ジャガタラ お春


[ 1:流行歌 ]

私は昭和 8 年 ( 1933 年 ) に生まれましたが、子供の頃に流行った歌に 長崎物語 というのがありました。大人たちが歌っていたのを覚えていて今でも歌えますが、その 1 番の歌詞は、

赤い花なら 曼珠沙華 ( まんじゅしゃげ ) 阿蘭陀屋敷 ( オランダやしき ) に 雨が降る  濡れて泣いてる じゃがたらお春  未練 ( みれん ) な出船の ああ鐘が鳴る  ララ 鐘が鳴る

彼岸花

ちなみに 「 まんじゅしゃげ 」 とは秋の彼岸の頃に咲く彼岸花 ( ひがんばな ) のことですが、昔は田んぼの周囲や河原などに群生していて、別名を 「 死人花 」 ( しびとばな )、「 捨て子花 」 ( すてごばな ) とも呼ばれて、身寄りのない無縁仏 ( むえんぼとけ ) の墓に備えるなど、 縁起の良い花ではありませんでした 。それ故に この花が外国へ追放される混血少女の、悲しい物語の歌詞に取り入れられたのでした。

この歌を聴きたい人は、 ここを クリック

注:)
3 番の歌詞にある サンタ ・ クルス ( Santa Cruz ) とは ラテン語の 「 神聖な 十字の形 」 に由来する スペイン語で 、 「 聖 十字架 」 のことですが、そこから キリスト教の 布教拠点の意味 にもなりました。サンタ ・ クルスの名前を付けた都市 ・ 町などが世界に数多くありますが、クリスマスにやって来る サンタ クロース ( Santa Claus、聖 ニコラス ) とは英語の綴りが異なります。


[ 2:ポルトガル ・ スペインによる、世界分割 ]

日本人が最初に南蛮人と呼んだ ポルトガル ・ スペイン ( スペイン語では Espa~na、イスパニア ) の両国が、15 世紀から 17 世紀にかけての大航海時代に探険航海に出た主な目的は、当時貴重品だった コショウなどの香辛料 ・ 香料 ・ 金 ・ 銀 ・ 財宝などの獲得や 奴隷 ( どれい ) を売買する と共に、 異教徒に キリスト教を広めることにより 自国の領土を 拡大する ことにありました

ポルトガルは バスコ ・ ダ ・ ガマ ( Vasco da Gama 、1469 ? 〜1524 年 ) による喜望峰を回る インド航路を 1498 年に開拓して、インド南西部にある カリカット ( Calicut ) に到着し、1510 年には インドの ゴア ( Goa ) へ、1511 年には マレー 半島南西部の マラッカ ( Malacca ) へ、1557 年には中国広東省の マカオ ( Macao) へと、貿易の拠点を築いて アジアに進出しました。

マカオから出航した ポルトガルの船が遭難して種子島に漂着し、日本へ鉄砲が伝わったのは 1543 年のことですが、後述する フランシスコ ・ ザビエルが キリスト教布教のために来日する 6 年前のことでした。

当時 ポルトガルにとって貿易 ・ 植民活動の最大の競争相手は スペインでしたが、両国による 貿易利権 ・ 領土獲得の縄張り争い を避けるために、両国は トルデシリャス条約 ( 1494 年 ) と 、後に サラゴサ条約 ( 1529 年 ) を結びました。

  1. トルデシリャス ( Tordesillas ) 条約
    領有地図

    アフリカ大陸の西岸にあり かつては奴隷積出し の拠点でした、 セネガルの首都 ダカール ( Dakar ) の沖に カーボ ・ ベルテ ( Carbo Verde ) という群島があります。

    そこから真西に 100 レグア ( スペイン語の Legua は、英語の League リーグのことで、 1 リーグは約 5.6 キロメートルのため、560 キロメートル ) の地点を通り、南北両極に向けて大西洋上に スペイン語で リネア ・ デ ・ デマルカシオン ( Linea de Demarcacion、英語にすると  Line of Demarcation ) という、世界を分割するための 観念上の境界線 ( 子午線 ) を引きました。

    ヨーロッパ以外の新領土については、その境界線 ( 西経 45 度〜西経 46 度 37 分 ? 、距離の測り方により子午線の位置が多少異なる ) を基準にして、線の西側を スペインが進出し領有できる範囲とし、東側を ポルトガルが進出し領有できる範囲と、当時の ローマ教皇 アレクサンデル ( Alexander ) 6 世が裁定しました。

    アレクサンデル6世

    なお彼は、コロンブスが 1493 年に新大陸から ヨーロッパにもたらした 三大お土産 のうちの 一つ である、 梅毒に感染した ローマ教皇としても有名でしたが、 残りの 二つとは、新大陸発見に関する情報と、タバコでした。

  2. この デマルカシオン ( Demarcacion、世界分割 )とは

    ある地域を 領有し 、独占的に航海、 貿易 キリスト教の布教 を自由に行うことを、( ローマ ) 法王庁が許可する明確な規定。

    という概念で呼ばれています。


  3. サラゴサ ( Zaragoza ) 条約
    東半球 における両国の分割境界線については 1529 年 に締結された サラゴサ条約により、香料で有名な モルッカ ( Molucca ) 諸島の東方 297.5 リーグ ( 1,666 キロメートル ) を通る子午線 ( 東経 144 度 30 分付近 ) を世界分割の境界線と定め、 西側を ポルトガル、東側を スペイン が領有可能な縄張りと決めました。

  4. ちなみに 東経 144 度 30 分とは 、北海道 ・ 釧路市の東側を通る経度線になります。

  5. これにより ポルトガル人たちは アフリカから インド ・ 日本 に至る地域の 征服 デウス ( Deus、ポルトガル語の神、天主 ) から ポルトガル国王に課せられた 神聖なる使命であるとして 、政治家 ・ 宣教師 ・ 商人 ・ 航海者たちは名誉欲 ・ 信仰心 ・ 開拓欲 ・ 金銭欲に勇気付けられて、情熱を傾けてこの事業に取り組みました。

    ちなみに ポルトガルは最初の植民地国家であり、 平成 9 年 ( 1997 年 ) に マカオを中国に返還した、最後の植民地国家ともいわれています。

  6. しかし 購入すれば 「 罪の償いが免除される 」 と称して 、堕落した カトリック総本山の ローマ教皇が カネを集めるために 免罪符 ( Indulgence ) を販売したために、教皇の権威は失墜し 否定され、 16 世紀に入ると ヨーロッパでは マーチン ・ ルター ( Martin  Luther、1483〜1546 年 ) などによる宗教改革の嵐が吹き始め、イギリスと オランダという新教 ( プロテスタント ) 国が前述の トルデシリャス条約や サラゴサ条約を無視して、新大陸と アジアの領有 ・ 貿易に割り込んで来るようになりました。

    注:) マーチン ・ ルターの言葉
    免罪符を買うよりも 貧しい者に金を与える方が、はるかに良いおこないである。


[ 3:キリスト教の伝来 ]

ザビエル像

キリスト教が日本に伝えられたのは、天文 18 年 ( 1549 年 ) 8 月 15 日 ( 旧歴 7 月 22 日 ) のことでしたが、スペインの宣教師、フランシスコ ・ ザビエル ( Francisco Xavier 注参照 ) が トルレス 神父 と フェルナンデス修道士、それに 鹿児島出身の元貿易商人で鹿児島で殺人を犯して 山川港から ポルトガル船で海外へ逃亡した、日本人の アンジロー ( 注参照 ) を伴って鹿児島に上陸し、布教したのが最初でした。

    [ 注 : ]
  1. フランシスコ ・ ザビエル ( 1506〜1552 年 ) は スペイン北東部にある現在の バスク 自治州で生まれた バスク 人ですが、彼等は 印欧語族 ( いんおう ごぞく、インドの ヒンドゥー 語 、ヨーロッパ の 英語 ・ スペイン 語 ・ フランス 語など ) の 語順である、 ( 主語 + 述語動詞 + 目的語 ) 私は + 食べる + ご飯  とは順序 が異なる バスク 語を使い、肌は浅黒 く 頭髪は黒 く、ヨーロッパ 系民族とは異なります。

    彼は パリ 大学卒業後に宣教師を志 し、イグナティウス ・ デ ・ ロヨラ などと協力 して、腐敗 した カトリック から 清貧を旨とする イエズス 会を創設する メンバー の 1 人になりま した。

  2. アンジロー とは ポルトガル 語による発音で、正しくは ヤジロウ ( 弥次郎か、 弥二郎 ) のことですが、彼と マレー 半島の マラッカ ( Malacca ) で出会った ザビエルは、 彼の教養と優れた能力を見抜き日本 へ の布教に役立てようと、アンジロー を インドの ゴアにある イエズス会の宗教学校で 6 ヶ月勉強させ、 キリスト教の教義と ポルトガル語を学ばせた後に鹿児島に伴いま した。

    アンジロー は ポルトガル語を話し、読み書きした最初の日本人であり、欧文から日本語への翻訳者 ・ 通訳の第 1 号、初の日本人留学生で した。もし彼がいなかったならば ザビエルによる キリスト教の日本での布教は、円滑におこなわれなかったであろうといわれています。

  3. 彼は ザビエル 一行を鹿児島に連れて来たことで、 薩摩藩主 島津貴久 ( たかひさ ) から殺人罪を許され家族と再会しましたが、妻や親戚 ・ 友人を キリスト教に改宗させ布教や聖書などの日本語訳に協力しました。ところが ある日突然 ザビエルの期待を裏切って姿を消し、倭寇 ( わこう、海賊 ) の仲間に加わり後に中国で殺されました。

ザビエルたちが日本から出した報告書や手紙により、日本には当時 キリスト教に敵対する勢力でした イスラム 教や ユダヤ 教が存在せず 、社会秩序が整い、仏教信仰を持つものの日本人の人間性や資質を高く評価し、 キリスト 教の布教に極めて適した地域であることを知ると、数多くの宣教師が布教の為に日本にやってきま した。

ザビエル自身は 2 年間日本に滞在しただけで次の伝導地の中国へ向かいましたが、その間に多数の信者を獲得すると共に、ヨーロッパ人宣教師の手足となって働く日本人の伝道補助者 ( 同宿、どうじゅく ) を養成し、布教に当った結果、短時日のうちに キリシタンの数は数 十万人になりました。

注:)
  1. キリシタンとは ポルトガル語の Crist~ao がそのまま発音されて日本語になりましたが、漢字では 切支丹 のあて字が使用されています。本来の意味は キリスト教を信じる者 ( 信者 )、または キリスト教そのものを指します。

    大日仏

  2. アンジロー が翻訳した聖書 ( ? の 一部 ) によると、前述した天地創造の神 デウス ( Deus ) を日本人に理解し易いように、仏教でいう宇宙の実相を司る根本の佛である大日如来 ( だいにちにょらい、右図 ) としたために、キリスト教のことを 最初は天竺 ( てんじく、インドに対する古い名称 ) にある 仏教の 一宗派である と誤解した日本人もいました。

  3. 日本語の中に定着した ポルトガル語としては、カッパ ( 合羽、capa )、ジュバン ( 襦袢、gib~ao )、ボタン ( bot~ao )、 パン ( pa~o )、 バッテラ ( バッテイラ、Bateira 、小舟の意味から、サバの押し寿司 )、 金平糖 ( 砂糖菓子、confeito、 コンフェイト )、カルタ ( carta )、 テンプラ ( tempero ) などがあります。


( 3−1、イエズス会 )

キリスト教には カトリック ・ プロテスタント ( 新教 ) の 二大宗派を初め、5 世紀に分派し エジプトで盛んな コプト ( Copts ) 教など いくつもの 教派がありますが、ザビエルと同じ前述した バスク人で イエズス会の創立者の イグナティウス ・ デ ・ ロヨラ ( Ignatius de Loyola、1491〜1556 年 ) が 1534 年に ローマ教皇 パウル 3 世の承認を得て、 カトリック修道会の 一つである イエズス会 ( 英語名は、Society of Jesus ) を創設しました。

ザビエルが イエズス会に所属 していたために日本に布教に来た宣教師 290 名のうち イエズス会所属の宣教師が圧倒的に多く、1549 年の 「 キリスト教開国 」 から1643 年の禁教までの 94 年間に、イエズス会からは 144 名が来日 しま した。そのうち パードレ ( Padre 、神父、司祭 ) が 111 名、 イルマン ( Irm~ao 、修道士 ) が 33 名でした。

ところで イエズス 会士 の英語名は ジェズイット ( Jesuit ) ですが、研究社の 新英和大辞典を引 くと、そこには 「 陰険な策謀家 ・ 詭弁 ( きべん ) 家 」 とあり、形容詞の Jesuitic には 「 陰険で腹黒い 」 、「 ずるくて策略的 」 という、 およそ宗教家に対する表現とは無縁なはずの、 品性の下劣さを示す 言葉が並んでいます 。 これは カトリックである イエズス会の布教方法に対する、 プロテスタント 側の批判に由来するものですが、一応 参考にはなります。


[ 4:オランダ東 インド会社 ( V O C ) ]

出島

もともと日本における南蛮貿易は 前述した デマルカシオン ( 世界分割 ) の条約に基づき、ポルトガル国王の資金援助の元で、 宣教師と結びついた ポルトガルの貿易船 が独占していましたが、その後 スペイン船、オランダ船、イギリス船が長崎県の平戸や長崎へ来るようになり、彼等の商館が最初は平戸に置かれましたが、1635 年に長崎港に出島が完成したことにより長崎に移りました。絵は出島の様子を描いた屏風 ( びょうぶ ) です。

東インド会社といえば、 東 インド ( 東洋 ) 貿易 を目的として 1600 年に イギリスが設立し、インドの植民地支配に重要な役目を果たした イギリスの 東 インド会社 ( English East India Company ) が有名ですが、その後 1602 年に オランダが、1604 年には フランスが、それぞれの国の独占的貿易会社である東 インド会社を作り東洋に進出し、オランダは 1619 年に バタビア ( 現、ジャカルタ ) を占領し、東 インド会社の本拠地を設立しました。

しかし イギリスの東 インド会社は 香料諸島 ( Spice Islands ) における 香料貿易 で オランダと争ったものの、1623 年に起きた アンボイナ島虐殺事件 ( Amboyna massacre ) によりイギリス商館員など 20 名が オランダにより全員虐殺されたために、イギリスは香料貿易から撤退し、オランダが同島の権益を独占しました。敗れたイギリスはそれ以後 インドとの綿布取引をおこなうようになり、広大な インド大陸の植民地経営に従事するようになりました。

香料と香辛料貿易の詳細については、 ここにあります

東インド会社

オランダ東 インド会社のことを オランダ語の 、Vereenigde Oostindische Compagnie の頭文字を取って V O C と呼びますが、現、インドネシア共和国の中心であり、首都のある ジャワ ( Java ) 島 の バタビア ( ジャカルタ ) に政庁を置き、貿易だけでなく インドネシアの植民地化と、その後の植民地経営に重要な役割を果たしました。

オランダによる東 インド ( 東洋 ) 貿易の実態と、 ジャワ島 ( インドネシア ) における植民地経営の基礎を築いた、 V O C 従業員の数については下表にあります。


V O C ・ 従業員の地理的分布( 1753 年 )

順 位地 域 別人  数
バタビア (ジャカルタ)4,860
セイロン4,652
ジャワ東岸2,822
マラバサール1,395
マカッサル
(インドネシア・スラウェシ島の南部)
995
アンボン
( インドネシア東部 )
864
コロマンデル
( インド南東部 )
789
テルナテ
( 旧セレベス島 )
759
21長 崎11



[ 5:豊臣秀吉 の変心 ]

ザビエル以降、織田信長 ・ 豊臣秀吉は ヨーロッパの新しい文化を知ると共に、貿易による経済的利益獲得、鉄砲用火薬などの軍需品獲得のために ポルトガル船の寄港を望み、 南蛮人宣教師を厚遇しましたが、それにより合計 1,600 名にもおよぶ キリスト教の布教従事者が活動し、戦国武将の中にも キリスト教に改宗するものが現れ、 キリシタン大名 ( ポルトガル語で セニョール ・ キリシタン、Senihor Christ~ao ) といわれました。

その第 1 号は肥前 ( 長崎 ) の大村純忠 ( すみただ )で、永禄 6 年 ( 1563 年 ) に改宗して洗礼名を バルトロメイ に、豊後 ( 大分県 ) の大友宗麟 ( そうりん ) は フランシスコ に、摂津の 高山右近 ( うこん ) は洗礼名を ジュスト といいましたが、熱心に信仰を説いた右近は豊臣秀吉により改易 ( かいえき、領地 ・ 家禄を没収 ) され、徳川家康が天下をとった後の慶長 19 年 ( 1614 年 ) には家康によって マニラへ追放されました。

南蛮寺

左図は イエズス会が天正 4 年 ( 1576 年 ) に現在の京都市 ・ 中京区に建てた 3 階建ての南蛮寺 ( なんばんでら、教会 ) ですが、 1586 年の データによれば、 日本中に キリスト教会が 200 箇所 あり、イエズス会の修道院は 22 箇所 におよびました。下表は ザビエルによる キリスト教布教 ( 1549 年 ) から 20 年後、33 年後、41 年後の信者数の変化です。


各教区別、キリシタンの人口 ( 単位 人 )

キリシタン 教 区1569 年1582 年1590 年
大村 ・ 有馬 ・ 天草20,000115,000160,000
豊後 ( 大分 )5,00010,00030,000
京都及び畿内1,50025,00050,000
合  計26,500150,000240,000


  • ところが キリシタン大名は、その信仰によって家臣、領民の統制を強化し、絶対者としての  デウス ( Deus、ポルトガル語の 神、天主 ) を崇拝 ( すうはい ) し帰依 ( きえ、信仰対象の力にすがる ) したため、領内の神社仏閣を焼き払う大名も現れました。

  • 天正 8 年 ( 1580 年 ) に肥前 ( 長崎県 ) の前述した キリシタン大名 大村純忠が、現在の長崎港を含む周辺の土地を イエズス会に寄進したために、その土地の所有権 ・ 行政権 ・ 裁判権 ・ 外国船の停泊税が ポルトガルに所属する イエズス会のものとなり、あたかも長崎が 治外法権を持つ地域 のような事態になりました。

  • さらに宣教師に そそのかされた キリシタン ( 信徒 ) たちが、長崎は キリスト教徒の土地であるとして、 神社仏閣を焼き払い 破壊する事態になりました。

    それについて 長崎 旧記類によれば

    • 天正 9 年 ( 1581 年 )10 月、諏訪神社 ( 旧 安禅寺 ) ヨリ馬町マデニ境内 広ク構ヘタル神宮寺 ( じんぐうじ、神社に附属して建てられた寺院 ) ト云フ大寺ヲ、蛮賊等 ( キリシタン信徒たちが ) 謀計 ( ぼうけい、はかりごと ) ヲ以テ焼却シテ、天ヨリ自然ト是 ( これ ) ヲ 焼亡スト罵 ( ののし ) リ、諸人ヲ 煽惑 ( せんわく、人をおだてまどわす ) セシメ己 ( おのれ ) ガ宗 ( しゅう、宗教 ) ニ 勧入レ( すすめ いれ ) 、神宮寺ノ支院 ・ 末坊 80 余箇所 、其外神社( そのほかの じんじゃ ) 迄も追々破却 ( おいおい はきゃく ) セリ。

    と記されていました。

  • 年貢の払えない農民たちを ポルトガルの商人が キリシタン大名から安値で買い入れ、あるいは当時の日本にとっては貴重品でした鉄砲用の火薬原料 ( 硝石、しょうせき ) 1 樽で 、数十 人の日本人と交換して外国へ 奴隷として売り飛ばす などの商売をおこないましたが、その際に宣教師などが通訳を兼ねて奴隷貿易の仲介をしました。


( 5−1、豊臣秀吉による、伴天連追放令 )

南蛮寺跡

そこで秀吉は 1587 年にそれまでの キリシタン容認政策を 突然変更して 伴天連 ( バテレン、ポルトガル語の Padre 、パードレ、司祭 ・ 神父 ) どもを 放置すれば、日本の国益を損ない社会の秩序を乱すとして長崎の土地を イエズス会から没収し、伴天連を日本から追放することに決め、前述した京都の南蛮寺も破壊し、 天正 15 年 ( 1587 年 ) 6 月 19 日に 伴天連 ( ポルトガル宣教師 ) 追放令 を公布しました。

写真は京都市 ・ 中京区 ・ 蛸薬師通 ・ 室町西入 ( たこやくしどおり むろまち にしいる ) にある南蛮寺跡の石碑で、そこには 「 此付近南蛮寺跡 」 ( このふきん なんばんじ あと ) とあります。

追放令の文言は下記の通り 。( 括弧内は読み方と意味 )

( さだむ )

  1. 日本ハ神国タル処 ( ところ ) キリシタン国 ヨリ邪法 ( じゃほう、キリスト教 ) ヲ授候儀 ( さずけ そうろう ぎ ) 太以 ( はなはだ もって ) 不可然候事 ( しかる べからざる そうろうこと )

  2. 其国郡之者 ( そのこく ぐん の もの )ヲ近付門徒 ( ちかずけ もんと ) ニナシ神社仏閣ヲ打破之由 ( うちやぶる のよし ) 前代未聞候 ( ぜんだいみもんに そうろう )

     国郡在所知行等給人 ( こくぐん ざいしょ  ちぎょう などを  きゅうにん ) ニ被下候儀者 ( くだされそうろう ぎ は ) 天下 ( 秀吉 ) ヨリノ御法度ヲ相守 ( あいまもり ) 諸事可得其意処 ( しょじ その いのところを うべく ) 下々 ( しもじも ) トシテ猥義 ( みだりの ぎ ) 曲事 ( くせごと、処罰 ) の事

  3. 伴天連其知恵之法 ( バテレン その ちえのほう ) ヲ以 ( もって ) 心サシ ( 志 ) 次第ニ檀那 ( だんな、) ヲ持候ト被思召 ( おぼしめされ ) 候ヘハ如右日域 ( みぎのごとく にちいき = 日本の異名 ) 之 ( の ) 佛法ヲ相破事曲事候条 ( あいやぶることは くせごとと そうろうじょう )

     伴天連儀日本之地ニ ( バテレンのぎ にほんのちに ) ハ オカセラレ ( 置かせられ ) 間敷候間 ( まじく そうろう あいだ ) 今日ヨリ 二十日之間 ( のあいだ ) ニ用意仕可帰国候 ( ようい きこく つかまつるべく そうろう )

     其中 ( そのなか ) ニ下々 ( しもじも ) 伴天連ニ不謂 ( いわれなき ) 族 ( やから ) 申懸 ( もうし かかる ) モノ在之 ( これある ) ハ曲事 ( くせごと、処罰 ) タルヘキ事

  4. 黒船之儀ハ ( くろふねの ぎは ) 商売之事候間 ( しょうばいのことと そうろうあいだ ) 格別候之条 ( かくべつに そうろうのじょう ) 年月ヲ経諸事売買 ( へているので しょじ ばいばい )イタスヘキ事

  5. 自今以後佛法ノ ( じこんいご ぶっぽうの ) サマタケ ( 妨げ ) ヲ不成輩 ( なさざる ともがら ) ハ 商人之儀 ( しょうにんの ぎ ) ハ不及申 ( もうすに およばず ) イツレニテモ ( いずれの所からでも ) キリシタン国ヨリ往還 ( おうかん ) クルシカラス候条 ( 苦しからず そうろう じょう )  可成其意事 ( そのいの ことを なすべし )

読んでも意味がすっきりしない部分もあるので、概略の意味を記しますと、

  1. 日本は神々の国であるたから、キリシタンの国より悪魔の教えを説くために 伴天連 ( バテレン、神父 ・ 司祭 ) たちが渡来したことは、甚だしい 悪事である。

  2. これらの者 ( 伴天連たち ) は日本の諸国所領に来たり、その宗派の信徒を作り、彼等をして神社仏閣を破壊させたのは前代未聞のことである。 天下の主( 秀吉 ) が大名やその家臣 ( 給人 ) に国 ・ 郡 ・ 村および知行を支給したのは当座限りのものある。

    彼等は御法度( ごはっと、天下の法 ) を守る義務を負っている。しかるに 下々( しもじも、民衆 ) の者たちが猥 ( みだり ) にこれに反することは許しがたい曲事( くせごと、犯罪行為 )である。

  3. 伴天連たちが キリシタンの高尚な知恵の法を以て次第に檀那 ( だんな、キリシタン信者 ・ 支援者 ) を持つようになったと ( 天下の君、 秀吉 ) がお考えになるのであれば、 伴天連が日域の仏法 ( 日本の法 ) を破った事になり、 曲事( くせごと、処罰の対象 ) である。

    それ故 伴天連 ( バテレン ) を日本の地に留め置かぬこと にしたから、今日から 二十日以内に用意して帰国せよ。その間、 下々 ( しもじも、民衆 ) で伴天連にいわれ無き族 ( やから ) が害を加える時は曲事 ( くせごと、処罰の対象となる違法行為 ) とする。

  4. 黒船 ( ポルトガルの貿易船 ) については商売のことだから格別で、なんの妨げなく商売を許される

  5. 今後仏教や神道の妨げをしない者であれば、商人は申すに及ばず、何処から誰でも キリシタン国から往来してもよい。以上告知する。

26聖人像

秀吉が言わんとしたことは 貿易は許すが キリスト教の布教を 禁止し 、バテレンを日本から追放するということで 、実際に慶長元年 ( 1597 年 ) 12 月 19 日に J R 長崎駅の東北東 300 メートルの所にある西坂の丘で、 6 名の フランシスコ会の宣教師と 20 名の日本人 キリシタンの合計 26 人が秀吉の命令により処刑されました。


[ 6:徳川幕府の 禁 教 ]

徳川幕府も対 キリシタン政策については豊臣政権のやり方を受け継ぎ、南蛮貿易は許すものの布教を禁止しました。幕府は次項に述べる理由から慶長 19 年 ( 1614 年 ) に幕府の直轄地に対する禁教令を発し、 キリシタンに対する迫害政策を全国に拡大しました。その結果元和 5 年 ( 1619 年 ) 以降江戸 ・ 京都 ・ 長崎などの各地で多数の殉教者 ( じゅんきょうしゃ、信じる宗教のために命を捨てる人 ) がでました。


( 6−1、キリシタン禁教の理由 )

徳川幕府が キリシタン禁教を強化したのは、

  1. デウス ( Deus、ポルトガル語の 神 ・ 天主 ) に対する崇拝 ・ 帰依 ( きえ、信仰対象の力にすがる ) を基本とする 一神教 ( キリスト教 ) の教義が、 将軍を最高権力者 と定めた幕藩体制にとって論理的に矛盾し 障害となる ことを恐れたため。

  2. 南蛮国 がそれまでに マカオ ( 中国 )、マニラ ( フィリピン )、バタビア ( インドネシア ) を植民地化したように、 日本を侵略する際には 、宣教師や キリシタン信徒が その尖兵 ( せんぺい、 Advance guard 、 部隊の前方を進み、敵状を探り、敵の攻撃を警戒する役目 ) となることを恐れたため

  3. 日本の伝統宗教である仏教 ・ 神道と キリシタンとの軋轢 ( あつれき、きしみ ) が増大し、前述した寺院破壊などによる 社会不安の増大を恐れたため

  4. 宣教師の布教と密接な関係を持つ ポルトガル船による南蛮貿易により、九州や西国大名が経済的に発展し、あるいは鉄砲 ・ 火薬など軍需品の輸入により 軍事的に強化するのを防ぎ、幕府による長崎での オランダ貿易の独占を図るため。


[ 6−2、キリシタン高 札 ( こうさつ ) ]

高札場

法令 などを庶民に周知させる方法としては、室町時代 ( 1336〜1573 年 ) 以後 明治 9 年 ( 1876 年 ) までは、掟書 ( おきてがき )、法度 ( はっと ) などを 板面に記したものを、人通りの多い場所に設けた高札場 ( こうさつば ) に掲示しておこないました。右は高札場 の復元 模型です。

高札

切支丹 ( キリシタン ) 禁制についても、当然高札を掲げておこないましたが、左はその 1 例です。これとは文言が異なりますが、寛文元年 ( 1661 年 ) に 尾張藩 ( 名古屋 ) が立てた、切支丹禁制の高札 ( キリシタン きんせいの こうさつ ) がありますが、下記はそれに掲示された文言で、括弧の中は 読み方とその意味です。

( さだむ )

  1. 幾里志丹宗門之事 ( キリシタン しゅうもんの こと ) 累年御禁制 ( るいねん ごきんせい ) たりといへ共、弥以 ( いよいよもって ) 無断絶 ( だんぜつ なく ) 可相改之 ( これ あいあらたむ べし )、 自然不審 ( しぜん ふしん ) なる者有之 ( もの これあら ) ハ ( ば )、申出 ( もうし いず ) へし ( べし )、

  2. 伴天連 ( バテレン、神父 ) 之訴人 ( の そにん、発見し訴え出た者には ) ( ぼうびとして )   銀 三百枚

  3. イルマン ( 修道士 ) の訴人   銀 二百枚

  4. 同宿 ( どうじゅく、日本人の布教補助者 ) ならびに宗門訴人 ( しゅうもんの そにん、キリシタンを訴え出た者 )   銀 五拾枚 または参拾枚

    品 ( しな、内容 ) により、急度 ( きっと ) 御褒美可被下 ( ごほうび くださるべし )、

  5. 若 ( もし ) かくし置 ( おき )、他所 ( よそ ) により アラハるる ( 露顕した場合 ) におひては、其所之五人組 ( そのところの ごにんぐみ ) まで可為曲事之旨 ( くせごと = 処罰、 たるべき のむね ) 堅所被仰出也 ( かたく おおせ いださるる ところなり ) 仍下地如件 ( よって げち くだんの ごとし )、

    寛文元年 ( 1661 年 ) 6 月 12 日  奉行

    右之通 ( みぎのとおり ) 従公儀被仰出候間 ( こうぎより おおせいだされ そうろう あいだ )、可守之者也 ( これを まもるべき ものなり )


( 6−3、徳川實紀の記述 )

徳川家光

キリスト教の禁教と鎖国を ほぼ完成させたのは、三代将軍 徳川家光 ( 1604〜1651 年 ) でした。 江戸幕府が 初代 家康から10 代将軍 家治 ( いえはる ) までの業績を 編年体で編纂 ( へんさん ) した歴史書である 徳川實紀 ( じっき ) がありますが、三代将軍 徳川家光の業績については、そのうちの 大猷院殿 ( だいゆういんでん、徳川 家光の戒名 ) 御實紀に記されています。

徳川實記

彼が キリシタンに対する迫害と禁教政策を推進し、島原の乱 ( 1637〜1638 年 ) 以後は更に強力に推進した結果、宣教師はすべて処刑され ・ 投獄され、キリシタン信徒も公然と信仰を表明する者はなくなり、鎖国体制が完成に近づきましたが、それに関連のある 徳川實紀の記述、寛永 13 年 ( 1636 年 ) 5 月 19 日 を引用します。

「 長崎奉行 榊原飛騨守 職直 ( もとなお ) と目付 馬場三郎左衛門 利重 ( とししげ )、長崎の事を命ぜられ いとま ( 暇 ) 賜う 。 よって老臣 ( 老中 ) 連署の 下知状 ( げじじょう、将軍の意を受けて命令を伝える武家文書 ) を授けらる。 その文にいう 。」

異国に我船 ( わがふね、日本船 ) を遣 ( つか ) わす事堅く禁ぜらる。 邦人 ( ほうじん、自国民 ) ひそかに乗渡るものあらば 死罪 に処せられ、その船主どもは留めて府 ( 幕府 ) にうたふ ( 訴える ) べし。

異国に渡りし後 かしこ ( 遠方の地 ) に、 永住するもの帰り来 ( こ ) らば ( ざん ) に処せらるべし。

切支丹宗ある所 両人 ( りょうにん、上記の 2 名 ) にて穿鑿 ( せんさく、細部にわたり調べる ) を遂げ、邪教のこと訴出 ( うったえで ) ば、その品 ( しな、内容の程度 ) により、あるいは銀 三百枚、又は 二百枚褒賜 ( ほうし、褒美をたまわること ) あるべし。其の他は前制の如くはからふべし。

南蛮人の子孫残らず彼国 ( かのくに ) に追いやるべし 。もし違犯 し残しおく徒 ( やから ) あらばに処せられ、親戚までも軽重 ( けいちょう、軽い重い ) の科 ( とが ) あるべし。

崎港 ( 南蛮船の入港する港 ) にて出生せし蛮人の子を養子とせし父母、悉 ( ことごと ) く 斬罪 たるべしといえども助命せられ、蛮人に遣 ( つか ) わされべければ ( 異国に追放しなければならない ) が、もし彼徒 ( かのやから ) かさねて ( 再度 ) 帰来 ( きらい、戻り来る )、または 書翰 ( しょかん、手紙 ) 往復するにおいては 本人死罪 、親戚は科 ( とが ) の軽重 ( けいちょう ) に随 ( したが ) い とがめる ( 処罰す ) べし。

という内容ですが、その要点は

  1. 日本人の海外往来禁止

  2. 南蛮人宣教師 ・ キリシタン信徒 に対する多額の密告褒賞金制度

  3. 南蛮人の 日本人妻 ・ 混血子 たちの国外追放

  4. 手紙による通信の禁止

でした。


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