香料と香辛料
[ 1 : モルッカ諸島 ]
ある年のこと、他社の飛行機に乗り シンガポール経由で西 オーストラリア州の州都 パース ( Perth ) を訪れましたが、その途中で映画の上映が終わった機内の スクリーンには、現在位置の表示に、 ハルマヘラ ( Halmahera )島 からの方位と距離が常に表示されていました。 それまでは名前も聞いたことがなかった島なので、どこにあるのか分からずにいましたが、日本に帰ってから地図で調べてみると、恐竜の形をした世界第 2 の大きさの島 ( 第 1 位は グリーンランド )である ニューギニア島の、頭部に当たる部分の北西に ハルマヘラ島はありました。調べてみると日本に キリスト教を初めて伝えた、スペインの イエズス会 宣教師 フランシスコ ・ ザビエル ( 1506 〜 1552 年 ) も、来日する 3 年前の 1496 年にこの島を訪れていました。 ところで モルッカ諸島 ( Moluccas ) のことをご存じですか?。インドネシア独立後は マルク ( Maluku )諸島と名前を変えましたが、ここでは依然として知名度の高い モルッカ諸島の名前を使用します。 モルッカ諸島とは インドネシア東部の スラウェシ島 ( 旧、セレベス島 ) と、ニューギニア島との間に点在する大小多数の島々の総称ですが、古くから 香料諸島 ( スパイス、Spice Islands ) としても知られる諸島で 、前述した ハルマヘラ島もこれに含まれます。
なお太平洋戦争開戦直後に、海軍の落下傘部隊が スラウェシ島 ( 旧 セレベス島 ) の メナドに降下しましたが、ここにある石油精製施設、石油資源を確保する為でした。絵は ハルマヘラ島の西側にある 1720 年 当時の活火山の テルナテ島ですが、ポルトガル人が構築した要塞や桟橋が見えます。 この地域で産出した香料は紀元前 三世紀の中国宮廷で用いられ、一 世紀には インド、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパなどにも運ばれましたが、料理に使われただけでなく、香油 ( 香水 ) の材料や薬物としても使われました。モルッカ諸島を訪れた最初の ヨーロッパ人は、ルドビコ ・ バルテマ といわれていますが、彼の記述は香料に関して貴重な情報をもたらしました。
モルッカ諸島原産の 丁子 ( ちょうじ、英語では クローブ、Clove )は 、この島 ( モルッカ ) と付近の多くの島に自生しているが、他の島々は小さくて人は住んでいない。丁子 ( ちょうじ ) の木は ツゲ の木にそっくりである。 丁子が熟すると島の人々は棒で 「 つぼみ 」 を叩き落とすのだが、「 つぼみ 」 を集めるために樹の下に ムシロ を敷く。これらの丁子の木が生えているのは、砂地のようなところである。−−−丁子は 肉桂 ( シナモン ) の 2 倍の値段で売られていたが、島民たちは重さが分からないので、枡目 ( ますめ )で計り売買していた。 と述べられていました。自生していた丁子 ( ちょうじ ) の木はその後 熱帯の各地に移植され栽培されるようになりましたが、栽培に適した地域とは、南北の緯度 20 度以内の熱帯に散在する島嶼の、標高 300 m 以下の低地で、排水良好な砂質土がよく、海岸から遠くない傾斜地が最上とされます。
香料にする 丁 「 子 」 ( ちょうじ ) の名前は 丁 「 字 」 、丁香とも書きますが、名前の由来は 「 ちょうじの木 」 の つぼみを乾燥させたもの の形が、写真のように クギ ( 釘 )に似ていることから、和名で クギを意味する 「 丁 」 の名が付けられました。 英語の クローブ ( Clove ) は ラテン語の クラブス ( Clavus ) に由来する フランス語の、 クルー( Clou 、クギ ) から転化したものでした。
ポルトガル人の航海者で探検家の マゼラン ( 1480 頃 〜1521 年 ) は、スペインから大西洋を西に向けて航海すれば 香料諸島へ到達できる と信じて、スペイン国王 カルロス 1 世の支援を受けて 1519 年に スペインの港を出港しました。 彼は南米大陸南端と フエゴ ( Fuego )島との間にある マゼラン海峡を発見して太平洋に抜け、さらに西に向かいましたが、航海中に立ち寄った フィリッピンの セブ島で原住民に殺されました。写真は彼を殺した酋長の ラプ ・ ラプ ( Lapu-Lapu )ですが、侵略者から セブ島を守った英雄として現地には銅像が建てられていました。私は昭和 50 年 ( 1975年 ) 頃に、日本から マニラ経由で セブ ( Sebu ) 島に チャーター便で戦没者慰霊の団体客を輸送したことがありましたが、空港があるのは セブ島ではなく隣接する平坦な マクタン ( Mactan ) 島で、セブ島とは 2 本の橋でつながっていました。当時は空港名も ラプ ・ ラプ ( Lap-Lap )でしたが、その後 マクタン ・ セブ 国際空港に変わりました。
マゼランの死後、彼が率いていた船団の 1 隻である ビクトリア号はその後 モルッカ諸島で大量の香料を入手しましたが、西への航海を続けて インド洋を横断して スペインに帰り、史上初めて世界 一周をして地球が丸いことを実証しました。しかし出港した際には 5 隻の船に 265 人 の乗組員がいましたが、スペインに帰国できたのは僅か 1 隻で、18 人 の乗組員だけでした。
古くから香料は主として熱帯 アジアの、しかも ある限られた地域で育った 植物性の資源でしたが、これ以外にも動物性の香料として麝香 ( じゃこう ) 鹿などの生殖腺分泌物である麝香や、抹香 ( まっこう ) 鯨の体内に生じる病的結成物である竜涎香 ( りゅうぜんこう )などがありますが、いずれも高貴な秘薬とされました。
したがって香料といえば、ほとんどが植物性のものでした。写真は丁字の つぼみ で、開花前に色が変わる頃に摘み取り前述のように乾燥させますが、強い芳香を放つことからそれ自体を香料に用いると共に、薬として鎮痛、腹痛、下痢、胃腸病の治療に使われ、健胃、歯痛、などにも用いられました。 このように香料とはある特定の植物の 「 幹、皮、葉、茎、花、果実、種子 」 などが持つ、 独特な香気や成分 を用いるものですが、その中には、
英語の インセンス ( I ncense ) は、 ラテン語の 「 燃やされたもの 」 の語源から香料、芳香の意味になりましたが、香りの成分が優れている香木などは香炉の 火に くべて 燃やし、その際に出る芳香を楽しみました。 日本でも 香木を削り小片にしたものを 焚いてその香りに浸り 、精神の安らぎを求める香道や、香合わせと称して 香木を焚き名前を当てたり、香りの優劣を競う遊びが古くから貴族の間にありました。現代においても アロマ ・ セラピー ( Aroma Therapy ) と称して植物系の芳香にひたり、ストレスを解消したり、心身を リラックするために香料が使用されますが、注意しなければならないことは 同じ臭いに対して、嗅覚 ( きゅうかく ) が麻痺 ( まひ ) しやすい ことです。 どんな芳香や悪臭でもしばらく接するうちにあまり感じなくなることで、卑近な例では製 パン工場の従業員達は、 パンを焼く際の香ばしい香りをあまり感じないのだそうです。以下は焚く香料の一般的な種類です。
ちなみに フランスでは最近まで家庭に風呂や シャワーの設備がない家が多く、行水で代用したので、その為に香水と ビデ ( Bidet ) が発達したといわれますが、夏の パリでは冷房がない地下鉄車内の汗臭い 「 におい 」 に香水の混ざった臭いがして、 ひどいものでした。 さらに トイレで 大 をしても手を洗わない 若者 ( 女性については知りませんが 男性 ) が日本でも最近増えましたが、 フランス人の習慣も ヨーロッパでは有名で、「 フランス人と握手したら手を洗え 」 という ことわざもありました。その理由は日本では考えられませんが、1950 年頃でさえ、トイレに手洗い設備の無い小学校が多かったからでした。
[ 3 : 正倉院の香木を切り取る ]
東大寺を建立し大仏を造立した聖武天皇 ( 701〜756 年 ) の遺品をはじめ奈良時代の文物を納めた正倉院御物 ( ぎょぶつ ) の中にも、長さ 156 センチ、直径 43 センチ、重さ約12 キロという香木が納められていますが、これは黄熟香 ( おうじゅくこう )、別名を 蘭奢待 ( らんじゃたい ) とも呼ばれる沈香 ( じんこう ) の一種の香木です。 ちなみに蘭奢待 ( らんじゃたい ) の文字の 蘭 には 「 東 」が、 奢 には 「 大 」 が、 待 には 「 寺 」の文字が含まれていますが、合わせると正倉院を倉として管理する 東大寺 になります。 写真の香木には切り取られた跡がありますが、足利義政 ・ 織田信長 ・ 明治天皇が切り取らせた跡という付箋がついています。ところで足利義満、義持、義教、の三代の将軍に護持僧として仕えた、醍醐寺 三宝院門跡 満済 ( まんさい 、1378〜1435 年 ) が書いた 満済准后日記 ( まんさい じゅごうにっき ) によれば、永享元年 ( 1429 年 ) に室町幕府 六代将軍の足利義教 ( よしのり、1394〜1441 年 ) が、春日大社に詣でた帰りに正倉院に立ち寄り、倉を開封させて宝物を見て、碁石の黒を 二つと赤 ( ? )を 一つ、沈香 ( じんこう )を 二片、 二寸 ( 約 6 センチ ) ばかり召された。とありました。足利義教が香木を勝手に切り取り持ち去ったのではなく、表向きは天皇から香木を賜ったとする 賜香 ( しこう )と記録されましたが、 2 度目の至徳 ( 元中 2 年、1385 年 ) のときも同様で、先規前例に依ったと記されていました。
義教の子の足利義政 ( 1435〜1490 年 )も、寛正 6 年 ( 1465 年 ) に正倉院を開封して、黄熟香 ( おうじゅくこう ) と紅沈香を切り取ったことが、 東大寺 三倉開封勘例 ( 元禄 6 年、1693 年 ) 金珠院庸性 作の正倉院開封に関する勘例録 ) に記されています。 これ以外にも戦国武将の 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など 、天下の覇権を握った者は当然の権利の如く、正倉院の香木を切り取り 薄く削ったものを火にくべて名香の香りを楽しみましたが、上品な香りは 嗅 ( か ) ぐ とはいわずに、「 聴く 」 というのが正しい表現なのだそうです。 日頃老妻から 「 あんたは品が無い 」 と言われている私は、今後は サンマを焼く臭いなどを 「 聴く 」 ことにします。歴代天皇自身は正倉院の開封には行かずに、毎年勅使を派遣して曝涼 ( ばくりょう、虫干し ) の為に開封させましたが、そのため正倉院に行幸して宝物を見た天皇はこれまで 一人もいませんでした。 明治維新以後になると、 明治天皇 は明治 10 年 ( 1877 年 )と、明治 12 年 ( 1879 年 )の 2 度、 大正天皇 は 1 度 正倉院に収蔵してある香木を切り取らせていますが、日本に千年以上も前から伝わる名香の香りを宮城 ( 敗戦までは皇居のことを、このように呼びました )で 「 聴いて 」 、さぞ楽しまれたことでしょう。これに対していやそうではない。 香木が伐採されてから 1,200 年以上も経てば、 沈香の香りも消え失せてしまったに違いないとする説もありましたが、平成 18 年におこなわれた大阪大学の米田該典准教授 ( 薬史学 )による調査によれば、香木にはあわせて 38 ヶ所の切り取り跡 があったことが判明しています。
明治天皇が切り取らせた正倉院の香木を献上する際に、専門の容器を作りましたが、その器の コピー( 2 個作ったものの 一つ ? )が、この写真です。この容器は奈良市内の有名なお菓子屋で民間の正倉院ともいわれる 「 萬々堂 」 の、店の ショー ウィンドウに展示されています。 過去の歴史をみれば古代 ローマ帝国で使用された香辛料は 唯一 胡椒 ( コショウ ) でしたが、それは エジプトの アレクサンドリアを経由して、遙か地の果てから何人もの仲買人、船、砂漠の ラクダの背を経由してもたらされた物でした。 高価な品物を手に入れることは富や権力の象徴とされましたが、贅沢な料理に使われるだけでなく薬としても用いられました。その後 中世の ヨーロッパにおいても、 最も貴重な スパイス ( 香辛料 ) といえば胡椒 ( コショウ ) でした。
コショウの一粒は同じ大きさの金の粒に匹敵するとまで言われましたが、コショウの原産地は インド であり、さらに詳しくいえば マラバール地方でした。 そこでは紀元前 六世紀頃から胡椒 ( コショウ ) の栽培がおこなわれていましたが、そこから西海岸にある港町の カリカット や キロン に運ばれて船に積み込まれ、航海技術が発達した アラブ商人によって紅海、あるいは ペルシャ湾を海上輸送されました。さらに陸上、海上輸送されながら ギリシャ、ローマー へと運ばれましたが、ヨーロッパにおける コショウの取引で莫大な利益を上げていた ベネチア ( Venezia 、ベニス ) の商人たちは、コショウのことを 天国の種子 と呼んでいました。 参考までに コショウには、完熟前の実を採取して乾燥させた ブラック ・ ペッパー ( Black Pepper )、完熟した実の果皮を取り除いて乾燥した ホワイト ・ ペッパー 、未熟な実を採取し乾燥したグリーン ・ ペッパー の 3 種類がありますが、いずれも収穫時期や加工方法が異なるだけで同じ種類の コショウの実です。このうちで最も辛味が強いのは、ブラック・ペッパーです。 コロンブスによる新大陸発見以前の ヨーロッパには、南米原産の ジャガイモ、トウモロコシなど、現在の主食、副食に相当する 重要な カロリー供給源 が存在しなかったので、中世の人々は想像する以上に大量の肉を主食として消費していました。 15世紀の フランス、ストラスブールでは、一人一日当たり 600 〜 800グラム 、ドイツの ベルリンでは、その倍の 1,300グラム の肉を消費していました。 ちなみに現在の 「 肉食大国 」 である アメリカの平均消費量は、一人一日当たり300 グラム弱なので、その肉食量の多さが分かりますが、ヨーロッパ人が大量の肉を摂取したのは、年間を通じて主食の材料が肉しかなかったからでした。ではなぜ ヨーロッパで香辛料が好まれたのでしょうか?。中世以降の ヨーロッパで 最もよく食べられた肉は羊肉 であり、次いで豚、牛の順でしたが、ご存じのように羊の肉 ( マトン、Mutton ) は独特の臭みがあります。 特に中部と北部 ヨーロッパの冬は厳しくて長く、14〜15 世紀の人々は、長い冬の間は 欠乏に耐えて生きて行かねばならず、冬が来るとその間は家畜に エサを与えて飼い続ける牧草の余裕が無かったため、家畜に子を産ませる種 ( たね ) として必要なものだけを残して、それ以外の家畜は全て殺して肉を塩漬けにして保存し、冬の間はこれを食べて食糧にしました。塩漬けにしたとはいえ保存した羊肉の臭いは消えるものではなく、 その臭みを消して風味を増し、食べ易くしたのが コショウなどの 香辛料 ( スパイス ) でした 。しかも スパイスには防腐効果があるため、ヨーロッパの人達にとって生活に欠かせないものになりました。 さらに北海における漁業が盛んになると、鰊 ( ニシン )、鮭 ( サケ )、鱒 ( マス )、鱈 ( タラ )などの塩干魚自体の臭気を防ぎ、美味しく食べる為にも、香辛料が使われるようになりました。ではその当時、どれだけの コショウが消費されたのでしょうか?。以下は国、地域別の消費量です。
注:)
[ 5:日本における コショウの使用 ]胡椒 ( コショウ ) の 「 胡 」 とは本来中国から見て、北方や西方 ( 西域 ) にある異民族の総称でしたが、後には外国から渡来したものの意味になりました。胡椒の 「 椒 ( しょう )」 とは 「 さんしょう 」 のことであり、胡椒 ( コショウ ) とは西方から来た 「 さんしょう 」 の意味でした。659 年にできた唐の 「 新修本草 」 という薬の書籍によれば、コショウは西方の蛮国 ( ばんこく ) に産し、味は非常に辛棘 ( しんらつ 、極めて からい ) である。解熱、せきどめ、健胃剤と調味に用いる。香気は四川産の椒 ( しよう、さんしょう ) に及ばない。とありましたが、正倉院には中国から薬として持ち込まれたとされる 152 粒の胡椒 ( コショウ ) が、収蔵されているそうです。 昭和の一桁生まれの私が子供の頃に味わった香辛料といえば、 支那 ソバ ( ラーメンのことを昔はこのようにいいました ) に胡椒 ( コショウ ) 、うどんに 「 七味 トウガラシ 」 でした。ところで中国から日本に コショウがもたらされたのは 8 世紀頃といわれますが、一般に香辛料として使われるようになったのは、17 世紀の江戸時代で、オランダの貿易船で入荷するようになってからでした。
コショウは江戸時代前半には うどんの薬味 として流行しましたが、 後期になると今度は トウガラシの辛さだけでなく、風味を増すために七種類のものを加えた 七味唐辛子 ( しちみ・トウガラシ ) が流行し、 うどんに コショウを入れるという習慣はすたれました。 子供の頃に東京巣鴨の 「 お婆ちゃんの原宿 」 と現在いわれる トゲ抜き地蔵の縁日に行くと、七味 トウガラシの屋台があり、おもしろ おかしく口上を述べながら、客の求めに応じて辛さ ( トウガラシの分量 )を加減したものをその場で調合して売っていましたが、七味の構成は店により写真とは多少異なりました。
[ 6 :トウガラシの原産地 ]コショウの原産地は前述のごとく インドでしたが、では 唐辛子 ( トウガラシ ) の原産地をご存じですか?。トウガラシは南 アメリカ大陸原産の 一年草ですが、栽培種の原産地は メキシコであり、中部の テオティワカン谷にある紀元前 6,500年 〜 前5,000 年頃の地層から栽培種の トウガラシが発見されました。これ以外にも南米の コロンビア、ペルー 南部、 ボリビア中部の高地であるとの説もありますが、その地方では トウガラシの種類が豊富なこともその証拠であると考えられています。 トウガラシ の呼び名については地域によってさまざまな名前で呼ばれていて、インカの人々は 「 アヒ 」、アステカの人々は 「 チリ 」 、スペイン人は 「 チレ 」 と呼びましたが、これらの名前は現代も南米や メキシコで定着しています。 ちなみに チリの国名は トウガラシ に由来するものではなく、チリ原産の鳥から来たとする説と先住民の指導者の名前とする説がありました。ところで新大陸を発見した コロンブスが、航海中の 1493 年1月15 日 ( 火曜日 ) に書いた日誌によれば、
彼等の コショウである ア ヒ もたくさんあるが、これは コショウよりも もっと大切な役割を果たしており、これ無しで食事をする者は誰もいない。彼等は非常に健康によいものだと考えているのである。これは年間に カペラ船で 50 隻分を、この エスパニョーラ島から積出すことができるだろう。と書いていました。カペラ船とは大航海時代に使われた、大型貨物船のことです。
その 「 アヒ 」 がまさしく トウガラシですが、当時の コロンブスが コショウと勘違いしたことから トウガラシ のことを ホット ・ ペッパー( 辛い ペッパー ) と呼び、今では黒 コショウの ブラック ・ ペッパーに対して、 レッド ・ ペッパー( 赤い コショウ ) と呼んでいます。 ちなみに コショウは植物学上 コショウ科の つるを巻く植物であり、ジャガイモと同じ ナス科トウガラシ属に属する トウガラシ とはまったく分類が異なります。コロンブスは スペインに トウガラシ を持ち帰りましたが、それまでは ヨーロッパにも アジアにも、トウガラシ は存在しませんでした。当初は食用としては風味に乏しく、しかもあまりにも辛すぎるため、果実の鮮やかさから観賞用として栽培されただけで、人々からも やがて忘れ去られてしまいました。 その後、新大陸を求めて南下を続けた ポルトガルの航海者により、ブラジル東海岸の港で見つけられた トウガラシ が ガリオン船 ( 大型の帆船で軍船にもなる )に積み込まれ、次の交易地の アフリカ西海岸に運ばれ、そこから バスコ ・ ダ ・ ガマ ( Vasco da Gama 、1469?〜1524 年 ) が開拓した喜望峰回りの ルートにより インド、中国へと伝えられました。わずか 1,00 年で世界中に広がった トウガラシ は、世界の香辛料の中で最も生産量が多いものとなりました。
[ 7:とうがらしの効用 ]16 世紀のこと、スペイン、セビリアの医師 ニコラス ・モナルデスは、インディアス ( 西インド諸島 )の トウガラシ はすばらしい。その価値は薬以上のものだ。トウガラシを食べれば、体は元気になり、心がときほぐれ胸の病気に効く。とうがらしは体の主な器官を暖め、調子を整え丈夫にするので、これらの病気の症状を鎮める効果がある。トウガラシは辛く、その薬効は最上級に近い。と書いていましたが、トウガラシには確かに体に及ぼす効能もありました。ビタミン A とビタミン C が豊富なことから、夏バテの防止に効果が高く、また殺菌作用があり食中毒を防ぐとも言われるので、特に暑い地域で多く使われています。漢方では 肺炎、リウマチ、神経痛、筋肉痛、健胃、風邪薬や殺菌 にも使われ、そのほかに 除虫の効果もあり、園芸では他の作物と共に植えて虫害を減らす目的で栽培されたり、食物の保存に利用される事もあります。 インカ帝国に侵入してきた スペインの フランシスコ ・ ピサロ に率いられた 侵略者を撃退するために、インカの人々が使ったのは トウガラシでした。彼等の行く手に乾燥させた赤い トウガラシ を山積みにして火を放ち、侵入者たちに辛い成分の煙を浴びせ、目つぶしにしました。
トウガラシ の辛味の主成分は カプサイシン ( Capsaicin ) と呼ばれるものですが、郵便配達員などは配達の際に攻撃する犬を追い払うために この成分入りの スプレー を使用し、北海道の ヒグマや北米の グリズリー( Grizzly 、大型の灰色熊 ) などの生息地帯に入山する人は、熊の攻撃を防ぐ為により強力な カプサイシン入りの ベア ・ スプレー ( Bear spray )を携帯します。 カプサイシンを口から摂取しても、舌や胃に有害な影響を与えませんが、濃い溶液を皮膚に塗ると最初は痛みと熱を感じるものの、やがて麻酔作用が効いて痛みを感じなくなるのだそうです。歯痛の場合には トウガラシ を摺り潰して痛む部分に塗ると、痛みが和らぐことが先祖からの知恵で知られていました。 それ以外にもいろいろな利用法がありますが、明治 35年 ( 1902年 )に、青森県の八甲田山で起きた陸軍の青森五連隊による雪中行軍の演習中に吹雪に遭い、210 名中 199 名が遭難凍死した事件がありましたが、その際には足先の凍傷を防ぐ為に、 軍足 ( ぐんそく、軍隊用靴下 ) の中に トウガラシ を入れて履いていました。
[ 8 : トウガラシの伝播と消費量 ]人の味覚にはご存じのように 甘い 、 塩辛い、 酸っぱい 、 苦い という四種の基本感覚がありますが、それ以外の味、たとえば キムチや インド ・ カレーを食べた時の、舌に 「 ピリリ とする辛さ 」 はこれには含まれてはいません。 インドの知覚研究者 グループが 1987 年の報告書の中で、四大味覚に加えて トウガラシのように ピリリと辛い味 を 五番目の基本味覚に含めることを主張していました。ところで トウガラシが日本に伝えられた時期については、三つの説がありました。
下表は F A O ( Food and Agriculture Organization of the United Nations 、国連食糧農業機関 ) の統計資料からの抜粋であり、消費が多い順に 9 位まで並べたわけではありません。特に多いグループ、中程度のグループ、少ないグループに分けて表示しました。
[ 9 : 日韓食文化の違い ]ほぼ同じ時期に トウガラシが導入されたにもかかわらず、韓国と日本でその消費量に大きな差が生じた理由としては、 肉食文化の普及度 にあるという説があります。日本書紀によれば飛鳥時代の 552 年 ( 別の説では538 年 ) に、百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論などが欽明天皇に贈られましたが、当時の朝鮮は仏教国であり宗教的理由から殺生が禁止されていました。その後朝鮮は 高麗時代( 918〜1392 年 ) に 元 ( げん、モンゴル ) の属国となり、中国の宦官 ( かんがん 、後宮に使える去勢された役人 )、科挙 ( かきょ、官吏採用試験 ) の制度の導入をはじめ、 社会の制度習慣を中国風に改めました 。 先祖の出身地としての本貫 ( ほんがん ) の制度も中国から取り入れましたが、姓についてもそれまでの 朝鮮姓 ( 注参照 ) から 創氏改名 して 、金、李、朴 ( ぼく )、崔 ( さい )、鄭 ( てい )、などのように、 中国式の姓に変える と共に肉食も解禁しました 。
注 : 朝鮮姓 )などの姓名が書かれていますが、このように 二文字またはそれ以上の文字の姓が 朝鮮における 本来の姓 でした。 高麗を倒した李朝時代 ( 1392〜1910 年 ) には、宗主国であった中国の明 ( みん ) に頼んで国号を 朝鮮 に決めてもらうと共に、 中国への傾斜をさらに強め、儒教が国教となり 仏教を弾圧すると共に 肉食が盛んになり 、食用犬も普及しました 。 そのため コショ ウの需要が増大しましたが、輸入代金支払いのため 銀が多く必要となったために、コショウの代替品として国産が可能な トウガラシを栽培して需要に対処しました。その点で明治維新まで公式に肉食を禁じていた日本とは、比較にならないほど トウガラシが普及した理由でした。
昭和 63 年 ( 1988 年 )の ソウル五輪を前に、韓国ではその 4 年前から食堂での犬肉の提供を禁止しましたが、オリンピック終了後には元の状態になり、読売新聞の記事 ( 平成 20 年 4 月 23 日 ) によれば、現在 ソウル市内には 530 軒の犬肉料理の店があります。
朝鮮半島では 18 世紀から作られるようになった発酵食品の、 コチュジャン ( 唐辛子味噌のことで、材料や作り方は地域により異なる ) が、多くの料理に使われるようになったのも、トウガラシが普及した大きな原因でした。 ニンニクに関する日韓の消費量の大きな違いも過去の肉食習慣が原因であり、また韓国で 緑茶を飲む習慣がないのも 、かつて茶園が仏教寺院によって経営されていましたが、前述した仏教の衰退と共に緑茶生産も減退したためといわれています。
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