ペ リ ー の 黒 船

[ 1 : 黒 船 とは ]

米国 東 イ ン ド 艦隊司令官 ペリー准将 ( C o m m o d o r e - P e r r y )が 率 いて日本 にやって来た 軍艦 のことを、 黒 船 と 呼 んでいたので 鉄 製 の 船 と 思って いる人が ほとんどですが、実は 当時の 黒 船 すべてが 木 造 船 で した

黒船と 呼ばれた 理由 につ いては、木造船の 外 板 に 日本 では 未だ 知 られて いなかった、コール ・ タール ( C o a l- t a r ) 系 の 腐 食 防 止 剤 を 塗 って いたので、船体 が 黒 く見 えたからで した。

サスケハンナ

黒船 につ いて更 に 誤 解 がありま したが、それまで見 たこともない 煙 突 から 黒 い 煙を 吐き出す 蒸 気 エ ン ジ ン を 備 えて いた 船 は、ペ リ ー 艦隊 の 中 でも 僅 か 数 隻 に 過 ぎ ず 、それ以外の 船 は 全 て 帆 船 で し た

蒸気船 につ いても、なぜか 帆走用 の 三 本 マ ス ト に 横 帆 ( お う は ん )、縦 帆 ( じ ゅ う は ん ) まで 装備 して いま したが、それだけではな く 水車 のような 形を した 外 輪 を 両 舷 に 持 つ、 帆 走 兼 用 の 外 輪 船 で し た 。絵 図 は ペ リー が 初 めて 来航 した時 の 旗 艦 となった、 サ ス ケ ハ ナ ( S u s q u e h a n n a )です。


[ 2 : 船 舶 用 蒸 気 エ ン ジ ン の 発 明 ]

人 類 が 初 めて 手 に 入 れた人工 の 動 力 は 2 千 2 百年 前 の 水 車 であり、それから 1 千年 遅れて 風 車 が 発明 され、その次は 蒸 気 エ ン ジ ン で した。

この エンジン を 最初 に 実用化 したのは イギリス の 発明家 トーマス ・  ニューコメン  ( N e w c o m e n、1 6 6 3 〜 1 7 2 9 年 )  で 1 7 1 2 年 の ことで したが、この ニ ュ ー コ メ ン ・ エ ン ジ ン は 鉱 山 の 排 水 ポンプ の 動 力 として 広 く 使 用 されま した。

その後 1 7 6 9 年 に ス コ ッ ト ラ ン ド の 技術者 であり 発明家 で した ジ ェ イ ム ズ ・ ワ ッ ト ( J a m e s - W a t t 、1 7 3 6 年 〜 1 8 1 9 年 ) が、真 空 圧 を 利 用 した 蒸 気 エ ン ジ ン を 発明 し、その 後 の 蒸 気 エンジン の 発 達 に 貢 献 しま した。

蒸気エンジン画

ワ ッ ト の 重要な 発 明 のひとつは、一 度 動 力 源 と し て 使用 した 蒸 気 を 再 び 回 収 して、 復 水 器 ( コ ン デ ン サ ー、C o n d e n s e r ) で 冷 却 し て 水 に 戻 す と い う、水 の 再利用 が 可能 な 蒸 気 エ ン ジ ン の 付 属 装 置 の 開 発 で し た。

これによって 水 の 補 給 が 得 ら れ な い  洋 上 を 長 期 間 航 海 する 船 にも、蒸 気 エ ン ジ ン の 搭 載 が 可 能 になりま した 

給水塔

ちなみに 昔 J R で 使用 されていた 蒸 気 機 関 車 に は 復 水 器 が 無 く、 ピ ス ト ン を 動 か して 動 輪 を 回 転 させた 蒸気 は 回 収 せずに 外 気 に 放 出 したため、2 百 キ ロ 前 後 の 距 離 を 走 る 毎 に 、機 関 車 後 部 の 水 タ ン ク へ の 給 水 が 必 要 になり、所 定 の 駅 に 停 車 中 に 給 水 塔 から 給 水 し ま し た。

クラーモント

1807 年 には 米国 の 発明家 ロ バ ー ト ・ フ ル ト ン が 、船 に 2 0 馬力 の 蒸 気 エ ン ジ ン を 搭 載 して、排水量 約 80 トン の 外輪式 蒸気船 ク ラー モ ン ト 号を 建造 し、ニューヨーク の ハ ド ソ ン 川 で ニューヨーク 〜 オ ル バ ニ ー 間 の 商業運航 を開始 しま したが、これが 実 用 的 な 蒸 気 船 の は じ ま り で した。

上 の 写真 は ク ラーモ ン ト 号 ですが、外輪船 の 特 徴 である パ ド ル ・ ホ イ ー ル ( P a d d l e - W h e e l 、 水 掻 き 車 ) の 様 子 が 分 かります。


[ 3 : 外 輪 船 ]

外輪車

ペ リー の 蒸気艦 を含 めて 初期 の 推進装置 は、前 述 した 如 く 船 の 中央 両舷 に 写真 の 様 な 外輪 ( P a d d l e - w h e e l ) を 装 備 した 外輪式 で したが、これは 水 車 からの 連 想 で ご く 自然 に 作 られたもので した。

外輪を 装 備 した 船 も次第 に 大型化 され、軍艦 では 1 8 4 5 年 に 建 造 された イ ギ リ ス 海軍 の テ リ ブ ル が 3 , 1 8 9 ト ン 、ペ リー が来航 した 際 の 旗 艦 となった 1 回目 の サ ス ケ ハ ナ が 3 , 8 2 4 トン 、2 回目の ポ ウ ハ タ ン が 3 , 8 6 5 ト ン で 外輪式 では 最大級 のもので した。

外 輪 の 直 径 が テ リ ブ ル では 1 0.3 6 メ ー ト ル、サ ス ケ ハ ナ、 ポ ウ ハ タ ン で は 9 .4 5 メート ル と いう 巨大 なもので した。

川船

外輪船 には 2 種類 の タイプ がありますが、一 つ はこれまで 述 べ た 如 く 船体の 両 舷 に 外 輪 ( S i d e - P a d d l e - w h e e l ) を 装 備 したもので、外輪 の 回 転 は 1 分間 に 1 2 回 転 前 後 と い う ゆ っ く り し た ス ピ ー ド で 回 り ま し た。外 輪 の 先 端 に は フ ロー トと 呼 ばれる 水 かき 板 が 取 り 付 け ら れ て い て、これで 水を 掻 いて 船を 動 か しま した。

他 の タイプ の ものは 船 尾 に 外 輪 を 持 つ ( S t e r n - P a d d l e - w h e e l ) ですが、波が 穏 やかな 湖 水 や 河 川 で 使 用 し、今 も アメリカ 各地で 観光用 に 使用 されて い ま す。日本でも 琵琶湖 に 浮 か ぶ 遊 覧 船 の ミ シ ガ ン は、こ の タ イ プ です。写真 は ミ シ ガ ン。

ところで 帆装 蒸気艦 が エ ン ジ ン を 止 めて 風 の 力 で 帆走する 際 には、水かき 板 をそのまま に してお く と 水 の 抵 抗 で 速度 が 落 ちるので、これを 取り 外 しますが、こ の 作業 は 海 が 穏 やかな 時 に しかできず、しかも 数時間 を要 しま した。

ペ リ ー の 「 日 本 遠 征 記 」 によると、当時 イ ギ リ ス の 軍 艦 には 外 輪 の 回転軸 と 蒸 気 エンジン の 駆 動 軸 との 接 続 を、簡 単 に 脱 着 できる 装置 が つ いて いて、わずか 数 分 で 外 輪 を 空 転 、空 回 りさせることが 可 能 となり、水 かき 板 を 取 り 外 さな くても 済 むよう な優 れた 構 造 になって いま した。

標的

しか し 外 輪 艦 には 軍 艦 にとって 致 命 的 な 欠 点 がありま した 。ペ リ ー 来 航 の 年 に ロ シ ア が 南 下 政 策 を 積 極 化 させ、オ ス マ ン 帝 国 に 宣 戦 しま した。

これに 対 して 、イ ギ リ ス と フ ラ ン ス 及 び サ ル デ ー ニ ャ が オ ス マ ン 帝 国 を 支 援 し、 ク リ ミ ア 戦 争 ( 1 8 5 3 年 〜 1 8 5 6 年 )が 勃 発 し ま した。

主 戦 場 は ク リ ミ ア 半 島 で 、陸 上 戦 争 でも 海 戦 でも ロ シ ア が 敗 北 し 、パ リ 条 約 で 講 和 が 結 ばれ 、オ ス マ ン 帝 国 の 領 土 は 保 全 さ れ、ロ シ ア の バ ル カ ン 方 面 で の 南 下 は いったん 抑 え ら れ ま し た。

ロ シ ア と の 海 戦 の 際 に 、「 む き 出 し の 外 輪 」 が 敵 の 砲 撃 の 絶 好 の 目標 になったことで、外 輪を 破 壊 されて 航 行 不 能 となった 軍 艦 が 続 出 し、実 戦 における 構 造 上 の 欠 陥 を 露 呈 し ま し た。

それ 以 外 にも 荒 天 時 に 艦 が ロ ー リ ン グ ( R o l l i n g 、横 揺 れ ) すると 一 方 の 外 輪 が 空 中 に 出 て し ま っ た り、波 に 叩 か れ て 破 損 する 欠 点 もありま した。


[ 4 : 3 本 マ ス ト の 蒸 気 艦 ]

サスケハナ

ペ リ ー 艦 隊 の 蒸気艦 は 蒸 気 エンジン を 装 備 して いたにもかかわらず、なぜ 帆走用 の 3 本 マスト を 装備 して いたので しょうか?。その当時 は 米国製 の 蒸気 エンジン の信頼性 や 性 能 に 問 題 があったこと。

外輪式の 推 進 効 率 が 悪 く、そのうえ 蒸 気 エ ン ジ ン だけで 大 西 洋、太 平 洋 横 断 をするのに 必 要 な 燃 料 や、水 の 搭 載 ができなかったことがその 理由 で した。

米 国 海 軍 では 1852 年に 建 造 された ポ ウ ハ タ ン ( P o w h a t a n ) が 航洋艦 と しては 最後 の 外輪式 で、 これ 以後 建造 されたものは 全 て ス ク リ ュ ー 推 進 式 となりま した 。写真 は ポ ウ ハ タ ン と 同型 の サ ス ケ ハ ナ。

ちなみに 蒸気 エ ン ジ ン のみで 初 めて 大西洋 を 横断 した船は、英国で建造された 203 トン、320 馬力 の 外輪船 シ リ ウ ス 号 で した。1838 年 4 月 ア イ ル ラ ン ド の コーク 港を出港 した シ リ ウ ス 号 は、平均 ス ピ ード 6.7 ノ ッ ト ( 秒 速 3.35 メートル ) で、18 日と 10 時間 を 費 や して、ニ ュ ー ヨ ー ク に 着 きま した。

前述 の 如 く 開発 されたばかりの 蒸 気 エンジン は 信 頼 性 が 十 分 でななかったため、シ リ ウ ス 号 も フ ォ ア マ ス ト ( 前 方 の 帆 柱 ) には 横 帆、メ イ ン マ ス ト ( 主 帆 柱 ) には 縦 帆 を 備 えて いま した。


[ 5 : 軍 艦 同 士 の 綱 引 き ]

あるとき イ ギ リ ス 海 軍 では 蒸 気 艦 の 新 規 建 造 をするに 際 して、推 進 装 置 と して 従 来 からの 外 輪 式 にするのか、新 たに 開 発 された ス ク リ ュ ー 式 にするのか 議 論 が 分 かれま した。

1 8 4 3 年 に イ ギ リ ス 海軍 初 の スクリュー式 軍 艦 の ラ ト ラ ー ( 1,112 ト ン、200 馬力、砲 5 門 ) が 進水 しま したが、ラ ト ラ ー にはいろいろな 種類 の プ ロ ペ ラ を取り 付 けて 性能 の比 較 テ ス トを 実施 しま したが、最終的 には 2 枚 羽 根 で 直 径 9 フィート ( 2.7 4 メートル ) のものが 採用 されま した。

次に ス ク リ ュ ー 方式 と 従来の 外 輪 方 式 との 推 進 性 能 の 優 劣 を 決 めるために、ほぼ 同 じ 大 きさである 外 輪 艦 の ア レ ク ト と 綱 引 き をさせて 決 めることに しま した。

1 8 4 5 年 4 月 3 日に 外輪艦 ア レ ク ト と ス ク リ ュ ー 艦 の ラ ト ラー が、互 いの 艦 尾 を 網 で 結 んで 引 き 合 う 勝負 を しま したが、この 2 隻の 艦 の 大きさはほぼ 同 じで、出力 も 同 じ 200 馬力 で した。

綱引き

勝負の 結果 は、ラ ト ラー が 平均 2.5 ノ ッ ト ( 秒 速 1.3 メ ー ト ル ) で 外輪式 の ア レ ク ト を 引っ張 りながら 前進 して、ス ク リ ュ ー 式 の 優 秀 性 を 実 証 しま した。以後は ス ク リ ュ ー 式 蒸気艦 を 建 造 することに決 めま したが、外輪艦 が 持つ 砲撃 に 対 する 致 命 的 な 欠 陥 も 当然 考慮 されま した。写真の左側が 勝利 した スクリュー艦の ラ トラー。


[ 6 : 黒 船 の 一 番 手 は ビ ッ ド ル ]

黒船 といえばすぐに ペ リ ーを連想 しますが、実は 彼 よりも 7 年も早 い 時期 に 江戸湾 入り口 の 浦賀沖 に 現 れた 2 隻 の 黒船 がありま した。

弘化 3 年 ( 1846 年 ) 7 月 20 日 に 突然 2 隻 の 黒船 が 現れま したが、これは アメリカ 東 イ ン ド 艦隊司令官の ビ ッ ド ル 准将 ( C o m m o d o r e - B i d d l e ) が、 旗 艦 コ ロ ン ブ ス ( 2,480 ト ン、 帆船 、大砲 [ 3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲弾重量 15 Kg ) 6 8 門、4 2 ポ ン ド 砲 ( 砲弾重量 1 9 Kg ) 2 4 門 装備 ] に乗り、ヴィンセンス ( 7 0 3 ト ン、帆船 ) を伴 い、清国 ( し ん ) と 修好通商条約 の 批准書交換 を 終 えて 帰 国 の 途中 に、政府 の 命令に 基 づき 日本 との 通 商の 可能性 を 打 診 するために、 浦賀 に立ち 寄 ったのでした。

ビッドル艦隊

2 隻が 投錨 すると 、日本 の 多数 の 小舟 や 軍 船 に 周 囲 を 包 囲 されま した。乗組員 の 上陸 は 拒 否 され 、幕府と 通商交渉 をするという 目的 は 達成 できずに、9 日後 に 退去 せざるを 得 な くなりま した。

浦賀奉行 によれば 日本側 の 海岸防備 は 極 端 に 劣 り、湾口 に 配備 して いた 大砲 の 数 は、2 艦 が 持 つ 大砲数 の 僅 か 9 分 の 1 に 過 ぎな いと いう 事実 が 判 明 しま した。上 の 絵 図 で 中央 の 船 が 旗 艦 の コ ロ ン ブ ス です。


[ 7 : オ ラ ン ダ 風 説 書 ( ふ う せ つ が き )]

ペ リー の 黒 船 は ビ ッ ド ル 来航時 のように 突 然 日本 に 現 れて 幕府 を 驚か せ た の で は な く、実 は 長 崎 に 入 港 した オ ラ ン ダ 船 がもたら した オランダ 風 説 書 ( ふ う せ つ が き、注 参 照 )や、中国の 貿 易 船 に よ る 唐 船 風 説 書 か ら の 情 報 により、アメリカ 政府 が 日本に 遠 征 艦 隊 を 送 る 計画 であることを、幕府首脳 は 一 年 も 前 か ら 知 っ て い ま し た

そのために 時の 江戸幕府 の 老中、阿部正広 は 江戸湾 の 防 禦 強 化 を 計 ろうと しま したが、幕府の 財 政 逼 迫 ( ひっぱく )を 理由 に 反 対 を 受 けて 計画 が 進まないうちに ペリー 艦隊 の来 航 を 迎 えま した。

注:)
オランダ 風 説 書 ( ふ う せ つ が き ) とは 江戸時代 に、オ ラ ン ダ 船 がもたらした 海外情報 を オ ラ ン ダ 商館長 がまとめ、通 詞 ( つ う じ、通 訳 ) が 和訳 して 幕府 に 提出 したもので、世界情勢 を 知 る上で 数 少 な い 手掛 かりとなりま した。1 8 5 2 年 6 月に 長 崎 出 島 の オランダ 商館長 が 交 代 した際 に、新商館長 が 提出 した 別 段 風 説 書 に よ れ ば

北 アメリカ 共和政治 の 政府 が 日本に 使 節 を 遣 わ して、日本 皇帝 に 書 簡 を 送 り、日本人 漂 流 民 を 送 還 すること、日本港 の 内 2〜3 箇所 を、北 アメリカ 人 交易 の 為に 開 きた く。

且 つ 日本港 の 都合 宜敷 ( つ ご う よ ろ し き ) 所 に 石炭 を 貯 え 置 くことを、カリフォルニア と 唐国 と 蒸気船 の 通路 に 用 いた く 願 い 立 てるであろうこと。

という 内容 で した。


(7−1、傍 若 無 人 の 振 る 舞 い )

黒船

風説書 が 予告 した 通り 、嘉永 6 年 ( 1 8 5 3 年 ) 年 の 7 月 8 日 ( 旧暦では 6 月 3 日 )、ア メ リ カ の ペ リ ー が 黒船 4 隻を 率 いて 江戸湾 の 入り口 の 浦 賀 沖 に 現 れま した。

その後 ペ リー は 徳川幕府 の 制 止 を 無視 して 黒 船 を 江戸湾 深 く 侵 入 させて 測 量 を おこな い、大 砲 の 空 砲 を 撃 ち、武装兵士 を ところどころで 上 陸 させるなど 傍 若 無 人 ( ぼ う じ ゃ く ぶ じ ん ) の 振 る 舞 いを し、江戸幕府を 威嚇 しま したが、そのため 江戸市中も 大混乱 しま した。

半 鐘 を 打 ち 火 事 羽 織 ( か じ ば お り、火 事 装 束 に 用 い た 羽 織 ) の 徒 ( と )を 集 め、町 人 足 ( まち に ん そ く )を 駈 け 催 し( 諸 方 より 人 を 探 し 集 める)−−−。

の状態 となりま したが、海上では 会津藩 ・ 忍 ( お し ) 藩の 藩 兵 が 警 備 し、陸上 では 彦根藩 ・ 川越藩 の 藩 兵 が 警 備 に当 たりま したが、ペ リ ー 艦 隊 は 番 船 ( 警 備 船 )を 寄 せ 付 け ず、 幕 府 役 人 の 制 止 、指 示 を こ と ご と く 無 視 し、好 き 勝 手 に 行 動 し ま し た

1 年も前から 情報 を 得 て いたにもかかわらず、危機管理 能力 に 欠 けた 幕府 はうろたえただけで、無為無策 ( む い む さ く ) の 状態 で した。 ペ リ ー は 幕 府 の 弱 腰 を 見 抜き 、威 嚇 ( い か く ) の 手 段 を 多用 し て 艦隊を長崎 へ 回航 する 要求 や 幕府 の 制止 をことごと く 退 けて、修 好 通 商 を 求 める フ ィ ル モ ア 大統領の 親 書 を 久里浜 にお いて 浦賀奉行 に 受け 取らせ、来 年 の 来 航 を 約 束 したうえで 7 月 12 日に 退去 して ホ ン コ ン に 向 か いま した。


太 平 の 眠 りを 覚 ます上 喜 撰 ( じ ょ う き せ ん )、たった 四 杯 で 夜 も 眠 れ ず

ア メ リ カ が、来 ても 日本 は つ つ が な し

という 狂歌 が 有名 ですが、ちなみに 上 喜 撰 ( じ ょ う き せ ん )とは 上 質 な 煎 茶 ( せ ん ち ゃ )の 銘 柄 ( ブ ラ ン ド 名 ) のことで 蒸 気 船 の 意味 に 掛 けたのであり、四 杯 とは 黒 船 4 隻 に 掛けて いま した。

つ つ が ( 恙 ) な い は 平 穏 無 事 の 意 味 ですが、 江戸湾 入り口 の 浦賀付近 を 除 き、江戸湾 内 部 には 沿 岸 防 備 用 の 大 砲 の 「 筒 」 が 無 い 意味 を 掛 けて いま した。

黒船艦隊

ところでこの 狂歌 を 調 べてみると、伝 えられている 如 く ペ リー 来航 の 際 に詠 まれたものではな く、実 は font size="4" color="#0000FF"> 後 年 に な っ て 作 ら れ た も の で し た。

この狂歌 の 出典 は ペ リ ー が 来 航 して 2 5 年後 の、明 治 11 年 ( 1 8 7 8 年 ) に 完 成 した 武 江 年 表 ( ぶ こ う ね ん ぴ ょ う ) ですが、狂歌 の 作者 の 斉 藤 月 岑 ( げ っ し ん 1 8 0 4 〜 1 8 7 8 年 ) は 江戸 ・ 神田 雉子町 ( き じ ち ょ う ) の 町 名 主 を 勤 め 、著 述 家 と して 「 武 江 年 表 」 や 「 増 補 浮 世 絵 類 考 」 など 他 にも 多 くの 著 作 があり、江戸 末期 を 代 表 する 時代 考証家 と して 有名 で した。

4 隻 の 黒船は 合計 で 3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲 弾 重 量 15 Kg ) 以上を 6 4 門 装備 して いま したが、江戸湾 の 浦賀 周辺 には 大砲 が 9 9 門 配備 されて いたものの、その 内 3 2 ポ ン ド 砲 以上は 僅 か 1 9 門 で、しかも 大砲 の 射程距離 は 黒船 の 半分 以下 で した。

ペ リ ー は 前任者 の ビ ッ ド ル に 欠 けて いた 断 固 と し た 決 意 や、相 手を 怖 がらせる 蒸 気 エ ン ジ ン の 軍 艦 を 持 って いま した。

江戸幕府 の 首脳 や 武士達 は 2 5 0 年間 太平 の 夢 を むさぼ り、実 際 の 戦争 を し た 経 験 がな く、時代 遅 れの 大 砲 で は 黒 船 の 最 新 の 大 砲 には 到 底 歯 が 立 たず、ペ リー の 要 求 に 応 じる 以外 方法 が な い ことを 悟 りま した。


[ 8 : ペ リ ー 艦 隊 の 内 訳 ]

[ 第 1 次 来 航 ]、嘉 永 6 年 ( 1853 年 ) 7月 ( 旧暦 6 月 6 日 )
  • 旗 艦 サ ス ケ ハ ナ ( 帆 装 蒸 気 艦 、排 水 量 3 , 8 2 4 ト ン、乗 組 員 3 0 0 名、8 イ ン チ 砲 6 門、10 イ ン チ 砲 3 門 )

  • ミ シ シ ッ ピ ィ ( 帆 装 蒸 気 艦 、排 水 量 3 , 2 2 0 ト ン、乗 組 員 2 6 0 名、8 イ ン チ 砲 8 門、10 イ ン チ 砲 2 門 )

  • サ ラ ト ガ { 帆 船、排 水 量 8 8 2 ト ン、乗 組 員 2 1 0 名、8 イ ン チ 砲 4 門、3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲 弾 重 量 1 5 Kg )、1 8 門 }

  • プ リ マ ス { 帆 船、排 水 量 9 8 9 ト ン、8 イ ン チ 砲 4 門、3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲 弾 重 量 15 Kg )18 門 }。



[ 第 2 次 来 航 ]、嘉 永 7 年 ( 1 8 5 4 年 ) 2 月〜3 月

  • 旗 艦 ポ ウ ハ タ ン ( 帆 装 蒸 気 艦 、排 水 量 3 , 8 6 5 ト ン、乗 組 員 3 0 0 名、8 イ ン チ 砲 6 門、10 イ ン チ 砲 3 門 )

  • 随 伴 艦 サ ス ケ ハ ナ ( 帆 装 蒸 気 艦 、排 水 量 3 , 8 2 4 ト ン、乗 組 員 3 0 0 名、8 イ ン チ 砲 6 門、10 イ ン チ 砲 3 門 )

  • ミ シ シ ッ ピ ー ( 帆 装 蒸 気 艦 、排 水 量 3 , 2 2 0 ト ン、乗 組 員 2 6 0 名、8 イ ン チ 砲、8 門、10 イ ン チ 砲 2 門 )

  • マ セ ド ニ ア ン { 帆 船、排 水 量 1,341 ト ン、乗 組 員 380 名、8 イ ン チ 砲、6 門、3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲 弾 重 量 15 Kg )1 6 門 }

  • ヴ ァ ン ダ リ ア { 帆 船、排 水 量、7 7 0 ト ン、乗 組 員 1 9 0 名、8 イ ン チ 砲 4 門、3 2 ポ ン ド 砲 ( 砲 弾 重 量 1 5 Kg )18 門 }

  • 補給艦 レ キ シ ン ト ン ( 帆 船、排 水 量 6 9 1 ト ン )、乗 組 員 45 名

  • サ ウ サ ン プ ト ン ( 帆 船、排 水 量 5 6 7 ト ン )、乗 組 員 4 5 名

  • サ プ ラ イ ( 帆 船、排 水 量 5 4 7 ト ン )、乗 組 員 3 7 名

  • 合 計 人 員 1,557 名


[ 9 : ペ リ ー は 、な ぜ 日 本 に 来 た の か ]

( 9−1、天 か ら 付 与 さ れ た 明 白 な 使 命 )

ア メ リ カ は 建 国 以 来、西 にある 野 蛮 な 未 開 の 地 に 文 明 の 恩 恵 を 与 え る ことが 、 明 白 な 神 の 意 志 ( M a n i f e s t - D e s t i n y 、天 か ら 付 与 さ れ た 明 白 な 使 命 )であるとする、 キ リ ス ト 教 を 道 具 に 使 う、極 め て 独 善 的 ・ 利 己 的 な 思 想 のもとに 、西 部 開 拓 と 称 する 領 土 の 収 奪 ・ 侵 略 を お こ な い ま し た。

先 住 民 の イ ン デ ィ ア ン から 彼 等 の 住 む 土 地 を 奪 い、反 抗 する 彼 等 を 虐 殺 し、1 7 8 9 年 以 降 に は 辺 鄙 ( へ ん ぴ ) な 場 所 に イ ン デ ィ ア ン 特 別 居 留 地 ( I n d i a n - R e s e r v a t i o n ) を 設 け、太 古 の 昔 から 北 米 大 陸 に 住 んで い た イ ン デ ィ ア ン を、隔 離 収 容 することに 少 しも 良 心 の 痛 みを 感 じませんで した。

ちなみに [ M a n i f e s t ] と は ラ テ ン 語 の 「 手 で な ぐ ら れ る 」の意 味 から 「 は っ き り 分 か る 」 ・ 「 明 白 な 」 の 意 味 であり、一方 選 挙 の 度 に 取 り 上 げられる 政 党 の 選 挙 公 約 である、 マ ニ フ ェ ス ト [ M a n i f e s t o ] は、これとは 綴 り の 最 後 部 が 異 なり、語 源 は イ タ リ ア 語 の 宣 言 ( 書 )、声 明 ( 書 )で す。

第 7 代 ジ ャ ク ソ ン 大 統 領 ( 1 7 6 7 〜 1 8 5 4 年 ) は、 白 人 以 外 は 人 間 に 非 ず の 思 想 から 、彼 らの 土地 を 奪 う た め に 全 て の 野 蛮 人 ( イ ン デ ィ ア ン ) を ミ シ シ ッ ピ ィ− 川 の 西 側 へ 追 い 払 え と いう 強 制 移 住 法 を 、1 8 3 8 年 ( 日本 では 天保 9 年 ) に 公 布 しま した。

当時 ミ シ シ ッ ピ 川 の 東側 には 、チ ョ ク ト ウ ・ ク リ ー ク ・ チ カ ソ ー ・ セ ミ ノ ー ル ・ チ ェ ロ キ ー ( い わ ゆ る 開 化 5 部 族 ) の 、約 6 万 人 の イ ン デ ィ ア ン が 、白人 たちと 共 存 し て 暮 ら し て いま した。

涙の道

絵 は、チ ェ ロ キ ー 族 1 万 5 千 人 が 強 制 移 動 させられた 際 の 様子 ですが、旅 の 途中 で 飢 え と 病 気 、監 視 兵 による 発 砲 で 、 4 千 人 ( 2 5 パ ー セ ン ト ) が 死 亡 し ま した。

彼等が 通った 道 は 涙 の 道 ( T r a i l - o f - T e a r s ) と 呼 ばれま した 。ちなみに イ ン デ ィ ア ン に 米 国 市 民 権 が 与 えられたのは、 西 部 開 拓 の 名 の元 に 土 地 の 収 奪 が 終 了 して 80 年 近 く 経 った 、大 正 1 3 年 ( 1 9 2 4 年 ) のことで した。


( 9−2、次 の タ ー ゲ ッ ト は メ キ シ コ 領 )

アメリカ は 隣 接 する メキシコ から 領土を 奪 う為 に 米 墨 戦 争 ( べ い ぼ く せ ん そ う、1 8 4 6 年 〜 1 8 4 8 年 )を 仕 掛 け 、1 8 4 8 年 に メ キ シ コ 戦争 に 勝利 した 結果、当時 メ キ シ コ が 所有 して いた 領 土 の 30 パーセント を 手 に 入 れま した。

同年 2 月 2 日 に 、メ キ シ コ シ テ ィ の 北 にある グ ア ダ ル ー ペ ・ イ ダ ル ゴ ( G u a d a l u p e - H i d a l g o 、で 調 印 された 「 グ ア ダ ル ー ペ ・ イ ダ ル ゴ 条 約 」 により、 米 墨 戦 争 は 正式 に 終 了 しま した。

この 条約 で、ア メ リ カ は メ キ シ コ に 1 ,8 2 5 万 ド ル を 払 い、メキシコ は 現在 の カ リ フ ォ ル ニ ア 州 ・ テ キ サ ス 州 ・ コ ロ ラ ド 州 ・ ア リ ゾ ナ 州 ・ ニ ュ ー メ キ シ コ 州 ・ ワ イ オ ミ ン グ 州 の 一 部 ・ ネ バ ダ 州 ・ ユ タ 州などを 譲 渡 しま した。

カ リ フ ォ ル ニ ア は 1 8 5 0 年 9 月 9 日 に 3 1 番目 の 米 国 の 州 となり、 アメリカ 政府 は 太 平 洋 岸 に 、念 願 の 港 湾 を 得 ることができました。


( 9−3、西 部 開 拓 が 太 平 洋 岸 に 到 達 す る と )

明 白 な 神 の 意 志 に 基 づ く 西 部 開 拓 が 太 平 洋 岸 に 到 達 すると、次 の 矛 先 ( ほ こ さ き ) は 太 平 洋 を 越 えて ハ ワ イ ・ フ ィ リ ピ ン ・ 日本 を含 む ア ジ ア に 向 けられ 、 帝 国 主 義 的 な 侵 略 を 正 当 化 する 為 の 言 葉 になりま した。

当時 の ア メ リ カ は 奴 隷 貿 易 により ア フ リ カ から 労 働 力 と して 輸 入 された 多 くの 黒 人 奴 隷 を 使 い、南 部 の 綿 花 畑 で 摘 み 取 った 綿 花 を 原 料 に した 綿 織 物 産 業 が 盛 んで した。

当時 ア ジ ア の 大 国 とみなされていた 清 国 ( し ん こ く ) は、その 有 望 な 輸 出 市 場 となることが 予 想 されたので、北米 の 西 海 岸 から 清 国 に 通 じる 太 平 洋 航 路 の 開 設 意 欲 を 促 進 しま した。

また イ ギ リ ス が 清 国 を 侵 略 して ア ヘ ン 戦争 ( 1 8 4 0 〜 1 8 4 2 年 ) を 起 こ し、それに 勝 利 した 結 果、ホ ン コ ン を 大 英 帝 国 の 植 民 地 に したことも、アメリカ 政府 の ア ジ ア 進 出 へ の 意欲 を 掻 き 立 て ま した。



( 9−4、ア ジ ア を タ ー ゲ ッ ト に )

その当時は 灯火用 の 油 を 得 るため の 捕 鯨 を 大西洋 では 取り 尽 く し 、太平洋 では 盛 んであり、 ハ ワ イ 王 朝 が 支 配 した オ ア フ 島 の ホ ノ ル ル や マ ウ イ 島 の ラ ハ イ ナ などの 捕鯨基地 に 入 港 した 捕 鯨 船 は、1850 年 〜 1860 年当時、 年 平 均 4 0 0 隻 に の ぼ り ま し た

アメリカによる 日本 に対する 開 国 要 求 も、 明 白 な 神 の 意 志 の 行 動 原 理 に 従 っ て、

未 開 な 野 蛮 国 の 日 本 に 対 して 、そ の 状 態 か ら 脱 却 さ せ 、近 代 文 明 の 恩 恵 に 浴 さ せ る の は、キ リ ス ト 教 国 で あ る ア メ リ カ の 崇 高 な 使 命 で あ る。

それと共に 当時 盛 んだった 自国の 捕鯨船 に対する 新 たな水 ・ 薪炭 ・ 食糧 などの 補給基地 の 確保 を 図 り、 ア ジ ア 貿 易 へ の 拠 点 を 得 る た め でもあり、そのためには 武 力 の 使 用 も 辞 さないと いう 決意 で した。

アメリカ 大統領 の フ ィ ル モ ア は 、メ キ シ コ 戦争で 名 を 上 げた ペ リ ー准 将 ( C o m m o d o r e - P e r r y ) を 特命 全権公使 と して 日本 に 派遣 し、開 国 を 迫 ることに しま した。


( 9−5、十 字 軍 と 同 じ 思 想 )

明 白 な 神 の 意 志 の 思 想 は、最初に 十字軍 を 派遣 した ローマ 教皇 ウ ル バ ヌ ス 二世 ( 1 0 4 2 頃 〜 1 0 9 9 年 ) が 述 べた、 異 教 徒 を 聖 地 エ ル サ レ ム から 根 絶 や し に す る こ と は 、神 の 意 志 に 適 う も の で あ る と す る 考 え−−−つ ま り 自 分 に と っ て 神 を 都 合 の 良 い 道 具 に 利 用 し た 点 で、同 じで した。

十 字 軍 について 更 に 知 り たい 場合 は 、 ここを クリック


[ 10 : 日 本 遠 征 記 を 読 ん で か ら に し ろ ]

ペリー記念碑

ペ リー 准 将 ( C o m m o d o r e - P e r r y ) が 上 陸 した 三浦半島 の 久里浜 ( 浦 賀 ) には ペ リー 公 園 があり、そこには 上 陸 記 念 碑 があります。これは ペ リ ー 艦 隊 来航 の 際 に 少 尉 候 補 生 と して 同 乗 して いた ビ ア ズ リ ー 退 役 海 軍 少 将 が、後年に 再 来 日 したときの 希 望 により、金子堅太郎 ( 明 治 憲 法 の 起 草 者 の 1 人、1853〜1942 年 ) などの、 米 友 協 会 会 員 が 中心 となって 建 設 し、明治 3 4 年 ( 1901 年 ) に 完成 したものです。

この 記 念 碑 には 伊 藤 博 文 の 筆 で 北 米 合 衆 国 水 師 提 督 伯 理 上 陸 記 念 碑 と 刻 まれて いますが、伯 理 とはもちろん ペ リ ー の 当 て 字 です。

ブロンズ像

それだけではなく、 ペ リ ー の ブ ロ ン ズ 像 が 東京都内 にもありま した。私も最近 になってこのことを 知 りま したが、東京都 港区 芝 に 6 人 の 将軍 たちが 眠 る 徳川家 の 菩提寺 である 増 上 寺 ( ぞ う じ ょ う じ )がありますが、そこの 芝 公 園 内 にありま した。


増 上 寺 には 小 学 校 2 年 の 時 ( 昭 和 1 6 年 、1 9 4 1 年 ) の 遠 足 で 訪 れ ま し た が、その 当時 は ペ リ ー の 像 は 無 く 、日 本 開 国 百 年 に 当 たる 昭和 29 年 ( 1 9 5 4 年 ) に、ペ リ ー の 出身地 で、日 本 遠 征 の 際 の 出 発 地 でもあった ロ ー ド ア イ ラ ン ド 州、ニ ュ ー ポ ー ト 市 から 親 善 のために ( ? ) 東 京都 に 送 られたのだそうです。

日 本 遠 征 が 神 から 授 けられた 明 白 な 使 命 ( M a n i f e s t - D e s t i n y ) であろうと なかろうと 、アメリカ にとって の 必 要 性 から 日本 を 開 国 させた 功 労 者 と して、ペ リー を 称 えるのは アメリカ の 勝 手 ですが、ペ リ ー の 日 本 遠 征 記 に 書 か れ た 以 下 の 事 実 を 皆 さんは ご 存 じ で す か

翌年 ( 嘉 永 7 年、1854 年 ) に 再度 来 航 した 際 に は、8 隻 の 軍 艦 を 神 奈 川 沖 ( 現 在 の 横 浜 市 沖 ) に 沿 岸 か ら 1 海 里 ( 1, 8 5 2 メ ー ト ル ) 以 内 に 横 一 列 に 停 泊 さ せ、5 海 里 ( 9.3 キ ロ メ ー ト ル ) に わ た る 海 岸 を 大 砲 の 射 程 距 離 内 に 入 れ る よ う に 命 令 し た 。

圧 倒 的 な 軍 事 力 を 背 景 と して い つ で も 戦 闘 で き る 態 勢 を 整 え た 上 で、日 本 に 開 国 を 迫 る こ と に し た

2 度 の 来 航 では 合 計 1 0 0 発 以 上 の 大 砲 の 空 砲 を、 祝 砲、礼 砲、号 砲 な ど の 名 目 で 撃 っ た が、 日 本 を 威 嚇 ( い か く ) する 為 に は 極 め て 効 果 的 な 方 法 であり、幕 府 役 人 の か た く な な 態 度 を 容 易 に 変 え さ せ る こ と が で き た

ペリー上陸

絵 は 安政 元年 ( 1854 年 ) 3 月 3 日に 横 浜 でおこなわれた 日 米 和 親 条 約 の 調 印 式 典 の 精 密 画 ですが、ペ リ ー に 同行 した 画 家 の ウ イ リ ア ム ・ ハ イ ネ が 画 いたものです、沖 に 停 泊 する 8 隻 の 軍 艦 に 注 目。

砲弾

当時 の 日 本 の 大 砲 は 砲 口 ( 筒 先 ) から 火 薬 を 入 れ、その 次 に 鉄 の 丸 い 球 ( キ ャ ノ ン ・ ボ ー ル、C a n n o n - B a l l ) を 入 れて 火 薬 に 点 火 して 撃 ち 出 す 方法 で、命 中 しても 鉄 球 には 爆 発 する 能 力 ( 火 薬 の 内 蔵 ) がありませんで した。

しか し ペ リ ー 艦 隊 の 大 砲 は ペ ー ザ ン 将 軍 が 開 発 した ペ ー ザ ン 砲 で、弾 はいわゆる 砲 弾 型 を していて 中 に 炸 薬 を 詰 めて いて、当 たると弾 体 が 爆 発 し 大 きな 被 害 を 与 えま した。

1 千 6 百人 の 兵 士 と 8 隻 の 軍 艦 を 派 遣 し た ア メ リ カ の 意 図 は、 開 国 要 求 に 応 じ な け れ ば 武 力 行 使 も 辞 さな い と い う 砲 艦 外 交 ( G u n b o a t - D i p l o m a c y ) そ の も ので し た が、い わ ば ド ス ( 短 刀 ) を 突 き つ け て 「 ゆ す り 」 ( 強 請 ) を し た 侵 略 者 に、貴 方 は 感 謝 し た い の で す か

ペ リー によって 日 本 が 開 国 さ せ ら れ た の は 紛 れ も な い 事 実 で す が、だ か ら と い っ て 相 手 の 意 図 や 行 動 を 考 えた 場 合 に、日 本 側 が ペ リー に 感 謝 す べ き こ と で は 決 し て な い と 私 は 考 え ま す。

ペ リ ー を 開 国 の 恩 人 な ど と 称 し て、 日本側 が 褒 め 称 え る こ と は 明 ら か に 間 違 い で あ り、自 尊 心 が あ る 人 間 な ら ば 、恥 か し く て 到 底 で き な い こ と で す。


  •  伊豆 下田市 の 黒 船 祭 り

  •  浦 賀 市 の 浦 賀 み な と 祭 り

  •   横 須 賀 市 の 開 国 祭 り

などを 催 して 浮 かれ 騒 ぐ、 歴 史 に 無 知 で、軽 薄 な 連 中 に 私 は 言 い た い の で す 。 ペ リ ー が 書 いた 「 日 本 遠 征 記 」 を、 読 ん で か ら に し ろ と !


[ 11 : ハ ワ イ と フ ィ リ ピ ン で ]

イオラニ宮殿

ペ リ ー の 来 航 から 3 9 年後 の 1893 年 に 、ア メ リ カ は ハ ワ イ に 利 権 を 持 つ ア メ リ カ 人 達 を そそのか して ハ ワ イ で ク ー デ タ ー を起 こ し、 カ メ ハ メ ハ 王朝 第 8 代の 女王 で 別 れ の 曲 と して 有名 な ア ロ ハ オ エ ( A l o h a-`O e ) を 作 曲 し た、 リ リ ウ オ カ ラ ニ ( L i l i - `u o k a r a n i ) を ホ ノ ル ル にある イ オ ラ ニ ( I o l a n i ) 宮 殿 に 幽 閉 しま した。

その 際 には ホ ノ ル ル 港 に 派遣 した 軍 艦 ボ ス ト ン の威 嚇 の も と に 、海 兵 隊 を 上 陸 さ せ て クーデ ター を 支 援 し 成 功 さ せ ま し た。

1895 年 ( 明治 28 年 ) には 女王 を 脅 迫 して むりやり 退 位 させた 上 で、 カ メ ハ メ ハ 王朝 を 廃 止 し 形 だけの 共 和 国 と し ま し た が、1898 年 ( 明治 31 年 ) に は 予 定 通 り ハ ワ イ を 米 国 領 に し ま し た

写真 は 今 も ホ ノ ル ル 市 内 に 残 る、旧 ハ ワ イ 王 朝 の イ オ ラ ニ 宮 殿 ですが、そこに ひるがえるのは 1845 年 に 制 定 さ れ た ハ ワ イ 王 国 の 旗 です。

同 じ 年 に 起 きた ア メ リ カ ・ ス ペ イ ン 戦 争 ( 米 西 戦 争、べ い せ い せ ん そ う ) で は、ス ペ イ ン は 8 カ月で 敗 北 し、カ リ ブ 海 および 太平洋 の ス ペ イ ン の 旧植民地 を 、ア メ リ カ が 獲 得 し た。

その際に ス ペ イ ン の 植民地 だった フ ィ リ ピ ン 人 に対 して 独立 を 「 エ サ 」 に して アメリカ に 協 力 さ せ て、 フ ィ リ ピ ン や グ ア ム 島 から ス ペ イ ン の 勢 力 を 駆 逐 しま した。しか し ス ペ イ ン 軍 が 降伏 するに 際 しては、

有 色 人 種 の 野 蛮 人 に、白 人 で あ る 我 々 が 降 伏 す る 屈 辱 、だ け は 我 慢 で き な い。

と ス ペ イ ン 総 督 が 米 軍 司令 官 に 訴 えた の で、米軍 はその 訴 えを 認 めて フ ィ リ ピ ン 軍 代表 を 降 伏 式 典 から 排 除 することを 決 め、フィリピン 軍 は マ ニ ラ 入 城 を 拒 否 されま した。

更に パ リ における 講 和 会 議 にも 参 加 を 拒 否 され、その 後 は フィリピン を 独 立 させるという 約束 を 反 故 ( ほ ご ) に して 米 国の 植 民 地 化 を 図 り ま した。

その為 に 1 8 9 9 年 から 1 9 1 3 年 ま で 米 比 戦 争 ( べ い ひ せ ん そ う ) と な り
、 独 立 を 求 めた フィリピン 人 達 を 逮 捕 虐 殺 しま した。

米 国 上 院 へ の 報 告 によれば 、サ マ ー ル 島 で 38 人 の 米 兵 が 殺 された 報 復 に、こ の 島 と レ イ テ 島 の 住 民 2 万 余 人 を 虐 殺 するなど、 合 計 2 0 万 人、別 の 説 に よ れ ば 6 0 万 人 の フ ィ リ ピ ン 人 が 殺 さ れ ま し た。

フ ィ リ ピ ン は 米 国 の 植民地 支配 を 受 けま したが、戦後 の 1 9 4 6 年 にようや く 独 立 し ま し た。し か し ア メ リ カ 文 化 ( 日本流 に い え ば 文 明 開 化 )を も た ら し た こ と で、アメリカ を 恩 人 な ど と 称 し て 記 念 碑 や 胸 像 を 建 て る こと は し ま せ ん で し た。


[ 12 : キ リ ス ト 教 的 歴 史 観 と 人 種 蔑 視 ]

欧米 においては、自分達 の 歴 史 ( たとえば アメリカ 大 陸 発 見 ) だ け が 世 界 の 歴 史 であり、 そこに 住 む 先住民族 の 歴 史 を こ れ ま で 否 定 し、自分 た ち の 生 き 方 こそ 文 明 の 名 に も っ と も 相 応 し く、地球上 の 白 人 種 以 外 の 民 族 は 欧 米 の キ リ ス ト 教 文明 に よ り 未 開 の 状 態 から 救 わ れ た と 信 じ ら れ て き ま し た。

幕末 の 安 政 6 年 ( 1 8 5 9 年 ) に 外交官 と し て 来 日 し、初代 駐 日 イ ギ リ ス 公使 を 務 めた オー ル コ ッ ク ( A l c o c k 、1 8 0 9 〜 1 8 9 7 年 ) が 書 いた 「 大 君 ( た い く ん ) の 都 」 、原 書 名 「 T y c o o n - o f - J a p a n 」 によれば、

日本人 は 偶 像 崇 拝 の 異 教 徒 で あ り、野 獣 の よ う に 神 を 信 じ る こ と な く 死 ぬ と こ ろ の、呪 わ れ 永 劫 ( え い ご う ) の 罰 を 受 け る 者 た ち で あ る。

野 獣 ( 日 本 人 ) は 信 仰 を 持 た ず、死 後 の より 良 い 暮 ら し ( 天 国 ) へ の 希 望 も な く、死 ん で い く の だ。

詩 人 と、思 想 家 と、政 治 家 と 才 能 に 恵 ま れ た 芸 術 家 か ら な る 民 族 ( キリスト 教 徒 の 欧 米 白 人 種 ) の 一 員 で あ る 我 々 と 比 べ て、( 有 色 人 種 の ) 日 本 人 は 劣 等 民 族 で あ る

と 述 べて い ま す が、こ れ が 欧 米 人 の 持 つ キ リ ス ト 教 文 明 の 優 位 性、絶 対 性 に 基 づ く 日 本 人 観 で あ り、キ リ ス ト 教 徒 の 白 人 以 外 は ( つ ま り 異 教 徒 ・ 有 色 人 種 は ) 人 間 扱 い し な い 点 で、ペ リ ー も 多 分 同 じ 考 え を も っ て い た は ず で す。

建 国 以 来 の 明 白 な 神 の 意 志 ( 神 意 ) な ど と い う 独 善 的 ・ 利 己 的 な 理 念 に 基 づ く 侵 略 主 義 、膨 張 主 義 の ア メ リ カ を 初 め 西 欧 の 白 人 種 が、1 9 〜 2 0 世紀 の 世 界 中 で 劣 等 民 族 ( ? ) と み な し た 有 色 人 種 に 何 を し た の か を 我 々 は 学 ば な け れ ば な り ま せ ん。

第 2 次 大 戦 中 の 1 9 4 3 年 ( 昭 和 1 8 年 ) に、「 マ ン ハ ッ タ ン 計画 」 の 一 環 と して、原子爆弾 の 開発 を 目的 と し て ニ ュ ー メ キ シ コ 州 ・ ロ ス ア ラ モ ス に 国立 研究所 が 創 設 され ま した。

そこで 開 発 され 製 造 ホ ヤ ホ ヤ の 2 種 類 の 原 子 爆 弾 を 、日本 が ソ 連 ( 現 ・ ロ シ ア ) に 「 和 平 ( 降 伏 ) の 仲 介 」を 依頼 して いるのを 知 りながら、広島 ・ 長崎 に 投下 しま したが、その 間 の 事情 が 下記 にあります。

降 伏 間 近 の 戦 況


敗 戦 後 日 本 に やってきた 連 合 国 軍 最 高 司 令 官 総 司 令 部 ( 実 体 は 米 国 占 領 軍 総 司 令 部 ) が 二 週 間 で 原 文 を 作 った とされる 、日 本 国 憲 法 の 前 文 の 抜 粋 を 再 読 し て み て 下 さ い。

平 和 を 愛 す る 諸 国 民 の 公 正 と 信 義 に 信 頼 し て、わ れ ら ( 日 本 人 ) の 安 全 と 生 存 を 保 持 し よ う と 決 意 した。( 以 下 略 )

こ の 世 界 に は 存 在 し な い  他 国 の 公 正 と 信 義 な る も の を 、ひ た す ら 信 じ て い れ ば 、

  • 近 隣 の 「 欲 し い も の 」 は 、何 で も 「 自 分 の も の 」 に し よ う と す る。 C 国 や、

  • 「 約 束 と は 破 る た め の も の 」 、「 ウ ソ を つ く の は 恥 で は な い。頭 脳 が 良 い 証 拠 」 。 の K 国 や、

  • 「 死 ん だ 爺 さ ん に 体 形 を 似 せ よ う と 、民 が 飢 え る ど こ ろ か 官 も 兵 隊 も 飢 え て い て も 、最 高 尊 厳 の 自 分 だ け は 大 飯 ( お お め し ) を 喰 ら い 、若 年 性 糖 尿 病 に な り 、核 や ミ サ イ ル 開 発 に 現 ( う つ つ ) を 抜 かす 」 。 N K 国

な ど が い て も 、 ひ た す ら 相 手 を 信 じ て さ え い れ ば 、生 き 長 ら え る こ と が で き る か も 知 れ な い の だ そ う で す。た と え 奴 隷 的 境 遇 に な っ て も 。( 終 わ り )


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