敗戦
[ 1 : 玉音放送 ]昭和 20 年 ( 1945 年 ) の夏が来ても疎開児童には、夏休みはありませんでした。勤労奉仕という名目で、働き手を失った出征兵士の留守宅や戦死者の遺族の家などの農作業の手伝い、あるいは開戦まで長野県の主要産業であった養蚕に必要不可欠であった桑畑の桑の木を、食糧増産のために機械で引き抜き、普通の畑に変える農作業などに従事しました。 そして乏しい食糧配給を少しでも補うために、山を開墾して作った自分達の畑の手入れや、荒れ地でも育つ大豆や ソバ の種蒔きなどの食料確保に、春頃から勉強と同じ程度に時間と労力を費やしていました。 8 月 14 日の夜 9 時、その日の最後の報道 ( ニュース )の時間に ラジオから、突然聞く者を驚かせるような予告放送を流しました。 明日( 15日 ) 正午に重大な ラジオ放送があるから、国民はみな謹聴すべしという内容でした。 ちなみに当時のラジオ放送は N H K だけでしたが、民間放送が開始されたのは昭和 2 6年 ( 1951 年 )9 月 1 日からで、名古屋の中部日本放送 ( C B C )、周波数 1090 キロ ヘルツが民放 ラジオの第 1 号でした。 翌 15 日は朝からよく晴れた日でした。朝 7 時 21 分に国民を更に驚かせる放送が、電波に乗って全国に流れました。それは館野守男 ( たての もりお ) 放送員 ( アナウンサー ) による予告放送でした。
注 )後に N H K 国際局長を勤めましたが、平成 14 年 2 月 28 日に 87 才で死去しました。
謹んでお伝えいたします。畏 ( かしこ ) きあた ( 辺 ) り ( 当時の言葉で天皇、皇室を指す )におかせられましては、このたび詔書を渙発 ( かんぱつ = 出すこと ) あらせられます。−−−畏 ( かし ) くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずから御放送あそばされます。まことに畏 ( おそ ) れ多い極みでございます。国民はひとりのこらず謹んで玉音 ( ぎょくお ん= 天皇の声 ) を拝しますよう。その当時は電力不足が深刻な状態で、軍需工場などに優先的に電力を供給した結果、一般家庭では昼間は停電する地域がかなりありました。玉音放送に備えて昼間送電を止められていた地方にも特別に送電すると共に、放送電力もそれまでの 10 キロワットから特別に 60 キロワットまで増加されました。 また 8 月 1 日から真空管の不足が原因で、全国の放送局にある 送信所の 7 割 は放送電波の送信停止をしていましたが 、これも 15 日には特に電波の送信を再開して玉音放送に備えました。 正午に天皇陛下の、 ありがたくて、重大な放送 を聞くために、ラジオの前に先生をはじめ寮母、児童、近所の村人が集まりました。当時の記録によれば、それは N H K の和田信賢放送員 ( アナウンサー ) による
「 ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさま、ご起立願います 」 の予告に続き、という下村情報局総裁の アナウンスで始まりました。 続いて「 君が代 」 の放送が流れ、それが終わると天皇陛下の 玉音放送 が聞こえてきました。なお 「 君が代 」 は玉音放送終了後にも流されました。 初めて聞く天皇陛下の声、いわゆる 4 分 37 秒間の 終戦の詔勅 は、 勅語独特の難解な文体と 、天皇陛下の読み方が日本語としては奇妙な抑揚と調子外れの高い声で、しかも山奥のため放送電波の減衰と雑音のためよく聞き取れず、放送内容を、 もっと頑張って敵と戦え という意味かと、 村人を含めてその場にいた人達全員が思ったほどでした 。 後で聞いた話ですが間違えたのは私達ばかりではなく、 放送 が終わるのを待って、校長先生の音頭で児童 一同が天皇陛下万歳をして、 必勝の信念を誓った国民学校 ( 小学校 )もあった そうです。 また長野市内にある長野商業学校 ( 高校 ) に駐屯していた陸軍部隊では、放送内容がよく聞き取れず、内容を確認のため部隊長自身が信濃毎日新聞本社にやって来ましたが、社長から ポツダム宣言受諾の旨を知らされると、慌てて部隊に帰って行ったそうです。 その日の午後、徴用で軍需工場に働いていた人が帰ってきて、村人は初めて敗戦の事実を知りましたが、私の頭に真っ先に浮かんだことは、これで親元に帰り、 ご飯が腹一杯食べられる ということでした。
[ 2 : 戦災孤児 ]昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦の結果その翌月 ( 9 月 ) には文部省から、地方に集団疎開中の全ての学校に対して帰校命令が出されました。しかし東京の私達の学校が 4 月 13 日の大規模な空襲により焼失して あたり 一面が焼け野原となり、親達も散り散りになったため、学童集団疎開は現地で解散することになりました。 子供達はそれぞれの親の疎開先に引き取られることになりましたが、私の家も焼けてしまい両親は 4 月から栃木県の田舎に疎開していました。 ところが昭和 20 年 ( 1945 年 ) の春頃から親とは音信不通になり、いくら待っても、誰も引き取りに来ない子供達がいました。空襲で一家が全滅して、 孤児になった者達 です。 親友の F 君もそのうちの 一人でした。父親は北部支那( 中国北部 )に出征中で、東京の家には祖父母と母親と小さい弟がいましたが、空襲で家族全員が行方不明となり、あとには長野県の温泉旅館に学童疎開した 4 年生の妹と F 君の 二人だけが残されました。
「 お寺で 2 度目の正月 ( 昭和 21 年、1946 年 )を過ごした子供が 5、6 人いました。先生が村役場を通じて本籍地の親類、縁者に子供を引き取るように依頼したり、子供を預かる施設を探しましたが、なかなか引き取り手が見つからず、戦災孤児収容施設も満員で苦労していました。
注 : )
[ 3 : 貧しかった昔の生活 ]( 3−1、精神の荒廃 ) 学童集団疎開が現地で解散したため、敗戦から 1 ヶ月後に父親が私を迎えにきました。家に帰る切符を買うために朝から旧信越線 ( 現、しなの鉄道 ) の上田駅に並びましたが、戦時中の昭和19 年 ( 1944 年 ) から不要不急の旅行を制限するために、乗車券の発売枚数が駅ごとの割り当て制となり、100 キロメートル以上の旅行をするためには、官公署の旅行証明書が必要でした。 しかしそれがあっても購入のためには長時間並んで待たなければならず、長距離の乗車券が買えたのは夕方でした。 敗戦直後の鉄道 の列車本数は極端に少なく、ガラスが割れたままの窓には板が打ち付けられていて、客車は超満員で便所の中まで乗客で溢れ、駅に着く度に人々は窓からも乗り降りする状態でした。 途中の乗換え駅の待合室で夜明かしをしましたが、そこでは盗難が多発しているので、荷物に注意するようにと駅員から注意を受けました。敗戦の ショック により人々は精神的支柱を失い心が荒れ果て、道徳心も失われて殺伐とした世相になっていました。 ようやく父母の疎開先であるへんぴな田舎にたどり着きましたが、親類の農家の納屋 ( 農機具、農産物などの物置き小屋 ) を少し改造したのが私達の住いでした。当時の農村の住宅事情からすれば雨露をしのげればそれで良し、としなければなりませんでした。 その村で経験したことは、他所者に対する子供と大人からの いじめと差別 、長年の農村の貧困、窮乏がもたらした 今では想像もできない精神の荒廃 、すなわち人を平気で ダマス農民の ズルサ でした。 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の農村では昔から小作制度が行われていて、土地を持たない多くの小作農民は占領軍の指令により 2 年後に、 農地改革 が実施されるまでは、広くない耕作地から収穫した米や麦の 3 割を土地代として地主に徴収されたため、貧しい暮らしをしていました。 品物の入手が容易であった戦前でさえ、小作人の家庭で魚を食べたのは、年に 一度正月のご馳走に、年取肴 ( としとりさかな )である塩 ブリの 一切れを食べるだけだったそうです。 日中戦争開始後の昭和 14 年 ( 1939 年 ) 10 月 1 日から米穀配給統制法が施行されて、政府による米の強制買い上げ ( 供出 ) が行われようになりました。村では昔から米作をしていましたが米を売って収入を得る農家では、白米 ( 混ぜ物のない米の御飯 ) は貴重でめったに口にできずに、米に麦 ( 大麦 ) を混ぜて炊いた麦飯を常食にしていました。ちなみにそれ以外に麦飯を食べた者は刑務所の囚人と、軍隊の兵士たちでした。 しかし政府が米を買い上げるようになってからは、米の等級はあるものの品質をあまり重要視せず、もっぱら生産量に重点を置くようになり、業者から安く買い叩かれることもなくなり、生産者の立場は好転しました。 この法律 ( 後の食糧管理法 ) は戦後も長い間存続し、米があり余り在庫が増えて困る平成 7 年になってから、新たに食糧法が施行されて米の自由販売が認められ、米価にも市場原理が導入されるようになりました。 昔は小作人に限らず農民が酒を飲んだのは ( 正確には飲めたのは )、春の田植えを終えた後の骨休めの日や、秋の収穫を祝う秋祭りの日、それに正月、冠婚葬祭などのごく限られた時だけでした。 今では日本酒は勿論のこと、ビール、ウイスキー、ワインなどに至るまで、欲しい時には家庭でも手軽に飲むことができますが、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 頃までは、農村に暮らす人にとって 飲酒は、貴重な米を使う 「 餅つき 」 と同様に、 ハレの時 ( 特別な場合 ) だけにする ぜいたくな行為、貴重なごちそう でした。 ある時私の住む部落で親類の人の葬式がありましたが、当時の農村ではすべて土葬でした。部落の共同墓地に埋葬する際には酒 2 升を部落へ寄付し、お祭りに使うのが部落の しきたりでした。敗戦直後の物資不足のために酒がなかなか手に入らず、親類の家の人は苦労して貴重な米と物々交換をして酒を入手し、葬式当日のお清めに酒を用意しました。 当時の農村では貧しく酒などめったに飲めない状態でしたので、部落の人々はこの時とばかりに精進落としの席で酒を飲み、「 今日は良い葬式だった 」 と言い残して千鳥足で帰る人もいました。
現在では多分このような契約は存在しないと思いますが ( 注: 参照 )、 当時の農村や都市の貧しい家庭ではそれが普通でした。そういう家庭では電気の メーター は無く、代わりに電流遮断器が取り付けられていて、契約灯数以上の電灯を使用すると電流が制限を超えて流れるため、電流遮断器が作動する仕組みでした。 家庭での唯一 の娯楽、情報源であった ラジオでさえも、放送受信料の他に、1 灯分の電気料金が定額の電気料金に加算されるため、貧しい農家では ラジオの無い家庭も珍しくない状態でした。
注:)定額電灯料金制の契約参考までに昭和初期の東京における 1 戸当たりの電灯数の調査に依れば、労働者階級の住宅の場合、電灯の数は僅か 2 灯でした 。 昭和 2 年 ( 1927 年 ) に名古屋市とその周辺の 30 万戸の住宅について行われた電灯数の調査でも、電灯が 1 灯のみの家が 11 万戸 ( 36 パーセント ) を占めていました。 この数字が物語るものは、一つには当時の都会の住宅には現代風にいえば、ワンルーム、あるいは ツールーム程度の集合住宅 ( その頃の言葉で言えば長屋 = ながや ) が多かったということ。そして労働者階級の人達は主に長屋に住んでいたことでした。
二つ目の理由は電灯による照明が 一般的になっていた昭和初期においても、家の 「 あかり 」 には 「 灯油 」 を使用していた頃の習慣から、必要最小限度の電灯による照明設備をしていたからです。 私が疎開した村の家々では便所に電灯が無いのが当たり前でしたが、夜間に納屋に隣接する戸外の暗い便所に行くときは、手燭 ( てしょく ) という ロウソク立てに柄の付いたものを持って用を足しに行きました。昔から汲み取り式の便所にまつわる怪談が多かったのも、こうした照明事情によるものでした。
ちなみに戦後 10 年経った昭和 30 年 ( 1955 年 ) の国民経済白書に依れば、水道の普及率は全国平均で 30 パーセント、都市で 60 パーセント、農村では簡易水道を含めて 僅か 9 パーセントでした。 女性にとって関係の深い炊事は、土間に置かれた 「 かまど 」 で柴 ( 雑木の小枝 ) を燃やしながら、しゃがんでご飯を炊き、煮物をしていました。 そのうえ前述の定額電灯料金制の為に炊事場には電灯も無く、暗くなると燃える薪をかざしてはその明かりで調理の具合を確かめるという、江戸時代と変わらぬ不便な生活をしていました。
トラックは助手席側後部の荷台付近に、バスは車体後部にガスを発生させる 「 大きな釜 」 を取り付けて四角い木片や炭を蒸し焼き状態にして、発生した ガスを エンジンに送り走りました。家から バスの停留所までは歩いて 20 分かかりましたが、その バスがやって来るのが遠くからでも直ぐに分かりました。舗装されない道路を走るため、常に土ほこりを大きく上げながら走って来たからです。 ある統計に依ると昭和 29 年 ( 1954 年 ) 当時国道、都道府県道の総延長距離は 14 万 キロでしたが、このうち舗装道路は僅か 7,600 キロで、率にすると 5.4 パーセント に過ぎませんでしたが、勿論高速自動車道などは ゼロ でした。 名神高速道は昭和 33 年 ( 1958 年 ) に着工し、昭和 40 年 ( 1965 年 ) に全線開通しました。建設費は 1,148 億円で、その 4 分の 1 に当たる 288 億円が世界銀行からの借金でした。当時の日本は貧しかったので、今の開発途上国と同様に、自国の資金だけでは高速道路が造れなかったのです。 世界銀行からの融資を受けるために米国の関係機関に採算性、必要性などの調査を依頼し、ワトキンズ氏を代表とする調査団が昭和 31 年 ( 1956 年 ) に来日しました。ワトキンズ調査団が提出した報告書によれば、 1 級国道の 77 パーセント 、2 級国道の 90 パーセント、都道府県道の 96 パーセントが 未舗装で、日本の道路は信じ難いほど悪い 。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない。と書かれていました。 参考までに名神高速道に次いで、東名高速道が開通したのは昭和 44 年 ( 1969 年 )でした。 ワトキンズ報告から 41 年後の平成 9 年 ( 1997 年 ) の運輸白書によれば、道路の総延長距離は 115 万キロと 8.2 倍 となり、道路の舗装率は 70 パーセント と 12 倍になりました。また高速自動車道の総延長距離は、 ゼロ から 6,500 キロ になりました。 都市部に比べて非常に遅れていた農村の生活環境が徐々に改善されて、「 定額電灯料金制 」から 従量電気料金制 へ、「 土間 」 にあった炊事場や台所が 板の間 に移り、「 かまど 」 から ガスレンジ に、燃料が 「 柴 」 から プロパンガス に、「 水 ガメ 」 から 井戸や水道 に、「 ラジオ 」 から テレビ へと変わったのは、高度経済成長の影響が農村にも波及するようになった、昭和 40 年 ( 1965 年 ) 代になってからでした。
東京の北の玄関 上野駅周辺 では、 1 日平均 6 人 もの浮浪者 ( ふろうしゃ、ホームレス ) が栄養失調 またはその関連症状で死亡した。また 11 月中旬、東京以外の五大都市 ( 神戸、京都、大阪、名古屋、横浜 ) で、 733 名 が餓 死したと報道されましたが、首都圏は混乱を極めていたため、何人が餓 死したかを示す統計すらありませんでした。 大ざっぱな推計によれば、敗戦直後から 3 ヶ月間の東京で、栄養失調により死亡した人は 千 人以上 とされました。 こうした中で占領軍による前述の、 ガリオア、エロア、ララ の食糧援助がありましたが、食糧援助の中身は小麦、小麦粉、トウモロコシ、サヤエンドウ、砂糖、脱脂粉乳などでした。 小学生を持つ家庭を対象にした昭和 21 年 ( 1946 年 ) 半ばの調査によれば、1 日に少なくとも 1 回は炊いたご飯の代わりに、雑炊が食卓にのぼりました。また 3 食とも雑炊が食事の中心と答えた家庭が 4 分の 1 もありました。 また ふかし芋 ・ 自家製 パン ・ 団子と並んで菜っ葉汁 も主食になりました。そのほか生きるために必死で食べたものとして、灰汁 ( あく ) を抜いた ド ン グ リ ・ ミ カ ン の皮 ・ 米 ヌ カ 団子 ・ 薩摩芋 の ツ ル ・ 平時ならば家畜の エ サ となる小麦 の ヌ カ を使用 して作った蒸 し パ ン などでした。 食糧事情が更に悪化する中で、 法律を守るのは裁判官の義務 だとして、違法な手段による食糧調達を拒否し、みずからは配給食糧だけに頼る生活を送り、ついに 餓 死 ( 栄養失調による衰弱死 ) した 「 東京地裁、山口良忠判事 」 のことが、新聞に報道されたのは、昭和 22 年 ( 1947 年 ) 11 月のことでした。 山口判事は当時の食糧統制法に基づく配給では食糧が少なすぎて、ヤミ米などに頼らな けれは人々は生きて行けない事情を十分承知していました。夫の身を案じる 矩子 ( のりこ ) 夫人が、もっと食事を食べるように勧めると、 もし自分が ヤミ米を食べたら、それを売買した経済事犯の被告人を裁けるか?。と怒って夫人を叩いたこともあったそうです。結局夫人は夫の考えに従い配給米だけの生活をしましたが、さすがに 3 才と 7 才の子供には実家からの食糧支援を受け入れて、普通の食生活をさせました。 当時のある新聞には 「 彼は大馬鹿者である。しかし彼のような者の存在が社会にとって必要であり、そういう人間が 1 人でもいる限り、日本の社会は安泰である 」 と書いてありました。 また新聞の川柳欄には、
判決は メシを喰わねば死ぬと決めとありました。
[ 9 : インフレ ]昭和 20 年 ( 1945 年 ) 10 月 の警視庁経済 3 課の調査によると、米 1 升 ( 1.8 リットル ) の基準価格 ( 配給価格 ) が 53 銭のところ、闇値では 70 円、さつま芋 1 貫目 ( 3.75 キロ ) 当たり 1 円 20 銭のところ 50 円、砂糖 1 貫目 3 円 75 銭のところ 千 円で ヤミ 取引されていました。タバコの 「 金鵄 」 10 本入りが定価 35 銭のところ、ヤミ値では 13 円もしていましたが、物資の絶対量の不足から食糧や生活必需品は定価の 50 倍から 300 倍 、嗜好品の タバコでさえも、定価の 40 倍 もの ヤミ 値で取引されていました。 この数字は敗戦直後の日本経済が破綻していた様子、ならびに食生活の危機的状況を如実に示したものです
それまでは特に年齢に関する法律はなく、慣例として数え年が使用されてきましたが、外国の統計などがほとんど満年齢表記のため、比較に不便などの理由から満年齢を使用をすることになりました。それまでは 門松は冥土の旅の 一里塚、目出たくもあり、目出たくもなしと一休の狂雲集に詠まれていたように、お正月になれば大人も子供も 一斉に 一つずつ年を取ったものでした。お正月になれば今でも子供達はお年玉をもらいますが、 「 年玉 」 とは元々年取りのための餅に宿る稲魂 ( いなだま ) や穀霊を意味する言葉でした。 数え年というのは文字通り 「 年玉の数、年玉 に 出会った回数 」 であり、換言すれば正月の餅を食べた回数でした。 年玉に会うには 「 たましい 」 が必要ですが、生まれた時に 「 たましい 」の無い子はいないので、誰でも生まれた時点で既に 1 歳です。そして正月に餅を食べることにより、一つずつ年を取って行く方法です。 この問題は年齢の数え方の基準を 出生時 とするのか、または 受胎の時 からとするのかの問題も含んでいました。満年齢の数え方によれば最初の誕生日が来て満 1 歳になりますが、その 一方で母親の胎内にいた 10 ヶ月の期間を算入すれば、むしろ 2 歳に近いとする考え方が 「 数え年 」 です。昔からの数え年も細胞発生学的には、あながち根拠の無いものではありませんでした。 古代 インドで紀元 2 世紀頃に成立し、インド社会の宗教、道徳、生活規範を定めた マヌ 法典によれば、バラモンは 受胎後 8 年目 に師匠のもとで入門式を行うと規定されていました。この世に授かった生命の始まりは母親が受胎した時からであるとするもので、日本で古来から数え年を用いていたのもこの考えによるものでした。
注:)
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