人種 と宗教の話 ( 続き )


  • イスラム教 :

    イスラム 教の創唱者 モハメット ( アラビア 語読みで ムハンマ ド 、570 年頃 ~ 632 年 ) は、現 ・ サウジアラビアの メッカ ( Makkah 、アラビア語読みで マッカ ) に生まれました。 ムハンマドの父は彼の生まれる半年前に死亡し、彼の母親も彼がやっと 6 歳になった時にこの世を去りました。

    孤児になった彼は祖父に育てられましたが、その祖父もわずか 2 年後に死亡しました。その後 ムハンマド 少年は、貧しい叔父の家に引き取られ苦しい少年時代を過ごしました。

    コーラン 第 7 章 157 節の記述によれば ムハンマド は文盲でした。 25 歳の時に貧乏な彼が 交易の荷物運びの仕事の際に、交易商を営む裕福な未亡人の女性 ( 二度の結婚歴と 3 人の子持ちの 40 歳の ハディージャ ) から彼の正直さ ・ 親切さ ・ 責任感のある性格を見込まれて結婚を申し込まれ結婚 しました。

    ヒラー山

    金持ちの ハディージャ と結婚して以降、ムハンマドは メッカ でも有力な 旦那衆の 一人となりましたが、 「 逆 ・ 玉の輿 」 ( ぎゃく たまのこし ) でした。

    生活にも余裕が出て ヒ マ な時間も増えたため、ムハンマド はよく マッカ ( メッカ ) の郊外、北東約 5 キロメートルの地点にそびえる岩山の ヒラー ( Hira ) 山 の頂上の南西側にある洞穴で瞑想 ( めいそう ) にふけるようになりました。

    そして 40 歳のある日、アッラー( イスラム 教の神 ) による最初の啓示が下されました。使徒として 一般の人たちにその教えを伝える宿命を負っていることを知らされ、以後布教と他部族との戦いに明け暮れました。

    啓示を受けた洞窟の岩盤には、その旨が記載されています。また、ヒラー 山は ムスリム ( イスラム教徒 ) の巡礼者がきそって訪れる場所ですが、山の入口には、 「 この山は本来は神聖視されるべきものではない 」 という断りが記されています。

    ところで アメリカ の バプテスト( Baptist ) 主義の指導者 ジェリー ・ ヴァインズ ( Jerry Vines ) や 反 イスラム 主義者によれば、ムハンマド は 「 邪悪な小児性愛者 」 あるいは現代でいうところの 「 児童 性的虐待者 」 に当たると批判 しました。

    ムハンマドは 53 歳の時に アーイシャ という 6 歳の女の子と結婚し、 9 歳の時に結婚を完成させた [ 初夜の性交を行った ] といわれています。

    彼は 62 歳で死ぬ前年に 17 歳の ユダヤ 人女性と 11 回目の結婚 をしました。日本の ことわざに 「 英雄 色を好む 」 ( 英雄は何事にも精力旺盛であるから、女色を好む傾向も強い )というのがありますが、 神の啓示を伝える預言者 ・ 神の使徒 にもこれに該当する人物がいたとは、今回初めて知りました。

    ムハンマドに関する批判は、 ここにあります


    [ 7 : ヒンドゥー 教と、牛 ]

    「 ヒンドゥー 」 Hindu の語源 とは、サンスクリット 語 ( Sanskrit ) で インダス 川を意味する Sindhu ( シンドゥ ) から、古代 ペルシア ( 現 ・ イラン ) で 「 ヒンドゥー 」 に転訛 ( てんか、本来の音が なまって変化 ) したものといわれています。

    さらにその意味も、 ペルシア ( Persia ) から見て 現 ・ パキスタン 中央部を南下して アラビア 海に注 ( そそ ) ぐ、 「 インダス 川 の対岸に住む人々 」 に変化して使用され、ペルシア を経由して西欧に伝わり、そこから 「 ヒンドゥー 」 が インド に逆輸入され定着しました。

    前述したように紀元前 1,500 年頃に 北西 インド に侵入した アーリア 人は かつては遊牧民であり、当然のことながら牛の乳を飲み 宗教的な行事には牛を生贄 ( いけにえ ) として捧げました。その当時、彼らに最も好まれた食肉は、牛肉だったといわれています。

    その後 アーリア 人は遊牧生活から定住する農耕民へと生産形態を変化させ、牛は農耕にとっての労働力として重要となり、牛乳は栄養に牛糞は肥料にも干して燃料にも利用できるので大切に扱われるようになりました。

    シヴァ神の牛

    さらにこの傾向に拍車を掛けたのが、紀元前 5 世紀頃に始まった バラモン 教における牛の神聖視でした。

    ヒンドゥー教では、本来 は一体である最高神が、三つの役割 「創造、維持、破壊」 に応じて、三大神 「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ 」 として現れますが、破壊を司る神 「 シヴァ 」 ( Siva ) の乗り物が牡牛の 「 ナンディン 」 で、シヴァ の 首に巻いているのが、毒蛇の コブラ です。

    牛の体内には神々が宿っているという バラモン 教の教えや、それを受け継いだ ヒンズー 教の解釈を後ろ盾にしながら、単なる家畜であった牛は、神聖さを備えた 「 聖なる動物 」 として大きく変化していきました。

    聖なる牛

    右の写真は インド 西部の アラビア 海に面した港湾都市の ムンバイ( Mumbai 、旧 ・ ボンベイ ) で、 マハーラーシュトラ州の州都、人口 1,248 万人の インド 最大の都市です。

    市内の バス 通りで悠然 ( ゆうぜん ) と休息する 「 聖なる動物の牛 」 は、言うまでも無く全ての交通機関に対して 優先権 (?) があります。ただし分類上は同 じ 「 哺乳綱 ・ ウ シ 目 ( 偶蹄目 ) ・ ウ シ 科 でも、 アジア スイギュウ 「 属 」 に分類される 水牛 は 崇拝の対象とはなりません。


    [ 8 : インドで生まれ、インドで滅んだ仏教 ]

    世界にはその伝播性 ( でんぱせい、次々に伝わって広まる性質 ) ・ 文化的、社会的な影響力 ・ 入信に際して出自の不問から 三大宗教といわれる 仏教 ・ キリスト教 ・ イスラム教 がありますが、インド では信者が 8 億 3 千万人 もいるというのに、 ヒンドゥー 教 ( Hinduism ) はその中に含まれていません。

    その理由とは、ヒンドゥー 教は 古代 インド における バラモン教 ( Brahmanism ) と土着宗教の融合したものであり、インド 国内や隣国の ネパール ・ インドネシア の バリ 島 ・ スリランカ という特定の地域のみで信仰されているため、どれほど信者が多くても 三大宗教の部類には入らないのです。

    別の分類によれば、宗教には世界宗教 ・ 民族宗教 ・ 部族宗教という分け方もありますが、日本における 「 神道 」 と同様に、インド の ヒンドゥー 教は 一部の民族や 国家の範囲内で信仰されているために 民族宗教 とされます。

    前述したように仏教は、紀元前 6~5 世紀頃に インド において 釈迦族 ( しゃかぞく ) 出身の ゴータマ ・ シッダッタ ( Gotama Siddhattha、釈迦 ・ 仏陀ともいう ) が開祖となりました。

    釈迦が最初の説法において、あらゆる煩悩 ( ぼんのう ) が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地である 涅槃 ( ねはん ) に至る修行の基本となる 、八種の徳、即ち 「 八聖道 」 ( はっしょうどう、正見 ・ 正思惟 ・ 正語 ・ 正業 ・ 正命 ・ 正精進 ・ 正念 ・ 正定 ) の実践を説きました。

    それによって 輪廻転生 ( りんね てんしょう ) からの解脱 ( げだつ、安ら かで自由な悟りの境地 ) を目指すと共に、カースト制度を否定したことで、多くの階層の人々によって仏教が信仰されました。その後 仏教は、インドの様々な王朝からの保護 ・ 支援を受けて、急速に信者を増やしていきました。

    釈迦の仏教は バラモン 教から生まれた ヒンドゥー 教とは異なり、都市に基盤をおいた宗教であり、商工業者のなかでも裕福な人々や、都市の経済力を背景に強大な権力を持つようになった新興国家の国王や貴族たちが、その最大の パトロン ( Patron、後援者 )でした。

    こうした パトロン たちの財力を背景にして、やがて仏教の出家者たちは壮大な僧院の中で修行と平行して学習、教学の研究に没頭するようになりましたが、古代の インド では、仏教僧院が大学の役割を果たしました。

    ハルシャ王の時代に、中国 唐時代の僧、玄奘三蔵 ( けんじょう さんぞう、602 ~ 664 年 ) が インド を訪れ、ナーランダ 僧院で教典研究に励み、16 年後に多数の仏典や ・ 仏像 ・ 仏舎利 ( 釈迦の遺骨片 ) を中国に持ち帰って、その後の漢訳仏教の基礎を作りました。


    ( 8-1、インドで 仏教が消滅した理由とは )

    一時は インド で拡大を続けた仏教ですが、 13 世紀を境に、インド から姿を消してしまいました 。その理由はさまざまですが、大きく分けて以下の四つが考えられます。

    1. 仏教を保護した王朝の滅亡

      マウリヤ 王朝 第 3 代の アショーカ ( Asokah )王 ( 紀元前 304 年頃 ~ 紀元前 232 年頃 ) が仏教に帰依したのを初めとして、各王朝の王たちによって仏教は丁重に保護されていた。

      クシャーナ 王朝の カニシカ王 ( Kanishka I 世、在位 130 ~ 155 年頃 )は首都を ガンダーラ 地方の プルシャプラ ( 現 ・ パキスタン の ペシャワル ) に置き、当時存在した 8 基の仏塔のうち、 7 基の塔から取り出された仏舎利 ( ぶっしゃり、釈迦の遺骨 ) を細分し、領内に 8 万 4 千基の仏舎利塔 を建立したと伝えらている。

      またカニシカ王は第 4 回 仏典結集 ( ぶってん けつじゅう )を行ったといわれている。仏典結集とは、仏教の開祖 釈迦( ブッダ、仏陀、真理を悟った者 ) の教えを正しく伝えるために、仏弟子たちが集会を開いて生前の釈迦の教えを編集する編集会議のこと。

      ハルシャ ・ ヴァルダナ が創始した ヴァルダナ王朝 ( 606 年 ~ 647 年頃 ) の滅亡以降、東 インド の パーラ 王朝 ( Pala dynasty、750 年 ~ 1162 年 ) を最後に、仏教の後ろ盾となる王朝は インド から姿を消した。


    2. ヒンドゥー 教の拡大と、信者の吸収

      古代 インド から継承された ヴェーダ ( Veda、紀元前 1,000 年頃から紀元前 500 年頃にかけて、インドで編纂された 一連の宗教文書の総称 ) を聖典とする バラモン 教を中心に、 インド 各地の土着の民俗信仰と仏教の影響を受けて成立したのが ヒンドゥー 教であった。

      ヒンドゥー 教は、各地の民俗信仰が融合して成立したという背景から、インド の人々の生活に密着した宗教となって勢力を拡大しましたが、その反面 「 仏教徒の減少 」 をもたらした。


    3. 民衆との乖離 ( かいり )

      仏教は 5~6 世紀頃から神秘主義の秘密仏教としての性格が強くなり、僧侶は難解な教理の研究に重点を置き、民衆の教化を熱心に行わなくなっていった。こうした状況から、仏教は、一般民衆の生活からどんどん離れていき、他方で都市経済の衰退が主な信者だった商人層の没落を促し、これらの理由によって仏教から、ヒンドゥー 教へ信者が吸収されていった。


    4. イスラム 教の圧迫

      ヴァルダナ 王朝の滅亡後、北部 インド の地域は、クシャトリア( 王侯階級 ) の カースト 集団である 多数の王国が乱立する ラージプート( Rajput 、注 参照 ) の時代 ( 8 世紀から13 世紀 ) を迎えた。

      注 : ラージプート

      ラージプート ( Rajput ) とは サンスクリット 語の ラージャプトラ ( 王子の意味 ) の訛 ( なま ) った言葉で、正統的な クシャトリヤ ( 王侯階級 ) の子孫であることを意味する言葉で、北部 インド から北西 インド 各地にできた 諸部族集団 のこと。

      このラージプート時代以降、11 世紀から、外敵の イスラム勢力が インドに侵入してきたが、この侵入をきっかけに、イスラム教徒が仏教の宗教施設を破壊したため、仏教は急速に衰退していった。


    [ 9 : お経とは ]

    ものの本によれば「 経 」 ( きょう ) とは梵語 ( ぼん語、サンスクリット語 ) の スートラ ( Sutra ) 「 縫う、貫く 」 の訳語で、英語では「 a thread 、string、cord 」 と訳し、中国語では 「 修多羅 」 と音訳 します。

    また 「 経 」 にも 「 縦糸 」 ・ 「 筋道 」 という意味もあり、織物の糸がまっすぐ正しく続いていることから真理を意味します。

    そこで真理を述べた聖典という意味から 「 聖典 イコール お経 」 と呼ぶようになったといわれています。

    、仏の説いた教えを文章にまとめたものであり、別の表現をすれば、三蔵 ( さんぞう、つまり 経 ・ 律 ・ 論 ) の一つで、釈迦の教えを記録したものだそうです。

    お経は仏教の開祖である釈迦 ( しゃか、仏陀、ぶっだ、Buddha ) 本人が書き遺した ものではなく 、釈迦の死後に彼が述べた言葉を弟子たちが 口伝 ( くでん、口で伝え教え授けること ) によって後継者に伝える方法をとり、さらに人々に広めるには暗唱する必要が生じました。それが 現在の読経につながった といわれます。

    文字に依らずにもっぱら弟子の記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防ぎ教団の統一をはかる目的で、弟子たちが各自の伝聞にもとづく資料を持ち寄って仏典 ( 経典、お経 ) の編纂がなされました。

    お経とは、仏教徒のための教えを説いた 「 経典 」 のことであり、キリスト 教の 「 聖書 」、イスラム 教の 「 コーラン 」 に当たります。 南伝上座部仏教 ( なんでん じょうざぶ ぶっきょう ) は パーリ 語( Pali )で、北伝大乗仏教は サンスクリット語 ( Sanskrit、梵語 ぼんご ) で書かれていました。日本へは中国から中国語で伝わったため、漢字で書かれています。

    如是我聞

    それと共に釈迦の死後数百年経って多くの仏教経典が書かれましたが、その冒頭には 一定の形式がありました。それは 如是我聞 ( にょぜがもん、私はこのように釈迦が言うのを聞いた ) という言葉を入れることでした。

    上図は 「 仏説 観普賢菩薩行法経 」 ですが、冒頭に 如是我聞 の文言が記されています。

    本来 「 如是我聞 」 は形式ではなく、「 私はこのように釈迦が言うのを聞いた 」 という事実でなければなりませんが、それを書けるのは直接釈迦の説法を聞いた当時の弟子たちや修行者だけのはずでした。


    ( 9-1、お経を読む目的とは )

    今から 20 年近く前のこと、四国霊場 八十八 箇所の遍路道を 1,200 キロ 歩いて全部の札所を巡った際には、一つの寺で本堂と大師堂と 二箇所で 般若心経( はんにゃしんぎょう )を読んだので、合計 176 回 読経しました。

    その時の様子と、般若心経の経文の読み方 ・ 意味については ここにあります

    ところで仏教に無知な私は、お経について昔から単純な疑問を持っていましたが、

    何のお経であれ葬式の際に僧侶がおこなう読経について、生きている人 ( 遺族や参列者 ) が聞いても意味が分からない外国語 ( 漢語 ) のお経を、死者が聞いて理解できるのか?。 そんなことは有るまい。

    それならば 「 お経を読む目的 」 とは 「 何か 」 ?。聞いても意味が分からないから有り難いのか?。

    去年行われた親族の葬儀の際には、枕経を含めて僧侶 1 名の通夜 ・ 本葬における勤務時間 ( 衣装換え ・ 読経 ・ 休憩を含む ) は 2 時間で、 「 お寺さん代 」 は 20 万円でしたが、時給に換算すると 10 万円でした。「 信士 」 の戒名代は別でした。

    私なりに考えた末に得た答とは、読経は他者のためにするのではなく、僧侶や遍路 その他もろものの人が、お経を聞く相手が理解しようがしまいが関係なく、 自分自身のため、あるいはお釈迦様や阿弥陀様に捧げるために 読経することが ようやく分かりました。

    私の答えに反論のある人が多いと思いますが、聞く人にとって意味の分からぬ読経をする理由を無知な私にも分かるように、どなたか説明して下さい。


    [ 10 : 葬式仏教はなぜ生まれたか ]

    口の悪い人は現代の仏教のことを 「 葬式仏教 」 などといいますが、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない 日本の形骸化 した仏教の姿 を揶揄 ( やゆ、からかった ) して表現したものです。

    枕経

    写真は死者のかたわらで、携帯電話の メール をする現代の僧侶ですが、死者に枕経 ( まくらきょう ) を上げる 「 葬儀 の場 」 で メールをする態度からは、死者を悼 ( いた ) む気持ち、敬意を表す気持ちなど全く感じられない 「 ビジネス 僧 」 そのものです。

    一時的に座を外して別室か屋外に出て メール するなどの 「 礼儀作法 」 が必要と思うのは私だけでしょうか?。 営業 ( ゼ ニ 儲け ) 最優先 の僧侶には、私はお経など上げてもらいたくありません。


    ( 10-1、官僧と、穢れ ( ケ ガ レ ) の忌避 )

    大宝元年 ( 701 年 ) 成立の 「 大宝律令 」 および 養老 2 年 ( 718 年 ) に成立した「養老律令」の 「 僧尼令 」 ( そうにりょう ) により、奈良時代から ・ 平安時代 ・ 鎌倉時代前期までの僧侶は大部分が、天皇から得度を許され国立戒壇において授戒をうけた 官僧 ( かんそう、国家公務員の僧侶 ) でした。正式な資格の無い僧侶もいて、それらは私度僧 ( しどそう ) と呼ばれました。

    官僧の主な役目は 鎮護国家 ( ちんご こっか ) であり、仏法によって国家の安寧( あんねい、社会が穏やかで平和なこと ) と、 天皇の安泰 ( あんたい、無事と安全 ) を祈願することでした。

    厳格な聖性 ( 清浄さ ) を求められる天皇に奉仕し、鎮護国家の法会 ( ほうえ ) に携 ( たずさ ) わるために常に清浄でなければならず、穢れ ( ケガレ ) に触れることは官僧としての職務に重大な支障が生じました。例えば死穢 ( しえ、人の死に接した場合 ) には 30 日間の謹慎 が定められていました。

    一説によれば 「 穢れ ( ケガレ )」 は 「 気枯れ 」 を語源とするといわれますが、 穢れ ( ケガレ ) という概念が日本に流入したのは、奈良時代 ( 710 ~ 794 年 ) だと言われます。

    しかし 712 年に成立 した古事記には 「 ケガレ 」 の概念と関係がある神話がたくさん記載してあるので、 「祓 ( はら ) えたまえ 清めたまえ 」 の神道ではそれよりも古くから存在したとの説もあります。 一例として 「 国生み神話 」 に出てくる、

    イザナミノミコト ( 伊耶那美命、女神 ) が、火の神を生んだ際に陰部を火傷 して、産後に死にましたが、夫の イザナノミコト ( 伊耶那岐命、男神 )が妻を 黄泉国 ( よみのくに、死者の国 ) まで追いかけて行き、腐乱死体となった イザナミ を見て逃げ帰ってきました。

    その後 「 筑紫 ( ちく し ) の日向 ( ひむか ) の橘 ( たちばな ) の小戸 ( おど ) の阿波岐原 ( あはきはら ) 」 で、黄泉国 ( よみのくに ) の 汚穢 ( おえ、汚い ケ ガ レ ) を洗い清める禊 ( みそぎ ) をおこなった。

    とありました。


    ( 10-2、延喜式の ケガ レ に関する規定 )

    平安中期の延喜 5 年 ( 905 年 ) に編纂 ( へんさん ) を始め、 967 年に施行された律令 ( りつりょう ) 施行細則の 「 延喜式 」 ( えんぎ しき ) には穢れ ( ケガレ ) に関する規定がありました。古代日本における穢れには 人の死 ・ 出産 ・ 肉食 ・ 改葬 ・ 流産 ・ 懐妊 ・ 月経 ・ 失火 ・ 埋葬 などが挙げられていました。

    葬送 ・ 埋葬 ・ 改葬 などに従事したり、立ち会ったりしたたために生ずる ケガ レ に触れた人間は 、通常 30 日間、神事や御所への参内 [ さんだい、内裏 ( だいり ) へ参ること ] などを忌 ( い ) み 慎 ( つつし ) むことになっていました。

    人のお産の場合は 7 日、肉食の場合は 3 日、失火の場合は 7 日間、穢れを忌み慎みました。つまり当時の官僧にとって最も重要なことは、日常生活において如何にして 「 ケガ レ 」 を避けるかでした。

    当然のことながら天皇 ・ 皇族 ・ 貴族などの葬儀には職務上やむなく執行し、あるいは参列したものの、それ以外の下級役人や庶民の葬式を官僧が執行することなどあり得ませんでした。

    奈良 ・ 平安時代の死体処理方法は ここにあります。 当時の庶民にとって死者の体は 「 魂の抜け殻 」 であり、原野 ・ 山林 ・ 河原 ・ 谷間などへ遺体を遺棄する風葬が一般的でした。そこには 「 ケガレ」 に接することを嫌う官僧や私度僧 ( しどそう、非公認僧 ) の出番など、ありませんでした。


    ( 10-2、奈良仏教の 特徴 )

    いわゆる奈良時代の仏教は 三論 ( さんろん ) ・ 成実 ( じょうじつ ) ・ 法相 ( ほっそう ) ・ 倶舎 ( くしゃ ) ・ 華厳 ( けごん ) ・ 律 ( りつ ) の 六宗が栄えたので 「 南都 六宗 」 といわれています。

    しかし内政 ・ 外交面で問題を抱えた天皇が仏教の加護を求め、仏教側は 鎮護国家 ( ちんご こっか ) を祈願するなど、仏教は朝廷との結びつきを強め 国家仏教的な性格 を強めました。

    奈良仏教の特徴は官僧による理論研究が中心であり、実践に欠けるのが特徴でした。その証拠に現在 奈良に存在する飛鳥時代から奈良時代 ( 592 ~ 794 年 ) に創建された仏教寺院は、 法隆寺 ・ 薬師寺をはじめとして、どれも寺の墓地を持たず檀家も存在しません。

    当時の寺は、あくまでも仏教の教えを学ぶための 「 学問 ( 教学 ) の場 」 であり、葬送儀礼 ( 葬式 ) は行いませんでした。現在でもそうした奈良の古い寺で住職が亡くなると、その寺で葬式が営( いとな ) まれることはありません。

    葬式は別の寺で別の宗派の僧侶が担当 して行います。その意味から日本に渡来 した当初の仏教は、 葬式仏教とは完全に無縁でした。 現代の人々が特に奈良の古寺 ( こじ ) にひかれるのも、そこから葬式仏教の臭いがして来ないせいかも知れません。私たちは純粋な仏教の姿を、そうした古寺に見出 しているからです。


    ( 10-3、鎌倉新仏教、往生人 に ケガ レ 無し )

    鎌倉仏教 とは、平安時代 ( 794 ~ 1192 年 ) 末期から鎌倉時代 ( 1192 ~ 1333 年 ) にかけて起こった仏教変革の動きを指します。この時代日本は戦乱の世にあり、社会不安の中で人々は心の拠り所を仏教に求めました。

    それまでの仏教は、前述した官僧の存在や 鎮護国家に見られるように、いわば 「 国家仏教 」 あるいは 「 貴族仏教 」 であり、貴族を対象として布教し、貴族の支持を得て発展してきたものでした。それゆえ武士や庶民などに対する仏教の布教や 「 救済 」 などは官僧連中の眼中に全くありませんでした。

    この状態を改革するために重要な役割を果たしたのが、 エリート 僧侶であった官僧の( 租税 ・ 庸 ・ 調などの免除の )特権や ( ケガレ に対する ) 制約から離脱して 仏道修行に努めた 遁世僧 ( とんぜそう ) の存在でした。

    法然 ( ほうねん ) ・ 親鸞 ( しんらん ) ・ 道元 ( どうげん ) たちの、いわゆる鎌倉新仏教の僧侶たちも、明恵 ( みょうえ ) ・ 叡尊 ( えいそん ) らの旧仏教の改革派の僧たちも、 遁世僧 ( とんぜそう ) と呼ばれていました。

    従来の仏教は理論が難解で、当時の武士や庶民にとってはなかなか理解や共感し難いものでしたが、鎌倉仏教では民衆を中心にして実践方法は単純なものにし、例えば 法然 ( 1133~1212 年 ) の 「 浄土宗 」 や 親鸞 ( 1173 ~ 1262 年 ) の 「 浄土真宗 」 のように、 南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ、阿弥陀仏に帰依します ) を唱えるだけで極楽浄土へ往生ができる、つまり 「 念仏者は往生ができる = 往生人になれる 」 という単純さでした。

    「 法然上人絵伝 」 や 「 親鸞聖人絵伝 」 を見ると祖師の死に際して弟子だけでなく多くの在家の信者が集まり、死を悼んでいましたが、そこにはもはや 「 死の ケガレ 」 に対する恐れなど存在しませんでした。 「 往生人に死穢 ( しえ、死の ケガレ ) なし 」 すなわち、極楽往生する人に 「 死の ケガレ 」 などあるはずが無いとする考え方からでした。

    念仏を唱える、座禅を組むなどをすれば悟りに到達し、在家のままで救済されるという点で、鎌倉仏教の教えは一致していました。 なお官僧の袈裟の色が白衣に対して、遁世僧 ( とんぜそう ) たちは黒または墨染めの衣を身にまといました。


    ( 10-4、遁世僧が 葬式を担当 )

    注目すべき点は 遁世僧 ( とんぜそう ) による教団が成立したことでした。前述した遁世僧たちが在家の信者を獲得し、教団を形成 していきました。その結果 一度も官僧にならずに遁世僧教団に入った場合も遁世僧と呼ばれるようになりました。

    そして民衆の求めに応じて葬送や法事も徐々に担当するようになりました。その理由は 死体に対する 考え方が 「 穢 ( けが ) れた存在 」 から 「 ほとけ 」 に変化 したためでした。

    現代まで続く宗派の中で、鎌倉時代に誕生した宗派も多くあり、鎌倉仏教に数えられるのは、浄土宗 ・ 浄土真宗 ・ 時宗 ・ 日蓮宗 ・ 臨済宗 ・ 曹洞宗などでした。


    [ 11 : 江戸時代の寺請 ( てらうけ ) 制度 ]

    江戸幕府は、慶長 17 年 ( 1612 年 ) に キリスト 教禁止令を出し、江戸 ・ 京都 ・ 駿府 ( すんぷ、駿河国 府中の略 ) を始めとする幕府の直轄地に対して、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告しました。

    そして翌 慶長 18 年 ( 1613 年 ) に幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広大 しました。また家康はこれに合わせて臨済宗の僧、 以心崇伝 ( いしん すうでん ) に命じて 伴天連 追放之文 ( バテレン とは、ポルトガル 語で神父の意味 ) を起草させ、二代将軍 秀忠の名で公布させました。これが幕府のキリスト教に対する基本法となりました。

    以後 キリスト 教徒の弾圧を進めましたが、その際に 「 転び キリシタン 」 ( かつて キリスト 教の信者であったものが棄教 し、仏教徒に転向した者 ) に寺請証文 ( てらうけしょうもん、寺手形 ) を書かせたのが、寺請 ( てらうけ、檀家 ) 制度の始まりでした。


    ( 11-1、葬式仏教の確立 )

    江戸幕府は キリシタン禁圧の一環として、ひとり 一人の民衆を特定の寺院の檀家としての登録を義務付け、一方寺院 ( 檀那寺、だんなでら ) は自家の檀家であるという証明として 「 寺請証文 」 を発行しましたが、これを寺請制度といいます。

    キリシタン 根絶後は 一般庶民に対する支配 ・ 監察のための制度として機能 し、たとえば檀那寺 ( だんなでら ) が発行する 「 寺請証文 」 ・ 「 通行手形 」 ・ 往来手形 ( 切符 ) などは、民衆の移動 ・ 旅行 ・ 就業 ・ 婚姻などの際に提出を要求される 一種の身分証明書 [ 現代の パスポート 兼、 I.D.( Identification ) カード ] となりました。

    この制度により檀家 ・ 信徒は寺院に隷属 ( れいぞく、つき従うこと ) 支配されることになり、 キリシタンではない証拠に 必然的に仏教による葬式が強制され 葬式仏教が制度的に確立しましたが 、仏教寺院にとっては一定の檀家 ( 信徒 ) と収入を保証する形となりました。

    寺請制度の詳細については、ここにあります


    [ 12 : 仏教から、神道の国教化へ ]

    慶応 3 年 ( 1867 年 ) 11 月 9 日に徳川慶喜 ( よしのぶ ) による大政奉還 ・ その後の王政復古により、明治新政府は明治元年 ( 1868 年 ) 3月17日に 神仏分離令 「 神祇 ( じんぎ、天の神と地の神 ) 事務局 ヨリ 諸社ヘ達 」 を初めとする 一連の通達の総称 ) を公布しました。

    それにより江戸時代の仏教の国教制を否定し、神道の国教化政策を推進しました。その過程で神社の中から仏教色を排除しようとしたのが、神仏分離令でした。

    従来の 神仏習合 [ しんぶつしゅうごう、日本古来の神祇 ( じんぎ ) 信仰と外来宗教である仏教とを結び付けた信仰 ] を否定し、神道を仏教から独立させると共に、全国の神社に対して神仏習合において 「 社僧 」 や 「 別当 」 と呼ばれていた僧侶に還俗 ( げんぞく、僧籍を離れて俗人に戻ること ) を命じました。

    それまで神社に附属して寺院が建てられ、社僧 ( 別当 ) が神社の祭祀( さいし ) をおこなって来た各地の 神宮寺 ( じんぐうじ ) に対しては、寺院の廃絶または寺院と神社の分離がおこなわれました。

    神宮寺

    写真の丹生山 ( にゅうざん ) 神宮寺 は、三重県 多気郡 多気町にある真言宗の寺院 (774 年に開山 ) で、 丹生 ( にゅう ) 神社の神宮寺です。高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので 「 女人高野 」 とも呼ばれました。


    [ 12-1、廃仏毀釈 ( はいぶつ きしゃく )運動 ]

    幕府による封建支配の末端として長年民衆に対して権力を振るってきた寺院に対して、神仏分離令 布告後に仕返しをする民衆が寺院を破壊し、仏具 ・ 経文を焼き払うなどの 廃仏毀釈 ( はいぶつ きしゃく、仏法を廃 し釈迦の教えを棄却する ) 運動が盛んになりました。

    これまで長年僧侶の風下に置かれていた神官たちは、この時とばかりに明治政府の威光を借りて神仏分離にとどまらず、廃仏毀釈運動を展開しましたが、これに対して明治新政府は、

    社人共俄ニ威権、陽ハ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲハラシ候様ノ所行出来候テハ、御政道ノ妨ゲヲ生ジ---。以下省略。

    [ その意味 ]

    神社の連中はにわかに威張り、表向きは政府の意向と称し、実際は個人的な恨みを晴らすための振る舞いにおよんでは、政治の妨げ--。
    になるので、心得違いのないようにと諭 ( さと ) していました。

    1. 特に国学者や神道家たちの勢力が強い地域では、仏教寺院への激しい弾圧をおこなった。

    2. 寺院の統廃合や僧侶の還俗 ( げんぞく、出家して僧籍に入った僧が、再び俗人に戻ること ) の強制などがおこなわれた。

    3. 富山藩では領内八ヶ寺の寺院の存在を許し、残りの 1,627 ヶ 寺の寺院整理を決めていて、伊勢神宮の神領においては、明治 2 年 3 月の明治天皇の神宮行幸までに、領内の 196 ヶ 寺を全部廃寺とした。

    4. 滋賀県の日吉神社では、仏像 ・ 仏具 ・ 什物 ( じゅうもつ ) ・ 経典などおびただしい数のものを寺から取り上げ、その多くを焼却 した。奈良の興福寺では僧侶全員が還俗 ( げんぞく ) して隣の春日神社の神官になり、新神司 ( しん しんし ) と称 した。

      そのために興福寺は無住の寺となり、その管理は 西大寺 ( さいだいじ ) や 唐招提寺に依頼する結果となった。また神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の場合は、境内にあった真言宗の 十二ヶ寺の塔頭 ( たっちゅう、末寺 ) の僧侶が還俗 し、いずれも神官となり、総神主と称 した。

      そして建物はとりはらわれ仏像 ・ 仏画 ・ 什物 ( じゅうもつ、日常使用する道具類 ) ・ 経典の類もその多くは破壊された。

    この一連の廃仏毀釈運動はまさに仏教文化に対する 焚書坑儒 ( ふんしょ こうじゅ、注参照 )ともいうべきもので、全国いたるところで、数多くの文化財が灰燼 ( かいじん、灰と燃えさし ) に帰 し多くの寺院が破壊されました。

    注 : 焚書坑儒 ( ふんしょ こうじゅ ) とは

    中国 秦 ( しん ) の始皇帝が行った思想弾圧のことで、紀元前 213 年に医薬 ・ 卜 筮 ( ぼくぜい、占い ) ・ 農事関係以外の書物の所有を禁じた令を制定した。これにより、民間人が所持していた書経 ・ 詩経 ・ 諸子百家 ( しょし ひゃっか、中国の春秋時代から戦国時代にかけての諸学者 ・ 諸学派の総称 ) の書物は、ことごとく郡の守尉 ( しゅい、役人 ) に提出させ、焼き払うことが命 じられた ( 焚書 )。

    翌年 ( 紀元前 212 年 ) には批判的な言動をした咸陽 ( かんよう ) の方士 [ ほうし、中国古代の方術を行なった人のことで、方術とは 「 卜 筮 」 ( ぼくぜい、占いのこと ) ・ 医術 ・ 錬金術などを指す ] や儒者 ( じゅしゃ、儒教を研究し その教えを説く人 ) 460 人余り を生き埋めにし虐殺した ( 坑儒 )。


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