女性天皇について
[ 1 : 天皇の ご心労 ]平成 20 年 12 月 9 日に宮内庁の金沢一郎皇室医務主管と専門医が記者会見をおこない、血圧上昇などのため一時ご公務を控えられていた天皇陛下の病状について、腹部にも違和感を訴えられていたため、胃カメラによる検査の結果、胃や十二指腸に炎症が見られたと発表しました。
また胃腸の病変については、 精神的、肉体的 ストレスが原因 と考えられるとしましたが、宮内庁の羽毛田 ( はけた ) 長官は平成 20 年 12 月 11 日に、天皇陛下が心労などで体調を崩したことに関し 「 私なりの所見 」 として、陛下が 皇統 ( 皇位継承 ) の問題で悩んでいること を初めて明らかにしました。 これに対して下々 ( しもじも ) の間では 5 年にも及ぶ雅子さんの心の病と、その間 病気を理由に皇太子妃としての公務や宮中行事を欠席しながら、その一方で同じ日には都内の有名 レストランで親しい人たちと日付が変わる時刻まで食事を楽しんだ件などを聞くにつけて、 天皇家の家風に合わない嫁、治療を理由に好き勝手な振る舞いをする ( ようにみえる ) 雅子さんに対する非難の声が起きました。 ( 1−1、愛子さんは天皇になれない ) そこで女房の不徳は亭主の不徳であり 皇太子が皇位継承順位の第1位を辞退し、弟の秋篠宮 ( あきしののみや ) に 継承順位を譲る 方が国民にとって すべての点ですっきりするし 、宮中に参内し天皇、皇后に会う度に病状が悪化する ( といわれている )、雅子さんの病気回復の為にも良いとする意見も最近起きました。さらに前述の病状悪化の件を天皇 ・ 皇后が知り、気持ちをいたく傷つけられたとのことでした。
国民の立場 からすれば、現 ・ 皇太子や病気が治るあてのない雅子さんに、皇位継承者としてこだわり続ける必要性が特にあるわけではなく、次の秋篠宮と紀子 ( きこ ) さんがきちんと 皇太子 / 同妃としての職務を遂行 してくれれば、それで良いだけのことです。 だいたい 5 年間も治らない うつ病 など精神医学上から聞いたことが無いそうですが、漏れ承 ( うけたまわ )る病名が 環境適応障害 というであれば、環境を変える ( 皇位継承の重圧からの解放 ) 以外は良くはならないのだそうです。 ところで記紀 ( 古事記、日本書紀 ) の記述によれば、天皇の血筋 ( 皇統 ) は 神話の時代に 初代天皇になったとされる神武 ( じんむ ) 天皇から始まりますが、九州から東征し各地を平定した後に、紀元前 ( B C ) 660 年に大和の橿原 ( かしはら )の宮 ( 現 ・ 奈良県 ・ 橿原市 ・ 橿原神宮 )で即位したとされます。 それ以後現在の第 125 代天皇に至るまで、 男系の血統のみ で皇位が続いてきたとされますが、事実かどうかは別にして、俗に 万世一系 ( ばんせい ・ いっけい、永遠に一つの系統が続 く ) の天皇とも称されます。敗戦後の昭和 21 年 ( 1946 年 ) に制定された日本国憲法の第 2 条 [ 皇位の継承 ] によれば、
皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。と規定されていますが、これを受けて作られた 皇室典範 ( てんぱん ) の第 1 条によれば、
皇位は、皇統に属する 男系の 男子 が、これを継承する。 と定められています。ところで結婚後長年子供に恵まれなかった皇太子妃の雅子さんが、人工授精により出産した子供が 「 愛子さん 」 だったために、天皇の高齢化に伴い皇位の継承問題が浮上しました。 現行法の規定では愛子さんが天皇になれない からであり、その時点では皇位を継ぐべき孫の世代には、男の子が皇統 ( 具体的には天皇家および宮家 )に存在しなかったからでした。
[ 2 : 女性天皇と、 女系 天皇との違い ]平成17年11月24日に 皇室典範に関する有識者会議 が、「 将来にわたり、皇位継承を安定的に維持するための制度のあり方 」 についての答申を内閣総理大臣に提出しましたが、その内容とは驚くことに、女系 天皇容認と、皇位継承順位における 長子 優先制の採用でした。一説によれば有識者の中に急進主義者がいて、 区別 と 差別 を意図的にすり替える常套手段 により 、皇位継承における男女差別 の廃止を主張し、 天皇制に災いをもたらす ドラゴンの歯 ( 注参照 ) を答申書に埋め込んだといわれました。 男系天皇と女系天皇の違いを説明しますと、
注:1 )「 皇室典範に関する有識者会議 」 の答申にある長子相続制とは、皇位継承の順位において長男がいても、もし年長の長女がいれば、それに皇位を継承させて先祖の祭祀を継承させるという、 本来天皇制には 馴染まない急進的な考え を、皇位継承に適用せよと主張するものでした。 これは 1945 年の敗戦まで過去 何百年もの間、男子による家督相続が行われてきた日本の社会における家の観念、社会の慣習に基づく、 日本の伝統文化を否定するものであり、ひいてはその頂点に立つ天皇制を廃止に向かわせる考え方でした。
[ 3 :天皇の正統性は 男系 DNA の継承 ]男女同権、男女雇用機会均等法の規定がある現代において、「 男系天皇制にこだわり、女系天皇制を否定するのは 時代遅れである 」 とする考えの人に質問します。天皇になるための必要条件、適格性とは何ですか?。男前、人格的に優れ、頭脳明晰、オバマのように演説が上手、−−−等々では決して無く、唯一、古来からの男系天皇の正統な血筋 ( 皇統 )、具体的には DNA を受け継いでいることですが、それについてさらに説明をしますと、
生物学によれば人間の持つ 染色体には 22 本の常染色体 ( 2 倍体では 22 X 2 = 44 本 ) と 2 本の性染色体があり、その性染色体には 「 X 」 染色体と 「 Y 」 染色体があります。 女性の性染色体は X 染色体が 2 本 あり、男性の性染色体は X と Y がそれぞれ 1 本 ずつあります。この染色体を作っている物質が DNA ( デオキシリボ核酸 ) であり、染色体は この DNA の長い糸がお互いに巻きつき合ったような構造をしています。 つまり初代の天皇とされる神武天皇 ( ? ) 以来の Y 性染色体に含まれる DNA 遺伝子を持つ者 こそが、天皇になるための必要条件であるということです。 ではなぜ女系天皇制では ダメ なのかといえば、その答えは将来、 誰もが皇族になれる 事態になるからです。たとえば女系天皇制を認めれば当然 女性宮家 が創設されますが、「 皇室典範に関する有識者会議 」 の出した答申にある、 永世皇族制 も始まります。 すると現在の皇太子家からみれば、祖父の代の親戚に当たる三笠宮家の 2 名の女性 や高円宮 ( たかまどのみや )家の 3 名の女性 、皇太子の弟の秋篠宮 ( あきしののみや )家にいる 2 名の女児の 合計 7 名 は、一般国民と結婚しても臣籍降下 ( しんせきこうか、平民の戸籍に入ること )をせずに皇族であり続けます。しかもその子や孫たちも何代経っても永久に皇族であり続けます。 そうなると、その時々の天皇とは血縁の遠い皇族の数が 「 ねずみ算 」 式に増加し、極論をいえば日本中に皇族が増え続けるようになり、一般人でもひょっとすると皇族と結婚して皇族になる可能性ができますが、それだけでなく日本に帰化した青い目、黒い肌の人でもその人と結婚すれば、自動的に、 セレブ ( Celebrity ) である皇族になることができます。そうなると皇族の DNA に、青い目、黒い肌の遺伝子が組み込まれることになります。 これが女系天皇制容認と永世皇族制がもたらすであろう将来の皇室や皇族の姿ですが、それで皇室の伝統が守れると思いますか?。日本の天皇は二千年近くの長い歴史があり、建国以来わずか 233 年、しかも移民で構成された アメリカの大統領とは根本的に違うのです。
[ 4 : 仰ぎ見る存在 ]
日本は太平洋戦争の前年の昭和15 年 ( 1940 年 ) に、ドイツ、イタリアといわゆる 日 ・ 独 ・ 伊 ・ 三国 ( さんごく ) 軍事同盟 を結び アメリカ、イギリスなどと対抗し戦争しました。敗戦により イタリア首相の ムッソリーニ ( 写真の左側 )、 は レジスタンス ( 抵抗勢力 ) によって虐殺され、ドイツでは ヒトラー総統 ( 写真の右側 ) は ベルリン陥落の際に自殺しました。
ところが日本では戦争により軍人、一般人合計 260 万人の戦死者、死者を出し 、60 もの都市が空襲、原爆、艦砲射撃などにより壊滅し 国が荒廃したにもかかわらず、降伏した際には イタリアのように、 天皇を殺せ ! などと叫ぶ日本人は一人も出ずに天皇家は安泰でしたので、外国人からは不思議がられました。 写真は 殺された後に遺体を辱 ( はずかし ) めるために逆さ吊りにされた、イタリアの首相 ベニト ・ ムッソリーニ ( Benito Mussolini ) とその夫人の姿です。 天皇とは映画俳優 ・ 流行歌手 ・ テレビ スター や選挙で選ばれた政治屋 ( 家 ) の如く、 一般大衆と 同列 ・ 同類の 単なる 憧れの対象 ・ 偉い人 ではなく、 国民統合の象徴として 敬意を払い 仰ぎみる 別格の存在 なのです 。 ちなみに若い頃の私は、
天皇は マッカーサーを含めて、時の 政治権力者に利用されること のみに存在意義があり、国民にとっては 百害あって一利なしの 寄生虫的存在であると思っていました。しかし年を取るにつれて穏やかな考え方に変わり、二千年近く連綿と皇統が続き、外国にはない 天皇制の歴史的 ・ 文化的価値 を認識し、天皇制存続に賛成するようになりましたが、天皇の親政を願うつもりは全くありません。 日本の天皇が過去 125 代にわたり男系天皇制を継続してきたのには、それなりの理由があったからであり、そのひとつは男性のみの血統維持という フィルター ( 濾過装置 )を設けたこと、次は江戸時代末期までは皇族の宮家を 四つ ( 四親王家 ) に限ったことであり、皇統の 「 ねずみ算式拡大 」 を排除してきたからでした。
ところで平成 18 年に皇太子の弟である秋篠 ( あきしの ) 宮家に、皇室としては 41 年ぶりに 男子の悠仁 ( ひさひと ) 親王が誕生したことにより、当面は男系天皇存続の可能性が高まったので、前述した 「 有識者会議の答申 」 は 幸運なことに お蔵入りとなりました。
注:1 [ 6 : 女帝の分類 ]一説によれば、政治的権力を持つ女性の始まりは、祭祀的役割を持つ シャーマン ( 注 : 参照 )から発展したとありました。日本の記紀 ( 古事記と日本書紀 ) 神話にある女性の天照皇大神 ( アマテラスオオカミ ) を除き、魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん、正確には三国志 ・ 魏書 ・ 巻三十 ・ 烏丸鮮卑東夷伝 ・ 倭人条に記された、3 世紀の倭人に関する記述 ) にある卑弥呼 ( ひみこ ) の時代から始まったとしますと、以下の三種類に分けられます。
注 : )シャーマン[ 6−1、巫女 ( みこ ) 王の段階 ] 巫女とは神に仕えて神事をおこない、神意をうかがって神託を告げる ( 一般には未婚の ) 女性のことですが、
[ 6−2、巫女( みこ )王から女帝の段階 ]
記紀で第 33 代天皇、在位 ( 592〜628 年 ) 推古 ( すいこ ) 女帝 から、日本書紀で第 41 代、天皇、在位 ( 690〜697 年 ) 持統 ( じとう ) 女帝 まで。[ 6−3、女帝の段階 ] 第 43 代 天皇、在位 ( 707〜715 年 ) 元明 ( げんめい ) 女帝 から、第 48 代 天皇、在位 ( 764〜770 年 ) 称徳 ( しょうとく ) 女帝 まで。
[ 7 : 女性天皇誕生の理由とは ]6 世紀から 8 世紀に限ってなぜ女性天皇が多かったのか疑問を持つ人が多いと思いますが、それにはいろいろな説がありました。
[ 8 : 初の女帝誕生の経緯]日本の歴史上で初の女帝 ( 33 代 推古帝 ) になったのは額田部皇女 ( ぬかたべのひめみこ ) でしたが、父親は第 29 代 の欽明天皇であり、母親は前述した豪族の蘇我氏の出身である蘇我稲目 ( そがのいなめ ) の娘で、蘇我馬子 ( うまこ ) の姪でした。額田部皇女は大変な美人で、18 才にして異母兄の敏達 ( びたつ )天皇の皇后になり、皇女を産みましたが、その皇女が後に廐戸皇子 ( うまやどのおうじ、後の聖徳太子 )の妃になりました。 しかし不運なことに 34 才で未亡人になりましたが、聡明で しっかりした女性でしたので、実の兄の第 32 代 崇峻 ( すしゅん )天皇が蘇我馬子によって暗殺され、皇位が空白になると、群臣たちがそろって未亡人の天皇即位を望みました。彼女は何度も辞退しましたが皇位の空白に抗しきれず、遂に承諾して推古女帝が誕生しました。しかし兄を殺した元凶が蘇我馬子であることを薄々知ってはいたものの、彼を失脚させあるいは報復することは彼女の力ではできずに、それだけの勢力を持つ豪族も見当たりませんでした。 初めての女帝誕生の理由は、政治紛争が続いた後だけに、やや中立的な立場の女性を立てて、政治 ・ 社会の情勢を緩和させる目的があったからでした。
[ 9 : 孝謙/称徳天皇、女性の皇太子 ]当時の豪族のひとつであった藤原氏には娘の藤原光明子 ( ふじわらの ・ こうみょうし )がいましたが、皇太子時代の聖武天皇と結婚し、後に皇族以外で初めての皇后 ( 光明皇后 )となりました。彼女は 18 才の時に、女児の阿倍内親王を生み、次には 一族の期待に応えて、男の子 「 基( もとい )親王 」を出産しましたが、僅か 1 才で早世しました。他の妃 ( 夫人 ) が生んだ聖武天皇の子供を皇太子にさせないために、藤原 一族と光明子は姉の阿倍内親王を皇太子に就かせましたが、天平 10 年 ( 739 年 )21 才のときでした。 彼女は女性として初の皇太子になりましたが 、後の孝謙 ( 重祚して称徳 ) 天皇でした。 第 46 代の孝謙天皇 ( 女帝 ) の名前を知る人は少ないと思いますが、前述したように東大寺を創建し奈良の大仏の造営の詔 ( みことのり )を発して工事を始めた、第 45 代聖武 ( しょうむ )天皇 ( 701〜756年 ) と光明皇后との間に生まれた娘でした。聖武天皇は当時の政治や社会不安を仏教によって鎮めようと考え、天平12年 ( 741年 )には詔 ( みことのり ) を出して全国 66 の国ごとに、国分寺と 国分尼寺 ( こくぶん ・ にじ、あまでら )を建立させましたが、娘の孝謙天皇に位を譲った後の、天平勝宝 4 年 ( 752年 )には、東大寺の大仏 ( 金銅の廬舎那佛、るしゃなぶつ ) が完成したので、盛大な開眼供養会 ( くようえ )が行われました。 さらに天皇の死後には 光明 ( こうみょう )皇后 ( 701〜760 年 ) が聖武天皇の遺品や、外国からの渡来工芸品など 650点 や、自身の所有物などを東大寺に奉献しましたが、それらが東大寺の倉庫である 正倉院 に宝物として収蔵 され、現在に至っています。
[ 10 : 古代の医者は祈祷師 ]平安時代中期 ( 1,000年頃 ) に女流作家の清少納言が書いた 「 枕の草紙 」 の第 25 段には、 にくきもの の項目がありますが、それによれば
にわかにわずらふ ( 患う )人のあるに、験者 ( げんざ )もとむ ( 求め )るに、例ある所にはあらで−−−−−( 以下省略 )。急病人が出たので修験者を探し求めると、いつもの所にはいないで別の所にいるのを探しまわっているうちに、待ち遠しくて長い時間が経った。ようやく迎えて喜びながら 加持 ( かじ、神仏の加護を祈り病気、災難の除去 ) をさせたところ、このごろ 「 ものの怪 ( け ) 」 の調伏に疲れ切ってしまったせいか、座るやいなや読経が眠り声になっているのは、ひどく憎たらしいとありました。 今でも未開の地においては病気を治すのは医者ではなく、祈祷師 ( きとうし ) 呪術師 ( じゅじゅつし ) に頼る所もありますが、当時の修験者はもっぱら病気を治す 医師 の役目をしていました。
清少納言が生きた時代より 300 年前の奈良時代のこと、河内国 ・ 若江郡 ・ 曙川 ・ 東弓削 ( 現 ・ 大阪府 ・ 八尾市 ・ 東弓削町 ) に一人の賢い男の子供が生まれましたが、その辺は物部氏の流れを汲む弓削 ( ゆげ ) 氏が かつて住んでいた場所で、現在も弓削神社があります。この社は 927 年に編纂された延喜式神名帳 ( えんぎしき ・ しんめいちょう )に名前が記載されている、歴史の古い いわゆる式内社 ( しきないしゃ )です。その賢い子は 50 年後に あわや天皇の地位を譲られそうになるという、日本史上の大事件に名前を残すことになった僧の、 弓削の道鏡 ( ゆげのどうきょう )になりました。
太平洋戦争開戦の前年である昭和 15 年 ( 1940 年 ) に小学校に入り、敗戦の時は国民学校 ( 当時の小学校のこと ) 6 年生でした私は、皇国史観に基づく皇国民教育をたっぷり受けましたが、そこでは第 96 代 後醍醐 ( ごだいご ) 天皇に背き 1336 年に光明天皇 ( 北朝第 2 代 )を擁立し、京都の室町に室町幕府を開いて南朝と対立した 足利尊氏 ( あしかがたかうじ ) と、天皇になろうとした 弓削の道鏡 ( ?〜772 年 ) は大悪人として習いました。 また足利尊氏の軍勢と何度も戦い最後に摂津国 ・ 兵庫 ・ 湊川 ( 現、神戸市中央区 ・ 兵庫区 ) で戦死した 楠木正成 ( くすのき まさしげ )、道鏡の企てを阻止した 和気清麻呂 ( わけの きよまろ )は忠臣として国史 ( 歴史 )の教科書で習いました。 楠木正成のことを大楠公 ( だいなんこう ) と呼び、千早城に立て籠もった楠木正成と、賊軍である足利尊氏の軍勢との戦いを
聳える金剛 ( 金剛山 )、砦 ( とりで ) は千早 ( ちはや、千早赤坂村にあった千早城 )、寄せ来る賊軍 一百余万 ( いっぴゃくよまん )と小学唱歌でも習いましたが 66 年前のことでした。その後大阪へ転勤し金剛山 ( 1,125 m ) にも歩いて登りましたが、 ロープウエイ もありました。
道鏡の俗姓は弓削氏、低い身分の僧から身を興して、宗教的後ろ楯を得て栄達の道を歩み始め、孝謙上皇 ( 後の称徳女皇 ) が 762 年に近江国 ・ 滋賀郡 ・ 石山 ( 現 ・ 大津市 ・ 国分 ) の保良宮 ( ほらのみや )に行幸 ( ぎょうこう、天皇が出かけること ) した際に、にわかに病気になりましたが、看病禅師の道鏡が孝謙上皇の病気 を宿曜法 ( しゅくようほう ) と呼ぶ星祭りの際の祈祷や、 マッサージを伴う催眠療法 ( ? ) をおこない治療しました。
これがきっかけとなり孝謙上皇は道鏡をそばに仕えさせ寵愛しましたが、46 才の未婚の女帝と 50 才代の道鏡が 畏れ多くも男女の深い仲となりました。、道鏡は女帝の寵愛を受けてから出世の道をひた走り、764 年には大臣禅師 ( ぜんじ、僧侶の敬称であり、徳の高い僧に朝廷から与えられた称号 )になり、765 年には太政大臣禅師に任ぜられ、766 年には驚くことに孝謙上皇 ( 後の称徳女帝 ) が新たに 法王という官職 を作って道鏡に与えましたが、当時としては老年である上皇が初めて知った男女の事に身も心も奪われた結果でした。 このことが宮廷内でいろいろ取り沙汰されるようになったので、太政大臣の藤原仲麻呂改め 恵美押勝 ( えみのおしかつ ) が第 47 代 ・ 淳仁 ( じゅんにん ) 天皇をして孝謙上皇 ( 後の称徳女帝 ) に忠告させましたが、すると上皇は 「 言うまじきこと 」 ( 言うべきではないこと ) を言った として非常に怒り、これが原因で恵美押勝との抗争が起きて押勝は敗れて斬られました。 この件について平安初期 ( 822 年 頃 ) に成立した 日本霊異記 ( にほんりょういき ) によれば、
帝姫阿倍 ( 聖武天皇の娘であり名前は、あべ ) の天皇の御世 ( 孝謙女帝の治世 ) の天平神護 ・ 元年 ( 765 年 ) 、歳 ( ほし ) の 乙 巳 ( きのと ・ み ) に次 ( やど ) れる年の始めに、弓削の氏の僧 道鏡法師と皇后 ( 重祚 して称徳女帝 ) と 枕を同じ く して交通 ( まじは ) り 、天 ( あめ ) の下の政 ( まつりごと )を相摂 ( あいとり ) て、天下を治む。とありました。つまり女犯 ( にょぼん ) 禁止の戒律を破った 破戒僧 の 道鏡と、生涯独身だった孝謙上皇、後の称徳女帝が肉体関係を持ち、 一緒に政治をおこなったとありました。 法王になった道鏡は神護景雲 3 年 ( 769 年 ) の正月には、大臣以下の拝賀を受けるなど、政治のすべてのことを決めるまでに権勢を誇るようになり、弟の弓削浄人を 768 年には大納言にするなど 身内の者を栄達させました。 [ 12 : 宇佐八幡宮 ・ 神託事件 ]そのような状況にあった同年 9 月に、 続 ・ 日本紀 ( しょく ・ にほんぎ、797 年撰 ) の記述によれば 「 道鏡に媚 ( こ ) び事 ( つか ) え、八幡神の教えと矯 ( いつわ )り 」太宰主神 ( だざいかみつかさ ) の習宜阿曽麻呂 ( すげのあさまろ ) が 、
道鏡をして皇位に即 ( つ ) かしめば、天下太平ならんつまり 「 道鏡を天皇にすれば、天下が太平になるであろう 」 という 宇佐八幡神の神託があったと、朝廷に奏上しましたが、称徳女帝も夢の中に八幡神の使者が現れ、申し上げたいことがあるので、古くから称徳帝の傍に仕える法均尼 ( ほうきんに ) をよこすようにと告げました。
そこで病弱な法均尼に代えて弟に当たる後の和気清麻呂 ( わけのきよまろ )を九州 ・ 豊前国 ・ 宇佐にある宇佐八幡宮 ( 神宮 ) に勅使として派遣し、神託を確かめさせました。出発に先立ち道鏡が和気清麻呂に対して、有利な神のお告げをもたらしたならば、昇進を約束しました。絵はその時の様子を描いたもので、左側が道鏡です。彼によってもたらされた八幡神の託宣 ( たくせん、神のお告げ )とは、
わが国は 開闢 ( かいびゃく、天地の初め ) 以来、君 ・ 臣 定まりぬ ( 君主と臣下の区別が決まっていた )。臣をもって君となすこと、 いまだこれあらざるなり( これまであったためしが無い )。天つ 日嗣 ( あまつひつぎ、皇位の継承 ) は必ず皇緒 ( こうちょ、皇族の後継者 ) を立てよ。無道 ( 人の道にそむいた ) の人はよろしく早 ( と )く掃ひ除くべし。称徳女帝は激怒し道鏡にとっては即位の計画が挫折したため、不利な託宣をもたらした清麻呂、法均尼の姉弟は大隅 ・ 備後へ流罪にされました。しかし平家物語の初めの言葉に、 驕 ( おご ) れる者久しからず、只 春の夜の夢の如し とあるように、 八幡宮神託事件の翌年 ( 770年 ) 8 月に寵愛を受けていた称徳女帝が皇嗣 ( 天皇のあと継ぎ ) を決めないまま 53 才で崩御すると、彼の命運もたちまち尽きてしまいました。 第 49 代 光仁天皇になる白壁王 ( しらかべおう )が立太子 ( 公式に皇太子の地位に就くこと )すると、道鏡は同じ月に都から遠く離れた下野国 ( しもつけのくに、現・栃木県 ) の薬師寺別当に左遷され、都から追放されました。その一方で清麻呂姉弟は京都に呼び戻され名誉が回復され、清麻呂は後に右大臣にまで昇進しました。
栃木県は私の故郷ですが、卒業した栃木高校のある栃木市から北東へ 13 キロの所 ( 旧河内郡 ・ 南河内町、現 ・ 下野市 ) には、道鏡がいた下野 ( しもつけ ) 薬師寺の跡が現在もあります。 「 続 ・ 日本紀 ( しょく ・ にほんぎ )」 の宝亀 3 年 ( 772年 )4 月 7 日の条によれば、( 左遷された 2 年後に ) 道鏡が死んだので、庶人 ( 庶民 ) として葬った旨の報 ( しら ) せが下野国から届き、光仁天皇に言上された旨が記されていました。
[ 13 : 金精 ( こんせい )さま ]平安末期に成立した歴史書の 日本紀略 ( にほんきりゃく )前篇 12 ・ 光仁天皇紀の 「 百川 ( ももかわ ) 伝 」 や、 鎌倉時代の説話集、 古事談 ( 1212〜1215 年成立 ) の中には、道鏡の人並み外れて大きい 男根や、それに似合った畏れ多くも称徳女帝の 「 もちもの 」 に関して記された部分もありましたが、ここでは畏れ多い極みなので触れないことに致します。前述した日本霊異記によれば、「 同じ大后 ( 孝謙上皇/称徳女帝 ) の坐しし時、天 ( あめ ) の下の国を挙 ( こぞ ) りて歌咏 ( うた ) うたひて言はく 」、 ( 意味は、孝謙上皇/称徳女帝の治世に国中で歌われた歌がありました。)
法師を裳着 ( もはき ) とな 侮 ( あなづ ) りそ。そが中の腰帯に 薦槌 ( こもづち ) さがれり、彌 ( いや ) 発 ( た ) つ 時々、かしこき響きや歌の意味は、( 道鏡 ) 法師が女性のように裳 ( も、注参照 ) を着けるからといって、あなどってはならない。法師の腰帯のあたりに、薦 ( こも ) を編む際に植物の繊維を打って柔らかにする時に使う木槌 ( きづち ) が下がっている。それがいっそう 聳 ( そび ) え立つたびに、( 称徳女帝の ) おそれ多くも 春の叫び声が響きわたる。
注:)関東甲信地方から東北地方にかけて 金精 ( こんせい ) 信仰 がありますが、男根に似た自然石、木製の物などをご神体として信仰する金精神のことですが、その起源が 一説によると道鏡にあるとするのです。 栃木県の日光の奥には湯元温泉がありますが、湯元 ( 現・日光市・湯元 ) から、群馬県 ・ 利根郡 ・ 片品村 ・ 菅沼 ( すがぬま ) に抜ける昔からの山道には金精峠 ( こんせいとうげ ) があり、昭和 40 年 ( 1965 年 ) には峠の下に、国道 120 号線の金精 トンネル ( 全長 755 メートル ) が開通しました。
それ以前の昭和 27 年 ( 1952 年 ) の夏に、私は高校時代の友人たちと テント を担いで奥日光の山を登った際に、金精峠 ( 2,024 メートル )を越えましたが、そこには金精様を祭る 「 やしろ 」 があり、中には石の男根が鎮座していました。当時は木造の社でしたが、現在は コンクリート製の丈夫な、そして風情の無いものに代わっていますが、背後の山は はしご と ロープ 伝いに登った、標高 2,244 メートルの金精山です。
道鏡が下野国 ( しもつけのくに、栃木県 )にある下野薬師寺に追放された際に、この峠の急な山道で巨大な男根が邪魔になったので、切り落として峠に供えたのが金精さまの始まりという伝説がありました。 写真はかつて峠に祀ってあった金精神とされるものですが、その後は片品村の観光施設に移したものです。
[ 14 : 皇位をめぐる争い ]称徳女帝 ( 第 48 代 )が 53 才で崩御したことにより、 古代における最大の内乱でした 壬申 ( じんしん ) の乱 ( 注:参照 ) 以後 98 年間続いた、天武天皇 ( 第 40 代 ) 系の皇統 ( 血筋 ) が断絶しました。その原因は奈良時代に起きた多くの政変により天武系の皇族の多くが殺されたためであり、最後の 称徳女帝が独身だったことも関係がありました。
注:1)それだけでなく南北朝時代 ( 1336 年〜1392 年 ) には、足利尊氏 ( あしかが・たかうじ ) により擁立された京都の 持明院系統 ( 北朝 ) の光明 ( こうみょう、皇后ではない ) 天皇が即位ましたが、反 尊氏派で 大覚寺系統 ( 南朝 ) の後醍醐 ( ごだいご ) 天皇が、現 ・ 奈良県吉野郡 ・ 吉野町に避難して吉野朝廷を作ったことから朝廷がふたつに分裂しました。 この間 南北二つの朝廷が同時に存在し 、正統性をめぐり対立しましたが、南朝の皇統はその後 4 代続きましたが、北朝の皇統が主流となり現代の天皇に続きました。 称徳女帝の次には前述した壬申の乱の 「 負け組 」 であり、それまで冷遇されて 「 やけ酒 」 を飲んでいた天智天皇の孫である白壁王 ( しらかべおう ) が、人生僅か 50 年といわれた織田信長 ( 1534〜1582年 ) の時代よりも 800 年も昔の時代に、なんと 62 才の老齢になってから 49 代 の光仁天皇 ( こうにん、709〜781年 ) となりましたが、以後 天智天皇系の皇統が 250 年以上続きました。 そこで 天智系の皇位継承を 正当化するために 、後世の歴史家が称徳女帝と道鏡を不当に 貶 ( おとし ) めて 書いた とする指摘もあり、 道鏡の巨根伝説 は信用できないことが分かりました。 東京裁判の例を挙げるまでもなく、古来から洋の東西を問わず、 歴史は 勝者 によって作られる、( 日本では勝てば官軍 ) という言葉 がありますが、このことを常に念頭に置き、歴史書を読む必要性を再認識しました。
注:)
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