古 代 中 国 と の 国 交 ( 続 き )


( 4-3、 遣 唐 使 船 の構 造 )

遣唐使船はどこで造り、どのような構造であったのか 、遣唐使船 の 多 く は 安 芸 国 ( あきの く に 、現 ・ 広 島 県 ) で 建造 されて いた。大宝 度 ( たいほう ど、大宝 2 年 、702 年 出発 ) の 船 は 周 防 国 ( す お う の く に 、現 ・ 山 口 県 ) で 造 られたとあるが、執 節 使 ( し っ せ つ し、大 使 より 上位 の 長官 ) 粟 田 真 人 ( あわた の まひと ) の 船 は「 佐 伯 ( さえき ) 」 という 安 芸 国 の 郡 名 にちなんだ 船 名 ( 船 号 ) であり 、安 芸 国 でも 建造 されていたと 思 われる。

その他、天平 度 ( てんぴょう ど 、天平 5 年 、733 年 出発 ) の 船 には 近 江 ・ 丹 波 ・ 播 磨 ・ 備 中 で 建造 されたことが 知 られているが、これ 以外 の 遣唐使船 は 安芸国 が 造船地 の 可能性 が 大 であった。

11 世紀 に 藤 原 明 衡 ( ふ じ わ ら の あ き ひ ら ) により 記 された 「 新 猿 楽 記 」 ( し ん さ る が く き ) に よれば、 諸 国 の 特産品 の 中 に 、 安 芸 は 榑 ( く れ )、つまり 皮 が 付 いたままの、加 工 して いな い 木 材 があげられており、後 代 においてもなお、安芸国 は 豊富 な 山林資源 が あったことが 知 られる。

これまで 遣唐使船 の 安全性 に 関 する 評 判 は、芳 し いものではなかった。150 人 ~ 160 人 乗 りの かなり 長大 な 船 だったにもかかわらず、大 木 から 切 り 出 した 板 を 鉄 釘 ( て つ く ぎ ) を 用 いずに 縫 い 合 わせ、継 ぎ 目 も 短水草 ( ま い は だ ) のような 草類 を 以 て 塞 ぐ という、幼稚 な 技術 だったという。

船底 は 扁 平 で 波 を 切 るのに 不適当 で、また 二 本 マ ス ト の 帆 船 だ が 帆 が 不具合 なため 、主 に 追 い 風 しか 利用 できず、櫓 ( ろ ) に 頼 らざるを得 ず、多 くの 水 手 ( 漕 ぎ 手 ) を 必要 と した。


( 4-4、 復 元 さ れ た 遣 唐 使 船 )

2010 年 に 奈良市 の 平城宮跡 などで 開かれた 「 平 城 遷 都 1 3 0 0 年 祭 」 で は 、遣唐使船 を 復 元 し て 展 示 されたが、原寸大 での 復元 は 初 めてと のことであった。

古代船

遷都祭 を 運営 する 協会 によると、復 元された 遣唐使船 は 全長 3 0 メートル 、幅 8 メートル、帆の高さが 2 0 メートル。木製 で 甲板 に 、屋根付 き の 建物 が 載 ったような 形 であった。遣唐使船 は 帆柱 が 2 本 で、風 の 弱 いときは 櫓 ( ろ ) も 併用 した。

帆は 二 枚ともに 相当 大きな 長方形 の 麻布製 で、帆裏 には 竹材 や 葦 ( あ し ) のような 強 靭 ( きょう じ ん ) な 補強材 が 密 に 編 み 添 えられてあった。そのため 迅 速 に 上 げ 下 げするのが 難 し く 重 た い 帆 であった。それでな くても 高 い 船 の 重 心 がさらに高 くな り、順 風 であっても 強 風 の 時 などには 帆柱全体 に 強 い 力 が 加 わり、不安定 になって しまったに 違 いな い。

三角帆

海王丸

これに対 して、ア ラ ビ ア の 三 角 帆 の 船 では、上 げ 下 しが 容易 である。 洋 式 帆 船 の 複 層 帆 では、マ ス ト の 先 端 に 近 い ほど 帆 の 面 積 が 小 さ く なり 、 上部 になるほど 風を 受 ける 力 が 小 さ く 、風向きに 合 わせて 帆 の 角度 を ある程度自由 に 変 えられる。ところが 遣唐使船 の 帆 は 構造的 に 遅 れて いて、空 気 力 学 ( A e r o - d y n a m i c s ) 的 にみても 相当 に 無 理 があった。


( 4-5、日 本 の 古 美 術 品 は 、ボ ス ト ン 美 術 館 へ )

ところで 明治維新 以後、急速 な 近代化 を 進 めた 日本 では 、西 洋 崇 拝 の 意 識 が 強 く なると 共 に 、古来 からの 日本 の 伝 統 文 化 ・ 伝 統 美 術 品 などを 軽 視 するようにな り、 廃 仏 毀 釈 ( は い ぶ つ き し ゃ く、仏 を 廃 して、釈 迦 の 教 えを 壊 す こ と ) などが 盛 んに 行 われるようになった。

その 結果 多 くの 寺 院 は 経済的 に 困 窮 し 、あるいは 廃 寺 とな り、 大 名 家 、豪 商 ( ご う し ょ う ) など さまざまな 所蔵者 から 古美術品、浮世絵、歴史絵巻 などが 、二 束 三 文 で 売 り 払 われる 事態 となった。

それらを 大量 に 購 入 したのが 、アメリカ 人 の 医師 で 富 豪 の ウ イ リ ア ム ・ ビ ゲ ロ ー ( William ・ B i g e l o w、1850~1926 年 ) であり、売 り 払 われた 物品 に 美術品 と しての 価値 を見 いだ して 購入計画 に 協力 したのが、下記 の 人 々 で あ っ た。

  1. 動物学者で 東京 ・ 大森 にある 縄文 後期 の 「 大 森 貝 塚 」 を、明治 10 年 ( 1877 年 ) に 発見 した、エ ド ワ ー ド ・ モ ー ス ( Edward ・ M o r s e )。場所 は、現 ・ J R の 大森駅 から 大井町駅 方面 に 200 メートル 行った 崖 下 の 線 路 ぎ わに 石 碑 が ある。( 私 は 1972 年 当時、近 く の 大田区 ・ 大森 山 王 一丁目 に 住 んで いたので、何度 も 訪れた )

  2. 東洋美術史家 ・ 哲学者 だった ア ー ネ ス ト ・ フ ェ ノ ロ サ ( Ernest ・ F e n o l l o s a )。

  3. 岡 倉 天 心 ( 東京美術学校 校長 ・ ボ ス ト ン 美術館 東洋部長、1863~1913 年 )。日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家と して 近代日本美術 の 発展 に 、大きな功績を残 した

富 豪 の ビ ゲ ロ ー は、彼らの協力により、何度も 来日 しては 日本 の 美術品 を 買 い ま く り、ボ ス ト ン 美術館 に寄贈 した。 その数は 4 万 点 に及ぶとされた。

葛飾北斎

同館 における 日本美術 の コ レ ク シ ョ ン は 、国 宝 級 ・ 重 要 文 化 財 級 を 含 めて 1 0 万 点 を 超 える と いわれて いる。江戸時代 後期 の 浮世絵師 で、「 富 嶽 三 十 六 景 」 などで 有名な 、『 葛 飾 北 斎 』 の 作 品 などは 、 そ の 大 部 分 が 日本 には 存在 せず 、ボストン 美術館 に 所蔵 されていると いう。



( 4-6、吉 備 大 臣 入 唐 絵 巻 )

吉備真備

その ボストン 美術館 には 、平安時代 後半 1 2 世紀 に 描 かれた 吉 備 大 臣 入 唐 絵 巻 ( き び の お と ど 、に っ と う え ま き ) が 所蔵 されて いるが、これを見れば 遣唐使船 の様子 を、ある 程度 知 ることができる。

主人公 の 吉備真備 ( きび のまきび、695~775 年 ) の 最終 の 位 は 、従 二 位 右大臣 であったが、 717 年 に 遣 唐 留 学 生 、751 年 には 遣 唐 副 使 と して、二度も 唐 に行った 経歴 の 持 ち主であった。

しか し 最初 の 唐 からの 帰途 には 種子島 に 漂 着 し 、 二度目の 唐 からの 航海 では まず 屋久島 に 漂 着 し 、そこから 難 波 ( なにわ、大阪 ) へ 向 かう 航海 では 、現在 捕鯨 で 有名 な 和歌山県 の 太 地 ( た い じ ) に 、再度 漂 着 するという 海 難 体 験 を 持って いた。


( 4-7、新 羅 語 ・ 奄 美 語 の 通 訳 の 同 乗 )

あまり 世間 には 知 られてな いが 、遣唐使船 に は「 漢 語 の 通 訳 」 を 乗 せるのは 当然 と しても、それ 以外 に 「 新 羅 語 ( し ら ぎ ご )  通 訳 」 ・ 「 奄 美 語 ( あ ま み ご ) 通 訳 」 を 乗 せて いたとする 記録 がある。

「 延 喜 式 ( 大 蔵 省 ) 」 では 入唐便 の 役職 に 応 じた 手当 の 支給額 を 定 めて いるが、随員 の 中 に 訳 語 ( や く ご 、通 訳 ) と して 、 「 新 羅 ・ 奄 美 等 訳 語 」 が 見 える。これは 遣唐使船 に 新羅語 の 通訳 と、奄美語 の 通訳 が 乗 り 組 んで いたことを 示 して いる。

「 続日本紀 」 の 天平 2 年 3 月 辛 亥( か の と ・ い ) 条 には 、 諸 蕃 異 域 ( し ょ ば ん い い き、日 本 を 中 心 と し て、それ 以 外 の 地域 を 蛮 域 と み な した 小中華 思想的 表現 ) では 、訳 語 ( や くご、通 訳 ) な しでは 交渉 できな いことが 述 べられており、また「 類 聚 国 史 ( る い じ ゅ こ く し ) 」 巻 87( 配 流 ) の 延暦 2 2 年 ( 803 年 ) 8 月 辛 卯 ( か の と ・ う ) 条 によれば、多 徴 ( た ね ) 嶋 ( 種 子 島 を 主 と した 地 域 ) で は 、言葉 が 通 じなかったと いう。奄美 など 南島 の 地域 においても 、同様 なことが 想定 された。

9 世紀 の 日本人僧 で 、最後 の 遣唐使 における 入 唐 請 益 僧 ( に っ と う し よ う や く そ う 、短期留学僧 のことで、請 益 とは さらに 教 えを 請 う 意 味 ) である 円 仁 ( え ん に ん 、794 ~ 864 年 、後 の 慈覚大師 ) の 旅行記 である「 入 唐 求 法 巡 礼 行 記 」 ( に っ と う ぐ ほ う じ ゅ ん れ い こ う き ) がある。

それによれば、承 和 ( じ ょ う わ 、834 ~ 848 年 ) の 遣唐使船 には 新羅 ( し ら ぎ ) 訳語( 通 訳 ) が乗船 して いた。彼らは 当時中国 の 沿海地方 で 活動 して いた 新羅人 との 交渉 のために 積極的 な役割を果た してお り、単 に 遭難 して 朝鮮半島 に 漂着 した時 に 備 えて 、乗船 させて いたわけではな い。ちなみに 当時 の 地名 に 阿 児 奈 波 島 ( あ こ な は じ ま ) があるが、 沖縄島 のことである。


[ 5 : 海 難 事 故 の 原 因 ]

遣唐使船 による 海難事故 の 多 さには それなりの 理由 があった。

  • 竜骨 構造上 の 欠 陥 と しては、 遣唐使船 を 含 む 日本 の 船 ( 和 船 ) には、 船体の 構造材 の 一 つで  船首 から 船尾にかけて 船底中央 を 縦 に 通 すように 配 置 される 強 度 部 材 の、 竜 骨 ( キ ー ル、k e e l ) が 、幕末 まで 存 在 しなかった ことである。

    竜骨 とは 船底部 の 基本骨格 のことで、その 構造 が、太い 背骨 を 中心 に 左右対称 に 湾曲 して のびる 胸 骨 の 造 りに 似 ているので 、その 名 がある。紀元前 の 昔 から 竜 骨 を 備 えて いた ヨ ー ロ ッ パ や ア ラ ビ ア 地方 の ダ ウ 船( d h o w ) は 、船底部 の 断面 が 「 V 字 形 」 を して いた。

    その方が 浮 かんだ 時 の 重心 が 低 く、起 き 上 がり 小法師 ( こ ぼ し ) と 同 じ 原理 で 、左右 に 傾 いても 復 原 する 力 が 強 かった。また、支柱 となる 太 い 竜 骨 があるために 船底部 の 強度 が 大 き く、激浪 に 対 する 耐久性 も 高 かった。

    嵐 の 海 で 船体 が 激 し く 海面 に 叩 きつけられたり、高波 の 直撃 を 受 けたりすると 瞬間的 に 船底 や 船側、甲板 などが 歪 む。竜骨 があると 衝撃 による 歪 みは 少 な く て 済 み、その 応 力 によって 歪 みは 修正 復原 される。

  • 帆 は 莚 ( む し ろ ) または 竹類 の 皮 で 編 んだ 網 代 ( あ じ ろ ) のようなもので、図を見ると一枚 の 帆自体 は 硬 くて 風 を 孕 んで 膨 らむということはな く 、端 的 に いえば、 追 い 風 の 時 し か 帆 走 で き な い も の で あっ た。

    補助帆

  • これに 対 して 、ヨ ッ ト などが 風 上 に 進 む 際 に は 、 斜 め 前方 に 向 か い 風を 受 けるように 船 の 針 路 を 取 り、コース からあまり 外 れないように 9 0 度 近 く 変 針 を 重 ね 、 風 が 吹 き 付 ける 舷 ( げ ん ) を 他方 の 舷 に 変える タ ッ キ ン グ ( T a c k i n g ) の 操 船 操 作 が 必要 になる。

    このように 向 い 風 に 対 して ジ グ ザ グ の コ ー ス を 取 ることによ り、風上 に 船 を 進 めることができるが、ヨ ッ ト に 乗 った 人 であれば、この 操 作 を 何 度 も 繰 り返 して、風上側 に 進 んだ はずである。

  • 弁財船 北前船 ・ 千石船 ・ 弁財船( べ ざ い せ ん ) などでは、斜 め 前 からの 風 を、帆 の 面 を 左 右 交 互 に 切 り 変 えて 受 け、ジ グ ザ グ の コ ー ス で 風上 方向 に 帆走 することが 可能 であり、「 間 切 ( ま ぎ ) り 走 り 」 とも 呼 ん でいた。

  • よ く 云 われることであるが、遣唐使船 を は じめとする 古代 の 和 船 には、海水を 完全 に 遮 断 できる 「 水 密 甲 板 」 ( water-tight deck ) を 、備 え て い な か っ た ことである。

  • 甲板 に 完全な 防水処理 を 施す 技 術 がなかったうえに、積 荷 の 揚 げ 降 ろ し を 効 率 よ く おこなうことが 優先 された。後世になって江戸時代の 千石船 や 北前船 ( 弁財船 、べ ざ い せ ん )などでさえも、嵐 のときに 甲板 が 激浪 に 洗 われたりすると 海水 が 船倉 に 流 れ 込 み、たちまち 転覆 の 危機 にさらされる 有様 であった。

  • 北前船の場合などは、嵐 に 遭遇 して 船倉 が 浸水 すると、転 覆 を 避 けるために 積 荷 を 捨 てるという 非常手段 ( 後 の 共 同 海 損 、g e n e r a l - a v e r a g e ) がとられて いた。共 同 海 損 について 知 りたい 人 は 、下記 を ク リ ッ ク 。

    共 同 海 損

  • 遣唐使船 の 復原模型 を 見 るかぎり 一 応 船倉 は 甲板 で 覆 われているが、実際 の 甲板 の 構造は 、せ いぜ い 厚板 を 密 に 並 べ 張 ったものだと 推測 される。耐水能力 のきわめて 低 いそのような 和 船 にとって、小 山 のごと く に 盛 り 上 がり、上 方 から 船 を押 し 潰 すよう に 叩 きつける 暴風時 の 激浪 を 防 ぎ と めることなど、不可能 だったに 違 いな い。


    ( 5-1、乗 組 員 の 運 行 経 験 )

    最後 に 遣唐使船 乗組員 の 経 験 ・ 操 船 技 術 の 問題 がある。遣唐使 の 歴史 については、6 3 0 年 の 第 1 回 派遣 から 、8 9 4 年 の 菅原道真 による 派遣中止 の 建議 まで 2 6 4 年 の 年月 が 経過 した。これを 大宝律令 の 公布 を 境 に して、前 期 ( 6 3 0 年 ~ 6 6 9 年 ) の 3 9 年間 と 、後 期 ( 7 0 1 年 ~ 8 9 4 年 ) の 1 9 3 年 に 分 けてみる。

    前期の 飛鳥時代 には 、平均 すると 6 年 半 ご と に 遣唐使 を 派 遣 したが、後期 の 奈 良 ・ 平安時代 になると 、 2 4 年 ご と の 派 遣 に 激 減 した。 ところで 奈 良 から 平 安 時 代 にかけての 日本人 の 平 均 寿 命 は 、男 性 が 「 3 3 歳 」 、女 性 がそれよりも 少 な い 「 2 8 歳 」 程度 だったと 言 われて いる。

    となると、乗組員 と して の 渡 海 など 一 生 に 一 度 あるか 無 しかであ り、それに 基 づ く 帆船 の 運 行 経 験 ・ 知 識 の 蓄 積 ・ 技 術 の 伝 達 など 、先 輩 からの 指 導 など ほとんど 期待 できなかったのに 違 いな い。

    しかも 遣唐使 派 遣 の 目的 の 一 つは、「 唐 の 都、長 安 」 における 正月 の 祝賀行事 へ の 参加 があるため、季節風 や 気候 とは 無関係 に 、6 ~7 月 には 日本 を 出発 することになって いた。


    ( 5-2、 こ こ で 一 休 み、コ ー ヒ ー ・ブ レ イ ク )

    パ イ ロ ッ ト の 飛 行 経 験 について 述 べると、大空 を 飛 びまわる パ イ ロ ッ ト の 場合 は 、飛行時間 が 経験 の 程度 を 表 すと 一 般 に 云 われている。

    台 風 や 巨 大 積 乱 雲 を 回 避 する場合 、機 上 の レーダー を 見 ながら どのように 飛 ぶかは 、機 長 の 経 験 に 基 づ く 判 断 に かかっている。

    光る雷雲

    左の 写真 で 頻 繁 に 「 雲 中 放 電 」 ( または 雲 放 電 、i n t r a - c l o u d - d i s c h a r g e ) を 繰 り 返 す 発達中 の 積乱雲 の 中 は もちろんのこと 、「 成長 した 積乱雲 のうち、頂上部分が 広 がって 平 らになっている 「 か な と こ ( 金 床 ) 雲 、a n v i l - c l o u d 」 の 軒 下 ( の き し た ) を 飛 ぶ な ! 」、 は 常 識 。そこでは 雹 ( ひょう ) が 降 る 危険性 が 大 である。

    雹に破壊された飛行機 右 の 写真 は、 大西洋岸 の ボ ス ト ン 発 ユ タ 州 の ソ ル ト レーク ・ シ テ ィ ( S a l t - l a k e - c i t y ) 行 きの 飛行機 が 雹 ( ひょう、h a i l - s t o n e )を 伴 う 悪天候 の 中 を 飛行 したため、機 体 に 大きな 損 傷 を受けた 様 子 で、目的地 の 6 0 0 K m 手前 にある、 コ ロ ラ ド 州 デ ン バー ( D e n v e r ) に 緊急着陸 した時 の 画像 である。

    前方視界 が 失 われたため、着陸時 には 自 動 着 陸 装 置 ( a u t o m a t i c - l a n d i n g- s y s t e m ) を 使用 したのかも しれない。操縦席 前方 の 風 防 ガ ラ ス ( W i n d s h i e l d 、ウ イ ン ド シ ー ル ド ) や 、機 首 にある レ ド ー ム ( R a d o m e 、レ ー ダ ー ド ー ム ) は ひどい 損 傷 を 受 け、写真 にはないが 主翼の 前 縁 、エ ン ジ ン の 空気 取り入れ 口 の 前 縁 なども 損 傷 を 受 けたはずである。エ ン ジ ン が 停 止 しなかったのは、幸 運 であった。


    遣唐使船 の 堪航性 ( た ん こ う せ い ) につ いては、ここを 参考 にされたい


    ( 5-3、遣 唐 使 船 の 遭 難 、派 遣 停 止 )

    次 数大 使 名
    出発年
    船 数帰 国 年備  考
    高田 根麻呂
    653年7月
    ーー往路、薩摩竹島付近で遭難
    坂合部 石布
    659年8月
    661年5月第2船のみ帰国往路第1船は南海の島に漂着し、大使 ら殺害された
    10多治比 広成
    733年
    734年11月
    第 1 船、
    736年5月
    第 2 船、
    739年
    第 3 船、
    第 4 船 難破。学問僧と して18年 在唐後 玄昉・吉備真備 ら 帰国
    12藤原 清河
    752年
    753年12月
    第 3 船
    754年
    第 2 船
    754年4月
    第 4 船
    鑑真ら来日、復路 第1船 帰途 安南 に漂着、大使 藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂は唐に戻り、両名とも以後帰国せず
    14仲 石伴
    761年 任命
    ーー船破損のため、派遣停止
    15中臣 鷹主
    762年 任命
    ーー7月、風波便なく( 帆走に有利な風吹かず )、渡海できず 派遣停止
    18藤原 葛野麻呂
    803年7月
    804年7月( 再任命 )
    838年6月( 再 々 任命 )
    805年6月
    第 1 船
    同年
    第 2 船
    806年
    第 4 船
    副使、唐にて 没、第 3 船、往路 肥前松浦郡にて 遭難、最澄 ・ 空海ら帰国



    [ 6 : 遣 唐 使 船 派 遣 の 得 失 ]

    新羅 ( し ら ぎ ) と の 関係 が 悪化 し、天智 2 年 ( 663 年 ) に 白村江 ( は く す き の え ) の 戦 いで 日本と 百 済 ( く だ ら ) の 連合軍 が、新羅 と 唐 の 連合軍 に 大敗 するまでは 、遣唐使船 は 朝鮮半島 の 西海岸沿 いに 三方 を 陸 に 囲 まれ 、行 き 止 まり の 黄 海 を 北 上 する 安全 な 航路 を 航海 してきたが、 それ 以後 は 前頁 の ( 3-3 ) で 述 べた 「 北 路 」 が 航行 できな くなった。

    そこで 、やむな く 風波 が 荒 く ても 目視 で 肥前国 松浦郡 平戸島 辺りから航路を南に転 じ、天草島、薩摩国の西岸沿い、ト カ ラ 列 島、奄 美 諸 島 、琉球諸島 沿 いに 進 んだのち、 北西 に 針路 をとり、東 シ ナ 海 を 横断 し 、長江 ( 揚子江 ) 河口域 の 港 に 着 岸 するものだった。

    この 航路 では 5 回 の 航海 で 2 回 の 遭 難 が 起 こ っ て い る 。 さらに 後期 になると 、五島列島 から 東 支那 ( シ ナ ) 海 を 横 断 し、直接 中国大陸 に 向かう 「 南 路 」 を 航行 するようになったが、この 航路 では 4 回 の 航海 のうち 往 復 とも 4 隻が無事 だったのは 、なんと 1 回 だ け で あ っ た

    以上 のことから、大陸文化 にあこがれ、夢 を 馳 せた 遣唐使 たちの 航海 は、まさに 現 代 の 宇宙旅行 以上 の 危険性 をもたらすものであり、遭難 による 死者 は 膨大 な 数 に の ぼ っ た。 留学先 の 中国 で 詠 んだとされる、

    天 の 原 ふりさけみれば 春 日 なる 三笠 の 山 に い で し 月 かも

    の 和歌 ( 百人 一首 にも 選定 )で有名 な 阿倍仲麻呂 ( あ べ の な か ま ろ ) も、長期間 唐 に 留学 して いたが、7 5 2 年 に 藤原清河 ( ふ じ わ ら の き よ か わ ) 率 いる 第 12 次 遣唐使 一 行 が 来唐 した。すでに 在唐 3 5 年を 経過 して いた 仲麻呂 は 、清河 らとともに、日本に 帰国 することに した。

    ところが、仲麻呂 や 清河 の 乗船 した 日本 への 帰国 第 1 船 は 、暴風雨 に 遭 って 南方 へ 流され、船 は 以前 平群広成 ( へ ぐ り の ひ ろ な り ) らが 流 されたのとほぼ 同 じ 漂 流 ル ー ト をたどり、幸 いにも 唐 の 領 内 である 安 南 ( あ ん な ん、唐代 に 安南 都 護 府 が 置 かれて 以来 の 呼 称 ) の 驩 州 ( かん しゅう、現 ・ ベトナム の 首 都 ハ ノ イ の 南 2 5 0  K m にある 港町 ヴ ィ ン ( V i n h ) に 、漂着 した。結局、仲麻呂 一 行 は 天平勝宝 7 年 ( 7 5 5 年 ) には 長安 に 戻 ることができたが 、二 人 はその 後 唐 にとどまり、唐 の 官 吏 となり そこで 没 した。


    ( 6-1、菅 原 道 真 に 対 す る 遣 唐 使 任 命 )

    平安時代 初期 の 寛平 6 年 ( 8 9 4 年 ) に、第 5 9 代 、宇 多 ( う だ ) 天 皇 は、菅 原 道 真 を 遣唐大使 に 任命 すると 共 に 、副使 には 公卿 で 文人 の 紀 長谷雄 ( き の はせお ) が 任命 された。ところが、菅原道真 は 下 記 の 理由 により、遣唐使 の 派 遣 を 中 止 するように 建 議 ( け ん ぎ、意 見 を 申 し 立 てること ) した。

    1. 、唐 の 国内 に 反 乱 が 起 きて 、情勢 が 不安定 であり 、唐 国内 の 旅行 ・ 滞在 が 危険 である。

    2. 、日本 は 唐 を 中心 とする 大陸文化 の 摂 取 ( せっ しゅ ) に 努 めたが、 既 に 十分 な 程度 に 達 した 。

    3. 過去 の 遣唐使 派遣 を 見ると、海 難 により 命 を 落 と した 者 が 非常 に 多 い。派 遣 により 優 秀 な 人 材 を 失 うべきではな い。

    以上 を 理由 と した 道 真 の 建議 により 、遣唐使 の 派遣 は 停 止 された。なお 大使 であった 菅原道真 は 9 0 1 年 に 藤原時平 との 権力抗争 に 敗 れ 、右大臣 の 地 位 から 大 宰 権 師 ( だ ざ い の ご ん の そ ち ) に 任命 され、大宰府 へ 左 遷 された。同時 に 遣唐使 の 大使 という 任 も 自然消滅 して しまった。その後 大使 と して 任命 される 人物 も 登場 せず、延喜 7 年 ( 9 0 7 年 )に 唐 が 滅 亡 したため、遣唐使 の 歴史 は、ここで 幕 を 下 ろすこととなった。


    学者 の 家柄 の 出身 で 右大臣 にまで 昇 進 したのは 、歴史上 前述 した 吉 備 真 備 ( き び の ま き び、6 9 5 ~ 7 7 5 年 ) と、菅原道真 ( 8 4 5 ~ 9 0 3 年 ) の 二 人 だけであった。菅原道真は 死後 に すさま じ い 「 怨 霊 神 ( おんりょう しん、呪 い の 神 ) 」 となり、復 讐 ( ふ く し ゅ う ) のために 多 くの 災厄 をもたら した。

    後 に 「 学 問 の 神 」 へ と 大 変 身 した 道 真 は、実 は 世 渡 り が 巧 みで 娘 を 天皇家 に 嫁 がせて、立 身 出 世 を 図 ろうと し たのであった。


    菅 原 道 真 の 仮面 を 剥 ぐ と


    ( 6-2、唐 の 興 亡 盛 衰 )

    唐 が 建国 されたのは 618 年 のことで、これ 以降 約 300 年 にわたり 中国 を 支 配 してきた。 しか し、この間 高宗 の 后 だった 則 天 武 后 ( そ く て ん ぶ こ う ) が、高宗 の 死後 帝位を 奪 い 取って 自 らが 帝位 に 就 き、国 号 を 「 周 」 と 改 めるという 「 武周革命 ( ぶ しゅう か く め い )」 が 起 きたが、15 年 で もとの 唐 に 戻 った。則天武后 は 、中国史上 唯一 の 女帝 となった。

    その後 唐 は 文化的 に 栄 えたが、やがて 唐 の 節度使 ( せつど し、地方 の 軍 と 財政 の 統括官 ) だった 禄 山 ( あ ん ろ く ざ ん ) が 地方 で 反 乱 を 起 こ し、反乱軍 は 一時 首都 の 長安 を 陥 れ、唐 は 滅 亡 寸 前 まで 行 った。

    傾国の美女

    原因 は 玄宗 皇帝 が 楊貴妃 を 寵愛 し 政治 を 顧 ( か え り ) みなかったために、 反 乱 を 引 き 起 こ したとされた。彼女 は 「 傾 国 の 美 女 」 と 呼 ばれたが、 長安 からの 逃 避 行 の 際 に 部下 から 強 く 要 求 され 、皇帝 もやむな く 彼女 の 絞 殺 を 命 じ 、756 年 に 37 歳 で 生涯 を 閉 じ た。

    その後 首謀者 の 安禄山 が 内 紛 で 殺 され 、 仲間 の 思 明 ( し し め い ) が 反乱軍 を 指揮 したので、 安 史 の 乱 」 とも いう。 これにより、 唐 は 大 きな ダ メ ー ジ を受けた。

    その後、 杜 甫 ( とほ )、李 白 ( り は く )、王 維 ( お う い ) などの 詩人 が 登場 し、文化的 には繁栄 したが、 やがて 律令制国家 を 支える 土地公有制 の 原則 である 均田制 が 次第 に くずれて 土地私有 である 荘園 が 増加 し、そのために 租庸調制 ( そ ・ よ う ・ ち ょ う せ い ) と 府兵制 ( ふ へ い せ い ) の 維持 が 困難 となってきた。

    9 世紀にはいると財 政 はさらに 困 窮 したために 塩専売制 を 強化 したが、かえって 塩 密 売 人 の 活動 が 活発 となり、875 年 に 塩密売人出身 の 反乱指導者 「 黄 巣 」 ( こ う そ う ) が 、10 年間 全土を 転戦 しながら 反乱 を 指揮 した。 この 一連 の 大乱 を 黄 巣 の 名 を とって 「 黄 巣 の 乱 」 と呼ぶ。

    この 反乱 の 鎮圧 に 手間取 るうちに、南方 の 穀倉地帯 が 荒廃 したため、唐 はその 経済的基盤 を 失 い、節度使 として 勢力 を 伸 ば した 朱 全 忠 ( し ゅ ぜ ん ち ゅ う ) によって、907 年 に 滅 ぼされた。


    [ 7 : 来 日 し た 唐 人 た ち ]

    遣唐使船 は 多 くの ヒ ト ・ モ ノ ・ 情 報 を 運 び 、日本 と 唐 の 交流 を 支 えたが 、遣唐使船 によって 来 日 した 唐 人 はどの くら い の 人 数 で 、その 人 たちはどのような 人 々 だったのであろうか。また 彼 らは 日本 に 来 てからどのような 活躍 を したのか。

    遣唐使 とともに 日本 を 訪 れた 唐 人 は、大 き く 二 つ に 分 けることができる。一 つ は 唐 使 であり、なんらかの 任務 を 帯 びて 日本 に 派遣 された 「 唐 の 官 人 」 である。もう 一 つ は、唐使 以外 の 人 々 である。この 人 たちは 、僧 侶 ・ 俗 人 ( 一 般 の 中 国 人 ) ・ 混 血 児 ( 唐 人 と 日本人 と の 間 に 生 まれた ) に 分 けることができる。

    この 他 に 、7 世紀 後半 に 百 済 ( く だ ら ) から 送 られて来た 唐 人 の 捕 虜 も 存在 した。つまり 日本 の 遣唐使 が 最初 に 派 遣 された 舒明天皇 2 年 ( 630 年 ) から、唐 の 商 人 が 民間貿易船 で 来 日 するようになる 以前 の 806 年 までの 1 7 6 年 間 に 、 官 人 は 100 人 ~ 200 人 の 間 、僧 侶 と 俗 人 、混血児 の 数 は 同 じ 期 間 に 5 0 人 前 後 と 推定 される。


    ( 7-1、来 日 唐 人 の 特 徴 )

    唐 使 以外 の 来日 唐 人 について 述 べると 、僧 の 鑑 真 ( が ん じ ん ) 以外 は 無名 の 者 がほとんどで 、一 流 の 文化人 ・ 知識人 は 日本 に 来 なかったと いうことである。次 の 特徴 は 、来日 した 唐 人 のほとんどが 僧 侶 ・ 官 人 と して、国 家 ( 日 本 ) によって 登 用 されて いたことである。彼 らには 日本人 にはない 学 識 ・ 能 力 ・ 技 術 があり、日本 の 古代国家 にとって 有 用 な 人材 であったことの 証 拠 でもある。

    そ して 最 後 に 指 摘 するのは、時期的 問題 である。天 平 度 ( て ん ぴ ょ う ど ) の 遣唐使船 ( 734 ~ 736 年 に 日本 へ 帰国 ) と、勝 宝 度 ( し ょ う ほ う ど 、754 年 帰 国 ) の 遣唐使船 に 、来 日 する 人 材 が 集 中 して いたと いうことである。このことは、日本 が 唐 から 計画的 な 人 材 募 集 を 行った 可 能 性 を 示 して いた。


    [ 8 : 日 本 独 自 の 文 化 形 成 ]

    飛 鳥 時 代 ( 592 ~ 710 年 ) ・ 奈 良 時 代 ( 710 ~ 794 年 ) には、頻 繁 に 遣 隋 使 ・ 遣 唐 使 を 派遣 して いたが、平安時代 ( 794 ~ 1192 年 ) になると 遣唐使 の 派遣回数 が 激減 した。

    記録 によれば 平安時代 になってからの 遣唐使船 は、804 年 に 日本 を 出発 して、805 年 に 帰国 した 藤原葛野麻呂 ( ふ じ わ ら の か ど の ま ろ 、大 使 ) 率 いる 船 と 、 そ の 3 3 年 後 の 838 年 に 出発 し 、839 年 に 帰国 した 藤原常嗣 ( ふ じ わ ら の つ ね つ ぐ ) の 船 が 事実上 最後 の 遣唐使船 となった。

    この 時代 になると、新 羅 ( し ら ぎ ) の 商 人 による 私 的 貿 易 船 や、唐 の 商 人 たちによる 貿 易 船 も 日本 へ 訪 れるようになり、そのため に、政府 が 莫大 な 費 用 を 掛 けて 遣唐使 を 派 遣 しな くても、中国大陸 との 文化的 接 触 を 保 つことが 可能 となった。

    これまで 7 世 紀 から 9 世 紀 にかけて、日本 は 唐を 中心 とする 大陸文化 の 摂 取 ・ 消 化 に 努 め 、あらゆる 面 で 唐 の 影響 を強 く 受 けて 発達 して 来 た ので、こ の 時代 の 文化 は 「 唐 風 ( か ら ふ う ) 文 化 」 と 呼 ばれた。

    しか し 1 0 世 紀 頃 から 1 2 世 紀 に かけては、大 陸 文 化 とは 異 なる 『 日 本 独 自 の 文 化 』 、別 名 「 国 風 文 化 」 ( こ く ふ う ぶ ん か ) 、あるいは 日 本 大 百 科 全 書 の 記 述 に よ れ ば、こ の 時代 が 藤原氏 の 摂 関 政 治 ( せ っ か ん せ い じ ) を 中 心 とする 貴族社会 を 背景に 展 開されたので、 「 藤 原 文 化 」 とも 呼 ばれて いた。その 特 徴 の 一 つ は 、仮 名 文 字 ・ 片 カ ナ の 発 明 ・ 発達 に 基 づ く 、日 記 文 学、などの 文 学 作 品 の 誕 生 で あった。

     
    ( 8-1、万 葉 仮 名、仮 名 文 字、片 カ ナ の 発 明 )

    かつて のような 隋 ・ 唐 の 文化 の 模 倣 から 、次第 に 日本人 の 生活 や 考 えに 根 差 した 文 化 ( 国 風 文 化 ) が 形成 されて いったが、 その 中 で 注目 す べ き こ と は 文芸作品 で、日本独自 の 「 仮 名( か な ) 文 字 」 の 発達 も 大き く 貢献 して いる。

    正 倉 院 に 遺 された 文 書 や 木 簡 資 料 ・鉄 剣 の 発 掘 などにより 、かつては 日本語 ( や ま と こ と ば ) を 書 き 表 す 文 字 を 持 たな かった 古 代 人 が 、やがて 「 漢 字 の 意 味 」 とは 全 く 関 係 な く 、漢 字で 日本語 の 「 音 」 を 表 す 方法 を 考 え 付 いたことが 分 かる。

    発掘 された 最古 の 「 万 葉 仮 名 」 は 、埼玉県 行田 ( ぎょうだ ) 市 の 稲荷山 古墳 から 出土 した 鉄剣銘 に 記 された 辛亥年471年 獲 加 多 支 鹵 大 王 ( わ か た け る だ い お う ) であり、5 世紀頃から使用され 始 め、7 世紀 頃 には 成立 したとされている。

    一 例 と し て 7 世紀 後半 に 活躍 した、代表的 な 万 葉 歌 人 の 額 田 王 ( ぬ か た の お お き み、 生没年不詳 ) が 詠 んだ 万 葉 仮 名 で 書 か れ た 有 名 な 歌 を 紹介 する。

    茜 草 指 武 良 前 野 逝 標 野 行 野 守 者 不 見 哉 君 之 袖 布 流

    ( 訓 読 み )

    あ か ね さ す 紫 野 ( む ら さ き の ) 行 き 標 野 ( し め の ) 行 き 野 守 ( の も り ) は 見 ず や 君 が 袖 振 ( そ で ふ ) る   [ 万葉集 第 1 巻 雑 歌 ( ぞ う か ) ー 20 ]

    ( 意 味 )
    紫草 の 生 える ( 天皇 の ) 御 料 地 の 野 を いらっしゃるあなた、野 の 番 人 に 見 られて しまいますよ、そんなに 袖 を 振 って 私 を お 誘 い になっては。

    片カナ

    しか し 9 ~10 世紀 になると、漢字を 略 した 形 から 作 られた 「 平 が な 」 や、楷書漢字 の 一 部 をとった 「 片 カ ナ 」 が、 使われるようになった。

    平仮名

    特 に 「 仮 名 ( か な ) 文 字 」 の 発 明 により、国文学 が 発 達 し、「 か な 文 字 」 を 使用 することで、その 日 起 こったことを、より 簡 単 に 書 き 留 められるようになったと 考 えられている。

    9 3 4 年 頃 に 記 された 紀 貫 之 の 「 土 佐 日 記 」 は、日記 の 形式で 書かれた 最初 の 文学作品 であり、冒頭 に、『 男 もすなる 日 記 と い ふ も の を、女 も して み む と て、するな り 』 、と 女 性 が 書 いた 設 定 で 書 かれて いる。

    「 蜻 蛉 ( かげろう ) 日 記 」 ( 藤原道綱 の 母、9 7 5 年 成立 )、 「 更 級 ( さら しな ) 日 記 」 ( 菅原孝標 の 女、1059 年 以降 )、 「 紫 式 部 日 記 」 ( 紫式部、1010 年までに完成 )、 「 枕 草 子 」 ( 清少納言 により、1001 年 頃 に 完 成 ) 、 源 氏 物 語 ( 紫式部 にとって 生涯 で 唯一 の 物語作品、1004~1012 年 ) 頃 成立 の 「 漢字 、かな 文字 混合文 」 のように、次 第 に 日本人 の 生活 や 考 えに 根 差 し た 雅 ( み や び ) な 文 化 が 、形 成 されて いった。


    since H 31、Apr. 20

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