オーストラリア 大陸


[ 1 : はじめに ]

オーストラリア という国の名称は、古代 ローマ の学者で、数学 ・ 天文学 ・ 占星学 ・ 光学 ・ 地理学 ・ 地図製作などの幅広い分野に業績を残 した、 プトレマイオス ( Ptolemaeus、西暦 83 年頃 ~ 168 年頃 ) にその起源を持ちます。

世界地図を作った彼は世界の南端には ラテン 語で、 「 Terra Australis Incognita 」 ( テラ ・ アウストラリス ・ インコグニタ ) という大陸があると しま した。ラテン 語で、 テラ は 「 土地 」、アウストラリス は 「 南の 」、「 インコグニタ 」 は 「 未知の 」 、つまり 「 南方にある未知の大陸 」 という意味ですが、オーストラリアの国名はこれに由来 します。

オーストラリア 大陸は全体的に低く平らで、世界の六つの大陸 ( 注参照 ) のうち最小であり、国土面積は 769 万平方 キロメートル と 日本の約 20 倍です。地勢は東部山地 ・ 中央低地 ・ 西部台地に 三分され、南東部はこの大陸最大の穀物生産地帯を形成していますが、西部台地はおおむね砂漠です。

注 : 六つの大陸とは、

ヨーロッパ と アジア をつなぐ ユーラシア 大陸 ( Eurasia ) ・ アフリカ 大陸 ・ 北 アメリカ 大陸 ・ 南 アメリカ 大陸 ・ 南極大陸 ( Antarctica 、アンタークティカ ) ・ オーストラリア大陸  の六つである。


( 1-1、大陸の気候 )

オーストラリア 大陸 を気候からみると、内陸部を中心に国土の 70 パーセント は ドイツ の気象 ・ 気候学者 ケッペン ( 1846 ~ 1940 年 ) が定めた 「 気候区分 」 に従えば、 乾燥気候  に該当 します。

東部には ほぼ南北に 二千 キロメートル 続く グレート ディバイディング 山脈 ( Great Dividing Range、 最高峰 2,228 メートル ) があり、その東側にある 「 クイーンズランド 州 」 の保養地 ゴールド コースト や その近郊の 州都 ブリズベーン ( Brisbane ) は 温帯湿潤気候 がみられます。

大陸の西側には 「 西 オーストラリア 州 」 の 州都 パース ( Perth ) がありますが、その周辺には 地中海性気候 が存在 します。

北部準州 ( ノーザン テリトリー、Northern Territory ) の北部にある 州都、ダーウィン は熱帯に属 し、 北東 モンスーン ( Monsoon、季節によって卓越風の吹く方角が変化する ) の影響で夏季の 12 月 ~ 2 月には 多雨となりますが、冬期の 4 月 ~ 8 月は 乾燥が激 しい 熱帯気候 となります。

2014 年の データ によれば オーストラリア の 人口は 2 千 3 百 5 9 万人 であり、その人口密度は 1 平方 キロメートル 当たり 2.3 人 と南極大陸を除き最も人口が希薄な大陸です。 しかも人口の 90 % は面積に して約 5 パーセント の沿海地域に集中 しており、内陸部地域の人口密度は 1 平方 キロメートル 当たり 1 人以下です。


[ 2 : 氷河期 における海面の低下 ]

地球上では過去に 少なくとも 4 回の大きな氷河期 がありま したが、痕跡 ( こんせき ) が残るものの中で 一番古いのは、 7 億 5 千万年前から 7 億年前 までの氷河期の スターティアン 氷期 ( Sturtian glaciation )] 、および 6 億 5 千万年前 ~ 6 億 3 千 5 百万年前 の マリノ アン 氷期 ( Marinoan glaciation ) です。

氷河期のうち特に気候が寒冷となり、中緯度圏の非山岳地帯 ( 平野部 ) でも氷河の発達 した時期を 「 氷期 」 ( Glacial age ) ともいいますが、氷河期の中でも より温暖な時期を 「 間氷期 」 ( かんひょうき、Interglacial stage ) と呼んでいます。( 大英百科事典 )

全地球の凍結

この氷期は過去 10 億年のなかで最も寒さが厳 しかった時代であり、赤道付近を含めて地球が 海氷や氷床 ( ひょう しょう、 Ice sheet、地表部を覆う総面積が 5 万 平方 キロメートル 以上の氷河の集合体 ) に完全に覆われた、 スノー ボール アース ( Snow ball Earth 、全地球の凍結状態 ) を作り出 したといわれています。

地質時代の区分の 一つに 更新世 ( こう しんせい ) がありますが、 約 2 5 8 万年前から約 1 万年前 までの期間のことであり、人類が出現 して世界各地に移動 ・ 拡散 した時期でもありま した。

氷期の海面低下

そのほとんどは氷河時代であり、 海水の水分が蒸発 して降雪 し陸上に堆積する氷となったため 、地球上の海水量が減少 して、世界中で海面が 約 1 2 0 メートル も低下 しま した。グラフ によれば最終氷期終了 (1 万 8 千 500 年 前頃 ) から気温の上昇に伴い海面上昇が始まり、約 6 千年前に元の海面状態に戻ったことを示 しています。

氷期の間は海岸線は現在よりも遙か沖合いに移動 し、大陸と島が地続きになり、あるいは海面が結氷 して人や動物が移動 した事が、日本でも ナウマン 象 の化石の発掘調査などから分かっています。


[ 2-1、サフル ( Sahul ) 大陸 ・ スンダ ( Sunda ) 大陸 ]

オーストラリア 大陸では前述 した 海面低下 により、南にある タスマニア ( Tasmania ) 島との間が陸地でつながり 、また大陸の北側にある ニューギニア 島周辺の大陸棚 ( Continental shelf ) もこの時代の海面低下により海面上に姿を現 し、 ニューギニア は大陸と 一体化 しま した。

当時のこの大陸のことを 「 サフル( Sahul ) 大陸 」 と呼び、海面低下により露出 した部分を 「 サフル 大陸棚 」 と呼びます。

東南 アジア の マレー 諸島のうち、インドネシア に属する島々を スンダ 列島 ( Sunda Islands ) とい いますが、同様なことが インドシナ 半島南部 ・ マレー半島 ・ スマトラ 島周辺の ジャワ 海 ・ カリマンタン ( ボルネオ ) 島西部から南部にかけても起こりま した。

サフル大陸

ここでは海面低下により現れた陸地のことを スンダ 大陸 [ スンダランド ( Sunda land ) ・ スンダ大陸棚 ( Sunda continental shelf ) ] などとい います。図で 「 サフル大陸 」 ・ 「 スンダ 大陸棚 」 や ニューギニア 島の周辺にある 灰色の部分 が、氷河期の海面低下の際に 露出 して陸地になった部分 です。

サフル という言葉は最初 1 7 世紀の オランダ の地図に見られま したが、1845 年に 「 サフル 大陸棚 」 と 「 スンダ 大陸棚 」 の概念が提唱され、1919 年に モレングラーフ と ドイツ の地理学者 アルフレート ・ ウェーバー (1864 ~ 1958年 ) が命名 しま した。


[ 3 : オーストラロイド ]

オーストラロイド ( Australoid ) とは、 オーストラリア 大陸の先住民やその類縁の人種 ( 例えば ニューギニア ・ インドネシア ・ フィリピン ・ タイ ・ スリランカ ・ インド 南部などに住む先住民たち ) の総称です。

オーストラロイド

ヒ ト ( ホモ ・ サピエンス、新人 ) の祖先は 20 万年前 ~ 15 万年前に アフリカ で誕生 し、 15 万年前 ~ 10万年前に アフリカ大陸を出て世界中に広がって行きま した。

彼らは アフリカ 大陸を出て ユーラシア 大陸に進出 した 新人 ( ホモ ・ サピエンス ) のうち、7 ~ 5 万年前に インド 北部から 一部は海岸地帯を南下 して スリランカ へ、その他は東進 して インドシナ 半島 ・ マレー半島 ・ スンダ 大陸棚を経由 して ニューギニア 島 ・ サフル大陸棚   ・ オーストラリア 大陸を中心と した オセアニア 地域に進出 しま した。


( 3-1、カ ヌー に乗り、大陸へ到達 )

渡海

スンダ 大陸棚と サフル 大陸 ( ニューギニア 島 ・ オーストラリア ) との間には、当時の海面低下によって現れた大陸棚の陸地 ( 薄い緑色 ) や島が点々と連なり、その上を オーストラロイド は数万年もの間に小規模の集団に分かれて東に向けて移動 しま した。 何世代も掛けて移動を続けた旅の途中で、 インドネシア などの島々に定住 した部族もありま した。

さらに東進すると、行く手を阻 ( はば ) む広い海がありま した。しか し オーストラロイド の人々は 8 0 ~9 0 キロメートル にも及ぶ海の バリア ( Barrier、障害 ) を乗り越えて、サフル 大陸へと足を踏み入れることに成功 しま したが、その渡海方法に関 しては現在も推測の域を出ていません。

なぜなら中期 旧石器 時代 ( 約 30 万年前 ~ 約 3 万年前 ) の後半から 後期 旧石器 時代  ( 約 3 万年前 ~ 約 1 万年前 ) に暮ら した人類は 、道具と して使用 したのは 石器だけで した。

ちなみに石器の代わりに 青銅器 を使用 するようになった 青銅器 時代 の始まりは、エジプト 文明 ・ インダス 文明 ( パキスタン ・ インド ・ アフガニスタンで栄えた ) と共に世界 三大文明の発祥地のひとつである メソポタミア 文明 ( 現 ・ イラク地方 ) では、紀元前 3 千 5 百年頃からで した。

カヌー

そのため オーストラロイド の人々が 本格的な舟を作ったとは考えに く く、竹や葦 ( あ し ) ・ 細い木などを組み合わせて作った カ ヌー や、 竹などで作った筏 ( いかだ ) などの、ご く 簡単な 「 浮き具 」 ( Water craft ) を作成 して渡海 したと考えられています。

いずれにせよ最初の集団はおそら く 6 万年前に 、そ して最後の集団は 最終氷期 ( 約 7 万年前に始まって 1 万年前に終了 した 一番新 しい氷期 ) の 終わった後に サフル 大陸にやってきました。

男性のみならず女性 ・ 子供 ・ 「 飼い犬 」 の ディンゴ [ dingo、タイリク オオカミ の亜種 ( あしゅ、生物分類学上で種の下の階級 ) で、現 ・ オーストラリア 大陸に生息する野犬 ] まで伴ってそれぞれ少人数に分かれて、サフル 大陸への航海をおこない到達 しま した。

戦闘用カヌー

ちなみに彼らが オーストラリア 大陸に到着 した当時は、南北 アメリカ 大陸に人類は未だ 一人も住んでいませんで した。さらに海を隔てた ニュージーランド も無人島であり、ポリネシア 人の 一系統に属する先住民の マオリ ( Maori ) 族が長い 「 カ ヌー 」 に乗って ニュージーランド の 北島 にやって来たのは、最近の学説によれば紀元 800 年頃のことで した。写真は マオリ 族の戦闘用 カ ヌー 。


[ 4 : オーストラリア 大陸 の発見者 ]

これまで述べたように およそ 6 万年前に オーストラリア 大陸を発見 し そこに住み始めたのは、 オーストラロイド を先祖とする アボリジニ と呼ばれる人たちで した。

アボリジニ

彼らは オーストラリア 大陸全土に広がり、400 ~ 500 程度の部族に分かれていま した。彼らの 一部は後に オーストラリア 大陸の南東 240 キロメートルの所にある、 タスマニア 島 にも移動 して そこの先住民となりま した。アボリジニ に関 しては、第 8 項 [ アボリジニ について ] で詳 しく説明 します。


( 4-1、 アボリジニ に次ぐ、 オーストラリア大陸 発見の歴史 )

  • 明の時代 (1368 年 ~ 1644 年 ) に マレー 半島 南岸に マレー 系 イスラム 港湾国家の マラッカ 王国 ( Malacca Sultanate、1402 ~ 1511 年 ) が存在 した。香料貿易の中継港として インド、中東から イスラム 商船が多数来航 して、東南 アジア における イスラム 布教の拠点ともなったが、明王朝への忠実な朝貢国 ( ちょうこうこく ) でもあった。

    その王国との交易をおこなった中国人の船団が、 オーストラリア 大陸の北西岸に上陸 し、1426 年に 大陸の北西部を描いた地図を ナマコ 採取船の乗組員が作成 した。

  • 1521 年に、 オーストラリア を訪れた最初の 白人 とされる ポルトガル 人の探検家 メンドーサ が大陸東岸部を探検 したが、彼らが目的と した 「 香料と金 」 は発見されなかった。

    そこで彼は南米大陸に行き、1536 年に アルゼンチン と ウルグアイ の間を流れる  ラ ・ プラタ 川 ( Rio de la Plata、 スペイン 語で 「 銀の川 」 の意味 ) の河口に、後の アルゼンチン の首都となった ブエノス アイレス  [ Buenos ( 良い ) Aires ( 空気 )、つまり帆船にとって順風 ] の地を最初に発見 し 居留地を建設 した。

  • 1606 年に スペイン 人の ルイス ・ トーレス ( Luis Vaez de Torres ) が ニューギニア 島と オーストラリア 大陸の間にある海峡を航海 したが、 大陸発見には至らなかった。後にこの海峡は彼の名を取って 「 トレス海峡 」 ( Torres strait ) と呼ぶようになった。

  • 同じ 1606 年に、オランダ の ウイレム ・ ヤンス ( Willem Jansz ) が、大陸の北東部にある ヨーク 岬半島 ( Cape York Peninsula ) の西側の海岸に 2 月 2 6日に上陸 した。

  • 1616 年に、東方貿易の拠点を バタビア( Batavia 、現 ・ インドネシア の ジャカルタ ) に持つ オランダ が、大陸北西岸の調査をおこなった。 1619 年に西海岸、1622 年に南西岸の調査をおこない、 その地方を ニュー ・ ネーデルランド ( New Netherlands ) と命名 した。

  • 1641 年に、オランダ 人探検家の アベル ・ タスマン ( Abel Tasman ) が オランダ の東 インド会社の元で 1642 年 ~ 1644 年に南太平洋への探検航海を行った。

    1643 年に彼は、現在の タスマニア 島と ニュージーランド、フィジー へ到達 した 最初の ヨーロッパ 人 となった。

  • 1688 年に、イギリス 人の海賊 ウィリアム ・ ダンピア ( William Dampier、船長、作家、博物学観察者、1651 ~ 1715 年 ) が 西海岸で アボリジニ の存在 を記録 した。

  • 1770 年に、イギリス人の ジェームズ ・ クック ( James Cook、1728 ~ 1779 年 ) が タヒチ 島から現 ・ シドニー 近くの ボタニー 湾に上陸 し、イギリス王国の領有宣言を した。

  • 1785 年に、この地を ニュー サウス ウェールズ ( New South Wales ) 植民地と命名 した。

  • 1788 年に、初代総督の A ・ フィリップ 率いる 11 隻からなる流刑囚を乗せた第 1 次船団 ( First Fleet ) が 1 月 26 日に シドニー 湾内に上陸 した。

  • 1803 年に、タスマニア 島へ 49 名の流刑囚の植民をおこなった。


[ 5 : オーストラリア が 流刑植民地 に選ばれた理由 ]

( 5-1、 アメリカ 独立戦争の結果 )

1775 年から 1783 年まで、 イギリス 本国 ( グレート ブリテン 王国 ) と アメリカ 東部沿岸の イギリス領の 1 3 植民地との間で アメリカ 独立戦争 ( American War of Independence ) が続きま したが、その原因は植民地住民 ( アメリカ 人 )に対 して イギリス 本国政府が重税を課 したことで した。

1764 年には 砂糖法 により砂糖に関税を掛け、 1765 年には 印紙法 により、アメリカ で刊行された印刷物すべてに イギリス の印紙を貼ることを義務付け、1773 年には植民地への茶の直送と独占専売権を、東 インド 会社に与えた 茶法 ( Tea Act、紅茶法 ) を制定 しました。

重い税金を支払わされながら、自ら選出 した代表を ロンドン にある英国議会へ送ることが許されない状態に不満を感 じた植民地住民の間で、イギリス本国への反感が生まれ、 代表なく して課税な し、( No taxation without representation ) を スローガン に独立への道を歩みま した。

1776 年に アメリカ が独立すると、それまで イギリス 本国から アメリカ 東部の主に バージニア 州と メリーランド 州に 年間 1,000 人ほどの流刑囚 が船で送られ、開拓作業に従事させられてきた流刑囚の行き場がなくなり、イギリス 本国の刑務所は 流刑囚で溢れる状態 となりま した。

廃船監獄

困った イギリス 政府は廃船や廃船間近の 老朽船を テムズ 川やその付近に数多く係留 して、 悪名高い 廃船 監獄 ( プリズン ハルク、Prison hulk ) 、( hulk とは廃船の船体のこと )と して、流刑囚の流刑地への輸送待ちに使用 しま した。


( 5-2、 流刑候補地 の選定 )

最初は比較的 イギリス 本国に近い カナダ や西 アフリカ が候補地と して挙げられました。しか し カナダ は寒冷地であるため、また西 アフリカ は マラリア や黄熱病 ( おうねつびょう、yellow fever ) をは じめ 熱帯の疫病に感染する危険 ( 注 : 参照 ) が多かったため、対象から外されま した。

[ 注 : イギリス 軍の西アフリカ 疾病 死亡率 ]

西 アフリカ の シエラレオネ ( 現 ・ シエラレオネ 共和国 ) に派遣された イギリス 軍 シエラレオネ 管轄部隊 ( Sierra Leone Command ) の死亡者についての統計がある。それによれば、イギリス 軍兵士の 死亡率は 47.8 パーセント であり、当時この地域は 白人の墓場といわれた

ちなみに黄熱病は アフリカ 人のように、子どもの頃に感染すれば死ぬ者もいるが免疫が得られる。しか し免疫のない白人の新兵が次々と西 アフリカ に送られてくる ヨーロッパ の軍隊の駐留地では、蚊による ウイルス 感染が拡大 し死者が続出 した。

野口英世像

日本の国際的 細菌学者 野口英世 ( ひでよ、1876 ~ 1928 年 ) が黄熱病の研究中に感染死亡 したのも、西 アフリカ の ガーナ ( 現 ・ ガーナ 共和国 ) の首都 アクラ であった。像は アクラ にある野口記念医学研究所に建てらているもの。

そこで流刑囚の収容先の候補地に挙がったのが 1770 年に キャプテン ・ クック が発見 し上陸 すると共に、その地域一帯 ( オーストラリア 東海岸 ) を国王 ジョージ 三世の名において領有 し、「 ニュー サウス ウェールズ 」 と命名 した オーストラリア 大陸で した。


( 5-3、 イギリス海軍の戦略上の理由から )

18 世紀において、イギリスの インド 洋艦隊の補給修理基地は インド 大陸西岸の アラビア 海に面 した ボンベイ ( 現 ・ ムンバイ ) にありま したが、そこで船の マスト や 帆布 ・ ロープ などの修理 ・ 補給に必要な物資は、イギリス 本国からの供給に依存 していま した。

しか し スエズ 運河 ( 1869 年完成 ) が未だ存在 しなかった時代で したので、喜望峰回りの航海には長期間を要 しま した。その調達先を、より近い オーストラリア 大陸に求めたと しても不思議ではありませんで した。

オ-ストラリア の東の太平洋上に クック が発見 ・ 上陸 した時は島は無人だった ノーフォーク 島 ( Norfolk Island、シドニー 北東約 1,500 Km にある絶海の孤島で火山島 ) がありま した。

そこの岸辺に亜麻 ( あ ま、アマ 科の 一年草で高さが約 1 メートル。茎から繊維をとる ) が密生 し、内陸に ノーフォーク 松が覆っているのを見て、この島が海軍の資材補給地と して有望だと クック 船長が報告 していま した。

そこで 1788 年 2 月 1 日に フィリップ 総督は ノーフォーク 島に対する植民を部下の キング に命 じま した。しか し亜麻 ( あま ) の繊維は主に衣料 ・ 寝具用であり、船舶用の ロープ には水に浮き、太陽光や風雨などに対 して非常に高い耐久性を示す 「 マニラ 麻 」 が使用されていたために繊維が適さず、1814 年に島は 放棄されることになりま した。


( 5-4、 フランスに対する牽制から )

イギリスの第 1 次 植民船団が大陸の ボタニー 湾に到着 した直後の 1 月 24 日に、フランス の海軍士官 ・ 兼 探検家 ラ ・ ペルーズ ( La Perouse ) が指揮する 2隻の フランス 船が ボタニー 湾に現れま したが、両者は友好的な関係を持ちま した。

イギリス 政府は フランス によるこの太平洋への遠征を事前に知っており、その機先を制 して実際の植民をおこなうことが、ニュー サウス ウェールズ への植民を始めた動機のひとつで した。

フィリップ 総督が ノーフォーク 島への植民を急いだのも、総督となった キング が 1803 年に タスマニア 島の 「 リズドン 入り江 」 ( Risdon Cove ) に 流刑植民地 ( Penal colony ) を建設 したのも、フランス の脅威が直接の原因で した。


[ 6 : オーストラリア への植民 ]

18 世紀の イギリスは、国家が主導 した食料増産のための第 2 次 ( 土地の ) 囲い込み ( かこいこみ、エンクロージャー、 Enclosure ) により、イギリス の耕作地の 20 % が囲い込まれました。

産業革命により伝統的な手工業が衰退し、没落した手工業者は、工場労働者となり、地主による 「 囲い込み 」 による経営規模の拡大化がおこなわれて、多くの農民が農村を離れ、都市に流入していきました。

産業革命がすすむにつれて、工場で働き賃金を受け取って生計を立てる賃金労働者が増加 しま したが、土地を失った自営農民や職を失った農業労働者、産業革命による落ちこぼれ失業者などが都会に集まって犯罪者の数が激増 しま した。

微罪に問われた者でも刑務所に収監する法制度があり、 例えば債務 ( 借金 ) を支払うことができない者を収監するための債務者監獄 ( デターズ プリズン、Debtors' prison ) があり、1869 年の債務者法成立まで、債務者の収監が続きま した。

そこで流刑先の候補地に決まったのが 1770 年に キャプテン ・ クック が発見上陸 した、オーストラリア 大陸の現 「 ニュー サウス ウェールズ 」 で した 。


( 6-1、 建国記念日 )

イギリス 政府は、退役海軍大佐の アーサー ・ フィリップ ( Arthur Phillip ) を植民地の初代総督に任命 し、1787 年 5 月 13 日、フィリップ 率いる オーストラリア 向けの最初の囚人植民 船団 ( First fleet ) 11 隻は、 流刑囚 780 名 ・ 海軍軍人 ・ 海兵隊とその家族 ・ 船員その他 合計 1,473 名 を乗せて ポーツマス 港を出航 しま した。

長期間の航海で 69 名の死者 ( 死亡率 4.7 %、大半が病人と老人 ) を出 しながら、翌 1788 年 1 月 18 日に シドニー 近郊にある現 ・ キングスフォード ・ スミス 国際空港近くの ボタニー 湾 ( Botany Bay ) に到着 しま した。

シドニー湾

しか しそこは飲料水も農耕用の適地もなく、フィリップ総督は即座にその地を放棄 しま した。そ して、約 10 キロメートル 北にある現 ・ シドニー 湾を発見 し、上陸を決定 しま したが、 1 月 26 日 のことで した。 現在この日を 建国記念日 「 オーストラリア ・ デー 」 ( Australia Day ) と して、国民の祝日になっています。


( 6-2、 送り込まれた 流 刑 囚 の数 )

各年代ごとの植民囚人 ( 流刑囚 ) の数および自由移民の数を下表に示 しますが、出典は 「 世界各国史 27 」、の 「 オセアニア 史 」 です。

1840 年代 半ばになると イギリス 本国で 「 流刑の判決 」 を受けた囚人の数が減少 したために、 西 オーストラリア を除き、 オーストラリア への流刑植民は 一時中止されま した。

その後 イギリス 政府は 1848 年に ニュー サウス ウエールズ への流刑を再開 し、また依然と して タスマニア 島には囚人を送り続け、1868 年 ( 明治元年 ) になってようやく オーストラリア への流刑制度を廃止 しま した。

1788 年の第 1 船団到着以来 約 16 万の囚人 が オーストラリア に送られ、その多くは刑期終了後も現地に留まりま した。

そこで囚人労働に代わって イギリス 本国の労働者を政府が渡航費用の全額、あるいは 一部補助を して オーストラリア に送る、 補助 移民制度 が創設されま した。

オーストラリア は地球上で ヨーロッパ ( イギリス ) から最も遠い位置にあり、そのため十分な資金を持たない移民希望者は高額の渡航費用が払えず、オーストラリア に渡航することが事実上不可能で した。 補助 移民 とはその制度の適用を受けた移民のことです。



年 代流刑囚数自由移民補助移民
1788~18006,6501,100---
1801~18104,5901,400---
1811~182017,1702,000---
1821~183032,3908,525---
1831~184050,69069,04243,817
1841~185033,325114,54183,635
1851~186011,460461,028230,452
合 計156,275657,646357,904


上表では 1860 年までの データ しかありませんが、1788 ~ 1868 年 ( 流刑中止 ) の間に英国から オーストラリア に流刑された人は、比較的軽微な犯罪者も含めて、約 16 万人に上りま した。


( 6-3、 純粋 移民と、補助 移民 の数 )

下表は オーストラリア への流刑囚を除く、純粋 移民の100 年間の推移です。補助 移民とは前述 したように イギリス 政府による渡航費用の全額も しくは 一部の補助を受けた イギリス 人移民のことであり、当時の渡航費用は 貧 しい労働者の年間賃金 に相当 しま した。


年 代純 移民数補助 移民数補助移民が純粋
移民に占める
割合 ( % )
1861~1870166,565132,47679.5
1871~1880191,804102,02453.2
1881~1890382,441155,81740.7
1891~190024,87913,14052.8
1901~191040,48544,791110.6
1911~1920334,571162,22648.5
1921~1930312,973214,85168.6
1931~194041,0574,60911.2
1941~1950363,188273,19575.2
1951~1960804,881580,75872.2
100 年間
の合 計 数
2,662,8441,683,887平均 63.2


植民地の最初の半世紀の移民労働力は、ほとんどが流刑囚によって提供され、その後の三分の二は、補助移民で した。移民への補助は基本的に イギリス 出身者 ( イングランド ・ アイルランド ・ スコットランド 人 ) に 対 してだけ おこなわれたので、移民が増えることで オーストラリア はより均質化 しま した。

参考までに 下記は、近現代 における戦争の期間です。

  1. 第一次世界大戦、1914~1918年

  2. 第二次世界大戦、1939~1945年

  3. 朝鮮戦争、1950~1953年

上表を見れば戦争の後に イギリス を初めとする 白人諸国 からの 移民が増えま したが、 これにより 白 豪 主 義 ( はくごうしゅぎ、第 7 項 参照 ) の 国 是 ( こくぜ、国家と しての方針 ) が確認され 、堅持されて行きま した。


( 6-4、 首相の先祖も窃盗犯で流刑囚 )

オーストラリア の第 26 代首相 ( 在任 2007 ~ 2010 年、再任 2013 年 6 月 27 日 ~ 同年 9 月 18 日 ) ケビン ・ ラッド ( Kevin Rudd ) の先祖の 1 人は、ドレス と下着各 1 枚を盗んだ罪で死刑を宣告された イギリス ロンドン の路上生活児で、三代前の祖父は 砂糖を盗んで オーストラリア に送られた流刑囚だった。と研究者らが発表 しま した。

このたび明らかにされた家系図によると、

首相の父方の 三代前の祖父、トーマス ・ ラッド ( Thomas Rudd ) は 「 砂糖 1 袋を不法に入手 した罪 」 で懲役 7 年の刑を受け、 その刑に服するために 1801 年に、流刑植民地 ( Penel colony ) だった オーストラリア に流刑囚として運ばれた。

それだけでなく ラッド首相の父方の四代前の祖母の メアリー ・ ウエイド ( 当時 12 歳 ) は、

路上生活児 だった 1788 年に、年上の少女と共謀 して 8 歳の少女を トイレ に連れ込み、 ドレス と下着を奪った罪 で 1789 年に 死刑 を宣告されたが、後 に減刑されて ニュー サウス ウエールズ に流刑 となった。

流刑囚の先祖を持つことは数 十年前の オーストラリア では恥とされま したが、現在では 「 生粋の ( きっすい、混じりけのない ) オーストラリア 人である証拠 」 つまり 流刑囚という由緒 ( ゆいしょ ) 正しい ( ? ) 経歴 ( 犯罪歴というべき ) を持つ者 の子孫とも見なされており、首相の イメージ 向上につながったといわれて います。


[ 7 : 白 豪 主 義 とは ]

白 豪 主 義 ( White Australia policy ) とは、簡単にいえば オーストラリア を白人だけの国にする 願望 や 方針のこと であり、換言すれば 白人 最優先主義 と、それに基づ く 非白人種 への 排除政策 のことです。

狭義では 1901 年の移住制限法 ( Immigration Restriction Act ) 制定から 1973 年の ( 有色人種の移民を認めた ) 移民法施行までの政策方針を指 します。

それに基づき 70 年以上もの間、 望ま しくない移民志願者 ( 主に アジア 系有色人種 ) に対 しては、 ヨーロッパ の言語 ( 英語とは限らず、志願者が知らないであろう 国の言語 ) で 、5 0 語にわたる書き取り テスト を実施 しま した。

たとえば中国人の移民志願者に対 しては ポーランド 語で 、 また チェコスロバキア の政治記者で共産主義者でもあった キッシュ が、1934 年に移民志願を した際には、 スコットランド の ゲール 語 ( Scottish Gaelic 、スコットランドで話される ケルト 系言語 ) で書き取り テスト を実施 し、オーストラリア 入国を拒否 しま したが、これは移民志願者を振り落とすための意図的で、簡単な方法で した。

広義の白豪主義では、先住民族 アボリジニ や タスマニア 州の アボリジニ 系住民や カナカ 人などの メラネシア 系住民への迫害や隔離など、オーストラリア における 人種差別主義の歴史全般 を指 します。

1904 年以降、カナカ ( Kanakas ) とよばれる メ ラネシア 人の オーストラリア への入国が禁止され、すでに オーストラリア にいる者は、1906 年から本国送還を求められま した。そのほとんどが、クィーンズランド 州の砂糖 プランテーション ( 大規模農場 ) で低賃金で雇用され、あるいは誘拐に遭い強制労働させられていた者たちで した。

移民制限法は望ま しくない移民 ( 主に 非白人種、つまり有色人種 ) を排除 し、拒否するのに非常に有効で した。 統計によれば 有色人種の人口は、1901 年の 5 万人から 1947 年の 2 万 1,000 人 へと半分以下に減少 したのに対 して、その間に 白人種の移民は 170 万人以上も増加 したからで した


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