遍路旅、その一

八隅廬菴(やすみ、ろあん)が文化七年(1810年)に「旅行用心集」を書きましたが、それによると

旅は若輩(じゃくはい)の能(よき)修行なりといひ、又諺(ことわざ)にも愛す可(べ)き子には旅をさすべしとかや。

実(げ)に貴賤(きせん)共に旅行せぬ人は、件(くだん)の艱難(かんなん)を知らずして、唯(ただ)旅は楽(たのしみ)、遊山(ゆさん)の為にする様に心得居(こころえおる)故、人情に疎(うと)く人に対して気随(きずい=自分の思うまま=わがまま)多く、陰(かげ)にて人に笑指(わらいゆび)ささるることが多かるべし

と述べ、旅こそ若者のよき修行道場であると教えています。
しかしフランスの哲学者、ジャン・ジャック・ルソーによれば、旅をすることの意味や効用について、
旅で観察するためには、見る眼を持っていなければならない。旅の仕方を心得ていなくてはならない。考える技術を知らなくてはならない。旅をしても自分で「見る」ことが出来ない人が多い
と、「人間不平等起源論」の中で述べています。

遍路という資格試験

その一、男性の場合

かつて京都の物集女(もずめ)村(現京都府、向日市ムコウシ、物集女町)では、十代の若者達は、西国巡礼を体験しないと、嫁をもらう資格がないという習慣が、江戸時代から戦後しばらくの間まで続いていました。

西国巡礼の若者 この村では三年に一度、未婚の男性(十七才から十九才まで)の十数名が、同行(どうぎょう)と呼ばれる若衆組を作り三月下旬に、西国巡礼の旅に出るように義務づけられていました。

この村の若者にとっては一世一代の成人式に当たるため、親たちはどんな工面をしてでも費用を捻出しようとするし、借金をした場合でも貸した家は利子を取らぬのが習慣でした。

出発に際して三年前に巡礼を済ませた先同行(せんどうぎょう)と呼ばれる先輩達から、新同行(しんどうぎょう)と呼ばれる後輩へ道中日記が渡されて、巡礼に出る同行の若者達は、この日記に書いてあるのと全く同じ行動をとらなければなりませんでした。

例えば、那智山から湯の峰温泉に一泊した翌日は、大きな竹筒に入れた梅干しと「にぎりめし」だけで、和歌山県田辺町までの十八里(72キロ)の山道(中辺路、なかへじ)を一日で強行軍しなければならないとも書いてありました。

この巡礼は村落共同体の構成員である男としての一種の資格試験であり、換言すれば十代後半における通過儀礼でもありました。写真は昭和40年(1965年)当時の「西国巡礼に出た同行の若者達」のものです。

その二、女性の場合

嫁入り前の女性も一度は遍路を体験しなくてはならないという習慣は、江戸時代から戦前まで各地に見られました。昔の人の話によれば菜の花の咲く三月の初め、赤色の錫杖を持った老人の「先達」に連れられた十数名の娘たちが遍路道を歩いている姿は、四国の春の風物詩でした。

とくに目を引いたのは、毎年訪れる腰巻き、手っ甲、脚絆、手拭い、などもすべて藍色に染め抜いた揃いの遍路姿をした「讃岐の伊吹島の娘遍路」や、伊予ガスリを着た、「宇和島の娘遍路」の一団だったそうです。

最近では嫁入り道具の一つとして学歴や職歴、各種資格などがありますが、かつては遍路に行った「しるし」である納経帳を持っている娘は、信仰心が厚い証拠であり、肉体的にも健康で、遍路をしたことにより忍耐強くなり人間ができているとして、嫁をもらう側からも歓迎されました。

その為に嫁入り前に遍路をさせるという習慣は、単に四国地方ばかりでなく、四国対岸の山陽道の諸国にも見られました。また縁談を断る際に「うちの娘はまだ遍路に行かせていませんから」というのは、相手に害のない口実でもありました。その当時遍路に行くことが、一人前の女性の資格と見なされていたからでした。

逆にいえば「あの娘はまだ遍路にも行っていない」ということで、花嫁候補から失格する場合もありました。

女性にとって千二百キロの険しい道を、六十日から九十日かけて歩き通すのはたいへんなことで、しかもその当時、食事付きの旅籠は一部の城下町を除いては皆無でした。そのため、一泊につき六、七文の木賃宿に泊まり、道中で買い求めた食糧で煮炊きをする不便さに耐えねばなりませんでした。

格安の遍路宿ではセンベイ布団で雑魚寝をさせられ、垢で濁った風呂にも入らねばならず、裕福な家庭で育った乳母日傘(おんばひがさ)の箱入り娘にとっては、巡礼の旅は世間の現実である貧困生活を自分の肌で体験する機会でもありました。

また娘達にとっても、一時的にせよ親の庇護や生まれ故郷から遠く離れて、広く世間の様子を知る絶好の機会でもあり、道中での困苦欠乏、苦難に耐える精神修養や修行の場でもありました。

遍路と病気

健康な者でも暑さ、寒さ、風や雨の中を毎日歩き続けると、とかく身体に故障が起きるものですが、まして路銀もなく、修行(托鉢)やお接待による金銭や食物、お米を頼みにして遍路を続ける人達にとっては満足な食事が得られないために、慢性的な栄養不良と過労から抵抗力を失い、病気になる人もかなりありました。

遍路道に沿った村々では行き倒れの遍路をみかけた場合には、庄屋か村役人に届けて近くの民家か小屋に寝かせて、当地の五人組の者が粥や飯を与えて介抱しました。なかには病人遍路のために特別な小屋を設けていた村もありました。

ある病人遍路の死

貞享四年(1688年)に讃州(讃岐の国)多田郡中村(現香川県善通寺市中村町)の久右衛門という遍路が六月十一日に土佐(高知県)の宿毛に来ましたが、病気にかかったので医者に診せ、地下人(下級農民)に養生させたところ、久右衛門はもう病気が治ったから故郷へ戻りたいと言いました。

六月二十五日に宿毛から送り出しましたが、翌二十六日に佐賀村(現高知県土佐郡佐賀町)で死亡しました。久右衛門には所持品が少しあったので、佐賀村庄屋から国元讃州中村の庄屋に仔細書状(詳しい事情を書いた書類)を送りました。

ちなみに宿毛から佐賀までは四十キロ以上あり、坂道の多い道です。一時はかなり重病と思われた久右衛門は本人が「病気が治った」といっても、他人から見れば旅をするには未だ無理なことは分かっていたはずです。

病人に対して村から早く立ち退いて貰いたい気持ちと、それまで二週間も村人の介抱を受け、これ以上の迷惑を掛けたくないとする遍路の気持ちから、病をおしての無理な出立だったと思います。気の毒なことでした。

病人遍路の輸送

天明七年(1787年)九月に出雲国島根郡加賀浦岩地村のしくと「とよ」の二人の娘が遍路に出ました。翌年一月に阿波国那賀郡山口村(現徳島県阿南市)に来たときにしくが激しい腹痛に襲われ倒れてしまいました。幸い親切な村人に助けられて医者にも診てもらい手厚い看病もしてもらいましたが、病気が治りませんでした。

「何とぞお慈悲の上、国元へ御送り戻し下され候様(そうろうよう)、願い奉り候」

竹製運搬具しくは村役人に嘆願しました。その結果彼女は「村継ぎ」で故郷へ送り返されることになりました。

村継ぎとは村から村へとリレー式に病人などを目的地まで運ぶ事ですが、十八世紀の日本では行政の対応により、このようなことが可能だったのです。

しくは山口村で三十八日間病気療養した後に、青駄(あおだ)という竹製の運搬具に載せられて運ばれて行きましたが、それには

女壱人、道筋村々にて心付けられ、食事又は行き暮れ候節(そうろう、せつ)は、宿さし支(つか)えなきよう御手配なさるべく候

と道筋に当たる庄屋達に宛てた添え状が付けられていました。

つまり病人を青駄で運ぶ「人の手配」は勿論のこと、病人の食事、宿泊の手配に至るまで、途中の村々の庄屋に宛てた添え状により、迅速、円滑な引継ぎが行われたのでした。

現在の徳島県の阿南市から難所の山、坂を越え、丸亀から瀬戸内海を船で渡り、中国山脈を越え、鳥取県の米子の近くの自宅までの距離を、二十三日間かけて無事に寝たまま運ばれました。

多数の村の境界は勿論のこと、幕藩体制下での藩領の垣根を超えた行政当事者の迅速な事務引継ぎと輸送作業の見事な対応、しかも無料という困難な条件下での仕事を可能にしたのは、村役人、庄屋、奉行所などの役人の職務上の義務感に基づく判断だけでなく、娘の病人遍路に寄せる同情からも、このような処置がとられたのでした。


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