人種 と宗教の話
[ 1 : 信仰心は遺伝しない ]30 年前に 85 歳で亡くなった私の母は新潟県 五泉市 馬場町にある真宗大谷派の 「 清林寺 」 という寺の娘で、それなりに信心深い人でした。子供の頃に東京から母と一緒に里帰りする度に、寺の本堂で祖父が上げるお経を母と一緒に聞きましたが、正座させられてお経を聞く 「 辛さ 」 を今も覚えています。 成人してからの私は母親から受け継いだはずの 「 信仰心 」 はどこえやら、昔は危険な職業とされた パイロットの仕事に長年従事してきましたが、これまで神や仏に飛行の無事を祈ったり、加護 ( かご、神仏が力を与え護り助けること )を願ったことなど、 36 年の パイロット生活で 一度もありませんでした。 退職後には、四国霊場 八十八 ヶ所の札所を 歩いて巡る遍路 を スタンプ ・ ラリーのつもりで、 千二百 キロの道程を歩き通 しましたが、両親と兄の葬式以外は寺とは無縁の生活でした。最近では 82 歳の老齢のため、兵庫県から上京して東京都 府中市にある先祖墓の清掃 ・ 献花もおっくうになったので、墓地の管理業者に依頼して 春 ・ 秋の彼岸の前に清掃 ・ 献花を代行してもらっています。 [ 2 : 現生人類 の誕生と、旅立ち ]「 現生人類 」 である ヒ ト ( ホモ ・ サピエンス、新人 ) の起源 については、1987 年に 「 アフリカ 単一 起源説 」 ( たんいつ きげんせつ ) が発表されました。 それによれば ヒ ト の祖先は 20 万年前 ~ 15 万年前に アフリカ で誕生し、 15 万年前 ~ 10万年前に アフリカ大陸を出て世界中に広がって行ったとする人類学説が発表され、現在の主流となっています。( 2-1、メ ラ ニ ン 色素 ) メ ラ ニ ン ( Melanin ) とは 「 ヒ ト 」 を含む動物などの組織内にみられる色素で、メ ラ ニ ン 色素ともいいます。主に黒褐色の真性 メ ラ ニ ン と、橙赤色 ( とうせき しょく ) の 亜 メ ラ ニ ン の 二種類があります。 脊椎動物では、大半が皮膚の表皮最下層の 基底層 ( 左図 ) や毛髪の毛母 ( もうぼ ) などにある メ ラ ノ サ イ ト ( 色素細胞 ) で生成され、一部は網膜色素上皮細胞で生成されますが、その量により 皮膚 ・ 毛髪 ・ 目の網膜 の色 が決定されます。
[ 3 : 白人種という 呼び名 ]ドイツ の人類学者 ヨハン ・ ブルーメン バッハ (1752 ~ 1840 年 ) が、1775 年に書いた論文 「 ヒ ト の自然的変種 」 において、人類を コーカシア ( 白人種 ) ・ モンゴリカ ( 黄色人種 ) ・ エチオピカ ( 黒人種 ) ・ アメリカナ ( 赤色人種 ) ・ マライカ ( 茶色人種 ) の 五種類に分類 しました。 人種名でわれわれに馴染みのある 「 コーカソイド 」、「 モンゴロイド 」 などという言葉も ブルーメンバッハ の このような名付けに由来 していて、英語では 「 白人種 」 のことを コ ー カ ソ イ ド ( Caucasoid )あるいは、コー ケ イ ジ ャ ン、 Caucasian ( 別名、 コー カ サ ス 人 ) と呼びます。 「 白人種 」 をそのように呼ぶ理由については、 白人種 発祥の地 を 、黒海と カスピ 海に挟まれた コ ー カ サ ス 地方 とする誤った学説を唱えたからであり、その説が次項の理由から ヨーロッパ で広く信じられるようになったからでした。( 3-1、ノ ア の箱船の アララト 山 ) コーカサス 地方には コ ー カ サ ス 山脈 ( 上図の緑色、ロシア 語読みで カ フ カ ス 山脈 ) があり、 ヨーロッパ の最高峰 エ ル ブ ル ス 山 ( Elbrus 、標高 5,642 m 、図の青印 ) があります。 図で ピンク色に塗られた部分は、後述する アルメニア 共和国です。 旧約聖書の創世記 ・ 第 8 章 4 節に ノ ア ( Noah ) の箱船 が 7 月 17 日に現 ・ トルコ 共和国の東端 ア ル メ ニ ア との国境付近にある ア ラ ラ ト 山 ( Ararat、 左上図の 赤印 ) にとどまった ( 漂着した ) と記されていました。 アアラト 山は 大 ・ 小 二つの山があり、写真は箱船に関係する ( 大 ) アララト山 ( 標高 5,137 m ) です。 ヨーロッパは キリスト 教の勢力圏であり キリスト教的価値観を重視する人類学者が、 「 白人種 」 を創世記の洪水物語に記された主人公 ( ノ ア、 六百歳 ) と関連付け、自分たちをその子孫とする学説を創作 しました。 白人優越主義 を根底に持つ ヨーロッパ 人が 「 善である白い人 」 という趣旨で、自らを コーカソイド ( Caucasoid 、白人種、コーカサス 人 ) と定義 し、白人連中がそれを支持 したので した。 彼らによれば、ヨーロッパ の白人種が 「 最も美 しく 」 すべての人間集団の 「 基本形 」 であり、他の四つの人種はそれから 「 退化 したもの 」 だとしていました。 ( 3-2、ヨーロッパ と アジア との境界について ) では アララト 山は ヨーロッパ の領域にあるのでしょうか?。それとも アジア の領域でしょうか?。 アララト 山は アルメニア との国境から 32 km、イラン との国境から 16 km にあるといわれています。つまり西 アジア の アナトリア 半島 にあり、そこは後述する アジア と ヨーロッパ を隔 ( へだ ) てる ボスポラス 海峡の東側にある トルコ 領が大部分を占めているので、 アジア 領域 が正解です。 しかし ヨーロッパ と アジア との境界は 地理上の境界と、 ヨーロッパ 中心主義的な観点 から見た 人為的な境界 とが入り交じっています。 地理上の境界 は、ウラル 山脈 ・ ウラル 川 ・ カスピ 海 ・ コーカサス 山脈 ・ 黒海 ・ ボスポラス 海峡 ・ マルマラ 海 ・ ダーダネルス 海峡とすることが 一般的です。 左図は ボスポラス海峡 ( Bosporus Strait ) の両岸に面した トルコ最大の都市 イスタンブール ( Istanbul ) ですが、商業や かつて東 ローマ 帝国 ( 395 ~ 1453 年 ) の首都 ( コンスタンティノープル、 Constantinople ) として栄えた歴史の中心は海峡の ヨーロッパ側に広がっています。 住民の 3 分の 1 は アジア側に居住し、アナトリア半島中央部には トルコ の首都の アンカラ ( Ankara ) があり海峡には日本企業の施工による海底 トンネルと、2 本の吊り橋が ヨーロッパ と アジアを結んでいます。 [ 4 : アー リア 人と バラモン教 ]前置きが長くなりましたが、インド 人といえば右図のように肌が褐色に近い人々を想像しますが、 インドには ド ラ ヴ ィ ダ 人 ( Dravidian ) や ムンダ 人 ( Munda ) に代表される褐色の肌色をした先住民だけではなく、 白人種である アー リア 人 ( Aryan ) の 一部が インド 北西部 ~ 北部に住んでいます。 彼らは西 トルキスタン の草原地帯に住んでいましたが、その後南東に移動を始め、 アフガニスタンの ヒンド ゥ ー ・ ク シ ュ ( Hindu Kush ) 山脈を越えて、インダス 川 ( Indus ) 流域の現 ・ インドと パキスタンにまたがる パンジ ャ ー ブ ( Punjab 、インダス川を含む五つの河川の意味 ) 地方に侵入したのは紀元前 1,500 年頃のことでした。 この地域を征服 し、さらに東進 して肥沃な ガンジス 川 ( the Ganges ) 流域へと支配地域を拡大 しました。 ア ー リ ア 人 とは サ ン ス ク リ ッ ト 語 ( 梵語、ぼんご ) で 「 高貴な 」 ・ 「 尊敬されるべき者 」 の意味を持つのだそうです。 コーカソイド ( Caucasoid、白人種 ) の末裔 ( まつえい、子孫 ) である アー リア 人 の 一部は、日照量の多い 中東 ・ インド 亜大陸 に暮らしたために、数千年の時を経て肌や髪の 「 メラニン 色素 」 が次第に濃くなっていきました。図は碧眼 ( へきがん、青い眼 ) の ア ー リ ア 系 インド 人です。 それと共に アー リア 人 の間に、 紀元前 13 世紀頃に、バラモン教の枠組みがつくられ、やがて バラモン ( 婆羅門 ) 教を形成 しましたが、彼らの宗教の中核は 多神教 と 祭祀 ( さいし、神々をまつること ) でした。 子孫の繁栄や家畜の増殖を望み、降雨 ・ 豊作 ・ 長寿 ・ 息災 ・ 戦闘における勝利を願い、 祭式 ( さいしき、祭典の順序次第と作法 ) が重視されました。 祭祀 ( さいし ) においては財産 ・ 戦勝 ・ 長寿 ・ 幸運を願って神々の恩恵と加護を祈り、神々に捧げられた讃歌 ( さんか、神をたたえる詩歌 ) が作られましたが、それを集成したものが リグ ・ ヴェーダ ( Rigveda )と呼ばれる バラモン 教の聖典の一つです。( 4-1、宗教に基づく、 カースト 制度 ) カースト ( Caste ) の語源については ヨーロッパ 人が付けた名称であり、ポルトガル 語の カスタ ( Casta、 血統 ・ 家柄 ) に由来 し、種姓 ( しゅせい、四姓制度 ) とも訳されています。 その起源は、前述した アー リア 人が信仰 した バラモン教に基づく宗教的身分制度が始まりで、アー リア 人社会における祭式の複雑化 ・ 専門化に伴い司祭者 ( バラモン、婆羅門 ) の地位が高まり、宗教上 ・ 社会上の特権的身分を バラモン 階級と定め、アー リア人を上位の宗教的身分に据 ( す ) えました。 さらに アー リア 人によって征服された先住民を スー ドラ ( 奴隷 ) の地位に置くなど、 インド特有の世襲による宗教的 ・ 社会的身分制度を設けました。 現在 インド国内では、バラモン 教から 派生 した ヒンドゥー 教における身分制度を 「 カースト 」 ではなく、 「 ヴァルナ ・ ジャーティ 、Verna , Jati 」 と呼んでいます。 ( 4-2、カースト の細分化 )
( 4-3、インドの恥部、不可触民 ) 上記の四種類の カーストには属さない カースト外 の人々 がいて、それらは
[ 5 : 釈迦 ( しゃか ) 以前の、インドの宗教 ]輪廻 転生 ( りんね てんしょう ) などというと仏教の思想や言葉のように思いますが、実は仏教よりも 800 年も前に成立した バラモン 教の教理 ・ 言葉でした。[ 5-1、バラモン教の輪廻 ( りんね )] バラモン 教の特色は、根幹に輪廻思想があることと、カースト制度が確立していることでした。古代の人たちは、素朴な発想から、人間は肉体と霊魂でできているという、二元論を信じていました。 物質である肉体は必ず滅びるが、物質ではない 霊魂は永遠に不滅で 、次の生を求めて さまようものと考えたのです。肉体は大地に還 ( かえ ) り、霊魂は天界に昇るとしたのと同時に、その人の生前の行いによって 霊位が上下 し 、次に宿るべき肉体が決まると信じましたが、これが輪廻 ( りんね ) という考え方の基本です。 バラモン 教は、この輪廻思想をもとに、生前のその人の信仰の度合いによって決まる霊位、つまり次に生まれ変わる境涯を 「 天界 」・ 「 人間 」 ・ 「 畜生 」 ( ちくしょう ) ・ 「 餓鬼 」( がき )・ 「 地獄 」 の 5 種類としました。バラモン 教の 「 五趣 ( ごしゅ ) 」 または 「 五道 ( ごどう ) 」 といった考え方です。 ところが、バラモン 教の下では、この死後に関わる 「 五道 」 の思想を、現世の社会階級にまで当てはめていきました。つまり天上の神々の下に前述した バラモン ( 司祭階級 )を トップ とする前述の 四つの 宗教的身分階層 ( カースト ) が制度化されたのです。 そして、いったんその カースト に生まれると、死ぬまでその境涯 ( きょうがい、人がこの世に生きていく上での立場 ) から逃れることができないという苛酷なものでした。バラモン 教を熱心に信仰し、徳 を積むことで、次の人生では上位の境涯に生まれ変われるという希望はありましたが、最下位の スードラ ( 奴隷階級 ) にはその希望さえなく、スードラ は次の世もその次も永遠に スードラ のままで した。 [ 5-2、仏教の輪廻 ( りんね )] 仏教では、バラモン 教にはない、輪廻界の上に 輪廻から解脱 ( げだつ ) した如来や菩薩の住む 「 仏界 」 ( ぶっかい ) があります。そして、その下にある 「 六道 輪廻界 」 は、善趣と悪趣の 二種に分かれています。 善趣 ( ぜんしゅ、別名 善道 ) とは現世でよい行いをした人が死後に趣 ( おもむ ) く世界のことで、 「 天 道 」 ・ 「 人間道 」 ・ 「 修羅道 」( しゅらどう )の三つであり、悪趣 ( あくしゅ、別名 悪道 ) とは生前に悪行を重ねた人が死後に 趣 ( おもむ ) く といわれる三つの下層世界、すなわち 「 畜生道 」 ・ 「 餓鬼道 」 ・ 「 地獄道 」 の三つの悪道です。 つまり、バラモン 教では、輪廻界のなかで生まれ変われるだけだったものが、仏教の輪廻思想では、 六道輪廻を解脱すれば 、仏界という光にあふれた 悟りの世界に入ることができる としたのです。 バラモン 教では 輪廻の「五趣 ごしゅ、( 五道 )」 でしたが、仏教ではそれに「 修羅道 」 ( しゅらどう ) が加えられ 「 六趣 ろくしゅ、( 六道 ) 」 になっている点が バラモン 教とは異なります。 修羅とは 「 阿修羅 ( あしゅら )」 の略で、古代 ペルシア を起源の地とする善悪二元論的な宗教である ゾロアスター 教 ( Zoroastrianism、拝火教 ) の、アフラ ・ マズダ [ Ahura Mazda、阿修羅 ( あしゅら ) ] を最高神とする宗教です。 仏教が ゾロアスター 教の聖地である アフガン 地域に広まった際に、ゾロアスター 教徒と仏教徒が対立する時期があり、そのために アフラ ・ マズダ を悪の象徴として人間界の下位に位置付けて、「 六道輪廻 」 が成立したとする説があります。 広島にある自動車 メーカーの 「 マツダ 」 は事実上の創業者である松田重次郎の姓 「 M A T S U D A 」 と、叡智 ・ 理性 ・ 調和の神を意味する ゾロアスター 教の最高神 アフラ ・ マズダ ( Ahura Mazda ) にちなみ、英語の社名を 「 M A Z D A 」 にしました。
[ 6 : 釈迦 ( しゃか、お釈迦様 ) のこと ]インド は歴史のない国といわれ、年代がはっきり分からないことが非常に多いのです。その理由は歴史を記録に留める習慣が無かったからともいわれ、 釈迦 ( しゃか、お釈迦様 ・ 仏陀 Buddha ) の生没年もそれと同様で、これに関して数十種の学説があるともいわれ、大別すると生存年代を 紀元前 560 年頃 ~ 前 480 年頃 と、 紀元前 460 年頃 ~ 前 380 年頃 の二種類になります。 ここでは前者を採ることにすると、紀元前 6 ~ 5 世紀頃のこと、インド 大平原の北辺 ヒマラヤ 南麓の現 ・ ネパール と インド の国境付近に シャカ 族 / サーキャ 族 ( Sakya 、釈迦族 ) の国がありましたが、その首都は カピラヴァストゥ( Kapilavastu ) で、漢訳すると迦毘羅城 ( かぴらじょう ) のことです。 その ゴータマ 姓の王家に ゴータマ ・ シッダールタ ( Gotama Siddhartha ) という王子が生まれましたが、生母の マーヤ 夫人 ( Maya ) は王子を出産後 7 日目に死亡 しました。 そこで マーヤ に代わってその妹が後妻に入り王子の育ての母となりましたが、やがて異母弟ができました。シッダールタ 王子 は 16 歳で結婚 し 長子 ( Rahula、ラフラ ) が生まれましたが、29 歳の時に シャカ 国の王子としての地位 ・ 名誉 ・ 財産 ・ 家族など一切を捨てて出家 し、一介の乞食修行者になりました。 当時 シャカ 族の国は コーサラ 国 ( Kosala )の属国的立場に置かれていましたが、シッダールタ 王子改め 釈迦 ( しゃか ) の晩年に コーサラ 王に滅ぼされ、この首都は廃虚となりました。( 6-1、苦行では人々を救えない ) 当時のインド では苦行は解脱を得るための、最も重要な方法と考えられていました。苦行とは文字通り肉体を苦しめること で、その苦痛に耐えることで解脱に達し得ると信じられていました。写真は パキスタン の ラホール の博物館にある、苦行中の釈迦の彫刻です。 断食により眼はくぼみ、あばら骨が突き出て やつれ果てた像ですが、しかし毅然とした態度が感じられます。釈迦は 6 年間苦行をおこない 人々を救う道を求めましたが、 苦行では人々を救うための智慧の獲得にはつながらない と判断 して苦行を中止 しました。 苦行した林から村に下りた釈迦は ナイランジャナー 河で沐浴 し髪と ヒゲ を剃り、セーナ 村の牛飼いの娘 スジャータ が捧げる乳粥 ( ちちがゆ ) の食事をとり、後に対岸 ガヤー の ピッパラ樹 ( 菩提樹 ) の下で、ついに 悟りに達した時 は 35 歳になっていました。 ちなみに釈迦の別称は仏陀 ( ブッダ、Buddha ) ですが、その意味は 「 真理に目覚めた人 」 です。地名の ガヤー は仏陀の偉業を称えて 「 ブッダ ガヤー 」 と呼ばれるようになり、日本では 「 ブッダ ガヤ 」 と呼んでいます。 ピッパラ の大樹の下に座して 「 悟りを開いた 」 ことから、大樹は目覚め ( ボーディ ) の意味から 菩提樹 ( ぼだいじゅ、目覚めの木 ) と呼ばれました。 写真は ブッダカヤ にある マハーボディ 寺院 ( Mahabodhi Temple ) の大菩提樹ですが、釈迦の時代 ( 2,500 年前 ) の子孫 ( ? ) だといわれています。左下に僧侶が二人見えます。 ( 6-2、三大宗教の開祖のこと )
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