江 戸 の 今 昔 物 語

平安時代 後期 の 1 1 2 0 年 以後 に 成 立 した 3 1 巻 からなる 説 話 集 に 「 今 昔 物 語 集 」 ( こ ん じ ゃ く も の が た り し ゅ う ) が あ り ま す が、天 竺 ( て ん じ く 、イ ン ド ) ・ 震 旦 ( し ん た ん 、中 国 ) ・ 本 朝 ( 日 本 ) の 三 部 構 成 となっており 、各 話 が 「 今 は 昔 」 の 言葉 で 始 まりま した。 編者 は 不明 ですが、今回 はその 題名 を 借 用 することに しま した。

[ 1 : 地 名 の 由 来 ]

江戸 に つ い て は 古 くは 武 蔵 国 の 豊 島 郡 ( と し ま ご お り ) ・ 荏 原 郡 ( え ば ら ご お り ) ・ 下 総 国 葛 飾 郡 ( し も う さ の く に か つ し か ご お り ) の 三 つ と 接 する 地域 のことですが、名前の 由来 については 諸 説 あり、そ の う ち の 一 つ に 日 比 谷 入 り 江 ( ひ び や い り え ) の 門 ( と ) から 江 門 ( え と ) に な り、そこから 江 戸 になったと いわれて います。

「 江 戸 」 の 名 が 初 めて 歴 史 書 に 登 場 したのは、鎌 倉 幕 府 の 公 式 記 録 である 吾 妻 鏡 ( あ ず ま か が み、1 1 8 0 〜 1 2 6 6 年 までを 記 録 ) の 治 承 4 年 ( 1 1 8 0 年 ) 8 月 2 6 日の 条 に、( 以 下 現 代 文 )

2 6 日 丙 午 ( へ い ご 、ひ の え う ま ) 、武蔵国 の 畠 山 次 郎 重 忠 、か つ は ( 一 方 で は ) 平 氏 の 重 恩 ( ち ょ う お ん 、深 い 恩 ) を 報 ぜ ん が た め、

か つ は ( 他 方 で は ) 由 比 の 浦 の 会 稽 ( か い け い、注 参 照 ) を 雪 ( す す ) がんため に、三 浦 の 輩 ( や か ら ) を 襲 はんと 欲 す。

( 中略 ) 江 戸 太 郎 重 長 ( し げ な が ) 、同 じ くこれに 与 ( く み ) する。( 以下 省 略 )

とあります。江戸太郎 重長 の 住居 は 現在の 皇居 東 御 苑 ( 旧 ・ 江 戸 城 本 丸 ) 付 近 にあったと 推 定 され、さらに 現在 の 江 戸 川 ・ 中 川 ・ 隅 田 川 の 制 河 権 ( 河 川 通 行 管 理 権 ) の 大 半 を 握 り、坂 東 八ヶ国 の 大 福 長 者 ( だ い ふ く ち ょ う じ ゃ、大 金 持 ち ) と い わ れ ま し た。

注 : 会 稽 ( か い け い ) と は

紀元前 91 年頃 完成 した 中国 初の 紀伝体 の 歴史書 である 史 記 の、 「 越 王 匂 践 世 家 ・ 貨 殖 伝 」 ( え つ お う こ う せ ん せ い か か し ょ く で ん ) にある 故 事 で、春秋時代 ( 紀元 前 7 7 0 〜 前 4 0 3 年 ) に 越 ( え つ ) 王 の 匂 践 ( こ う せ ん ) が 会 稽 山 で 呉 ( ご ) 王 の 夫 差 ( ふ さ ) との 戦 いに 敗 れ、さまざまな 恥 辱 を 受 けたが、後年 呉を 滅 ぼ し て こ の 恥 をそそ いだ。

このことから 会 稽 ( か い け い ) と は、 他人 から 受 けたひどい 辱 ( は ず か し ) め を い う。


[ 2 : 江 戸 に お け る 牧 畜 の こ と ]

牛 は 約 8 千年前 に 西 ア ジ ア で 家畜化 されたと されますが、日本 に 牛 が 伝 え られ た の は 弥生時代 に 稲作伝来 とほぼ 同 じ 時期 で した。中国大陸 ( あるいは 朝鮮半島 ) からの 移住者 が 稲 作 と 共 に 田 を 耕作 する 牛 を 日本 に 持 ちこんだとされ、東京都 ・ 港 区 ・ 三 田 にある 弥生時代 中期 ( 紀元 前 400 年 ) の 伊 血 子 ( い さ ら ご ) 遺跡 からは、牛 の 頭蓋骨 が 出 土 したのが 最 も 古 いものと いわれて います。

馬 は それよりも 少 し 遅 れて 弥生時代 後期 に 日本 にもたらされたとされますが、馬 の 用途 は、軍 事 ・ 輸 送 ・ 農 耕 の 三 つですが、当初 は 軍事用 が 中心 で した。

日 本 書 紀 によれば 欽明 天皇 15 年 ( 554 年 ) 1 月 9 日 の 条 に、百 済 ( くだら ) の 聖明王 が使者 2 名を 九州 の 筑 紫 ( ち く し 、九 州 北 部 )へ 派 遣 し、1 月 に ( 唐 ・ 新羅 の 連合軍 との 戦 い に )参 戦 するという 約束 の 履 行 を 促 し、日本 からの 派遣軍 の 規 模 を 確 認 してきま した。

それに 対 して 筑紫 からの 派遣 は 援 軍 千 人、 馬 百 匹 、船 四十隻 派遣 の 約束 と 決 まり、速 やかに 実行 するとありま したが、6 世紀 中頃 になると 日本 では 馬 の 繁殖 により 数 が 増 え、軍事的 に 海 外 へ 派 遣 できる 状 況 になりま した。


( 2−1、 牛 乳 の 飲 み 初 め )

広大 な 武蔵野 一 帯 は 律令時代 ( 7 世紀 半 ば 〜 10 世 紀 ) に、 官 営 の 牧 [ ま き、飼育 や 繁殖 のため 軍馬 や 牛 を 放牧 してお くための 馬 城 ( マ キ ) から 牧場 のこと ] が 置 かれ 荘園 も 存在 しま したが 、それらの 地 域 から 武士団 が 発生 し、活躍 するようになりま した。

日本 最古 の 基本法典 である 大 宝 律 令 ( 7 0 1 年 ) によれば、官 制 の 乳 戸  ( に ゅ う こ ) と い う 一定数 の 酪農家 が 都 の 近 くに 集 められ、皇族用 の 搾 乳 場 ( さ く に ゅ う じ ょ う 、乳 し ぼ り 場 ) が 定 められま した。

また 武 蔵 国 に 「 神 崎 牛 牧 」 ( か ん ざ き ぎ ゅ う ま き ) という 牧 場 が 設 けられ、「 乳 牛 院 」 という 飼 育 舎 がこの 地 に 建 てられたと 記 されて います。

日 本 書 紀 巻 3 によれば 神武天皇 の 東征 の 折 に、大 和 ( 奈 良 県 ) の 宇 陀 ( う だ ) 地方 を 支配 する 兄 猾 ( え う か し ) の 弟 である 弟 猾 ( お と う か し ) が

已 而 弟 猾 大 設 牛 酒 以 勞 饗 皇 師 焉 天 皇 以 其 酒 宍 班 賜 軍 卒 

[ そ の 意 味 ]

已 ( す で ) に して 弟 猾 ( お と う か し )、大きに 牛 酒 ( ししさけ )を 設 ( もう ) けて、以 ( も )ちて 皇 師 ( み い く さ ) を勞 ( ね ぎ ら ) い 饗 ( み あ え )す。 天 皇 ( す め ら み こ と )、其 の 酒 宍 ( み き し し ) を 以 ちて、軍 卒 に 班 ( あ か ) ち 賜 う。

つまり 弟 猾 ( お と う か し ) が 「 牛 酒 」 ( し し さ け ) をふるま い、神武天皇 はそれを 将 兵 に 賜 ったと いう 話 があるので、弥生時代 後 期 には、牛乳 が 飲 用 され 牛 乳 酒 が 造 られて いた 可能性 もあると いわれて いますが、あ くまでも 神 話 時 代 のことです。

8 1 5 年 に 成 立 した 新 撰 姓 氏 録  ( し ん せ ん し ょ う じ ろ く、平安初期 の 諸 氏 族 の 系 譜 ) によれば、日本 で 牛 乳 を 初 めて 飲 んだのは 大 化 改 新 ( 645 年 ) の 頃 に、百 済 ( く だ ら ) からの 帰 化 人 の 子 孫 である 善 那 ( ぜ ん な ) が 第 3 6 代、孝 徳 天 皇 ( 在 位 6 4 5 〜 6 5 4 年 ) に 牛 乳 を 献 上 したのが 始 まりと いわれて います。

 天皇 ・ 皇族 から 始 まった 牛乳飲用 は、藤原 一 族 から 広 く 貴 族 の 間 に 広 まり、天皇、皇后、皇太子 で 1 日 約 2.3 リ ッ ト ル を 供 し、余 りは 煮 つめて 保存 の よい 蘇 ( そ、チーズ ? ) を 作 ったと 記 されて います。

馬牧場

平安中期 の 9 2 7 年 に 完 成 した 律 令 施 行 細 則 で あ る 延 喜 式 ( え ん ぎ し き ) に よれば、 1 8 ヶ 国 に 馬 牧 ( う ま ま き ) が 2 4 ヶ 所、 牛 牧 が 1 2 ヶ 所 、馬 牛 牧 が 3 ヶ 所 の 計 3 9 の 牧 ( ま き ) が 設置 されたと 記録 されて いますが、日本において 牛 を 飼 う 主要 な 目的 は、あ く ま で も 役 牛 ( え き ぎ ゅ う ) つまり 農 耕 ・ 牛 車 ( ぎ っ し ゃ ) の 牽引 など 力仕事 と し て の 用途 で した。


( 2−2、 酪 農 の 始 ま り )

騎馬武者

平安末期 から 武士 が 勢力 を 持 つようになると 朝廷 の 力 も 次第 に 弱 まり、戦 には 機動性 に 富 んだ 馬 が 使用 され、馬上 から 弓 を 射 る  騎 射  ( き し ゃ ) の 戦法 が 取 り 入 れられるようになると、牛 より 軍馬 が 重視 され 牛 乳 の 需 要 もな くなりま した。

現在 も 神 社 などでおこなわれる 流 鏑 馬 ( や ぶ さ め ) は、平安 末期 から 鎌倉時代 にかけて 盛 んにおこなわれた 騎上戦 の 名残 りであり、騎射 の 上達 を 願 って し ば し ば 神社 に 奉 納 されま した。

嶺岡牧

江戸時代になると 8 代将軍 吉宗 は、オ ラ ン ダ 人 商館長 から 馬 の 医療用 と して 牛 乳 の 必要性 を 教 えられ、享 保 12 年 ( 1 7 2 7 年 ) に イ ン ド から 白 牛 の 牝 3 頭 を 輸入 して 安 房 国 ・ 嶺 岡 ( み ね お か、現 ・ 千 葉 県 南 房 総 市 大 井 ) にある幕府の 嶺 岡 牧 ( み ね お か ま き ) で 飼 育 を 始 め ま したが、これが 「 近 代 酪 農 」 の 始 まりと いわれて います。

跡地 には 今 も 千葉県 ・ 農林水産部 ・ 畜産総合研究 センター が 所 管 する 嶺 岡 乳 牛 研 究 所 があり、そこには 記 念 碑 ( 右上 ) が 建 てられて いますが、碑文 は右 から 左 へ 日 本 酪 農 発 祥 之 地 記 されて います

ところで 不 肖 私 が 昭和 8 年 ( 1933 年 ) に 生 まれたのは、東京市 ・ 牛 込 区 ( 現・新 宿 区 ) 北 山 伏 町 で し た が、牛 込 ( う し ご め ) と い う 地 名 につ いては、 「 新 編 武 蔵 風 土 記 稿 」 に 下記 の 記 述 があります。

当 国 は 往 古 広 野 の 地 に して、駒 込 ・ 馬 込 な ど 云 も 皆 牧 ( ま き ) あ り し 所 とみ ゆ 。「 込 」 は 和 字 に て 多 く 集 る 意 なり、爰 ( ここ ) も 牛 の 多 く 居 り し 所 な れ ば 名 づ け し と あ れ ど 其 據 ( そ の きょ ) を しらず

[ そ の 意 味 ]

武 蔵 国 は 大 昔 から 原 野 ( 武 蔵 野 ) が 広 く、現 ・ 文 京 区 の 駒 込 ( こ ま ご め ) や 大 田 区 の 馬 込 ( ま ご め ) などと い う 土 地 は 、みな 昔 は 牧 場 が あった 所 のようである。

「 込 、こ め 」 は 日本製 の 漢 字 で 「 多 く 集 まる と いう 意 味 」 で あ り 、こ こ 牛 込 ( う し ご め ) も 牛 が 多 く い た 所 か ら 名 付 け た と あ る が 、その 根 拠 は不 明 である。

とありま した。

牛込郵便局

写真は 昭 和 4 5 年 ( 1 9 7 0 年 ) 当 時 のもので、 牛込郵便局 前 の 都 電 の 停 留 所 で す。今では 「 早 稲 田 と 三 ノ 輪 橋 」 間 を 結 ぶ 都 電 の 荒 川 線 ( 1 2 . 2 k m、3 0 停 留 場 ) を 除 く 路 線 は 昭和 4 7 年 ( 1 9 7 2 年 ) に 全 て 廃 止 されま したが、当時 は 秋葉原 から 新宿駅 行 の 路 面 電 車 が 大久保通 り にある 牛 込 郵便局 前を 走 っ い ま した。

今から 丁度 8 7 年 前 に 私 はこの 郵便局 の 近 くで 生 まれ、 姉 ・ 兄 たちは 近 く の 市 ヶ 谷 小学校 に通って いま したが、私が 1 歳 の 時 に 豊 島 区 ・ 巣 鴨 に 転居 しま した。

牛込郵便局

成 人 してからも 親 類 が 住 んで いたので 牛 込 に は 何度 も 訪 れま したが、現在は 大久保 通 り の 下 を 地下鉄 大 江 戸 線 が 通って い て、牛 込 郵 便 局 ( 写真 の 右 側 ) の 周 囲 に は ビ ル が 建 ち 並 び、昔を 知 る 者 に とっては 文 字 通 り 隔 世 の 感 が します。


( 2−3、 牛 乳 を 飲 む の は 、赤 ん 坊 か 病 人 )

新聞縦覧所

昔 は 、牛 乳 を 飲 む の は 「 赤 ん 坊 か 病 人 」 と さ れ て き ま し た が、記録 に よ る と 明治 5 年 ( 1 8 7 2 年 ) 頃 か ら 東京各地 に 、ホ ッ ト ミ ル ク を 1 杯 注 文 す れ ば 新 聞 が 閲 覧 で き る と い う 「 新 聞 縦 覧 所、( 注 参 照 ) 」 が 誕 生 し 流行 り 始 めま した。そのために 当然 のことながら、牛乳 の 需 要 が 増 え ま した。


注 : 新 聞 縦 覧 所
新 聞 縦 覧 所 とは 公 費 で 新聞 を 買 い 上 げ、有 料 または 無 料 で 閲 覧 させて いた 施 設 のことで、後 に 私 設 の 縦 覧 所 も 増 加 しま した。明 治 時 代 を 通 じ て 普 及 し、そ して 衰 退 ・ 消 滅 し ま し た。


( 2−4、渋 谷 の 街 も、昔 は 放 牧 地 )

牛の放牧

明治 1 9 年 ( 1 8 8 6 年 ) の 東 京 府 ・ 牛 乳 搾 乳 ( さ く に ゅ う ) 販 売 業 組 合 の 資 料 によると、牛 込 の 名 前 の ご と く 牛 込 区 内 で は 神 楽 坂 ・ 若 松 町 ・ 矢 来 町 ・ 市 ヶ 谷 な ど で 乳 牛 が 飼 育 さ れ 、 渋 谷 ・ 代 々 木 辺 の 牛 飼 い 農 家 競 合 関 係 に あったと されます。

京王澁谷駅

牛 の エ サ は 「 青 い 草 」 で したから、当時 は 牛 を 草 原 に 放 牧 し、あるいは 付近 に 広 い 「 草 刈 り 場 」 が あったことが 容易 に 想 像 されます。右 の 写真 は 私 が 生 ま れ た 昭 和 8 年 ( 1 9 3 3 年 ) 当 時 の 京 王 電 鉄  渋 谷 駅 前 の 様子 ですが、黄 色 の 矢 印 が 渋 谷 駅 の 入 口 で す。

渋谷駅の今昔

右 上 の 写 真 にある 駅 入 り 口 付近 を 拡 大 したものが 左 の 写 真 ですが、駅 の 看 板 から 「 京 王 帝 都 電 鉄 ・ 井 の 頭 線 ・ 澁 谷 駅 」 の 文字 が 読 み 取 れ 、奥 には 駅 の ホーム の 屋 根 と 電 車 が見 えます。

なお 京 王 帝 都 電 鉄 が 渋 谷 駅 から 「 井 の 頭 線 」 の 営 業 運 転 を 開 始 したのは、昭 和 8 年 ( 1 9 3 3 年 ) の 8 月 1 日 のことで した。

京王駅ビル

今 では 若者 の 街 である 渋 谷 も 8 7 年 前 には 右上 写 真 のような 状 態 で した。さ ら に 半 世 紀 遡 ( さ か の ぼ ) った 明治 1 6 年 ( 1 8 8 3 年 ) 頃 では 、 道 玄 坂  ( ど う げ ん ざ か ) な ど の 周 囲 の 坂 に 囲 まれ た 現在 駅 の あ る 付 近 の 低 地 で は、 牛 の 放 牧 が お こ な わ れ て い ま し た

右 は 現 在 の 渋 谷 で、右 側 の 高 い ビ ル の 中 から 京 王 ・ 井 の 頭 線 の 電 車 が 出 発 ・ 到 着 します。

「 道 玄 坂 」 の 名 前 の 由 来 に つ い て は 、天 保 7 年 ( 1 8 3 6 年 ) に 刊 行 さ れ た 地 誌 で あ る 「 江 戸 名 所 図 会 」 ( ず え ) に よ れ ば、

里 諺 ( り げ ん、世 俗 で 言 い な ら わ さ れ て い る こ と わ ざ ) に 云  う、大 和 田 氏 の 道 玄 は 和 田 義 盛 ( 1 1 4 7 〜1 2 1 3 年 ) が ( の ) 一 族 な り。建 暦 3 年 ( 1 2 1 3 年 ) 五月 、和 田 一 族 ( 北 条 氏 との 権 力 闘 争 = 和 田 合 戦 に 敗 れ ) 滅 亡 す。

和田義盛

其 残 党 ( そ の ざ ん と う ) 此 所 ( こ の と こ ろ ) の 窟 ( く つ、洞 窟 ・ 岩 屋 ) 中 に 隠 れ 住 み て 山 賊 を 業 と な す 。故 に 道 玄 坂 と い う な り。

鎌 倉 時 代 ( 1192 〜 1333 年 ) に は、 渋 谷 周 辺 は 「 山 賊 」 ・ 「 追 い 剥 ぎ 」 が 出 る ほ ど 草 深 い と こ ろ で し た。


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[ 3 : 江 戸 の 変 化 の 様 子 ]

扇谷上杉

平安時代 後期 の 江戸周辺 の 様子は 更 級 日 記 ( さ ら し な に っ き ) に 記されて いますが、葦 ( あ し ) や ス ス キ が 生 い 茂 る 原 野 で し た が、1457 年に この地に 初 めて 江 戸 城 を 築 いたのが、上杉 諸家 のうち 鎌倉 の 扇 谷 ( 現 ・ 鎌倉市 扇 ヶ 谷 ) に 屋敷 を 構 えた 扇 谷 上 杉 家 ( お う ぎ が や つ う え す ぎ け ) の 家 臣、太 田 道 灌 で し た。

彼 は 寛 正 6 年 ( 1 4 6 5 年 ) に 上 洛 ( じ ょ う ら く、京都 に 行 く こ と ) し ま し た が、第 103 代、後 土 御 門 天 皇 ( ご つ ち み か ど て ん の う ) に 拝 謁 ( は い え つ ) した 際 に、当時 は 辺 境 の 地 で あ っ た 東 国 に つ い て 「 武 蔵 野 の 風 景 は ど の よ う な も の か 」 と 御下問 ( ご か も ん ) が ありま した。その 際 に ご 存 じ の

我が庵

わ が 庵 ( い お ) は 松 原 つ づ き 海 近 く 富 士 の 高 嶺 を 軒 端 ( の き ば ) に ぞ み る

と 和歌 を 詠 ん だ こ と で 有名 になりま した。しか しその 21 年 後 の 1 4 8 6 年 に、彼 の 勢 力 台 頭 を 恐 れた 主 君 の 上 杉 定 正 に よって 暗 殺 され 、5 5 才の 生涯 を 閉 じま したが、以後 の 江 戸 は 海 辺 の さ び れ た 村 に 戻 りま した。

その 後 1 5 9 0 年 に 天 下 を 取 った 豊臣秀吉 が 徳川家康 に 関東 へ の 国替 え を 命 じたために、長年 所 領 と してきた 駿 河 ( す る が ) ・ 遠 江 ( と う と う み、静 岡 ) ・ 三 河 ( み か わ、愛知 ) か ら、 1 5 9 0 年 に 江戸城 に 入 りま したが、当時 の 江戸城 の 周 囲 には 石 垣 もな く、防 禦 のために 土 を 積み 上 げて 作 った 土 手 に 芝 が 生 え、竹 林 が 茂 るという 状態 で した。

江戸時代 前期 の 甲州流 軍学者 であった 大道寺 友 山 ( だ い ど う じ ゆ う ざ ん ) が 記 した 岩 淵 夜 話 別 集 ( い わ ぶ ち や わ べ っ し ゅ う ) によれば、天 正 18 年 ( 1 5 9 0 年 ) 当時 の 江戸城 は 城 も 小 さ く 堀 もせま く、

東 の 方 ( か た ) 平 地 の 分 は、ここも か しこも 汐 入 ( し お い り、満 潮 になると 海 水 に 浸 る 場 所 ) の 茅 原 ( か や は ら ) に て、町 屋 ・ 侍屋敷 を 十 町 ( 10 ヘ ク タ ー ル、3 万 坪 ) と 割 り 付 ( つ く ) べ き 様 も な し ( 方 法 も な い )

偖 又 ( さ て ま た ) 西 南 方 ( か た ) は 平 々 ( へ い へ い、極 めて 平坦 なさま ) と 萱 原 ( か や は ら ) 武蔵野 へ 続 き、どこを しまい ( 終 い ) と 言 うべき 様 もな し ( 果 て し な い ) 。その 城下 は 茅 葺 ( か や ぶ ) き の 家、 百 ばかりもあるかな しかである。

と 伝 え て い ま す。


( 3−1、 城 下 町 に 必 要 な 土 地 の 造 成 )

日比谷入り江

城 の 前 には 日 比 谷 入 江 が 迫 り、江戸湾 沿 い の 地域 には 多 く の 汐 入 地 が 存在 し、満 潮 になれば 海 水 が 入 り 込 み、潮 が 引 けば、葦 ( あ し )や 萱 ( か や ) などが 生 い 茂 る 湿地帯 になり、北側 には 本郷台地 に 連 なる 神 田 山 や 上 野 台 地、西 に は 麹 町 台 地 や 牛 込 台 地 とそれに 続 く武蔵野 の 林 に 覆 われた 原 野 が 広 がり、平 坦 な 土地 は 極 めて 少 な い 場所 で し た。

関東 への 国 替 えを 命 じられた 徳川家康 が 江戸 に 入 ったのは 天 正 18 年 ( 1 5 9 0 年 ) 8 月 1 日 のことで したが、家康 は 早速 江戸城 の 堀 造 りから 始 めま した。

それと 共 に 日比谷 入江 を 初め 海沿 いの 低湿地帯 や 台 地 が 多 く、城下町 を 形成 するには 狭 い 土地 のために、低湿地 の 排 水 を 兼 ねて 堀 を作 り、台地 を 削 り 出 した 土 で 東 部 の 入江 や 低湿地 を 埋 め 立 てて 平地 面積を 拡大 して いきま した。

現在も 東京 には 日比谷 を 初 め 渋 谷 ・ 市 ヶ 谷 ・ 四 ッ 谷 ・ 千駄 ヶ 谷 ・ 阿佐 ヶ 谷 ・ 雑司 ヶ 谷 ・ 入 谷 ・ 下 谷 ( し た や、台東区 の 町名 ) など など 「 谷 」 の 付 く 地 名 が 数多 く 存在 します。

武蔵野 台 地 やその 延長 にある 本郷 台 地 などの 谷 筋 や 低地帯、あるいは 今 では 暗 渠 ( あんきょ、地上 からは 見 え ないように 設備 した 水 路 ) となった 川 のそばなどに 、人が 最初 に 住 み 着 いたからで した。

ちなみに 千代田区 ・ 神田 にある 駿河台 ( す る が だ い ) の 地名 は 当時 の 名残 りで、埋 め 立 て 用 の 土を 神田山 から 削 り 取 った 跡 の 台地 に、徳川家康 の 旧領地 でした 駿 河 国 府 中 ( 現 ・ 静岡市 葵 区 ) から、家 臣 たちが 移住 して 家 を 構 えたことに 由来 します。

参考までに 武蔵野 台地 は 成田空港 のある 標 高 43 メートルの 北総 台地 ( ほ く そ う だ い ち ) と 同様 に 灌漑用水 には 恵 まれず、住民は 水 に 苦労 しま した

そこで幕府は 1 6 5 4 年に 多摩川 の 水 を 現 ・ 東京都 ・ 西多摩郡 ・ 羽村町で 取水 し、新宿 四谷 までの 50 キ ロ の 上水道用 の 玉川 上水 ( じ ょう す い、 ) の 水路 を 開削 し、四谷 からは 暗 渠 ・ 懸 樋 ( かけひ ) などで江戸城や市民に 給水 しま した。

1600 年の関ヶ原の合戦に勝利し天下を取った家康は 1603 年には征夷大将軍となり、諸大名に命じて多数の人夫を集め江戸城を初めとする各地の築城や、 江戸の大規模な町造り、大河川堤防の工事などでに取り組む いわゆる 「 天下普請 ( てんかぶしん ) 」 をおこないました。その際には 「 千石夫 」 ( せんごくふ ) といわれるように、諸大名に対して石高千石につき作業人夫を 1 名差し出すように命じました。

江戸の土地造成工事の結果、現在の JR 浜松町駅から北へ、町名でいうと港区浜松町 ・ 芝大門 ・ 新橋 ・ 西新橋 ・ 千代田区内幸町 ・ 日比谷公園 ・ 皇居外苑 ・ 大手町西部にあった 「 日比谷入江 」 が平坦な宅地にかわり、その結果 汐入り地に囲まれていた半島状の 「 江戸前島 」 と江戸城は陸続きになり、 商工業者など町人が移り住み、現在の日本橋 ・ 京橋 ・ 銀座などの町並みが形成され城下町の形がととのいました。

大名行列

寛永 12 年 ( 1635 年 ) になると徳川家光による武家諸法度 ( ぶけ しょはっと、諸大名統制のための法令や心得 ) の改訂により参勤交代が制度化され、諸大名の家族や江戸詰めの家臣も江戸に住むようになり、人口は急速に増加しました。


[ 4 : 日 本 の 都 市 人 口 ]

ガレオン船

海に面した寒村だった江戸も葦原 ( あしはら ) の埋め立てにより多くの土地が造成され、次第に多くの人が住むようになりました。

家康の江戸国替えから 19 年後の慶長 14 年 ( 1609 年 ) 9 月のこと、フィリピンの マニラから メキシコの アカプルコに向かう ガレオン ( Galleon ) 船 ( 右図 ) サン ・ フランシスコ号が台風により遭難して上総国岩和田村 ( 現 ・ 千葉県 御宿町、おんじゅく ) に漂着し、 乗員乗客 314 人 が漁民に救助されました。


( 4−1、外国人が見た江戸初期の日本 )

乗客の 1 人に フィリピン臨時総督 ロドリゴ ・ デ ・ ビベロ ( Rodrigo de Vivero、スペイン 人 ) がいましたが、彼は徳川幕府によって江戸に招かれ さらに京 ・ 大坂 ( 大阪 ) も訪れました。 彼の記した 「 日本見聞記 」 によれば、当時の江戸の人口について 15 万人 と記録していました。更に 京 ・ 大坂 ( 大阪 ) については、

思ふに、当地 「 大坂 」 は日本國中最も立派なる所にして、人口は 二十万 あり、海水其家屋に波打つが故に、非常に潤澤 ( じゅんたく、ゆたか ) に海陸の贈物を具有 ( ぐゆう、そなえもつ ) せり。家屋は 二階建を通常とし、構造巧なり。

此 ( この ) 六十六箇國 ( 日本全土 ) には多數の都市あり、広大にして人口多く、 C潔にして秩序正しく 、欧洲に於て之 ( これ ) と比較すべきものを発見すること困難なるべし。

而 ( しか ) して陸路を行くこと 二百 レグワ ( 1 レグア = 5.57 キロメートル ) を超ゆるも、人の居住せざる地 一 レグワ を見ること稀なり。

家屋市街及び城郭 ( じょうかく、城のかこい ) は善美にして、これを過賞 ( かしょう、ほめすぎる ) すること難 ( がた ) し。

人民の數非常に多く、悉 ( ことごと ) く 國内に容 ( い ) るゝこと能 ( あた ) はざるが如し ( できないようである )。人口 二十万 の市多く、都の市は 八十万 を超えたり。

と記していました。

三浦按針

ところで慶長 5 年 ( 1600 年 ) に東 インド会社の リーフデ号が遭難し、豊後 ( 大分県 ・ 臼杵 うすき ) に漂着しましたが、その船の航海士で後に幕府に仕えた イギリス人の ウイリアム ・ アダムス [ 日本名、 三浦按針 ( あんじん )]  がいました。

彼は船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを徳川家康から命じられ、伊豆半島東側の伊東に日本で初めての造船 ドックを設けて、日本で最初の洋式帆船 ( 80 トン ) の建造に着手しました。

それが慶長 9 年 ( 1604 年 ) に完成すると、気をよくした家康は更に大型船の建造を指示し、慶長 12 年 ( 1607 年 ) には 120 トンの洋式帆船 を完成させました。家康はこの船を前述した前 フィリピン臨時総督 ロドリゴ ・ デ ・ ビベロに貸与して、彼等を帰国させることにしました。

ビベロ はこの船を サン ・ ブエナ ・ ベントゥーラ号 ( 幸せを運ぶ船 ) と名付けて、メキシコの アカプルコに向けて出航し アカプルコに無事到着しました。 ロドリゴ は スペイン本国の フェリッペ国王や従兄の ヌエバ ・ エスパーニャ ( メキシコ ) 副王に直接意見具申を行いました。

そこで有名な探検家の セバスティアン ・ ビスカイノ ( Sebastian Vizcaino、1548〜1615 年 ) を答礼使兼、 金銀島探検隊長として慶長 16 年 ( 1611 年 ) に日本に派遣しました。彼は伊達政宗の知遇 ( ちぐう、手厚いもてなし ) を得て、三陸沿岸を測量しました。


( 4−2、ビスカイノ が遭遇した地震と大津波 )

ビズカイノ像

慶長 16 年 ( 1611 年 ) 10 月 28 日 ( 太陰暦 ) に マグニチュード推定 8.1 の、いわゆる 慶長三陸地震 が起き、それに伴い大津波が起きましたが、伊達藩における溺死者は 1,783 人 ・ 南部藩 人馬 3 千余人 ・ 相馬藩 700 人と伝えられています。

当時の地震と大津波に ビスカイノ は偶然遭遇しましたが、 彼が 1614 年に執筆した ビスカイノ 金銀島探検報告 が 18867 年に刊行され、それには 三陸沿岸で遭遇した大津波について以下のように記されています。

金曜日 ( 12 月 2 日、太陽暦 ) 我等は越喜来 ( おつきらい、現 ・ 岩手県 大船渡市 ) の村に着きたり。また 一つの入江を有すれども用をなさず。此処 ( このところ ) に着く前に住民は男も女も村を捨てて山に逃げ行くのを見たり。

是 ( これ ) まで他の村々に於いては住民我等を見ん為め海岸に出 ( い ) でしが故に、我等は之を異 ( い 、おかしい ) とし、我等より遁 ( のが ) れんとするものと考え 待つべしと呼びしが、忽 ( たちま ) ち其原因は此地に於て 一時間継続せし大地震の為め

海水は 1 ピカ ( 3 メートル 89 センチ ) 余の高さをなして其堺 ( そのさかい ) を超え、異常なる力を以て流出し、村を侵し、家および藁 ( わら ) の山は水上に流れ、甚しき混乱を生じたり。

海水は此間に 3 回進退し、 土人 ( 原住民 ) は其財産を救う能 ( あた ) はず、多数の人命を失ひたり。此海岸の水難に依り多数の人溺死し、財産を失ひたることは後に之を述ぶべし。此事は午後 五時に起りしが 我等は其時 海上に在りて激動を感じ 、又 波濤會流 ( はとう かいりゅう、大波が合流 ) して我等は海中に呑まるべしと考えたり。

我等に追随 ( ついずい ) せし舟 2 艘は沖にて海波に襲はれ、沈没せり。神 ( キリスト ) 陛下 ( へいか、フェリッペ国王 ) は我等を此難 ( このなん ) より救い給ひしが、事終わりて我等は村に着き逃かれたる家に於て厚遇を受けたり。

幸運にも ビスカイノ 一行は海上にいたおかげで命びろいし、その夜は津波の被害をまぬかれた家に宿泊し以後も測量を続けました。

ところで 「 津波 」 は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶が遭遇しても被害が少ないにもかかわらず、津 ( つ、港 ) には大きな被害をもたら波であることに名前が由来します。 

津波

津浪 ( 津波 ) という言葉が文献に現れた最古の例は、駿府城 ( 現 ・ 静岡市 ) における徳川家康の動静を中心に記した 駿府記 ( すんぷ き ) で、慶長 16 年 ( 1611 年 ) 10 月 28 日に発生した津波について、

政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す溺死者五千人 世曰 津浪 云々

[その意味]

伊達政宗の領地では水際の人や家屋は大波がみなぎり来てことごとく流失した。溺れ死ぬ者 五千人。世にいわく これは 津浪 ( つなみ ) であると。

でした。


( 4−3、隅田川東岸への開発 )

両国橋

明暦 3 年 ( 1657 年 ) のこと、江戸市中の 三分の 二が焼ける明暦の大火 ( 振袖火事 ) が起きましたが、その際に隅田川の西岸では猛火に追われた人々が、川向こうの本所方面に渡る橋が無いために多数の人が焼死 ・ 溺死しました。このことから大火後の本所方面の開発に合わせて、1659 年に隅田川に架かる 2 番目の橋として両国橋 が架けられました。

それまでは江戸城を防衛する目的から、隅田川やその上流の荒川には奥州街道 ( 現 ・ 国道 4 号線と、途中から北西に分岐する日光街道 ) が通る千住大橋 ( 南岸は現 ・ 東京都 ・ 荒川区、北岸は同じく足立区 ) 以外の架橋は許されませんでした。右上の絵図は両国橋で手間が江戸の岸辺、対岸が下総国です。

両国橋

写真は明治初期の両国橋ですが、 左側にある 2 本の柱の 一面には 松本藩用 物置場 、他面には 明治二 己 巳年 二 月 二十 日 [ 明治 2 年 ( 1869 年 ) 、きし( つちのと み どし ) 2 月 20 日 ] と記されています。

両国橋は相撲で有名な国技館の南にありますが、橋の名前の由来については、西側の武蔵国 ( 現 ・ 台東区 ) と、東側の下総国 ( しもうさのくに、現 ・ 墨田区 ) の二つの国を結ぶことから名付けられました。


[ 5 : 江戸の火事と消防制度 ]

世界最古の組織化された消防隊は エジプトが起源といわれますが、その内容については明らかではありません。紀元 6 年に イタリアの ローマで大火が起きたのを契機に、当時の皇帝 アウグストゥスが ローマ消防隊を組織しました。これは ウィギレス ( Vigiles ) と呼ばれ、消防隊であると同時に首都警護の軍隊でもあり、隊員は解放奴隷の中から選ばれました。

一方日本では、「 火事と喧嘩は江戸の華 」 ということわざがありますが、江戸は火災の多い都市で早くから自衛消防の組織作りがおこなわれていました。とりわけ後述する江戸の 三分の二 が焼け野原となった 明暦 ( めいれき ) の大火 は、幕府に消防体制の不備を痛感させました。


  • [ 定火消し ( じょうびけし ) ]

    明暦の大火の翌年である万治元年 ( 1658 年 ) に幕府は 「 江戸中定火之番 」 ( えどじゅう じょうひのばん ) つまり定火消しを創設し、江戸市中の四谷 ・ 赤坂 ・ お茶の水 ・ 八代洲 ( やよす、現 ・ 八重洲 ) の 4 ヶ所に火消し屋敷を設置しました。

    定火消し

    4 人の旗本がそれぞれの屋敷に居住して、与力 ( よりき ) 6 人、同心 ( どうしん ) 30 人を付け、火消し人足 300 人分の扶持 ( ふち ) も与えました。絵は出動準備を整えた定火消しで、火消し道具である はしご、竜吐水 ( りゅうどすい、ポンプ )、玄蕃桶 ( げんばおけ )などを用意します。(

    元禄 8 年 ( 1695 年 ) には与力 15 人による定火消し 15 組と組織が拡大しましたが、後に財政難のため 10 組となりました。火事の際には馬に乗り出動した与力の指揮のもとで実際に消火に当たったのが、「 臥煙 ( がえん ) 」 と呼ばれる 火消し人足でした。

    江戸文字の書家、太田櫛朝 ( おおた せっちょう ) は 「 江戸乃華 」 ( えどのはな ) で次のように述べています。

    火消卒 ( ひけしそつ ) を 「 ぐわえん 」 といふ。すなわち臥烟 ( ぐわえむ ) の音称なり。此 ( この ) ぐわえん といふもの江戸者多し。極寒といへども邸 ( やしき ) の法被 ( はっぴ ) 一枚の外 衣類を用ひず。

    消火に出る時は満身の文身 ( ほりもの ) を現はし、白足袋はだし、身体清く、男振美しく、髪の結様 ( ゆいよう ) 法被の着こなし、意気 ( 粋 ) にして勢よく、常に世間へは聊 ( いささ ) かの無理も通りければ、祁寒 ( きかん、厳しい寒さ ) の苦を忘れて、身柄の ( 良い ) 家の子息等の ぐわえん に身を誤るもの少なしとせず。( 以下省略 )

    火の見櫓

    火消し屋敷の敷地内には高さ 3 丈 ( 約 9.1 メートル、3 階建てに相当 ) の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘が備えられましたが、この火消し屋敷が、現在の消防署の原型といわれています ( 左図 ) 。


  • [ 大名火消し ]

    寛永 18 年 ( 1641 年 ) 1 月に江戸 ・ 京橋の桶町から出火して大火となり、 死者 400 名以上、焼失した町数 97 、焼失した武家屋敷 123 の被害がありましたが、幕府はその被害の大きさに驚き、従来江戸城の消火体制で軍役的役割の大きかった小大名の消火活動を、市中の消火にも拡大しました

    大名火消し

    6 万石以下の大名 16 家を 4 組に編成して、1 万石につき 30 人の人足を提供させ、1 組が 10 日ずつ消火活動に当たる仕組みでした。この大名火消しの消火法は 「 破壊消防 」 で、延焼を防ぐために風下側の家々を破壊しながら火勢を収める方法でした。

    鳶口

    右上の写真で指揮する武士が馬に乗って出動し、 「 火 消 し 人 足 」 たちが手に持つ棒状のものは 破壊消防用 の 鳶 口 ( と び ぐ ち 、左 図 ) です。禄 高 5 万 3 千石の小大名であった播州赤穂の 浅野藩は 大 名 火 消 し に 編成 された 経験 がありましたが、初代藩主であった浅野長直 ( あさの ながなお ) の頃から 江戸庶民 に 人気のある 「 大 名 火 消 し 」 でした。

    その理由は 「 町火消し 」 の組織が未だ無い頃に武家屋敷の火事だけではなく、町家の火事の際にも積極的に出動し消火に当たったからでした。ちなみに赤穂浪士 47 人が吉良邸に討ち入りする際には、徒党を組んでの行動を途中で各町内に警戒のために置かれた番所 ( 自身番 ) などで怪しまれないように、火事装束をしていました。

  • [ 町 火 消 しと、消 火 道 具 ]

    享保 3 年 ( 1718 年 ) に南町奉行の大岡忠相 ( おおおか ただすけ ) が町人たちによる自衛消火の組織作りを始めましたが、これが町方による江戸消防組織となった町火消しでした。

    何度か地域割りの再編成があり、隅田川以西の町々を約 20 町毎に 47 の小組に分けて、 いろは 四十七文字を組の名にしました 。しかし 「 へ ・ ら ・ ひ ・ ん 」 の 4 文字は 「 へ 」 が 屁に、「 ひ 」 が火に、「 ら ・ ん 」 は発音が尾籠 ( びろう、人前で口にするのをはばかる ) なために除き、代わりに 「 百 ・ 千 ・ 万 ・ 本 」 の 4 文字を組の名前に加えました。

    まとい持ち

    右は 千組 ( せんくみ ) の纏 ( まとい ) 持ちですが、纏持ちは火消しの中の花形で火災 になるといち早く現場に駆けつけ、ほかの組に遅れじと屋根に駆け上がって 一番乗りの功名を争いました。纏 ( まとい ) を立ててここで火勢をくい止めろという目印にしましたが、炎が迫る屋根にぎりぎりまで留まるために命を落とす者も多かったといわれています。

    町火消し

    俗に 「 火消しの 七つ道具 」 と呼ばれる物がありますが、消防組の目印である前述の 纏 ( まとい ) ・ 放水 ポンプの 竜吐水 ( りゅうどすい )、これは放水能力が低いために、屋根に登った 「 まとい持ち 」 に向けて放水し、火災の熱から 「 まとい持ち 」 の身を守るのに使用しました。

    その消防用水を運ぶのに使用する 玄蕃桶 ( げんばおけ ) ・ 吹き寄せる煙や炎を扇 ( あお ) ぎ返す 大団扇 ( おおうちわ ) ・ 屋根に上るのに必要な はしご ・ 破壊消防に必要な前述の とび口 ・ 本来は捕り物道具の 刺す又 でした。

消火に必要な最古の消防 ポンプについては紀元前 440 年頃、ギリシャで開発された 「 牛の腸を利用した加圧放水器 」 つまり 「 水鉄砲のたぐい 」 とされますが、その後 紀元前 2 世紀頃に アレクサンドリアの クテシビオが ピストン式 ポンプを作成したとされます。

蒸気ポンプ

ヨーロッパでは水鉄砲式の消火用具から次第に手押し式の ピストン式 ポンプへと移行し、ワット ( Watt、1736〜1819年 ) による蒸気機関の発明により 1829 年には、蒸気消防 ポンプが発明されました。日本では 1754 年に前述した 竜吐水 ( りゅうどすい ) と称する手押し ポンプが作られましたが、放水能力が低く消火には直接使用されませんでした。右の写真は消防本署 ( 現 ・ 消防庁 ) の前に置かれた イギリス製の蒸気消防 ポンプです。

馬引き蒸気ポンプ

1870 年には イギリスから蒸気消防 ポンプを輸入して試用し、その後はこれを模倣して 馬引き蒸気消防 ポンプ が国産されるようになりました。写真は明治中期から大正中期 ( 1918 年 ) 頃まで使用された国産の 馬引き蒸気 ポンプ ですが、 ポンプ自動車が出現するまで活躍しました。欠点は 30 馬力の動力源となる蒸気の発生に約 20 分程度必要としたことで、火事の現場に到着しても蒸気圧が上がるまでは放水ができませんでした。


[ 6 : 江戸の 大火 ]

大火については、客観的基準として焼失面積 ・ 死者数 ・ 罹災者数などが定められていたわけではなく、当時の人々により大火と記憶され名前が付けられていたかどうかであり、また大火を題材にした 「 八百屋 お七 」 ( 注 参照 ) のような演劇や絵画が残されていたかでした。


江戸の著名な大火 ( 三大火災の名は、赤字で示す )

年 月 日名 称死者数年 月 日名 称死者数
寛永18年1月29日
(1641年)
桶町火事400以上宝暦10年2月6日
(1760年)
宝暦の火事不明
明暦3年1月18日
(1657年)
振袖火事
明暦大火
10万7千明和9年2月29日
(1772年)
行人坂火事14,700
天和2年12月28日
(1682年)
八百屋
お七火事
830〜
3,500
文化3年3月4日
(1806年)
車町火事1,200
元禄11年9月6日
(1698年)
中堂火事3,000文政一二年3月21日
(1829年)
文政の大火2,800
元禄16年11月29日
(1704年)
水戸様
火事
不明天保5年2月7日
(1834年)
甲午火事4,000
享保2年1月22日
(1717年)
小石川
火事
100弘化2年1月24日
(1874年)
青山火事800〜
900
延享2年2月12日
(1745年)
六道火事1,323安政2年10月2日
(1855年)
地震火事4千5百〜
2万6千


注 : 八百屋 お七
天和 2 年 ( 1682 年 ) 12 月に大火が起きたが、八百屋お七の一家は火災の難を避け旦那寺 ( だんなでら、家の葬儀 ・ 法要を代々おこなう寺 ) である駒込にある吉祥寺に身を寄せた。お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちたが、やがて一家は無事に本郷へ戻ることとなった。

しかし 16 才の お七は吉三郎に逢いたくてたまらず 火災に遭えばまた逢うことができると考え、翌年 1 月に自宅に放火し天和 3 年 ( 1683 年 ) に鈴ヶ森 ( すずがもり、現 ・ 東京都 品川区 南大井 ) の刑場で火刑に処せられた。

ちなみに江戸の 三大火事といわれるものは、下記の大火です。

    明暦の大火

  1. 前述した 明暦の大火 、 明暦 3 年 ( 1657 年 ) 1 月 18 日、死者数 10 万 7 千人 、焼失面積 4,748 平方 キロメートル で江戸時代最大の火災であり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。

    区画整理のための建築制限令の公布、両国橋の架設、灯明の使用から失火し易い神社仏閣の郊外への移転、屋根の防火対策、広小路 ・ 火除土手の設置などが行われた。

  2. 明和の大火 ( 行人坂火事 )、 明和 9 年 ( 1772 年 ) 2 月 29 日、死者数 1 万 4 千 700 人、焼失面積 14,063 平方 キロメートル

  3. 文 化 の 大 火 、文 化 3 年 ( 1 8 0 6 年 ) 3 月 4 日、死者数 1,200 人、焼 失 町 数 5 3 0 町、焼 失 家 屋 12 万 6 千戸、焼 失 面 積 7,876 平 方 キロメートル

ところで記録に残る江戸の大火は、慶長 6 年 ( 1601 年 ) 11 月 2 日の最初の大火から、安 政 2 年 ( 1 8 5 5 年 ) 10 月 2 日 の 地震火事 まで、254 年間に延べ 19 回の大火があったので、 13.4 年に 一 度 大きな火事に見舞われたことになります。このように大火が頻発し、都市の広大な町並みが繰り返し焦土と化した例は世界でも例がないといわれています。

ちなみに世界では 1666 年の ロンドン 大火、1676 年の アメリカ ボストン の 大火、1 7 6 3 年 の パ リ オ ペ ラ 座 の 火 災、1 8 4 2 年の ド イ ツ ハ ン ブ ル ク の 大火 などは、いずれも 強力 な 常備消防隊 を 組織 する 直接的 な 契機 となっています。


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