大奥のこと


今回は題材を ガラリと変えて、徳川将軍家の正室である御台所 ( みだいどころ、 ) を筆頭に、側室や多くの女中たちが居住していた江戸城本丸御殿の禁男の園 ( ハーレム、Harem ) の、 大奥 を主題にして書くことにしました。


[ 1 : 憧れの席 ]

その昔 航空会社の男性社員にとって 一度は座ってみたい場所は、

風呂屋の番台

銭湯の番台 と、 デス管  ( スチュワー 「 デス 」 管理課 ) の当直席 ( デイリー ・ スケジュール ・ カウンター、Daily Schedule Counter )

といわれていましたが、残念なことに 憧れの番台 ( 右上の写真 ) どころか、ひとたび悪天候による便の欠航などで飛行機の運航 スケジュールに乱れが生じた場合には、彼氏との デートの約束や、はたまた 「 お見合い 」 の予定があろうが無かろうが、 「 デス 」 の個人的事情など一切無視して 乗務割を思うがままに変更するため、「 デス 」 からは怨嗟 ( えんさ、うらみ嘆くこと ) の的となり、あるいはその職務権限ゆえに畏 ( おそ ) れられ 媚 ( こ ) びを売られる存在 (?) だったのが 「 デス管 」 でした。

さらに独身男性ともなれば、職場に ひしめく 「 デス 」 たち の中から結婚の対象者を自由に選ぶことができる (?) という ヨダレ の出そうな話を聞きましたが、その 「 デス管 」 の席にも座る機会が得られぬままに、定年退職してしまったことは、返すがえすも残念でなりません。

しかし今では客室乗務員の名称も スチュワーデスから 「 C A 、キャビン アテンダント 」 、あるいは 「 F A 、フライト アテンダント 」 などに変更され、経営合理化と 「 デス 」 の若返りを促進するために、採用後の最初の 3 年間は ボ−ナスも無い 1 年毎の 契約社員制 となりました。

CA三人

ちなみに脂粉の香りと 4,500 人 の C A が発散する 女性 フェロモン ( 注 : 1 参照 ) が充満する 女護ヶ島 ( 注 : 2 参照 ) の客室乗務員管理課に勤務すると、どんなに 「 むくつけき 」 ( 無骨で むさくるしい ) 男性でも、半年も経てば フェロモン吸入過多から なよなよした中性 に変化してしまう (?) といわれています。

注 : 1 ) フェロモン
フェロモン ( Pheromone ) とは、繁殖期の動物や昆虫などが体外に発散 ・ 放出あるいは 分泌する物質で、同種の他の個体を 誘引 ( ゆういん ) するなど行動や発育の変化を促 ( うなが ) し、個体を生理的に活性化する物質のこと。

注 : 2 ) 女護ヶ島 ( にょごがしま )
女護ヶ島 とは女性だけが住んでいるとされる想像上の島で、中国の挿絵入り百科事典に類する 三才図会 ( さんさいずえ ) に記されていたもの。

[ 2 : 航空会社のお局 ( つぼね )]

私が入社した昭和 40 年 ( 1965 年 ) 当時は、スチュワー 「 デス、C A 」 の定年は 30 才で、しかも未婚 が条件でした。30 才を定年にした理由については、大名や徳川将軍の寝所に侍 ( はべ ) る側室たちが 30 才に達すると、 「 お褥 ( しとね ) 辞退 」 と称して夜の伽 ( とぎ ) を免じられたことに由来するといわれていました。

ちなみに江戸時代の女性は 十代が結婚適齢期であり 、二十代ともなれば 「 いかず後家 」、つまり婚期を逸した者と見なされましたが、「 人生僅か 50 年 」 といわれた当時、30 才といえばかなりの高齢で現代風に言えば 「 卵子の老化 」 から、丈夫な子を産むことは望めないと考えられていたからでした。

詩人で作家の三木露風 ( みきろふう、1889〜1964 年 ) が大正 10 年 ( 1921 年 ) に作詞し、後に山田耕筰が作曲した日本の代表的な童謡の一つに 「 赤とんぼ 」 がありますが、その歌詞の三番目には

十五で 姐 ( ねえ ) やは 嫁に行き 、お里のたよりも絶えはてた。

とありました。

前述の昭和 40 年当時は 「 C A 」 の数も少なくて希少価値があり、半年近くかけて 「 C A 」 の訓練生を教育しても、現場に配属され制服制帽姿で見合い写真を撮ると、 「 C A 」 の肩書きを嫁入り道具のひとつにして、3 ヶ月〜半年ほどで退職する娘 ( こ ) がかなりいました。

そのため会社では採用の際に少なくとも 2 年間は働いてもらわないと困る−−−と念を押す始末でした。ところがその後社会情勢が大きく変わり 「 C A 」 も退職しなくなり定年も 40 才 ・ 50 才と次第に延長され、 昭和 60 年 ( 1985 年 ) に男女雇用機会均等法が成立し、定年 ・ 退職については、「 C A 」 の定年も男性社員と同じ 60 才になりました。

今では既婚や子持ちの 「 C A 」 は当たり前で、中には孫までいる グランマ ( Grand mother、お婆ちゃん ) C A までいる ( ? ) と聞いていますが−−−ハイ。

( 2−1、花の色は移りにけるな−− )

後宮の女性

平安時代前期 ( 9 世紀 ) の有名な歌人で、六歌仙 ・ 三十六歌仙の 一人でもあった小野小町 ( おのの こまち ) は 絶世の美女 といわれましたが 、古今和歌集をはじめ勅撰和歌集に 62 首が撰ばれました。百人一首にも下記の有名な和歌があります。

花の色は移りにけるないたずらに、わが身世にふる眺めせしまに

[ その意味 ]

春の長雨が降っている間に桜の花の色は、むなしく色あせてしまったが、恋や世間のことに思い悩んでいるうちに、私も年老いて 容色 [ ようしょく、麗 ( うるわ ) しい顔かたち や あでやかな姿 ) が衰えてしまった。

[ 小町の老後 ]

彼女が深草少将 ( ふかくさの しょうしょう ) を初め 多くの言い寄る男どもを 振ったために 、その腹いせからか ( ? )、天性の美貌 ( びぼう ) と優れた歌の才能に恵まれた小町も老後は見る影もなく落ちぶれて、最後は野垂 ( のた ) れ死にした などとする伝説が多く存在する。

枯れたひまわり

それらは本に記され、謡曲 ( ようきょく ) や能 ( のう ) などでも 「 関寺小町 [ せきでら こまち、関寺とは近江国 ( 滋賀県 ・ 大津市 ・ 逢坂 ) の逢坂関 ( おおさかのせき ) の東にあった寺 ] 」、「 卒塔婆小町 ( そとば こまち ) 」、 「 通小町 ( かよいこまち ) 」、「 髑髏 ( ドクロ ) 小町 」 などとして演じられている。左図は 卒塔婆 ( そとば ) に腰をかけている小町 ( そとば こまち ) と月。

鎌倉時代に成立した説話集の 6 巻から成る 「 古事談 」 ( こじだん ) や、3 巻から成る 「 十訓抄 」( じっくんしょう ) によれば、白髪の老婆になり落ちぶれ果てた小野小町が、死んでも野辺の送り( 葬式 )を出してくれる身寄りの人もいないので、京を出て乞食をしながら諸国をさまよい歩き行き倒れになったともいわれています。

六歌仙の一人の在原業平 ( ありわらの なりひら ) が東下り ( あずまくだり、京都から東国へ行くこと ) をして 奥州 ( 東北地方 ) を旅した際に、奥州の八十嶋 ( やそしま、宮城県塩釜市 )で野中を行くと不思議な声を聞きました。

秋風の 吹くにつけても あなめ あなめ

[ その意味 ]

秋風が吹くたびに、ああ目が痛い、ああ目が痛い

ドクロ小町

その付近で声の主を探すと、荒野にぽつんと ドクロ ( 頭蓋骨 ) が転がっていて目の穴にすすきが一本生えていました。土地の人に聞くとどうやら小野小町がここで行き倒れたらしいと聞き、業平は驚き嘆き悲しんで、上の句に次の下 ( しも ) の句を付けました。

小野とは いはじ すすき生 ( お ) ひけり

[ その意味 ]

  • 「1」、  和歌に優れ美人で評判だった 小野小町 のこれが落ちぶれた末の姿 とは言うまい
  • 「2」、 人生の華やかだった頃に 現 京都市 ・ 山科区 ・ 小野には 彼女の住居があったけれども 、 その小野のことだとは言うまい
  •  すすきが生えているのだなあ。

以上はあくまでも数ある伝説のひとつであり史実ではありませんが、ちなみに小野小町の墓所と称するものは私の故郷の栃木県を含めて全国に 約 26 箇所あり 、彼女の生誕 ( せいたん ) の地とされるものは、秋田県 ・ 湯沢市 ・ 小野 [ 旧 ・ 雄勝郡 ( おがちぐん ) ・ 雄勝町 ・ 小野 ] を筆頭に全国に 11 箇所もあるといわれています

( 2−2、花の色は−−−C A の巻 )

若い時にはどんなに美人でも、やがて 花の盛り が過ぎれば、小野小町と同様に容色が衰えるのは世の道理、 サービスを受ける側の乗客の立場に立てば若い ピチピチした C A と、定年間近の 60 近い婆さん C A と、どちらの サービスを希望するかを考えれば 答はおのずと分かるものです。

航空会社としては C A の若返りを図るため、熟年 ( 老年 ? ) C A に対して、なるべく早く退職するように、ある年齢になると部下を持つ C A の編成から外していわゆる窓際族にしました。その配置のことを誰いうとなく江戸城の大奥に例えて、 お局 ( おつぼね ) グループ と呼ぶようになりましたが、乗務編成もお局 ( つぼね ) グループで組むのだそうです。

退職後のある日のこと 大阪から東京行きの便に乗ったところ、「 C A 」 はお局 グループが乗務していました。 機内で近くの座席から乗客同士の会話が聞こえてきましたが、「 今日の スチュワーデスは、年寄りばっかりだねー 」 。

シンガポール航空CA

若さが売り物で、体に フィット した オーダー メイド の制服で評判の シンガポール航空では 「 C A 」 の定年については現在も 37 才 ですが、日本では A N A に限らず同業他社の 「 C A / F A 」 の制服もすべて既製品です。

参考までに 異色の I T 業界 出身の経営者で、 収益第一 安全軽視 の経営体質 から運航 トラブルが多発し、これまで国交省から何度も業務改善勧告や厳重注意を受けた例の スカイマーク では、会社支給の ウィンドブレーカーと ポロシャツだけが制服 (?) です。

( 2−3、定年に対する考え方の違い )

かつて アメリカでは ロナルド ・ レーガン ( Ronald Reagan ) が 69 才と 349 日 という最高齢で第 40 代大統領 ( 在任 1981〜1989 年 ) に就任しましたが、 彼の、「 年齢により職業選択の自由を妨げるべきではない 」 とする方針で、大手航空会社では スチュワーデスの定年が無くなったと聞いています。

ステップ・テスト

しかし高齢になってまで客室乗務員として飛ぶためには、F A A ( Federal Aviation Agency、連邦航空庁 ) の定める規定に従い、毎年おこなわれる ステップ ・ テスト では、音楽の テンポを示す メトロノーム ( Metronom ) を毎分 96 ビートに セットし、高さ 12 インチ ( 30 センチ ) の台を毎分 24 回の速度で、3 分間 上り下りする 体力測定 を含む 身体検査 に パス できなければなりません。

さらに労働に対する考え方が日本人と欧米の キリスト教徒では大きく異なりますが、旧約聖書の創世記に依れば、 エデンの園にある 「 善悪を知る木 」 の実を人が食べた罰として、神が エデンの園から人を追放して 土を耕やすことをさせた ことから、 労働とは神が与えたである とする考え方が根強くあります。

そのため定年 ( 労働者は通常 65 才 ) 前の早期退職 ( Early retirement ) をすることが サラリーマンにとっては 「 憧れの的、夢 」 であり、高齢になってまで働く者は人生を楽しむことができない貧乏人とみなされます。

[ 3 : 朝廷の側室制度 ]

まずは朝廷の皇后 ・ 妃や女官 ( にょかん ) たちが住む後宮 ( ごくう/こうきゅう ) について説明しますと、奈良時代の 718 年に公布された養老律令 ( ようろう りつりょう ) の 後宮職員令 ( ごくう しきいん りょう ) によれば、朝廷の後宮に仕える女官の階位 ・ 定数 ・ 出身の家柄などについては下記のように記されています。

  1. 四品 ( しほん、4 位 ) 以上の 内親王出身 の 妃 ( ひ / きさき ) が 2 名 以内 。

  2. 3 位以上の 公卿 ( くぎょう ) の娘出身 の 夫人 ( ふじん / おおとじ=大刀自、天皇のそばに仕える女性の称号 ) が 3 名 以内 。

  3. 5 位以上の 貴族の娘出身 の 嬪 ( ひん / みめ=御妻、貴人の妻に対する敬称 ) が 4 名 以内。

つまり当時の天皇は皇后を含めて 10 名以内の女性 を後宮に侍 ( はべ ) らせることが律令上認められていました。ちなみに平安時代中期 ( 1005 年 頃 ? ) に 紫式部 が書いた 源氏物語 54 帖の内の最初の帖、 桐壺 ( きりつぼ ) の巻の冒頭の文章を思い出してください。

いづれのおん時にか 女御 更衣 あまた侍ひ 給ひけるなかに 、いとやむごとなき きは にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

[ その意味 ]
いずれの帝 ( みかど、天皇 ) の御世 ( みよ ) であったろうか、女御や更衣が 大勢お仕え されていた中に、それほど高貴な身分ではないものの、格別に 帝のご寵愛 ( ちょうあい、上の人が下の者を非常に かわいがること ) を受けていらっしゃる方がいた。

とありましたが、 女御 ( にょうご ) とは天皇の寝所に侍 ( じ ) した女官 ( にょかん ) で、皇后 ・ 中宮より位が下 で、物語の主人公、 光源氏 の母でした 「 桐壷 ( きりつぼ ) 」 の 更衣 ( こうい ) より上位の女官 でした。

六条御息所

更衣より下位の女官には 御息所 ( みやすどころ ) がありましたが、 光源氏の最初の正妻である 「葵の上 ( あおいの うえ )」 に 生霊 ( いきりょう、生きている人の恨みや執念が霊となって人にたたる ) となって取り付き悩ませた、 「 六条 」 の御息所 ( みやすどころ ) がいました。 ( 左図 )

奈良時代 ( 710〜794 年 ) から明治時代 ( 1868〜1912 年 ) に至るまで、朝廷には 1,200 年以上続く天皇の側室制度がありましたが、 中宮 ・ 妃 ・ 女御 ・ 更衣 ・ 御息所 ( みやすどころ ) ・ 典侍 ( ないしのすけ ) ・ 掌侍 ( しょうし ) など 時代により正室や側室となる女官の 職名が変化したものの、 高位の女官が御所の後宮 ( こうきゅう、宮中の奥御殿 ) に入り天皇の寝所に侍 ( はべ ) りました。

( 3−1、皇后が産んだ子で天皇になれたのは、僅か 1 人 )

明正女帝

ちなみに江戸時代初期の第 108 代 ・ 後水尾天皇 ( ごみずのお てんのう、在位 1611〜1629 年 ) 以来、第 123 代 ・ 大正天皇 までの 300 年間に 、天皇の正室である 皇后 から生まれた子で天皇に即位した例は第 109 代 、 明正天皇 ( めいしょうてんのう、在位 1629〜1643 年 ) ただ 1 人であり、しかも女性天皇でした。( 右図 明正天皇 )

この女性天皇の即位は奈良時代における第 48 代 ・ 称徳天皇 ( しょうとくてんのう、在位 764〜770 年 )以来、 859 年ぶりでしたが、江戸時代中期には日本史上最後の女帝となった、 第 117 代 ・ 後桜町天皇 ( ごさくらまち てんのう、在位 1762〜1770 年 ) がいました。

( 3−2、側室及び宮家の廃止がもたらしたもの )

ところで現代においても第 122 代   明治天皇 の生母は、第 121 代 ・ 孝明天皇の 側室であった 中山慶子 ( よしこ ) であり、次の  大正天皇  の生母は、明治天皇の 側室 であった柳原 愛子 ( やなぎわら なるこ ) でしたが、それらを含めて、即位した天皇はすべて 側室 から生まれた子 でした。

しかし今から 丁度 100 年前 ( 1912 年 ) の第 123 代 ・ 大正天皇の即位 からは、天皇家も欧米の王制を見習い 一夫 一妻制 を採用し、奈良時代から 1,200 年以上続いた側室制度は廃止され 奥付きの女中も大幅に削減されました。

その結果大正天皇の皇后であった 貞明皇后 ( ていめいこうごう ) が 産んだ子 である 昭和天皇が 300 年ぶりに天皇に即位 しましたが、貞明皇后 ( 旧 ・ 九条節子 ) 自身は公爵 ・ 九条道孝の 側室 であった野間幾子 ( のま いくこ ) の子、つまり妾腹 ( しょうふく、妾が産んだ ) の子 ( 庶子、しょし )でした。

ところで今考えると天皇家における側室制度の廃止と、敗戦直後の昭和 22 年 ( 1947 年 ) に G H Q ( アメリカ占領軍総司令部 ) の指令に基づく 11 宮家の廃止および 51 名いた皇族の皇籍離脱が、天皇家にとって 次の次の世代における皇位継承者が、 秋篠宮家の 悠仁 ( ひさひと ) 親王ただ 一人しかいないという 皇位継承の重大な危機 をもたらした ともいえます。


[ 4 : 江戸城 本丸御殿の表と奥 ]

江戸城の図面

江戸時代には 大名 ・ 大身 ( たいしん、身分の高い ) の旗本などの武家の邸宅では、当主を中心として家臣たちが家政処理や対外業務などの日常業務を処理する、いわば事務所というべき 表 ( おもて ) と、当主の正妻を中心に子女たち家族やその従者たちが日頃暮らす区画である 奥 ( おく、将軍家に限り大奥という ) とが、明確に区別されていました。

左上図は江戸城本丸御殿ですが、 中奥 ( なかおく ) とは将軍の食事 ・ 入浴 ・ 就寝などの日常生活に使う私的部分のことです。

現代の宮内庁においても 「 表 」 と 「 奥 」 の用語が使われていて、は宮内庁の長官を筆頭に天皇 ・ 皇后 ・ 皇太子に関する公的業務を扱う職員で構成され、は侍従長を筆頭に、 側近奉仕 のことを分掌する天皇侍従や皇后女官長 ・ 皇太子一家の世話をする東宮職からなります。つまり侍従や女官は天皇 ・ 皇后の身の周りの世話やご本人の意向を聞いてその準備をし、表の宮内庁に伝える役目をします。

( 4−1、大奥の場所 )

大奥図

太田道灌が 1457 年に築城した江戸城は、徳川家康が 1590 年に移り住んで以来 何度も改修工事がおこなわれてきましたが、図は ペリーの黒船艦隊が江戸湾に来航する直前の、嘉永 2 年 ( 1849 年 ) 当時の江戸城 内部の建物図です。

  • 1 は 江戸城の最重要部の 本丸 ですが、幕府の政務が行われる公的部分である 表 ( おもて ) 御殿 と将軍の日常生活の場となっている 中奥 ( なかおく ) から成立っています。

  • 2 は 本丸御殿の北側約半分を占める 大奥 ですが、将軍の正妻である御台所 ( みだいどころ ) を初め側室を含む大勢の女性が起居する所です。

    ちなみに 三代将軍 徳川家光が死亡した際には 3,700 人 (?) の女中たちに暇 ( いとま、解雇 ) が出され、尼になった女中たちが 100 人 もいたといわれています。この数字は非常に多すぎるように思いますが、記録にそのようにあるので一応紹介しておきます。

  • 3 は  大御所 ( 引退した将軍 ) / 将軍の嗣子 ( しし、後継ぎ ) が居住する 西の丸御殿。

  • 4 は西の丸 御殿の 大奥

  • 5 は将軍の別宅ともいうべき 二の丸御殿で、本丸の火災などの緊急時には、二の丸や西の丸が避難場所になりました。

  • 6 は 二の丸御殿ので、将軍の生母やかつての将軍に仕えていた側室たちが住む所。

  • 7 は 三の丸御殿。

( 4−2、天子は南面す )

寝殿造り

大奥や 奥 はいずれも各御殿の北側に設けられていたので 北御殿 ( きたのごてん ) とも呼ばれていましたが、これは中国 ・ 周代 ( 紀元前 256 〜 前 105 年 ? ) の占いの書である 易経 ・ 説卦伝 ( えききょう、せっかでん ) に、 「 天子は南面す 」 ( 天子は南に向かって座る ) とあるのを真似たものです。平安時代の寝殿造りでは、主人が寝起きする南殿の北側に 「 北の対屋 」 ( きたの たいのや ) を設け、貴人の正妻が住んだことに由来するものでした。


[ 5 : 大奥法度 ( はっと ) の起源 ]

徳川幕府が編纂 ( へんさん ) した 516 冊から成る公的記録書に 徳川実記 ( じっき ) がありますが、その中の台徳院殿 ( だいとくいんでん、二代将軍 秀忠の戒名 ) の御実記 ・ 巻 48 によれば、元和 4 年 ( 1618 年 ) 正月 2 日の条に、 けふ ( 今日 ) 後閤 ( ごこう、大奥 ) へ条約を下さるとありますが、これが 大奥に対する法度 ( はっと、禁止事項 ) 公布の始まりでした。当時は城中の壁に貼って周知したので、壁書 ( かべがき ) といいましたが、( ) 内は管理人が記したものです。

  1. 後閤 ( ごこう、大奥のこと ) 修理掃等萬事天野孫兵衛某、成瀬喜右衛門某、松田六郎定勝を伴ひまかるべし。( 大奥の普請や掃除などの際は、天野孫兵衛ら 3 名の係を伴って行くように。 )

  2. 局 ( つぼね ) より奥へは男子入るべからず。( 当時の大奥は玄関の奥に女中の宿舎があり、これを 「 つぼね 」 と称したが、ここから先を男性立ち入り禁止にした )

  3. 女 ( 身分の ) 上下とも 券 ( 手判、しゅはん、通行証 ) なくして出入りすべからず

  4. 酉牌 [ ゆうはい、酉 ( とり ) の刻、概ね現在の午後 6 時 ] 過ぎては門の出入り有るべからず。

  5. 走り入る女ありて其のよし告げ来たらば、すみやかに返し出すべし ( 走り入る女とは、他の家に奉公していた女中が縁を頼って江戸城大奥の女中宿舎に逃げ込んだ時の規定で、元の主人から届けがあれば返すように ) 。

  6. 厨所 ( ちゅうしょ ) 諸事 孫兵衛某 ・ 喜右衛門某 ・ 六郎左衛門定勝 ・ 替え替え 昼夜勤番し善悪を沙汰 ( さた )し、もし命令にそむき) ひがふるまいするものは、速やかに聞こえ上べし

    ( 大奥のまかないその他については天野孫兵衛以下 3 名が一昼夜交代で当直し、善悪を判断処理し、もし命令に背き不正な振る舞いをする者は速やかに上司に報告すべし )。

  7. ひそかにかくして うたえ 出ざるにおいては、ともに曲事 ( くせごと、 ) たるべしとなり。( 違法行為をした者がいるのにそれを隠して訴え出ない場合は、両者とも違法行為となる )
大奥法度で男性立ち入り禁止規定を設けたことは、それまでは禁止されてはいなかったからであり、御台所 ( みだいどころ、将軍の正室 ) や御年寄 ( 奥女中の取締役 ) が 「 表 」 の玄関に出たり、「 表 」 の武士が大奥へ立ち入ることもありました。また他家の女中が勝手に大奥に入り込むことができたことから、当時は大奥の管理がゆるやかであったことを意味しました。

( 5−1、大奥の区画 ) 

大奥の内部は、用途と使用者によって下記の三区画に分けられました。

  1. 御殿向 ( ごてんむき ) : 当該 大奥の主人、つまり本丸御殿ならば御台所 ( みだいどころ、将軍の正妻 )、西丸( にしのまる ) 御殿ならば大御台所 ( おおみだいどころ、前将軍の正妻 )もしくは将軍の嗣子 ( しし、世継ぎ ) やその夫人、 および その子女たちの居住する場所。

  2. 御広敷向 ( おひろしきむき ) : 大奥の管理事務所に相当する所で、そこには前述した数名の男の役人が昼夜交代で勤務していました。

  3. 長局向 ( ながつぼねむき ) : 奥女中たちの 二階建ての宿舎で、身分 ・ 格式に応じて部屋が割り当てられました。


なお 2 代将軍秀忠が定めた大奥の法度 (  はっと ) については、第 3 代将軍家光の時代になると細部にわたって規定し 形が整ったとされます。


( 5−2、大奥女中職制一覧 )

顔見せ

江戸城大奥における女中の職制や名称は時代により異なるものの、その多くは 20 以上の階級に分かれていましたが、京都にある 公卿 ( くぎょう ) の家柄の 一つである、

  1. 五摂家 ( せっけ )、摂政 ・ 関白に任ぜられる近衛 ・ 九条 ・ 二条 ・ 一条 ・ 鷹司の 五家

  2. 四親王家 ( しんのうけ )、親王の称号を許された皇族の家筋、伏見宮 ・ 桂宮 ・ 有栖川宮 ・ 閑院宮家
における女中の職名を模倣したものでした。下橋敬長 ( しもはし ゆきおさ、1845〜1924 年 ) が書いた 「 幕末の宮廷 」 によれば、

摂家 ・ 親王家の女房には上臈 ・ 老女 ( 御年寄と称す ) ・ 若年寄 ・ 中臈 ・ 表使 ・ 女中 ( 俗に ヒラの女中という )・ 御次衆 ・ 茶之間 ( 中居 ) 等がおります。

とありました。

江戸時代後期の大奥職制

役 職 名
職 務 内 容
上臈
じょうろう
御年寄
最高位 の女官だが実権は 少なく 、公家出身の娘が多い
御年寄
おとしより
「表」 の老中に匹敵する、大奥の 権力者で、政治に口出しする者もいた
御客会釈
おきゃくあしらい
将軍やその親族の接待役で、引退後の御年寄の再就職口
中年寄
ちゅうどしより
御年寄の指図を受け大奥を取り仕切る。献立や、料理に関与
御中臈
おちゅうろう
将軍や正室に仕えるが、将軍の 側室に選ばれることが多い 職種
御錠口詰
おじょうぐち
つめ
「表」 の中奥 と大奥との境の、「錠口」 を管理 ・ 監視する役
表 使
おもてづかい
物品の購入・調達について御広敷役人に連絡、その他 大奥と表との取次役
御右筆
おゆうひつ
日記や書状などの記録 ・ 文書作成。大名からの献上物の検査・御年寄に提出。
以下省略−−−−



( 5−3、大奥女中の給料 一覧 )


江戸時代には、金貨 ・ 銀貨 ・ 銅貨 ( 銭貨 ) の 3 種類の貨幣が使われていましたが、これを 三貨制度 といいました。金 ・ 銀 ・ 銭の交換 レートについては 1609 年に幕府が、 金 1 両 = 銀 50 匁 ( もんめ )= 銭 4 貫 文 ( 1 貫 = 1,000 文 ) と決めましたが、1700 年には金 1 両 = 銀 60 匁( もんめ、225 グラム )と改められました。

日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によれば、 江戸時代中期 の 1 両 ( 元文小判 ) を、米価 、 賃金 ( 大工の手間賃 )、そば代金をもとに当時と現在の価格を比較してみると、米価基準では 1 両 = 約 4 万円 、賃金基準で 1 両 = 30 〜 40 万円 、そば代金を基準にした場合では 1 両 = 12〜13 万円 ということになります。

切米の売却値段はその時々の相場により異なりますが、ここでは参考資料に多い 米 1 石を 1 両 とし、1 両の価値を現在の貨幣価値に換算すると、米価基準の 4 万円 から 、単純平均値の 19 万円、賃金基準の 40 万円 と 10 倍も大きく異なります。

一生奉公 ( 終身雇用 ) である上臈年寄に例をとると、江戸中期におけるその給料は年間に切米 100 石 = 100 両と合力金 100 両で合計 200 両となりますが、少なく見積もっても 年収 800 万円、単純平均にすると 3,800 万円 、多く見積もれば 10 倍の 8,000 万円 となります。
















使





























































夏季


夏季


夏季

夏季

夏季







冬季


冬季


冬季

冬季

冬季















































    [ 表の注釈 ]

  1. 切米 ( きりまい ) とは、江戸時代の家臣のうちで知行所 ( 年貢米を収穫する領地 ) を与えられていない小録 ( しょうろく ) の者に支給された本給のことで、米の現物または金銭で支給された。

  2. 合力金 ( ごうりき きん ) とは、本来 人に恵み与える意味の金銭のことであるが、大奥に仕える女中達に 「 衣裳や化粧 」 代の為に支給した。

  3. 扶持 ( ふち ) とは、武家の主君が家臣に与えた給与の一種で、江戸時代の 1 人扶持とは 1 日当たり玄米 ( げんまい、精白しない米 ) 5 合を支給した。年に換算すると、 5 合 X 30 日 X 12 ヶ月 = 1,800 合、すなわち 1 石 8 斗 ( と ) 、重量にして約 270 キログラム になり、米俵で 4 俵半になったが、毎月 30 日分を現物支給した。

    なお扶持には前述の男扶持 ( 5 合 ) と女扶持 ( 3 合 ) があったが、大奥の女中は優遇され男扶持を貰っていて、表にある例えば 「 上臈御年寄の 15 人扶持 」 とは、彼女が自分の使用人 である 部屋子 を 15 人雇い入れることができ、その給与 ( 扶持米 ) を幕府が支給したという意味である。

  4. 薪 ・ 炭とは、説明するまでもなく、炊事用の薪 ( まき ) と暖房用の炭である。

  5. 湯の木 とは、入浴に必要な燃料の木材のことで、汗をかく夏季は多量に、冬季は少なく支給したが、さらに身分により日に 二度入浴可能な者がいた反面、週に1度の燃料しか支給されない者もいた。

    行灯

  6. 灯油 ( ともし あぶら ) については、最高位の者は居室付近で 5 箇所での 「 明かりの使用 」 ( 行灯などの照明具 ) が許され、燃料として菜種油 ( なたねあぶら ) 7 升 2 合が年間に支給された。右図は行灯 ( あんどん )。

    参考までにその明るさは行灯のそばで、 手紙の文字がようやく読める程度 であったといわれている。

  7. 五菜銀 ( ごさいぎん ) については、本来 五菜 ( ごさい ) とは、にら ・ らっきょう ・ わさび ・ ねぎ ・ まめの 5 種類の野菜の総称であったが、そこから野菜だけでなく、味噌 ・ 醤油などの調味料を購入するための費用も含まれるようになった。つまり 「 副食費 」 の意味となり、これを銀貨で支給した。

ちなみに 奥女中の数については 第 11 代将軍 ・ 徳川家斉 ( いえなり ) の頃は 282 人、 第 13 代将軍 ・ 家定 ( いえさだ ) の頃は 245 人、 第 14 代将軍 ・ 家茂 ( いえもち ) の頃は 144 人も増加して 389 人 になりましたが、その理由については後述します。


[ 6 : 大奥の生活 ]

着替え

将軍の中奥における日常生活を初め、正室である御台所 ( みだいどころ ) の 大奥における生活なども、一般にはほとんど知られていませんでしたが、その理由は江戸時代にはお城のことについて話題にすることさえ憚 ( はばか )られただけでなく、幕府内にもそれに関する詳細な記録が残っていなかったからでした。

着替え

上図および右図は、後述する江戸城大奥を描いた風俗画である、 千代田之大奥 ( ちよだの おおおく ) に描かれた大奥の様子です。右図はその着替えの図ですが最高位の上臈御年寄 ( じょうろう おとしより ) ともなると、一度着た衣装は 二度と袖を通すことはなかったといわれ、ぜいたくの限りをした大奥の年間経費は、 20 万両 ( 約 200 億円 ) に達したともいわれています。

文明開化の明治の世になると旧幕府時代の制度の実情が忘れ去られるのを惜しむ歴史学者達が、明治 24 年 ( 1891 年 ) から旧幕府勤務の武士や奥女中経験者などに聞き取り調査を行ない記録に残しましたが、それが 旧事諮問録 ( きゅうじ しもんろく ) です。

この記録は江戸幕府の制度や諸役職の実情を語る文献としては一番有名で利用価値の高い歴史資料ですが、将軍の日常生活から大奥の生活については、江戸幕府解体まで大奥で御中臈 ( おちゅうろう ) を務めた簑浦 ( みのうら ) はな子や、お次 ( おつぎ ) の役でした佐々鎮子( さっさ しずこ ) に対する一問一答の口述内容がこの 「 上巻 」 にあります。

髪すき

そのほかに 1868 年の戊辰 ( ぼしん ) 戦争では幕府軍に従軍して負傷し、江戸時代末期から浮世絵師となった、楊洲 周延 ( ようしゅう ちかのぶ、1838〜1912 年 ) が書いた江戸城大奥の風俗画である 千代田之大奥 ( ちよだの おおおく ) という 107 枚の浮世絵 によっても、大奥における生活の一端を知ることができます。左は将軍の正室である御台所の 「 髪すき 」 の図です。

下記の ユーチューブ映像は楊洲 周延 ( ようしゅう ちかのぶ ) の 「 千代田之大奥 」 をまとめたものですが、大奥の風俗や習慣を知ることができます。

千代田之大奥、ユーチューブ映像



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