でも ティー ・ カップを製造するようになると、熱い液体を入れて飲む際の持ち易さから自然に把手付きが登場するようになりました。

湯飲み

フォーマルな茶会には最初は、小型で把手 ( とって )がない伝統的 ( ? ) な茶飲み茶碗が用いられましたが、後には熱い液体を飲み易くするため、全ての ティー ・ カップに把手が付くようになり今日に至りました。

参考までに紅茶をよく飲む国の データを、 再度 世界なんでも TOP 10 から引用しますが、国民 一人当たりの年間消費量で、紅茶 1 キログラム 当たり 440 杯としての計算です。


順位国名キログラム
アイルランド3.331,465
イギリス2.611,148
カタール2.301,012
トルコ2.14942
ホンコン1.74766
イラン1.74766
クウェート1.69744
シリア1.66730
チュニジア1.42625
10バーレン1.41620
−−−−−−−−−−−−−
番外アメリカ0.33150


ここでも 1 位は イギリスではなく予想外の アイルランドでしたが、これまでの飲み物などの トップ 10 位以内に日本の名前はありませんでした。更に調べてみるとひとつだけありましたが、それは チョコレートの主成分である カカオ豆の年間消費量が 11 万 1,200 トン で 世界第 5 位でした


[ 12 : バレンタイン ・ デー の自分 チョコ ]

バレンタイン ・ デーに恋人同士が互いに愛を込めて相手に品物を贈る習慣が キリスト教の国々にありますが、花や ケーキその他の品ではなく、 チョコレートだけに品物を 限定し 、しかも 女性の側から 男性に贈る習慣などは、 日本以外にはありません

1950 年代以降に チョコレート業者の宣伝に踊らされた女性が 義理 チョコ を職場の男性に贈り、 私のように思春期以来 女性に モテタ ことの無い哀れな男 の多くが 、 女房の手前あたかも若い女性たちから贈られたように装い、乏しい小遣いの中から 自分 チョコ を買うという日本だけの特異な社会習慣の結果が、前述の カカオ 豆の年間消費量が世界第 5 位になった理由でした 。

老夫婦

退職後しばらく経ってからのこと、 70 才になる老妻 ( 老婆 ) が バレンタイン ・ デー に こう言いました。

あなたも昔は スチュワーデスから (?) チョコレートを 沢山もらってきたけれど、今は 私しか いないわね。

そう言うと彼女の 乏しい国民年金 の中から購入した ゴディバ ( Godiva ) の チョコ を 、そっと差し出しました。それを見た私は現役時代の哀れな 「 自分 チョコ 」 の件を思い出して−−−−涙−−− ナミダ ? ?。 長文をお読み頂き、おつかれさまでした。



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