慶 長 、遣 欧 使 節 の こ と
[ 1 : は じ め に ]明 治 維 新 によって 成立 した 新政府 は 明治元年 ( 1868年 ) に 東京 への 遷都 を 決定 したが 、明治天皇 は 同年 9 月 2 0 日 に 京都御所 を 出発 し 、10 月 1 3 日 に 江戸城 へ 入城 した。 右 図 は 1826 年 ( 文 政 9 年 ) に 創 刊 された フ ラ ン ス で 最古 の 新聞 ル ・ フ ィ ガ ロ ( L e- F i g a r o ) 紙 が 、明治天皇 の 東 京 行 幸 と 題 して 載 せた 挿 絵 である。1871 年 ( 明治 4 年 ) 8 月 2 9 日 ( 旧暦 では 7 月 1 4 日 ) に、 封建大名 割 拠 ( かっきょ ) の 基 となった 全 国 の 藩 を 廃 止 し 、中央政府 管理下 の 府 と 県 に 一 元 化 ( 廃 藩 置 県 ) するこ とによ り 、日本 は 近代的 中央集権 国家 へ と 歩 み 始 めた。 そこで 新政府 は 、明治 4 年 ( 1871 年 ) 12 月 から 明治 6 年 (1873 年 )9 月まで、 岩 倉 具 視 ( いわ く ら と も み ) を 正 使 ( 特 命 全 権 大 使 )と する 、 岩 倉 使 節 団 ( 欧 米 視 察 団 ) を アメリカ 合衆国 ・ ヨ ー ロ ッ パ 諸国 へ 派 遣 するこ とに し た 。 左 の 写真 は 使節団幹部 たちであ り 、 左 から 木戸 孝允 ( た か よ し ) ・ 山口 尚芳 ( な お よ し ) ・ 岩倉 具視 ( と も み ) ・ 伊藤 博文 ( ひ ろ ぶ み ) ・ 大久保 利通 ( と し み ち ) で 、 岩倉 以外 は 洋 服 を 着 て いるが、岩 倉 だけは 「 ち ょ ん ま げ 」 と、 和 服 の 正 装 に 靴 を 履 いて いた。 その 目的 は 幕末 に 諸外国 との間で 締 結 された、 いわゆる 「 不 平 等 条 約 の 改 訂 」 や、 西欧諸国 と 対等 の 地位 に 立 つために 欧米諸国 の 国 情 視 察 であった。 新政府 首脳陣 4 8 名 や 欧米 へ の 留学生 5 9 名 を 含 む 日本人 乗客 総 勢 1 0 7 名 から 成 る 大 使 節 団 であ り、これに 欧 州 や メキシコ に 帰国 する カ ト リ ッ ク 教 関係者 が 加 わり、総数 1 4 0 名 ( 180 名 とする 説 もあ り ) となった。 留学生 のうち 女 子 5 名 は 最年長 が12 歳、最年少 が 6 歳 と いう 少女 たちで、全員 の 父親 が 旧 幕 臣 か 会 津 藩 など、明治元年 ( 1868 年 ) に 起 きた 戊 辰 戦 争 ( ぼ し ん せんそう、1868 年 1 月 ~ 1869 年 6 月 の 内 戦 ) で 賊 軍 となった 者 ( 士 族 ) たち の 娘 で あ っ た。 この 中 には 、後に 津 田 塾 大 学 の 創立者 となった 当 時 6 歳 の 津 田 梅 子 が 含 まれていたが、彼女 については 別 の 機 会 に 、ホ ー ム ・ ペ ー ジ で 述 べ る こ と に す る。 ( 1-1,訪 欧 し た 、先 人 た ち の 足 跡 を 知 る ) 岩倉大使 一 行 は 、1873 年 ( 明治 6 年 ) 5 月 3 0 日 に イ タ リ ア 北東部 にあ り、 ベ ネ チ ア 県 の 県 都 でもある ベ ネ チ ア、( V e n e z i a ) を 訪 れた。そこ は サ ン マ ル コ 寺 院 があるので 有 名 だが、 その 地 にある 古 文 書 館 も 訪 れた 。 古文書館 では 2 6 0 年間 ( 1613 ~ 1873 年 ) 眠 って いた 支 倉 ( 六 右 衛 門 ) 常 長 ( は せ く ら ・ ろ く え も ん ・ つ ね な が ) の 書 いた 書 状 を見 せられて、 彼 ら 「 慶 長 、遣 欧 使 節 」 ( け い ち ょ う 、け ん お う し せ つ ) が ス ペ イ ン から ロ ー マ にまで 、 足跡 を 残 して いたことを 初 めて 知 った ので あった 。 それだけでな く、同 古文書館 には 支倉常長 よ り も さらに 3 0 年前 (1582 ~ 1590 年 )に 訪 欧 して いた、「 天 正 少 年 使 節 団 」 の 文 書 も 残 されて いて 、岩倉具視 の 一 行 は そのことにも 驚かされた。 上 の 絵図 は 天 正 少 年 使 節 団 のもので、 姓 と 洗 礼 名 を 示 す 。 左 上 から 、中 浦 ジ ュ リ ア ン 、 1633 年 ( 寛永 1 0 年 ) に 切支丹 弾圧 により 処刑 される 際 に 、役人達 に 向 かって 私 は ロ ー マ を 見 た 中 浦 ジ ュ リ ア ン 神 父 で あ る と 叫 び 、6 4 歳 で 殉 教 ( じ ゅ ん き ょ う ) した。なお 彼 は 、2007 年 に 福 者 ( ふ く し ゃ、ベ ア ト 、B e a t o 、 立派 な 信者 に 死後 与 えられる 称号 ) に 列 せられた。 左 下 は 、 原 マ ル テ ィ ノ ・ 中 央 は 、旅行中 少年 たちの 世 話 や 通 訳 を した イ エ ズ ス 会 の メ ス キ ー タ 神 父 ・ 右 上 は 、伊 東 マ ン シ ョ ・ 右 下 は 、 帰国後 に 棄 教 ( き き ょ う 、信 じて いた 信仰 を 捨 てる ) し た 千 々 石 ( ち じ わ ) ミ ゲ ル 。 感受性 の 強 い 少年時代 に 、異国 に 旅 して カ ト リ ッ ク の 環境 で 8 年 間 ( 1582 ~ 1590 年 ) 過 ご して も 、人 の 考 え 方 は さま ざま、生 き 方 も 、さま ざま であった。 [ 2 : 徳 川 家 康 の 宗 教 政 策 ]慶 長 1 4 年 (1609 年 ) の 7 月 2 5 日 に 、フ ィ リ ピ ン の マ ニ ラ 湾 を 出航 し て、当時 ス ペ イ ン 副 王 が 支配 する ヌ エ バ ・ エ ス パ ー ニ ャ ( メ キ シ コ )を 目指 す 3 隻 の ス ペ イ ン 船 があった。 それらは フ ィ リ ピ ン 臨時総督代理 の 任務 を 終 えて 帰国 する ド ン ・ ロ ド リ ゴ ( D o n - R o d r i g o ) が 旗艦 の 「 サ ン ・ フ ラ ン シ ス コ 、 San Francisco 号 」 に 乗船 し、「 サ ン ・ ア ン ト ニ オ、San Antonio 号 」 と 「 サ ン タ ・ ア ナ、Santa Anna 号 」 の 僚船 を 伴って いた。 この 航海 で、ド ン ・ ロ ド リ ゴ の 旗艦 「 サン ・ フ ラ ン シ ス コ 号 」 は、8 月 1 0 日 頃 から 台風 による 被害 を 受 け、船内 へ の 浸 水 も ひど く な り、主 檣 ( し ゅ し ょ う 、M a i n - m a s t ) が 折 れるなど 、台風 による 被害 がますます 大 き くなった。 そ して 1 0 月 1 日 の 未 明、房総半島 にある 上総国 ( かずさの く に ) 岩和田 ( い わ わ だ ) 村 の 田尻 、 現 ・ 千葉県 夷 隅 ( い す み ) 郡 御 宿 ( お ん じ ゅ く ) 町 岩和田 の 沖 で 岩 礁 に 乗 り 上 げ、 沈没 して しまった。 遭 難 し た 「 サン ・ フ ラ ン シ ス コ 号 」 の 乗組員総数 は 376 名 であったが、岩和田村 の 村民 が 総出 で 救助 に 当 た り、生存者 は 3 1 7 名 、死体収容数 1 6 名、行方不明者は 4 3 名 であった。 彼 らは 後 に 徳川家康 が 建造 させ 用意 した 船 で 、目的地 の メ キ シ コ へ 向 かった。( 2-1、家 康 の 意 図 ) 徳 川 家 康 はこの 機会 を 利用 して 、 日本 と スペイン の 植民地 である メ キ シ コ との 間 で 、直接貿易 を 行 う ため の 協定条件 について ド ン ・ ロ ド リ ゴ ( D o n - R o d r i g o ) と 協議 したが、その 仲介役 を 務 めたのが 、フランシスコ 会 の 宣教師 ル イ ス ・ ソ テ ロ ( L u i s - S o t e l o ) であった。 後 に ソ テ ロ は 支倉常長 と 共 に 慶 長 、遣 欧 使 節 を 率 いて 欧州 を 訪 れ 、帰国 の 際 には 彼 らと 共 に マ ニ ラ まで 帰 ったが、支倉 らが 日本 に 帰国 したあと、 キ リ シ タ ン が 禁 教 となった 日本 に 密入国 し、1624 年 8 月 に 肥前国 彼杵郡 ( そのぎ ぐ ん 、現 ・ 長崎県 大村 ) で 火 刑 に 処 せられた ( 5 0 歳 ) 。 豊 臣 秀 吉 は キ リ シ タ ン 禁 教 令 を 発 するなど 、 キ リ ス ト 教 に 対 する 弾 圧 政 策 を とったが、徳 川 家 康 が 天下 を 取 ると 、キ リ ス ト 教 の 布教 を 黙 認 することを 条 件 に 、
フ ィ リ ピ ン が 常 に 日本 との 関係 において 保ってきた 最 大 の 安 全 性 は、日本人 が 太 平 洋 を 渡 れ る よ う な 大 型 帆 船 を 持 って い な い こ と にあった。 さらに 航 海 術 にも 通 じ て い な か っ た 。それ 故、い ま まで 日本人 ( たとえば、豊臣秀吉 ) が マ ニ ラ を 攻撃 しよう と 企 て ても、この 二 つ の こ とで 実行 できなかった のである。 従 って ( 家 康 の 要 求 す る よ う に ) 我 々 が 技 術 者 や 職 工 を 派 遣 して、彼 ら の ために 造 船 技 術 を 教 えるこ とは、自 らの 首 を 絞 めるようなもので、彼 らに ス ペ イ ン 人 を 滅 ぼすため の 武 器 を 与 えるようなものである。と 述 べ て い た。 しか し 家康 は 海外 との 交 易 に 熱 心 で 、1600 年 に 豊 後 ( ぶんご 、大分県 ) の 海岸 に 漂着 した オ ラ ン ダ 船 リーフ デ 号 の 航海士 ウ ィ リ ア ム ・ ア ダ ム ス と 、 ヤ ン ・ ヨ ー ス テ ン ら に 、 西 欧 式 帆 船 の 建 造 を 命 じ た。 1 隻目 は 8 0 ト ン の 船 、2 隻目 は 1 2 0 ト ン の 船 が 完成 し たが、これが 前述 した ド ン ・ ロ ド リ ゴ たちの メ キ シ コ 行 き の 船 に 使用 された 。ウ イ リ ア ム ・ ア ダ ム ス らは、 後 に 家康 から 厚 遇 ( こう ぐ う ) された。 1601 年 以降 徳川家康 は 、安 南 ( あんなん 、 A n N a m 、ベトナム 中部地方 ) ・ スペイン 領 マ ニ ラ ・ カ ン ボ ジ ア ・ シ ャ ム ( S y a m u 、タ イ 王国 の 旧 名 ) ・ パ タ ニ ( P a t a n i 、かつて マ レー 半島 に 存在 した マ レー 人 の 王国 ) などの 東南 アジア 諸国 に 使者 を 派遣 して 、通 商 関 係 (?)を 結 んだ。 1604 年 から 朱 印 船 貿 易 を 実施 したが、これ 以後 1633 年 ( 寛 永 1 0 年 ) の 日本人 の 海外貿易禁止令 まで 、 3 5 0 隻 以 上 の 日 本 船 が 朱印状 を 得 て、 交易 のため 海外 に 渡航 した。 と り わ け 航 海 士 に は 中国人、ポルトガル 人、オランダ 人、イギリス 人 が 任命 されることが 多 かった。 ( 2-2、平 底 船 か ら 、竜 骨 ( キール ) 船 へ ) 遣唐使 が 渡 海 に 使用 した 遣 唐 船 は 堪 航 性 ( た ん こ う せ い 、シ ィー ワー ジネ ス、S e a w o r t h i n e s s 、船 が 航 海 に 耐 えられる 能 力 ) が 低 かったため 、海 難 が 数多 く 発生 し 、当初 は 2 隻 編 成 で 航海 したが、7 ~ 8 世紀 には 4 隻編成 で の 航海 が 基本 となった 。 奈良 唐招提寺 の 建 立 で 知 られる 中国 の 僧 鑑 真 ( が ん じ ん 、688 ~ 763 年 ) は 、12 年間に 5 回 の 日本 へ の 渡航 を 試 みて 失敗 し 、次第 に 視力 を 失 い、天平勝宝 5 年 ( 753 年 ) に 6 回目 で 日本 の 地 を 踏 んだ。 その当時 は もちろんのこと 、 室町時代 (1336 ~ 1573 年 ) の 後期 から 江戸時代 ( 1603 ~ 1867 年 ) の 初期 まで 使用 されてきた 軍船 の 安 宅 船 ( あ た け ぶ ね ) まで 、日 本 では、竜 骨 の 無 い 船 底 が 平らな 平 底 船 を 使 用 してきた。 左 の 写真 は 、船 の 船首尾 方向 の 構造材 である 竜 骨 ( キ ー ル、k e e l ) から 組 み 立 てているところ。西洋 の 船 が 応力 を 竜 骨 や 肋 材 ( ろ く ざ い ) の 構 造 で 支 え 、強 度 を 得 ることで 大型化 したのに 対 し、日本 の 船 は 、板 材 を 「 縫 い 釘 」 と 「 か す が い 」 によって 繋 ( つな ) いで 建 造 してお り、外板 で 応力 を 受 け 持 つ 「 モ ノ コ ッ ク ( m o n o c o q u e ) 構 造 」 であった。 ちなみに 現 代 の 大型 ジ ェ ッ ト 機 は、「 セ ミ ・ モ ノ コ ッ ク 構造 」 が 用 いられている。それは、フ レ ー ム ( f r a m e 、丸 い 胴体断面 の 形 を 保 持 す る 骨 組 み ) と 、そ の フ レ ー ム と 垂 直 に 交 わるように ス ト リ ン ガ ー ( s t r i n g e r 、縦 通 材 ) 、および 強 力 縦 通 材 の ロ ン ジ ロ ン ( L o n g e r o n ) を 通 し て、胴体 の 骨 組 みを 作 り、そこに 外 板 を 張 り 付 けたものである。航 海 術 も 沿岸 の 岬 ・ 島 ・ 山 などを 見 て 位置 を 確認 しながら 進 む 、 地 乗 り 航 法 ( じ の り こ う ほ う 、 沿 岸 航 法 、 C o a s t a l - n a v i g a t i o n ) を 使用 し、天体 を 観測 して 船 の 位置 を 知 る 、 天 文 航 法 ( C e l e s t i a l - n a v i g a t i o n ) の 知 識 や 技 術 が 無 かった 。 ( 2-3、仙 台 藩 の 、ガ レ オ ン 船 建 造 ) ところで 仙台藩 の 初代藩主 伊達政宗 は、
スペイン 国 王 は 宣教師 を 世界中 に 派 遣 し、カ ト リ ッ ク の 布 教 をすると 共 に 、( 国 や 領土 を ) 征 服 する 際 の 「 手 先 」 ( 先 兵 ) と し て いる。 まず、その 土 地 の 住 民 を カ ト リ ッ ク 信 者 に し 、次 に そ の 信 者 を ひそかに ス ペ イ ン に 協 力 させ、 その後 、兵 力 投 入 に よ り 領 土 を 征 服 し 、ス ペ イ ン に 併 合 する。と いう のであった。彼の この 言 葉 と 、 南 蛮 人 が キ リ シ タ ン 大 名 か ら 若 い 男 女 を 安 い 値 段 で 多 数 購 入 し 、 奴 隷 と し て 外 国 へ 売 却 し 、利 益 を 得 て い る 事 実 を 知 っ た こ と。この 二 つ のことから 、 豊臣秀吉 は 1587 年 の バ テ レ ン ( ポ ル ト ガ ル 語 の パ ー ド レ 、p a d r e 、司祭 ・ 神父 ・ 宣教師 の 意味 ) 追 放 令 の 公 布 と 、それに 基 づ く キ リ シ タ ン 弾 圧 を おこなった と い わ れ て いる。 具体的 には 1597 年 2 月 5 日 ( 旧暦、慶長元年 12 月 19 日 )、長崎 における フ ラ ン シ ス コ 会 宣 教 師 6 人 と、日本人 信徒 2 0 人 の 合計 2 6 人 の 、 「 は り つ け 」 を もたら した 、とも いわれて いる。 ( 後 の 日 本 二 十 六 聖 人 ) 政宗 は 家康 にそ の 意図 を 隠 して 大型船建造 の 意向 を 伝 え、暴 風 で 船 が 壊 れ 帰 国 する 船 がな く 仙台 領内 に 滞在 して いた 、 ( 日本近海 にあるとされた ) 金 銀 島 の 探 検 隊 の 司令官 で スペイン 人 の 提 督 セ バ ス テ ィ ア ン ・ ビ ス カ イ ノ ( S e b a s t i a n - V i z c a i n o ) や、幕府 の 船奉行 に 協力 を 依頼 するこ とに した。 |