昔の旅、その二
旅の心得その一1:道連れの必要性「旅は道連れ世は情け」といいますが、旅をする際には一人旅をなるべく避けて、頼りになる道連れと共に旅をすることが必要でした。実際にむかしの旅は風雪や険路、道路や宿泊設備の不備と共に、道中には山賊、雲助、胡麻の灰、追い剥ぎ、スリかっぱらい、一人旅の男を狙った美人局(つつもたせ)などの、危険や犯罪による被害との隣り合わせの旅でもありました。 江戸時代の代表的戯作者で「南総里見八犬伝」などを書いた滝沢馬琴は旅行記の中で、いったん旅へ出たら敵地だと思い、寸時も油断をするなと戒めています。 そのためには道連れが必要であり、しかもそれは親類縁者か、信用できる知人などに限り、間違っても道中で接近してきた者と、連れだってはならない、と当時の道中案内に書かれていました。 旅籠の部屋には昔からカギが無く、襖(ふすま)や障子で仕切った隣室には見ず知らずの他人が泊まり、混雑すると他人と相部屋にされることもありました。入浴中に有り金を残らず盗まれる危険を避け、また就寝中にも枕探しの被害に遭わないためにも、身元のしっかりした連れが必要でした。
2:足ごしらえ「わらじ」は銭を惜しまずに良いものを履くことでした。足が頼りの歩く旅なので、足を痛めぬように、足に合った丈夫な「わらじ」を履く必要がありました。「わらじ」は普通はワラで作られていましたが、高価なものでは藤の皮や布製のものもありました。ワラで作られたものが六文だったのに対して、高級品は三十二文もしました。
3:水と食物について土地が違えば水も違うので、腹をこわさぬように生水はなるべく飲まぬようにして茶店のお茶を飲み、昼の食事も満腹するまで食べずに飯は一、二杯にとどめること。腹が減ったら何度にも分けて食べることを薦めています。これは運動の最中に血中の糖分を順次補給する意味からも、医学的にも納得できる方法でした。
4:近道や海路を避けよとかく近道は山中の茂みを抜け、あるいは人通りの少ない道を通るので山賊、追い剥ぎが出没する危険なコースでもありました。 また幕府や大名などの監視の目が届きにくい辺境の土地や港には、丹後国由良地方の伝説に登場する山岡太夫のように、安寿(あんじゅ)姫と厨子(ずし)王やその母親を越後の柏崎で拐かした「人さらい」や、悪質な船頭のいる誘拐船が横行しました。 ちなみに森鴎外の小説、山椒(さんしょう)太夫はこの伝説を題材にしたものです。 彼等は言葉巧みに土地に不慣れな旅人を騙しては船に乗せ、女性を次の寄港地で売り飛ばし、男は財布、持ち物や衣類をはぎ取ると海へ投げ込むような悪者もいました。
5:旅は早立ち、早着きにせよお江戸日本橋七つ立ち、初のぼり−−−、高輪夜明けの提灯消す−−−という正月によく聞く歌(曲)があります。 その当時は日の出を明け六つ、日の入りを暮れ六つと定め、日出没の時刻を基準にして昼夜の長さを六等分する不定時法を採用していました。春分、秋分以外は昼と夜の長さが違うので、同じ一日の中でも昼間の一時間と夜間の一時間の長さが異なりました。 季節の変化により日出没の時刻も当然変わりますが、七つとは今でいえば午前四時頃のことです。 未だ暗い午前四時頃に日本橋を発って年の初めに東海道を京へ上って行くと、芝の高輪辺りで夜が明けたので使用していた提灯を消したという意味ですが、旅は早朝に宿を発って陽のあるうちに歩くのが旅人の智恵でした。つまり足下の明るいうちに歩けば安全であり、長距離を行くことができるからです。 夕方は早めに宿に着けば、混雑を理由に宿泊を断られることもなく、入浴も風呂の湯が汚れないうちに済ませることができました。
注:) それによれば、 一、途中より道連れを同道の体にて泊まり給うべからざる事。とあり、心得の大半は防犯や、旅でのトラブルの回避について記されていますが、このことから当時の旅の治安はあまり良くなく、旅行中は枕探しなどの盗難、街道に巣食う雲助、ゴマの灰、美人局(つつもたせ)、睡眠薬強盗など、現在の海外旅行並みの注意が必要であったことが分かります。
注:1)
注:2)
注:3)
注:4) 日本で同様の犯罪をつつもたせというのは、「なれ合い間男(まおとこ)」のことを博徒の隠語で「筒持たせ」と呼んだことに由来します。
遍路の心得前述の如く旅する者の心得について主に防犯対策の面から述べましたが、それ以外に「道中は修行なり」とする遍路の心得について、西国巡礼道中細見大全には、以下の如く述べられています。注:)大全とは漏れなく記したという意味です。
貨幣のことおカネについて、徳川幕府は三貨(さんか)制度を採用していました。すなわち、金貨、銀貨、銭貨(単位は文、もん)という性質、単位の異なる三種類の貨幣の使用です。金貨は高額の支払いに使用しましたが、銀は一分銀などの銀貨(計数貨幣=その数を数えることができる貨幣)として支払うことも、また銀塊の重さ(匁=もんめ)で支払う秤量(ひょうりょう)貨幣(例えば銀十匁など)としても支払いに使われました。 その場合は取引の度に銀塊を秤(はかり)で計る不便を無くすために、予め目方が知られている丁銀(ちょうぎん)、豆板銀(まめいたぎん)などの銀塊を使い目方で支払いました。旅先などでの少額の支払いには銭貨(びた銭)が使用されました。
金貨には大判、小判、分判(ぶはん)の分け方がありますが、小判はその重さや金の含有量とは関係なく基本通貨として使用されました。小判一両の四分の一の値に相当する金貨を一分金(いちぶきん)と言い、またそれの四分の一を一朱金(いっしゅきん)とする四進法を採用していましたが、これは領内に金山を持っていた甲斐の武田信玄の貨幣制度を踏襲したものとされています。 銀貨についても一分銀、一朱銀、二朱銀が作られましたが、関東では主に銀貨を使い、関西では金貨の使用が普通でした。東京の銀座は明治一年(1868年)に廃止されるまで、幕府の銀貨の鋳造などを行っていた所です。 旅人に最も縁の深い銭貨については小判一両が、びた銭四千文に相当しました。(慶長から元禄時代にかけての相場)、旅籠、茶店の休憩、飲食代などの支払いは普通びた銭で支払いましたが、参考までに文久元年(1861年)頃の旅籠の泊まり賃(二食付き)は三百文(約千二百円)でした。 しかし旅人を悩ませたものに、各地方や藩ごとの通貨制度の違いがありました。藩によっては藩札と同じように、その領内でのみ通用する鉄銭(硬貨)を使用していて、そういう藩では幕府の正銭(寛永通宝などの、幕府が公式に貨幣としての通用を認めた銭)が通用しない場合が多くありました。 しかもある藩で買い物をした際の釣り銭を鉄銭で貰っても、隣の藩ではそれが通用しないのが普通でした。例えば南部藩内では隣の仙台藩の鉄銭だけでなく、幕府の正銭である百文銭や、二朱金も通用しないなどの有様で、正銭を持っていてもその地方で通用する銭が無いために、食事にも不便をする場合もありました。
一両の換算価値一両が現代の価値でどれほどになるかと言えば、いろいろな計算方法がありますが、一例として当時の「米」の購入価格を基準にすれば、「川越について」の項で述べたように川越人足の代金百文で、当時は米一升が買えました。一両の「びた銭」に対する換算相場は当時四千文でしたから、一両で米が四十升買えたことになります。 ところで平成11年度政府の標準米買い入れ価格は六十キロ(昔の米一俵)(=四十升)当たり一万六千円でしたが、この事から一両の価値を現代の貨幣価値に換算すれば約一万六千円になります。 これからすれば、一分とは四千円、一朱とは千円、びた銭一文は四円に相当することになります。当時の刑罰では十両盗めば死罪と決まっていましたから、十六万円の盗みで死刑という、かなり厳しい刑罰でした。
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