遍路旅、その三


女性が語る明治時代の遍路

注:)
括弧内は標準語および注釈

遍路に出た理由

昔は世間を知らん(世の中に出たことのない)娘は、かまど前の行儀(家庭内での行儀)しか知らんちゅうて(知らないからといって)嫁にもらい手がのうて(無くて)のう。

注:)
村落共同体などの狭い社会から一度は旅に出て広い世間の知識や経験を得ることは、娘達にとっては新しいことに対する憧れであり、旅から帰った後はそれが一つの「誇り」にもなりました。

世間をしておらん(世の中を広く見聞していない)と、どうしても考えが狭まうなりますけのう。わしゃ十八才の年に長患いをしてやっと元気になったので、十九の年に四国をまわった(遍路をした)ことがありました。女の友達三人と遍路に出かけました。

伊予(愛媛県)の三津ヶ浜(松山市近郊)に船で上がって太山寺(五十二番札所)に詣って、あれからずっと土佐の国(高知県)の境まで歩きました。もうよく覚えてはおらんが、宇和島の山の中の方は貧乏人が多くて、家はみんな草葺きばかり、それも家の中は地べたに「むしろ」を敷いて世帯をしているものがよけいおりました。床板の張ってある家でも、畳の敷いてある家はのうて(無くて)、大方むしろを敷いておりました。

どこへ泊めてもろても芋ばっかり食わされての、それでもみな親切で宿に困ることはなかったんであります。

土佐の奥は私ら行きませだった(行きませんでした)。土佐は鬼の国ちゅうて、おそろしい所だと聞いておりました。なかなか宿も貸してくれる者もなかったという事であります。それで女四国というのは土佐の国を抜いた三国でありました。

それで伊予(愛媛県)と土佐の国(高知県)の境まで行って、三津ヶ浜(松山市近郊)まで、今度は真っ直ぐに歩いて戻り、それから東をまわりました。三津から東は(豊かで)極楽のようなものでありました。

はぁ、女の遍路の組はわしらばかりでなく、すいぶんよけい(沢山)まいて(詣って)おりました。まいているのは豊後の国(大分県)の者が多うて、わしら道々何組も豊後の女衆に会いました。つい道連れになって、あんたはどちらでありますかってきいてみると、「豊後の姫島であります」とか豊後のどこそこであるますと言うて、お互いに名乗りおうて、それからは二、三日一緒に歩くことがありました。

お接待

わしらカネをもっておらんので、阿波の国(徳島県)と土佐の国(高知県)の境まで歩いて、また戻って来ました。 カネをもっておらんので船へ乗ることはできませだったが、歩く分には宿には困る事はありませだった。どこにも気安うに泊めてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食う物も十分にありました。

お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために遍路に食う物を持ってきて施しをしよりました。そりゃ方々から来ていたもんで、宇和島の方へは豊後(大分県)からたくさん来ておりました。

お寺の境内で置き座の上に「施し物」を置いて、

豊後の国どこぞの者であります、お接待じゃけん受けて下され
ちゅうて遍路に皆くれます。三津ヶ浜の辺りは周防の国(山口県)からようけ行っておりました。食う物がなくなれば、和讃(仏教歌謡の一つ)や詠歌(仏や霊場を称える歌)を家の門口であげて(唱えて)、貰い物をして家を出る時は二円じゃったか持って出たのが、戻る時には五円に増えておりましたで。

貧しかった農山村

伊予(愛媛県)の山の中では
女の子を貰ろうてくれんか?。何をさせて使うてくれてもかまわん、食わして大きうしてくれさえしたらええ
と言われたことがありました。あの辺はよっぽど暮らしに困っておりまっしろう。

注:)
百年前の日本では愛媛県に限らず全国各地の農山村で文明開化の恩恵から取り残され、貧しいどころか江戸時代さながらの生きてゆくのがやっとの暮らしをする人達が大勢いました。

戦災に遭い父母が疎開した栃木県の農村で、昭和二十年(1945年)当時私が見た小作人の貧しい家では、娘遍路が見たと同様に床には畳が無く、代わりに床板の上にムシロを敷いて暮らし、破れたままで殆ど骨組みだけの障子を張り替える費用が無いのか、冬になるとムシロを垂らして寒さを防いでいました。

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遍路の中にも子供の手を引いて歩いているのがたくさんおりましたが、たいがいは貰いっ子じゃったようであります。

注:)
子供が欲しくて貰った者も中にはいるでしょうが、足手まといの子供を連れて遍路をすれば人々の同情や憐れみを受け、お接待(貰い)が多くなるという経済的理由から、子供を道具にするために貰って連れ歩く世過ぎ遍路(職業的遍路)もありました。

(忘れられた日本人、宮本常一参照)

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