ワイロと 汚職の話
不正な意図 で他人に金品を贈与すること。またはその金品のことで、 「 まいない 」 ・ 「 まい 」 ・ 「 袖の下 」 ともいう。 ![]() [ 1 : ワイロで、任那国を売った男 ]![]() 二人は百済 ( くだら ) の 賂 ( まいない、ワイロ ) を受けたり。というものでした。この事件を境にして 売国奴 の大伴金村は、対朝鮮半島政策の失敗を 物部尾輿 ( もののべ おこし ) に弾劾 ( だんがい ) され失脚しました。 [ 2 : 聖徳太子の 憲法、第 5 条 ]日本書紀によれば推古天皇 12 年 ( 604 年 ) 4 月 3 日の条に 「 皇太子親肇作憲法十七條 」 と記述されていますが、聖徳太子 ( 574〜622 年 ) が定めた 17 条の憲法とは、名前は憲法でも現在のように国民の権利 ・ 義務を定めた国の基本法ではなく、朝廷に仕える臣下 ( 豪族や役人 ) に対しての 道徳上の教訓や服務規律を定めたものでした。 その第 5 条には、当時の裁判における ワイロの存在 が記されていました。五 曰、絶餮棄欲、明辯訴訟。其百姓之訴、一日千事。一日尚尓、况乎累歳、須治訟者、 得利為常、見賄聴 。便有財之訟、如石投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。 [ その意味 ]( 2−1、大宝律令 ) 飛鳥時代 ( 592〜710 年 ) 末期には律令国家が形成されましたが、その大宝律令 ( たいほうりつりょう、701 年 ) の中にも賄賂罪 ( わいろざい ) に相当する規定が存在します。 「 律、りつ 」では罪と罰を、「 令、りょう 」 では行政 ・ 訴訟 ・ 民法を規定しましたが、その職制律 ( 現 ・ 公務員法 ) には
請託 ( せいたく、内々で特別の配慮を請う事 )を受けることが日ごと盛んになっているが、 私事の請託 を公然と受け入れる場合には、 3 年の任期に関係なく現職を解任する。とありました。 ( 2−2、峰相記 ) ![]() 注 : ) 鶏足寺焼き討ちに遭う以前の今から 664 年前の室町時代 ( 1336〜1573 年 ) 初期のこと、ある老齢の旅の僧がこの寺を訪れました。そして、 貞和 4 年 ( 1348 年 )10 月 18 日、播州 ( 兵庫県 ) 峰相山 ・ 鶏足寺 ( ぶしょうざん けいそくじ ) に参詣す。という書き出しで始まる作者不明の 「 峰相記 」 ( ぶしょうき / みねあいき ) を記しましたが、それは古代の播磨国風土記 ( はりまのくに ふどき ) ・ 近世の播磨鑑 ( はりま かがみ ) と共に中世における播磨の地誌として有名です。 そこには播磨国にある寺院 ・ 神社の由来や諸宗派の説明などと共に、荘園領主や鎌倉幕府の支配に反抗して社会の秩序を集団で乱す 「 悪党 」 や、 鎌倉幕府の政治についても記されていました。 以下に現代文訳の抜粋を記します。 中央から出される命令は間違っているとは思はないが、役人が 賄賂を受取って 命令の下達 ( かたつ ) を遅らせたり 、悪党どもの勢いに圧 ( お ) されて悪党を成敗しなくてもお咎めがない。( 中略 ) 北条氏の内管領 ( ないかんれい、北条得宗家の執事 )で鎌倉幕府の実権を握って権勢を振るった長崎高資 ( ながさき たかすけ ) は、 どんなことも ワイロの額で決め 、役人の任免もすべて ワイロ次第で決済した 。とありましたが、彼は新田義貞 ( にった よしさだ ) に鎌倉を攻められて、幕府が 1333 年に滅亡した際に自害しました。 [ 3 : 江戸時代になると ]![]() 老中である彼の邸には連日 ワイロ を持参する客があとを絶たず、玄関先は日の光も ささなかったほどであった。と記されていました。 さらに吉保に媚びる大名も多く、特に備前岡山藩の池田綱政 ( つなまさ ) ・ 肥後熊本藩の細川綱利 ( つなとし ) ・ 伊勢 津藩の藤堂高久 ( とうどう たかひさ ) などは、当時の人から 「 柳沢家の玄関番 」 とまで あだ名されるほどでした。彼 ( 柳沢吉保 ) が殿中 ( でんちゅう、江戸城内 ) に宿直 ( とのい、宿泊当直 ) する際には、大名たちが競って夜食を贈って歓心を得ようとしたために、吉保の夜食は 1 年先まで予約が決まっていたといわれていました。 ( 3−1、甲子夜話の著者が おこなった接待 ) 前述した甲子夜話の著者である平戸藩主の松浦静山 ( まつら せいざん ) も、実は 28 才の時に ある目的から 幕府の役人を接待したことが 「 閣老浜田候の近臣 」 に贈賄 ( ぞうわい ) した件 に詳しく記されています。それによれば天明 6 年 ( 1786 年 ) 4 月 9 日に 25 年間老中を勤めた松平康福 ( やすよし ) の用人 高浜直右衛門夫婦を主客として ・ 高浜の下僚 3 人、若党 1 人、侍女 2 人、人足 1 人、出入の医師 1 人 、仲介役の男 1 名の 合計 11 名を接待し 、それ以外に座興 ( ざきょう、座をもりたてる役 ) に河東節 ( かとうぶし ) 語り 1 人、盲人 ( 河東節の三味線ひき )1 人、芸子 4 人 ( 女子 ) の 6 名を加え 合計 17 人になった。 これらを屋形船に乗せて船遊びし、途中で陸に上がり芝居見物や食事をしたが、松浦家の使用人 3 名分を含めてこの日の費用は 23 両 1 歩と銀 12 匁 2 分 ( 約 150 万円 ) であった。その後も高浜直右衛門に対して 8 月 23 日と 11 月 7 日にも芝居見物に招待し、幕府の奥祐筆組頭 ( おくゆうひつ くみがしら )大前孫兵衛の用人にも 2 回にわたり接待をした。とありましたが、その目的とは次の 「 御手伝い のがれ 」 でした。 ( 3−2、お手伝い普請 ) ![]() ![]() ![]() [ 4 : 赤穂事件 ]![]() [ その口語訳 ]福本日南 ( ふくもと にちなん ) が書いた 「 元禄快挙録 」 によれば、勅使を接待する際の儀式 ・ 典礼指南役である吉良上野介の人物について、 その人となりを概言 ( がいげん、概略を述べる ) すれば、小人 ( しょうじん、器量の小さい人 ) の特質において、 一つも欠けるところがない。 上に諛 ( へつら ) う、下には驕 ( おご ) る 。そのくせ貪欲 ( どんよく ) にして 賄賂 ( ワイロ ) には目がない 始末の悪い人物であった。 それでいて勅使の下向ごとに御接伴 ( ごせっぱん、接待 ) 掛りとならぬことはなかったから、これまで同じ掛りを申しつけられた大名は概ねこの人に 賄い ( まいない、ワイロを贈り ) 、その歓心を得て、わずかに役儀を全うし来たのであった。ところで主人から 「 吉良家に挨拶に行け 」 といわれた浅野家江戸家老の藤井宗茂と補佐役の安井彦右衛門の 無能な二人は 、上記の吉良に関する情報を集めもせずに、 「 高家 ( こうけ、幕府の職名 ) たる吉良殿へ大げさな贈り物を差し上げるのは返って失礼に当たる 」 と独自に判断し、「 元禄快挙録 」 によれば、 真偽は保証せぬが当時の ウワサでは、浅野家から僅かに 鰹節 ( かつおぶし ) 一連を贈った。ということでした。 その一方、表高 5 万 3 千石とはいうものの赤穂の製塩などで実収入は 7 万石にもなる裕福な浅野家から、儀式 ・ 典礼の指南に対する 「 挨拶料 」 として、 一説によれば吉良では相場以上の 200 両 、現在の貨幣価値で約 1,200 万円 ( 注参照 ) を期待していましたが、鰹節を見て頭に血が上ったであろうことは容易に想像できました。 そこで 礼儀 ? をわきまえない 浅野を困らせてやろう、赤穂の田舎大名に恥をかかせてやるぞ−−−と決心しました。 注:)貨幣価値の換算徳川幕府の公式記録である徳川実記によれば、勅使らが将軍綱吉に別れの挨拶のために登城する頃、留守居番の梶川与惣兵衛 ( かじかわ よそべえ ) が白書院の廊下 ( 松の廊下 ) で吉良上野介と相談しているときに、浅野内匠頭が突然 この間の遺恨 ( いこん ) 覚えたるか ! と叫び切りかかったとされます。 ケンカの原因について浅野は 「 遺恨 」 とだけ答えて内容を語らず、吉良は 「 浅野の乱心 」 と答えて責任回避をしましたが、世間のうわさでは ワイロ がからんだ 私怨 ( しえん、個人的うらみ ) だといわれています。 浅野家 江戸家老とその補佐役の二人は、 吉良への ワイロに 重大な ミス をした結果 赤穂事件が起き、殿様は切腹 ・ 浅野家は断絶の事態をもたらしましたが、その責任を取ることもなく、さらに主君の恨みを晴らす吉良邸への討ち入りにも参加せずに逃げ去りました。 ( 4−3、製塩技術の ノウハウ が原因 ) 別の説によれば吉良上野介 ( きら こうずけのすけ ) の知行地であった三河国 ( みかわのくに、現 ・ 愛知県 東部 ) ・ 幡豆郡 ( はずぐん ) でも当時 塩田製塩が行われていて、足利幕府を開いた足利尊氏 ( あしかが たかうじ ) の側近だった饗庭妙鶴丸( あいば みょうかくまる ) が、寛正年間 (1460〜1468 年 ) に開拓した饗庭郷 ( あいば ごう ) にちなんで「 饗庭塩 」( あいばじお )の名で知られていました。 「 饗庭塩 」 は尾張国 ( 愛知県 ) ・ 美濃国 ( 岐阜県 ) などで販売されていましたが、生産量 ・ 品質面で赤穂産の塩に押されていたので、塩田製塩に関する 新技術の伝授 を吉良が求めたのに対して、浅野が断ったのが原因で吉良が意地悪をしたとする説もありました。 [ 5 : 日光例幣使 ]![]() ![]() ( 5−1、貧乏だった、当時の公卿たち ) 江戸時代に公家の柳原紀光 ( やなぎはら もとみつ ) が書いた随筆に 閑窓自語 ( かんそう じご ) がありますが、その 中 巻 93 話には閑院宮家 ( かんいんの みやけ ) の様子が記されています。第 113 代 ・ 東山天皇 ( 在位 1687〜1709 年 ) の皇子で閑院宮 ( かんいんの みや ) 家を創設した 「 閑院 故 弾正尹 直仁親王 ・ 貧窮語 ( かんいん こ だんじょうのかみ なおひと しんのう ひんきゅう ばなし ) 」 によれば、 閑院宮 直仁親王は きわめて貧しかったので 、夜間外出する時には 「 ろうそく 」 も無かった。そこで灯油に紙をねじったものを灯芯にして提灯 ( ちょうちん ) に入れ灯火にした。そのことから暗い灯火を 「 閑院殿 ( かんいん どの ) の提灯 ( ちょうちん ) 」 と人が呼ぶようになった。 京の物売りの間であの公卿の家に掛け売りをしたら、決して払ってもらえないと警戒された者は何人もいた。役職として恒例の石清水八幡 ( いわしみず はちまん ) へ公卿が参詣するのに、供の者を雇うことができずに参拝用の正装を風呂敷に包んで自分で背負い、京の町から八幡 ( 京都府 ・ 八幡市 ・ 八幡 ) までの 17 キロの道を 一人で テクテク歩いて行くような公卿もいた。日頃は貧乏な暮らしをしていた公卿 ( くぎょう、三位以上の朝官および参議 ) 連中にとって、日光例幣使 ( にっこう れいへいし ) に任命されることは、 お釜を起こす 、つまり竈 ( かまど ) を築くという意味から、ひと財産を築くことができる ほど、現金を入手できる絶好の チャンスでもありました。 徳川家康の命日に当たる 4 月 17 日に間に合うように京都を出発して、往路は当時 「 東海道最大の難所 」 といわれた大井川の川留 ( かわどめ、注参照 ) に遭わないように木曽路を通る中山道 ( 中仙道ともいう ) を通り、 4 月 15 日に日光に到着しました。 注 : ) 川留め[ 5−2、ゆすり ( 強請 ) の語源 ] ![]() 例幣使 ( れいへいし ) は朝命 ( ちょうめい、朝廷の命令 ) を奉じ、金幣 ( きんぺい ) を日光に納むる役にして、通行の際は 暴威をふるい 金銭を強請 ( ゆす ) る 。とありました。さらに東照宮に新しい御幣 ( ごへい ) を奉納し古い御幣を引き取ると、帰りは奥州街道を通って江戸に入り東海道を経由しましたが、帰路にはその古い御幣を利用して例幣使は江戸でも ガメツイ金儲けをしました。 ![]() 実はそれだけではありませんでした、京都の商人たちと共謀して例幣使派遣に伴う 公の費用 ・ 宿駅の人足や馬匹 ( ばひつ ) の無料利用で 、京都から江戸へ ・ 江戸から京都へ商人たちの荷物を運び、彼等からも ワイロ を得ていたのでした。 貧すれば鈍する ということわざがありますが、根性の賤しい公卿連中の ずるさ ・ 意地汚なさ ・ 品格の無さ には、ほとほと呆れました。 [ 6 : ワイロ といえば田沼意次 ]田沼意次 ( たぬま おきつぐ、1719〜1788 年 ) といえば ワイロを奨励したことで有名ですが、父親は紀州藩の武士階級ではなくそれより下の足軽 ( あしがる ) という低い身分の出身でした。第七代将軍 ・ 徳川家継の死により徳川秀忠の血を引く徳川将軍家の男系男子が途絶えると、紀伊藩主でした徳川吉宗が宗家を相続して、江戸幕府の第八代将軍となり、江戸城に入るに伴い田沼意次も幕臣となりました。 吉宗の世継ぎの家重 ( いえしげ、後の第 九 代将軍 ) に小姓として仕え、以後出世の道を走り加増を重ね 1758 年には 1 万石、1772 年には老中に、1785 年には 5 万 7 千石の大名 になりました。 評論家の徳富蘇峰 ( とくとみ そほう、1863〜1957 年 ) が書いた 「 近世日本国民史 」 によれば、( ) 内は管理人が記入。そもそも田沼は小身より出世し、宿老となり天下の政治をわが意のごとくに振り廻したるほどの者なれば、その人物も他の肉食者 ( 他を犠牲にして我が身を太らせる者 ) と同一の論ではなく、目先も見え手腕もあったに相違あるまい。 否 ( いな ) 小身の生い立ちであったためによく人心の機微 ( きび、微妙な心の動きや物事の趣き ) を察し、下情 ( かじょう、しもじもの様子 ) にも通暁 ( つうぎょう、すみずみまで知ること ) し、巧みに他の弱点を捉 ( とら ) えてこれに乗じ、もってその あくなき権勢欲 ・ 利達欲 ・ 所有欲を満足せしめた のであろう。と述べていました。彼が将軍の側用人ないし老中として実権を握っていた明和 4 年 ( 1767 年 ) から、権力の座から失墜する天明 6 年 ( 1786 年 ) までの 19 年間のいわゆる田沼時代ほど、ワイロが武士の社会に横行したことは日本の歴史上ありませんでした。 ( 6−1、 ワイロ の奨励と、 ワイロ を見ると心が いやされる ) ワイロが横行した理由は、権力の座にあった田沼自身が、 ワイロを奨励した からでした。 江都聞見集 ( えと けんぶんしゅう ) によれば、 主殿頭 ( とのものかみ、田沼意次 ) 常に言へるは、 金銀は人々の命にもかへがたきほどの宝なり。其の宝を贈りても御奉公いたし度 ( た ) しと願ふほどの人なれば、其の志 ( こころざし ) 上 ( かみ ) に忠なること明らかなり。 志 ( こころざし ) の厚薄 ( こうはく ) は音信 ( いんしん、贈り物つまり ワイロ ) の多少にあらは ( 現れ ) るべし。 さらにまた言へるは、 予 ( われ ) 日々登城して国家の為に苦労して、一刻も安き心なし。只退朝 ( ただ たいちょう ) の時、我が邸の長廊下に諸家の音物 ( いんもつ、贈り物 ワイロ ) のおびただしく積置きたるを見るのみて、 意を慰 ( い ) するに足れり 。 [ その意味 ]たのだそうですが、前述した権勢欲 ・ 物欲 ・ 独占欲の 「 かたまり 」 であり、そこには 為政者としての モラル の ひと カケラ も存在しない呆れ果てた人物でした。 ( 6−2、地位の購入 ( 買官 ) と、要した資金の回収 ) 一説によれば幕末に桜田門外で暗殺された近江 ( 滋賀県 ) 彦根藩の第 15 代藩主で大老の井伊直弼 ( いい なおすけ ) 、の祖父である第 12 代彦根藩主・井伊直幸 ( いい なおひで ) が大老になるために、莫大なおそらく何千両もの ワイロを贈ったと伝えられています。 ちなみに 長崎奉行になるためには 二千両 、幕府の御目付役は 一千両 の ワイロが相場と密かにいわれていましたが、長崎奉行の ポストは役職手当が本給の 10 倍もあり、その他に内外の貿易商人からの贈り物が届き、輸入品は真っ先に格安の値段で入手して転売できるため、長崎奉行を務めると 一生裕福な暮らしが可能な財産ができたともいわれていました。 御目付役とは諸役人の勤務状態をはじめ政務全般bヘ諸家より ワイロ として届けられたものなので、 主人と倶 ( とも ) に零落 ( れいらく ) せんも本意なしとて、其の家財を奪い中途より遁 ( のが ) れ去る。此如 ( かくのごと ) きの時なれば、田沼氏より捜索すべきやうもなし、その儘 ( まま ) にてありしとぞ。 [ その意味 ]権勢を誇り一時は ワイロ に埋まるほどだった田沼も 、 その後 失意のうちに死にましたが、平家物語の上記に続く文章には、 「 唯 春の夜の夢のごとし 」 とありました。 彼が失脚し代わりに白河藩主の松平定信 ( まつだいら さだのぶ ) が老中になりましたが、早速庶民から下記の落首 ( らくしゅ、世相や政治に対する風刺 ・ 批判 ・ 嘲笑の意を込めた匿名の歌 ) が町に張り出されました。 田や沼や 濁 ( にご ) れる御世 ( みよ )をあらためて 清く澄ませ白河の水 [ 7 : ワイロは 潤滑剤 ]松平定信 ( まつだいら さだのぶ、1758〜1829 年 ) は奥州 ・ 白河 ( しらかわ、福島県南部 ) 藩主でしたが藩政に尽力し、田沼時代に起きた天候不良と浅間山の大噴火 ( 1783 年 ) による天明の大飢饉 ( ききん、1782〜1787 年 ) の際に、藩内で 一人も餓死者を出さなかったことで知られています。田沼の後に老中になり寛政の改革をおこないましたが、政界浄化には成功したもの、こんどは不況で暮らしにくくなりそこで庶民はまた落首を詠みました。白河のあまり清きに耐えかねて、濁れる元の 田沼 恋しき孔子の言行や、孔子と門人との問答などを集録したとされる 孔子家語 ( こうし けご ) に、 「 水 清ければ魚 ( うお ) 棲 ( す ) まず 」 の言葉がありますが、 水が清らかで澄んでいるとそこには 隠れる場所もないので 、かえって魚が棲みつかないことから、人格が清廉 ( せいれん、心が清らかで私欲がない ) 過ぎると、人に親しまれず孤立してしまうという意味でした。 ( 7−1、 公事方御定書、建前と本音 ) 江戸中期の寛保 2 年 ( 1742 年 ) に制定された江戸幕府の刑法典である 「 公事方御定書 」 ( くじかた おさだめがき ) には、 ワイロを贈った者 ・ 仲介した者 ・ 受け取った者についての罰則規定がありました。 [ 賄賂 ( わいろ ) さしだし候者、御仕置の事 ] 公事諸願 ( くじ もろもろのねがい ) その他 請負事 ( うけおいごと ) などについて、賄賂さしだし候者ならびに取持いたし候者、軽追放 ( けいついほう、一定の地域内での居住を禁じた刑 )。 ただし賄賂うけ候者その品 相返 ( あい かえ )すこと申し出づるにおいては、共に村役人に候はば役儀 ( やくのぎ ) 取上げ、平百姓に候はば過料 ( かりょう、軽い罪の償いとして金銭を納めさせること ) 申しつくべき事。と定められていましたが、現実には武家社会、支配層の間では、ワイロの授受は当然の風習 ・ 儀礼であり、ワイロはごく当たり前のことでした。 それどころか ワイロを贈らずに 「 ただ 」 で頼み事をすることこそ 自分勝手 ( じぶんかって ) であり、常識に反する非礼なことでした。つまり ワイロは 必要悪というよりも、当時の人々にとっては 当然なすべき 義務 に近いものでした 。 この伝統の一部は現代社会の人間関係においても、無駄な摩擦や抵抗を減らして滑らかにする 潤滑剤 ( じゅんかつざい ) として残っています。 [ 8 : 七千両の ワイロ が消えた日米通商条約 ]![]() 左の絵は横浜沖でおこなわれた日米和親条約の調印式典の精密画ですが、ペリーに同行した画家の ウイリアム ・ ハイネが画いたもので、沖に停泊するのは 8 隻の黒船です。 その後日米通商条約を結ぶことを幕府は決め、調印を前に孝明天皇の勅許を得ようとしましたが、朝廷は勅許を与えませんでした。そこで勅許を求めるために幕府は 1858 年に老中主座の堀田正睦 ( ほった まさよし ) を京都に派遣し、勘定奉行川路聖謨 ( かわじ としあきら )・ 目付の岩瀬忠震(いわせ ただなり)が随行しました。 その際に幕府が堀田に与えたのは 五千両の経費 ( ワイロ ) と別に 二千両 ( 下賜 )の合計 七千両 でした。堀田は当時 佐倉 ( 現 ・ 千葉県の一部 ) 藩主でしたので上京には藩士数名が従者として同行しましたが、その一人の 吉木十太郎の弟の 吉木竹次郎が兄から聞いた話をしていました。 従来京都に向かって出す使節は公卿方に遣 ( つか ) い物 ( 贈答品 ) をするのが例になっていたが、これは公卿が貧乏で仕方がないので ( 江戸幕府から ) 喧 ( やかま ) しいことを言ってきたときには、 カネでも取ってやろう というのではないかと考えた。 そこで方々 ( 公家連中 ) に金銀を撒き散らしたようで、そのため ワイロを遣って朝廷の勅許を得ようとしたといって ( 主君の堀田 ) は悪名を負わされた。( 8−1、孝明天皇も知っていた ワイロ のこと ) ![]() ( 前略 ) 実に右の献物 ( けんもつ、献上品 ) いかほど大金に候とも 、それに眼くらまし候ては天下の災害の基と存じ候。人欲 とかく とかく 黄白 ( こうはく、金と銀から転じて金銭のこと ) には心の迷うものに候。( 以下省略 )しかし孝明天皇の憂慮も ワイロには勝てずに 、八十八 人の公卿が参加した朝廷における会議では、勅許反対の急先鋒だった関白九条が賛成派に寝返ったために、 日米通商条約調印に勅許はしないが、幕府としてもよく考えるべきである。つまり 幕府委任 とも読める 玉虫色 の 勅答文案 が成立しました。その後 日米通商条約が結ばれることになりましたが、国の大事にかかわることが、ワイロによって左右された証 ( あかし ) でした。 この贈収賄の悪しき風習は江戸時代に留まらずに、明治新政府になっても明治 35 年 ( 1902 年 ) に検定制の教科書の採用をめぐり、40 府県で 116 人が有罪となった贈収賄事件が起き、明治 41 年 ( 1908 年 ) の日本製糖 ( 株 ) による国会議員 20 名に対する贈収賄事件が摘発されました。 安土 桃山時代 ( あづち ももやまじだい、1573〜1603 年 ) の大泥棒で、最後は 「 釜ゆでの刑 」 に処せられた 石川五右衛門の辞世の句ではありませんが、「 石川や 浜の真砂 ( まさご ) は尽きるとも、世に 贈収賄 の タネ は尽きまじ 」 でした。 [ 9 : シーメンス事件 ]大正 3 年 ( 1914 年 ) 1 月 21 日のこと、 イギリスの ロイター通信社が、以下の ニュースを世界中に配信しました。ベルリンからの情報によると、シーメンス ・ シュケルト電機製造会社の東京支店代表 ヘルマンの元秘書であった カール ・ リヒテルが、 東京支店の機密書類を盗み出し脅迫した犯行により、ベルリン地方裁判所は懲役 2 年の刑を言い渡した。 なお リヒテルは同社の 秘密書類 を盗み出して、東京支店の ヘルマン代表に 2 万 5 千 ポンドで買い取るように脅迫していたが、同社は脅迫には応じず、退職して ドイツに帰国した リヒテルを警察に訴えたものである。とありました。さらにその秘密書類とは、シーメンス ・ シュケルト社が日本海軍から艦船や機械などの注文を受けるために、日本海軍の高官に ワイロを贈ったことを示す内容の書類でしたが、その ニュースを聞いた首相 ( 海軍大将 )の山本権兵衛と、海軍大臣の 斉藤実 ( さいとう まこと、海軍大将、後の第 30 代首相 ) は大変驚きました。 なぜならこの事件は彼等にとっては 一旦は 「 もみ消したはず 」 の事件であり、それが外国の報道により明らかになるとは夢にも思っていなかったからでした。ドイツからの裁判情報によれば、シーメンスと日本海軍高官との間には、取引高の 3 分 5 厘 ( 3.5 % )、電機 ・ 通信機器については 1 割 5 分 ( 15 % ) に当たる リベート( Rebate、割戻し金、キック ・ バック ) の約束が存在することが判明しました。 警視庁では前年 ( 大正 2 年、 1913 年 ) の春から シーメンス東京支店の内部に不審な動きがあるのを キャッチし、ロイター通信社の横浜通信員 プーレーが シーメンス東京支店代表の ヘルマンを脅迫していた事実をつかんでいました。秘書の リヒテルは秘密書類の件で東京支店代表に対する脅迫に失敗すると、その書類を プーレー通信員に 2 千円で売却しましたが、今度は ロイター通信社の プーレー通信員が その 機密書類を タネに、シーメンスの東京支店代表に 25 万円で買い取るように脅迫しました。 この捜査情報は警察の上司に報告されたものの、シーメンス社からの働きにより海軍上層部が握りつぶし、捜査は打ち切るように指示されてしまいました。 シーメンス事件発覚後には海軍大臣の斉藤実は責任をとって、海軍大臣を辞任すると共に予備役に編入されましたが、海軍長老の山本権兵衛を首班とする第 1 次山本内閣は総辞職に追い込まれました。 ( 9−1、ヴィッカース社の、ワイロ事件へ発展 ) シーメンス事件の捜査の過程で イギリスの ヴィッカース( Vickers ) 造船会社で建造する軍艦の発注にからんで、贈収賄の事件が発覚しましたが、こちらの方が規模が大きく悪質でした。明治 43 年 ( 1910 年 ) に日本政府は 巡洋戦艦 「 金剛 」 を建造するに当たり イギリスの ヴィッカース( Vickers )造船会社と、アームストロング( Armstrongs )造船会社の 2 社から設計書と見積書を取ることにしました。 両社の書類を比較検討した結果 ヴィッカース社が選ばれましたが、選定過程において ヴィッカース社の日本代理人である三井物産は発注を得るためにヴィッカース社から支払われる手数料の 「三分の一」に相当する金額を、 ワイロ として 当時海軍艦政本部長であった 海軍中将 松本 和 ( かず/やわら ) に提供する条件を提示すると共に、ヴィッカース社には受注成功の際には、手数料収入の減少を補うために、従来の 3.5 % から 5 % へと増額するよう要請し認められました。 ( 9−2、松本 海軍中将 の ワイロ の使用方法 ) 発注に対する成功報酬 ( ワイロ ) の具体的な金額割合の提示が功を奏して、 ヴィッカース社との間で巡洋戦艦 〈 金剛、基準排水量 26,330 トン 〉 の建造契約が成立し、 日本側代理人の 三井物産は ヴィッカース社から 115 万円の手数料を得ましたが、これにより松本中将は約束に従い 三分の一 に当たる 約 38 万 3 千円の ワイロ を得ることになりました。 ちなみに大正 6 年 ( 1917 年 ) 当時の大卒 サラリーマンの初任給は 40 円 程度でしたが、現在の初任給を 20 万円 とすれば、その間の給料の上昇率は 5,000 倍 になります。そこから当時の 38 万 3 千円の ワイロを現代の貨幣価値に換算すれば 19 億円 に相当します。 松本中将は取調べの際に ワイロは私腹を肥やすためではなく、将来 海軍大臣になった ( ? ) 際の 「 機密費 」 として使うためであったと自己弁護しましたが、それは全くの ウソであり、ワイロで得た カネで彼が真っ先にしたことは 不動産の購入 でした。大正 3 年 ( 1914 年 ) 5 月 29 日に宣告された高等軍法会議の判決の理由書によれば、
[ 再掲 ]( 9−3、判決と戦艦 金剛の その後 ) ![]()
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