土佐は鬼の国ちゅうて、おそろしい所だと聞いておりました。なかなか宿も貸してくれる者もなかったという事であります。それで女四国というのは土佐の国を抜いた三国でありました。
それで伊予(愛媛県)と土佐の国(高知県)の境まで行って、三津ヶ浜(松山市近郊)まで、今度は真っ直ぐに歩いて戻り、それから東をまわりました。三津から東は(豊かで)極楽のようなものでありました。
はぁ、女の遍路の組はわしらばかりでなく、すいぶんよけい(沢山)まいて(詣って)おりました。まいているのは豊後の国(大分県)の者が多うて、わしら道々何組も豊後の女衆に会いました。つい道連れになって、あんたはどちらでありますかってきいてみると、「豊後の姫島であります」とか豊後のどこそこであるますと言うて、お互いに名乗りおうて、それからは二、三日一緒に歩くことがありました。
お接待
わしらカネをもっておらんので、阿波の国(徳島県)と土佐の国(高知県)の境まで歩いて、また戻って来ました。
カネをもっておらんので船へ乗ることはできませだったが、歩く分には宿には困る事はありませだった。どこにも気安うに泊めてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食う物も十分にありました。
お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために遍路に食う物を持ってきて施しをしよりました。そりゃ方々から来ていたもんで、宇和島の方へは豊後(大分県)からたくさん来ておりました。
お寺の境内で置き座の上に「施し物」を置いて、
豊後の国どこぞの者であります、お接待じゃけん受けて下され
ちゅうて遍路に皆くれます。三津ヶ浜の辺りは周防の国(山口県)からようけ行っておりました。食う物がなくなれば、和讃(仏教歌謡の一つ)や詠歌(仏や霊場を称える歌)を家の門口であげて(唱えて)、貰い物をして家を出る時は二円じゃったか持って出たのが、戻る時には五円に増えておりましたで。
貧しかった農山村
伊予(愛媛県)の山の中では
女の子を貰ろうてくれんか?。何をさせて使うてくれてもかまわん、食わして大きうしてくれさえしたらええ
と言われたことがありました。あの辺はよっぽど暮らしに困っておりまっしろう。
注:)
百年前の日本では愛媛県に限らず全国各地の農山村で文明開化の恩恵から取り残され、貧しいどころか江戸時代さながらの生きてゆくのがやっとの暮らしをする人達が大勢いました。
戦災に遭い父母が疎開した栃木県の農村で、昭和二十年(1945年)当時私が見た小作人の貧しい家では、娘遍路が見たと同様に床には畳が無く、代わりに床板の上にムシロを敷いて暮らし、破れたままで殆ど骨組みだけの障子を張り替える費用が無いのか、冬になるとムシロを垂らして寒さを防いでいました。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
遍路の中にも子供の手を引いて歩いているのがたくさんおりましたが、たいがいは貰いっ子じゃったようであります。
注:)
子供が欲しくて貰った者も中にはいるでしょうが、足手まといの子供を連れて遍路をすれば人々の同情や憐れみを受け、お接待(貰い)が多くなるという経済的理由から、子供を道具にするために貰って連れ歩く世過ぎ遍路(職業的遍路)もありました。
(忘れられた日本人、宮本常一参照)