古代史と天皇 ( 続き )
[ 6 : ワカタケル 大王とは何者か ]五世紀中頃から後半にかけて近畿地方はもちろんのこと、東は武蔵国 ( 埼玉県 ) から西は肥後国 ( 熊本県 ) に至るまでの広大な範囲を勢力範囲に収め、その名前が複数の古墳から出土した刀剣に刻まれていた ワカタケルという大王 ( おおきみ ) の存在が証明されましたが、その当時 形成されつつあった ヤマト中央集権国家の首長と想像されます。古事記によれば 大泊瀬幼武尊 ( おおはつせ わかたけの みこと ) の名前を持つ 第 21 代、雄略 ( ゆうりゃく ) 天皇 ( 在位 456 ~ 479 年 ) がいましたが、大泊瀬 ( おおはつせ ) とは大王が居住した初瀬 ( はせ ) の地名に基づく呼称なので、大王はみずから ワカタケ つまり ワカタケル 大王と名乗ったことになります。 このことから彼は歴史上存在することが確認された 「 最初の大王 」 であり、記紀が伝える雄略天皇のことでしたが、重要なことは雄略天皇自身は未だ大王 ( おおきみ ) であり、 五世紀 後半 の日本では 天皇という称号 は存在しませんでした 。
倭の五王に出てくる人物を古事記や日本書紀から推定すると、下記のようになりますが、前述したように 五世紀末 までの日本には各地の部族制社会から豪族の葛城氏 ・ 吉備国(岡山県)の豪族である吉備氏 ・ 渡来人の秦氏 ( はたうじ ) などの氏族制社会に発展しました。 その首領である 「 王 」 や 大和 ( やまと ) ・ 河内 ( かわち ) 地方を基盤とする ヤマト政権 ( 大和朝廷 ) の首長の称号となった 「 大王 」 は存在しても、対外的には 「 大王 」 号は使用せず 中国に朝貢する際には 「 王 と自称しました 」 。
自分の父祖は代々日本列島と朝鮮半島の征服戦争を敢行 ( かんこう ) し、216 もの国を支配下に置いた。自分を倭と朝鮮半島の大部分を治める大将軍に任じて欲しい。その結果宋の順帝 ( 在位、477~479 年 ) は倭王の武に、「 使持節都督倭 ・ 新羅 ・ 任那 ・ 加羅 ・ 秦韓 ・ 慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王 」 の称号を与えました。しかし武王が要求した百済は除外されました。上表文の件をみても古墳時代中期の五世紀には、外交文書が書けるまでに漢字が普及していたことが分かります。 それと共に 「 大王 ( おおきみ ) 」 は存在してもその当時天皇が存在しなかった理由は、中国にそれまで 「 天皇という称号 」を持つ 統 一国家の支配者が存在しなかった からであり、属国であった 「 ヤマト政権の首長 」 は、「 称号 」 の存在を知らなかった、もしくは知っていても遠慮して使えなかったからでした。
[ 7 : 最初に天皇と称したのは、唐の高宗 ]中国では唐の時代 ( 618 ~ 907 年 ) になると第 3 代皇帝の高宗 ( 左図、こうそう、在位 649 ~ 683 年 ) が 初めて天皇と称しましたが 、彼以外の皇帝で天皇と称した例はありませんでした。つまり中国で天皇とは もっぱら道教 ( どうきょう ) などの 宗教上の 神 を指す言葉でした。 さらに皇帝のことを天子とも呼びましたが、 天子とは 天命を受けて地上を治める者の意味でした。儒教による政治思想の根本概念に 易姓 ( えきせい ) 「 革命 」 がありますが、王朝の姓を易 ( かえ ) る、つまり古い王朝が代わり新王朝が興 ( おこ ) るという意味です。具体的には、
天子は天命により天下を治めているが、天子の家 ( 姓 ) に不徳の者が出た場合には、天命は別の有徳者 ( うとくしゃ ) に下り ( 移り )、 命 ( めい ) が革 ( あらたまる ) = 革命 となり 、王朝は交代する。とする考え方です。 ちなみに唐は都を長安に置き、律令制 ( りつりょうせい )・ 均田制 ( きんでんせい )・ 租 庸 調 ( そ ・ よう ・ ちょう ) の税制を設け、府兵制 ( ふへいせい、兵農一致の兵制 ) による中央集権体制を確立し、文化が大いに興隆し当時世界の一大文明国になりました。 日本も 600 年から 618 年までの 18 年間に遣隋使 ( けんずいし ) を 5 回以上派遣したのに続き、 630 年から 894 年まで 16 回にわたり遣唐使を派遣して、随や唐から珍しい文物 ・ 新しい政治行政制度の導入に努めましたが、これにより日本にも 天子 ・ 天皇 などの概念や称号がもたらされました。右図の切手は、その遣唐使船です。 古代中国では天子が冊 ( さく、勅書 ) をもって諸侯や諸国の王に封禄 ・ 爵位 ・ 金印を授けたことから、中国を中心とする 冊封( さくほう ) 体制 が周辺諸国との間に存在していました。 前述した有名な魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん ) によれば、 239 年に邪馬台国の女王 卑弥呼 ( ひみこ ) が中国 魏 ( ぎ ) の皇帝へ使者を送り朝貢してきたので、魏の皇帝が多数の品を下賜するとともに、卑弥呼を 親魏倭王 ( しんぎわおう )に任じてその証 ( あかし ) である金印紫綬 ( しじゅ ) を与えました。 それだけに留まらず使者の難升米 ( なしめ ) と都市牛利 ( としごり ) には、銀印青綬 ( せいじゅ ) を授与し、5 尺の大刀 2 本と莫大な量の錦織 ・ 白絹など織物の反物 ( たんもの ) や毛織物、 それに 百枚の銅鏡 ・ 真珠 50 斤 ・ 鉛丹 50 斤などを贈りましたが、中国の歴代王朝で周辺国に対してこれほど立派な贈り物をした例はありませんでした。 その金印 ・ 銀印はこれまでに発見されていませんが、金印といえばすぐに思い出すのは 1784 年 ( 天明 4 年 ) に、福岡県 ・ 志賀島で甚兵衛という農夫が、偶然の機会に 漢委奴国王印 ( かんの わの なの こくおうのいん ) と彫られた金印を発見したことでした。これは 五世紀に宋の范曄 ( はんよう ) が書いた 後漢書の 「 東夷伝 」 のなかに、 建武中元二年 ( 西暦 57 年 ) 倭の奴国 ( わのなこく ) 貢 ( みつぎもの ) を奉じて朝賀す 使人 ( しじん ) 自ら大夫 ( たいふ ) と称す。倭国の極南界なり。光武 ( こうぶ、皇帝 ) 賜うに印綬 [ いんじゅ、官職の印 ( 金印 ) と、それを下げる組み紐 ] を以てす。とありました。さらに後漢書には 「 魏志倭人伝 」 には無い情報もありました。
国皆称 王 、世世伝統。其 大倭王 居邪馬臺国この 「 大倭王 」 については固有名詞とする説と、「 倭の大王 」 の意味とする説がありますが、倭 ( わ ) の女王卑弥呼 ( ひみこ ) が魏 ( ぎ ) へ使節団を派遣したのが 239 年であり、一世紀頃の話とは年代的に異なるので大倭王が女王 卑弥呼 ( ひみこ ) ではないことは確かです。
[ 8 : 日本における天皇号の成立 ]674 年以後 前述のように唐において第 3 代皇帝の高宗 ( こうそう、在位 649 ~ 683 年 ) が、皇帝の称号として初めて天皇号を使用しましたが、ヤマトに成立した中央集権国家の大王 ( おおきみ ) も、 やがて唐の影響を受けて天皇号を使用するようになりました。日本では第 40 代、天武天皇 ( 右図、在位 673~686 年 ) の命により 681 年に 飛鳥浄御原律令 ( 日本書紀に基づく名称、あすか きよみはら りつりょう ) の編纂 ( へんさん、資料を集めて本 ・ 文書を作ること ) が開始され、天武帝の皇后で帝の死後に即位した第 41 代、持統天皇 ( じとう、女帝 在位 690~697 年 ) が施行したと伝えられています。 図は奈良県・明日香村・飛鳥にあった飛鳥京で、上述の天武 ・ 持統天皇が住んだとされる飛鳥浄御原宮 ( あすか きよみがはらのみや ) の C G ( computer graphics ) による バーチャル ( 仮想 ) の正殿です。 その律令において 「 日本の国号 」 と共に、 天皇の称号 が定められたとされ、それ以後 制度的に定着しました 。しかし飛鳥浄御原律令の 律 ( りつ ) ・ 令 ( りょう ) 共に現存しないので詳細は不明ですが、第 42 代、文武 ( もんむ ) 天皇の治世の 701 年に制定された日本古代の基本法典である 大宝律令 ( たいほう りつりょう ) にも、この制度が受け継がれました。その儀制令 ( ぎせいりょう ) 第 1 条によれば、
と規定し、「 天皇 」 は 「 天子 」 「 皇帝 」 に並ぶ ( 同格 ) とされ、天皇の兄弟 ・ 皇子を 「 親王、しんのう 」、その他の子孫を 「 諸王、しょおう 」 と規定しました。 つまり 「 天皇 」 号が成立したのは 七世紀後半とされ 、701 年の大宝律令公布で 「 天皇 」 号が法制化される直前の 天武天皇ないしは持統天皇の時代 であり、唐の高宗が天皇と称した直後にあたります。 それとともに漢書 ・ 後漢書などの中国正史に習って 「 日本書 」 を目指して日本最初の勅撰の歴史書である日本書紀が 720 年に完成しましたが、神代から第 41 代、持統天皇 ( 右図の女帝、在位 690 ~ 697 年 ) までの歴史を漢文の 編年体で記したものでした。
[ 9 : 現在の天皇には呼び名が無い ]昔も今も 「 現在の天皇 」 ( つまり現役の天皇 ) には、「 00 天皇 」 のような 「 固有名詞の呼び名が無い 」 ことをご存じですか?。分かり易いように 「 現在の天皇 」 といいましたが、正しくは 今上天皇 ( きんじょう てんのう ) といいます。 昭和天皇を例にとると 1901 年 4 月 29 日に生まれ、 5 月 5 日に名前を裕仁 ( ひろひと ) 、称号を迪宮 ( みちのみや ) と命名されましたが、皇太子の間は 裕仁( ひろひと )親王 と呼ばれました。 しかし即位後は 裕仁 ( ひろひと )天皇 と呼ばれることは決してなく、「 天皇 」 以外の 呼び名はありませんでした 。もっとも英語では、 「 Emperor Hirohito 」 といわれていましたが--。 ちなみに美智子皇后のことを平民出身 ( ご成婚時の海外新聞の見出しによれば、Miller's Daughter、つまり粉屋の娘 = 日清製粉社長の娘 ) であったが故に 「 いじめ抜いた 」 、先代の香淳皇后 ( こうじゅん こうごう ) が、夫である昭和天皇を呼ぶ際には 「 おかみ ( お上 )」 だったといわれています。 なお天皇が亡くなった後に [ 敬語を使えば崩御 ( ほうぎょ ) された後 ] に、元号の 「 昭和 」 をそのまま天皇の諡号 ( しごう、贈り名 ) として 「 昭和天皇 」 としていますが、明治天皇以来の慣習です。 参考までに天皇の崩御後、まだ諡 ( おくりな ) が決まらない状態の天皇を、 大行天皇 ( たいこう てんのう ) または 「 さきの すめらみこと 」 と呼びますが、今上天皇などと同様にこれらの尊称については、敗戦後は死語になりました。なお 「 たいこう 」 とは、大きな仕事の意味です。太平洋戦争中に小学生だった私たちは、 天皇のことを 天照大神 ( あまてらす おおかみ ) の子孫であり、 現人神 ( あらひと がみ )、 つまり人の姿をした神であると教えられ、 「 天皇陛下 」 ( てんのう へいか ) いう尊称で呼びました。 マスコミなどは軍人の階級の最高位である 「 大元帥陛下 」 ( だいげんすい へいか ) ・ 天皇の顔を龍顔 ( りゅうがん ) ・ 体を玉体 ( ぎょくたい ) ・ 声を玉音 ( ぎょくおん ) と最大級の尊称で呼んでいましたが、現在の北朝鮮における ナンバー ・ ワン の金 正恩 ・ 父親の金 正日 ・ 祖父の金 日成に対する尊崇 ( そんすう ) の念 以上でした。 国民が天皇の肉声 ( 玉音 ) を初めて聞いたのは昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 15 日に、 ラジオで終戦の詔勅を読んだ時でしたが、敗戦の翌年 ( 1946 年 ) の 1 月 1 日には、天皇はいわゆる 「 人間宣言 」 つまり ( 新日本建設に関する詔書 ) を出して自らの神格を否定しました。( 9-1、 元号について ) 日本の元号 ( 年号ともいう ) は第 36 代、孝徳天皇 ( 女帝、在位 645 ~ 654 年 ) が 「 大化 」 と定めたのが最初でしたが、長い歴史の中で元号を変える 「 改元 」 は 天皇 一代で 3 ~ 4 回おこなわれるのが普通でした。 しかし飛鳥時代 ( 592 ~ 710 年 ) には 37代、斉明 ( さいめい ) ・ 38代、天智 ・ 39代、弘文 ( こうぶん )・ 40代、天武 ( てんむ )天皇の治世では元号の使用が中断され、 42代、文武 ( もんむ )天皇の 701 年に大宝律令 ( たいほう りつりょう ) でお馴染みの大宝 ( たいほう ) の元号が制定されて以来、現在まで一貫して元号が使用され続けています。 明治天皇の先代に当たる第 121 代、孝明天皇の場合は、嘉永 ・ 安政 ・ 万延 ・ 文久 ・ 元治 ・ 慶応と合計 6 回 も改元しましたが、黒船来航や幕末の乱世が影響したものと思われます。 一般に改元は天皇の即位 ・ 天災 ( 地震や飢饉 ) ・ 事変 ・ 祥瑞 ( しょうずい、めでたい事のあるしるし ) などの際に、 人心を 一新するためにおこなわれました。 祥瑞 ( しょうずい ) の例としては 749 年の奈良の大仏創建に先立つ 708 年に武蔵国 ( 埼玉県の秩父 )で純度が高く精錬を必要としない自然銅が発見されたので、第43代、元明天皇は喜び年号を和銅と改元するとともに、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎 ( わどうかいちん ) が作られました。明治以後は 一世 一元 ( いっせい いちげん、天皇 一代につき元号を 一つだけ使用 ) となり、1979 年 ( 昭和 54 年 ) に公布された元号法により、皇位の継承があった場合に限り、改元することになりました。 建武の中興 ( けんむの ちゅうこう、後述 ) をおこなった第 96 代、後醍醐天皇 ( ごだいご てんのう、在位 1318~1339年 ) と並び、改元の チャンピオン (?) と思われる室町時代 ( 1336~1573 年 ) に即位した第 102 代、 後花園天皇 ( ごはなぞの てんのう、在位 1428 ~ 1464 年 ) による、 8 回 の改元例を示します。
注 : 1 辛酉革命 ( しんゆう かくめい ) 古代中国の讖緯説 ( しんいせつ、経書の解釈に基づく予言的な学説 )で、干支 ( かんし、えと ) が辛酉 ( かのと ・ とり ) にあたる年には辛酉 ( しんゆう ) も干支 ( かんし ) ともに金性であり、かつ辛 ( しん ) は陰の気なので、人の心がより冷酷になりやすいとされた。 辛酉 ( しんゆう ) は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本において辛酉の年に改元する習わしは、政治的変革が起るのを防ぐ目的で、平安時代の昌泰 4 年 ( 901 年 ) の辛酉の年に元号を 「 延喜 」 ( えんぎ ) と改めたことから始まった。 注 : 2 甲子革命 ( かっし かくめい ) 甲子( かっし、きのえ ・ ね ) 革命も同様に辛酉革命の 4 年後を、すなわち変乱の多い甲子革令の年とされた。 注 : 3 三合 ( さんごう ) 陰陽道 ( おんようどう ) でいう厄年のひとつで、太歳 ・ 太陰 ・ 客気の 三神が合することで、災害が多いとする年。 ( 9-2、昭和 ・ 平成の元号の由来 ) 元号の 「 昭和 」 選定については中国の古典を根拠に行われましたが、書経の中に 九族既睦、平章百姓、百姓 昭 明、協 和 万邦 [ その読み方 ]というめでたい文章があり、それから引用したと言われていますが、60 年以上続いた元号は日本の昭和 ( 62 年 )、清朝の康熙 ( こうき、61 年 ) および乾隆 ( けんりゅう、60 年 ) しかありません。 ところで 「 平成 」 の場合は従来とは異なり、出典を 二つ持つ珍しい元号であるといわれています。右は元号を発表する、当時の小渕恵三官房長官 ( 後の第 84 代、 内閣総理大臣 )。
( 9-3、歴代の天皇に漢風の諡号を付けた者 ) 諡号 ( しごう ) の 「 諡 」 ( し ) は訓読みで 「 おくりな 」 ですが、 「 贈り名 」 を意味し、 主に帝王 などの貴人の生前の事績への評価に基づき、 死後に贈る名 ( 通常は褒め称えるもの ) のことです。この他に 「 追号 」 ( ついごう ) もあります。 諡号には和風と漢風がありますが、和風諡号の制度ができたのは、第 41 代、持統天皇 ( 在任、690~697 年 ) が最初であり、それ以後平安時代前期の第 53 代淳和 ( じゅんな ) 天皇 ( 在位、823~833 年 ) の日本根子天高譲弥遠尊 ( やまとねこ あめたかゆづる いやとおしの みこと ) までしかありません。 初代天皇である神武天皇から第 44 代、元正天皇 ( げんしょう、右図、女帝 ) までの歴代の天皇は、それまで何百年もの間、漢風 ( かんふう、中国風 )の諡号 ( しごう ) がありませんでした。 そこで奈良時代後期の文人で臣籍降下前は御船王 ( みふねおう ) と呼ばれ、その後は 大学頭 ( だいがくの かみ ) ・ 「 文人の首 」( ぶんじんの おびと ) と称された、 淡海三船 ( おうみ の みふね、722~785 年 ) が、中国の史書などを参考にして各天皇に漢風の諡号を選定しました。但し第 39 代、弘文天皇 ( 注参照 ) と 第 42 代、文武天皇を除きます。 それ以来初代天皇の 神武 、( じんむ ) ・ 2 代天皇の 綏靖 、( すいぜい ) ・ 3 代天皇の 安寧 、( あんねい ) ・ 4 代天皇の 威徳 、( いとく ) 天皇------などのように漢風諡号 ( かんふう しごう ) で呼ばれるようになりました。まもなく 81 歳になる私は、 恥ずかしながら 今回随筆を書くまで、 淡海三船 ( おうみの みふね ) のことを全く知りませんでした。 鎌倉時代末期の神祇 ( じんぎ、天の神と地の神 ) をつかさどる官人で神道家の 「 卜部兼方 」 ( うらべ かねかた ) が、従来の日本書紀の研究に 卜部家 ( うらべ家 ) の 「 家説 」 を加えて集大成した注釈書 全 28 巻からなる 「 釈 日本紀 」 ( しゃく にほんぎ ) がありますが、そこに記されています。これと間違い易い本の名前に 「 続 日本紀 」 ( しょく にほんぎ ) がありますが、こちらは平安時代初期の 797 年に成立した勅撰の歴史書のことで、第 42 代、文武天皇の治世である 697 年から第 50 代、桓武天皇の治世の 791 年までの 95 年間の事績を編年体で記したものです。 その 「 続日本紀 」 の大宝 3 年 ( 703 年 ) 12 月 17 日の記録によれば、日本で最初に火葬に付された天皇は第 41 代、持統天皇 ( 女帝 ) とされますが、その際の和風諡号 ( わふう しごう ) は 「大倭根子天之廣野日女尊」( おほやまと ねこ あめの ひろの ひめのみこと )とありました。 注 : 弘文天皇 ( こうぶん でんのう ) 弘文天皇は前述の淡海三船 ( おうみのみふね ) による漢風諡号 ( かんふう しごう ) 選定から除外されたが、その理由は第 38 代、天智天皇の死後 672 年に起きた皇位継承争いである 壬申の乱 ( じんしんのらん ) で、第一皇子の大友皇子 ( おおともの おうじ ) と天智天皇の実弟の大海人皇子( おおあまの おうじ、後の天武天皇 ) が争い、大友皇子が敗れて自殺したからであった。 歴史は勝者によって作られる の原則に従い、大友皇子改め弘文天皇 ( 右図、在位 671 ~ 672 年 ) が即位したことは日本書紀には記されず、歴史の上で千年以上もの間 天皇としての存在を抹殺されたままであった 。 しかし天皇制国家主義を定めた明治新政府によって、第 39 代天皇として認定され漢風の諡号 「 弘文天皇 」 が贈られたのは、その死から 1,198 年後の明治 3 年 ( 1870 年 ) のことであった。 [ 10 : 天皇制はなぜ、千三百年も存続したのか ]現在国連に加盟する国は 193 箇国 ( 2011 年統計 ) ありますが、そのうちで日本を除く立憲君主制、あるいは王国を名乗る国は、
( 10-1、天皇親政の放棄こそが、天皇制の長期存続理由 ) やがて幕府が日本全土を統治する実質的な政治主体 ( 政府 ) となりましたが、天皇は政治に関与せず、その機能は僅かに 形式的 ・ 儀礼的事項 ( たとえば征夷大将軍の叙任や朝廷席次にかかわる位階の授与など ) に限られるようになりました。後にはそれさえも、幕府の事前承認が必要となりました。 さらに徳川幕府は 1615 年に 17 条から成る 禁中並公家諸法度 ( きんちゅう ならびに くげ しょはっと )を定め、それまで天子 ( 天皇 ) は法 ( のり ) を越える存在であるとされていた慣習を破り、第 1 条において天子 ( 天皇 ) が従うべき規定を初めて設けました。つまり 天皇の地位は幕府の将軍よりも、 下位 に位置付けられるようになりました 。 一 天子諸藝能之事、第一御學問也 [ その意味 ] ひとつ、天子 ( 天皇 ) が修めるべきものの第一は、学問である。以下略徳川幕府が意図したところは天皇は学問さえすれば良く、政治のことなど考えるなということでした。 天皇が 「 親政主義を放棄し 」 統治権を時の権力者に譲った ( 奪われたと言うべきか? ) 結果こそが、天皇制をして鎌倉 ・ 室町 ・ 安土桃山 ・ 江戸時代へと続く、武士政権との 平和的共存 を可能にした最大の理由でした 。 これはイギリスの憲法を構成する慣習法が国王について、 君臨すれども統治せず ( The King reigns, but does not govern ) の方針を採ったのと似ていました。 もし各時代の天皇たちが第 96 代、後醍醐天皇のように 「 天皇親政主義 」 にこだわり続けたならば、1333 年の建武の中興 ( けんむの ちゅうこう、注参照 ) を何度も繰り返して対抗勢力と衝突し、やがて天皇家は滅亡してしまったに違いありません。 注 : 建武の中興 ( けんむの ちゅうこう ) 元弘 3 年 ( 1333 年 )、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して、天皇中心の公家政権を再興したという意味で 「 建武の中興 」 と呼ばれるが、実際には天皇独裁の性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族 ・ 大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害によって日本中が大混乱に陥り、諸国の相次ぐ反乱を招いた。 国内の治安は乱れ、庶民の生活の安定も維持できないという悲惨な社会状態となったが、建武年間記 ( 建武記 ) に収録されている 二条河原落書 ( 1334 年 ) によれば、各時代の天皇は幕府との共存において政治的権力や武力を失ったものの、神道に基づく宗教的権威だけは依然として保持することができました。神話に基づく 天照大神の子孫だけが日本を統治する という考えがまず成立し、この考えの元では前述した 「 中国の易姓革命 」 ( えきせいかくめい ) のような革命理論も 「 神の子孫である天皇 」 に対しては通用しませんでした。 そのためにいずれの時代においても天皇が 非親政主義 を貫き、神道の最高祭祀者としての枠内に留まる限りは、武家政権にとって自己の 「 権威付けの道具 」 としての利用価値があったために、天皇制は存続し続けることができました。 つまり天皇は利用されることに存在意義があり、戦勝国の アメリカ政府もそれを知っていたからこそ処刑せよというアメリカ国内の世論を抑えて戦犯として指名せずに、戦後の日本の統治に女王蜂 ・ 女王蟻の立場にあった天皇を利用したのでした。此頃都 ( このごろ みやこ ) ニ ハヤル物 夜討 強盗 謀 ( にせ ) 綸旨 ( りんじ、天皇などの命令 ) / 召人 ( めしうど ) 早馬 虚騒動 ( そらさわぎ ) / 生頸 ( 首 ) 還俗 自由( まま ) 出家 / 俄 ( にわか )大名 迷者 ( まよいもの ) / 安堵 ( あんど、土地の所有権や知行を将軍などが承認すること ) 恩賞 虚軍 ( そらいくさ ) 以下省略とあった。 後醍醐天皇は翌年 「 建武 」 と改元して人心の一新を図ったが、足利尊氏 ( あしかが たかうじ ) の離反にあい、2 年半で崩壊し、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を創設し京都の北朝と対立する南北朝時代となったが、その後 1339年に吉野で病死 ( 52 才 ) 。 [ 11 : 最後に ]今回 「 古代史と天皇 」 という題名で随筆を書くに当たり日本書紀の現代文訳をざっと読んでみましたが、720 年に成立したにもかかわらず、古代中国における有名な歴史書、例えば 「 漢書 」、「 後漢書 ・ 東夷伝 」、「 魏志倭人伝 」、「 宋書 ・ 倭国伝 」 などの日本に関する記録が、極めて僅かしか出てこないことに気付きました。 邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与 ( いよ ) も、男弟の存在も、私が読んだ範囲では書かれていませんでした。それだけではありません、607 年 ( 推古天皇 15 年 ) に、倭 ( わ ) の朝廷は小野妹子 ( 左図、おのの いもこ、男性 ) を中国の隋 ( ずい ) に遣隋使として派遣しましたが、この件は隋書に記録がありますが、日本書紀には書かれていませんでした。 小学生の時に国史で習った有名な箇所で、 「 当時冊封( さくほう ) 関係にあり従属国にすぎない小国の 「 日本 」 が、大国の隋 ( ずい ) に対して対等な立場からの国書を出して、 国威 を発揚した 」 と教育された部分です。隋書によれば、その国書に曰 ( いわ ) く、「 日出 ( ひ いず ) る処の天子 ( 日本 )、書を日没する処の天子 ( 隋 ) に致す、恙 ( つつが ) なきや ( 無事であるか ? ) 」 云々と。 帝 ( 皇帝 ) はこれを観て悦 ( よろこ ) ばず、鴻臚卿 ( こうろけい、外務大臣 ) に謂 ( い ) いて曰 ( いわ )く、「 蛮夷 ( ばんい ) の書、礼無き有らば復 ( ま ) た以て聞 ( ぶん ) する勿 ( なか ) れ ( 野蛮人の国 日本から無礼な文書が来たら、上奏するな )」663 年に朝鮮半島の群山付近にあった白村江 ( はくそんこう ) で、唐 ・ 新羅 ( しらぎ ) の連合軍と、日本 ・ 百済 ( くだら ) の連合軍が戦ったものの日本側が大敗しました。その結果百済は滅亡し、日本は朝鮮進出を断念し新羅が朝鮮統一に一歩前進しました。 その状況下で失われた我が国のアイデンティティや自信を再構築するために、天武天皇が日本書紀を作ることを決めましたが、当時の ヤマト朝廷にとって都合の悪いこと ・ 日本国の後進性を隠すために、資料の意図的な取捨選択 ・ 改ざんが行われたと解釈するのが自然でした 。 つまり 歴史は書き換えられる ものであり、それは現代に限らず 千三百年以上前の日本でも、おこなわれていたのでした 。
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