物語・伝説と当時の社会


[ 1 : 更級 ( さら しな ) 日記 ]

( 1−1、女性の名前は秘密 )

イスラム女性のブルカ

イスラム 教の戒律を厳格に守る宗派に属する 地域では、たとえば イスラム 原理主義の タリバン ( Taliban ) が支配する アフガニスタン の 一部のように、女性は民族衣装の ブルカ ( Burqa ) を着ますが、頭や全身はもちろん目の部分も網状の布に覆われていて、夫や近親者以外の男性には顔を隠 しています。

平安時代 ( 794〜1192 年 ) のこと、すさま じい 怨霊神 ( おんりょう しん ) から学問の神様に大変身 した 菅原道真 ( 詳しく知りたい方は ここを クリック ) の子孫に当たる菅原孝標 ( すがわら たかすえ ) の( むすめ ) に、名前不詳の女性 ( 1008 年頃 ?〜没年不明 ) がいま したが、 当時の社会習慣 から皇后、皇女などの高貴な方を除き、 女性の名前が世に知られることはありませんで した 。 

そのため彼女に限らず彼女の 伯母で、 女性による最初の日記文学である 蜻 蛉 日 記 ( かげろう にっき、977 年成立 ) を書いた女性も、藤原道綱  ( ふ じわら みちつなの はは ) と しか伝えられていませんで した。

ちなみに平安時代の王朝文学を彩 ( いろど ) った 紫式部、和泉式部などについても、 「 式部 」 は父 ( 兄 ) の官名 ( 注 : 参照 ) であり、和泉式部の 「 和泉 」 は最初の夫の任国である和泉国 ( いずみのく に、現 ・ 大阪府の一部で 和泉市の 府中に国府があった ) からとったもので、本名ではありませんでした。

紫式部の 「 紫 」 は源氏物語の 「 紫の上 」 から名付けたもので、紫式部の本名も不明。 枕草子を書いた 「 清少納言 」 については、「 清 」 は彼女の 清原姓から、「 少納言 」 は親族の役職名に由来するとされま したが、本名はもちろん不明で した。

注:)式 部
式部 とは大化の改新による律令制で定められた 八つの 省 [ 中務 ( なかつかさ ) ・ 式部 ・ 治部 ( じぶ ) ・ 民部 ( みんぶ ) ・ 兵部 ( ひょうぶ ) ・ 刑部 ( きょうぶ ) ・ 宮内 ・ 大蔵 ] のうちの 式部省にある役職のことで、礼式および文官の 人事 全般 を司った。

更級日記 ( さら しなにっき ) の作者は 少女時代から源氏物語などの物語を好み、 第 69 代、後朱雀 ( ごすざく ) 天皇 ( 在位 1036〜1045 年 ) の第 3 皇女である 祐子内親王 ( ゆう し ない しんのう ) に宮仕え しましたが、下級貴族の橘 俊道 ( たちばな としみち ) との結婚生活を経て寡婦 ( かふ、夫に死なれた女性 ) となり、約 40 年間の人生を 晩年 ( 52 才頃 ? ) になって回想的に綴り、 1059 年ごろに更級日記を完成させま した。


( 1−2、大和物語 )

彼女が日記に付けた更級 ( さらしな ) の名は、最初の勅撰和歌集であり 913 年頃に成立 した古今和歌集にある 詠み人知らずの 一首 

わが心 慰めかねつ 更級 ( さら しな ) や 姨捨山 ( おばすてやま ) に照る月を見て

に由来するといわれていますが、生前の夫が信濃守 ( しなののかみ、長野県の行政長官 ) と して、単身赴任 したことから名付けられたものです。

姨捨山の由来については 天暦 5 年 ( 951 年頃 ? ) に成立 した作者不明の 大和物語 ( やまとものがたり ) にありますが、これは古歌にまつわる噂 ( うわさ ) や伝説などを短編の物語に したもので、その 156 段 に記されています。概略の内容は以下の通り。

信濃の国の更級 ( さら しな ) という所に、男が住んでいた。若いときに親が死んで しまったので、伯母を親のよう思い引き取って世話を していたが、この男の妻から伯母が意地悪 くて、役に立たないということを告げ口された。伯母は年老いて腰が曲がっていたが、ある時妻から 「 深い山奥に連れて行って捨てるように 」 と責めたてられたので、そうする気になった。 

楢山節考

月が明るい夜のこと、伯母に 「 寺でありがたい 法 会 ( ほうえ、説法などを して死者を供養する集会 ) をするので見に行こう 」 と言って、伯母を背負い山に入り、高い山の峰で年寄り 一人では下りて来られそうもない所に置き去りに して、逃げ帰ってきて しまった。

男は家に戻ってから あれこれ考えていると、長い間母親のように養い続けて 一緒に暮ら していたので、たいそう悲 しく思われた。

月も明るく出ていたが、もの思いにふけっていると一晩中寝られず悲 しく思われたので、再び山に入り 一度は捨てた伯母を連れて我が家に戻った。その時に詠んだ歌が前述 した 「 わが心 慰めかねつ更級 ( さらしな ) や 姨捨山 ( おばすてやま ) に照る月を見て 」 だとするもので した。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*

それから後、この山は 姨捨山 ( おばすてやま  ) と呼ばれるようになりま したが、右上の写真は深沢七郎の小説 楢山節考 ( ならやまぶ しこう )に基づき、 1958 年と 1983 年の 二度映画化された 同名の映画 の一場面です。 

私も最初の映画を見ま したが、山奥の棄老 ( きろう、老人を捨てる ) 場所と思われるところには多 くの カラスがいて、テレビの ドキュメンタリー 番組で見た、 チベット の 鳥 葬 ( ちょうそう ) の場面を連想させま した。

ちなみに老齢 ( 60〜70 才 ) になり労働力が衰えた老人を、口減ら しのために家族が山に捨てた 棄 老 ( きろう ) 伝説  のある姨捨山 ( おばすて やま ) の 正式な名前は 冠 着 山 ( かむりきやま、標高 1,252 m ) ですが、私はそこから直線距離にして 約 12 キロメートルの所にある山奥の寺 に、敗戦の前年 ( 1944 年 ) から敗戦 ( 1945 年 ) まで米軍機の空襲を避けるため、東京から小学校の 5 年男子の学年ごと 集団疎開 をしていま した。

松尾芭蕉の更科紀行 ( 更級ではなく、ここでは更科と書く ) によれば、

更科の里、おばすて山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。

[その意味]

更科にある姨捨山の名月を見ようと秋風が心の中に吹きさわぐのに誘われて、共に自然の風景を楽 しもうとする気持ちを掻き立てる者がまた一人、[ 蕉門十哲 ( しょうもん じゅってつ )== 芭蕉門下の優れた 10 人の弟子 == のうちの一人で 、 同行者の越智 越人、おち えつ じん ) ] 越人 である。

姨捨山には姨捨山長楽寺 ( おばすてさん ちょうらく じ ) があり、そこには下記の松尾芭蕉の句碑を初め多くの句碑や歌碑があります。

俤 ( おもかげ ) や姥 ( うば ) 一人なく ( 泣く ) 月の友

[ 句の意味 ]

その昔 この山中へ捨てられ 、月を眺めて独り泣いていた姥 ( うば、年を取った女 ) の姿が浮かんできて、何ともいえない寂 しい気持であるが、今宵はその俤 ( おもかげ ) を偲んで月を友と しよう。

田毎の月

私は成人 した後にかつて学童集団疎開を した寺はもちろんのこと、付近にある 「 姨捨山 」 や、 越後 ( 新潟県 ) の上杉謙信と甲斐 ( かい、山梨県 ) の武田信玄が信濃国 ( 長野県 ) の領有を巡り、12 年間に 5 回も戦った 「 川中島の古戦場 」 や 、 あんずの花の満開の季節に合わせて更埴市 ( 現 ・ 千曲市の ) の 「 あんずの里 」 などを訪れま した。

絵は浮世絵師、歌川 ( 安藤 ) 広重の描く 「 六十余州名所図会 」 の中にある 「 信濃更科田毎月 ( しなの さら しな たごとのつき )  鏡臺山 ( きょうだいさん )  」 で、左側の山が鏡臺山、岩の下にあるのが長楽寺、小さな無数の棚田 ( たなだ ) 毎に月が映る、月見の名所 「 田毎の月 」 の景色です。

しかし実際はこのような険しい山など無く、また 一箇所から月を見た場合、絵のように数多くある棚田 ( たなだ ) 毎に、月が多数映ることなど、 光 学 的 に 100 パーセント あり得ないことなので 誤解されないように 。 私は千曲川 ( ちくまがわ ) の左岸を走る道から J R の無人駅である 姨捨 ( おばすて ) 駅に通じる車道を通り、長楽寺の上まで車で行きま した。

小林一茶が 信濃では月と仏 ( ほとけ ) とおらが ( 自分の家の ) 蕎麦 ( ソバ 、注: 参照 ) と俳句に詠んだ 「 善光寺 」 や、 夏休み期間中でも ( 土 日を除き ) 当時は マイカー が乗り入れ可能で した上高地、 立山黒部 アルペンルートなどの名所 ・ 旧跡なども、関西から家族を連れて車で 10 回以上訪れま したが、長野県は私にとって 「 心のふるさと 」 で した。

蕎麦 ( ソバ ) 
ソバの花

ソバ は 1 年生の作物で中央 アジア の原産ですが、日本へは奈良時代以前にもたらされ、主食の米を補う補助作物と して栽培がおこなわれま した。

やせた土地 ・ 荒れた土地でも生育 し、 しかもあまり手入れの必要のない作物なので、戦時中の食糧不足から飢えにあえぐ 私たち学童疎開の子供も、食料の自給に少 しでも役立てようと、昭和 20 年 ( 1945 年 ) の春から 空腹に耐えながら 、疎開先の長野県の山奥の寺が所有する山を開墾 ( かいこん、野山を切り開き農地にすること ) しま した。

ソバ一丁

6 月に ソバ の種子を播 くと、7 月の終わりに白い花が咲きま した。ソバ は種子を播いてから 3 ヶ月程度で収穫できますが、1945 年 8 月 15 日に敗戦 となり、文部省の命令で学童集団疎開は現地解散することになりま した。私は 9 月初めに迎えに来た父親に連れられて、( 東京で戦災に遭い父母が疎開中の ) 栃木県の田舎に帰ったので、自分たちが播いた ソバを収穫 し食べる機会を逸 しま した。


[ 2 : 更 級 日 記 の 旅、竹 芝 寺 へ ]

市原市の掲示

菅原孝標の女 ところで 更級日記 の 作者 は 9 才 の 頃 に 家族 と 共 に、都 から 父 の 任 国 である 上 総 国 ( かずさの く に、現 ・ 千 葉 県 ) に 移 り 住 みま した。

13 才 の 時 に 父 が 上 総 介 ( かずさのすけ、千葉県 の 行 政 副 長 官 ) の任期 を 終 えたので、上 総 ( かずさ ) の 国 府 ( こ く ふ / こ ふ、律令制下の 政 庁 ) があった ( 千葉県 ・ 市 原 市 ) から 京 に 戻 ることになり ま した。

その際 に 記録 を 書 き 始 め、江戸 を 通過 して 京 都 までの 約 7 5 日 間 の 旅 の 様 子 などを 記 しています。

総社

更級日記 が 書 かれた 頃 から 1,000 年 近 く 経 った 現在 では、上 総 ( かずさ ) の 国 府 がどこにあったのか 正確 には 分 かりませんが、国 府 のす ぐ 近 く に 設 けられたはずの 、総 社 ( そう じゃ、注 : 参 照 ) であった 上 総 戸 隠 ( かずさ とが く し ) 神社 が、市原市 の 惣 社 ( そう じゃ ) にあり、今も 地域 の 住民 に 崇拝 されて いるので、その近 くにあったことは 間 違 い ありません。

注 : 総 社 ( そ う じ ゃ )

古代の 国司 にとって 着任後 の 最初 の 仕事 は、任 国 内 の 全 ての 神社 を 巡って 参拝 することであった。その後 平安時代 になって 国 内 の 有力祭神 を 合 祀 ( ご う し ) した 神 社、つまり 総 社 を 国 府 の 近 くに 設 け、そこを 詣 ( も う ) でることで 巡 回 を 省 くことが 広 まった。そのため 総 社 は 一 般 に 国 府 の 近 く に 置 かれた。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*

牛車

彼女たち一行は車に乗り、当時は宿屋がないので野宿の キャンプ道具 ・ 家財道具 ・ 食料 ・ 物 品 貨 幣 ( ぶっぴん かへい、 4 項で後述する ) の米や布地を用意 し 、下男や乳母を連れて上総国 ・ 市原を出発 しま したが、隅田川では車を船に乗せて渡りま した。

その先どこまで車に乗って旅を したのか不明ですが、当時の江戸は現在の皇居の近くまで 日比谷入江の海が迫り 、葦 ( あし ) の原を通り竹芝寺 ( たけしばでら、現・東京都港区三田 4 丁目にある 済海寺 ) に行きま した。


*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*

葦原

今はもう 武蔵国 に到達 したが、とくに景色のよい所も見えない。浜辺も砂が白くて美 しいなどということもなく 泥のようで、紫草 ( むらさきそう、注 参照 ) が生えると聞く武蔵野も 葦 ( あ し ) や荻 ( お ぎ ) だけが高く生えて、 前を行く馬に乗った人の持つ 弓 の 先 が 隠れるほど高く伸びた葦原を 、かき分けて行くと、竹芝寺 という寺があった

はるか向こうに、「 ははさう 」 などという所の、楼の跡の土台石などがある。ここはどういう所なのかと尋ねると、「 ここは昔、竹芝という所 だった 」。

という答で した。


[ 注 : む ら さ き 草 ]

むらさきの ひともとゆえに 武 蔵 野 の 草 はみなからあはれとぞ 見 る ( 古今和歌集、 雑 歌 867、詠 み 人 知 らず )

[ そ の 意 味 ]

紫草 が 一 本 生 えているために、武 蔵 野 の 草 はすべて いと し いものと思われる

歌 の 意味 は、愛 する 人 一 人 のために、その 周 囲 の 人 すべてに 親 しみを 感 じると いうことで、紫 草 は 根 を 紫 色 の 染 料 に 利用 して いま した。


[ 3 : 帝 ( みかど ) の 姫 君 と 、衛 士 の 駆 け 落 ち ]

衛士

小倉 百 人 一 首 の 中 に 大中臣 能宣 ( おおなかとみの よ しのぶ ) の歌がありますが、

みかきもり ( 御 垣 守 ) え じ ( 衛 士 ) の 焚 く 火 の 夜 は 燃 えて 昼 は 消 えつつ ものをこそ 思 へ

[ そ の 意 味 ]

宮中 を 警 備 する 衛 士 の 焚 く 照 明 用 の 「 かがり火 」 が、夜 は 燃 えて 昼 は 消 えているように、わた しの 恋 の 炎 も 夜 になると 燃 えあがり、昼 は 静 かに 思 い 悩 んで いる。

衛 士 ( え じ )とは 律令制 の 下で 防 人 ( さきもり ) のように 諸 国 から 3 年 交代 で 京 に 赴 く 兵士 のことで、衛 門 府 ( え も ん ふ ) と左右の 衛 士 府 ( え じ ふ ) に 配属 され、御所 や 宮殿内 の 警備 ・ 行 幸 ( ぎょうこう、天皇の外出 ) 時 の 警備 に 当 たり、夜間 は 照明 や 警備 のために かがり 火 を 焚 きま した。ちなみに 平安初期 には 衛門府 の 衛 士 は 300 人、左右 衛士府 の 衛 士 は 各 500 人で した。

更級日記 に 記 された 「 竹 芝 寺 」 の 伝 説 を 続 けると、

ここは昔、竹 芝 ( た け し ば ) といった 所 で、土地 の 者 ( を の こ、男 ) が いたのを、国司 が 京都御所 の 火 焚 き 屋 ( 夜 警 小 屋 ) の 火 を 焚 く 衛 士 と して 差 し 出 し、御所 に 仕 えるようになった。ある 時 その 男 が 御所 の 庭 を 掃 きながら

瓢箪のひしゃく

どう してこんな 辛 い 目 に 遭 うのだろう。自分 の 故郷 では 数多 く 造 り 据 えてある 酒 壺 に、差 し 掛 けて 浮 か べ て あ る 、 瓢 箪 ( ひ ょ う た ん ) で 作 った 柄 杓 ( ひ し ゃ く、注 : 参 照 ) が、

南風 が 吹けば 北 になびき、北風 が 吹 けば 南 になびき、西風 が 吹 けば 東 になびき、東風 が 吹けば 西 になびくのを 見 られずに、こんな 辛 い 務 めの 毎 日 よ。

と 独 り 言 をつぶや いて いたのを、たまたま 聞 いた 帝 ( み か ど )の 姫 君 ( 皇 女 ) が、どんな 瓢 箪 ( ひ ょ う た ん ) が どのように なびくのかと、武 蔵 国 の 様子 に 興味 を 持 たれた。

先 ほ ど 言 っ た こ と を 、 今 一 度 私 に 言 っ て 聞 か せ よ、と 姫君 が 衛 士 に 申 されたので、もう 一 度 申 し 上 げたところ、 われ 率 いて 行 きて 見 せよ、さいふやうあり。

[ その意味 ]

おまえが私を武蔵国まで連れて行って見せておくれ、そう頼むのはわけがあってのことだから。

と 姫君 は 申 された。

注:) ひしゃく の 語 源
一説 によれば、もともとは 瓢 箪 ( ひょうたん ) を指す 「 ひさご 」 から 出た 言葉で 「 ひ さ く 」 になり、「 ひ し ゃ く 」 になったもの。

瀬田の唐橋

そこで 衛士 は 姫君 を 背負 って 武 蔵 へ 下 ることに したが、もちろん 追 っ 手 を 警戒 してその 夜 は 勢多 の 橋 ( 注 : 参照 )の向こうの 袂 ( たもと ) に姫君 を 下ろすと、橋桁 ( は し け た ) と 橋 桁 の ひとつ 分 ( 4 〜 5 メートル ) ほど 橋 板 をはず しておき、姫君を背負 って 普通 なら 半月 かかるところをわずか 七 日 七 夜 で 飛 ぶように 走 り 武 蔵 野 国 に 行 き 着 いた。絵 は 勢多 橋 ( せ た の は し、瀬田唐橋 ) を 描 く 最 古 のものと いわれる、石山寺縁起 絵巻のもの。

注 : 勢多橋 ( せ た の は し )
勢多橋は 瀬田 の 唐橋 ( せたの からは し ) とも 呼 ばれたが、滋賀県 ・ 大津市 ・ 瀬田 にあり、琵琶湖 の 南端 から 流 れ 出 る 瀬田川 に 架 かる 当時 は 唯一 の 橋 で、日本史上 最 も 有名 な 三 つ の 橋 の 一 つ と さ れ る 。歴史上重要 な 合戦 に しば しば 瀬田 の 唐橋 が 登場 したが 、 唐 橋 を 制 す る 者 は 天 下 を 制 す とまで いわれた。

古代史 において 最大 の 内乱で 6 7 2 年 に 起 きた 壬 申 乱 ( じ ん し ん の ら ん ) 以来、京都 を 防衛 する 上 での 重要地点 ・ 東西交通 の 要所 であったことから、 1 1 8 3 年 に 木 曽 義 仲 ( 源 義 仲 ) 対 平 家、1 1 8 4 年 に 源 義 経 対 木 曽 義 仲 の 戦 が あ っ た 際 に、瀬田唐橋 を 巡 る 攻防戦 があった。

瀬田の唐橋

絵 は 琵琶湖 八景 の 一 つ で あ る 「 瀬 田 の 夕 照 」 ( せ た の せ き し ょ う、安藤広重 の 筆 )で、瀬田川 の 川下 から 川上 を 見 た 絵 です。唐橋 を 挟 ん で 左側 は 琵琶湖、遠方 に 見える 山 は 滋賀県 と 岐阜県 の 県境 にある 伊 吹 山 ( 1377 m ) 。

帝 ( み か ど、天皇 ) や 后 ( き さ き ) が、失 踪 ( し っ そ う ) した 姫君 を 探すように 命 じたところ、武蔵 の 国 からきている 衛 士 の 男 が、 とても 香 ば しいものを 首 にかけて 飛 ぶように 逃 げたと 申 し 出 があったので、生 まれ 故郷 の 武 蔵 国 に 行 ったに 違 いな いと 朝廷 から 使 いを 出 したが、勢多橋 の 橋板 がこわれて 渡 れな いので、三ヶ月 かかって 武蔵 の 国 で 男 と 一 緒 に 暮 らす 姫君 を 探 し だ した。

姫君 は 使 いに、この 身 が 武蔵 に 住 みつ くことは 前世 からの 定 めである。帝 ( み か ど ) に 事 の 次第 を 奏 上 するようにと 申 された。それを 聞 いた 帝 は 致 し 方 な い、男 をたとえ 罪 に しても、今更 姫君 を 取 り 返 し 都 に 帰 せるわけでもない。竹芝 の 男 には 一生 武 蔵 国 を 預 け 取 らせ、租税 や 労役 などの 公 の 義務 は 割 り 当 てないようにさせよ。と宣 旨 ( せんじ、天皇 の 命令 を 伝 える 文書 ) が 下 った。

そこで 男 は 家 を 内裏 ( だ い り、天皇 の 住居 と しての 宮殿 ) のように 造 って 姫君 と 暮 ら したが、姫君 の 死後 は 寺 に 造 り 直 したので 竹 芝 寺 と いうようになった。なお 姫君 の 駆 け 落 ち 事件 以来、御所 の 火 焚 屋 ( ひ た き や ) には 男 ではな く、 女 が 詰 め る ( 勤務する ) ようになった−−−と さ 。

つまり女性 が 男性 を 好 きになる 「 き っ か け 」 は、 身 分 ・ 財 産 ・ 教 養 などよりも、 自分 の 好 みに 合 う 相 手 の 顔 かたち ( そ う い う 子 供 を 産 み た い と い う 欲 望 と 平安 の 昔 から 決 まって いま した。

皇女 もたとえ 辺境 の 地 でも、自分 の 好 みに 合 った 男性 と 一 緒 に 暮 らすことができて、さぞ 幸 せな 人生 を 送 ったことでしょう。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*

更級日記 に 記 された 竹 芝 寺 は、 現 ・ 東京都 ・ 港区 ・ 三田 4 丁目にある 済 海 寺 ( JR 田町駅から南西に 500 メートルの所 ) の 場所 に 在 ったとされますが、その 根拠 は 済 海 寺 に 隣接 する 亀塚公園 の 敷地 は 江戸時代 に 上 野 国 ( こ う ず け、群馬県 ) の 沼田城主 ・ 土 岐 家 の 下 屋 敷 があった場所 で、公園内 には 1 7 5 0 年 に 建 てられた 石 碑 がありますが、そこには

武蔵 国 荏 原 郡 竹 芝 郷 ( む さ し の く に え ば ら ご お り た け し ば ご う ) に 属 し、 更 級 日 記 の 竹 芝 寺 は 隣 の 済海寺 で あ る

と 刻 まれています。



[ 4: 古 代 の 貨 幣 経 済 ]

( 4−1、物 品 貨 幣 )

どこの国でもそうですが、古代の日本でも最初におこなわれたのは自分が所有する品物と、他人が所有する品物とをお互いに取りかえる 物 々 交 換 による 経 済 取 引 で した。

これは交換する品物が互いに同 じ価値であれば良いのですが、価値が離れていたり、交換 したい品物を持つ人を探す不便さがありま した。そこで交換できる共通の物として 最初に 生まれたのが 物 品 貨 幣 で した。

これは 基準となる物品貨幣を使用する点で 、前述 した 直接的な物々交換 とは異なりますが 、日本における物品貨幣と しては主に、 米 ・ 稲米 ・ 布 帛  ( ふは く、綿や麻布 ) が使われま した。稲 は束 ( そく ) または把 ( わ ) が単位とされ、1 束 ( そく ) は 10 把 ( わ ) 、1 束の稲から 杵 ( きね ) などで搗 ( つ ) いて精白 した 米 が 2 升 ( 約 3 キログラム ) 得られる ことになっていま した。

ちなみに日本では鎌倉時代 ( 1192 〜 1333 年 ) 初期までは、貨幣経済が未発達のために 「 物 品 貨 幣 」 が主に使われま した。そのために前述 した 更級日記 の主人公たち 一行も、関東から関西までの 75 日間の旅の費用を支払うために、 かなりの 物 品 貨 幣 を用意 して運んだはずです 

信貴山寺の本堂

参考までに奈良県 ・ 生駒郡 ・ 平群町 ( へぐりちょう ) には信貴山寺 ( しぎさんじ、写真は本堂 ) がありますが、そこには平安末期に描かれた国宝の信貴山縁起絵巻 ( しぎさん えんぎ えまき ) 3 巻があり、その中には 「 尼 公 の 巻 」( あまぎみの まき ) があります。

尼公と下男

そこには後に信貴山寺の 中興の祖 ( ちゅうこうの そ、一旦衰えたものを再び盛んに した 先祖 ) となった命 連 ( みょうれん ) 上人の姉の女性 ( 尼 ) が、遠 くから弟に会いに行く旅の様子が描かれていますが、尼公 ( あまぎみ ) は馬に乗り 画像では非常に見に く いのですが、 馬の前を歩く下男に米俵を背負わせていま した。 旅の費用として、 物 品 貨 幣 の 米 を用意 した ので した。


( 4−2、和 同 開 珎、わどうかいちん )

日本における最初の官 銭 ( 国が鋳造 した貨幣 ) は、和銅元年 ( 708 年 ) に鋳造 ( ちゅうぞう ) された和同開珎 ( わどうかいちん ) で、唐の制度を見習って鋳銭事業が開始されま した。これについて平安時代の 797 年に成立し、 697〜791 年の 95 年間を編年体で記した勅撰の歴史書である 続日本紀 ( しょく にほんぎ ) の巻 4 によれば、

慶雲 ( きょううん ) 5 年 ( 708 年 ) 春正月乙巳 ( きのと み、11 日 )、武蔵国の秩父 ( ちちぶ ) 郡が 和 銅 ( にぎどう、自然銅 ) を献 じたので、これを祝 して 慶 雲 5 年を改めて和銅元年とし、御代 ( みよ ) の年号を 和 銅 ( わどう ) と定める。

和同開珎

と記されていますが、時の天皇は女帝の元明天皇で、それを基に鋳造された貨幣が、日本最初の貨幣である和同開珎 ( わどうかいちん ) で した。 5 月に銀銭、8 月に銅銭を鋳造しま したが、銀銭は翌年廃止となり、律令国家の銭貨制度は銅銭となりま した。

和同開珎 ( わどうかいちん ) などの銭貨の流通範囲は、遺跡などからの銅銭の出土分布によりある程度推定できますが、それによれば特に大和 ・ 山背 ( やましろ 、山城 ) ・ 近江南部などの畿内 ( きない ) とその周辺に多く、これらの地域では交易手段や律令国家の支払い手段に銅銭が使用されたことが うかがえます。

これに対して辺境の古墳からの出土例では、岩手県 ・ 花巻市 ・ 湯口熊堂 ( ゆぐち くまんどう )古墳群や、山口県 ・ 萩市 ・ 見島 ・ ジーコンボ古墳群などでは、流通よりも銭貨が富や権力を象徴する宝物と して扱われま した。


( 4−3、 60 年以上昔に訪れた、和銅の発掘現場 )

貨幣

遺跡の記念碑

私は敗戦の翌年 ( 1946 年 ) から埼玉県 ・ 秩父市の旧制中学 ( 後の併設中学 ) に 3 年間通いま したが、同じ秩父郡内の原谷 ( はらや ) 村 ・ 大字黒谷 ( くろや )、 ( 現 ・ 秩父市 ・ 黒谷 ) には教科書で習った和銅採掘の露天掘りの遺跡がありま した。ある時友人と一緒に、秩父鉄道 「 黒谷駅 」 ( くろやえき) から 15 分ほどの所にある現場を訪れま した。

上の左側の写真は最近できた和同開珎記念碑で、台座には 「 日本通貨発祥の地 」 とありますが、同じような記念物が 「 和銅黒谷駅 」 と最近改名 した駅の構内にもありま した。


[ 4−4、 皇朝十二銭 ( こうちょう じゅうにせん ) ]

飛鳥時代の和銅元年 ( 708 年 ) から平安時代中期の天徳 2 年 ( 958 年 ) までの 250 年間に、下表にある如く和同開珎 ( わどうかいちん ) から乾元大宝 ( けんげんたいほう ) までの 12 種類の銅貨が発行されま したが、朝廷が発行 したことからこれらの銭貨を皇朝十二銭 ( こうちょう じゅうにせん ) と呼びます。

その鋳造地は山城 ( 京都 )・ 大和 ( 奈良 ) ・ 近江 ( 滋賀 ) ・ 周防 ( 山口 ) ・ 長門( 山口 ) ・ 武蔵 ( 東京、埼玉、神奈川 ) などの国々で した。

皇朝十二銭 ( こうちょう じゅうにせん )

名 称鋳造年名 称鋳造年
和同開珎708長年大宝848
万年通宝760饒益神宝859
神功開宝765貞観永宝870
隆平永宝796寛平大宝890
富寿神宝818延喜通宝907
承和昌宝835乾元大宝958


しか し律令政府の支配力が次第に衰え、銭貨の鋳造の際に 改鋳益 ( かいちゅうによる利益 )を得るため、銅の成分比率が少ない 粗悪な品質の銅銭 を鋳造 したために民衆の信頼を失い、銭貨離れが進み、958年の乾元大宝 ( けんげんたいほう ) を最後に銭貨の鋳造は打ち切られま した。

銭貨の成分表

右の表を見れば銭貨の重量が 765 年に鋳造された 神功開宝 ( じんぐ うかいほう ) の 1.2 匁 ( もんめ、4.5 グラム ) を最高に次第に重量が減少し、ついには半分 ( 0.6 もんめ、2.25 グラム ) になり、しかも全体に占める銅以外の金属の比率が増えたことが分かります。


( 4−5、グ レ シャ ム の 法 則 )

これを書きながら、昔 習った グレシャム の法則を思い出 しま した。 イギリス の貿易商人で王室の財政顧問を務めた トーマス ・ グレシャム ( 1519 頃 〜 1579 年 ) が エリザベス 1 世女王に、 「 イギリスの良貨 ( 金の含有量が多い ) が海外に流出するのは、( 金の含有量が少ない粗悪な ) 貨 幣 へ の 改 鋳 が原因である 」 と述べた件で した。

世にいう 悪 貨 は 良 貨 を 駆 逐 ( くちく ) する とする グレシャム の 法 則 ( 注 : 参照 ) のことで した。

注 : ) グレシャムの法則

品位量目の異なる二種類の貨幣 ( たとえば金の含有量が 多い金貨 と、 少ない金貨 を、同一 の名目価格 ( たとえば 1 ポンド金貨 ) として流通させると、実質価値の高い貨幣 ( 金の含有量が高い金貨 ) は 畜 蔵 されたり、地 金 ( じがね ) と して使用されたり して 市場から姿を消す。

という法則のこと。


( 4−6、 大陸銭貨の輸入 )

平安中期までは前述のような理由から 銅 銭 が 民衆に嫌われ、稲 米 ・ 布 帛 ( ふはく ) などの 物 品 貨 幣 が経済取引の主体で したが、その後 大陸諸国との 交 易 が進み、日本からの砂 金 ・ 真 珠 ・ 水 晶 などの輸出品の対価と して唐 の 唐 銭 が、平安時代 から 鎌倉時代になると 宋 銭 が、室町時代になると 明 ( みん ) 銭 を主体とする 大 陸 貨 幣 が大量に日本に流入するようになり、物 品 経 済 から 貨 幣 経 済 へ と移行する足掛かりになりま した。


[ 5: 治安の悪化 ]

更級日記が記された平安時代 ( 794 〜 1192 年 ) はその名前の通り貴族の中では高い精神文化が営まれ、そして豪奢な暮ら しを していま したが、その一方では政変も多く、また貴族の間では国司に任命されても任地に赴任せずに京に留まり、代わりに目代 ( もくだい ) と称する私的代理人を派遣 して国司の仕事を任せる、 遥 任 ( ようにん ) が流行るようになり、地方から治安が乱れるようになりま した。

人々から徴収した税 [ 租 ・ 庸 ・ 調 ] ( そ ・ よう ・ ちょう ) から国に納める税と必要経費を差し引いた税の残りは、国司を初めとする役人達の間で分配することになっていたので、役人は私腹を肥やすために民衆に重税 [ 一説によれば 7 割が 公 ( 税 )、 3 割が民 ( 自家用 ) ] を課 したので、人々の生活は非常に苦しくなり治安が乱れていきま したが、国司の遥任 ( ようにん ) は 12 世紀以降は常態化 して、鎌倉時代まで続きま した。


( 5−1、京における盗賊の横行 )

盗賊はいつの世にも絶えることなく、警備力が弱体化すればそれに反比例して治安が悪化し、警備の手薄な地域では 群れをなした盗賊 の横行は免れませんでした。京の都も例外ではなく

  • 天延 元年 ( 973 年 ) 4 月に前 ・ 越前守 ・ 源 満仲 ( ぜん ・ えちぜんのかみ、みなもとの みつなか ) の屋敷が群盗に包囲され放火されたのをはじめ、貴族の邸宅が盗賊たちに狙われ火を放たれることもしばしばでした。

  • 天禄 3 年 ( 972 年 ) 4 月に 紀伊守 ・ 藤原棟和 ( きいのかみ、ふじわら むねがず )の屋敷

  • 天元 3 年 ( 980 年 ) 12 月に但馬守 ・ 堯時 ( たじまのかみ、 あきとき ) の屋敷

  • 永延 2 年 ( 988 年 ) 前 ・ 越前守 ・ 藤原景斉 ( ぜん・ えちぜんのかみ、 かげなり ) の屋敷

  • 長徳 3 年 ( 997 年 ) 備後守 ・ 藤原致遠 ( びんごのかみ、 ふじわら むねとお ) の屋敷

  • 上総権介 ・ 季雅 ( かずさのごんのすけ、すえまさ ) の屋敷

  • 中納言 ・ 惟仲 ( ちゅうなごん、これなか ) の屋敷

  • 右少弁 ・ 閑院朝経 ( うしょうべん、かんいん ともつね ) の屋敷

に強盗が押し入りましたが、財力豊かな受領 ( ずりょう、国司 ) の屋敷が多く狙われました。



[ 6 : 今昔物語集 ]

各物語の最初が 「 今は昔 」 の言葉 で始まり、 31 巻から成る説話 ( せつわ、民間に伝わる話 ) を集めた 今昔物語集 ( こんじゃくものがたりしゅう ) は 1120 年以後に成立しましたが、そこには盗賊の話が多く記されていて、「 一人働き 」 ( 単独犯 ) の盗人もあれば、数十人の手下を率いている大強盗団もありました。


( 6−1、袴垂、はかまだれ )

袴垂 ( はかまだれ ) と称する伝説的な盗賊は 初め 「 一人働き 」 をしていましたが、やがて数十人の部下を持ち、盗賊の 「 大将軍 」 と称されるようになりました。

今は昔、世に袴垂 ( はかまだれ ) という極 ( いみ ) じき盗人 ( ぬすびと ) の大将軍有りけり。

で始まる 今昔物語集の巻 25 第 7 話に 「 盗賊の袴垂 ( はかまだれ ) が 武 威 ( ぶい、武による威勢 ) に打たれた話 」 がありますが、その概略は、

袴垂が 10 月頃、冬に備えて着物を少 しばかり手に入れようと物色中に、着物を幾重にも着た人が深夜の都大路をただ一人、笛を吹きながらゆうゆうと歩いていたので、打ち倒 して着物を剥ぎとろうと したが、何となく恐ろ しさを感 じられた。後を付けて 2〜3 町行ったが相手は付けられているのを気にする風もなかった

袴垂と保昌

襲おうとしても相手の隙の無い態度に手が出せずに 10 町ほど後を付けたが、このまま終わるわけにはいかないので、刀を抜いて走りかかった。その時相手は笛を吹くのを止め振り返って 「 お前は何者か ? 」 堂々と した態度に威圧され、思わす膝をついてしまった。

「 追い剥ぎにて候。名は袴垂と申し候 」 すると 「 ついて来い 」 というとまた笛を吹きながら歩き出 した。大きな屋敷の門の中に入っていったが、ほどなく袴垂を呼び寄せて綿の厚い着物を 一枚与えた。これからもこのような物が欲 しいときには、やって来てそう申せ、決 して見知らぬ人を襲うではないぞ。

武勇に優れた藤原保昌 ( ふじわらの やすまさ、958〜1038 年 ) は歌人と しても有名で したが 、53 才の時に あの和泉式部と結婚 しま した。


( 6−2、和 泉 式 部 )

和泉式部は、御堂関白 ( みどうかんぱく、正式な関白ではない ) と呼ばれた藤原道長 ( 966〜1027 年 ) から 浮 か れ 女 ( め ) [ 男 漁 ( おとこあさ )りをする女 ] といわれ、同時代の源氏物語の作者である 紫 式 部 ( 973 頃〜1014 年頃、下図 ) からは、

紫式部

和泉式部 といふ人こそ、おも しろう書き交わ しける。されど、和泉 は け しからぬかた こそあれ。

[ その意味 ]
和泉式部という人は面白 く ( 上手に恋の和歌を ) 書き、歌を遣り取りするけれども、 和 泉 の ( 男性遍歴 の 多 さ ) は とんでもないことだ。

などと批判されま した 。

和泉式部

彼女はそれまで冷泉天皇の 二人の皇子 ( 兄 ・ 弟 ) を含む数多 く の男性と恋いをし、数回 ( 3〜4 回 ? ) 事実上の結婚を しま したが、保 昌 ( やすまさ ) が最後の夫となりま した。彼が丹後国の国司に任命されたために王朝時代の浮き名を流 した生活から、当時鬼が住むといわれた大江山がある丹後国の国府である宮津 ( 現 ・ 京都府 ・ 宮津市 ・ 府中 ) に夫と共に赴任 しました。

一説によればそこで亡くなったとされますが、美人で有名な平安前期の歌人 小野小町と同様に、華やかだった人生の前半に比べて、後半については歴史の舞台から姿を消 し、記録も途絶えて消息不明となりま した。 ちなみに 和泉式部 ・ 小野小町 の 墓 と称するものが、全国にそれぞれ 百 基 以 上 もある といわれています

左上の百人一首の歌は都にいた頃に病気で床についた際に、心残りである相手の男性にその想いを伝えたものです。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな

[ 歌の意味 ]

私はもうすぐ 死 んで しまうで しょう、でもあの世へ旅立つときの思い出に、 もう 一度だけでよいから あなたに 逢 いたいものです。  どうですか?、彼女の情熱の激 しさは!!。


( 6−3、旅には護衛が必要で した )

葦原

前述 した [ 2 : 更級日記の旅、竹芝寺へ ] で、 前を行く馬に乗った人の持つ 弓の先が隠れる ほど葦 ( あし ) や荻 ( おぎ ) だけが高く生えて−−− とあるのを、うっかりすると見過ご しますが、平安時代には都から遠く離れた地方への旅は 治 安 の 悪 さ から 武装 した護衛 が必ず必要で した

しかも当時は 701 年に制定された大宝律令に基づ く古代の交通 ・ 通信 ・ 輸送制度の 「 駅伝制 」 も、10 世紀以後は急速に崩壊が進み、旅の途中では国府や大きな寺院以外は宿となる所もな く、野宿が普通で した。

菅原孝標 ( たかすえ ) の場合は、妻 ・ 長男 ・ 長女 ・ 次女 ( 作者本人 ) の家族 5 名に姉の乳母 1 名の 一行には、荷駄係 ・ 食事係などの下男 ・ 下女が合計 15 名近く付き添い、さらに 夜盗 ・ 盗賊 に備えて、及び素性の知れぬ運送業者である馬借 ( ば しゃく ) ・ 車借 ( しゃ しゃく ) に対する監視 ・ 監督のために、少なくとも 15 人程度の護衛 が同行 したものと思われます。

護衛

左は因幡堂縁起絵巻 ( いなばどう えんぎ えまき ) に描かれた、橘 行平 ( たちばなの ゆきひら ) が寛弘 2 年 ( 1005 年 ) に任国である因幡国 ( いなばのくに、鳥取県 ) に、受領 ( ずりょう、律令制下での国司 ) と して赴く 際の様子ですが、行平は 6 人で担ぐ輿 ( こ し ) に乗りその後には武装 した護衛の姿がみえますが、 多分輿の前にも 大勢の武士が護衛に当たっているはずです。

平安時代 ・ 中世における旅の 一行に武装 した護衛が付く 絵を見て、最初は江戸時代の大名行列のように行列の威容を保ち、乗物で移動する人物の権威付けのためだとばかり思っていま したが、実はそれよりも、保安上の必要性から生 じたもので した。

護衛石山寺詣で

更級日記の作者である菅原孝標の女 ( むすめ ) は中年になると物詣 ( ものもうで、寺社に参拝すること ) を好むようになりま したが、右の絵は石山寺へ参詣する際の様子です。

二枚の内の左側の絵は全体のもので、右側の絵は護衛の部分を拡大 したものです。

京都から近江国 ( 現 ・ 滋賀県 ・ 大津市 ) にある石山寺 ( 片道、約 20 キロ の 距離 ) へ参詣するのにも、人力車の車夫 3 名、予備の車夫 3 名、「 虫の垂れぎぬ 」 を付けた供の女性 1 名、後方護衛の男 3 名 という編成ですが、多分前方の護衛も同じ人数でいるはすです。つまり少なくとも 13 名という陣容で した。


次頁へ目次へ 表紙へ