オーストラリア 大陸( 続き )


[ 8 : アボリジニ について ]

これまで述べたように オーストラリア 大陸の先住民を アボリジニ と呼びますが、 「 アボリジニ 」 ( Aborigine ) とは、ラテン 語で 「 最初から 」 を意味する 語句の 「 ab origine 」 、( アブ オリジン ) に由来すると いわれています。

しか し今では アボリジニ ( Aborigine ) という言葉には 差別的な響きが強い とされ、公的には使用を控えられています。

そのため現在では それに代わり アボリジ ナル  ( Aboriginal ) または インディジェナス オーストラリアン ( Indigenous Australian、 原産の オーストラリア 人 ) という表現も 一般化 しつつあるそうですが、ここでは従来からの アボリジニ を使用 します。

白人が入植する以前の アボリジニ の人口については、 少ない説では 30 万 ~ 40 万人 、多い説では 50 万 ~ 70 万人 と諸説あり、オーストラリアの学会で確定された数字はありません。

槍を持つアボリジニ

彼らの生活様式は 「 狩猟 ・ 採集 」 と、そのための移動 ( 放浪 ) であり、 2 ~ 3 人の家族から 二家族くらいの 「 小 グループ 」 で生活 し旅を していま した。 一人の男性が 二人以上の妻を持つのは普通で した。

彼らは簡単な石器や木器を利用 して、狩猟 ・ 採集民族と しての生活を維持 し、男性は槍や ブーメラン で カンガルー やその他の野生の動物を捕まえ、女性は簡単な道具を使って食料用植物や魚 ・ 貝を採取するという役割分担を していま した。

ブーメラン

ちなみに投げるとまた戻ってくる ブーメラン は、約 1 万年前に アボリジニ によって考案されたといわれていますが、名前の本来の意味は シドニー 近郊の 「 部族の名前 」 であるともいわれています。さらに簡単な作りの 「 槍投げ器 」 がありま したが、これは射手の手の部分を伸ばすことによって、遠くまで木製の槍を飛ばす仕組みで した。

パプア ・ ニューギニア に近い大陸北東部の ヨーク 岬半島を除けば、アボリジニ は 弓 矢 を使用 しませんで した

大陸のほとんどのところで、アボリジニは実質上裸で生活 し、儀式のために裸体に彩色するのは彼らの芸術で した。鳥の羽や動物の歯の首飾りでさらに装飾を施 したり しま した。


( 8-1、 火の発見と使用 )

アボリジニ の生活では食物の蓄えは少量であり、家畜も飼わず作物も植えず、荷物もほとんど持たずに身軽に移動 しま したが、しか し 「 火 」 だけは別で した。 アボリジニ は最初、落雷などの自然現象で発生 した火を使用 していま した。いつでも落雷が起きるものではないので、一度燃え上がった火を消すことはせずに大事に 保存 しま した。

火起こし棒

そのために最初は 「 火が付いままの棒切れ 」 や 、 くすぶっている 「 棒 」 を 「 火種 」 と して持ち運びま した。ところが、摩擦 ( まさつ ) を利用 して火をおこす方法を知ってからは、「 火おこ し棒 」 でいつでも必要なときに火をおこすことができるようになりま した。

彼らはほとんどすべての用事に火を使用 しま した。冬の間は暖をとるために小さな焚き火の間で寝た し、夏はその煙で蚊を寄せつけまいと しました。平原では煙をうまく操って遠くの仲間に自分たちの動きを正確に伝え、火を放って待ちかまえる狩人の方向に動物を追い込みま した。

彼らは土地を知り尽く していたので、容易に食べ物を入手することができま した。食用になる多くの植物の種や実が成る時期、何百もの鳥や動物の巣ごもりと繁殖の時期を知っていたので、季節により探す食べ物が違っていま した。

やせた土地では アボリジニ は年間を通 じて百種類ものさまざまな植物 ・ 木の実 ・ 種子 ・ ヤム芋 ( Yam、ヤマノイモ 科 ヤマノイモ 属の食用植物の総称で、熱帯 アジア 原産 ) ・ 球根を食べていま した。食用植物を採ってくるのは女性の役割であり、内陸のほとんどの部族の食生活は菜食が中心で したので、女性が 一家の主な働き手で した。


  ( 8-2、 アボリジニ の海女 )

ロンドン 生まれで アボリジニ の保護官となった ジョージ ・ ロビンソン ( 1788 ~ 1866 年 ) によれば、海辺に暮らす アボリジニ が海に潜ることを彼は初めて知りま した。1829 年のこと タスマニア で、 アボリジニ の女性が貝を採りに海に潜る姿を初めて見ま したが、その女性は蘭 ( らん ) 草でできた手製の かご を肩に掛け、岩から貝を剥 ( は ) がすのに使う尖った棒を手に していました。

すぐれた潜水婦 ( 海女、あま ) だ、かなりのあいだ海中に潜っていられる。ほんの数秒海面に浮かび上がって呼吸 したと思えば、またすぐ ( 海中に ) 戻って かご 一杯に貝を採ってくる。

貝塚

と述べていま した。大陸の沿岸部や内陸の川沿い ・ タスマニア 島の東海岸 一帯では、 アボリジニ は魚貝類を摂取 して食生活を営んでいま したが、その痕跡と して熱帯部の沿岸のところどころには、積み上げられた貝殻の塚 ( 貝塚 ) が残っていま した。

タスマニア の東海岸 一帯を生活の拠点として住む部族の中心的な食料は、貝類と オットセイ の肉だったようで、魚はほとんで食べてなく、オットセイ がいなくなる夏の時期は山間部に移動 し カンガルー などを獲っていま した。

魚を食べなかった理由は、より容易に カキ ・ アワビ ・ ムール 貝 ・ イセエビ などが沿岸部で収穫できたからであろうと推測されています。

ちなみに シドニー 市のある ニュー サウス ウェールズ 州では 牡蠣 ( カ キ )、 シドニー ロック オイスター、( Sydney Rock oyster ) 種の養殖が盛んで、シドニー では名物になっています。

私も サーキュラー ・ キー ( Circular Quay、シドニー の埠頭地区 ) の西側にある レストラン で 「 シドニー ロック オイスター 」 を食べま したが、日本の牡蠣 ( カ キ ) よりも小ぶりの種類で した。これは大陸の東海岸に自生 していた牡蠣 ( カ キ ) を養殖 したもので 1 年中店頭に並んでいますが、旬は南半球の夏になる 9 ~ 3 月です。

焼きカキ

なお 夫婦の個人旅行の際に シドニー で女房は 「 生の カ キ 」 をたべま したが、私は過去に旅先で 食中毒を した苦い経験 があったので、生 ガキ の上に ベーコン をのせ、ソース をかけて グリル で焼 く 「 キルパトリック 」 ( Oyster Kilpatrick ) に しま した。日本でいう カ キ ( マ ガ キ ) は、ここでは パシフィック オイスター と呼ばれていてます。


[ 9 : アボリジニ に対する迫害 ・ 虐殺 ]

イギリス からの流刑囚を乗せた 11 隻からなる第 1 次移民船団が入植した 1788 年当時の オーストラリア には、少なく見積もって約 30 万人、多く見積もると 70 万人の アボリジニ が狩猟 ・ 採集の生活を営んでいました。

イギリス 人 入植者たちは アボリジニ のことを

人類のなかで最も 発達段階の低い 原始的な人種

と して、人間扱いをせずに 射殺 ・ 虐殺 ・ 強姦のみならず、土地の強奪、搾取などの迫害や差別を した結果、 アボリジニ の人口は 90 パーセント減少 し、タスマニア 島では絶滅 しま した。

1860 年代には広大な大陸のほぼ全土に入植者が進出 し、アボリジニ の生活基盤であった土地を奪い、入植者が持ち込んだ羊毛生産用の羊や馬 ・ 食料と しての牛 ・ 豚は、アボリジニ が何万年もの間食料と していた木の実や植物を食べ、彼らの生活に不可欠な飲料水を消費 して しまいま した。

入植者による アボリジニ の大量虐殺である 「 人間狩り 」 が問題となると、次には 「 ヒ素 や 水銀 」 などを水飲み場に流 して 毒殺する など、アボリジニ 殲滅 ( せんめつ、皆殺 し ) の方法は陰湿になっていきま した。


( 9-1、 女流詩人の話 )

10 ドル 紙幣

写真は オーストラリア の 10 ドル 紙幣 ( 約 800 円 ) の裏面にある女流詩人 ・ 作家 ・ 社会運動家の メ アリー ・ ギルモア ( 1865 ~ 1962 年 ) の肖像ですが、彼女は男性の 「 ナイト、Knight、騎士 」 の叙位 叙勲 ( サー、Sir の称号を伴う ) に相当する女性の叙勲 「 デイム、Dame の称号 」 を授与されま した。

従って当時の彼女を呼ぶ際には、 「 デイム  メ アリー 」 も しくは 「 デイム メ アリー ・ ギルモア 」 と呼びま した。彼女は アボリジニ の虐殺に関する子供の時の思い出を、 『 シドニー ・ モーニング ・ ヘラルド 』 紙 ( 1938 年 3 月 4 日 ) に次のように書いています。

水飲み場の周辺に 何百人もの アボリジニ が死んでいた 。大人たちが集まり、アボリジニの 狩り に出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛 ( どうもう ) な狩猟犬が輸入されたが、アボリジニ たちを狩り出 し、 食い殺させる ためだった。

ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んで いるのを見た。

黒い罪

右の写真にある アボリジニ たちは何も悪いことを したわけではなく、 「 肌が黒いという罪 」 で捕らえられ、動物のように鎖付きの首輪を互いにはめられて 二人ずつ手錠でつながれ、強制収容所に死ぬまで入れられたので した。これが 有色人種は人間にあらず という アングロサクソン の流れを汲む オーストラリア 人の した残虐行為で した。


アボリジニ -1

アボリジニ-2


( 9-2、タスマニア 島の場合 )

オーストラリア 大陸の南東 240 キロメートル に タスマニア 島がありますが、そこには かつて先住民の タスマニア 系 アボリジニ が住んでいたものの、その後 絶滅 させられて しまいま した。

1803 年に流刑囚 49 名の植民をおこなった当時、タスマニア 島には 先住民 3 万 7 千人 が住んでいま した。

しか し白人 入植者による 迫害 ・ 虐殺 および タスマニア 島東端の北 20 キロメートル に位置する フリンダース 島( Flinders Island ) へ の 強制移住 及び、強制移住先の島における劣悪な生活環境や ヨーロッパ 人がもたら した天然痘 ・ 結核 ・ 梅毒 ・ は しか などの伝染病により、タスマニア系 アボリジニー の人口は激減 しま した。

トルカニニ

1832 年には アボリジニ の人口は約 200 人に減少 し 1847 年には僅か 4 4 人となり、1876 年には タスマニア 系 先住民の最後の女性であった トルカ ニ ニ ( Trucanini ) が死亡 して、純血の タスマニア系 アボリジニ は絶滅 しま した 。 イギリス 人の島への入植開始から 73 年後のことで した。


( 9-3、ブラック ライン )

タスマニア 島では白人植民者と先住民の間で衝突が繰り返されま したが、銃を持つ白人入植者に対 して槍が武器の アボリジニ が勝てるはずがはありませんで した。

この戦いの後に植民地側は タスマニア 島から先住民 ( タスマニア 系 アボリジニ ) を 一掃するために、「 ブラック ・ ライン 」 ( Black line ) 計画を立てま した。島の男性入植者全員が銃を持って横 一列になり、島の端から端へと進みながら アボリジニ を包囲 し、見つけ次第 射殺 しま した。

  1935年、国際連盟は原住民の虐殺や差別について、オーストラリア 政府に釈明を求めま したが、オーストラリア 政府はもともと アボリジニ を 人間、 従って 国民 とはみな していませんで した。

したがって 人口動態 国勢調査対象からも外 し続けていて、アボリジニ を 人口統計に入れた のは 1901 年に連邦国家が成立 してから 70 年も経った 1973 年 ( 昭和 47 年 ) の憲法改正以降のことで した。


[ 10 : 盗まれた世代とは ]

子供掠い

盗まれた世代 ( Stolen Generations ) とは オーストラリア 政府によって、親元から強制的に連れ去られた ( 引き離された ) アボリジニ の子供、および白人男性との間に生まれた混血の子供たちを指す言葉です。

アボリジニ の子供に対する親権は 1970 年 ( 昭和 45 年 ) まで否定され、親から引き離された子供たちは強制収容所や、 キリスト教会が運営する孤児院などの施設に強制的に収容されま した。

その目的は子供たちに西洋的進んだ文化、キリスト教的生活習慣を植え付け、 白人社会に同化させる ためでもありま した。

しか しそのことは子供から アボリジニ と しての アイデンティティ ( Identity、自分自身のよりどころ ) を喪失させることとなりま した。さらに労働に対する 「 勤勉さ 」 が求められ、 白人入植者にとって必要な労働力となる女子は ハウス メイド ( 女中 ) と しての家内労働に従事させられま した。

男子は奴隷商人によって アメリカ 大陸に運ばれ売買された アフリカ の黒人奴隷とは異なり、 無料で入手できる少年奴隷 と して農業 ・ 牧畜に使用されま した。

政府によって親元から子供を連れ去る行為は イギリス 人による入植当初からとも、あるいは 1910 年 ( 明治 43 年 ) からとも言われ 1970 年 ( 昭和 45 年 ) まで続き、奪われた子供の数は実に 10 万人 にも及びま した。さらに女子の 10 人に 1 人は、 性的虐待を受けた といわれています。

「 盗まれた世代 」 の政策及びその事実が明るみに出たのは、 1970 年代に ピ-ター ・ リード という若い歴史家が ニュー サウス ウエールズ 州の アボリジニ 保護局 ( Aborijinal Protection Board ) の資料から、この政策に関する資料を大量に発見 したのがきっかけで した。「 盗まれた世代 」 とは彼が名付けた名称です。


( 10-1、牛追いたちの 少年妻 )

牛追い

オーストラリア の内陸部は 砂漠 ない し 準 砂漠地帯が多く、準 砂漠地帯では農作物の耕作はおろか 羊の飼育さえも水不足から困難なため、唯一の可能性は牛の飼育で した。

大陸の真ん中に位置する ノーザン ・ テリトリー 準州が 「 開発された 」 のは、港から 牛追い ( ドローヴァー、Drovers、アメリカ で言う カウボーイ のこと ) たちが何百頭という牛をつれて何千 キロ も移動 し、何度も内陸に牛を運び住みついたからで した。

大部分の ドローヴァー たちは アボリジニ の住む土地に遠慮な しに侵入 し、アボリジニ を カンガルー のように射殺 し、ネスミ のように毒殺 しま した。

北部準州

彼ら ドロヴァー たちは大部分が独身であり、荒涼と した内陸の地 ( アウトバック、Outback ) は 一般の白人女性にとっては とても ・ とても住めない 土地 ( Land of Never - Never ) と呼ばれていま した。右図で オレンジ 色は エアーズ ロック などがある北部準州 ( ノーザン ・ テリトリー ) です。

そこで荒くれ男たちが性の 「 はけ口 」 をそこに住む アボリジニ の女性たちに求め、我が物と したので した。しかも残虐な方法により。

少年妻

家族単位で キャンプ を していた 一家を襲い、若い女性を除いて アボリジニ を皆殺 しに しま した。捕らえた女性の髪を切り男装させ 「 ボーイ、 Boy 」 と呼び性欲のはけ口に しま したが、彼女たちは ドロヴァー ( 牛追いたち ) の少年妻 ( Drover's Boy ) と呼ばれま した。

ドロヴァー たちは労働契約期間が終わると牧場から去っていきま したが、残された多数の 少年妻 たちの名前も 混血の子供たちの生涯も、家畜同様に何の記録もありませんで した。例外を除いて---。

誘拐労働者

これと似た行為に ブラック バーディング ( 黒い鳥 ) がありますが、19 世紀から 20 世紀にかけて太平洋諸島の カナカ 人 ( Kanakas ) らが年季奉公として徴募され、また強制連行ない し誘拐されて クイーンズランド 州の砂糖農園( プランテーション ) で奴隷労働に従事 しま した。こう した 奴隷貿易的行為 Black birding とい います。




( 10-2、アボリジニの人口推移 )


州  名1788年1911年1987年全人口に占める
割合 ( % )
クイーンズ
ランド
120,00022,50861,2682.4
ニューサウス
ウエールズ
48,0006,52459,0111.1
西オーストラリア62,00022,49837,7892.7
ノーザン
テリトリー
50,00022,00034,73922.4
南オーストラリア15,0004,69214,2911.1
ビクトリア15,00063412,6110.3
タスマニア4,5002306,7161.5
首都特別地域181,2200.5
合 計314,50079,11322,76451.4



[ 11、オーストラリア 首相の アボリジニ への謝罪 ]

前述 した オーストラリア の第 26 代 ラッド 首相は 2008 年 2 月 13 日に、首都 キャンベラ の下院で、過去の政権が先住民 アボリジニ に対 して行った 虐殺 や 隔離 政策について、

誇りある人々と文化が受けた侮辱を申 し訳なく思う

などと公式に謝罪 しま した。同国の首相が、アボリジニへの政策で謝罪 したのは初めてであり、首相が表明 した謝罪文書は同日、下院に動議と して提出され、全会 一致で採択されま した。以下はその 一部です。

下記の動画で英語の説明を読まなくても、写真を見るだけで意味が分かります。開始から 3 分 25 秒後に 、議会における オーストラリア 首相の アボリジニ に対するこれまでの 政府の取り扱いに対する謝罪演説 が見られます。

盗まれた世代

以下は演説の概要です。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

白人から アボリジニ ( 先住民 ) と呼ばれる人々は、白人が オーストラリア と呼ぶ大陸で、5 万年以上前から狩猟採集生活を続けてきま した。農業を知らず、金属を知らず、文字を知らず、地面に残る動物のかすかな足跡を追い、石器で獲物を仕留め、何百種類もの動植物の効用を語り伝えてきま した。

彼らの土地に、産業革命期の英国人がやってきて、ここは自分たちが発見 したのだ、と宣言 し、南東部の豊かな土地を柵で囲い、アボリジニを西北部の荒野へ追い立てま した。オーストラリア は当初、英国の流刑植民地だったため、初期の入植者には犯罪者が多く、 カンガルー 狩りと並ぶ スポーツ として、 「 アボリジニ 狩り 」 も行われま した 。

アメリカ 先住民 ( インディアン ) が、白人に激しく抵抗 したのとは対照的に、彼らはただ天災のようにふりかかった不幸を嘆き、死んでいく のみで した。白人が持ち込んだ伝染病と環境の変化で、 アボリジニ の 9 0 % が死滅 しま した。 また、入植当初の白人は男ばかりだったので、アボリジニの女性を 「 現地妻 」 、も しくは 「 性奴隷 」 とする者も多く、大量の混血児 ( ハーフ カースト、Half-Caste ) が生まれま した。彼らは父親から捨てられ、母方の アボリジニ 社会で育てられま した。

1910 年代、オーストラリア 政府は、白人の血を引く混血児が、先住民の野蛮な習慣に染まらないように隔離 し、白人社会で養育すべきだ、と決定。これには キリスト 教会も協力 します。「 保護 」 という名の混血児の組織的拉致 ( らち ) は、1970 年まで続きま した。

母親と生き別れになり、伝統文化も言語も失い、根無 し草の 「 黒い文明人 」 と して生きることを余儀なく された 「 失われた世代、Lost Generation 」 は 、 10 万人に達 しま す。( 以下省略 )

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

上記の理由から オーストラリア では 5 月 26 日を ナショナル ソリー デイ ( National Sorry Day、国民謝罪の日 ) と 1998 年に定め、アボリジニ に対する誤った取り扱いを謝罪することに しま した。


アボリジニの悲惨な歴史


[ 12 : 欧州への仲間入りを拒否され、政策を大転換 ]

オーストラリア の 6 州から成る連邦政府は 1901 年 1 月 1 日に イギリス の植民地から独立 しま したが、第二次大戦以後も   白豪主義   を  かたくなに 守り続けま した。

その オーストラリア の政府 ・ 国民が白豪主義の伝統をやむなく放棄することに至った理由とは、国をとりまく 政治的 ・ 経済的情勢に大きな変化が起きた からで した。

  1. 1958 年 ( 昭和 33 年 ) に、 ヨーロッパ に 欧州経済共同体 ( E E C 、 European Economic Community ) が成立 したが、その際に 旧 宗主国 イギリス のある ヨーロッパ 諸国への仲間入りを熱望 し、 加盟を申請 したにもかかわらず 拒否された こと。

  2. 1992 年 ( 平成 4 年 ) には、 E E C をより発展させ経済の欧州地域内統合 を目的と して 欧州共同体 ( E C 、 European Communuty )  が設立され、域内通貨の 「 ユーロ 」 が使用されるようになった。オーストラリア は再度加盟を申請 したが 拒否された こと。

  3. E C による経済統合に加えて、 外交 ・ 防衛と治安維持 を 第 2 ・ 第 3 の柱と位置付けた、 欧州連合 ( E U 、 European Union ) になったが、そこでも加盟を 拒否された 。ちなみに E U は、 現在 ヨーロッパ の 28 ヶ 国にまで拡大 している。

E U 加盟国は、ここにあり


かつては栄光に輝く大英帝国の女王陛下を国の元首に頂き、イギリス から派遣された総督 ( Governor-General of Australia )が、オーストラリア の最高権力者で したが、1975年 ( 昭和50年 ) には総督が首相を罷免 し、議会を解散 したこともありま した。あたかも イギリス の植民地であるかのように。

イギリス連邦 ( 旧称、The British Commonwealth of Nations )を構成する 一員と して、 母国への回帰 にも似た ヨーロッパ 文化圏、経済圏への仲間入り が、白豪主義を掲げる オーストラリアにとっては 長年の夢 で したが、 その 見果てぬ夢 が 三度にわたり 拒否された ことが原因で した

その結果 オーストラリア の主要産業である 酪農製品、羊毛、小麦などの輸出が事実上 ヨーロッパ市場から閉め出されたために 、これまで白豪主義のもとで 有色人種に対 して劣等人種とみな し、人種差別をおこない、 軽蔑の対象に してきた アジア諸国に対 して、 貿易による活路を求め、接近せざるを得なくなったという、 経済的事情が生 じたからで した

1975 年 ( 昭和 50 年 ) になってようやく( 有色 )人種差別禁止法を成立させ、表面上は白豪主義の看板だけは降ろ しましたが、人種的偏見は決 して消えたわけではありません。

反捕鯨運動に名を借りた日本人に対する 人種差別や偏見は、 アングロサクソン が主流である オーストラリア 人の心の中に深く刻み込まれたものです。

2005 年( 平成 17 年 )12 月 11 日、オーストラリア の シドニー において中東や レバノン 系の住民に対する白人による人種暴動が発生 しま した。五千人もの若者が集まり暴力や破壊がおこなわれま した。

ベトナム、中国などの アジア 系移民が増えるにつれて、彼らの人種的偏見は今後 機会を捉えて必ず 噴出する ものであることを、肝に銘 じる必要があります。

シドニー 人種暴動


白豪主義 オーストラリア


since H 28、Jan. 20

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