慶 長 、遣 欧 使 節 の こ と


[ 1 : は じ め に ]

  明 治 維 新 によって 成立 した 新政府 は 明治元年 ( 1868年 ) に 東京 への 遷都 を 決定 したが 、明治天皇 は 同年 9 月 2 0 日 に 京都御所 を 出発 し 、10 月 1 3 日 に 江戸城 へ 入城 した。

東京遷都

右 図 は 1826 年 ( 文 政 9 年 ) に 創 刊 された フ ラ ン ス で 最古 の 新聞 ル ・ フ ィ ガ ロ ( L e- F i g a r o ) 紙 が 、明治天皇 の 東 京 行 幸 と 題 して 載 せた 挿 絵 である。

1871 年 ( 明治 4 年 ) 8 月 2 9 日 ( 旧暦 では 7 月 1 4 日 ) に、 封建大名 割 拠 ( かっきょ ) の 基 となった 全 国 の 藩 を 廃 止 し 、中央政府 管理下 の 府 と 県 に 一 元 化 ( 廃 藩 置 県 ) するこ とによ り 、日本 は 近代的 中央集権 国家 へ と 歩 み 始 めた。

そこで 新政府 は 、明治 4 年 ( 1871 年 ) 12 月 から 明治 6 年 (1873 年 )9 月まで、 岩 倉 具 視 ( いわ く ら と も み ) を 正 使 ( 特 命 全 権 大 使 )と する 、 岩 倉 使 節 団 ( 欧 米 視 察 団 ) を アメリカ 合衆国 ・ ヨ ー ロ ッ パ 諸国 へ 派 遣 するこ とに し た 。

岩倉使節団

左 の 写真 は 使節団幹部 たちであ り 、 左 から 木戸 孝允 ( た か よ し ) ・ 山口 尚芳 ( な お よ し ) ・ 岩倉 具視 ( と も み ) ・ 伊藤 博文 ( ひ ろ ぶ み ) ・ 大久保 利通 ( と し み ち ) で 、 岩倉 以外 は 洋 服 を 着 て いるが、岩 倉 だけは 「 ち ょ ん ま げ 」 と、 和 服 の 正 装 に 靴 を 履 いて いた。

その 目的 は 幕末 に 諸外国 との間で 締 結 された、 いわゆる 「 不 平 等 条 約 の 改 訂 」 や、 西欧諸国 と 対等 の 地位 に 立 つために 欧米諸国 の 国 情 視 察 であった。

新政府 首脳陣 4 8 名 や 欧米 へ の 留学生 5 9 名 を 含 む 日本人 乗客 総 勢 1 0 7 名 から 成 る 大 使 節 団 であ り、これに 欧 州 や メキシコ に 帰国 する カ ト リ ッ ク 教 関係者 が 加 わり、総数 1 4 0 名 ( 180 名 とする 説 もあ り ) となった。

留学生 のうち 女 子 5 名 は 最年長 が12 歳、最年少 が 6 歳 と いう 少女 たちで、全員 の 父親 が 旧 幕 臣 か 会 津 藩 など、明治元年 ( 1868 年 ) に 起 きた 戊 辰 戦 争 ( ぼ し ん せんそう、1868 年 1 月 ~ 1869 年 6 月 の 内 戦 ) で 賊 軍 となった 者 ( 士 族 ) たち の 娘 で あ っ た。

朝敵

この 中 には 、後に 津 田 塾 大 学 の 創立者 となった 当 時 6 歳 の 津 田 梅 子 が 含 まれていたが、彼女 については 別 の 機 会 に 、ホ ー ム ・ ペ ー ジ で 述 べ る こ と に す る。


( 1-1,訪 欧 し た 、先 人 た ち の 足 跡 を 知 る )

  岩倉大使 一 行 は 、1873 年 ( 明治 6 年 ) 5 月 3 0 日 に イ タ リ ア 北東部 にあ り、 ベ ネ チ ア 県 の 県 都 でもある ベ ネ チ ア、( V e n e z i a ) を 訪 れた。そこ は サ ン マ ル コ 寺 院 があるので 有 名 だが、 その 地 にある 古 文 書 館 も 訪 れた 。

古文書館 では 2 6 0 年間 ( 1613 ~ 1873 年 ) 眠 って いた 支 倉 ( 六 右 衛 門 ) 常 長 ( は せ く ら ・ ろ く え も ん ・ つ ね な が ) の 書 いた 書 状 を見 せられて、 彼 ら 「 慶 長 、遣 欧 使 節 」 ( け い ち ょ う 、け ん お う し せ つ ) が ス ペ イ ン から ロ ー マ にまで 、 足跡 を 残 して いたことを 初 めて 知 った ので あった 。

天正少年使節

それだけでな く、同 古文書館 には 支倉常長 よ り も さらに 3 0 年前 (1582 ~ 1590 年 )に 訪 欧 して いた、「 天 正 少 年 使 節 団 」 の 文 書 も 残 されて いて 、岩倉具視 の 一 行 は そのことにも 驚かされた。

上 の 絵図 は 天 正 少 年 使 節 団 のもので、 姓 と 洗 礼 名 を 示 す 。 左 上 から 、中 浦 ジ ュ リ ア ン 、 1633 年 ( 寛永 1 0 年 ) に 切支丹 弾圧 により 処刑 される 際 に 、役人達 に 向 かって 私 は ロ ー マ を 見 た 中 浦 ジ ュ リ ア ン 神 父 で あ る と 叫 び 、6 4 歳 で 殉 教 ( じ ゅ ん き ょ う ) した。なお 彼 は 、2007 年 に 福 者 ( ふ く し ゃ、ベ ア ト 、B e a t o 、 立派 な 信者 に 死後 与 えられる 称号 ) に 列 せられた。

 左 下 は 、 原 マ ル テ ィ ノ ・ 中 央 は 、旅行中 少年 たちの 世 話 や 通 訳 を した イ エ ズ ス 会 の メ ス キ ー タ 神 父 ・ 右 上 は 、伊 東 マ ン シ ョ ・ 右 下 は 、 帰国後 に 棄 教 ( き き ょ う 、信 じて いた 信仰 を 捨 てる ) し た 千 々 石 ( ち じ わ ) ミ ゲ ル 。

感受性 の 強 い 少年時代 に 、異国 に 旅 して カ ト リ ッ ク の 環境 で 8 年 間 ( 1582 ~ 1590 年 ) 過 ご して も 、人 の 考 え 方 は さま ざま、生 き 方 も 、さま ざま であった。


[ 2 : 徳 川 家 康 の 宗 教 政 策 ]

  慶 長 1 4 年 (1609 年 ) の 7 月 2 5 日 に 、フ ィ リ ピ ン の マ ニ ラ 湾 を 出航 し て、当時 ス ペ イ ン 副 王 が 支配 する ヌ エ バ ・ エ ス パ ー ニ ャ ( メ キ シ コ )を 目指 す 3 隻 の ス ペ イ ン 船 があった。

それらは フ ィ リ ピ ン 臨時総督代理 の 任務 を 終 えて 帰国 する ド ン ・ ロ ド リ ゴ ( D o n - R o d r i g o ) が 旗艦 の 「 サ ン ・ フ ラ ン シ ス コ 、 San Francisco 号 」 に 乗船 し、「 サ ン ・ ア ン ト ニ オ、San Antonio 号 」 と 「 サ ン タ ・ ア ナ、Santa Anna 号 」 の 僚船 を 伴って いた。

この 航海 で、ド ン ・ ロ ド リ ゴ の 旗艦 「 サン ・ フ ラ ン シ ス コ 号 」 は、8 月 1 0 日 頃 から 台風 による 被害 を 受 け、船内 へ の 浸 水 も ひど く な り、主 檣 ( し ゅ し ょ う 、M a i n - m a s t ) が 折 れるなど 、台風 による 被害 がますます 大 き くなった。

そ して 1 0 月 1 日 の 未 明、房総半島 にある 上総国 ( かずさの く に ) 岩和田 ( い わ わ だ ) 村 の 田尻 、 現 ・ 千葉県 夷 隅 ( い す み ) 郡 御 宿 ( お ん じ ゅ く ) 町 岩和田 の 沖 で 岩 礁 に 乗 り 上 げ、 沈没 して しまった。

遭 難 し た 「 サン ・ フ ラ ン シ ス コ 号 」 の 乗組員総数 は 376 名 であったが、岩和田村 の 村民 が 総出 で 救助 に 当 た り、生存者 は 3 1 7 名 、死体収容数 1 6 名、行方不明者は 4 3 名 であった。 彼 らは 後 に 徳川家康 が 建造 させ 用意 した 船 で 、目的地 の メ キ シ コ へ 向 かった。


( 2-1、家 康 の 意 図 )

  徳 川 家 康 はこの 機会 を 利用 して 、 日本 と スペイン の 植民地 である メ キ シ コ との 間 で 、直接貿易 を 行 う ため の 協定条件 について ド ン ・ ロ ド リ ゴ ( D o n - R o d r i g o ) と 協議 したが、その 仲介役 を 務 めたのが 、フランシスコ 会 の 宣教師 ル イ ス ・ ソ テ ロ ( L u i s - S o t e l o ) であった。 

後 に ソ テ ロ は 支倉常長 と 共 に 慶 長 、遣 欧 使 節 を 率 いて 欧州 を 訪 れ 、帰国 の 際 には 彼 らと 共 に マ ニ ラ まで 帰 ったが、支倉 らが 日本 に 帰国 したあと、 キ リ シ タ ン が 禁 教 となった 日本 に 密入国 し、1624 年 8 月 に 肥前国 彼杵郡 ( そのぎ ぐ ん 、現 ・ 長崎県 大村 ) で 火 刑 に 処 せられた ( 5 0 歳 ) 。

 豊 臣 秀 吉 は キ リ シ タ ン 禁 教 令 を 発 するなど 、 キ リ ス ト 教 に 対 する 弾 圧 政 策  を とったが、徳 川 家 康 が 天下 を 取 ると 、キ リ ス ト 教 の 布教 を 黙 認 することを 条 件 に 、

  1. 南 蛮 人 が 「 ア マ ル ガ ム ( a m a l g a m ) 法 」 と 呼 ぶ 、水 銀 を 使用 して 鉱 石 から 金 銀 を 分 離 ・ 抽 出 する 精 錬 法 の 技 術 移 転 を 彼 らに 求 めた。

    当時 新潟県 の 佐渡 には、徳川幕府 が 所有 する 金 銀 の 鉱 山 が あったが、日本 における 「 精 錬 技 術 」 の 未 熟 さ か ら 、金 ・ 銀 の 精 錬 には 大量 の 木 炭 を 使 う ために、かなりの 経費 を 必要 と して いた。

  2. それと 共 に 、太平洋 の 横 断 が 可能 な 大 型 航 洋 帆 船 の 造 船 技 術 の 移 転 を 彼 らに 要 求 した。

しか し、その 答 は 「 ノ ー 」 で あ っ た。ス ペ イ ン の マ ニ ラ 総 督 側 近 であった 、ア ン ト ニ オ ・ デ ・ モ ル ガ ( A n t o n i o - d e - M o r g a ) が 著 し た 「 フ ィ リ ピ ン 諸 島 誌 」 によれば、

フ ィ リ ピ ン が 常 に 日本 との 関係 において 保ってきた 最 大 の 安 全 性 は、日本人 が 太 平 洋 を 渡 れ る よ う な 大 型 帆 船 を 持 って い な い こ と にあった。

さらに 航 海 術 にも 通 じ て い な か っ た 。それ 故、い ま まで 日本人 ( たとえば、豊臣秀吉 ) が マ ニ ラ を 攻撃 しよう と 企 て ても、この 二 つ の こ とで 実行 できなかった のである。

従 って ( 家 康 の 要 求 す る よ う に ) 我 々 が 技 術 者 や 職 工 を 派 遣 して、彼 ら の ために 造 船 技 術 を 教 えるこ とは、自 らの 首 を 絞 めるようなもので、彼 らに ス ペ イ ン 人 を 滅 ぼすため の 武 器 を 与 えるようなものである。

と 述 べ て い た。 しか し 家康 は 海外 との 交 易 に 熱 心 で 、1600 年 に 豊 後 ( ぶんご 、大分県 ) の 海岸 に 漂着 した オ ラ ン ダ 船 リーフ デ 号 の 航海士 ウ ィ リ ア ム ・ ア ダ ム ス と 、 ヤ ン ・ ヨ ー ス テ ン ら に 、 西 欧 式 帆 船 の 建 造 を 命 じ た。

1 隻目 は 8 0 ト ン の 船 、2 隻目 は 1 2 0 ト ン の 船 が 完成 し たが、これが 前述 した ド ン ・ ロ ド リ ゴ たちの メ キ シ コ 行 き の 船 に 使用 された 。ウ イ リ ア ム ・ ア ダ ム ス らは、 後 に 家康 から 厚 遇 ( こう ぐ う ) された。

1601 年 以降 徳川家康 は 、安 南 ( あんなん 、 A n N a m 、ベトナム 中部地方 ) ・ スペイン 領 マ ニ ラ ・ カ ン ボ ジ ア ・ シ ャ ム ( S y a m u 、タ イ 王国 の 旧 名 ) ・ パ タ ニ ( P a t a n i 、かつて マ レー 半島 に 存在 した マ レー 人 の 王国 )  などの 東南 アジア 諸国 に 使者 を 派遣 して 、通 商 関 係 (?)を 結 んだ。

1604 年 から 朱 印 船 貿 易 を 実施 したが、これ 以後 1633 年 ( 寛 永 1 0 年 ) の 日本人 の 海外貿易禁止令 まで 、 3 5 0 隻 以 上 の 日 本 船 が 朱印状 を 得 て、 交易 のため 海外 に 渡航 した。 と り わ け 航 海 士 に は 中国人、ポルトガル 人、オランダ 人、イギリス 人 が 任命 されることが 多 かった。


( 2-2、平 底 船 か ら 、竜 骨 ( キール ) 船 へ )

遣唐使 が 渡 海 に 使用 した 遣 唐 船 は 堪 航 性 ( た ん こ う せ い 、シ ィー ワー ジネ ス、S e a w o r t h i n e s s 、船 が 航 海 に 耐 えられる 能 力 ) が 低 かったため 、海 難 が 数多 く 発生 し 、当初 は 2 隻 編 成 で 航海 したが、7 ~ 8 世紀 には 4 隻編成 で の 航海 が 基本 となった 。 

奈良 唐招提寺 の 建 立 で 知 られる 中国 の 僧 鑑 真 ( が ん じ ん 、688 ~ 763 年 ) は 、12 年間に 5 回 の 日本 へ の 渡航 を 試 みて 失敗 し 、次第 に 視力 を 失 い、天平勝宝 5 年 ( 753 年 ) に 6 回目 で 日本 の 地 を 踏 んだ。

平底船

その当時 は もちろんのこと 、 室町時代 (1336 ~ 1573 年 ) の 後期 から 江戸時代 ( 1603 ~ 1867 年 ) の 初期 まで 使用 されてきた 軍船 の 安 宅 船 ( あ た け ぶ ね ) まで 、日 本 では、竜 骨 の 無 い 船 底 が 平らな 平 底 船 を 使 用 してきた。

竜骨船

左 の 写真 は 、船 の 船首尾 方向 の 構造材 である 竜 骨 ( キ ー ル、k e e l ) から 組 み 立 てているところ。西洋 の 船 が 応力 を 竜 骨 や 肋 材 ( ろ く ざ い ) の 構 造 で 支 え 、強 度 を 得 ることで 大型化 したのに 対 し、日本 の 船 は 、板 材 を 「 縫 い 釘 」 と 「 か す が い 」 によって 繋 ( つな ) いで 建 造 してお り、外板 で 応力 を 受 け 持 つ 「 モ ノ コ ッ ク ( m o n o c o q u e ) 構 造 」 であった。

骨組み

ちなみに 現 代 の 大型 ジ ェ ッ ト 機 は、「 セ ミ ・ モ ノ コ ッ ク 構造 」 が 用 いられている。それは、フ レ ー ム ( f r a m e 、丸 い 胴体断面 の 形 を 保 持 す る 骨 組 み ) と 、そ の フ レ ー ム と 垂 直 に 交 わるように ス ト リ ン ガ ー ( s t r i n g e r 、縦 通 材 ) 、および 強 力 縦 通 材 の ロ ン ジ ロ ン ( L o n g e r o n ) を 通 し て、胴体 の 骨 組 みを 作 り、そこに 外 板 を 張 り 付 けたものである。

航 海 術 も 沿岸 の 岬 ・ 島 ・ 山 などを 見 て 位置 を 確認 しながら 進 む 、 地 乗 り 航 法 ( じ の り こ う ほ う 、 沿 岸 航 法 、 C o a s t a l - n a v i g a t i o n ) を 使用 し、天体 を 観測 して 船 の 位置 を 知 る 、 天 文 航 法 ( C e l e s t i a l - n a v i g a t i o n ) の 知 識 や 技 術 が 無 かった 。


( 2-3、仙 台 藩 の 、ガ レ オ ン 船 建 造 )

ところで 仙台藩 の 初代藩主 伊達政宗 は、

  1. 対 外 国 貿 易 をする 意 図 を 持 って いたが、そのために 必 要 だったのが 、 ヌ エ バ ・ エ ス パ ー ニ ャ ( N u e v a - E s p a n a 、新 し い ス ペ イ ン 、つま り メ キ シ コ ) まで 航 海 可 能 な 西 欧 型 帆 船 と 、天 文 航 法 の 技 術 を 持 った 航 海 士 で あった。

  2. 当時 メ キ シ コ を 植民地 と して 支配 して い た 強大 な 軍事力 を 持 つ ス ペ イ ン と 、 あ わ よ く ば 軍 事 同 盟 を 結 び 、 関 ヶ 原 の 戦 に 勝利 し て 天下 を 取 ったばか り の 「 徳 川 幕 府 」 に 、軍 事 力 で 対 抗 する 計 画 を 密 かに 立 て て いた。

    その 手 始 め と して 、ス ペ イ ン に 対 して 仙台藩 領 内 へ の 宣教師 派 遣 の 依 頼 をするこ とに した。

土佐国 ( 高 知 ) の 浦 戸 湾 で 、文 禄 5 年 ( 1596 年 ) に 座 礁 した ス ペ イ ン 船 サ ン ・ フ ェ リ ペ 号 ( S a n - F e l i p e ) の 水先案内人 ( 航海長 ) に 対 して 、「 な ぜ ス ペ イ ン は 世界中 に 多 数 の 領 土 を 保 有 して い る の か ? 」 と いう 質問 を 日 本 人 が した ところ 、彼 が 述 べ た 言 葉 が 下 記 にある。、

スペイン 国 王 は 宣教師 を 世界中 に 派 遣 し、カ ト リ ッ ク の 布 教 をすると 共 に 、( 国 や 領土 を ) 征 服 する 際 の 「 手 先 」 ( 先 兵 ) と し て いる。

まず、その 土 地 の 住 民 を カ ト リ ッ ク 信 者 に し 、次 に そ の 信 者 を ひそかに ス ペ イ ン に 協 力 させ、 その後 、兵 力 投 入 に よ り 領 土 を 征 服 し 、ス ペ イ ン に 併 合 する。

と いう のであった。彼の この 言 葉 と 、

南 蛮 人 が キ リ シ タ ン 大 名 か ら 若 い 男 女 を 安 い 値 段 で 多 数 購 入 し 、 奴 隷 と し て 外 国 へ 売 却 し 、利 益 を 得 て い る 事 実 を 知 っ た こ と。

この 二 つ のことから 、 豊臣秀吉 は 1587 年 の バ テ レ ン ( ポ ル ト ガ ル 語 の パ ー ド レ 、p a d r e 、司祭 ・ 神父 ・ 宣教師 の 意味 ) 追 放 令 の 公 布 と 、それに 基 づ く キ リ シ タ ン 弾 圧 を おこなった と い わ れ て いる。

はりつけ

具体的 には 1597 年 2 月 5 日 ( 旧暦、慶長元年 12 月 19 日 )、長崎 における フ ラ ン シ ス コ 会 宣 教 師 6 人 と、日本人 信徒 2 0 人 の 合計 2 6 人 の 、 「 は り つ け 」 を もたら した 、とも いわれて いる。 ( 後 の 日 本 二 十 六 聖 人 )


若 い 日 本 人 を 奴 隷 と し て 海 外 に 売 却


政宗 は 家康 にそ の 意図 を 隠 して 大型船建造 の 意向 を 伝 え、暴 風 で 船 が 壊 れ 帰 国 する 船 がな く 仙台 領内 に 滞在 して いた 、 ( 日本近海 にあるとされた ) 金 銀 島 の 探 検 隊 の 司令官 で スペイン 人 の 提 督 セ バ ス テ ィ ア ン ・ ビ ス カ イ ノ ( S e b a s t i a n - V i z c a i n o ) や、幕府 の 船奉行 に 協力 を 依頼 するこ とに した。

軍船

やがて、現 ・ 宮城県 石巻市 牡鹿半島 ( お し か は ん と う ) の 付 け 根 付近 にある 「 月 の 浦 」 で 、軍 船 ・ 商 船 に 用 いられる 約 5 0 0 ト ン 級 の ガ レ オ ン 船 ( G a l l e o n ) の 建造 が 始 まった。右 はその 同型船 である。


伊達家 に 残 る 記 録 によれば、船 の 横 幅 : 5 間 半 ( 10.7 メートル ) 、長 さ : 18 間 ( 3 5.1 メートル )、高 さ : 14 間 1 尺 5 寸 ( 27.6 メートル )、帆 柱 : 1 8 間 3 尺 ( 3 5 .7 メートル ) 。ちなみに 当時 の 1 間 は 、6 尺 5 寸 ( 1 9 5 センチ ) であった。

月の浦

船体 の 長 さに 船首飾 り ( フ ィ ギ ュ ア ヘ ッ ド 、F i g u r e - H e a d ) や 、海戦 で 敵 の 船 に 衝突 させ、船腹 に 穴 を 開 ける 爲 の 船 首 衝 角 ( せん しゅ しょうか く 、P e a k - H e a d ) などを 考慮 して 計算 する と、全長 は 5 5 メ ー ト ル に 達 した と 推測 される。

上 の 写真 は 「 月 の 浦 」 に 展 示 されて いる、支倉常長 ら 慶長 遣欧使節 が 使用 した ガ レ オ ン 船 の レ プ リ カ ( r e p l i c a 、複製品 )。


[ 3 : 洗 礼 者 、ヨ ハ ネ 号 の 船 出 ]

1 6 1 3 年 1 0 月 2 8 日 ( 旧 暦 の 慶長 1 8 年 9 月 1 5 日 ) に、支 倉 ( 六 右 衛 門 ) 常 長 以下 仙台藩 の 者 1 2 名 、 徳川幕府 船奉行 向 井 将 監 ( しょうげん ) 忠勝 ( ただかつ ) の 家 人 が 1 0 名 、 南蛮人 ( ソ テ ロ などの 宣教師 と ビ ス カ イ ノ の 随 員 ) ら 4 0 名 。

ヨハネ号

それに 京都 ・ 大阪 などの 貿易商人 や 西欧 に 対 して 日本 に キ リ ス ト 教 の 定着 ぶ り を 示 すために、ソ テ ロ が 連 れて い く 信者 など 100 名 以上 の 合計 1 8 0 名 を 乗 せた サ ン ・ フ ァ ン ・ バ ウ テ ィ ス タ 号 ( S a n - J u a n - B a u t i s t a 、 洗 礼 者 、ヨ ハ ネ 号 ) は、陸奥国 牡鹿郡 ( むつ の く に お しか ぐ ん ) にある 月 の 浦 を 船 出 した。

伊達政宗 が 計画 した 慶長 遣欧使節 の 一 行 は このように して 前途 が 期待 される 盛 んな 門出 に 就 いたが 、 正 使 となったのは 前述 した フ ラ ン シ ス コ 会 宣教師 で 日本語 を 話 す ル イ ス ・ ソ テ ロ ( L u i s - S o t e l o ) であ り、支倉常長 は 副 使 、金 銀 島 探 検 隊 の 司令官 だった ビ ス カ イ ノ は 、単 なる 船 客 という 待 遇 であった 。これを 決 めたのは 、おそら く ソ テ ロ であろう。

セ バ ス テ ィ ア ン ・ ビ ス カ イ ノ の 「 金 銀 島 探 検 報 告 」 によれば、サ ン ・ フ ァ ン ・ バ ウ テ ィ ス タ 号 は 太平洋 を 東 に 進 み 、数回 の 暴風雨 に 遭 いながら ようや く 乗 り 切 って、約 2 ヶ 月後 の 12 月 26 日 に 北 米 大 陸 の メ ン ド シ ノ 岬 、( C a p e - M e n d o c i n o 、サ ン フ ラ ン シ ス コ の 北 3 0 0 K m ) を 視認 し た。

船のコース

そこから 南寄 り に 針路 をとり、南下 する カ リ フ ォ ル ニ ア 海流 に 乗 り、出港 から 約 3ケ月後 の 1614 年 1 月2 8 日 に、メ キ シ コ の 太平洋岸 にある ア カ プ ル コ ( A c a p u l c o ) へ 入港 した。

そこから 支倉常長 ら ス ペ イ ン へ 渡る 日本人 2 6 名 と ソ テ ロ ら ス ペ イ ン 人 宣教師 4 名 、そ して イ タ リ ア 人 神父 からなる 支倉遣欧使節 、そして 約 1 0 0 名 からなる 貿易商人 や カ ト リ ッ ク 信者 たちも、陸路 、使節 に 従 い ス ペ イ ン 総督府 のある メ ヒ コ ( M e x i c o の スペイン 語 読 み 、現 ・ メキシコ 市 ) を 目指 して 出発 した。

ここで 約 70 もの 多民族 から 成 る メ キ シ コ に 住 む 、 先住民 の チ マ ル パ イ ン ( C h i m a l p a i n 、1 5 7 1 ~ 1 6 6 0 年 頃 ) が 当時 書 い た 日記 がある。それによれば、

  • 1614 年 3 月 2 4 日、月曜日
    日本 より 派遣 された 特派大使 が 本日 メ キ シ コ 市 に 到着 した。彼 は 日本 の 皇帝 ( 徳川家康 ? ) の 特使 (?) と して 当国 に 来 たものである。

    特使 はこの 地 から ロ ー マ に 赴 き、法 王 パ ウ ロ 五 世 に 謁見 し、如何 に 多 くの 日本人 が キ リ ス ト 教徒 になることを 欲 し、洗 礼 を 受 け、聖 体 を 授 けられて 我 らの 聖 なる 母、ロ ー マ 教会 の 愛 児 となることを 願 っているかを 報告 に 赴 くのである。

  • 1614 年 4 月 8 日、火曜日
    本日、聖 フ ラ ン シ ス コ 教会 にお いて、2 0 名 の 日本人 が 洗 礼 を 受 けた。特派大使 は 当地 で 洗礼 を 受けることを 欲 しなかったが、彼 は ス ペ イ ン にお いて 、 洗礼 を 受 ける 由 ( よ し )である。

  • 1614年5月29日、木曜日
    本日 は 日本 よりの 特派大使 が ス ペ イ ン へ 向 けて 出発 を 開始 する 日 である。使節 はその 従者 を 二 つに 分 け、何人 かを 同伴 し、残 余 を 我 らと 共 に 暮 らすように 当地 へ 残 した。

    商人 たちは 彼 らと 商 いをするであろう。大使 は 出発 に 当 たり マ ル テ ィ ネ ス と いう ス ペ イ ン 人 の 男 を 従者 に 加 え 、連 れて 行 くことに した。彼 は 日本語 を 解 するので、ス ペ イ ン 副 王 の 命 により 、遣欧使節 の 秘書 をすることになったのである。

なお 支倉 は ソ テ ロ を 通 訳 として 同伴 して メ キ シ コ 総督 ( 副 王 ) と 面会 し 、仙台藩 へ の 宣教師 の 派遣 や 、 通商 を 求 める 伊達政宗 からの 親書 を 手渡 して いる。

混成

支倉常長 を 筆頭 に 約 3 0 名 の 一 団 は、多数 の 見送 りを 受 けて、スペイン 船 が 待機 している メ キ シ コ の 大西洋岸 の 港町、 ベ ラ ク ル ス ( V e r a c r u z ) に 向 けて 出発 したが、「 月 の 浦 」 を 出 てから 七 ヶ 月 が 経過 して いた。


[ 4 : ス ペ イ ン に 到 着 ]

河口港

支倉遣欧使節 の 一 行 は 途 中 キ ュ ー バ の ハ バ ナ ( H a v a n a ) に 立 ち 寄 り 、 1 5 日 間滞在 し 、大西洋を北上 して 1614 年 1 0 月 5 日 に 、ス ペ イ ン 南部 の サ ン ル ー カ ル ・ デ ・ バ ラ メ ダ ( S a n l u c a r - d e - B a r r a m e d a ) 港 に 入港 した。

そこは グ ア ダ ル キ ビー ル 川 ( G u a d a l q u i v i r ) の 河 口 に 面 した 港町 であ り、大航海時代 ( 15 世紀半 ばから、17 世紀 半 ばまで ) に 栄 えた 所 であった。

彼 らは セ ビ リ ア ( S e v i l l a ) 市 の 要請 で 二 隻 の ガ レ ー 船 ( G a l l e y ) に 乗 り 、グ ア ダ ル キ ビ ー ル 川 の 上流 にある セ ビ リ ア ( S e v i l l a 、ア ン ダ ル シ ア 州 の 州 都 ) の手前 1 5 K m の 所 にある、  コ リ ア ・ デ ル ・ リ オ  ( C o r i a - d e l - R i o ) に 到着 し、メ デ ィ ナ ・ シ ド ニ ア 公爵邸 に 旅装 を 解 いた。

公爵 が 枢密院 ( す う み つ い ん、国王 の 諮問機関 ) 書記官 に 当 てた 1614 年 10 月 9 日付 けの 書状 によれば、

日本 からの 一 行 は はるばる 海 を 渡 り、国王陛下 のもとへ 向 かう 使節 であるゆえ、我 が 国 の 人々 以上 に 彼 らを 遇 するのは、陛下 の 臣下 である 私 の 義務 であると 心得 、今 なお 当地 で 使節 を 歓待 しつつ あり。

大使 は 3 0 名 の 随員 を 日本 から 伴 って 当地 に 着 いた。

と 記 されていた。 彼 らはこの 町 に 4 日 間滞在 し、セ ビ リ ア 市 へ 入る 際 の 衣服 を 整 えた。 当時 セ ビ リ ア は 地中海航路 と 大西洋航路 の 中継地 と して、ス ペ イ ン 最大 の 商業都市 と して 栄 えて いたが、1614 年 1 0 月 2 1 日、使節 一行 は、アンダルシア 州 の 州都 セ ビ リ ア に 到着 し 大歓迎 を 受 けた。

10月27日 の 午後、支倉 と ソ テ ロ は 随員 を 伴 って セ ビ リ ア 市庁舎 に 赴 き、市長 を 表敬訪問 して、市長宛 の 伊達政宗 の 書状 と 大小 二振 り の 日本刀 を 贈 呈 した。


[ 5 : 首 都 マ ド リ ード へ ]

  1614 年 1 1 月 2 5 日 使節 一行 は、ス ペ イ ン 国 王 へ の 贈 り 物 を 運 ぶための 騾馬 ( ラ バ ) 四頭 立 ての 荷車 を 五 台、馬車 二台、手荷物運搬用 の 駄馬 五頭 などの 提供 を セ ビ リ ア 市 から 受 け、マ ド リ ー ド ( M a d r i d ) へ 向 かった。

一 行 が スペイン の 首都 マドリード に 入 ったのは、キリスト 降誕祭 ( ク リ ス マ ス ) をひかえた 1 2 月 2 0 日 のことであった。支倉 にとって 極めて 重要 な 意味 を 持 つ 、 スペイン 国王 フ ェ リ ペ 三 世 ( F e l i p e III、在位 1598 年 ~ 1621 年 ) との 謁見 が 実現 したのは、翌年 ( 1615 年 ) 1 月 3 0 日 のことであった。

謁見 の 模様 を 通訳兼 記録係 の 秘書 と して 加 わった 、イタリア 人 歴史学者 の 「 シ ピ オ ー ネ ・ ア マ テ ィ 」 は 次 のように 記 して いる。

国王 は 馬車 三台 を 差 し 遣 わされたが、使節側 も 馬車 を 予 め 用意 して いたので、随員 たちも 全員 揃 いの 服 を 着 て、衛兵 が 整列 して 迎 えるなかを 馬車 で 王宮 に 入 った。

大使 は 控 え 室 で、盛大 な 儀式 に 着 る 美麗 なる 服 を 着用 せ り。

とあるが、セビリア 到着時 と、ローマ 入府式 でも 着 て 有名 になる 派手 な 陣羽織 を、ここでも 着 たことが 分 かった。 そこで 支倉常長 は、政宗 から 親書 を 読 み 上 げるのではな く、自 らの 言葉 で 堂 々 と 演説 を 始 めた。ア マ テ ィ の 記録 「 伊達政宗 遣使録 」 によれば

天 の 光 を 求 めて 自分 たちを 派遣 した 政宗 が、キリスト 教 こそが 救 いの 道 であると 信 じて 自 らの 洗礼 と 布教 を 望 んでいること。

そ して スペイン の 国王 が 保護 を 求 める 者 に 寛容 であると 聞 いて いるので、政宗 がその  「 地 位 」 と 「 領 土 」 を 陛 下 に 差 し 出 す  つも りである。

と 伝 えたことになっている。アマティ の 記録 は、支倉 の 日本語 の 演説 を 正使 の ソ テ ロ がその 場 で スペイン 語 に 訳 し、それを アマティ が イタリア 語 で 記述 したものである。つまり 支倉 が 口 に しな いことを 、ソ テ ロ が 勝手 に 意訳 した 可能性 がある。 

しかし 政宗 の スペイン との 同盟関係 ( 国 交 ) 樹立説 に 立 てば、地位 も 領土 も 献上 する 考 え 方 もあ り 得 ることである。


[ 6 : 支 倉 の 洗 礼 式 ]

ローマ 行 きの 許可 が 国王 と 法王庁側 から 出 るのを 待 つ 間 、支倉 一 行 は 八ヶ月 間 も マドリード に 滞在 を 余儀 な く された。その 間 の1615 年 2 月 1 7 日 に、支倉常長 が 願 っていた キリスト 教 入 信 の 儀 式 である 洗 礼 式  ( バ プ テ ス マ 、B a p t i s m ) を、マドリード の 王立 跣足( せ ん そ く ) 女子修道院 附属教会 において、おごそかに 挙行 された。

支倉 の 洗礼式 には 国王陛下 のほか、フランス 王妃 、二 人 の 王女 や 高位 の 人々、貴 族 ( 領 主 ) たちが 臨席 した。彼 が 洗礼 を 受 けたのは、ス ペ イ ン 国王 や ロ ー マ 法王 との 対外交渉 を 進 める 上 で、 劇 的 効 果 を 演 出 す る ためではないかとする 見方 がある。

しかし 旅 の 途中 で 同行 した 大使 で 宣教師 の ソ テ ロ から キリスト 教 の 教義 について 学 び 、数十年間 生 きてきた 儒教的 ・ 仏教的 な 宗教観 を 捨 て、キリスト 教 に 帰 依 することを 衷心 から 願 っていたのかも 知 れない。彼 の 洗礼名 は、 ド ン ・ フ ィ リ ッ ポ ・ フ ラ ン シ ス コ ・ ハ セ ク ラ であった。

ラ テ ン 語名 の フ ィ リ ッ ポ は スペイン 語 の フ ェ リ ッ ペ で、国王 と 同 じ 名 である。


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