奴隷制度 雑感 ( 続き )
[ 9 : 北米大陸へ黒人奴隷の輸送 ]イギリス人による北米大陸への本格的な 植民地の建設 が始まったのは 1607 年の バージニア州 ・ ジェームズタウン建設からでしたが、北米植民地に 黒人奴隷 が送られて来たのは、中南米よりかなり後になってからのことでした。 ( 9−1、イギリス人による北米植民の始まり ) イギリスから北米大陸への植民といえば 信仰の自由を求めて 1620 年に メイフラワー号 ( The Mayflower ) に乗り、現在の マサチューセッツ州 プリマス ( Plymouth ) に植民地を建設した ピューリタン ( Puritan、清教徒 ) の 102 名が有名ですが、実は それより 30 年以上前の 1585 年に イギリスから北米大陸の バージニア植民地への移住の試みが始まっていました 。 上の写真は ピルグリム ( 清教徒 ) 一団の移住 ( 1620 年 ) から 300 年を記念して、 1920 年に発行された 1 セント郵便切手です。 右の写真は メイフラワー 号による、 102 名が入植した当時の ライフスタイルを再現した プリマス 植民地の様子です。 マサチューセッツ 州は後に コネチカット ・ ニュー ハンプシャー ・ バ ーモント ・ メイン ・ ロードアイランド州などの北東 6 州と共に ニュー イングランド ( New England ) 地方と呼ばれましたが、この地域は寒冷な気候で、農業よりも畜産に適した土地でした。( 9−2、バージニア植民地の 歴史 ) 1619 年 8 月のこと、1 隻の オランダ船が、予想されていなかった積み荷を バージニア植民地の ジェームズタウン ( Jamestown ) に降ろしましたが、それは 20 人の黒人で 、そのうちの少なくとも 3 人は女性でした。このことは北米の イギリス植民地に初めて 新しい人種である黒人 が到着したことで、後世に大きな影響を及ぼしました。 この最初の黒人については植民地の地域代表が オランダ船から購入した ( 別の説では食料と交換した ) とされ、その代表が仲介の労をとり、労働力不足に悩む開拓者に アフリカ人を配布したとされました。しかしこの黒人は 「 自由人 」 ではなく、当時 イギリスを初めとする ヨーロッパから アメリカに行く渡航費用を払ってもらう代わりに、植民地において定められた期間 ( 通常は 4 年程度 ) 、農業や開拓労働者として働く 「 年季奉公人契約制度 」 がありましたが、黒人たちはその白人労働者と同じ処遇を受けることになりました。 参考までに バージニア ( Verginia ) という名は、16 世紀における イギリスの女王 エリザベス 1 世 ( 在位 1558〜1603 年 ) の別名 Virgin Queen ( バージンクイーン、処女である女王 ) に由来しますが、彼女は政治上の理由から正式に結婚しなかっただけであり、それなりに男性を楽しんでいとされます。 後述する 「 サー ( Sir ) 」 の称号を持つ ウオルター ・ ローリー ( Sir Walter Raleigh、1618 年に断頭刑に処せられた ) は、彼女の寵臣 ( ちょうしん、お気に入りの家臣 ) の一人でした。
[ 10 : 奴隷には不向きだった、北米先住民 ( インディアン ) ]北米の植民地における農業労働力を確保のために、わざわざ遠く アフリカ大陸から大西洋を越えて黒人奴隷を北米大陸へ運んで来なくても、 スペインや ポルトガル が中米 ( 西 インド諸島 )・ 南米で先住民の インディオ ( ポルトガル語、Indio、インド人の意味 ) を奴隷にしたように、1 万 5 千年も前から北米に住む先住民 ( インディアン ) を奴隷にして、アメリカ北部の タバコ農場や南部の綿花畑で働かせれば良かったのにと疑問を持ちませんか ?。 しかし インディアンは、中米の グアテマラから メキシコの ユカタン半島にかけて栄えた マヤ文明の マヤ族 や、 アステカ文明を築いた アステカ族 、 南米の アンデス山中に高度な インカ文明を築き強大な国家を形成した インカ族 などとは 気質が大きく違っていました。 インディアンは国家としての組織形態を作らずに部族社会のままで過ごし、その部族も 500 程度 に分かれ、言語系統が 50 種類 もあったといわれています。写真は メキシコの ユカタン半島にある マヤ文明の ピラミッドに似た チェチェン ・ イッツァの遺跡です。ところで イギリス人による北米植民地 建設初期には、 拉致 ( らち ) した インディアン ・ 裁判で有罪とされた インディアン ・ 戦いで捕虜となった インディアンを奴隷として売買することは合法とされましたが、全体から見ればその数は 僅かなものでした 。 そのために北米の イギリス植民地では、農地開拓のための労働力不足を解決するために、いくつかの方法が考え出されました。
( 10−1、明白な使命、という露骨な侵略の免罪符 ) マニフェスト ・ デスティニー ( Manifest Destiny ) という言葉をご存じですか ?。 アメリカ合衆国の西方への領土拡大、つまり何千年も前からそこに住む先住民である インディアンから土地を奪い、 反抗する先住民を大虐殺することによって進められた白人種の西部開拓を正当化するための モットー ( Motto )・ 標語のことです。 それは 明白なる天命 ( 使命 ) などと訳されますが、この言葉を最初に使用したのはアメリカの 政治問題 コラムニスト の ジョン ・ オサリバン ( 1813 〜1895 年 ) で、 「 デモクラテック ・ レビユー 」 ( Democratic Review )誌の 1845 年7〜8 月号 ) でした。この中で彼は 年々増加する何百万もの我が国民の自由な発展のために、 神が割り当て賜うた この大陸を開拓し 領土を拡大していく という、我々の明白な使命の達成こそが重要である。と高らかに宣言しました。つまり先住民の住む土地を奪い取ることが 「 明白な神意 」 である と定義付けし、西方への領土拡大 ( 西部開拓 ) という 露骨な物欲を 、キリスト教文明に基づく 偽りの使命感と倫理観 によって 美化 ・ 免罪する イデオロギー を巧みに創作したのでした 。 アメリカが イギリスの支配から独立した 1783 年には、 13 州の合計面積は 2 万 3,000 平方 キロでした。その後 、1803 年に フランスから ルイジアナ州を購入し、1819 年の フロリダ州併合により アメリカの国土面積は 4 倍近くに拡大し、1830 年代には東部に住む全 インディアンを ミシシッピー川以西の インデイアン ・ テリトリー( Indian Territory、当初は オクラホマ州を含む インディアンに割り当てた地域 ) に強制移住させました。 1845 年には メキシコ領だった テキサスを併合し、翌年には 太平洋岸の オレゴン州を領有、1848 年には カリフォルニア州と ニューメキシコを含む広大な領域をメキシコから割譲させました。19 世紀半ばに アメリカは マニフェスト ・ デスティニーを宣言した僅か 8 年後には大西洋岸から太平洋岸に至る北米大陸の領土を手に入れました。 1848 年 1 月に カリフォルニアの サクラメント渓谷での金鉱発見を引き金として発生した ゴールドラッシュの結果、カリフォルニアの人口は 9 万人に増加しましたが、1834 年には 36 万人 いた同地域の インディアン人口は、白人の持ち込んだ伝染病の流行と白人開拓者や山師 ( 鉱山師 ) による インディアン狩り ( 無差別殺戮 ) の結果、1865 年には 3 万 5 千人 に激減しました。 インディアンはそれまでにも ヨーロッパからの開拓民がもたらした 天然痘 ・ はしか ・ 黄熱病 ・ マラリアなどの各種の伝染病により、また アメリカ政府が不毛の地に強制移住を命じまたことにより、多数の犠牲者や 大虐殺によって引き起こされた人口減少により、 19 世紀の末には、アメリカ ( 合衆国 ) で生き残った先住民 ( インディアン ) は僅か 25 万人しかいませんでした 。 [ 11 : アメリカにおける奴隷の 処遇 ]1619 年に最初の黒人が ジェームズタウンに到着して以来、黒人は最初 白人の年季奉公人と同じ地位が与えられていました。しかし黒人奴隷の労働力がますます必要になると、やがて植民地ごとに 終身の動産としての 奴隷制 が始まりました。最も早かったのは北部の マサチューセッツで 1641 年 に、最も遅かったのは植民地の建設自体が遅かった南部の ジョージアの 1749 年でした。 植民地の黒人奴隷は法律上 「 人格 」 無き法的無能力者であり 、しかも 「 動産 」 と規定され、その所有は私有財産権として正当化され、耐久消費財である商品として売買されました。また黒人は解放された自由人 ( Free Negro ) であろうが奴隷 ( Slave ) であろうが、身分の別なく 劣等人種 と規定され、白人との結婚はもちろん、性的関係を持つことさえもが タブーであり 犯罪とされました 。 1630 年に バージニアで白人男性の ヒュー ・ デイビス は 「 黒人女性 」 と関係を持ち、 自らの体を汚した という理由で、裁判所から 「 ムチ打ち 」 の刑を宣告されました。さらに黒人に教育を与えることや 黒人が教育を受けることも法律で禁止されました。 アメリカ南部における 苛酷な黒人 奴隷 虐待の様子 については、作家の ハリエット ・ ストウ ( Harriet Stowe ) が書いた 「 アンクル ・ トム の小屋 」 などでよく知られていますが、北部の タバコ農場、南部の綿花 砂糖 キビの プランテーション ( 大規模農場 ) では奴隷を夜明けから日暮れまで、ムチを振るう奴隷監督の下で強制労働させられました。こうした奴隷たちに与えられた家は主人の屋敷の裏側に建てられた スレイブ ・ ハット ( Slave Hut、奴隷小屋 ) と呼ばれた粗末な小屋で、男女の奴隷たちを半強制的に同居させて家畜の繁殖同様に子供を産ませ、その子を将来売ることにより主人に大きな収入源となりました。 法律的な結婚制度が無かった奴隷たちは次々と相手を変えさせられ、予告なしに奴隷市場に引き立てられて、そこで 「 セリ ( 競売 ) に掛けられ 」 夫婦や親子が別々の買手に売られることもよくありました。 右の写真は 1769 年に北米 サウス ・ カロライナにある イギリスの植民地 チャールストンで貼り出された、 黒人奴隷の 「 セリ 市 」 の広告 ですが、その概略の内容とは アフリカ西海岸の シエラ ・ レオネ ( Siera Leone、イギリス支配下の奴隷積出し港 ) から、 販売予定の 積み荷 である 94 人の良質で健康な ニグロ ( 黒人 ) が 、 2 本 マストの帆船で到着したばかり。内訳は 39 人の男 ・ 14 人の少年 ・ 24人の女 ・ 16 人の少女とありました。 [ 12 : アメリカにおける 逃亡奴隷 ]奴隷は主人が購入した 私有財産 とみなされていたため、奴隷が逃亡することは奴隷本人から見れば 「 奴隷からの 自力救済行為 」 ですが、主人側から見れば奴隷の従順義務 (?) に反し、なおかつ主人の 財産権の侵奪に当たる行為 とされました。 また、黒人奴隷などの安価な労働力を使って綿花 ・ さとうきび ・ タバコ などの作物を大量に栽培する大規模農場 ( プランテーション、Plantation ) では大勢の奴隷の労働力は不可欠な存在であるために、奴隷の逃亡はその経営基盤の破壊につながるとともに、奴隷による反乱などの発生も危惧( きぐ、あやぶむこと ) されました。 そのため、逃亡を図った奴隷には、鞭打ちのみならず、残虐な刑罰を科される場合もありました。右写真の逃亡奴隷 ゴードン は ディープ ・ サウス ( Deep South 、アメリカの最南部で今も人種的偏見が強い所 ) である ミッシシッピー ( Mississippi ) で逃亡を図り捕らえられ、 焼きを入れられた ( 拷問された ) 姿です。 左は 三人の奴隷が リンチ ( 私刑 ) を受けて 「 縛り首 」 にされた写真ですが、白人の プランター ( Planter 、大規模農場主 ) が私有財産である奴隷を売却せずに殺すとはよほどの事情があったからで、おそらく奴隷たちが農場主に 反乱を企てた からだと思われます。ちなみに奴隷は法律上 「 人格無き 私有財産 」 つまり 家畜並み でしたので、殺しても罪に問われることはありませんでした。( 12−1、指名手配 ポスター ) 昔見た西部劇の映画で、賞金が掛けられた 「 お尋ね者 」 を保安官事務所に連れてくると掛けられていた賞金が貰える制度があり、それを職業にする 「 賞金稼ぎ 」 ( Bounty hunter ) がいましたが、右図は農場から逃亡した 「 逃亡奴隷 」 に対する 100 ドルの賞金 ポスターです 。 その概略の内容は、 アブラムという 30 歳くらいで、背丈は 5 フィート 8 〜 10 インチ、体重は 175 〜 180 ポンド、顔色は ダークで黒ではない。頭髪は長く すばしこい男で奴隷自由州へ行くつもり。 この男を バージニア州外から連れて来たときは 100 ドル、家から 20 マイル ( 32 キロメートル ) 以内の場合は 50 ドル、近隣からの場合は 20 ドル を賞金として支払うと書かれていました。 ( 12−2、逃亡奴隷だった 男 ) かつて アメリカの メリーランド州で奴隷の子として生まれた フレデリック ・ ダグラスという黒人奴隷がいましたが、リンカーン大統領 ( 1805〜1865 年暗殺 ) とほぼ同じ時代に生き、1895年に死亡しました。( 77才 ? ) 彼は20 年間の奴隷生活の後で、 1838 年に農場から逃亡に成功して奴隷自由州に行き自由を得ることができましたが、奴隷から身を起こして奴隷制度に命がけの闘いを挑んだ勇敢な人物で、後に ワシントン D.C. の政府職員になり、 カリブ海にある 駐 ハイチ共和国の米国領事を務めましたが、 黒人差別 ・ 蔑視の国である アメリカ政府が黒人に与えた 「 最初の公務員としての要職 」 でした。 彼の自叙伝によれば、 殆どの奴隷は、馬が自分の年齢を知らないのと同じように、 自分の年齢を知りません 。このように奴隷を無知にしておくことが、多くの奴隷所有者たちの希望だったのです。 私が覚えているかぎり、自分の誕生日を言える奴隷に今まで出会ったことがありませんが、白人の子供は自分の年齢を言うことができました。それなのにその同じ権利がなぜ奪われているのか、私には理由がわかりませんでした。同じく ベンジャミン ・ ドリューという逃亡奴隷が後に書いたものよれば、 私は バージニアの奴隷制度から逃亡してきました。自分の年齢は分からないのですが、多分 40 歳くらいだと思います。奴隷だった時はいつも私は大変な恐ろしさの中で暮らしていました。寝ていても恐ろしく、朝 目が覚めても恐ろしく昼も夜も恐怖の中で暮らしたのです。 もし私が逃げ出していなかったら、もう今までに殺されていたに違いないと思います。私が逃げ出した時、私の主人はできるだけ早く捕まえて私を殺そうとしたのでした。右の写真は奴隷に罰を与えたり拷問をする時の 「 首かせ 」 ですが、これを装着されると体を水平な姿勢にして寝たり、壁にもたれることができず、椅子に座ったままでしか眠ることができませんでした。−−−何週間もの間−−−仕事をさせられながら。 左の マスクは主人に逆らって文句を言ったりした場合に拷問用の マスクを被らされましたが、それにより食事を取ることができず、水を飲む際は家畜用の水桶に顔を入れて飲む以外に方法がありませんでした。このように奴隷に肉体的 ・ 精神的苦痛を与えました。 ちなみに当時有効であった アメリカ合衆国憲法第 4 条第 2 節第 31 逃亡奴隷条項 によれば、 何人も、一州においてその法律の下に服役又は労働に従う義務のある者は、他州に逃亡することによって、その州の法律又は規則により、右の服役又は労働から解放されることはなく、右の服役又は労働に対し権利を有する当事者の請求に応じて引き渡されなければならない。つまり奴隷制度を廃止した州 ( 奴隷自由州 ) に逃亡しても、元の主人から請求があれば 逃亡奴隷を引き渡されなければならない と規定されていました。前述の逃亡奴隷であるフレデリック ・ ダグラスが最終的に自由の身になったのは、元の主人の弟が逃亡から 8 年後の 1846 年に彼を 100 ドル で売ることに同意し、金銭が支払われた結果でした。 ( 12−3、黒人の子孫は 市民になれない、合衆国 最高裁 判決 ) 1857 年 3 月 、アメリカ合衆国 最高裁判所は 「 ドレッド ・ スコット ( 奴隷 ) 対 サンフォード ( 所有者の代理人 ) 事件 」 に判決を下しましたが、それによれば、 アフリカ人 ( 黒人 ) の子孫は奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民には なれない 。それゆえに憲法の規定する権利を 受けられない とし、さらに アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がない 。としました。つまり黒人は奴隷、自由人の身分に関係なく アメリカ市民にはなれず、たとえ合衆国議会が 「 奴隷制廃止の法案 」 を可決しても、南部に 11 ある奴隷州では 奴隷制度は合憲である ということでした。 [ 13 : 産業革命の元手は、奴隷労働の産物 ]綿 ( わた、めん ) とは アオイ 科 ワタ 属の多年草の総称で、綿は 種子の 周りに付いている 繊維 のことをいいますが、繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい特徴があります。写真の左側は綿花、右は綿花から取り除いた種子と残りの綿です。アメリカ南部の プランテーション ( Plantation、大規模農場 ) の綿花畑で収穫した綿花にも当然 種子が含まれていて、それを手作業で取り除き綿の繊維を取り出すのが奴隷たちにとっては手間の掛かる非効率的な仕事でした。 ところが折から進行中の産業革命の一環として 1793 年に マサチューセッツ出身の エリ ・ ホイットニー が綿花から種子を機械で取り除く 綿繰り機 ( わた くりき、コットン ・ ジン、cotton gin ) を発明し商品として販売しましたが、それにより綿花の生産に革命的な効率化をもたらしました。そこで南部の プランター ( 農場主 ) たちはそれまでの タバコ ・ 藍 ( あい ) ・ 稲などの栽培から、さっそく綿花の栽培に切り替えました。 種子を取り除いた南部の綿花を イギリスや他の工業国が高い値段で買い続けたので、次の 20 年間に アメリカにおける 綿花の生産高は 10 倍 になり、綿花は南部の中心的産業となり、経済的に大きく変化させ事実上 綿花王国 に変えました。19 世紀半ばには綿花が アメリカの輸出金額のほぼ半分を占めるほどになり、世界の貿易構造の中で重要な役割を果たすことになりました。 しかしそれは同時に18世紀以降、南部の綿花畑で働く 黒人奴隷の需要の増大 を加速させ、より多くの黒人奴隷が北米に送られました。表面的には 1808 年に奴隷貿易は禁止されされましたが 南部における奴隷の密輸入は絶えませんでした。 南北戦争が始まる以前の北部では工業化が進み商業が発達し、多くの外国人が流入しそこに住む黒人奴隷はみな所有者から私的に解放された自由人( Free Negro ) となりましたが、その正確な理由は奴隷の必要性が失われたからでした。 これに対して南部では 1860 年当時 395 万人 の黒人奴隷がいて、サウス カロライナでは州の人口の 57.1 パーセント 、ミシシッピー では 55 パーセント もいましたが、奴隷の労働力は南部の農業経済と社会の中で、欠くことのできない存在として組み込まれていたのでした。 [ 14 : 南北戦争の原因 ]端的に言えば最大の原因は連邦政府の権力について、州と連邦政府の間に確執があり、南部 11 州が合衆国からの 離脱を図った ためでした。1860年の大統領選挙で リンカーンが第 16 代大統領に当選すると、サウス カロライナ州がただちに連邦脱退を宣言したために、アメリカ合衆国は 国家分裂の危機に直面しました 。 1861 年 2 月に 南部連合 ( Confederate States of America ) が結成されましたが、州の権限を強め中央集権的な連邦政府を否定し、さらに 奴隷制の維持 を図るとされました。図の オレンジ色の 11 州が南部連合 ( 南軍 )、薄い水色が中立の州、濃い青色が アメリカ合衆国 ( 北軍 ) の州です。 4 年にも及ぶ南北戦争 ( Civil War、1861〜1865 年 ) の結果多くの戦死者を出して北軍が勝利しましたが、戦死者の数はこれまで アメリカ合衆国が出した下記の戦死者の内、最大の数でした。
( 14−1、解放奴隷から 小作人へ ) 実はそうではなく、北軍にとっては連邦制を維持し国の分離を阻止するためであり、南軍にとっては移住者の人口の流入が少なく豊かな南部連合を築くために戦ったのでした。1865 年 4 月に南北戦争が終わり その結果南部連合は壊滅しましたが、それにより奴隷制は廃止され、奴隷たちの地位を保証する法令が次々に出されました。 1865 年末 に 「 憲法修正 第 13 条 」 によって 奴隷の解放 ・ 自由 が確認され、1868 年の憲法修正第 14 条により、 黒人の市民権 が、1870 年の憲法修正第 15 条により 黒人の選挙権 が承認されました。これだけ見ると解放された奴隷は、白人と同じ権利を持つようになったと思われますが、実はそうではありませんでした。 南部で奴隷の身分から解放された黒人たちには住む家 ・ 土地 ・ カネ など財産と呼べるものや教育も何も無かったので、生活するために 元の プランター( 大規模農場主 ) の綿花畑に戻り、今度は シェアー ・ クロッパー ( Share Cropper 、小作人 ) として、土地 ・ 居住小屋 ・ 農機具 ・ 燃料 ・ 種子 ・ 家畜などを主人から借り受け、収穫の半分以上を経費として納入する制度の下で働くことになりました。 白人農場主も労働力を必要としていたので、黒人達は奴隷時代より少しまし という程度の生活が始まりましたが、黒人たちは、 奴隷制だって自由だって、ほとんど同じと歌いながら、綿花畑で仕事をしていたといわれています。 [ 15 : 復活した南部の黒人差別 ]南北戦争の結果南部に駐留していた北部の連邦軍が 1877 年に引き揚げると、南部の黒人への差別を合法化する動きが始まり、南部諸州は奴隷から解放された黒人の政治的 ・ 社会的権利を制限するため、黒人の 「 浮浪を防ぐ 」 という名目で、 「 黒人取締法 ( Black Codes ) 」 を制定しました。 その主な内容は人頭税納入や 「 読み書き テスト 」 の実施による 選挙権の実質的剥奪 ( はくだつ ) ・ 土地所有の制限 ・ 人種間の結婚禁止 ・ 武器の所持や夜間外出の禁止 ・ 陪審員になれないなど 多方面に及んでいました。これら南部での黒人差別を合法化した諸法令は、最高裁判所の合憲判決などを得て第二次大戦後まで存続し、後述する キング牧師率いる ワシントン大行進の結果 1964 年の公民権法成立 によりようやく廃止されました。それまでは例えば、ホテルや レストランの経営者は、他の客に 不快な気持ちを与えるような者 ( 黒人のこと ) は、客として取り扱わなくてもよい。とあり、南北戦争以後に制定された、「 公共施設での黒人への人種差別を禁止した公民権法 」 のほとんどは、1883 年の合衆国最高裁判決により実質的に無効になりました。 ( 15−1、分離すれども 平等 ) 1896 年 の最高裁 「 プレッシー ( 黒人 ) 対 ファーガソン ( 裁判官 ) 判決 ( 注 参照 ) 」 により、 設備が同等であれば白人と黒人の 分離は、違憲に当たらない として、以後 「 分離すれども平等 」 ( Separate but Equal ) の原則が適用され、南部では学校 ・ 裁判所 ・ ホテル ・ 教会 ・ 交通機関 ・ 海辺の ビーチなどあらゆる場所での白人と黒人の分離という 人種差別が、当然の生活様式になりました。 注 : プレッシー 対 ファーガソン 判決それ以前から白人と黒人について列車は車輌が別 ・ 駅の待合室も別 ・ トイレも もちろん別 ・ バス ・ 市内電車は黒人が後方、白人が前方、前方から座る白人の中に立つ者があれば、黒人は誰にいわれなくても立って席を譲るのは南部の常識でした。 しかしその後は南部を中心に 20 余りの州が、南北戦争後の 人種隔離政策 ( Racial Segregation ) に基づき 白人と黒人の子供の別学校制をとっていましたが、 1906 年には日系人の多い サンフランシスコでも、市の学務局が 公立学校在籍中の 日系人子弟 を強制的に中国人学校に移籍させる 事件が起き、翌年命令が撤回さるという アジア系学童の隔離教育がおこなわれました。 [ 16 : 第二次大戦後の、合衆国最高裁 判決 ]第二次大戦後は 1954 年 に合衆国最高裁が 「 ブラウン事件判決 」 ( 黒人学童の父 ブラウン 対 教育委員会 ) において、アメリカ公立学校における白人と黒人の別学校制を定めた カンザス 州法を 違憲とする判決 が出ました。 合衆国最高裁が 58 年前に下した 「 分離すれども平等 」 とする判決を、違憲とする新しい判断が出されても、ディープ ・ サウス( Deep South 、南部の中の南部 ) といわれた人種差別意識の強い アラバマ 州の社会は簡単に変わるものではありませんでした。それまで黒人の入学を認めなかった アラバマ 大学に オーザリン ・ ルーシー という 黒人女子学生 が 1956 年に初めて入学しました。 すると 千人を越える白人の学生や市民が 「 大学に黒人を入れるな 」 と叫び彼女の車に投石したり、学長邸に デモをかけて妨害したために、彼女は登校できずに追い返されました。 大学当局は彼女の通学を保証するどころか、「 ルーシー の身の安全を守るため 」 という名目で、彼女に休校を命じました。 この不当な処置を不服とした ルーシー は アラバマ 州の最高裁判所 ( アメリカには 州にも最高裁や 州兵がある ) に復学を求める訴えを起こし、彼女の主張は認められましたが、すると大学当局は彼女が 「 虚偽の暴言によって大学を非難した 」 として、 ルーシー を 退学処分にしました 。今から 57 年前の アメリカ南部の人種差別 ・ 偏見は、それほどひどいものでした 。 1962 年から アラバマ州知事を 4 期務めた ジョージ ・ ウォーレス ( George Wallace ) が選挙の際に掲げた スローガンとは、I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever その意味とは、今ここで ( 白人と黒人の ) 人種隔離をしよう ! 、明日も人種隔離をしよう ! 、永遠に人種隔離をしよう !という激烈な人種差別に基づく、白人 ・ 黒人の隔離主義者でしたが、しかし 1972 年 5 月に男に銃撃され、重傷を負いましたが知事に当選しました。 ( 16−1、ここで Coffee Break、小休止 ) [ 17 : アフリカ系大統領の出現 ]1963 年 黒人による 「 ワシントン大行進 」 の際に、キング牧師が リンカーン 記念堂の前で、 I Have a Dream ( 私には夢がある ) という有名な演説を行いましたが、それ ( 夢 ) はいつの日か私の 4 人の幼い子どもたちが 肌の色によってではなく 、その 人格の中身 によって評価される国に住むという夢であると述べ、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁 ( こうまい ) な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼びました。それから 40 年後の 2004 年には民主党から イリノイ州選出の バラク ・ オバマが上院議員に初当選しましたが、アフリカ系上院議員としては史上 5 人目 ・ 選挙で選ばれた黒人の上院議員としては史上 3 人目でした。 その後彼は 2009 年 に第 44 代 アメリカ大統領に選ばれましたが、50 年以上昔の 人種差別の実状を知る私にとっては、文字通り 隔世の感 がしました 。ワシントン大行進から 50 年目に当たる 2013 年 8 月に、 オバマ大統領は以下の演説をおこないました。 人々が行進を続けたからこそ、アメリカは変わった。行進のおかげで公民権法や投票権法が成立し、機会や教育への扉が開かれ、( 黒人に与えられた職業である )洗濯や靴磨きだけではない、自分の人生を歩めるようになった。行進のおかげで市議会が代わり、州議会や連邦議会が変わり、そして、ホワイトハウスまでもが変わったのだ。 ( 17−1、人種差別解消には、時間が掛かる ) しかし現在の黒人を取り巻く社会環境を表す下記の数字を見ると、黒人層の多くが未だに貧困との悪循環が断ち切れない様子を知ることができます。左は刑務所内の囚人が移動の様子ですが、手錠 ・ 「 足かせ 」 を装着されていますが、囚人の多くは黒人でした。
日本では高卒の学歴など他人に自慢できるものではありませんが、アメリカでは、ハイスクール ・ ディプロマ ( High School Diploma 、高校卒業証書 ) の所有者であることを私に自慢する黒人がいました。右は黒人の路上靴磨きで普通は少年のする仕事ですが、かなり年配の男がしていました。 全米の人口比率では約 13 パーセント に過ぎない アフリカ系黒人が、刑務所における 10 万人当たりの人種別囚人数では、 白人の 6 倍も多い ことが分かります。 黒人の犯罪者が多いのは親が経済的に恵まれないために、左写真の少年のように小さい頃から収入を得るために労働をさせられ、職業技能を含む教育を満足に受けられず、そのためにまともな職業に就けない。従って収入が低く経済的困窮 ( こんきゅう ) から犯罪に手を染めるという悪循環が続いていることの結果です。この少年の将来が右上の男のようにならないことを願っています。黒人の生活向上による白人との格差是正には、今後もかなり時間がかかりそうです。
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