大奥のこと
[ 7 : 将軍の日常生活 ]将軍の一日は明け六つ ( 午前 6 時頃 ) の起床で始まり、朝食を摂る間に、御髪番 ( おぐしばん ) の小姓が髪を結いました。五つ半 ( 午前 9 時頃 ) には先祖の位牌を拝むために大奥に入り、裃 ( かみしも ) に着替えて御台所 ( みだいどころ、正室 ) と共に仏間に行きお参りします。 四つ ( 午前 10 時頃 ) には総触れ ( そうぶれ ) といって、将軍に直接拝謁 ( はいえつ ) 可能な有資格者である 御目見得 ( おめみえ ) 以上の奥女中全員が将軍に ご機嫌伺い ( ごきげん うかがい ) をしますが、左図はその様子です。 午後は政務を決済し時間があれば 「 表 」 で剣術や弓術の稽古をしましたが、入浴は夕方でした。湯殿で風呂を沸かす通常の方式ではなく、他所で沸かした湯を桶で運び込み浴槽に入れて湯加減をする方法でした。 本丸御殿には将軍の寝室が 二箇所ありましたが、中奥 ( なかおく ) にある独り寝用の寝室と大奥にある女性と過ごす寝室でした。大奥で泊まる時には夕方にその旨を大奥に伝える必要がありましたが、その役目をしたのが大奥から男性の領域である中奥に自由に出入りできる御 ( 伽 ) 坊主 ( おとぎ ぼうず / おぼうず ) と呼ばれた女性でした。 彼女は頭を剃って僧の形をし黒い羽織を常用していましたが、外見上は女性でも男性でもない 中性で そのような扱いを受けましたが、この役職に就く人の年齢は 50 才前後で、子供を亡くしたり頭髪の薄い者などがこの役に就いたといわれています。 ( 7−1、 小中華思想 と外国文化の取捨選択 )長年中国の属国だった朝鮮は 中国の文化 ・ 制度を 非常に崇拝する 一方で、世界文明の中心とされた中国の次に自国を位置付けして うぬぼれ 、周辺諸国を野蛮人と見下す 小中華思想 ( しょう ちゅうか しそう、思想 ) に凝り固まりました。 かつて中国の後宮には俗に 三千人といわれるほど多くの女性がいましたが、それを管理するために 宦官 ( かんがん、注 :1 参照 ) の制度がありました。朝鮮は この 宦官の制度 や 中国姓 ( 注 : 2 参照 ) を取り入れ、さらに 新羅 ( しらぎ ) では 国王の名称の代わりに 「 皇帝 」 と呼ぶ など、中国の制度を ひたすら模倣 ( もほう、マネ ) しました。注:1 ) 宦官 ( かんがん)その一方で日本は仏教や漢字は中国から取り入れたものの、宦官 ・ 中国風の姓への改姓 ・ 中国の年号使用などとは無縁でしたが、そこには朝鮮人のように中国のものならなんでも競って取り入れ模倣したりせず、 国情に合ったものだけを取り入れる という、 取捨選択 ( しゅしゃ せんたく、悪いものを捨て、良いものを選び取ること ) の 知恵 や 民族としての アイデンティティー ( Identity、主体性 ) を持っていたからでした。 ( 7−2、将軍 お床入りの手順 )
この 御添寝役制度 ( おそいねやく せいど ) ができたのは、 小姓 ( こしょう ) に次ぐ将軍側近の雑用係であった小納戸役 ( こなんどやく ) から、巧みな ゴマ 摺りで立身出世し第五代将軍綱吉の傍用人 ( そばようにん )、後に老中 ・ 大老と破格の出世をした 柳沢吉保 ( やなぎさわ よしやす ) が原因とされます。 柳沢吉保の父の柳沢 安忠は上野国 ( こうずけのくに、群馬県 ) 館林藩 ( たてばやし はん ) の 勘定頭 ( 160 石 ) でしたが、その息子だった吉保 ( 当時は房安、ふさやす ) は、7 歳で館林藩主の徳川 綱吉 ( 19 歳 ) の小姓となって館林御殿に上がりました。その後 第四 代 将軍家綱に後継ぎがなかったことから1680 年に 綱吉がその養子として江戸城に入り、同じ年に家綱が 40 才で死亡したため 五代・将軍になりましたが、館林から連れてきた柳沢吉保を傍に仕えさせました。 世間の ウワサによれば、生類憐みの令で知られ、好色でも評判の将軍綱吉に 吉保は側室の飯島染子 ( そめこ ) を大奥に差し出しましたが同衾 ( どうきん ) した際に、染子が寝物語で柳沢吉保へ甲府 100 万石 を賜るように綱吉に 「 おねだり 」 し、綱吉が 一札書いたたものの、まもなく綱吉が病気になったので、このことは沙汰止みとなりました。 しかし、このような事態の再発を防ぐために幕府は、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性 2 名 を将軍の寝所に泊まらせて、 「 おねだり 」 防止のために 「 御添寝役制度 」 ができたとする説がありました。 ところで私が子供の頃に住んでいた東京都 ・ 豊島区 ・ 巣鴨の 「 とげぬき地蔵 」 近くの家から、歩いて 40 分ほどの所に回遊式 築山 泉水庭園の 六義園 ( りくぎえん、文京区 ・ 本駒込 6 丁目 ) があり、何度も訪れたことがありましたが、そこはかつて柳沢吉保の下屋敷があったところで、彼が作った約 2 万 7 千坪の庭園があり今も有料で見ることができます。 記録に依れば ( 注 : 参照 ) 将軍綱吉が六義園を 58 回も訪れた といわれていますが、それほど頻繁に柳沢吉保の下屋敷を訪れた理由は、その度に吉保が妻の定子含む女性を提供したからとも当時の世間で ウワサ され、彼の長男の柳沢吉里 ( よしさと ) も実は将軍綱吉の子であった (?) とも巷間 ( こうかん、ちまたで ) いわれていました。注:) 柳沢吉保の年譜 [ 8 : 吉宗の大奥法度 ]法度 ( はっと ) とは武家時代の 「 おきて 」 ・ 法令であり、禁止されている事柄を示したものですが、近世においては徳川幕府によりいろいろな法度が公布されました。1615 年に制定された武家諸法度 ・ 同じく禁中 ( きんちゅう、朝廷 ) 並 ( ならびに ) 公家諸法度 ・ 寺院法度 ・ 諸士法度などですが、その中には前述のように第 2 代将軍 秀忠が制定した大奥法度 ( おおおくはっと ) もありました。その後徳川幕府の政治基盤が確立し天下太平の世が続きましたが、それと共に大奥の女性の生活が 華美 ・ 贅沢になり大奥の規律が乱れる ようになりました。そこで第 8 代将軍 吉宗が、享保元年 ( 1721 年 ) に大奥法度 19 条を定めました。さらに享保 6 年 ( 1726 年 )4月には 華美な衣装を禁じる法度が発布されました。
定
誓詞
[ 9 : 春日局の直訴 ]大奥で権力を振るった女性の ナンバー ワンといえば、三代将軍徳川家光の乳母 ( うば、めのと ) の斎藤 福 ( ふく ) 、後の春日局 ( かすがの つぼね、1579〜1643 年 )でしたが、元は稲葉正成の妻といわれています。三代将軍の家光 ( 幼名、竹千代 ) は 二代将軍秀忠の次男 ( 長男は幼くして死亡) に生まれましたが、幼い頃から 病弱 で ドモリ ( 実は私も幼い頃 ドモリ でした ) ・ 容貌不細工 ( ようぼう ぶさいく、これも私と同じ ) のために、利発で端正な顔立ちの三男の国松 ( 後の忠長 ) に父母の愛が傾き、竹千代は冷遇されました。 このままでは将軍職は竹千代ではなく、弟の国松に譲られる危険を感じた乳母の斎藤 福 ( 春日局 ) は、以前に大御所の徳川家康から 「 お手が付いた 」 関係 (?) を利用して引退した家康に、一説によれば 「 お伊勢参り 」 を口実に駿府 ( すんぷ、旧 ・ 静岡市 ) に赴き窮状を訴え、将軍職を竹千代に譲るように直訴 ( じきそ ) しました。 その結果家康が駿河から江戸に出向くことになり江戸城西の丸御殿に入りましたが、幕府の公的記録である 徳川実記 ( じっき ) の台徳院殿 ( だいとくいんでん、徳川秀忠の戒名 ) 巻 17 ・ 慶長 16 年 10 月の記述によれば、( ) 内は管理人が記入御兄弟の御孫君 ( おんまごぎみ ) も御相伴 ( おしょうばん ) の座を設けられしをご覧じ、大御所 ( 家康 ) 大に御けしき損じ国松君に付きそひし女房等にむかはせ給ひ、竹千代は正しき儲副 ( ちょふく ) の事なれば相伴あるべきなり。 国松は庶流 ( しょりゅう )なれば行末 竹千代が家頼 ( けらい ) となり、忠勤を抽 ( ひく ) べき身なり。いかで君臣位を同じくして座を並べんや。 [ その意味 ]さらに家康は内々に将軍秀忠に対して 嫡 ( ちゃく、後継ぎの竹千代 ) を廃し、庶 ( しょ、本来後継ぎではない、国松 ) を立てることは天下乱れる基であると諭 ( さと ) したので、竹千代改め家光が三代将軍に就任することができました。 そのことを家光は恩義に感じて日光に家康を祀る東照宮を建造すると共に斎藤 福 ( 後の春日局 ) を重用したので、福は大奥で絶大な権力を振るうだけでなく、政治面でも影響力を行使しました。ちなみに 15 人もいた徳川将軍の正室で世嗣となる子供を産んだのは、家光 ( 竹千代 ) を産んだ 2 代将軍秀忠の正室、 お江与 ( えよ、別名 おごう ) の方 だけでした。 彼女は浅井長政 ( あざい ながまさ ) の三姉妹の末娘として現 ・ 滋賀県長浜市で生まれ 豊臣秀吉の側室 淀君の妹であった彼女は、 三度目の結婚相手として秀忠と結婚し 2 男 5 女を生みましたが、乳母の斎藤 福 ( 春日局 ) が大奥で権勢を振るえるようになったのは お江与 ( おえよ ) の死後のことでした。 ( 9−1、無理が通れば道理が引っ込む ) 2009 年 12 月 14 日のこと、中国の次期国家主席と前評判の高い 習 近平 ( しゅう きんぺい ) 国家副主席が来日しましたが、天皇陛下との会見には スケジュールの調整上 1 ヶ月前に申請の慣行があったにもかかわらず、それを無視した会見申請がありました。宮内庁が困難である旨の回答を再三したにもかかわらず、鳩山首相の指示により会見が実施されました。 その経緯とは同年 12 月 10 日から 13 日までの 4 日間、小沢党幹事長が小沢 チルドレンの議員 143 名を含む合計 626 名の大訪中団を組織して 訪中朝貢 ( ほうちゅう ちょうこう、中国への ご機嫌伺い ) をした際に相手から便宜を図ってもらったので、そのお返しとのことでしたが、彼等の訪中目的とは国家的行事とは無関係な、単なる 小沢派閥の勢力誇示 にしか過ぎませんでした。 ところで寛永 6 年 ( 1629 年 ) に斎藤福 ( 春日局 ) は大御所徳川秀忠の内意を受けて上洛しましたが、当時の慣行ではたとえ将軍家光の乳母といえども、無位無冠 ( むいむかん、位階や官職が無い ) である 下賤の身分の者 が天皇に拝謁 ( はいえつ ) することなど到底不可能なことでした。ところが幕府の強い圧力に屈した朝廷では、斎藤福を 形式上 公家の養子にする案を考えました。 そこで武家伝奏 ( ぶけ てんそう、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目 ) の三条西 実条 ( さんじょうにし さねえだ ) の猶子 ( ゆうし、養子 ) ということにして 三条西 藤原福子と名乗り、第 108 代 ・ 後水尾天皇 ( ごみずのお )や徳川秀忠の 五女であった中宮 ・ 和子に拝謁 ( はいえつ ) して 従三位の位階と 春日局 の名号 ( めいごう )を賜りました。 3 年後に再上洛した際には 「 従 二位 」 に昇進しましたが、 右上図は朝廷における高位の女官が着る十二単 ( じゅうにひとえ ) に代わる出仕着 ( しゅっしぎ、通常着 ) である白小袖 ( しろこそで ) と 緋袴 ( ひのはかま)、別名を 紅袴 ( くれないのはかま) ) を着た春日局です。 ( 9−2、十二単は未婚女性の専用ではない )
皇室に嫁入りする際に 正田美智子さん ( 現 ・ 皇后 )、小和田雅子さん ( 現 ・ 皇太子妃 )、あるいは清子内親王 ( さやこないしんのう、現 ・ 黒田清子、写真 ) などが着たために、十二単衣 ( じゅうに ひとえ ) のことを 未婚の 高貴な女性が着るもの、あるいは婚礼衣装などと誤解している人がいますが、古く平安時代から未婚 ・ 既婚にかかわらず高貴な女性が着ていました。 昵 ( むつる ) が ( の ) 郎等 ( ろうとう、家来 )、熊手を下ろして御髪 ( みぐし ) をから巻きて御舟へ引き入れ奉る。弥生 ( 三月 ) の末の事なれば、藤重 ( ふじがさね ) の 十二単 ( じゅうに ひとえ )の御衣 ( おんぞ ) を召されたり。とあり、平家が壇ノ浦の海戦で滅亡した際には、平清盛の次女で第 80 代 ・ 高倉天皇の中宮 ( ちゅうぐう ) であり、第 81 代 ・ 安徳天皇 ( 当時 7 才 ) の生母の建礼門院 ( 徳子 ) が 十二単を着たまま入水し 、源氏の兵が熊手で建礼門院の 髪の毛をからめて舟に引き寄せ救助しました。上図は福岡県 ・ 北九州市 ・ 門司区の めかり第 2 展望台にある、陶板製の源平壇之浦合戦絵巻です。 [ 10 : 子供製造機の将軍家斉 ]江戸幕府における歴代 15 人の将軍のうち、最も好色だったのは第 11 代 ・ 将軍の徳川家斉 ( いえなり、在位 1787〜1837 年 ) でした。彼は 14 才で将軍になり将軍職に留まること実に 50 年の新記録を作り、引退後も大御所 ( おおごしょ、前将軍 ) として政治の実権を握り、隠居所である江戸城 ・ 西丸 ( にしのまる ) 御殿の大奥にあって女色にふけりました。一説によれば家斉が 「 お手付き 」 をした御中臈 ( おちゅうろう ) の数は 40 人 で、そのうち子供を産んで 「 お部屋様 」 になったのが 16 人、これと正妻である御台所 ( みだいどころ ) の合計 17 人の女性から、 合計 55 人の子供 が生まれましたが その内訳は男子 28 人、女子 27 人でした。
しかしながら成長したのはそのうちの半数に当たる 25 人 ( 男 13 人、女 12 人 ) で、最初の子が生まれたのが 1789 年であり、最後の子が生まれたのが 1827 年でしたので、 38 年間に 55 人 つまり 1 年半おきに子供が生まれた計算になりますが、家斉はあたかも オットセイ集団の ボスのような役目を果たしていました。 ( 10−1、子供の後始末 ) 25 人もいた将軍家斉 ( いえなり ) の子供たちをどうすべきかが幕府にとっても頭の痛い問題でしたが、そこで大名たちの息子の嫁や娘の婿に、 あるいは養子に押しつけることにしました。押しつけられた大名たちは、さぞ迷惑だったに違いありません。因幡国 ( いなばの くに、鳥取 ) の藩主池田斉稷 ( いけだ なりとし ) もその被害をまともに受けた一人でしたが、第 8 代藩主の彼には結婚後すぐに男子が生まれなかったので、長女の喜代姫に将軍家斉の子 斉衆 ( なりひろ ) を 婿養子に 押しつけられました。 ところが池田斉稷 ( なりとし ) に待望の長男 ( 斉訓、なりみち ) が誕生すると、今度はその長男 ( 後の 9 代池田藩主 ) に 将軍家斉の 第 51 女 であった泰姫 ( やすひめ ) との間で 婚約をさせられました 。その後 斉訓 ( なりみち ) は 1840 年に 14 才の泰姫と結婚しましたが、不運にも翌年に夫の斉訓が 21 才で死亡したため、泰姫 ( やすひめ ) は僅か 15 才で未亡人となり 寂しく江戸城に戻りました。 ところで天保 9 年 ( 1838 年 ) の記録によれば、大御所になった家斉 ( いえなり ) に仕えた西の丸御殿に住む大奥の女性が 606 人、本丸御殿の大奥で 12 代 ・ 将軍家慶 ( いえよし ) に仕えた女性が 279 人でしたので、現将軍と前将軍の 2 名の男性のために、885 人の女性 が働いていたことになります。( 10−2、水戸藩にもいた同類 ) 子作りに励んだのは水戸藩 35 万石の第 7 代藩主 ・ 徳川 斉昭 ( とくがわ なりあき ) も同じでした。彼には 22 男 15 女の合計 37 人 の子供がいましたが、男子のうちで長男慶篤 ( よしあつ ) と 七男の 七郎麻呂 [ しちろうまろ、 後の慶喜 ( よしのぶ )] だけが正室が産んだ子でした。 慶喜は 1847 年に 一橋家に養子に行き、その後 徳川家 最後の将軍となった 第 15 代 ・ 将軍慶喜 ( よしのぶ ) になりました。銅像は徳川 斉昭。[ 11 : 日本史上初の、 公武御一和 ]これまで徳川将軍家は権威付けのために、代々公家 ( くげ ) の姫君を御台所 ( みだいどころ、正室 ) に迎えてきましたが、幕末になると大老の 井伊直弼 ( いい なおすけ、 1860 年に暗殺 ) が主導して 幕藩体制の再編強化を図る ために、 第 120 代 ・ 仁孝天皇の第 8 皇女で孝明天皇の異母妹に当たる 和宮 ( かずのみや、1846〜1877 年 ) を幕府の第14 代 ・ 将軍家茂に降嫁させ、朝廷の権威と幕府を結び付ける、 公武御一和 ( こうぶ ごいちわ、朝廷と幕府がひとつになり協力する、公武合体 ) をおこなうことになりました。 その当時和宮は既に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王 ( ありすがわのみや たるひとしんのう ) と婚約済みでしたが、それを破棄して いやいやながら第 14 代将軍 ・ 徳川家茂 ( いえもち ) の正室に降嫁 ( こうか ) しましたが、文久 2 年 ( 1862 年 ) 2 月の 16 才のことでした。 ( 11−1、御風 ( ごふう ) 違い )過去の歴史を見ると第 112 代 ・ 霊元天皇の側室の娘であった八十宮 ・ 吉子内親王( やそのみや よしこ ないしんのう ) が当時僅か 7 才の第 7 代将軍家継 ( いえつぐ ) と婚約したものの、家継が 8 才で病死したため降嫁は実現しませんでした。天皇家の娘 ( 和宮 ) が武家に嫁入りしたのは、日本史上これが最初で最後となりましたが、その際に朝廷側が 五箇条の条件を出していました。そのうちのいくつかは、 でしたが、続徳川実記 [ 昭徳院殿、( 徳川家茂の戒名 ) 御実記 ] によれば、婚礼当日に和宮を 「 御台様 」( みだいさま ) と呼ぶように大目付 ・ 御目付へ発令されました。ところが 9 ヶ月後の文久 2 年 11 月 23 日には、「 御台様 」 から 「 和宮様 」 へと呼び方 ( 称号 )を変更する通達が出されました。 御台様御事御所向ニ而ハ和宮様ト被称。当地ニ而ハ御台様ト奉称候処以来於当地モ和宮様ト可被称候 [ その意味 ]つまり和宮側が将軍の正室である 「 御台所 」( みだいどころ ) という称号を拒否したのでした。 さらに和宮が嫁入りする前に内親王宣下 ( ないしんのう せんげ、内親王にするという天皇のお言葉 ) を頂いたことで、これにより夫の征夷大将軍 ・ 家茂 ( いえもち ) や姑 ( しゅうとめ ) の天璋院 ( てんしょういん ) よりも、嫁の方が 「 上の位 」 に立つ事態になりました。 当初は関東の武家風を固執する天璋院 ( てんしょういん ) 付きの奥女中 260 人と、京都御所風を主張する和宮付き女中 280 人が御風違い (ごふうちがい、しきたり、習慣の違い ) から対立し 1 の条件がほとんど守られずに、和宮が前述の天璋院 ( てんしょういん ) と対面した際には、天璋院が 三枚重ねの座布団に座り、和宮には座布団が出されていなかったので、天璋院側の仕打ちに和宮が涙したこともありました。 しかし将軍家茂 ( いえもち ) との結婚生活は長くは続かず、夫の家茂が再度の長州征伐に赴いた際に大阪城で僅か 21 才で、 脚気が原因で死亡 ( 1866 年 ) したため、結婚生活も 4 年半で幕となり、彼女は出家して 静寛院宮 ( せいかんいんのみや ) と称しました。 ( 11−2、非常時に力を発揮した女性たち ) 1867 年に大政奉還がおこなわれ徳川家が天下の覇権 ( はけん ) を失うと、彼女と天璋院 ( てんしょういん ) は嫁 ・ 姑の垣根やこれまでの不仲を越えて、徳川家の一大事 ・ 存亡の危機に際して互いに協力し合いましたが、その目的とは、
私事も当家滅亡を見つつ ながらへ居り候も残念に候まま、急度覚悟致し所存に候 [ その意味 ]とありました。その一方で 天璋院 ( てんしょういん ) が実家である薩摩藩や西郷隆盛に宛てた書簡には、 徳川家の存続を私事一命にかけ、是非是非お頼み申します。 ( 命にかけて、つまり自害する覚悟で )とありましたが、孝明天皇の妹であった 和宮の朝廷人脈 の利用と、薩摩藩主 ・ 島津斉彬 ( しまづ なりあきら ) の養女になり、さらに 五摂家 ( ごせっけ、関白に任ぜられる 五つの家柄 ) の筆頭である近衛忠煕 ( このえ ただひろ ) の養女となって徳川将軍家に嫁入りした 天璋院 [ 篤姫 ( あつひめ )] の 薩摩藩への人脈 を利用した嘆願 ( たんがん ) が功を奏しました。 江戸総攻撃が迫る中で高輪の薩摩藩邸で東征大総督府 ・ 参謀の西郷隆盛と、幕府 ・ 陸軍総裁の勝海舟による二度目の会談が行われた結果、江戸総攻撃による江戸市中の焼き討ちが回避され、江戸城の無血開城をもたらしましたが、世紀の会談成功の裏には幕府側の二人の女性による懸命な働きかけがあったからであり、 この事実は あまり人に知られずにいました。 最後の将軍となった 15 代 ・ 徳川慶喜 ( よしのぶ ) の正室であった美賀子 ( みかこ ) は 一条家の出身で養父は一条忠香であり、明治天皇の皇后になった 一条美子 ( いちじょう はるこ、後の 昭憲皇太后、しょうけん こうたいごう ) は美賀子の義妹に当たりました。 見方を変えれば 1868 年に始まり 1 年半続いた維新政府軍と旧幕府軍との内戦である戊辰戦争 ( ぼしんせんそう ) は、親戚同士 ・ 義理の兄弟に当たる明治天皇と徳川慶喜との戦いであり、和宮にとっては生家 ( 朝廷 ) と婚家 ( 徳川家 ) との、天璋院 ( てんしょういん、13 代 ・ 将軍徳川家定の正室 ) にとっては、実家の 島津家と婚家 徳川家との戦いでもありました。 [ 12 : 歴史の たら ・ れば ]歴史とは皮肉なもので新政府の東征大総督に任命されたのは、和宮のかつての婚約者 有栖川宮 熾仁 ( ありすがわのみや たるひと ) 親王でしたが、和宮は はからずも 旧婚約者とは 敵対する立場 に立たされました。 結論的には前述の徳川側が提出した 3 件が全て受け入れられて将軍慶喜 ( よしのぶ ) の朝敵の汚名も挽回され 、明治 17 年 ( 1884 年 ) に華族令が制定された際には、慶喜に 5 段階爵位の トップである 公爵 ( こうしゃく ) の位が授与されましたが、和宮 ( 改め 静寛院宮、せい かんいんのみや ) はこれを知ることなく明治 10 年 ( 1877 年 ) に、夫と同じ脚気衝心 ( かっけ しょうしん、心筋障害 ) により 32 才の若さで亡くなりました。 歴史に 「 たら ・ れば 」 は禁句 ですが、16 才で徳川家茂 ( いえもち ) と 政略結婚 させられなけ れば 、当然 婚約者だった 有栖川宮熾仁親王 ( ありすがわのみや たるひとしんのう ) の夫人となり、夫が後に陸軍大将に昇進したことから、おそらく幸せな人生を歩んだであろうことが想像されます。天皇の義妹というこの上もなく高貴な身分に生まれたにもかかわらず、彼女の人生は歴史に翻弄 ( ほんろう ) されて苦労を重ね、しかも子宝にも恵まれずに幸せというにはほど遠い 短かすぎる人生を閉じましたが、たぶん 不幸な星を背負って 生まれてきたから だと思います。 [ 13 : 不運な星に生まれた、和蛮公主 のこと ]和蛮公主 ( わばん こうしゅ ) とは中国の前漢や 唐の時代に 政略上 、異民族の王や部族の長に 嫁 ( とつ ) がされた 王族や後宮の女性 のこと をいいますが、公主とは一般に天子の娘、または皇族の女子をさします。 政略結婚の歴史 は古くから中国でもあり、前漢の時代 ( 紀元前 202 年 〜 紀元 8 年 ) に元帝の後宮の美女に 王昭君 ( おうしょうくん ) がいましたが、紀元前 33 年に匈奴 ( きょうど、注 1 : 参照 ) の王が漢の元帝の王女を妻に求めたので、 匈奴に対する親和政策 ( しんわせいさく、互いに仲良くするせいさく ) により王女の身代わりとして彼女が輿入 ( こしい ) れしました。 匈奴の王との間に 1 児を設けたものの 3 年後に夫が死亡したので、匈奴の習慣に従い彼の息子が王昭君を含む ハーレム ( Harem ) を継承しましたが、その結果、王昭君は義理の息子との間に 二人の娘を生みました。義理の息子との結婚をなんと呼ぶのか知りませんが、似たようなものに世界には古代から レビレート ( レビラト ) 婚 ( 注 : 参照 ) の習慣がありました。注 : )後漢時代 ( 25〜220 年 ) に書かれ前漢時代の西京 ( 長安 ) の雑事を記録した逸話小説集である 西京雑記 ( せいけいざっき ) の 「 王昭君 」 によれば、彼女が選ばれた経緯について、 元帝の後宮には女性が何百人もいたので、帝は画家に妃や宮女たちの肖像画を描かせ、それを見て気に入った妃や宮女を呼び寄せて寵愛しました。そのために宮女たちは画家に賄賂を贈り肖像をより美しく書いてもらいましたが、その金額は多いのもで 10 万銭、少ないもので 5 万銭を贈りました。しかし王昭君だけはそれをしなかったために、醜い肖像画が出来上がりました。右図は王昭君を醜く描く画家の様子です。 元帝は肖像画を見て最も醜い彼女を匈奴に送ることにしましたが、出発に際した式で王昭君を初めて見た元帝はその美しさに驚きましたがあとの祭りで、匈奴へ送る女性を変更するには遅すぎました。そこで賄賂により作品に手心を加えて肖像画を描いた画家は、財産を没収され斬首刑に処せられました。唐の有名な詩人 李白 ( りはく ) が作った 「 王昭君 」 の詩があります。 王昭君という彼女の悲しい運命を詠んだ漢詩でした。 日本では平安時代末期の 1120 年以後に成立し、1,059 編の説話 ( せつわ、民間に伝わる話 ) を記した 「 今は昔 −−−の言葉で始まる 」 作者不明の今昔物語集 ( こんじゃく ものがたり しゅう ) がありますが、その第 10 巻 ・ 第 5 話に、 「 漢前帝后王昭君行胡国語 」 ( 漢の前帝の きさきの王昭君が、ここくにいくはなし ) と題して記されています。 今 ( ハ ) 昔 震旦 ( しんたん ) ノ漢ノ前帝ノ代ニ天皇、 大臣 ・ 公卿ノ娘ノ形 ( かたち ) 美麗ニ有様微妙 ( めでた ) キヲ選ビ召ツ見給テ宮ノ内ニ皆居ヘテ、其ノ員四五百人ト有リケレバ−−−、 [ その意味 ]さらに 7 世紀には 一大帝国を築いた唐王朝 ( 618 〜 907 年 ) の皇帝太宗の時代に、吐蕃 ( とばん、現 ・ チベット ) が太宗の娘 ( 養女 ) との結婚を求めてきたので、皇女の 文成公主 ( ぶんせいこうしゅ、623 年 頃〜680 年 ) がはるか数千 キロ離れた地の果ての 吐蕃 ( とばん、現 ・ チベット ) に輿入れしました。 注 1 : ) 匈奴ちなみに漢書 ・ 蘇武伝 ( そぶでん ) によれば、前漢の名臣 蘇武 ( そぶ、? 〜 紀元前 60 年 ) は匈奴 ( きょうど ) に使いして捕らえられ帰順 ( きじゅん、服従すること ) をすすめられたが節を曲げず、 バイカル湖のそばで 19 年間羊を追って暮らしましたが、南に向かう雁 ( かり ) の足に手紙を結びつけて漢帝に便りをしたという故事があり、手紙のことを 「 雁の使い 」 ともいいます。 後に前漢と匈奴の和議が成立し幸運にも蘇武は紀元前 86 年に帰国することができましたが、王昭君の悲劇はそれから 53 年後のことでした。 [ 14 : 雑草なりの、運命の星 ]遙か古代に前漢や唐の都であった長安から、遠く離れた異境の野蛮人の元へ 嫁入りさせられた和蛮公主 ( わばんこうしゅ ) や、幼い頃からの 婚約を破棄させられ徳川家茂に臣籍降下 ( しんせきこうか ) させられた 和宮などの高貴なお方の運命を思うと、お気の毒の一語に尽きます。 和宮の死から 56 年後に生まれた不肖 ( ふしょう、愚かな ) 私などは、生まれも育ちも下賤 ( げせん、いやしい ) の身で、敗戦の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 以後に しばらく住んだ栃木県の村では、本校の他に小学校の分教場が 二つもある僻地 ( へきち ) でした。 しかも水道水や井戸水も無かったので、代わりに 家の裏を流れる小川の水を毎日飲んで育ちました。 20 年ほど前から日本では水道水を飲む代わりに 「 なんとかの 水 」 を購入して飲む人が増えましたが、 水道水が飲める生活だけでもありがたい と思っていた私にとっては、考えられないことでした。 戦災孤児 にもならずに生き残り、敗戦後の混乱した世の中も 雑草らしく しぶとく生き続けた結果、 数えの 80 才を迎えることができましたが、これはひとえに 「 雑草なりの運命の星 」 を頂いてきたからだと思っています。さらに敗戦前年の昭和 19 年 ( 1944 年 ) に長野県の山奥の寺に 学童集団疎開 に行くまで地域の氏神様として、毎年の初詣にお参りし出征兵士を社頭で見送り武運長久 ( ぶうんちょうきゅう ) を祈った、東京の JR 山手線 大塚駅近くの天祖神社 ( てんそ じんじゃ、左上の写真 ) や、敗戦後に住んだ僻地の村にある鎮守様 ( ちんじゅさま、土着の神を鎮めて村落 ・ 氏子を守る ) の御加護 ( ごかご ) によるものと人知れず感謝しています。
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