戸籍の話
[ 1:超高齢者 ]朝日新聞の報道 ( 2010 年 9 月 1 3日 ) によれば、法務省は戸籍が電算化されている京都府内の 18 市町村に 100 才以上 の高齢者について調査を依頼したところ、所在不明高齢者は京都府内で少なくとも 1,098 人 あり、国内最高齢を超える 120 才以上は 528 人 で、最高齢は木津川市の 150 才だった。今後、生存の可能性がないと認められる高齢者について、自治体が除籍の手続きを進める。 なお木津川市の 「150 歳 」 は女性で、「 桜田門外の変 」 が起きた江戸時代末期の 1860 年生まれだった。しかしこの数字には財政難で昨年度から電算化を凍結している京都市など 8 市町は調査に含まれないので、京都府内における実際の所在不明者はさらに多いとみられます。 ( 1−1、法務省の全国調査結果 ) 法務省が 2010 年 9 月 10 日に発表した調査結果によると、戸籍が存在しているのに現住所が確認できない 100 才以上の高齢者は、全国で 23 万 4,000 人 に達し、このうち生存の可能性が無いと思われる 120 才以上は 7 万 7,118 人 、 150 才以上は 884 人 でした。 戸籍は原則として死亡届が提出されないと抹消できませんが、このため、戦災の被災者や海外への移民で死亡届が出されないまま戸籍が残った ケースが考えられるとのことでした。
[ 2:日本で最初の戸籍 ]日本における最初の戸籍については、古代の歴史書で 720 年に成立した日本書紀の 巻 5 ・ 崇神 ( すじん ) 天皇 ( 記紀神話によれば、第 10 代天皇 ) の元年 ( 西暦は不明 ) 秋 9 月の条に、
秋九月甲辰 朔 己丑 始校人民 更級調役 此謂男之弭調女之手未調也 是以天神地祇共和亨 而風雨順時百穀用成 ( 以下省略 )と記されていますが その意味は、 秋九月の甲辰 ( こうしん )、 [ 干支 ( えと ) の訓読みで きのえ ・ たつ ] の朔 ( さく、新月 )、 己丑 ( つちのと ・ うし、16 日 ) に、はじめて 人民の戸口を調査し 、また 調役 ( えつき、租税 ) を課して納税させた。とありましたが、ここで注目すべき点は初めて 人民の戸数と人口を調査し、租税 ( そぜい、税 ) を徴収した ということです。それ以来 戸籍 ( またはその代物 ) と租税との密接な関係が続き、現代においても戸籍に代わる住民登録と、それに基づく住民税 ・ 固定資産税などの課税がおこなわれています。 注:)
古代から朝鮮半島とは文化的交流がありましたが、 日本書紀 ・ 巻 19 によると朝鮮から仏教が伝来した ( 538 年 ? / 552年 ? ) 当時の天皇とされる、 第 29 代 欽明 ( きんめい ) 天皇の 元年 ( 540 年 ) の 8 月の条に、
八月高麗百済新羅任那並遣使献並修貢職召集秦人漢人等諸蕃投化者安置国郡 編貫戸籍 秦人戸数惣 七千五十三 戸以大蔵掾為秦伴造と記されていますが、 その意味は、 8 月に高麗 ( こうらい ) ・ 百済 ( くだら ) ・ 新羅 ( しらぎ ) ・ 任那 ( みまな ) が使いを遣わし、貢物 ( みつぎもの ) を奉 ( たてまつ ) った 。 秦人 ( はたひと )、漢人 ( あやひと ) 等、諸蕃 ( しょばん ) より帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して 戸籍を作成した 。 秦人 ( はたひと ) の戸数は、全部で 7,053 戸 で、大蔵 掾 ( おおくらの じょう ) を以て 秦 伴造 ( はたの とものみやつこ、秦氏を名乗る氏族の頭 ) とした 。 [ 3:大化改新の結果 ]古代史上で有名な 大化改新 ( たいかのかいしん ) とは、645 年に中大兄皇子 ( なかのおおえ のみこ )、中臣鎌足 ( なかとみの かまたり ) らが クーデター を起こして、当時 政治権力を握っていた豪族出身の蘇我入鹿 ( そがの いるか ) を飛鳥板蓋宮 ( あすか いたぶきのみや ) で、儀式の最中に暗殺しました。 絵の左上で背中を見せているのが皇子の母親である第 35 代の 皇極 ( こうぎょく ) 女帝 であり、斬られた首が飛んでいるのが蘇我入鹿 ( そがの いるか ) です。 事件の直後に 皇極 ( こうぎょく ) 女帝 ( 52 才 ) は孝徳 ( こうとく ) 天皇 ( 597 ?〜654 年 ) に譲位しましたが、 10 年後に重祚 ( ちょうそ、退位した天皇が再び皇位につくこと ) して、第 37 代の斉明 ( さいめい ) 天皇 になりました。 ちなみに孝徳天皇は 日本で最初に年号を使用した天皇で 、クーデター が起きた年を大化 ( たいか ) 元年 ( 645 年 ) としました。
翌年 ( 646 年 ) 正月に 孝徳天皇は詔 ( みことのり )を発して、以下の新たな政治の方針を示しました。
( 3−1、大化改新の詔 )
詔 ( みことのり ) には 4 箇条の条文がありますが、特に 戸籍に関係のある第 3 条を日本書紀 ・ 巻 25 ・ 孝徳天皇 ・ 大化 2 年 1 月の条から引用すると、
其三曰、 初造戸籍 ・ 計帳 ・ 班田収授之法凡 五十 戸為里毎里置長 一人掌按検戸口課殖農桑禁察非違催駈賦役 ( 以下略 )その意味は その 三 にいわく、 はじめて戸籍 ・ 計帳 ( 課役を徴収するための基本台帳で、毎年作成されるもの ) ・ 班田収授の法 ( 注参照 ) をつくる。 およそ 50 戸を 里 ( り ) とし、里ごとに 里長 1 人を置く。里長は 里内の戸口 ( 構成員の状況 ) を調査し、農耕や養蚕をすすめ、法に違反する者を取り締まり、人々から賦役 ( えつき、国家のための租税や労働 ) を徴発することを掌 ( つかさど ) る。
注:) 班田収授法 ( はんでん しゅうじゅ のほう )律令制では国の行政区分として国 ・ 郡 ・ 里 ・ 制を採用しましたが、人民に対する支配を完全なものにするために、行政組織の末端近くまで役人を配置しました。それにより人民を掌握 ( しょうあく ) するために戸籍を作り、それに基づき農民に田を貸与する班田収授が可能となり、徴税基本台帳である計帳の作成により国の収入が確保され、徴兵も可能となりました。
[ 4:全国規模での戸籍の始まり ]大化改新の詔により戸籍が作られるようになったものの、大和朝廷の支配が及ぶ範囲でさえも限定的であり、全国的規模になるには年数を要しました。 [ 4−1、庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) ]
日本書紀 ・ 巻 27 によれば、大化の改新から 25 年後のこと、第 38 代 天智 ( てんじ ) 天皇 ( 626〜671 年 ) の 9 年 ( 西暦 670 年 ) 2 月の条に
造戸籍、斷盜賊 與浮浪。とありますが、 その意味は 戸籍を造り、盗賊と浮浪 ( うかれびと、本籍地を離れた者 ) を 断 ( やむ、取り締まった )ということです。 なおこの年が干支 ( えと ) の庚午 ( こうご、訓読みで かのえ ・ うま ) に当たっていたので、この戸籍を 庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) と呼びましたが、盗賊や浮浪人を取り締まるのが主目的であったとはいえ、これが 全国的規模で作られた日本で最初の戸籍 になりました。 内容の詳細については現存していないので不明ですが、戸ごとに戸主 ・ 戸口 ( 20 人の構成人員 ) ・ 続柄 ・ 良民 / 奴婢 ( ぬひ、 奴隷 ) などの区分が記載されていたので、 姓についても当然全国規模で定められ 、身分 ・ 氏姓の基本台帳となりました 。 皆さんは庶民が姓を持てるようになったのは、後述する明治 5 年 ( 1872 年 ) に作られた、 壬申 ( じんしん、) の年にできた 壬申戸籍 ( じんしん こせき ) からであり、それ以前の 庶民には 姓が無かった などと誤解 していませんか ?。 前述した如く、それより 1,200 年も前に作られた戸籍には 全国の人民にも姓がありましたが、この庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) は土地ではなく、 血縁関係を中心にして 戸籍をまとめたものでした。
日本書紀 ・ 巻 30 ( 最終巻 ) の記述によれば、その 20 年後の第 41 代、持統 ( じとう ) 天皇の 4 年 ( 690 年 )、干支 ( えと ) で庚寅 ( こういん、訓読みで、かのえ ・ とら ) の年に、全国的規模で新たな戸籍が作られましたが、これを 庚寅年籍 ( こう いん ねんじゃく ) と呼びました。 この戸籍は従来の血縁関係を主体にまとめたものではなく、 居住する土地を基準にして 人民の氏姓を正しく記録し把握するための、 根本台帳としての 戸籍でしたが、その目的は言うまでもなく、行政村落の再編成や租税の徴収を容易にするためでした。
[ 5:現存する最古の戸籍 ]奈良の正倉院にはご存じの 正倉院文書 ( しょうそういん もんじょ ) というのがありますが、これは律令制下で役所が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどが、その当時 短期間 ( 戸籍の保存期間は比較的長く 30 年 )で廃棄されていましたが、東大寺写経所では当時紙が貴重品でしたので、使用済みの紙 ( 廃棄文書 ) の裏面を 帳簿として再利用していました 。 8 世紀の 神亀年間 ( 724 年 ) から 宝亀年間 ( 781 年 ) にかけての約 50 年間 の写経所文書が正倉院に納められ保存されてきたため、奈良時代の戸籍や正税帳などの貴重な史料の一部が今日まで残っています。 正倉院文書には
大宝 2 年 ( 702 年 ) に提出した、下記の戸籍の一部、などが保存されています。
写真は 1,400 年前の 大宝 2 年 ( 702 年 ) に提出された御野国 ・ 加毛郡 ・ 半布里 ( みのこく ・ かもごおり ・ はにゅうり ) 、現在の 岐阜県 ・ 加茂郡 ・ 富加町 ・ 羽生 ( かもぐん ・ とみかちょう ・ はにゅう ) の戸籍と推定されますが、現存する最古の戸籍の 一つです。
なお 戸籍面が汚いのは、前述したように廃棄処分にされた戸籍文書の裏面を、東大寺写経所で 「 再利用した 」 ためです。
[ 6:戸籍に 男が少ない ワケとは ]律令制の初期には 男女とも 6 才以上 になると国から 口分田 ( くぶんでん ) が貸与され、死ぬまでその田を耕作することができました。その 一方で前述した租税である 庸 ( よう ) や 調 ( ちょう ) の納税義務があるのは 21 才以上 60 才までの 男子だけ でしたので、 税の負担 をなるべく少なくし、 貸与された田を多く、しかも長く確保する ために、 6 年毎におこなわれる戸籍改定の際には年齢や 男子の性別を納税義務のない 女性と偽り 、家族の死亡 ・ 逃亡を 報告せずにいました。 戸籍のごまかし ( 偽籍、ぎせき ) は奈良時代からみられましたが、平安時代 ( 794〜1192 年 ) になると顕著になりました。 当時の地方行政における社会組織の最小単位は 戸 でしたが、戸とは現代のような夫婦を中心にした 1 家族の意味ではなく、律令制では 20 人程度をまとめて 戸 ( 郷戸、ごうこ ) として戸籍に記載し、 50 戸を 1 里 ( り、約 1,000 人 ) として里長を置きました。同じ年 ( 902 年 ) に阿波 ( あわ、徳島県 ) のある村で作成された戸籍の 一部 ( 5 戸ぶん、つまり 100 人分 ) が今も残っていますが、それを基にしたのが下表です。
子供の数や男女の比率を、前述した租税負担との関連でみると、
以上ですが、これを見ると最近高齢者の死亡届を家族が提出せずに、年金を何年も貰い続けるなどの犯罪が報じられましたが、千数百年前にも似たようなことがおこなわれていました。
[ 7:律令制の崩壊、戸籍も ]全国の人民を対象に戸籍を作らせたのは人民の数を正確に把握し徴税する目的からでしたが、律令制の基本となる班田収授の法による口分田 ( くぶんでん ) の制度は、やがて貸与すべき農地の不足から実施が困難になりました。延暦 10 年 ( 791 年 ) に出された法令によると、この頃の国司 ( くにづかさ ) は耕作が不可能な荒廃した土地を口分田として農民に与え、国司 ・ 郡司 ・ さらには有力な農民たちが上質の田地を独占していました。一般の農民にとってただ 一つの生命線である口分田の土質や地形が悪く、山間部では日陰の土地を割り当てられるなど満足な収穫が得られないため、庸 ・ 調 を納めるどころか生計の維持すら困難となり、土地を放棄して逃げるか 有力者の庇護 ( ひご ) を受けるしかなく、 浮浪人 ・ 逃亡人が激増 しました。宝亀 11 年 ( 780 年 ) の伊勢国の報告によると、この年 本貫 ( ほんがん、律令制で戸籍に記載された田地 ) を耕し納税するはずの 浮浪人が 1 千人を超え 、そのほかに戸籍の不明な者が多数発見されました。 彼等が庇護を求めて地方から京や畿内 ( きない、律令国家が定めた行政区域で、山城 ・ 大和 ・ 河内 ・ 摂津の国 ) に流入し、朝廷に仕える臣家の荘園や、寺社の荘園だけでなく、農村の豊かな有力者の元に身を寄せるようになり、 律令制度は農村社会から崩壊していきました 。 794 年に長岡京から 「 平安京 」 に遷都されると 「 戸籍 」 はさらに形骸化し、戸籍の編成、それに基づく口分田の割り当ても、 延暦 19 年 ( 800 年 ) を最後に中止 となりましたが、農民の移動 ・ 逃亡などにより 農民個人に対する課税が役に立たなくなり、 課税の対象が人から土地に変わってくると、徴税の基盤となる戸籍も存在意義を失い 戸籍制度も消滅 し律令制による支配も崩壊しました。
[ 8:戸籍に代わるもの ]平安時代に律令制が崩壊して 荘園制に移行すると 戸籍は必要性がなくなり姿を消し、その後は 鎌倉 〜 室町時代と 戸籍が無い時代 が続きました。戦国時代になると大名たちが所領内の支配を強固にし、万一に備えて戦力強化を図りましたが、そのためにおこなったのが年貢高を算定するための田畑の測量 ( 検地 ) と領民の人口を調べ、人夫 ( 軍夫 ) の動員可能数を把握をするための帳簿作りなどでした。 [ 8−1、家数人馬書上帳 ( いえかず じんば かきあげちょう )]
まず最初は戦国大名により前述した 家数人馬書上帳が作られ 、江戸時代になるとそれを基礎にして人別改帳 ( にんべつ あらためちょう ) と宗門人別改帳 ( しゅうもん にんべつ あらためちょう ) が作られましたが、帳簿の名称 ・ 内容 ・ 目的は地域や時期によりかなり異なりました。左図の人別帳の表紙には
安政六年未三月その読み方は、「 安政 六年 ひつじ 三月 まつうらぐん ありた さらやま おおだるやま かまど にんべつあらためちょう おとな へいざえもん 」 です。
注:2)、関所手形 ( 8−3、関所手形 )
関所手形のことを別名 往来手形 / 往来切手 ( おうらいてがた / きって ) ともいいますが、庶民の場合は宗門人別改帳に基づき、檀家 ( だんか ) 制度のもとで檀那寺 ( だんなでら ) が発行する、旅に必要な身分証明書のことです。写真は 「 入り鉄砲と ・ 出女 」( でおんな、江戸に人質にした諸大名の奥方 ・ 息女の脱出 ) を厳しく取り締まった、箱根の関所です。
当時は「 捨( す ) て手形 」 といわれるように、旅の途中で本人が病気になっても ( 死んでも ) 国本への連絡は不要とするものでしたが、以下はその 一例です。 石州 銀山領安野郡川谷村百姓、芳蔵 男壱人右之者 宗門 代々真言宗相違無 御座候 処 今般心願ニ付 諸国神社仏閣拝詣罷出 申候間 国々御番所 無相違 御通可被下候 若途中ニテ行暮候節ハ止宿之儀宜敷御願申上候、万一病気仕節ハ其国之御作法通御斗可被下候 尤其節国本御掛合ニ不及申候、為念之往来 一札依而如件[ その読み方と意味 ] 石州 ( せきしゅう、石見の国、島根県 ) 銀山領安野郡川谷村百姓、芳蔵 男壱人(1人) 右之者 ( みぎのものは ) 宗門 ( しゅうもん ) 代々真言宗相違無 ( そういなく ) 御座候処 ( ござそうろうところ ) 、今般心願 ( こんぱんしんがん、心からの願い ) ニ付 ( つき ) 諸国神社仏閣拝詣罷出 ( しょこく じんじゃ ぶっかく はいもう、まかりいで ) 申候間 ( もうしそうろうあいだ ) 、国々御番所 ( くにぐに ごばんしょ ) 無相違 ( そういなく ) 御通可被下候 ( おとうしくださるべくそうろう ) 。
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