小笠原諸島
[ 1:名前の由来 ]成田空港を離陸した飛行機が航空路 Bー586 を、サイパン、グアム、オーストラリア方面に向けて南下すると、1 時間 15 分後には小笠原諸島の北端にある聟 ( むこ ) 島列島、次に大きな父島列島、最後に コースから離れて母島列島が左側に見えてきます。成田から オーストラリア、ニュージーランドに向かう飛行機は通常成田を夕方から夜にかけて出発し、約 8 時間半 ( ブリスベーン行き ) 〜 11 時間半 ( クライストチャーチ行き ) 飛行して現地に翌朝到着する為に、往路は小笠原諸島を見ることができません。 小笠原諸島に興味を持ったきっかけは、名前の由来でした。私は戦争末期に東京から長野県の山奥の寺に学童集団疎開をしていた為に、長野県には愛着がありましたが、会社の保養所が茅野 ( ちの ) 市の北にあえる蓼科 ( たてしな ) にあった為に、子供が小学生の頃には毎年夏休みになると蓼科の保養所に泊まりに行きました。
ある時本を読むと 小笠原という島 の名前は、信州松本の城主であった 小笠原貞頼 ( さだより ) が、文禄 2年 ( 1593 年 ) に無人島を発見したことから、この島を 小笠原と名付けた とありました。蓼科 ( たてしな ) から松本までは車で 1 時間半の距離であり、これまで松本城を何度も見ましたが、城壁を黒く塗ってあるので 別名 「 カラス ( 烏 ) 城 」 ともいわれました。ところで海に面しない山国 ( やまぐに ) の大名が、江戸から 千 キロも離れた南海にある小笠原の島を、なぜ どのようにして発見したのか、それには興味がありました。
[ 2:南蛮貿易 ]海外との文化交流の歴史をみると古くは 608 年の遣隋使、遣唐使の時代に始まり、その後朝鮮半島、中国沿岸との私的貿易がおこなわれましたが、その後 14 世紀半ばから海賊化した倭冦 ( わこう )が出現し、戦国時代後期には ポルトガル商人を介した南蛮貿易が始まり、朱印船貿易に至る海外交易拡大の時代がありました。
朱印船とは 16 世紀から 17 世紀の鎖国 ( 1635 年 ) までの 一時期におこなわれた官許の貿易船のことで、豊臣秀吉の時代の文禄 元年 ( 1592 年 ) 頃から始まり、徳川家康がこれを制度化しましたが、為政者が東南 アジア諸国の支配者宛に発行した 異国渡海朱印状 ( 海外渡航許可書 ) には大きな朱印が押してあったので、一般にこの朱印状 を持参して海外貿易に従事した貿易船を ( 御、ご ) 朱印船といいました。右は長崎県にある清水寺に奉納された絵馬に描かれた朱印船ですが、記録に残る派遣主や海外貿易に従事した者としては、 加藤清正、島津家久、有馬晴信、松浦鎮信などの大名 10 家、末次 ( すえつぐ ) 平蔵などの幕府の家臣 4 人、角倉了以 ( すみのくらりょうい )、茶屋四郎次郎 ( ちゃや しろじろう ) などの豪商 65人、中国人 11 人、ヨーロッパ人 12 人もいました。
ちなみに江戸時代初期に タイで活躍した山田長政 ( 通称、仁左右衛門 ) は駿河 ( 静岡県 ) の大名の駕篭 ( かご ) 担ぎから身を起こして、17 世紀初め シャム ( タイ ) に渡り首都 アユタヤにおいて日本人町の統領や国王の傭兵となり、内戦を治め国王の信頼を得て重臣となりました。しかし王の死後に タイの 一地方の王国 ・ 六昆 ( リゴール ) の太守に左遷され、後に反対派により毒殺されました。アユタヤにおける日本人町の人口は 最盛期には 1,500 人 にのぼったといわれ、山田長政の活躍した 1610 年頃には貿易商人だけではなく、キリシタンや、天下分け目の関ヶ原の戦いや、大阪城の落城後に浪人となった西軍側の武士なども海外に活路を求めた者が多く、アユタヤにもやって来たとわれています。 日本人町があったのは前述した アユタヤだけではなく、 マニラ ( フィリピン )、プノンペン ( カンボジャ )、ホイアン( Hoi An 、会安 、ベトナム )、ツーラン( 現、ベトナム ・ ダナン南方 30 キロ )、バタビア、アンボイナ、バンダ ( 以上いずれも インドネシア )など、東南アジア諸国全域に及びました。
この時代に東南 アジア各地に暮らした日本人の数は、 1 万人にのぼる ともいわれていましたが、その中で ベトナム中部の町 ホイアン ( Hoi An 、会安 ) にあった日本人町の様子は、 茶屋新六 ( ちゃや しんろく ) が朱印船で ホイアンを訪れたときに描いた、 茶屋新六 交趾 ( コーチ ) 国 貿易渡海図 にあります。そこでは長さ 3 丁 ( 324 メートル ) に及ぶ日本人町が作られていたそうで、下の絵では日本から大型の帆船で訪れたことが分かります。
オランダ東方貿易会社の船が難破したために 1600 年に豊後 ( 大分県 )に漂着し、後に徳川幕府の外交顧問として通商に尽力した、イギリス人の 三浦按針 ( ウィリアム ・ アダムス、1564〜1620 年 ) が 1617 年に記録を残していますが、それによると当時 ホイアンの日本人町には、日本人が 数百人住んでいた と記しています。しかし 1635 年に徳川幕府が鎖国政策をとると、ホイアンの日本人も次々に ホイアンを離れ、日本人町は徐々に衰退していきました。
[ 3:小笠原貞頼の発見説とは ]これまでながながと南蛮貿易のことを述べた理由は、船はもちろんのこと航海技術とも無縁のはずの山国 ( やまぐに ) の大名でした小笠原貞頼と、太平洋を探険可能な船との関連を探る為でした。江戸中期の享保 12 年 ( 1727 年 ) に小笠原貞頼の子孫と名乗る 小笠原貞任 ( さだとう ) という浪人者が、巽 ( たつみ ) 無人島記という著者不明の写本を証拠として、
小笠原諸島は自分の先祖の 小笠原貞頼 が、徳川家康の命を受けて探検航海に出て文禄 2 年 ( 1593 年 ) に発見した島である。として、貞頼の探検事実の確認と小笠原島の所有権を求めて幕府に訴え出ました。1593 年の発見当時、京都の豪商に前述した 茶屋 四郎次郎 ( ちゃや しろじろう ) という人物がいましたが、本姓を中島といい後に徳川家の呉服師を勤めました。当主は代々茶屋 四郎次郎と称しましたが、初代の清延 ( きよのぶ 、1545〜1596 年 ) の時から南蛮貿易に従事し、五代延定 ( のぶさだ ) まで朱印船貿易と糸割符 ( いとわっぷ、注参照 ) の特権で栄えました。 貞任の提出した文書によれば、初代茶屋四郎次郎の妻が実は小笠原貞頼の姉であり、 2 人は義理の兄弟の関係 にあったというのです。そうなると海洋探険船も乗組員も茶屋 を通じて入手が可能となり、山国 ( やまぐに ) の大名 小笠原貞頼の無人島 ( 小笠原島 ) 探索、発見は不可能な話ではなくなりました。
注:)
[ 4:巽 ( たつみ ) 無人島記 ]参考までに前述の小笠原貞任が幕府に証拠として提出した巽 ( たつみ )無人島記にある発見由来によれば、
文禄 2 年 ( 1593 年 ) 信州深志 ( ふかし、松本 ) の城主小笠原民部少輔 ( みんぶのしょうゆ ) 貞頼が 、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、朝鮮半島への前進基地となった肥前 の名護屋 ( 現、佐賀県東松浦郡鎮西町 ) で、徳川家康から、その後、享保 12 年 ( 1727 年 ) に小笠原貞任は大岡越前守に先祖の偉業を継ぐために小笠原諸島への渡航を願い出ましたが、翌年には許可されました。6年後の享保 18 年 ( 1733 年 ) に小笠原貞任の甥に当たる 小笠原長晁 が、小笠原諸島へ渡航のため大坂 ( 現、大阪 )から鳥羽を経由して渡航しましたが、その後は消息を絶ちました。
[ 5:渡航失敗がもたらしたもの ]かねてから豊前 ( 現、福岡県 ) 小倉藩には、明石 15 万石から移封された小笠原の宗家がありましたが、その小笠原宗家と町奉行所は、貞任 ( さだとう ) の出自 ( しゅつじ、出どころ )について疑問を抱いていました。一族の者の渡航失敗を機に貞任の出自が詮議され、証拠とされた古文書の真贋 ( しんがん ) も調べられることとなりました。彼の提出文書にある文禄 2 年 ( 1593 年 ) といえば豊臣秀吉 ( 1536〜1598 年 ) が朝鮮出兵をした、文禄 ・ 慶長の役 ( 1592〜1598 年 ) の時期であり、為政者がその最中に無人島の探険などに船を出す余裕など無く、しかも発見した無人島に領有権を示すために建てたとされる標柱に
島長 ( しまおさ ) 豊葦原将軍 ( とよあしはら ・ しょうぐん ) 幕下 ( ばくか、部下 ) 小笠原−−−。 とありました。 ちなみに 「 とよあしはら 」 とは 「 豊かに葦 ( あし ) が生い茂る原 」 の意味から、日本国の美称です。まだ秀吉が存命中に徳川家康が豊葦原将軍 ( 日本国の将軍 ) など名乗れるはずがなく、信州の大名 小笠原貞頼 ( さだより ) の名前や、本人貞任( さだとう ) の名も小笠原家の系図には存在せず、提出した古文書も偽造であったことが享保 20 年 10 月に発覚しました。その結果貞任は投獄された末に 財産、家財を没収の上、江戸、関東、五街道、畿内、及び幕府の直轄領への立ち入り禁止である、 重追放の処分を受けれました。 にもかかわらず小笠原という名前が、なぜ島につけられたのでしょうか?。その理由とは小笠原貞任 ( さだとう ) の申請に始まり、探険航海の失敗に終わったこの事件が世間の注目を浴びたことから、それ以後南海にあるとされた位置不明の無人島に小笠原の名前が付けられることになりました。それだけでなく否定された彼の無人島 ( 小笠原 ) 発見説が、後に国際的な領土問題を議論する際に、 日本人による先占 ( せんせん、所有者のいない土地などを、他人より先に占有すること ) の証拠 として利用されましたが、歴史とは皮肉なものでした。
[ 6:Bonin Islands、ボニン島 ]研究社の英語大辞典で Bonin Islands を引くと小笠原諸島の英語名と書いてあり、 bonin は無人 ( ぶにん ) の転化 であるとありました。ところで小笠原貞頼による まぼろしの発見から 80 年後の 、寛文 10 年 ( 1670 年 ) 2 月のこと、阿波国海部郡浅川浦 ( 現、徳島県海部郡海南町浅川 ) の勘左右衛門の持ち船が紀州の有田で ミカンを積み、江戸へ向かう途中に遠州灘で遭難しましたが、7 名の乗組員は 10 日あまりで米を食べ尽くしその後は 積み荷の ミカンを食べ、、魚を釣って飢えを凌ぎ、72 日間に及ぶ漂流の末に、八丈島のはるか南の無人島 ( 小笠原諸島の母島と推定 ) に漂着しました。彼等はそこで難破船の材料を拾い集めて船を修理し、豊富にいた ウミガメや魚の肉を 「 切り干し 」 にして俵に詰めと保存食とし、その後、父島、聟 ( むこ ) 島列島と推定される島々を経由して八丈島にたどり着きましたが、遭難してから 1 年 2 ヶ月後のことでした。彼等は八丈島から寛文 11 年 ( 1671 年 ) 5 月 7 日に無事に下田に着き下田奉行所に漂流の顛末を届け出ました。ミカン船が漂流中に南海で無人島を発見し、そこから生還した ニュースは日本中に広がりました。当時長崎の オランダ商館に勤務していた ドイツ人医師の ケンペルが帰国後の 1727 年に 「 日本誌 」 を英語で出版しましたが、その中で、 その島には人が住んでいなかったので、彼等 ( 日本人 ) は、この島を ブネシマ ( 無人島 ) または ブネ ( 無人 ) の島と呼んだと記しました。その結果この本の出版以後 ヨーロッパ人が小笠原を、「 Bonin Islands、ボニン島 」 と呼ぶようになったとする説もありました。
ミカン船の無人島発見の報告を基に、幕府は 5 年後の延宝 3 年 ( 1675 年 ) に堺の出身で父久右衛門から朱印船時代の航海術を受け継ぐ船頭、島谷市左衛門に無人島の調査を命じましたが、下田から出発し八丈島を出て 20 日後の 4 月 29 日に、とうとう現在の父島を発見し、 此島大日本之内也 と書いた碑を建てこれを日本領有の証拠としました。 これと前述の ケッペルが書いた 「 日本誌 」や小笠原貞頼による 「 まぼろしの発見 」 のお蔭で、幕末にスペイン、オランダ、イギリス、アメリカが狙う小笠原諸島を、前述した 無主 ( 所有主のないこと ) の島に対する先占の ルール ( 国際法上、ある国家が無主の土地を領有する意志を表示して、実効的に支配すること ) に基づき、日本の領土とすることができました。写真は父島で、島民の主な居住地域は北西にある 二見浦の奥まった周辺です。
[ 7:最初の移住者 ]大学 2 年の時に習った英語の教材は、ハーマン ・ メルビルが書いた 白鯨 ( Moby Dick or the White Whale 、モゥビィ ・ ディックという白鯨 ) でしたが、作者自身が捕鯨船に乗った経験があったので、その海洋小説には 海事英語 が頻繁に出てきて、我々学生を悩ませました。 例えば [ before the mast ] とは [ マストの前方 ] の意味ではなく、帆船で最も揺れが大きく、波浪が船体を叩く音と衝撃を感じる劣悪な居住環境の船首に住む連中、つまり [ 下級 水夫 ] のこと でした。
ちなみに当時の捕鯨とは鯨を発見すると帆船に積んでいた捕鯨 ボートを降ろし、オールを漕いで鯨に接近し、手で モリ ( 銛 ) を打ち込む方法でしたが、巨体を仕留めるには何本ものモリと危険な労働が必要で、まっこう鯨に反撃されるなど、まさに命がけの捕獲方法でした。
アメリカの捕鯨船は最盛期の弘化 3 年 ( 孝明天皇の治世、1846 年 ) には世界最多の 736 隻もあり 、7 万人が捕鯨産業に従事していましたが、大西洋の鯨を捕り尽くすと、その後は ハワイの ホノルルや、マウイ島の ラハイナを基地にして日本近海に出漁するようになりました。現在反捕鯨運動に熱を入れる アメリカ人に、世界で最も多数の鯨を殺したのは彼等自身である事実を、声高に反論すべきと思うのは私だけでしょうか?。当時の 太平洋は 「 まっこう鯨 」 の宝庫 であり、白鯨の舞台となったのも日本近海でした。岩波新書の白鯨 ( 上巻、181頁 )には、 もしもあの 厳重に閉ざされた国の日本 が外人を迎えることがあり得るとすれば、その功名を負うべきものは、捕鯨船のほかにはない。いや、もはやその扉口に迫ってすらいるのである。と書かれていました。 ホノルル駐在の イギリス領事 チャールトンは、捕鯨船員から聞いた小笠原諸島の捕鯨基地としての利用価値に目を付け、ハワイで 5 名の欧米人と、20 名の ハワイ人からなる移住者を組織し、小笠原の領有化を図る目的から団長格の イギリス人 マザロに イギリス国旗を授け 、スクーナー ( Schooner 、二本 マストの帆船 ) で小笠原へ送り込んだのは天保 元年 ( 1830 年 ) のことでした。 彼等は 「 気候温暖で肥沃な土地、ウミガメなどの海の幸にも恵まれ、日本近海に出漁する捕鯨船が必ず寄港する無人島 」 の呼びかけに応じて合計 25 名が移住に参加しましたが、船が父島に着くと、更に 2 名の ハワイ人と 1 名の アメリカ人が船から脱走して移住に加わり、合計 28 名になりました。 その中で仲間から最も人望があり、後に事実上 島の首長の立場になったのは、団長格の マザロではなく マサチューセッツ州出身の アメリカ人、 ナサニエル ・ セボレー( 英語の発音では、 ナザニエル ・ セィヴォリー、Nathaniel Savory ) でした。それ以後 セボレーは小笠原島の住民の為に尽力し、島を訪れた捕鯨船、軍艦などとの交渉には島民の代表として当たりましたが、セボレーの名前は小笠原関係の本には必ず出て来る名前となりました。 ところで昭和 40 年代 ( 1965〜1974 年 ) のこと、ある日機長として 一緒に乗務する 8 名の スチュワーデスの中に、明らかに日本人ではない欧米系の顔をした女性を目にしました。その当時は会社に外国籍の スチュワーデスがいなかったので、胸の名札を見ると セボレー Y 子 と書いてありました。 念のために 「 セボレーさんは小笠原の出身ですか? 」と尋ねると 「 ハイ という返事が返ってきました 」。彼女は前述した ナサニエル ・ セボレー の子孫でしたが、150 年以上も日本の地で連綿と続く、血 ( 遺伝子 ) の存在について考えさせられました。
[ 8:戦中、戦後 ]小笠原諸島では敗戦間近の昭和 19 年 ( 1944 年 ) 6 月 15 日に、硫黄島と父島が初めて米軍の空襲を受けました。そのため翌月に数名の男性が軍属として残されたほかは、全員が本州へ強制疎開を命じられ、 6,886 名 が本土へ引き揚げましたが、奇しくも当時小学校 5 年生だった私が、学校の クラスごと長野県の山奥にある寺へ、 学童集団疎開 をしたのと同じ時期のことでした。
注:)小笠原諸島の温かい島で育った人達は慣れない日本本土での疎開生活で、寒さや飢えなどに苦しめられましたが、敗戦後には沖縄 ・ 奄美大島と同様に日本本土とは切り離されて米軍の管理下に置かれました。 ところが占領軍により昭和 21 年 ( 1946 年 ) には国籍ではなく 肌や目の色により 、欧米系の先祖を持つ住民 34 世帯、135 名だけに 父島への帰島が許されました。その理由は欧米系 キリスト教徒の間に根強く存在する、
キリスト教の神は自分の姿に似せて 白人種を創造した ため、 自分達は優れた人種である が、有色人種は生物学的にも 劣等な人種であり 、我々と対等な人間ではない。とする蔑視、偏見に基づく占領政策からでした。
写真は米軍時代から父島にある聖 ジョージ教会ですが、十字軍遠征の昔から、 白人種である キリスト教徒は ヨーロッパ文明を発達させた文化の担い手として優れているが、 異教徒は文化的にも劣るとする 思想が、 キリスト教徒の間に 深く染み込んでいました。 明治初期に キリスト教が解禁されてから 百年以上経過しましたが、今に至るまで日本では キリスト教の 信者は人口の僅か 1 〜 2 パーセントにしか過ぎません。敗戦後に日本にやってきた バカ な欧米人 ジャーナリストが、 キリスト教にとって日本が不毛地帯 なのは、 日本人が持つ 精神構造の 未熟さや、劣等さ の表れである 、などと主張しました。 ある民族について文明の発達の度合いや 知能程度を示す尺度は、 彼によれば国民に占める キリスト教徒の割合でした 。 その後 アメリカとの根強い交渉の末に、23 年後の昭和 43 年 ( 1968 年 ) 6 月 26 日に小笠原諸島がようやく日本に返還されましたが、昭和 49 年 ( 1974 年 ) には小笠原国立公園に指定され、亜熱帯の美しい自然の残る島や、豊かな海での ホエール ・ ウオッチング、ダイビングなどで若い旅行者に親しまれています。
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