参勤交代と 大名行列 ( 続き )
[ 8 : 徳川幕府の軍役令 ]江戸時代初期に幕府は軍役令 ( ぐんやくれい ) を定め、大名やその家臣である武士に対して非常時に備え最低限用意すべき武器や馬 ・ 人数を規定しました。それにより大名やその家臣は知行高に相当する数の家来や 奉公人 [ 足軽 ・ 中間 ( ちゅうげん ) など ] を召し抱える必要がありました。 参勤交代の場合には軍勢の移動 つまり行軍とみなし、禄高や家の格式に従って定められた数の、 槍持ち ・ 弓持ち ・ 鉄砲持ち ・ 騎乗の場合には馬の口取り ・ 草履取り ・ 荷物持ちなどの従者から成る行列を組むことが必要でした。( 8-1、大名の従者数、享保 6 年 1721年 制定 )
注:)
( 8-2、千石 以上の武士の従者数 )
( 8-3、軍役令による、装備 人数 、寛永10年、1633 年制定 ) 下表は、200 石から 900 石までの武士に対する、供の人数や武器の数を詳細に規定したものです。
( 8-4、最少の供連れ、供そろえ ) しかし時代が下るにつれて世の中が平和になると、軍役負担が次第に軽減されていきました。ちなみに最少の供連 ( ともずれ、供そろえ ) は侍の身分で最下位に当たる 徒 ( かち ) の 四供 ( よつとも ) と言われるもので、徒 ( かち ) の身分である武士が正式に外出する場合には、槍持ち 1 人 ・ 挟み箱 1 人 ・ 侍 ( 足軽 ) 1 人 ・ 草履取り 1 人 の合計 四人の従者 を供にする規則でした。 徒 ( かち、徒士とも書く ) とは、将軍の お成り( 外出 ) ・ 大名の登城や参勤交代のときに、徒歩で 行列の先駆 ( せんく、さきがけ ) を務める役目でしたが、昇進して初めて供を連れる身分になった武士は、 槍持ちを初めて連れてふり返りと川柳にあるように、晴れがましい気分だったのに違いありません。 当初、 家来や奉公人 [ 足軽 ( あしがる ) ・ 中間 ( ちゅうげん )] などの供給源となったのは、1600 年に起きた天下分け目の 「 関ヶ原の戦い 」 その後の 1615 年の 「 大坂の陣 」 で豊臣家が滅亡したため、豊臣方 ( 西軍 ) の大名家が多数取り潰しになり、職を失った下級武士や武家奉公人などが 「 浪人 」 となって就職先を求めました。 時代が経過すると近郊に住む百姓の次男 ・ 3 男以下の、村にいては耕す土地が無く喰えない連中の都市流入者たちにより、とって代わりました。 [ 9 : 通日雇 ( とおし ひよう ) ]大名行列は家臣やその家来たち ( つまり家来の家来である陪臣、ばいしん、又者 = またもの ) だけで構成されていたのではなく、 通日雇 ( とおし ひよう ) と呼ばれる臨時雇いの 足軽 ・ 中間 ( ちゅうげん ) ・ 小者 ( こもの ) ・ 人足などが、 大名行列人数の 約 三分の 一 を占めていました 。 参勤交代には膨大な荷物を国許から江戸まで運び、江戸から国許へ運び戻すという 「 物流 システム 」 を伴いましたが、 記録によれば加賀 前田家 103 万石の行列は、 旅で大名が使用する 「 浴槽 」 や 「 漬け物樽と重しの石 」 まで運びました。 江戸初期には 宿から宿へ リレー方式で運ぶ宿継 ( やどつぎ ) 人足が担当していましたが、 需要の増大と経費削減の要請から、次第に専業化していきました。 通日雇 ( とおし ひよう ) とは、大名 ( 武家 ) の参勤交代や公家の旅行に随伴 ( ずいはん ) して荷物の搬送を請け負う人足であり、 大名家に対して通日雇の供給を請け負う専門の業者である江戸六組 ( むくみ ) 飛脚問屋に加盟していました。 東京両国 ・ 国技館のそばにある 江戸東京博物館の資料、「 飛脚問屋の米屋久右衛門家 文書 」 によれば、 米屋 ( よねや ) は 桑名藩 松平家 11 万 3 千石の参勤交代時の荷物輸送を請け負っていましたが、それだけでなく 行列を構成する人員 も手配していました。安政 6 年 ( 1859 年 ) の資料によるその数は、
[ 9-1、人宿 ( ひとやど ) ] 本来の意味は旅館や 「 旅籠、はたご 」 のことですが、江戸時代には男女の奉公人希望者に対して、手数料 を取って身元保証をすると共に仕事の紹介をする業者を 人宿 と呼びました。 町家については 一季居( いっきおり、一年契約 ) の雇い人が対象でしたが、大名の登城や武家の公的外出の際に 槍持ち ・ 先箱 ( さきばこ ) 持ちなどの 「 ひげやっこ 」 や 足軽 ・ 中間などの、例えば 当日限りの 人財派遣 を扱うのも人宿でした。 ところで俳人の 正岡子規 ( 1869~1902 年 ) の父 正岡 隼大 常尚 ( はやた つねなお ) は、伊予 「 松山藩勤仕録 」(1863 年 ) によれば、 禄高 14 石 で大小姓として名前がありました。 禄高から見れば下級武士の身分ですが、1 石とは 一人が 1 年間に食べる米の量であり、米俵にすれば 2.5 俵になります。 禄高 14 石を換算すると 米 35 俵 になりますが、これを現在の米価 ( 注 参照 ) に換算すると家族をようやく養えても、前述した徒 ( かち ) の四つ供 ( 4 人 ) は養えるはずがありません。そこで必要な時には人宿に、人材派遣を頼むことになります。 注 ; 米価 ) 平成 25 年産米の相対取引価格( 全国の出荷業者における国内産米穀の取引の状況、平成 25年 12 月速報 ) 玄米 60 キログラム ( 米 1 俵 ) 当たりの価格、 [ 10 : 茶壺道中 ]日本に茶の種子がもたらされたのは鎌倉時代の 1191 年のことで、禅宗の僧で後に臨済宗の開祖となった 栄西 ( えいさい 、1141~1215 年 ) が、中国の 「 宋 」 から持ち帰ったと言われています。栄西は種子と共に宋の時代の抹茶法 ( 茶の飲み方 ) を伝えています。 彼は現 ・ 京都市右京区 栂尾 ( とがのお ) にある 高山寺( こうさんじ ) の明恵上人 ( みょうえ しょうにん、華厳宗の中興の祖 ) に、茶の種子を贈りました。明恵上人が高山寺の境内において日本で初めて茶の栽培をすると共に、気候 ・ 土質が茶の栽培に適した山城国 ( やましろのくに ) ・ 宇治の地を選んで茶を植えたので、これが 宇治茶の始まり と伝えらています。 ところで江戸時代には幕府が毎年 茶道頭 ( さどうがしら ) 以下に命じて、宇治の新茶を納める茶壺を将軍家に献上しましたが、その茶壺を運ぶ行列を茶壺道中といいました。 茶壺道中は 五摂家 ( ごせっけ、鎌倉時代以降、関白に任ぜられる高貴な家柄の、近衛 ・ 九条 ・ 二条 ・ 一条 ・ 鷹司家 ) や 宮門跡 ( みやもんぜき、寺院格式の一つで、古くは法親王 ・ 入道親王が住職となっていた寺院で、仁和寺 ・ 輪王寺 ・ 青蓮院 ・ 知恩院など ) に準じる格の高いものでした。 宇治へ 採茶師 を初めて派遣したのは慶長 18 年 ( 1613 ) のことで、 茶壺道中が制度化 されたのは寛永 10 年 ( 1633 年 ) のことでした。 毎年 4 月下旬か 5 月上旬になると、宇治から茶葉の生育状況の報告を受け、茶壺 付添人ら ( 8 人から 14 人 ) が茶壺ともに江戸を出発しました。茶詰めは採茶師が宇治に到着してから 9 日目より、茶道頭 立ち会いのもとでおこなわれました。 茶詰めを終えると茶壺は封印され、羽二重 ( はぶたえ ) で包み、さらにその上を綿入れの帛紗 ( ふくさ ) で包み、長棒駕籠の中に箱を乗せ、茶壺をその中に納めるというもので、その取り扱いには細心の注意が払われました。 御茶壺道中は徒歩頭 ・ 茶道頭 ・ 茶道衆のほか茶壺の警備の役人など、八代将軍 吉宗 ( 在任 1715~1745 年 ) による享保の改革が実施されるまでは人数が膨れ上がり、多い時には 千人を超える大行列 となり、道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めました。 茶壺道中と街道ですれ違う際には大名も駕籠から降りなければならず、街道沿いの村々には道の掃除を命じられ、通過当日は街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどでした。 茶壺道中は将軍家ご用達であったため、上使 ( じょうし、幕府から上意を伝える使い ) と三卿 ( さんきょう、徳川家の親戚筋に当たる、田安 ・ 清水 ・ 一橋家 ) の中間に位置する権威を保ち、茶壺に従う御数寄屋 ( おすきや ) 坊主の中には、将軍家御用を笠に着て沿道住民に対する 横暴な振る舞いをする者 が目立ちました。 これと似た横暴な行為 ( ゆすり たかり ) をしたものに、毎年京都の公家から選ばれ、朝廷から徳川家康を祀る日光東照宮へ金色の御幣 ( ごへい ) を納める 日光例幣使 ( にっこう れいへいし ) がありましたが、興味のある方は ここを クリック してお読み下さい。( 10-1、わらべ歌 ) 子供の頃に歌った童謡に 「 ずいずいずっころばし 」 がありましたが、一説によればこの歌は、茶壺道中を歌ったものであるといわれています。 ずいずいずっころばし 胡麻味噌ズイ 茶壺に追われて トッピンシャン 抜けたら ドンドコショ 俵のねずみが米喰ってチュウ チュウ チュウ チュウ おとさんがよんでも おかさんがよんでも 行っこなーしよ 井戸のまわりで お茶わん欠いたのだあれ [ 11 : 海の大名行列 ]前述の表 にある九州南端 ・ 薩摩の島津家はもちろんのこと、四国 ・ 宇和島の伊達家や九州各地の大名たちは、自国領と江戸の間を行列を組み全 コースを徒歩で行軍したのではありませんでした。 多くの場合九州北東岸にある鶴崎港 ( 現 ・ 大分県 大分市 )、または豊前国 小倉 ( 現 ・ 福岡県 北九州市 ) の港から、宇和島藩の場合は 四国西岸にある宇和島港から船に乗り船団を組んで瀬戸内海を航海しました。 約十日の船旅で摂津国 大坂 ( 現 ・ 大阪市 ) の港、後には播磨国 室津 ( むろつ、現 ・ 兵庫県 たつの市 室津湊 ) に到着し、そこから陸路江戸へ向かいました。その方が家臣たちにとって長旅の疲労が少なく、藩にとっても経済的に出費が少なくて済みました。そして室津は参勤交代における、海路と陸路の接点の宿場町として栄えました。 改易された加藤氏に替わり熊本藩主になった細川忠興 ( ただおき ) が、1646 年に現 ・ 大分市 東鶴崎に剣八幡宮 ( けん はちまんぐう ) の社殿を造営し寄進しましたが、後の 1798 年に海路の安全を祈願して奉納された大絵馬が左の、「 熊本藩船 鶴崎入港 船絵馬 」 ( くまもとはんせん つるさき にゅうこう ふなえま )です。 絵馬で左手の大きな船が大櫓 ( おおろ ) 46 挺 ( ちょう ) 立ての海御座船 ( うみござふね ) 「 波奈之丸 」 ( なみなしまる ) で、細川忠興( ただおき ) が 1624 年に参勤交代用に豊前国 中津 ( 現 ・ 大分県 中津 ) で、大阪の船大工に作らせたのが始まりとされ、その後幕末までに順次 5 隻建造し、古くなったものから廃船にされました。 海御座船 ( うみござふね ) の模型で分かるように、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の型を安宅船 ( あたけぶね ) と呼びましたが、 「 あたけ 」 とは古語で 「 暴れ回る 」 の意味から来た言葉でした。 安宅船 ( あたけぶね ) は一般に帆柱が無く、数十挺~百挺 ( ちょう ) 以上の人力で漕ぐ 艪 ( ろ ) を備え、矢倉は堅固な楯板 ( たていた ) で囲い、矢 ・ 鉄砲のための矢狭間 ( やはざま、発射する隙間 ・ 銃眼 )をあけていました。 万延元年 ( 1860 年 ) に熊本藩主が 帰国する際には、波奈之丸 ( なみなしまる ) 以下 123 隻 が船団を組み、 船頭 ・ 水主 ( すいしゅ ) ・ 水夫 ( かこ、下級船員 ) 総勢 2,563 人 が藩主 一行 1,186 人を運びました。[ 12 : 大名行列と生麦事件 ]幕末に起きた生麦事件 ( なまむぎ じけん ) をご存じですか ?。 明治の時代が始まる 5 年前の文久 2 年 ( 1862 年 9 月 14 日、太陽暦 ) のこと、生麦村 ( 現 ・ 神奈川県 横浜市 鶴見区 生麦 ) 付近において、薩摩藩主の父に当たる 「 島津久光 」 の大名行列 ( 総勢 千人 ) が江戸から鹿児島へ帰国途中に、 馬に乗った イギリス人 4 名が行列に乱入 しました。 そこで供回りの藩士が抜刀して襲いかかり、 1 名死亡、 2 名に重傷を負わせた事件がおきましたが、写真はその事件現場の 東海道 です。 原因は上海に住み 東洋人を蔑視する イギリス商人 の リチャードソン ( 28 歳 ) が、観光のために日本へ入国しましたが、上海で交友のあった横浜の商人 クラークと再会し、クラークや マーシャルの案内で、女性 1 名を加えた 4 人で川崎大師へ騎馬で見物に向かいました。 その途中、生麦村で島津久光の行列と遭遇しましたが、リチャードソンを先頭に騎乗のまま、大名行列の中に割り込み乗り入れたため、 「 供先 ( ともさき ) を割られた 」 ( 行列を乱された ) として激昂した薩摩藩 供頭 ( ともがしら ) の 奈良原喜左衛門 に無礼打ち にされ、重傷を負ったまま馬で逃げましたが、程なく落馬し、追いかけてきた藩士たちに 「 とどめ 」 を刺されました。 前述したように大名行列とは行軍とおなじですが、その行列の中に馬で乗り入れる方が常識に欠け悪いに決まっています。この事件の前に島津久光の行列と遭遇 ( そうぐう ) した アメリカ人などは、馬から下りて道端に避け、殿様に脱帽したといわれています。( 12-1、被害者の性格 ) 当時の北京駐在 イギリス公使 フレデリック ・ ブルース ( Frederick Bruce ) は、リチャードソンに対して冷ややかな見解を持っていて、本国の外務大臣 ラッセル伯爵への半公信 ( 半ば公の通信 ) の中でこう述べています。 「 リチャードソン氏は慰 ( なぐさ ) みに遠乗りに出かけて、大名の行列に遭遇した。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もし リチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたように、 引き返すか、道路のわきに避けようとしなかったのであろうか。 私はこの気の毒な男 ( リチャードソン ) を知っていた。というのは、上海で彼が自分の雇っていた 罪のない苦力 ( クーリー、中国人の単純肉体労働者 ) に対して、何の理由もないのに きわめて残虐なる暴行を加えた罪 で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあった。 わが国 ( 英国 ) の ミドル ・ クラス ( 中産階級 ) の連中にきわめてしばしばある タイプで、騎士道的な本能によって いささかも抑制されることのない 、プロ ・ ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である。駐日 イギリス公使 ラザフォード ・ オールコックは横浜の居留民社会を、 「 ヨーロッパの人間の屑 ( クズ ) 」 と表現していました 参考までに当時の日本の社会では、武士は町人や百姓に対して、 無礼打ち ( 注参照 ) の特権がありました。 注 : 無礼打ちとは 武士が町人 ・ 百姓らから 耐え難い 「 無礼 」 を受けた時は、斬殺しても処罰されないとする 武士の特権で 、これは当時の江戸幕府の法律である 公事方御定書 ( くじがた おさだめがき ) に明記されている。その第 71 条によれば、 ( 12-2、薩英戦争 ) イギリス本国は リチャードソン殺害事件に関して、代理公使 ジョン ・ ニールを通じて徳川幕府に公式謝罪と賠償金 10 万 ポンド、薩摩藩に賠償金 2 万 5 千 ポンド、および犯人を裁判に掛け処刑を要求しましたが、薩摩藩は拒否しました。 そこで文久 3 年 ( 1863 年 )7 月 ( 以下全て 旧暦 ) に、報復のために鹿児島湾に来襲した イギリス東 インドシナ艦隊の軍艦 7 隻との間で薩英戦争が起きました。しかし 7 月 2 日から始まった砲撃戦は 3 日まで続きましたが、イギリス側は旗艦の艦長以下 13 名が戦死、負傷者 50 名の人的被害を出しました。 その結果 イギリス艦隊は船体破損と物資欠乏のため、横浜へ退去しました。薩摩藩は戦死 5 名負傷者 十数名を出したほか、鹿児島の鶴丸城を破壊され城下に火災が発生するなど双方とも受けた損害が大きく、同年 11 月に横浜で和議を成立させました。 [ 13 : 大名行列を横切った幼児 ]11 代将軍、徳川 家斉 ( いえなり、1773~1841 年 ) は 精力絶倫の好色家で 、 15 歳で将軍職に就き 17 歳で長女の父となり、以後 40 人もの側室を持ち 55 人の子を産ませ ましたが、そのうち 29 人が死亡し、死亡率は 53 パーセントでした。 53 番目の子で 26 男 ( なん ) に当たる 斉宣 ( なりこと ) は 15 歳で松平斉韶 ( なりつぐ ) の養子となり、明石藩 8 万石を継ぎました。ところが斉宣は将軍の子供だったため周囲からおだてられて育ち、自らの権威を保つことに専念しました。あるとき参勤交代のため木曽路を通行した際に、猟師である源内の子で当時 三歳の子供が、明石藩の大名行列を横切ってしまいました。 「 道切り 」 ということで家臣に捕らえられ、本陣に連行されました。村の名主や本陣の亭主のみならず坊主や神官までもが 「 御容赦御宥免 」 ( ごようしゃ ごゆうめん、罪を大目にみて許すこと ) を嘆願しましたが、
幼年にもあれ、予 ( よ = 斉宣 ) が行列を犯す上は決して宥免罷 ( ゆうめん まか ) りならぬと、未だ年端 ( としは ) もいかない幼児を斬り捨ててしまいました。おさまらないのは尾張家で、自藩領民の保護は藩主の使命であり、御三家 ( 尾張 ・ 紀伊 ・ 水戸 ) 筆頭の尾張徳川家の領民を斬り捨てるとは許し難い。しかも行列を横切ったのは いたいけな ( 幼くて かわいらしい ) 幼児である。 今後当家の領土を通行無用である と明石藩に通告しました。 困ったのは明石藩で、明石から参勤交代で江戸へ往復するには東海道も木曾路もすべて尾張藩の領内を通っていたからでした。 江戸時代最大の随筆集に甲子夜話 ( かっし やわ、正編 100 巻 ・ 続編 100 巻 ・ 第三編 78 巻 ) がありますが、これは元 ・ 平戸藩主の 松浦静山 ( まつら せいざん ) が 62 歳の 1821 年 11 月 17 日 甲子 ( 訓読みで、きのえ ・ ね )、音読みで 「 かっし 」 の夜に書き始め、幕末の政治 ・ 経済 ・ 外交 ・ 逸話 ・ 風俗など広範囲なできごとを随筆に記したものでした。この随筆集に以下の記述がありました。
明石藩の参勤道中の有様を見ると、主君の駕籠を守る馬廻りの武士たちが、皆脇差し 1 本だけを腰に帯び、半纏 ( はんてん ) 股引きという野服 ( のふく ) の出で立ちである。これは尾張藩に領内通行を断られた結果、大名行列を組むどころか明石藩主はお忍びで、藩士以下は町人の旅姿に変装して尾張藩の領内を旅する際のみじめな格好を記したものでした。 ところで中山道 ( なかせんどう ) 木曾の馬籠 ( まごめ ) 宿を舞台にした島崎藤村の小説に 「 夜明け前 」 がありますが、その冒頭には、 木曾路 ( きそじ ) はすべて山の中である。あるところは岨 ( そば、絶壁 ) づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。と書かれていますが、甲子夜話の件には続きがあり、子供を斬殺された猟師の源内は、飛び道具を持って密かに 復讐の機会を狙っていました 。 弘化元年 ( 1844 年 ) 6 月 2 日のこと、中山道 ( なかせんどう ) 木曾の山中 で、 前述の理由から明石藩は大名行列を組めずに家来がばらばらに旅をしていました。我が子の仇 ( かたき )、明石藩主 松平斉宣 ( なりこと )を付け狙っていた源内が鉄砲で狙撃 ( そげき ) した結果、斉宣は木曽路の露と消えましたが、 愚かな殿様は享年 20 歳 の若さでした。
[ 14 : 黒船来航 ]嘉永 6 年 ( 1853 年 ) のこと、アメリカ東 インド艦隊司令官 ペリーが 4 隻の黒船で江戸湾入り口にある浦賀を訪れ、日本に開国を要求しました。翌年再び 江戸湾に今度は 8 隻の軍艦 を率いて来航し、大砲の空砲を前年と合計して 100 発近く撃つ など武力で威嚇して 日米和親条約を無理やり締結させ 、日本の幕藩体制を大きく変える契機をもたらしました。 越前 32 万石の 福井藩主 松平慶永 ( よしなが ) が幕府に提出した建白書によれば、現在 諸大名は国許から多くの人数を江戸に呼び寄せる趨勢 ( すうせい、なりゆき ) になっているので、 日々の雑費も馬鹿にならず、藩の疲弊 ( ひへい ) がつのるだけでその益はなく 、 日本の防備の実用にもならない 。 ( 以下省略 )とありました。 文久 2 年 ( 1862 年 ) に薩摩藩主の父 島津久光は武家諸法度違反を承知の上で、徳川幕府の 許可を受けずに 千人の兵士を動かし上洛し、徳川幕府改革についての朝廷の大綱を伝えるための勅使の江戸下向 ( げこう ) を護衛して江戸に行きました。その帰途に起きたのが前述した生麦事件でした。 ( 14-1、参勤交代制の改革 ) 幕府の老中の間でも参勤交代を続けるのか、制度の緩和 ・ 廃止の議論がでたものの、結局は参勤を緩和する案に落ち着きました。それによれば
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