遍路旅、その二

天然痘患者の発生

肥後(熊本県)天草からやってきた五人連れの女性が、四国遍路の帰りに長門(山口県)の笹波(当時の城下町であった萩市の南12キロ)で泊まりましたが、そのうちの一人が疱瘡(天然痘)にかかりました。その当時の天草の風習では天然痘患者が発生すると家族は家から逃げ出してしまい親子でも面倒を見ず、介抱人を頼んで病人を山中に移していたのだそうです。この場合の介抱人とは恐らく以前に天然痘を患ったことがある、すでに免疫のある人だったのでしょう。

彼女たちも病人を笹波の宿に一人残したままにして他の四人は国へ帰るというので、宿の主人が、そんなことは許せないとして萩の城下に飛脚を出して藩へ問い合わせると、病人が治るのを待って揃って帰国させよというお達しでした。それと共に、わざわざ城下の萩から御典医が派遣されて来て病人の手当をしましたが、結局五人全員が天然痘に感染してしまい、そのうち二人が亡くなりました。

その間、藩では病人に一日につき米一升(1.5キロ)を支給し、介抱人二人をつけ、介抱の費用として銭六貫文(約一両相当)を支出してくれました。病気から回復した三人の女性は帰国する際に、亡くなった二人が持っていた金、衣類などを寺に奉納するために宿の主人に頼んで行きました。あとになって不審な点があるので役人が主人を調べると、寺へ納めるべき金品は女性達が持って行ったというので、すぐに後を追いかけて連れ戻しました。

女性達を取り調べたところ、宿の主人に確かに渡したというので家宅捜索をした結果、主人が隠し持っていたことが判明しました。また藩が一日につき一升支給した米も、病人には少ししか与えずに残りを横領していたことも発覚し、主人は横領の罪で、奉行所に送られました。こうして決着がついたので、藩では亡くなった女性の金品を女達の手に戻し、病後のことゆえ二人の男を荷物持ちに付けて、郷里の天草まで無事に送り帰しました。

江戸時代の社会福祉、行政の対応

領民ではなく単なる領内通過の旅人に過ぎない危険な伝染病患者を厄介払いするどころか、かなりの費用を負担した上で回復するまで介抱させた役所の対応については、二百年前のことではなく、社会福祉や社会保障制度が充実した現代のスカンジナビア諸国(スウェーデン、ノルウェー)の話でも聞くような気がします。

平成十五年春の台湾人 S A R S 感染者の対応に揺れた日本の行政当局の後手に回った対応と、天然痘遍路への対応とを比較した場合、どちらの対応が優れていたかは、言うまでもありません。

前頁で述べた村継ぎの件もそうでしたが、現代の医療行政、社会福祉制度の下でもなかなか実施が困難な行政の対応を、二百年前の幕藩体制下の日本で、医療や帰国支援も含めた手厚い、しかも迅速な対応がおこなわれていたことに深い感銘を受けました。

江戸時代の封建制度、厳しい身分制度のもとでは社会福祉(?)に類する行政の対応は存在しないとこれまで考えていました。しかしそれは間違いであり、我々の祖先が作り上げた行政の制度と運用には血が通っていて、現代の制度以上に優れていた面もあったことが理解できました。



次頁へ 目次へ 表紙へ 前頁へ