不平等条約


[ 1:米兵が犯した犯罪の捜査 ]

2009 年 11 月 7 日に 沖縄県 ・ 読谷村 ( よみたんそん )の 外間政和さん ( 66 ) 才が車にひき逃げされ死亡した事件が起きましたが、県警の捜査の結果、フロントガラスが破損した車が修理に出され、そこに付着した頭髪の DNA が外間さんのもとと一致したことから、事故車の持ち主の沖縄駐留 アメリカ陸軍の通信隊に所属する 2 等軍曹 ( 27 ) が何らかの事情を知っているとして任意の事情聴取を始めました。

米兵デモ

容疑者と面会した弁護士によれば、米兵は 「 人をはねて死に至らせたという認識は持っていない 」 と話したことを明らかにしましたが、 事件当日は休みで、 公務外だった ことが分かりました。

容疑者の身柄は米軍により拘束されているものの日本側には引き渡されず、米兵の弁護人が 13 日に那覇地検に対して取り調べの全面的な録音録画を申し入れましたが、それが受け入れられなければ容疑者は以後の取り調べには応じないとしていて、今日 ( 12 月 13 日 ) 現在 日本側は逮捕もできずに、任意の事情聴取は中断したままです。

アメリカ兵が公務外で犯罪を犯し日本人が被害者になっても、日本の法律に従い逮捕拘留することもできない現状に疑問を持つ人が多いと思いますが、オバマと 「 オザワ政権 」 の鳩山首相が唱えた 対等な関係 ( Equal Partnership ) の現実 とは、米軍による占領下終了 ( 講和条約発効、1952 年 ) から 57 年、沖縄の施政権返還( 1972 年 ) から 37 年経過しているにもかかわらずこの有様でした。

その原因は昭和 35 年 ( 1960 年 ) のいわゆる 60 年安保闘争 の際に結ばれた現行の日米安全保障条約に基づく地位協定の内容が、米国にとって非常に有利であり、日本側にとって不利なように規定されていることに原因がありますが、日本の歴代政権が地位協定の改定を怠たり、問題が起きる度にその場しのぎの対応をして来た結果でした。

地位協定第 17 条 5 項 C によれば、

日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員または軍属たる 被疑者の拘禁は 、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行うものとする。

とありましたが、日本人に関係のある犯罪で、被疑者である米兵の身柄を アメリカが確保した場合は、 たとえ公務外であっても 日本側が起訴するまでは、引き続き米軍側で拘禁し、取り調べには基地内から送迎車に乗って沖縄県警や那覇地方検察庁に 「 通う 」 状態なのです。しかも取り調べは最近まで 9 時〜 5 時の間で、土 ・ 日曜は休みでした。

[ 2:米兵による性犯罪発生数 ]

  平成 7 年 ( 1995 年 ) 9 月 4 日午後 8 時ごろ、沖縄の キャンプ ・ ハンセンに駐留する アメリカ海兵隊員 3 名が基地内で借りた レンタカーで、沖縄本島北部の商店街で買い物をしていた 12 才の女児小学生を拉致しました。小学生は粘着 テープで顔を覆われ、手足を縛られた上で車に押し込まれ、その後近くの海岸に連れて行かれ 3 名に強姦され負傷しました。

沖縄県警が犯人を割り出したものの被疑者である 3 名の、身柄を日本側に引き渡したのは起訴後であり、それまで米兵は基地内に事実上庇護 ( ひご ) されていたので、反米感情、反基地感情が高揚しました。

この事件に関連して アメリカの オハイオ州にある新聞、 デイトン ・ デイリー ・ ニューズ ( Daton Daily News ) の 1995 年 10 月 8 日 付 記事によれば、1988 年以降の米空軍 ・ 海軍 ・ 海兵隊の約 10 万件の犯罪記録を分析した結果から、1988 年 2 月から 1995 年 2 月までの 7 年間に、海外に駐留する海兵隊基地 ・ 海軍基地に所属する 米兵による 性犯罪 発生件数 について、日本駐留の米兵による犯行件数が最多であり、 ヨーロッパ諸国における性犯罪件数と比べて 大差がありました。


1988 年 2 月 〜 1995 年 2 月

順 位米兵駐留国名性 犯罪件数
1 位日  本216
2 位スペイン24
3 位イタリア16
4 位アイスランド12
5 位イギリス10


米兵による性犯罪件数について日本と外国と比較した場合、 スペインの 9 倍 、アングロサクソンの本家 イギリスの実に 21 倍 という非常に大きい違いがありますが、その原因は昭和 47 年 ( 1972 年 ) に沖縄の施政権が日本へ返還されるまで、米軍の軍政下にあったことによる米兵の優越感 ・ 特権意識と、日本人を 劣等な有色人種 ・ 敗戦国民であったとする 蔑視の現れ に他なりません。


[ 3:安政の 5 ヶ国条約 ]

ところで外国と結んだ不平等な条約は日米安保による地位協定が最初ではなく、幕末の時代から存在していました。安政元年 ( 1854 年 ) に 米国東洋艦隊司令官 ペリー の 2 度目の来航による威嚇に屈した日本は、 日米和親条約 ( 別名、神奈川条約 )を結び開国しましたが、これにより伊豆の下田、北海道の函館への アメリカ船の寄港が可能となり、薪 ・ 水 ・ 食料などの補給、下田に領事を置くことを認めました。この条約が日本にとっては最初の条約でしたが、不平等条約の第 1 歩になりました。

玉泉寺

和親条約に基づき初代駐日総領事の ハリスが伊豆の下田にある玉泉寺を領事館として着任しましたが、彼は幕府に対して両国の貿易に必要な 通商条約の締結を迫りました 写真は玉泉寺。

その当時 中国の清 ( しん ) 対 イギリス ・ フランス連合軍との間で アロー 戦争 ( 1856〜1860 年、第 2 次 アヘン戦争ともいう ) が起きましたが、清 ( しん、中国 ) が戦争に敗れ その結果 1858 年に英 ・ 仏 ・ 米 ・ 露と 天津条約を結び、1860 年に英 ・ 仏と北京条約を結び講和しました。

当時の日本も欧米列強からの侵略を受ける恐れもあったことから、貿易を求める米国の要求に抗しきれず、安政 5 年 ( 1858 年 ) に 日米修好通商条約 を結びました。

さらに アメリカだけでなく、オランダ ・ ロシア ・ イギリス ・ フランスの先進 5 ヶ国とも次々に条約を締結しましたが、この 5 ヶ国と結んだ条約のことを、一括して安政の 5 ヶ国条約と呼びます。

[ 4:不平等な条約の実態とは ]

この条約の問題点とは前述した 下田 ・ 函館に加えて神奈川 ・ 長崎 ・ 新潟 ・ 兵庫 ( 神戸 ) の開港と貿易の自由化に関することでは無く、

  1. 外国人に対する日本国の管轄権が及ばない、 治外法権 を認めた外国人居留地の設定。

  2. 領事裁判権 を認め ( 後述 ) 、

  3. さらに日本の 関税自主権 が奪われたこと ( 次項 ) にありました。

しかもこの不平等条約を徳川幕府が アメリカとだけ結んだのではなく、最恵国待遇 ( さいけいこくたいぐう、後述 ) を求める他の 15 ヶ国とも結んだ結果、外国との関係において日本は非常な不利益を蒙ることになりました。

  • { 4−1、関税自主権 ( Tariff Autonomy ) について }
    関税自主権とは国家が自らの主権に基づき自主的に関税制度を定め運営する権利のことですが、関税率は法律によって定められるのが原則です。関税は輸入品に対して一定の率の税をかけ、 自国の産業を保護すると共に税収の増加を図るもので 、輸入品はその税率の分だけ価格が引き上げられることになり、輸入国における市場競争力が低下します。

    幕末から明治初年にかけて欧米列強が未開国の日本に対して、一方的な条約により低い関税率を強制し関税自主権を事実上奪いました。

    慶応 2 年 ( 1866 年 ) に調印された改税約書によれば、 日本が外国から輸入する商品の全てについて 僅か 5 分 ( 5 パーセント ) の輸入関税 しか課すことができないにもかかわらず、逆に日本から輸出する商品には諸外国が自由に高い関税を課すことにより、日本からの輸出を事実上阻止できるという 屈辱的で不合理な 通商条約の内容 でした。

    明治 11 年 ( 1878 年 ) に外務省の上野公使が不平等条約改正のために、 イギリス政府に対しおこなった申し立てによれば、

    日本茶に対する イギリスの輸入関税は原価の 5 割 ( 50 パーセント ) であり、日本製の煙草に対する イギリスの輸入関税は実に 25 割 ( 250 パーセント ) という高率な輸入関税を イギリスは課している。

    とありました。

  • ( 4−2、領事裁判権 について )
    領事裁判権とは、領事などがその接受国 ( 受け入れた国 ) において、在住する自国民に関する民事 ・ 刑事事件の裁判をおこなう権利のことですが、19 世紀に欧米諸国が法制度の不備や文化的な違いから、 未開国 ( 非文明国 ) と見なしていた日本を含む アジア ・ アフリカ諸国でこの制度を実施しました。

    裁判官の資格も経験も無い外交官である領事がおこなう裁判とは、多分に政治的であり自国民保護の色彩が強く、裁判の公平性 ・ 中立性を欠き、 東京裁判と同様に    正義とは無縁 のものでした。ちなみに前述した日米修好通商条約の第 6 条によれば、

    日本人に対し法を犯せる アメリカ人は、アメリカ ・ コンシュル 裁斷所 ( Consular Court 、領事裁判所 ) にて吟味の上、アメリカの法度 ( はっと、法律 ) を以て罰すへし。

    アメリカ人に対し法を犯したる日本人は、日本役人 糺 ( ただす ) の上、日本の法度を以て罰すへし。

    とありましたが、分かりやすくいえば刑事 ・ 民事事件の裁判管轄については 属人主義を取り 、 外国人には 日本の法律が適用されない ということでした。その後安政年間に日本が イギリス ・ フランス ・ オランダ ・ ロシアとそれぞれ 2 国間で締結した通商航海条約には、 最恵国待遇 ( さいけいこくたいぐう、Most fabored Nation treatment ) の条項があったので、最も有利な地位にある第三国 ( これを最恵国と呼び、この場合 アメリカを指す ) の国民に対して日本が与えたのと同等な待遇を、他の条約締結国すべてに与えることになりました。

    生アヘン

    ところが明治 10 年 ( 1877 年 ) に横浜在留の イギリス人 ハートレー ( Hartley ) が、 生 アヘン ( Raw Opium gum ) 20 ポンド ( 約 9 キログラム ) を密輸入する事件が起きましたが、横浜税関に摘発されたので、税関長は横浜にある イギリス領事裁判所に ハートレーを告発しました。

    ケシ坊主

    ところが領事裁判では 「 密輸入した件 」 には触れずに、生 アヘンは薬品として輸入することができる。したがって被告人は無罪であるという判決を下しました。これこそが前述したように裁判の名に値しない正義 ・ 公平 ・ 中立とは無縁の 領事裁判の実態でした 。写真は未成熟の ケシ坊主に キズ を付け、そこから出る乳白色の液を集めて乾燥したものが、黒色の生 アヘンになります。

    これに味を占めた ハートレーは翌年 ( 1878 年 ) 1 月に再度 アヘン 12 斤 ( きん、7.2 キログラム ) を、色や形状が似ている生 ゴムの塊と共に箱の中に入れて密輸入しようとして再度発見されましたが、イギリスの領事裁判所は、この アヘンが吸引用か薬用か明らかにしなければ、告発を受理しないという回答をしました。

    麻薬

    ケシ坊主から採取した不純物が多い生 アヘンは、精製する程度に応じて吸引用にもなり、麻酔 ・ 鎮痛などの医薬用の モルヒネにもなりますが、さらに純度を高めれば強力な麻薬の ヘロインにもなります。写真の左側が ヘロイン、中央が モルヒネ、右側が精製度が低い アヘンです。

    領事裁判の判決では生 アヘンを密輸入した行為を 再度不問にして 、生 アヘンの用途が不明であるなどとして、 アヘン密輸の常習犯 ハートレーを かばい、生 アヘンを没収しただけした

  • ( 4−3、外国人居留地と治外法権 について )
    江戸時代初期の 1634 年に ポルトガルの貿易商人たちを居住させるために、長崎港内に扇形の人工島を埋め立てて 出島 を造成しましたが、ポルトガル船の来航禁止後は オランダ人の居住地となり、鎖国時代の交易に当たりました。

    それと同様に前述した安政 5 ヶ国条約により、外国人が開港場に居留地を設置することが可能となり、外国人の居住及び交易区域として一定地域が定められ、日本人商人との貿易は居留地内に限定されました。これが外国人居留地の始まりですが居留地内は日本の国家主権が及ばない治外法権が適用され、特に神戸居留地には 独自の警察隊さえ存在しました

    ちなみに神戸 ・ 横浜などの外国人居留地が日本に返還されたのは、不平等条約改正後の明治 32 年 ( 1899 年 ) のことでした。

[ 5:ヘスペリア号事件 ]

英語の クオランティン ( Quarantine、 検疫 ) とは イタリア語の 40 日間がその語源ですが、中世における地中海貿易の中心地 ベネチア ( Venezia、ベニス ) で、 ペスト ( 黒死病 ) の流行地から来た船舶を、40 日間港外に停泊させておき、船員 ・ 乗客の健康に異常が無いことを確認してから入港を許可したのがその由来でした。

伝染病などの予防のため、人 ・ 動物 ・ 植物 ・ 貨物などの診察 ・ 検査を行い、必要な場合には隔離 ・ 消毒 ・ 廃棄などの措置をとることが定められていますが、外来伝染病予防のため、海港 ・ 空港 ・ 国境などで業務をおこなうのが通例です。

ところで明治時代に日本で コレラが大流行して多くの患者が発生し、死者も出ましたが、その原因は日本における公衆衡生の立ち遅れだけでなく、外国船に対して日本が船舶検疫を実施しようとしても 不平等条約がもたらした検疫制度の不備 ・ 治外法権から、外国公使らの反対で検疫が実施できなかった ことも大きな原因でした。

明治 12 年 ( 1879 年 ) に神戸で コレラが大流行したため、神戸港に停泊中だった ドイツ船 ヘスペリア号の乗組員に対して日本の検疫所が検疫を要求しましたが、ヘスペリア号は日本側の要求を無視し、検疫を拒否して横浜に向けて出港しました。

横浜入港に際しても日本の検疫所による検疫を、 治外法権を理由に拒否した結果 、横浜で コレラの感染が拡大したといわれています。

検疫

ちなみに船舶の検疫方法には、検疫官が検疫海域で船舶に乗り込んで行う 臨船検疫 、荒天などにより指定した場所で船舶に乗り込む 着岸検疫 、最近では無線通信で検疫をおこなう 無線検疫 がありますが、今では 99 パーセントが無線検疫です。写真は臨船検疫で、検疫官が ボートから船に乗り込むところ。

[ 6:領事裁判、ノルマントン号事件の屈辱 ]

明治 19 年 ( 1886 年 )10 月 24 日、横浜居留地 36 番館にあった アダムソン ・ ベル汽船会社の所有船 ノルマントン ( Normanton 、1,533トン ) 号が、横浜から神戸へ向かう途中、紀州沖で暴風に遭い、暗礁に激突して沈没するという海難事故が起きました。

救命ボート

ところが船長 ウイリアム ・ ドレークは直ちに短艇 ( ボート ) を用意させましたが、上甲板にいた日本人船客及び、火夫 ( 蒸気缶を焚く係 ) として乗り組んでいた インド人や中国人下級船員 12 名を船に置き去りにして、他の ヨーロッパ人船員及び西洋人船客全員と一緒に ボートで安全に避難した結果、日本人船客全員 25 名が水死しました。( 日本外交文書第 19 巻 )

そのため、船長の行動に対して日本の社会では多大の疑惑を抱き、世論は激昂しました。

11 月 1 日、神戸駐在 イギリス領事 ジェームス ・ ツループ ( James Troup ) は、領事館内で現在の制度でいう、 海難審判 をおこない、ノルマントン号の難破の原因及び船長、機関士、水夫の行動について審問を開始し、その結果 11 月 5 日に船長、士官並びにその他 ヨーロッパ人水夫の処置に全く落ち度がなく、船客及び乗組員の救命に十分尽くしたものと認める旨判断しました。( 日本外交文書第 15 巻 ) 

これに対して日本人乗客が全員水死したのは外国人 ( 白人 ) により蔑視され、虐待されたから、このような悲惨な水死事故が発生したとして、国民の憤激は高まりました。

そこで日本政府は船長 ドレーク ( Drake ) を被告として横浜の イギリス領事裁判所に告訴し審理をした結果、船長 ドレークは自分 の職責 ( 下記 ) を怠り、日本人船客 25 名を死に至らしめたと判決を受け、禁固 3 ヶ月の軽い刑に処せられました。

[ 7:船長の最後退船義務 ]

私が 50 年以上昔の、海上保安大学の学生時代に習った 旧 船員法には、 船長の最後退船義務 が規定されていましたが、民間航空の機長になった昭和 43 年 ( 1968 年 ) 当時の航空法にも、飛行機の機長に対する 危難の場合の措置 の規定の中で、機長の避難行為を制限していました。改正前の航空法の正確な文言は忘れましたが、旧 船員法も恐らくこれと似たような内容だと想像します。

乗客の救助のために必要な手段を尽くし、機内にある者を 去らせた後 でなければ、 自己の指揮する飛行機を去ってはならない 。 

というものでした。おそらく海運先進国でした当時の英国の法律にも船長の最後退船義務があったはずなので、ドレークという男は船乗りの風上にも置けない卑劣な奴でした。

ところで昭和 44 年 (1969 年 ) に大型の鉱石運搬船 「 かりふぉるにあ 丸 」、34,000 総 トン と、昭和 45 年 ( 1970 年 ) に新造の鉱石運搬船 「 ボリバー 丸 」、33,800 総 トン が、 船体の長大化に当時の造船業界の強度計算が対応できずに、船体構造に強度不足を生じたことから、荒天のため相次いで野島崎東方海上で船体が 二つに折れて沈没する海難事故が起きました。

鉱石運搬船

その際に 「 かりふぉるにあ丸 」 の船長は退船を拒否して、沈みゆく船と運命を共にしましたが、写真は在りし日の、 かりふぉるにあ丸の姿です。

それまでも青函連絡船 洞爺丸 ( 1954 年 ) が台風により沈没した際や、宇野と高松を結ぶ宇高鉄道連絡船、紫雲丸が衝突事故 (1955 年 ) で沈んだ際も、船長は退船を拒否して殉職しました。そのため、船内に 1 人でも船員や乗客が取り残された / 閉じこめられた場合には、 船長の脱出を禁止する 非人道的な 最後退船義務規定の廃止 を日本船長協会から求められたので、当時の運輸省は昭和 45 年 ( 1970 年 ) に船員法の当該条文から 「 最後退船義務 」 を削除し、下記のように改正しました。

( 船舶に危険がある場合における処置 )第 12 条  

船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に、必要な手段を尽くさなければならない。

航空法についても ( 危難の場合の措置 )75 条 を下記のように改正しました。

機長は、航行中、航空機に緊迫した危難が生じた場合には、旅客の救助及び地上 ・ 水上の人又は物件に対する危難の防止に、必要な手段を尽くさなければならない

ところが外国の旅客機の機長や乗組員の中には、事故の際に乗客を避難誘導するどころか、 乗客よりも早く、われ先に飛行機から脱出した のがいましたが、 ここをご覧下さい

[ 8:マリア ・ ルス号事件 ]

19世紀になると人間を家畜扱いにする奴隷貿易はさすがに衰えましたが、イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが 1808 年、イギリスでの 奴隷制度の廃止 は1830 年代でした。その代わりに中国人、インド人などの安い労働力を必要とする北米、南米、カリブ海の植民地向けに クーリー貿易 が盛んになりました。クーリーとは中国語で苦力 ( 英語で、Coolie ) と呼ぶ下層肉体労働者のことです。

明治 5 年 ( 1872 年 ) 6 月 4 日、ペルーの帆船 マリア ・ ルス ( Maria Ruz ) 号が、支那人 ( しなじん、中国人の蔑称 ) の苦力 ( クーリー、 ) 225 人及び小使 12 人を乗せて中国の アモイから ペルーの カヤオ ( Callo ) に向かう途中、風波により破損した船体修理のため横浜に寄港しました。 6 月 9 日に支那人 ( 中国人 ) の船客 1 名が脱走し海に飛び込んで泳ぎ、イギリス軍艦 アイアン ・ デューク ( Iron Duke ) 号に救助されました。

その後同様な事件が引き続き起こったので、イギリス代理公使の ワトソンが調査したところ、同船は苦力 ( クーリー ) を奴隷として売買目的で輸送中であること、及び船客の支那人苦力 ( クーリー ) を航海中も奴隷状態にして虐待していることが判明しました。

そこで ワトソンから日本領土内における苦力虐待は許せないとして、日本政府の司法権発動と裁判を要求しました。副島 ( そえじま ) 外務卿 ( 大臣 ) が事実を調べさせ、神奈川県権令大江卓に命じて県庁内に法廷を開き、マリア ・ ルス号の出帆を差し止めた上で裁判をおこないました。

同様な事件として 1852 年に中国の アモイから サンフランシスコに向けて航海中の ロバート ・ バウン( Robert Bowne )号で、イギリス人船長がかつて 奴隷船でしていたように 、病気になった苦力 ( クーリー ) 2 名を 海に投げ込んだことから、航海中に クーリー の反乱が起きました。船長を初め 5 名が殺されましたが、船が沖縄の石垣島付近で座礁したことから、後にイギリス、アメリカの軍艦に報復され、クーリーが多数殺される事件が起きましたが別の機会に述べることにします。

外国人に対して日本の裁判が可能だった理由については、 ペルーとは外交関係がなく、したがって不平等条約による領事裁判権の適用外だった からでした。

裁判の結果、支那人苦力への虐待は不法行為であるとして彼らを解放させ、船長 ヘレロー ( Herelio ) は情状を酌量して無罪とする判決を下しましたが、船長は マリア ・ ルス号を放棄して ペルーへ帰国することになり、苦力たちは迎えに来た清国の役人と 一緒に支那 ( 現、中国 ) へ帰りました。

[ 9:不平等条約の改正 ]

明治新政府が発足後に直面した最大の外交課題は、前述した 5 ヶ国との安政条約をはじめ、合計 16 ヶ国にのぼる諸外国と締結した不平等条約の改正でした。政府がこれらの条約を 独立国の体面上および国の実益上から 、放置することができないとしたのも当然のことでした。

一般に国相互の取り決めである条約の失効については、有効期限の定めのある場合は期限の満了により、あるいは一方が申し出をすることにより廃棄できるのが原則ですが、日本が結んだ条約では改正方法についても日本にとって極めて不利なものでした。すなわち

1 年前の予告を条件に、しかも 明治 5 年 ( 1872 年 ) 以後 にならないと、改正交渉ができないことになっていたので、たとえば 1858 年に締結した日米修好通商条約は、 14 年間も日本側にとって不利な状態のままで存続することになりました。

明治天皇は明治元年 ( 1868 年 ) に不平等条約の改正が開国第 1 の事業であることを示す勅語を発布し、明治政府は直ちに条約改正事業に着手しました。そこで駐日 イギリス公使 パークスを初め各国公使宛に条約改正期日に関して下記のように通告しました。

貴国と取り結び置き候条約書の儀も現今に至り候ては幾多の変遷より名実 不当の廉 ( かど )有之( これあり )、竄定( ざんてい、文字の書き改めを )致度条件不少候間( いたしたき じょうけん すくなからずそうろうあいだ )、未だ右改訂の年期に不及候得共 ( およばずそうらえども )、今より数月を出ず御相談に取り掛かり度 ( たく ) 存じ候


[ 10:条約改正の カギは イギリスの態度 ]

その当時から不平等条約改正の カギは、 イギリスが握っていました。その理由は当時 イギリスが世界における最大の強国であり、最大の海軍国 ・ 海運国であると共に、アジアには多数の植民地を支配していました。日本においても イギリスの貿易量は他国を遙かにしのぎ、文久 3 年 ( 1863 年 ) の資料によれば、横浜にある 32 の貿易商館の中で 16 が イギリスの商館でした。さらに 300 名の外国居留民の中で、140 名 ( 47 パーセント ) が イギリス人でした。

長崎港明治初年

同年に横浜に寄港した 170 隻の外国船のうち 100 隻 ( 59 パーセント ) が イギリス船籍であり、同港の総貿易額 1,400 万 ドルのうち、1,100 万 ドル、 78 パーセントが イギリスとの貿易によるものでした 。ちなみに第 2 位の アメリカは僅かに 100 万 ドル、率にして 7 パーセントにしか過ぎませんでした。

ドイツ、フランス、オランダに至っては遙かに少なく、したがって不平等条約改正に関しては イギリスが最大の利害関係を持ち、発言権を持つたのも当然のことでした。写真は明治初期の長崎港の様子で、背の高い帆船 ( 機帆船 ) がかなり見られます。

[ 11:アジア情勢の変化が味方 ]

鹿鳴館

鹿鳴館 ( ろくめいかん ) 時代という言葉がありますが、鹿鳴館とは現在の東京都千代田区内幸町 ( うちさいわいちょう ) に、明治 16 年 ( 1883 年 ) に建てられた 2 階建て洋風建築の建物で、内外の上流階級向けの社交 クラブのことでした。

当時の外務卿 ( 外務大臣のこと ) 井上 馨 ( かおる ) が、 不平等条約改正のために、日本が未開国から脱皮したことを示すために極端な欧化主義をとり、欧米の社会習慣の模倣をして、鹿鳴館で日本政府の高官や華族、欧米の外交団などが日夜宴会 ・ 舞踏会 ( ダンス ・ パーティー ) などを催しましたが、努力の割りには効果はあまり上がりませんでした。

鏡に映る猿

左図は フランスの風刺漫画家 ビゴー ( 1860〜1927 年 ) が描いた鹿鳴館の舞踏会に出席する日本人の紳士、淑女ですが、鏡を見るとそこに映っていたのは 猿まねの ( モンキー ) という、痛烈な風刺画でした。

明治 2 年 ( 1869 年 ) 以来の国を挙げての不平等条約改正の努力に天が味方したのか、明治 24 年 ( 1891 年 ) に露仏同盟 ( ロシアと フランス ) が成立した結果、ドイツに対する ロシアの軍事的不安が減少しました。

シベリア鉄道図

そこで ロシアは東方への領土拡大政策に重要な役割を果たす シベリア鉄道建設工事に積極的に乗り出しましたが、 それによる アジア侵出の事態を見た イギリスは、自国の アジアにおける権益確保のために日本との関係改善を図ることにして、それまでの条約改正拒否の 「 かたくなな態度 」 を変更し、日本との条約改正交渉に応じるようになりました。

その際の日本側における交渉の基本方針とは、

  1. 新条約の条項は総て 相互主義に依ること 。ついては従来許諾 ( きょだく、許していた ) せし所の片務的条款 ( 日本側のみに履行義務を負わせる条文 ) 、及び規定は総て之を 廃棄すること

  2. 領事裁判権は条約実施の日より 消滅に帰し 、而 ( しか ) して之と同時に ( 日本 ) 帝国政府は外国人に対して商業、旅行及び住居の為に全国を開放すること。

  3. 不動産所有の件は、内国法律 ( 日本の法律 ) に任すこと。

  4. 外国人居留地は もはや治外法権の適用地域ではなくなり、日本市区に編入せられるべく、而して現在の永代借地権は明らかに確認せられるべきこと。

  5. 関税については

    • 重要なる輸入品に限り、約定税目を定むること。( つまり関税自主権の一部を回復し、重要品目の片務的協定税率を残す )

    • その他の物品は、普通 国定税目に依って課税すること( 日本の判断で関税率引揚げを実現する )。

    • 通商事項に関し、 ( 日本に対しても相互に ) 最恵国待遇を確保 すること。

      以下省略

そこで日本側の提案を受け入れ、 明治 27 年 ( 1894 年 ) に日英通商航海条約は ロンドンにおいて調印され 、不平等条約改正の第 1 歩となりました。次いで米国、ドイツの順に条約改正がおこなわれました。

上記の結果から関税自主権については一部を回復したものの、全面回復には至らず、完全に関税自主権を回復したのは清 ( しん、中国 ) との日清戦争 ( 1894〜95 年 ) 、ロシアとの日露戦争 ( 1904〜05 年 ) に勝利した後のことでした。

それまで未開の有色人種国とさげすんでいた日本が、富国強兵政策により 軍事力増強 と国の 近代化 を唯一 アジアで果たし、 産業資本を蓄積 したこと を白人国家群が認めざるを得なくなりました。その結果 不平等条約に残っていた 関税自主権の完全回復 が明治 44 年 ( 1911 年 ) におこなわれましたが、実に 42 年の長い年月を要しました

日英同盟

その間に アジアにおける権益確保に懸命な イギリスとの間で、明治 35 年 ( 1902 年 ) に日英同盟を結びましたが、これにより ロシアの アジアにおける南下進出を牽制し、中国 ・ 朝鮮における日英両国の権益を保護するのが狙いでした。

風刺絵では イギリスの権益を守る為に ロシアに対して、日本に軍事的防波堤の役目をさせていましたが、この同盟は大正 10 年 ( 1921 年 ) ワシントン会議における 4 ヶ国 ( 日 ・ 米 ・ 英 ・ 仏 ) 条約により アジアにおける列強の勢力関係が定まったので、翌年に廃棄されました。

[ 12:侵略されるか、不平等条約締結か ]

19 世紀の アジアはまさに帝国主義 ( Imperialism ) の時代であり、力の強い国が未開国や弱小国の領土を奪い植民地とし、あるいは権益拡大を目指してさまざまな活動をおこないました。

幕末の日本にとっても前述した ペリーの黒船来航 にみられるように、開国要求に応じなければ武力侵略を受ける危険な時代でした。しかし 孝明天皇を初め公家などの攘夷派は 世界情勢や日本の軍事力の遅れに 無知で 攘夷どころか 欧米列強と 戦えば勝ち目のない事態を 理解できませんでした。それを抑えて、幕府 ( 大老井伊直弼 ) が開国の道を選択したことは、日本の将来にとって賢明な判断でした。

砲撃の後の死体

写真は アロー戦争 ( 1856〜1860 年 ) の際に天津 ( てんしん ) の南東にあった大沽 ( タークー ) の陣地ですが、イギリス軍の砲撃により破壊され清兵の死体が散乱していました。欧米列強との不平等条約の改正までかなりの年数が掛かったものの、清 ( しん、中国 ) のように軍事侵略される事態に比べれば、計り知れない利益を国民にもたらしました。

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