戸籍の話


[ 1:超高齢者 ]

朝日新聞の報道 ( 2010 年 9 月 1 3日 ) によれば、法務省は戸籍が電算化されている京都府内の 18 市町村に 100 才以上 の高齢者について調査を依頼したところ、
所在不明高齢者は京都府内で少なくとも 1,098 人 あり、国内最高齢を超える 120 才以上は 528 人 で、最高齢は木津川市の 150 才だった。今後、生存の可能性がないと認められる高齢者について、自治体が除籍の手続きを進める。 なお木津川市の 「150 歳 」 は女性で、「 桜田門外の変 」 が起きた江戸時代末期の 1860 年生まれだった。

しかしこの数字には財政難で昨年度から電算化を凍結している京都市など 8 市町は調査に含まれないので、京都府内における実際の所在不明者はさらに多いとみられます。

( 1−1、法務省の全国調査結果 )

法務省が 2010 年 9 月 10 日に発表した調査結果によると、戸籍が存在しているのに現住所が確認できない 100 才以上の高齢者は、全国で 23 万 4,000 人 に達し、このうち生存の可能性が無いと思われる 120 才以上は 7 万 7,118 人 150 才以上は 884 人 でした。

戸籍は原則として死亡届が提出されないと抹消できませんが、このため、戦災の被災者や海外への移民で死亡届が出されないまま戸籍が残った ケースが考えられるとのことでした。

[ 2:日本で最初の戸籍 ]

崇神天皇

日本における最初の戸籍については、古代の歴史書で 720 年に成立した日本書紀の 巻 5 ・ 崇神 ( すじん ) 天皇 ( 記紀神話によれば、第 10 代天皇 ) の元年 ( 西暦は不明 ) 秋 9 月の条に、

秋九月甲辰 朔 己丑 始校人民 更級調役 此謂男之弭調女之手未調也 是以天神地祇共和亨 而風雨順時百穀用成 ( 以下省略 )
と記されていますが その意味は
秋九月の甲辰 ( こうしん )、 [ 干支 ( えと ) の訓読みで きのえ ・ たつ ]  の朔  ( さく、新月 )、 己丑 ( つちのと ・ うし、16 日 ) に、はじめて 人民の戸口を調査し 、また 調役 ( えつき、租税 ) を課して納税させた。

これを男の 弭調 ( ゆはずの みつき、注 1、参照 ) と言い、女の場合は 手未調 ( たなすえの みつき、注 2 参照 ) と呼ぶ。 これにより天神地祇 ( てんじん ちぎ、天の神と 地の神 ) はともに柔和となり、風雨は時に従って百穀は成熟した。( 以下省略 ) 

とありましたが、ここで注目すべき点は初めて 人民の戸数と人口を調査し、租税 ( そぜい、税 ) を徴収した ということです。それ以来 戸籍 ( またはその代物 ) と租税との密接な関係が続き、現代においても戸籍に代わる住民登録と、それに基づく住民税 ・ 固定資産税などの課税がおこなわれています。

注:)

  1. 弭調 ( ゆはずの みつき ( 貢ぎ ) とは、弓矢で狩りをしたことから 「 ゆはず 」 といい、鳥獣の肉 ・ 皮革などを税として物納した。

  2. 手未調 ( たなすえの みつき ) とは、絹 ・ 布などの手織りの品を女性が税として物納した。

  3. その当時は女性にも納税義務を課したが、大化の改新以後は 免除された
    ( この項目を含めて以下に掲載する天皇の肖像画は、 「 日本皇室大鑑 」 から引用したもの。)


( 2−1、朝鮮からの帰化人に戸籍を作成 )

欽明天皇

古代から朝鮮半島とは文化的交流がありましたが、 日本書紀 ・ 巻 19 によると朝鮮から仏教が伝来した ( 538 年 ? / 552年 ? ) 当時の天皇とされる、 第 29 代 欽明 ( きんめい ) 天皇の 元年 ( 540 年 ) の 8 月の条に、

八月高麗百済新羅任那並遣使献並修貢職召集秦人漢人等諸蕃投化者安置国郡 編貫戸籍 秦人戸数惣 七千五十三 戸以大蔵掾為秦伴造

と記されていますが、 その意味は
8 月に高麗 ( こうらい ) ・ 百済 ( くだら ) ・ 新羅 ( しらぎ ) ・ 任那 ( みまな ) が使いを遣わし、貢物 ( みつぎもの ) を奉 ( たてまつ ) った 。 秦人 ( はたひと )、漢人 ( あやひと ) 等、諸蕃 ( しょばん ) より帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して 戸籍を作成した 。 秦人 ( はたひと ) の戸数は、全部で 7,053 戸 で、大蔵 掾 ( おおくらの じょう ) を以て 秦 伴造 ( はたの とものみやつこ、秦氏を名乗る氏族の頭 ) とした 。

[ 3:大化改新の結果 ]

蘇我入鹿

古代史上で有名な 大化改新 ( たいかのかいしん ) とは、645 年に中大兄皇子 ( なかのおおえ のみこ )、中臣鎌足 ( なかとみの かまたり ) らが クーデター を起こして、当時 政治権力を握っていた豪族出身の蘇我入鹿 ( そがの いるか ) を飛鳥板蓋宮 ( あすか いたぶきのみや ) で、儀式の最中に暗殺しました。

絵の左上で背中を見せているのが皇子の母親である第 35 代の 皇極 ( こうぎょく ) 女帝 であり、斬られた首が飛んでいるのが蘇我入鹿 ( そがの いるか ) です。

事件の直後に 皇極 ( こうぎょく ) 女帝 ( 52 才 ) は孝徳 ( こうとく ) 天皇 ( 597 ?〜654 年 ) に譲位しましたが、 10 年後に重祚 ( ちょうそ、退位した天皇が再び皇位につくこと ) して、第 37 代の斉明 ( さいめい ) 天皇 になりました。 ちなみに孝徳天皇は 日本で最初に年号を使用した天皇で 、クーデター が起きた年を大化 ( たいか ) 元年 ( 645 年 ) としました。

孝徳天皇

翌年 ( 646 年 ) 正月に 孝徳天皇は詔 ( みことのり )を発して、以下の新たな政治の方針を示しました。

  1. 公地公民制の実施

  2. 地方行政組織の確立

  3. 戸籍 ・ 計帳の作成と班田収受の法の実施

  4. 祖 ( そ ) ・ 庸 ( よう ) ・ 調 ( ちょう ) の統一的税制の確立

  1. ( そ ) とは国から貸与された口分田 ( くぶんでん ) の耕作面積に対して課税し、1 段 ( 360 坪 ) につき稲 2 束 2 把、( 米にすると 3 升 ) 、収穫量の 3〜5 パーセントを稲で納めさせる。 

  2. ( よう ) とは成年の男子に対して年に 10 日の労働または、それに代わる品、布であれば 2 丈 2 尺 ( 約 6.6 メートル )、 あるいは米 ・ 塩 などの物納を課す。

  3. 調 ( ちょう ) とは男子に限る人頭税で、諸国の産物 ( 絹 ・ 糸 ・ 綿 ・ 鉄 ・ 魚介類など ) を中央政府に納めさせる。 

( 3−1、大化改新の詔 )

詔 ( みことのり ) には 4 箇条の条文がありますが、特に 戸籍に関係のある第 3 条を日本書紀 ・ 巻 25 ・ 孝徳天皇 ・ 大化 2 年 1 月の条から引用すると、

其三曰、 初造戸籍 ・ 計帳 ・ 班田収授之法凡 五十 戸為里毎里置長 一人掌按検戸口課殖農桑禁察非違催駈賦役 ( 以下略 )
その意味は
その 三 にいわく、 はじめて戸籍 ・ 計帳 ( 課役を徴収するための基本台帳で、毎年作成されるもの ) ・ 班田収授の法 ( 注参照 ) をつくる。 およそ 50 戸を 里 ( り ) とし、里ごとに 里長 1 人を置く。里長は 里内の戸口 ( 構成員の状況 ) を調査し、農耕や養蚕をすすめ、法に違反する者を取り締まり、人々から賦役 ( えつき、国家のための租税や労働 ) を徴発することを掌 ( つかさど ) る。

注:) 班田収授法 ( はんでん しゅうじゅ のほう )

班田収授法とは、 6 才以上になると 良民 [ 奴婢 ( ぬひ、どれい ) ではない身分 ] の男子は 田 2 段 ( 約 720 坪 )、女子はその 3 分の 2 ( 約 480 坪 ) を国が死ぬまで貸与し 耕作させ、稲を納税させる制度でしたが、人口増加などにより貸与すべき田の不足から班田収授の実施が困難となり、10 世紀初めに廃絶された。

律令制では国の行政区分として国 ・ 郡 ・ 里 ・ 制を採用しましたが、人民に対する支配を完全なものにするために、行政組織の末端近くまで役人を配置しました。それにより人民を掌握 ( しょうあく ) するために戸籍を作り、それに基づき農民に田を貸与する班田収授が可能となり、徴税基本台帳である計帳の作成により国の収入が確保され、徴兵も可能となりました。

[ 4:全国規模での戸籍の始まり ]

大化改新の詔により戸籍が作られるようになったものの、大和朝廷の支配が及ぶ範囲でさえも限定的であり、全国的規模になるには年数を要しました。

[ 4−1、庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) ]

天智天皇

日本書紀 ・ 巻 27 によれば、大化の改新から 25 年後のこと、第 38 代 天智 ( てんじ ) 天皇 ( 626〜671 年 ) の 9 年 ( 西暦 670 年 ) 2 月の条に

 造戸籍、斷盜賊 與浮浪。

とありますが、 その意味は
戸籍を造り、盗賊と浮浪 ( うかれびと、本籍地を離れた者 ) を 断 ( やむ、取り締まった )

ということです。 なおこの年が干支 ( えと ) の庚午 ( こうご、訓読みで かのえ ・ うま ) に当たっていたので、この戸籍を 庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) と呼びましたが、盗賊や浮浪人を取り締まるのが主目的であったとはいえ、これが 全国的規模で作られた日本で最初の戸籍 になりました。

内容の詳細については現存していないので不明ですが、戸ごとに戸主 ・ 戸口 ( 20 人の構成人員 ) ・ 続柄 ・ 良民 / 奴婢 ( ぬひ、 奴隷 ) などの区分が記載されていたので、 姓についても当然全国規模で定められ 、身分 ・ 氏姓の基本台帳となりました 。

皆さんは庶民が姓を持てるようになったのは、後述する明治 5 年 ( 1872 年 ) に作られた、 壬申 ( じんしん、) の年にできた 壬申戸籍 ( じんしん こせき ) からであり、それ以前の 庶民には 姓が無かった などと誤解 していませんか ?。

前述した如く、それより 1,200 年も前に作られた戸籍には 全国の人民にも姓がありましたが、この庚午年籍 ( こうご ねんじゃく ) は土地ではなく、 血縁関係を中心にして 戸籍をまとめたものでした。 


[ 4−2、庚寅年籍 ( こう いん ねんじゃく ) ]

持統天皇

日本書紀 ・ 巻 30 ( 最終巻 ) の記述によれば、その 20 年後の第 41 代、持統 ( じとう ) 天皇の 4 年 ( 690 年 )、干支 ( えと ) で庚寅 ( こういん、訓読みで、かのえ ・ とら ) の年に、全国的規模で新たな戸籍が作られましたが、これを 庚寅年籍 ( こう いん ねんじゃく ) と呼びました。

この戸籍は従来の血縁関係を主体にまとめたものではなく、 居住する土地を基準にして 人民の氏姓を正しく記録し把握するための、 根本台帳としての 戸籍でしたが、その目的は言うまでもなく、行政村落の再編成や租税の徴収を容易にするためでした。

[ 5:現存する最古の戸籍 ]

正倉院

奈良の正倉院にはご存じの 正倉院文書 ( しょうそういん もんじょ ) というのがありますが、これは律令制下で役所が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどが、その当時 短期間 ( 戸籍の保存期間は比較的長く 30 年 )で廃棄されていましたが、東大寺写経所では当時紙が貴重品でしたので、使用済みの紙 ( 廃棄文書 ) の裏面を 帳簿として再利用していました

8 世紀の 神亀年間 ( 724 年 ) から 宝亀年間 ( 781 年 ) にかけての約 50 年間 の写経所文書が正倉院に納められ保存されてきたため、奈良時代の戸籍や正税帳などの貴重な史料の一部が今日まで残っています。

正倉院文書には

大宝 2 年 ( 702 年 ) に提出した、下記の戸籍の一部、
  1. 美濃 ( 岐阜県の中部と、南部 )
  2. 筑前 ( ちくぜん、福岡県の北部と、西部 )
  3. 豊前 ( ぶぜん、福岡県東部と大分県北部 )
養老 5 年 ( 721 年 ) に提出した下記の戸籍の一部、
  1. 下総 ( しもふさ、千葉県北部と茨城県の南西部 )
  2. 陸奥 ( むつ、青森、岩手、宮城、福島の全県と秋田県の 一部 )
  3. 常陸 ( ひたち、茨城県北東部 )
  4. 讃岐 ( 香川県 )
  5. 因幡 ( いなば、鳥取県東部 )
などが保存されています。

最古の戸籍

写真は 1,400 年前の 大宝 2 年 ( 702 年 ) に提出された御野国 ・ 加毛郡 ・ 半布里 ( みのこく ・ かもごおり ・ はにゅうり ) 、現在の 岐阜県 ・ 加茂郡 ・ 富加町 ・ 羽生 ( かもぐん ・ とみかちょう ・ はにゅう ) の戸籍と推定されますが、現存する最古の戸籍の 一つです。

なお 戸籍面が汚いのは、前述したように廃棄処分にされた戸籍文書の裏面を、東大寺写経所で 「 再利用した 」 ためです。


[ 6:戸籍に 男が少ない ワケとは ]

律令制の初期には 男女とも 6 才以上 になると国から 口分田 ( くぶんでん ) が貸与され、死ぬまでその田を耕作することができました。その 一方で前述した租税である 庸 ( よう ) や 調 ( ちょう ) の納税義務があるのは 21 才以上 60 才までの 男子だけ でしたので、 税の負担 をなるべく少なくし、 貸与された田を多く、しかも長く確保する ために、 6 年毎におこなわれる戸籍改定の際には年齢や 男子の性別を納税義務のない 女性と偽り 、家族の死亡 ・ 逃亡を 報告せずにいました。

戸籍のごまかし ( 偽籍、ぎせき ) は奈良時代からみられましたが、平安時代 ( 794〜1192 年 ) になると顕著になりました。

当時の地方行政における社会組織の最小単位はでしたが、戸とは現代のような夫婦を中心にした 1 家族の意味ではなく、律令制では 20 人程度をまとめて 戸 ( 郷戸、ごうこ ) として戸籍に記載し、 50 戸を 1 里 ( り、約 1,000 人 ) として里長を置きました。同じ年 ( 902 年 ) に阿波 ( あわ、徳島県 ) のある村で作成された戸籍の 一部 ( 5 戸ぶん、つまり 100 人分 ) が今も残っていますが、それを基にしたのが下表です。


現代も顔負けの極端な 戸籍上の 少子高齢化と、男性の少なさ

年齢別

男女別

20 才以下21 才〜60 才61 才以上81 才以上

90 才まで

91 才以上
3 人27 人19 人47 人32 人
1 人151 人198 人

子供の数や男女の比率を、前述した租税負担との関連でみると、

  1. 9 世紀中頃から律令制が崩壊し始めると、子供が 6 才になっても口分田を貸与されなくなったために、子供が生まれても戸籍に入れなくなったこと。

  2. 21 才 〜 60 才までの年齢層における 男女比率が 1 対 5.59 であり 、女性の数が遙かに多いのは、男性が 庸 ( よう ) ・ 調 ( ちょう ) の納税義務を負うのに対して、女性が負わない利点があったため、6 年毎におこなわれた戸籍改定の際に、前述した如く、男性を戸籍上は女性と偽る偽籍 ( ぎせき ) が横行したため。

  3. 61 才以上の年齢層では 男女比率が 1 対 10.42 と女性の数が圧倒的に多いのは 、女性の方が長生きという理由以外に、戸の 構成員である女性が死亡した際に、その者に割り当てられていた 口分田 ( くぶんでん ) を返還せず確保し続けるために、納税義務の無い女性を除籍せずに戸籍上で長期間生存させたため。

  4. ちなみに古代における平均寿命は、乳幼児の死亡率が非常に高かった縄文時代が 14.5 才 であり 、室町時代〜江戸時代初期になると 38 才 という資料がある。 

  5. その資料を勘案すると、平安時代初期の人口 100 人程度の部落に 81 才以上の人が 47 人、91 才以上の人が 32 人もいたというのは到底信じ難いことであり、そこには前述した 戸籍作成上の不正が存在した ことは間違いない。

以上ですが、これを見ると最近高齢者の死亡届を家族が提出せずに、年金を何年も貰い続けるなどの犯罪が報じられましたが、千数百年前にも似たようなことがおこなわれていました。

[ 7:律令制の崩壊、戸籍も ]

全国の人民を対象に戸籍を作らせたのは人民の数を正確に把握し徴税する目的からでしたが、律令制の基本となる班田収授の法による口分田 ( くぶんでん ) の制度は、やがて貸与すべき農地の不足から実施が困難になりました。延暦 10 年 ( 791 年 ) に出された法令によると、この頃の国司 ( くにづかさ ) は耕作が不可能な荒廃した土地を口分田として農民に与え、国司 ・ 郡司 ・ さらには有力な農民たちが上質の田地を独占していました。

一般の農民にとってただ 一つの生命線である口分田の土質や地形が悪く、山間部では日陰の土地を割り当てられるなど満足な収穫が得られないため、庸 ・ 調 を納めるどころか生計の維持すら困難となり、土地を放棄して逃げるか 有力者の庇護 ( ひご ) を受けるしかなく、 浮浪人 ・ 逃亡人が激増 しました。宝亀 11 年 ( 780 年 ) の伊勢国の報告によると、この年 本貫 ( ほんがん、律令制で戸籍に記載された田地 ) を耕し納税するはずの 浮浪人が 1 千人を超え 、そのほかに戸籍の不明な者が多数発見されました。

彼等が庇護を求めて地方から京や畿内 ( きない、律令国家が定めた行政区域で、山城 ・ 大和 ・ 河内 ・ 摂津の国 ) に流入し、朝廷に仕える臣家の荘園や、寺社の荘園だけでなく、農村の豊かな有力者の元に身を寄せるようになり、 律令制度は農村社会から崩壊していきました

794 年に長岡京から 「 平安京 」 に遷都されると 「 戸籍 」 はさらに形骸化し、戸籍の編成、それに基づく口分田の割り当ても、 延暦 19 年 ( 800 年 ) を最後に中止 となりましたが、農民の移動 ・ 逃亡などにより 農民個人に対する課税が役に立たなくなり、 課税の対象が人から土地に変わってくると、徴税の基盤となる戸籍も存在意義を失い 戸籍制度も消滅 し律令制による支配も崩壊しました。

[ 8:戸籍に代わるもの ]

検地

平安時代に律令制が崩壊して 荘園制に移行すると 戸籍は必要性がなくなり姿を消し、その後は 鎌倉 〜 室町時代と 戸籍が無い時代 が続きました。戦国時代になると大名たちが所領内の支配を強固にし、万一に備えて戦力強化を図りましたが、そのためにおこなったのが年貢高を算定するための田畑の測量 ( 検地 ) と領民の人口を調べ、人夫 ( 軍夫 ) の動員可能数を把握をするための帳簿作りなどでした。

[ 8−1、家数人馬書上帳 ( いえかず じんば かきあげちょう )]

  1. 豊臣秀吉は天正 19 年 ( 1591 年 ) に天下を取った直後、「 天正の人掃令 」 を出しましたが、その中で戸数と人口、男女 ・ 老幼の数を 各村ごとに記載し、武家への奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓とまとめて区分して報告させましたが、この時の帳簿を 「 家数人数帳 」 と呼びました。

  2. 徳川幕府は寛永 21 年 ( 1644 年 ) に、代官切り ( 見るのは代官に限る ) とする文書の中で、

    其代官所之人数帳作、順斉、源左衛門手前ニ可置之事

    その意味は
    代官所が担当する幕府の直轄領 ( ちょっかつりょう、直接支配する土地 ) について、その代官所が 「 家数人数帳 」 を作成し、 幕府の勘定頭 ( 後の勘定奉行 ) の職にある、 順斉 ・ 源左衛門の所にそれを提出せよ 。

  3. 大阪周辺のものとしては、同じ年 ( 1644 年 ) に作られ杉山家に保存されていた古文書である、 「 河州石川郡之内富田林家数人数萬改帳 」 ( かしゅう いしかわごおりのうち とんだばやし いえかず にんずう よろず あらためちょう ) には、人数改めだけではなく各 百姓の持高 ( 所有田畑の面積 ・ 収穫高 )、 牛馬の数、建物の規模と屋根葺材 ( やねふきざい ) が記されています。

    これによると大部分の家は 「 わらや 」( わら屋根 ) であり、 「 かわらや 」 ( 瓦屋根 ) の家はごくわずかでした。河州とは河内国 ( かわちのくに ) のことですが、石川郡は今は存在せず 南河内郡 ( みなみ かわちぐん ) となり、富田林 ( とんだばやし ) については、現在は大阪府 ・ 富田林市になっています。

( 8−2、人別改帳 )

人別帳

まず最初は戦国大名により前述した 家数人馬書上帳が作られ 、江戸時代になるとそれを基礎にして人別改帳 ( にんべつ あらためちょう ) と宗門人別改帳 ( しゅうもん にんべつ あらためちょう ) が作られましたが、帳簿の名称 ・ 内容 ・ 目的は地域や時期によりかなり異なりました。左図の人別帳の表紙には

安政六年未三月

松浦郡有田皿山大樽山竃 人別改帳

咾 平左衛門

その読み方は、「 安政 六年 ひつじ 三月 まつうらぐん ありた さらやま おおだるやま かまど にんべつあらためちょう おとな へいざえもん 」 です。

  1. 徳川家康が江戸に幕府を開くと 江戸を中心にして 、「 五街道 」 ( 東海道 ・ 中山道 ・ 奥州街道 ・ 甲州街道 ・ 日光街道 ) の主要な陸上交通路を整備しましたが、街道沿いの村に輸送用人馬の提供を命じる 助郷 ( すけごう ) の制度を設けると共に、道普請 ・ 川普請 ( かわぶしん ) ・ 清掃などの 「 労働課役 」 に必要な労働力調査の目的で、当初は前述した 「 家数人馬書上帳 」 を基に、 人別帳 ( にんべつちょう ) を作りました 。

    しかし後には キリシタン弾圧のために 人別帳に 宗旨 ( 宗教の宗派 ) を記載する 形で、宗門人別改帳が作られました。

  2. 宗門人別改帳 ( しゅうもん にんべつ あらためちょう )

    江戸幕府は慶長19 年 ( 1614 年 ) に キリスト教を禁止しましたが、その後幕府による キリシタン弾圧と領主の寺沢氏 ( 天草 )、松倉氏 ( 島原 ) の過酷な年貢取り立てに対して 1637 年から 38 年にかけて、肥前 ( 長崎 ・ 佐賀 ) の 島原と 、 肥後 ( 熊本 ) の 天草で天草四郎 ( 本名、益田四郎時貞 ) を中心に 3 万 8 千人の農民が武装蜂起 ( ほうき ) し 「 天草の乱 」 が起きたことから、幕府の禁教政策が強化されました。

  3. 寛永 15 年 ( 1638 年 ) には寺請制度 ( てらうけせいど、檀家制度ともいう ) を制定しましたが、この制度では、人々は必ずどこかの宗派の寺院に檀家 ( だんか、その寺の信徒 ) として所属することが義務付けられました。

    それに基づき寺院では 宗門人別改帳 を作成し、さらに檀家の者が結婚 ・ 養子縁組 ・ 出奉公 ( 住込み奉公 ) ・ 転居などの移動に際しては、檀那寺 ( だんなでら、信徒が所属する寺 ) から移転先の寺院へ 「 人別送り 」 と称して寺請証文 ( てらうけしょうもん、身分証明書 )を発行しました。

  4. 寛文 4 年 ( 1664 年 ) から全国的に宗門改 ( あらため ) の制度が実施され、人々はその際に踏み絵 ( 注 1 参照 ) を強制されました。後年になると キリシタン摘発の激減もあって、宗門人別改帳は 戸籍 ・ 租税台帳 ・ の役目 も果たすようになり、関所手形 ( 注 2 参照 ) もこれに基づき寺院が発行しましたが、これらが江戸時代の戸籍に代わるものともいえます。

    宗門人別改帳

  5. 右の写真は、かつて私が昭和 21 年 ( 1946 年 ) から 3 年間住んだことのある、埼玉県 ・ 秩父郡 ・ 秩父町 ( 現 ・ 秩父市 ) から北西に 20 キロ近くの所にある山村の、現 ・ 秩父市 ・ 吉田太田部 ( よしだ おおたぶ ) の名主 ( なぬし、関西では庄屋と呼ぶ村の長 ) を江戸時代に務めた、新井家に収蔵されていた古文書 ( こもんじょ )です。表紙には

    宗門人別御改帳

    武州 ( 武蔵国 ) 秩父郡

    大田部村 とありました。

注:1 )、踏み絵
踏み絵

江戸時代に禁教の キリスト教の信者かどうかを見分けるために、木または金属の板に キリストや マリアの像を刻んだものを用意して、宗門人別改めの際に村役人立ち会いの下にそれを足で踏ませました。

昔の人は非常に純粋 ・ 純真だったのでしょうか ? 。 私がもし当時の キリシタンであったならば、表面上は堂々と踏み絵をした後に、密かに神にお詫びをして信仰を続けた方が、 キリスト様もおそらく喜ばれた であろうと思いますが−−−。

ちなみに私は 77 才を過ぎましたが、これまでの人生で宗教に頼ったことなど 1 度もありませんでした。この先も多分無いと思いますが、 あと 1〜2 年後にお迎えが来ても、 「 来るものは拒まず 」 の精神で、死を受容するつもりです。

宗教とはそれを必要な人だけが信仰の道を歩めばよく、必要としない人にまで善意で 宗教の押し売り をしたり、異教徒を 神 ( キリスト ) の導きを知らぬ野蛮人 とみなすのは誤りです。

注:2)、関所手形

( 8−3、関所手形 )

箱根関所

  関所手形のことを別名 往来手形 / 往来切手 ( おうらいてがた / きって ) ともいいますが、庶民の場合は宗門人別改帳に基づき、檀家 ( だんか ) 制度のもとで檀那寺 ( だんなでら ) が発行する、旅に必要な身分証明書のことです。写真は 「 入り鉄砲と ・ 出女 」( でおんな、江戸に人質にした諸大名の奥方 ・ 息女の脱出 ) を厳しく取り締まった、箱根の関所です。

当時は「 捨( す ) て手形 」 といわれるように、旅の途中で本人が病気になっても ( 死んでも ) 国本への連絡は不要とするものでしたが、以下はその 一例です。

石州 銀山領安野郡川谷村百姓、芳蔵 男壱人右之者 宗門 代々真言宗相違無 御座候 処 今般心願ニ付 諸国神社仏閣拝詣罷出 申候間 国々御番所 無相違 御通可被下候 若途中ニテ行暮候節ハ止宿之儀宜敷御願申上候、万一病気仕節ハ其国之御作法通御斗可被下候 尤其節国本御掛合ニ不及申候、為念之往来 一札依而如件

文久二年正月

同州同郡同村 真言宗、浄教寺 、印

国々御番所、宿々村々御役人中


[ その読み方と意味 ]
石州 ( せきしゅう、石見の国、島根県 ) 銀山領安野郡川谷村百姓、芳蔵 男壱人(1人) 右之者 ( みぎのものは ) 宗門 ( しゅうもん ) 代々真言宗相違無 ( そういなく ) 御座候処 ( ござそうろうところ ) 、今般心願 ( こんぱんしんがん、心からの願い ) ニ付 ( つき ) 諸国神社仏閣拝詣罷出 ( しょこく じんじゃ ぶっかく はいもう、まかりいで ) 申候間 ( もうしそうろうあいだ ) 、国々御番所 ( くにぐに ごばんしょ ) 無相違 ( そういなく ) 御通可被下候 ( おとうしくださるべくそうろう ) 。

若 ( もし ) 途中ニテ行暮候 ( ゆきくれそうろう ) 節ハ止宿之儀 ( ししゅくのぎ、宿に泊める件 ) 、宜敷 ( よろしく ) 御願申上候 ( おねがいもうしあげそうろう )。

万一病気仕節 ( まんいち、びょうきつかまつるせつ ) ハ其国之 ( そのくにの ) 御作法通御斗可被下候 ( おさほうどおり、おはかりくださるべくそうろう ) 。

尤其節 ( もっとも そのせつ ) ハ国本 ( くにもと ) へ御掛合 ( おかけあい、交渉 ) ニ不及申候 ( もうすに およばずそうろう )、為念之 ( ねんのため ) 往来 一札依 ( おうらい いっさつにより ) 而如件 ( しかして くだんのごとし )


次頁へ