遍路旅、その四

西国巡礼

青岸渡寺の三重の塔 紀伊半島東側の那智勝浦町には熊野那智大社がありますが、その別当寺として那智山、青岸渡寺(せいがんとじ)があります。

西国巡礼とはそこを一番札所とし、近畿地方周辺にある観音菩薩霊場三十三ヶ所を巡り、岐阜県の谷汲(たにくみ)山、華厳(けごん)寺で終わる巡礼のことで、四国遍路よりも古い時代からおこなわれていました。
(写真は一番札所、青岸渡寺にある三重の塔と、右は那智の滝)

四国遍路と西国巡礼との違い

四国霊場八十八ヶ所を巡る四国遍路と前述の西国霊場を巡る巡礼の違いを一言でいえば、多少の例外はあるものの経済的なゆとりの有無でした。四国遍路には、村落共同体での居場所を失った身体障害者、ハンセン病などの不治の病人、犯罪者、乞食など社会の底辺に暮らす人達が、生活の手段として職業的遍路(遍奴、へんど)の道を選び、人々の「お接待」を受けながらの生活をしました。

しかし西国巡礼においてはお接待の社会習慣がなく、従って旅の費用をある程度準備したうえで個人で、あるいは村や職域、時には趣味の同好の士で仲間を作り、数人から数十人の団体を組んで巡礼をする場合もありました。そして巡礼の途中では、物見遊山の要素もかなり含まれていました。

江戸時代になると庶民の生活に余裕ができてお陰参りと称して、あるいは一生に一度はお参りするものとして伊勢参りが盛んになりました。伊勢神宮に参詣したあとは直ぐに故郷に帰らずに、話のタネにと那智まで足をのばして西国霊場の一番札所から可能な所まで寺々を参拝巡礼する人や、奈良、京都、大阪見物をする人達も少なからず存在しました。

しかし現在では四国遍路が盛んであるのと比較して、西国霊場を徒歩で巡礼する人は極めて希になりました。その理由は物見遊山、名所見物の目的を兼ねて巡礼をする必要が最早なくなったこと。霊場間の距離が全般的に遠く、しかも旅の途中で泊まる巡礼宿も無くなり、前述のように四国遍路に見られるお接待などの社会習慣が無いなど、巡礼者の経済的負担が大きいこともありました。

1:田辺町を通った巡礼の数

田辺町道しるべ 江戸時代に西国観音霊場を巡礼した人々の数を示す一つの資料が、紀伊半島西岸の和歌山県田辺市にあります。ここは西国霊場一番札所、那智の青岸渡寺から和歌山市郊外にある二番札所、紀三井寺に行く巡礼道の途中にあり、また平安の昔から熊野三山を訪れる熊野詣での街道筋でもありました。

田辺町の町の入り口の三叉路に今も立つ道しるべには、右きみい寺(紀三井寺)、左くまの道(熊野道)とあります。

資料とは当時の町役人が交代で毎日欠かさず書き続けてきた、田辺町大帳という町の公式記録のことですが、それによれば享保元年(1716年)の夏、六月二十四日から二十九日の晩まで、田辺に泊まった巡礼の数は四千七百七十六人でした。一晩当たりにすれば八百人弱というかなりの数になります。

しかし年間を通してこれだけの通行量があったというのではなく、

このところ巡礼が大勢通るので、火の用心をすること。またさまざまな品物の値段が高騰しないようにすること。
という注意書きが一緒に書き記されていることから、理由は不明ですが通常よりも多い巡礼の数であったようです。それから二十年二後の元文三年(1738年)の同じ六月のこと、田辺地方が大風雨に襲われたため、二十六日夜から翌朝にかけて田辺に宿泊していた全巡礼を町内の三つの寺に避難させましたが、その数は七百八十人でした。

この数字を見る限り二十二年前の人数とあまり変わっていませんでした。なおこのとき寺に避難した巡礼達に「白米がゆ」の炊き出しがありました。米は町奉行が負担するはずでしたが、寺の方からそれを辞退したといういきさつがありました。

2:村継ぎ(リレー方式による、病人輸送)(その一)

三頁前(遍路旅その一)において記した村継ぎの制度は四国遍路だけでなく、西国巡礼においてもおこなわれていました。文化十年(1813年)十一月のこと、美濃の国(岐阜県)の広蔵という者が巡礼にやってきて、田辺に宿をとったところで病気になりました。宿から養生のため巡礼をしばらく逗留させる旨の届け出がありましたが、そのうちに当人から村継ぎで国元(岐阜県)まで送り届けて欲しい旨の願いが出されました。

早速その願いが聞き届けられることになり、一通の送り状が町の年寄り(世話役)によってしたためられました。そこには広蔵を継ぎ送りによって送り届けることになった経緯が簡単に述べられたあと、「諸国村々宿々の御役衆中」に宛てて、

宿々村々御憐憫(ごれんびん)を以て送り届けて下さい。また路銀の貯えもないようなので、配慮のうえ、無事帰村できるように御取り計り下さい。
と書き添えられていました。

3:村継ぎ(その二)

村継ぎの対象になったのは西国巡礼だけではありませんでした。文化二年(1737年)那賀郡大井村岩蔵の母「ふじ」は熊野権現に参詣のためやってきて、田辺で足が痛くなって歩けなくなり、村継ぎで郷里へ返されました。この時は後になって先方の大庄屋から丁重な礼状が届きました。

4:村継ぎ(その三)

反対に田辺から巡礼に出た者が村継ぎで帰された例もありました。北新町の谷屋全六は文化九年(1744年)の六月に西国巡礼にでかけたところ、三重県熊野有田浦で足痛のため旅を続けることができなくなり、やはり村役人に願い出て、村継ぎで帰されました。このようにして村継ぎ(村送り)は、毎年のように数件ずつ起きていました。

5:巡礼の世話(その一)

文化十年(1745年)四月のこと、江戸八丁堀の巡礼が田辺の町を通りかかった際に病気となり、道端で苦しんでいるのを浜の番人が見かけ、保護しました。しかしその場所が下長町と湊村の境界付近でしたので、村方と町方のどちらで面倒をみるべきか、という問題がおきました。

結局話し合いのうえで、湊村と下長町が折半で費用を負担することになり、病人のために小屋掛けをして、そこで巡礼を養生させましたが、巡礼は七日間養生して病気から回復したので無事に出立することができました。

6:巡礼の世話(その二)

元禄八年(1695年)のこと、伊勢国からやってきた巡礼の家族を、町がしばらく養った例もありました。久左右衛門という男が妻と子供三人と共に巡礼中に、夫の久左右衛門が病気になり歩行ができなくなりました。久左右衛門は脇差しを一振り持っていたので、これを金に換えて歩行不能者を運ぶ居座り車(いざり車)を作ってもらいたいと言いました。

それに対して町では職人に車を作らせると共に、飯米三升ずつを家族に与えることにしました。

7:助け合いの仕組み

田辺町の資料を見る限り江戸時代の旅は、それほど危険ではありませんでした。巡礼の場合は旅が長期にわたることもあって、ときには病気になり、あるいは足のケガなどにより旅の継続が困難になる場合が起きました。しかも懐具合は良いものではなく、そのような巡礼や旅人たちに対して、江戸時代の社会は全国に及ぶほどの広い範囲で、村継ぎをはじめとする助け合いの制度、仕組みを持っていました。

田辺のように多くの巡礼が通過する町では、その互助システムは費用の面でおそらく町の負担が大きかったと思いますが、しかし田辺の人達も一旦旅に出れば、緊急時には互助システムの恩恵にあずかり、助けられて無事に帰郷することが出来ました。

平安時代に始まった霊場巡礼は最初は修行僧、修験者などの旅のプロによりおこなわれ、次いで庶民の参加により何世紀にもわたり営まれ、多くの巡礼が旅に出るようになりました。その陰には万一の場合に巡礼や旅人の安全を守る優れた社会の仕組みがあり、病人や、ケガ人の治療、養生に当たる医療制度が存在し、 時には患者の求めに応じて歩行困難者を寝たままで郷里へ無料で輸送するという、相互扶助の対応が幕藩体制下の社会に存在したからでした。(列島に生きた人々参照)


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