ズルサ

当時の世相、食糧難

敗戦の年である昭和 20 年 ( 1945 年 ) は、天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、 米 の 収 穫 は 例 年 よ り 4 0 パーセント 近 く も 減 少 し 、明治 43 年 ( 1910 年 ) 以来最悪の不作の年となりました。

しかも敗戦により官僚の統制力が失われ米の集荷も機能せず、農民は収穫 した 穀物 を 政府 に 供出 せずに 闇 の ルート に 品物を 横流 し した 結果、配給米 が 底 をつきま した。1 0 月 初旬、農林大臣 は 東京都 の 備 蓄 米 ( それも 大豆 や 豆 かす入 り ) が 僅 か 3 日分 しかないことを 知 り、驚きま した。

大藏大臣は U P 通信社に対 して 食糧 がす ぐ に 外 国 ( ア メ リ カ ) から 輸 入 されなければ、 1 千 万 人 の 日 本 人 が 餓 死 す る で あ ろ う と 述 べま したが、この誇張 された 数字 は、その 当時間違 いな いものと 受 け 止 められて いま した。

昭和 20 年末から 22 年 ( 1947 年 ) にかけて 日本 の 食糧事情 が 極度 に悪化 して、命の綱の食糧配給も、遅配、欠配が続き、日本政府 も 前述 の 如 く、 餓 死 者 が 出 る こ と を 予 想 し た ほどでした。

東京都 についていえば、食糧 の 遅配、欠配 が 慢性化 して、昭和 22 年 6 月には 食糧配給 の 欠配が 3 0 日にも及びま した。その為 どこの 会社 でも 従業員 は 生産 よりも 生 きる 為 に 日々 の 食糧確保 に 精一杯 で、日本電気 ( N E C ) の三田工場 では 昭和 21 年 5 月 の 出勤率 は 8 割 に 満 たない 状態でした。

デモ隊の皇居乱入 昭和 21 年 5 月 19 日の 「 食糧 メーデー 」 の際には、食糧不足に悩む 「 米 よこせ デ モ 」 の デ モ 隊員 が 皇居内 に 乱入 しま した。その際に 日本共産党、田中精機細胞 の 組合員 が 掲 げた プ ラ カ ー ド には、それまで国民にとって道徳の規範であった教育勅語の文言をもじって

朕 ( ち ん、天皇 の 1 人称 )は タ ラ フ ク 食 ってるぞ、ナ ン ジ 人民 飢えて 死 ね、ギョメイギョジ 、( 御名御璽、つまり天皇の署名捺印の意味 ) と書いてありました。

この男 は 天皇 に対する 不敬罪 で 逮捕 されま したが、敗戦 により 不敬罪 そのものが 無効 となったため、天皇に対する 名誉毀損 の 罪 で 昭和 21 年 ( 1946 年 ) 11 月 2 日に 1 審裁判で懲役 8 ヶ月の有罪判決を受けま した。

ところが 男 が上訴 し、法令改正 に 伴 う 法 の 下 での 平 等 の 原 則 から、上級審での審理の際に男の弁護側が 親告罪 である 名誉毀損 の 罪 の 被害者 である 天皇 を、裁 判 所 に 出 廷 要 求 す る 事 態 が 極 めて 濃 厚 になりま した。

これに 苦慮 した 最高裁判所 は に 対 して 新憲法発布 の 大赦令 による 免訴 の 手続 きをとって、天皇 に 対 する 出廷要求 の 事態 を 危 う く 回 避 し ま した。


クズ芋を買わされる

田舎 に 疎開 した 我 が 家 も 食糧 の 配給 が 滞 ( とどこお ) るようになったため、父親が食糧の入手に苦労 して いま した。ある日 同 じ村 の 農民 が、「 ヤ ミ 値 で 良ければ、さつま 芋 を 売ってやる 」 と言ってきま した。

父親は喜んで自転車に乗ってさつま芋を買いに行きましたが、帰宅後調 べたところ、カ マ ス ( わらで 編 んだ 芋 などの 入 れ 物 ) に 入 っていたのは 上半分 は 普通 の 芋、下 には 収穫後 の 芋畑 に 落 ちて いる 家畜 の エ サ に 使 う 様 な ク ズ 芋 で した。

高 いお 金 を 払って ク ズ 芋 を 買 わされた 父親 は 相手 に 抗議 しま したが、「 買 うときに 調 べなかった お 前 が 悪 い。文句 があるなら 警察 に 行 け 」 と言われたそうです。


だまされる方が悪い、倫理感

当時 は 食糧統制法 があり、正規 の ルート 以外 で 米、麦、さつま 芋、ジャガ 芋などを 売買 すると、罰 せられま した。そのため 泣 き 寝入 りする 以外方法 がなかったそうです。

狡猾な農民はそれを承知のうえで、あくどい方法で人を ダ マ シ テ カ ネ を 稼 いだわけです。我が家の件以外にも、芋を芋俵ごと買ったところ、中には石 コロが沢山入っていた疎開者の例もありました。 石 で 目方 をごまか した わけです。

別な人は収穫量が多いが味が悪いので主に澱粉や アルコールの原料に使う、沖縄 百 号 と 呼ばれた 工 業 用 の さ つ ま 芋 (?) を、普通の芋と偽る農民からだまされて買ったところ、不味くて食べる気がしなかったそうです。

当時 の 農民 は 現代 の 中国 や 韓国人同様 に、 だ ま す 方 よ り だ ま さ れ る 方 が 悪 い という 倫理感 の 持 ち 主 で した 。そ して 被害者 は 常 に、空襲 の 被害 を 受 けて / 避 けて、都会 から 田舎 に 逃 れて 来 た、 ダ マ シ の 手口 に 無知 な 疎 開 者 ( そ か い も ん ) と 決 まって いま した

私の 体験 は 敗戦前後 の 混乱 した 時代 の、しかも 限 られた 地域 のことですが、「 田舎 の 人 は 素朴 で 正直 だ 」 などというのは、農民 の 暮 ら し に 無 知 な 人 が 言 う 言 葉 で 、いつの時代でも ズ ル イ 人間 は 農村 にも、都会同様 にいるものです。

それどころか 自給自足 の 貧 し い 暮 ら しの 中 で、現金収入 の 機会 が 極 めて 少 なかった 当時 の 農村 のほうが、ズ ル イ 人 の割合 は、はるかに 高 かったと 思 います。

私達 一家が住んでいた 納屋 の 持 ち 主 である 親類 は 山林所有者 で したが、その人の 話 では 人 を ダ マ ス 以外 にも 盗 みも 横行 していて、他人 の 山 の 木 を 盗伐 した り、燃料 や 苗床、堆肥 を 作るのに 必要 な 山 の 落 ち 葉 を、無断 で 大量 に 掃 いて 持 ってゆく ヌ ス ッ ト バ キ ( 盗 人 掃 き ) や、隣接 する 山林 の 境界標識 を 勝手 に 移動 しては 土地 の 拡大 を 図 る 者 なども いたので、常 に 監視 の 目 が 離せなかったそうです。

犯行はもちろん同 じ 村内 に 住 む 者 の 仕 業 で 犯人 の 名前 も 判って いたのですが、証拠 がないので 警察 に 訴 えられないとのことで した。 一 見 平 和 そうに 見 えた 農村社会 も 長年 の 貧困 がもたら した 精神 の 荒廃 から、実 は 喰 うか 喰 われるかの 油断 も ス キ もならない 社会 に 他 な りませんで した。

戦前は 凶作 になれば、娘 を 身売 りするのが 当然 とされた 農村 の 貧困生活 の 中 で、彼等 に 正直 さを 求 めること 自体 が 無理 だったのかも 知 れません。

ことわざに 「 衣食足 りて 礼節 を 知 る、貧 すれば、鈍 する 」 と言 いますが、当時 の 日本 に限 らず、今でも 世界 の 貧 しい 国 や、失業者、貧乏人 の 多 い 国 に 行 けば、 旅行者 や 土 地 に 不慣 れな 者 を ダ マ シ テ、カ ネ を稼 ぐ ことが 日常 あたりまえ で、彼等 にとってそれは、「 生 きて 行 く 為 の 生活 の 手段 」 と して、必要不可欠 なのかも 知 れません。


外国農民の ズ ル サ と 金 属 探 知 器

マツタケ

現在日本では 毎年 500 ト ン を 超 える 松茸 を 、中国、韓国、北朝鮮 から輸入 して いますが、1 0 年前には 目方 を ごまかすために、 松茸本体 の 中 に 釘 や 鉛 を 入 れた 物 が 数多 く 発見 されて 問題 になりま した。それ以後は 輸入業者側 が 金属探知機 を 松茸 の 検査 に 使用 して 不正摘発 に 当 たるようになり、不正 が 減少 しま した。

しか しその後 検査 を 中断 したところ、昨年 9 月徳島県小松島の スーパー で売 られた 中国産 の 松茸 から 金 属 棒 3 本 が見つかり、先月には 秋田県内 で 売 られた 北朝鮮産 のものからも、 銅 製 の 棒 2 本 が 発見 されて います。

また 10 月には兵庫県西宮市で 販売 された 中国産 マ ツ タ ケ から 直径 7 ミ リ の 銃弾型 の 金 属 片 6 個 が 埋 め 込 まれて いま した。単位重量当 たりの 価格 が 芋 よりも 格段 に 高 く、 1本 数 千 円 もする 松茸 の 中 に 金 属 を 入 れて 目 方 をごまかす 手法 は、現代 の 日本 では 決 しておこなわれませんが、 敗 戦 直 後 の 日 本 の ズルイ 農 民 達 よ り も 、はるかに大きな 利 益 を 中 国 人 にもたら しま した。

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