刑罰と町奉行所


[1:日本最古の法律 ]

日本最古の成文法典 ( 法律 ) といえば、第 42 代 ・ 文武 ( もんむ ) 天皇 ( 在位 683〜707 年 ) の時代の大宝元年 ( 701 年 ) に制定された、国家の基本法である 大宝律令 ( たいほうりつりょう ) ですが、律 ( りつ、) 6 巻、令 ( りょう ) 11 巻から成り立っていました。それを更に改正した養老律令 ( ようろうりつりょう ) が第 44 代 ・ 元正 ( げんしょう ) 天皇の時代に作られましたが、施行されたのは 757 年からでした。

とは法律の意味ですが特に古代においては犯罪や刑罰について定めた 刑法典 のことであり、( りょう ) とは行政の組織や作用に関する、国の行政組織法、国家公務員法などのように 国家の組織全般 について定めた法典のことでした。令制に基づき神祗官( じんぎかん、天神地祇の祭祀を執行し、諸国の官社を司る )と国政を統括する太政官 ( だじょうかん、当時の読みでは、オオイ・マツリゴトノ・ツカサ ) が置かれましたが、その下には行政の実務を担当する八つの省が設置されました。

その中には刑罰や裁判を司る役所の 刑部省 ( ぎょうぶしょう ) がありましたが、「 うたえ ( 訴え ) のつかさ ( 司 )」、あるいは 「 うたえただす( 訴え 糺す ) のつかさ ( 司 )」 とも呼ばれました。

刑部省は司法全般を管轄し、裁判 ・ 監獄の管理 ・ 刑罰の執行等を担当しましたが、軽い罪については各役所の司 ( つかさ 、責任者 ) が判決を下しました。

  1. 郡司は、笞罪 ( ちざい、むちで叩く ) のみを決する。

  2. 在京諸司は、笞罪 ・ 杖罪 ( じょうざい、むちよりも太い、棒で打つ ) を決する。

  3. 国司は、杖罪 ・ 徒罪 ( ずざい、懲役刑 ) を決する。

  4. 刑部省は、徒罪 ( ずざい ) を決する。

  5. 太政官は、流罪 ( るざい、近流 ・ 中流 ・ 遠流 )を決する。

  6. 天皇は、死罪 ( 絞 ・ 斬 ) を決する。

と定められていました。しかし弘仁 8 年 ( 818 年 ) 年に第 52 代 ・ 嵯峨天皇 ( 在位 809〜823 年 ) が死刑を停止し、該当者を流罪に処して以来、保元 ( ほうげん ) 元年 ( 1156 年 ) に起きた 皇位継承に関する崇徳 ( すとく ) 上皇と第 77 代 ・ 後白川天皇 ( 在位 1155〜1158 年 ) の対立で、京都に起きた 保元の乱により死刑が復活するまでは、 341 年もの間 死刑が執行されず 、世界史上でも極めて希なことでした 。

[ 2:律令時代の流刑 ]

( 2−1、流刑の第 1 号とは )

記紀 ( 古事記、日本書紀 ) の記録に残る( る 、流刑のこと ) の最初とは、第 19 代 ・ 允恭 ( いんぎょう ) 天皇の 24 年 ( 未だ元号が無かった時代、435 年 ? ) に、皇女の 軽大娘女 ( かるの おおいらつめ ) が、同じ母を持つ長兄の 木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) と 近親相姦 をしましたが、古事記によれば伊予国 ( いよ、愛媛県 ) に流刑された木梨軽皇子を追って伊予に行き、そこで心中をしたとされます。

しかし日本書紀によれば、允恭 天皇には 9 人の子供 ( 男 5 人、女 4 人 ) がいて木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) は長男であり、軽大娘女 ( かるの おおいらつめ ) は次女でしたが、皇位を継ぐべき木梨軽皇子に代わって、 彼女だけが伊予に流刑にされた と記されていました。その後の木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) については 暴虐 ・ 淫乱な性格 のために臣下に背かれ、三男の穴穂皇子 ( あなほの みこ、後の第 20 代 安康天皇 ) の軍に囲まれ自殺したとされます。

( 2−2、近親結婚 )

黄金仮面

近親相姦はともかく、近親結婚はかつての 「 日本の天皇家 」 だけのことではなく、エジプトで発掘された黄金製の仮面でお馴染みの ツタンカーメン王の ミイラの DNA 解析から、彼の父親とは エジプトで宗教改革を行った 「 アクエンアテン 王 」 であり、母は 「 アクエンアテン 王の姉妹 」 で、つまり王と王妃は兄と妹の関係であったことが判明しました。

ツタンカーメン

当時は、近親結婚が珍しいことではなく、こうした累積が推定年齢 17〜19 才で死んだ ツタンカーメン王の病弱という 遺伝的体質 をもたらしました。近親相姦と近親婚は社会的認知度において大きく異なりますが、権力者が長い世代にわたって同族による支配を維持すると、 血統の純潔性 を保とうとする理由から近親婚が多くなり、その結果生物学の法則に従い 虚弱 ・ 矮小 ・ 生殖能力喪失 が起きるといわれています。

13 世紀以後、 オーストリアなどの中部 ヨーロッパを中心に勢力を誇った名門王家に ハップスブルグ ( Habsburg ) 家 がありましたが、その特徴は婚姻により領土を拡大したことでした。1556年に ハップスブルグ家は オーストリア系と スペイン系の二つに分裂しましたが、婚姻により領土が ハップスブルグ一族以外の者に継承されるのを防ぐために、 スペイン系 ハップスブルグ王家は近親結婚を繰り返しました。

カルロス2世

青い血 ( Blue blood 、高貴な血統 ) を守るために王家では、伯父と姪などの近親結婚を繰り返した結果、誕生した子供の多くが幼くして死亡し、あるいは カルロス 2 世 ( 写真 ) のように虚弱で知的障害を持つ王位継承者が生まれましたが、彼には世継ぎの子供が無く、 1700 年に スペイン ・ ハップスブルグ王家は断絶しました。つまり名門王家滅亡の原因は、生物学の法則がもたらした 近親結婚の弊害でした

( 2−3、大宝律令以後の流刑 )

軽大郎女 ( かるの おおいらつめ ) の事件から 260 年以上経った大宝元年に、前述した大宝律令 ( 701 年 ) が制定されましたが、律の中には 3 種類の流刑 ( るけい ) が規定されました。 律令に記された距離の単位である 「 里 」 は中国からもたらされたもので、隋 ・ 唐の時代により ・ 地域により 1 里 = 400〜600 メートルと変化したので、中間の 500 メートル と仮定すれば、

  1. 近流 ( こんる ) は、都から 300 里 ( 約 150 キロメートル ) 離れた地域に流す。

  2. 中流 ( ちゅうる ) は、 560 里 ( 約 280 キロメートル )

  3. 遠流 ( おんる ) は、 1,500 里 ( 約 750 キロメートル )

ということでした。流刑 ( るけい ) に処せられた者は現地で遊んで暮らしていたわけではなく、 常流 の場合は労役 ( 現代風にいえば懲役 1 年 )に従事し、それを終え、または大赦により流刑を免じられた場合には、流刑地で元通りに戸籍を復旧し、口分田 ( くぶんでん、班田収授法に規定された面積 2 段の田 ) が支給されました。なお常流の他に、重罪人については労役 3 年の 加役流 ( かやくりゅう ) を科すこともありました。

続 ( しょく ) 日本紀によれば、神亀元年 ( 742 年 ) からは距離によらず具体的に 「 流配遠近の規則 」 を定め、遠流 ( おんる ) では伊豆大島、安房 ( 房総半島 )、常陸、佐渡、土佐と定め、中流では伊予、諏訪とし、近流 ( こんる ) では越前、安芸としました。

ちなみに奈良時代の僧 弓削 ( ゆげ ) の道鏡 が、時の天皇である未婚の第 46 代 ・ 孝謙女帝 ( 在位 749〜758 年、重祚して第 48 代 ・ 称徳女帝、在位 764〜770 年 ) と男女の関係を持ちました。

彼は 破戒 ( はかい、宗教的戒律を破った ) 僧でありながら女帝の愛人として出世を極めましたが、女帝が死ぬと直後の 770 年に、私の故郷である下野国 ( しもつけのくに、栃木県 ) の薬師寺に流されました。当時としては距離的にも文化的にも遠流 ( おんる ) も遠流、大遠流でした。詳しくは ここにあります


奈良時代から室町時代にかけての、著名な流罪人は下表の通り

 年 代 人  物流刑地理 由
允恭天皇24年

(435年?)

軽大娘女

(かる のおおいらつめ)

伊予近親相姦
文武天皇3年

(699年)

役 小角

(えんのおずぬ)

伊豆大島宗教的
治承1年

(1177年)

僧 俊寛鬼界ヶ島平家打倒の

陰 謀

承久3年

(1221年)

後鳥羽法皇隠岐政治的

(承久の乱)

順徳上皇佐渡
土御門上皇土佐
文永8年

(1271年)

僧 日蓮伊豆/佐渡宗教的
元弘2年

(1332年)

後醍醐天皇隠岐政治的

(正中・元弘の変)

永享6年

(1434年)

観世元清佐渡流派争い


流罪人表を見て感じたことは天皇 ・ 上皇という最高の権威者が 4 人も流罪になっていることです。当時の鎌倉幕府の実権は飾り物の将軍ではなく、北条氏が世襲により独占した執権 ( しっけん ) 職が握っていましたが、鎌倉幕府に対して反抗する者、治安を乱す者は、天皇 ・ 上皇といえども容赦 ( ようしゃ ) しないとする、北条氏の強い意志の現れでした。

天皇・上皇側が企てた軍事 クーデターに荷担した公家 ・ 武士達の領地 ・ 荘園はすべて没収されましたが、二つの乱を境にして天皇は軍事 ・ 政治上の影響力を失って 単なる飾り物 となり、王朝文化は次第に消滅して行きました。

[ 3:検非違使 ]

検非違使

検非違使 ( けびいし ) とは読んで字の如く、非違 ( ひ い、法律に外れている 非法や 違法 ) を検察 ( 誤りや 不正の有無などを調べる ) するのを役目とする検非違使庁に所属する役人のことですが、後の関白や中納言と同様に律令に規定された官位 ・ 官職ではないので、 令外官 ( りょうげのかん ) でした。

右上図は長さ 26 メートルにおよぶ国宝の 「 伴 ( ばん ) 大納言絵巻 」 に描かれた、武装した検非違使たちです。検非違使は平安時代初期の弘仁年間 ( 810〜824 年 ) に設置され、当初は京都市中における 強盗 ・ 殺人 ・ 謀叛 ( むほん ) 人など取り締まりや逮捕が中心でしたが、のちに訴訟や裁判も扱うようになり、その権威が強大になりました。

そのために律令制のもとで設置されていた刑部省 ( ぎょうぶしょう ) はその職務 ・ 権限を次第に検非違使庁に奪われることになり、有名無実化しました。

検非違使

平安時代前期の貞観 8 年 ( 866 年 ) に平安京の南面の正門である応天門が放火されるという事件が置きましたが、藤原氏の密告により大納言 ・ 伴善男 ( ばんのよしお ) が逮捕され、有罪となり流刑に処されました。

上の絵 ( 伴 大納言絵巻 ) は放火の疑いを掛けられた伴 ( ばん ) 大納言を逮捕に向かう検非違使の一行ですが、一説によれば藤原氏の陰謀であり、これにより伴 氏 ( 大友氏 ) は没落し、藤原氏による摂関政治 ( せっかんせいじ、摂政と 関白になり政権を握った政治形態 ) の基礎を築くことになりました。

[ 4:御成敗式目 ( ごせいばいしきもく ) ]

式目 の 「 式 」 とは法式の施行規則のことですが、「 目 」 とは条目のことであり、式目とは法令 ・ 規則を箇条書きにしたものでした。源頼朝が鎌倉幕府を開いた当時 ( 1185 年 ) には裁判に関する成文法が存在しておらず、表向きは養老律令 ・ 公家法には拠らずに、武士の実践道徳を 「 道理 」 として道理 ・ 先例を基づく裁判をしてきたとされます。

鎌倉時代の鎌倉幕府の将軍を補佐し政務を統括する最高職にあった第 3 代の執権 ( しっけん ) 北条泰時 ( 1183〜1242 年 ) が、 1225 年に法曹官僚系の評定衆 ( ひょうじょうしゅう ) を設置しましたが、後に彼らに命じて編纂させたのが貞永元年 ( 1232 年 ) に完成した御成敗式目 ( ごせいばいしきもく ) といわれた鎌倉幕府の法律集でした。

貞永式目、関東式目ともいわれますが、源頼朝以来の慣習法や先例などを基に成文化したもので全部で 51 箇条からなり、以後徳川家康が 1615 年に最初の 13 箇条から成る武家諸法度 ( ぶけしょはっと ) を制定するまで、武士の基本法として機能し続けました。

[ 5:江戸時代の裁判制度 ]

江戸時代にはどのような人がそれぞれの役所で、裁判 ( 司法判断 )をおこなってきたのかをみると

  1. 江戸初期には徳川家康、秀忠、家光などの将軍自身が重要案件につて直接審理し判決を下しましたが、これを御直裁判 ( おじき さいばん ) と称しました。1721 年以降は将軍あるいは将軍の世継ぎが、江戸城内でおこなわれる重要案件の裁判の様子を聽くことになりましたが、これを 公事上聽 ( くじ じょうちょう ) と呼びました。

  2. 老中 ( ろうじゅう )、若年寄 ( わかどしより ) による裁判 ( 司法判断 )。

  3. 管轄に応じて各奉行 ( 寺社奉行 ・ 町奉行 ・ 勘定奉行 ) による単独の裁判。

  4. 道中奉行による裁判。

  5. 火附盗賊改 ( ひつけ とうぞく あらため ) による判断

  6. 大目付 ( おおめつけ ) ・目付による司法判断

  7. 評定所 ( ひょうじょうしょ ) による判断。これは老中の諮問機関であり、寺社奉行 ・ 町奉行 ・ 公事方勘定奉行の三者により、内容によっては御目付、御徒目付 ( おかちめつけ ) が加わり五者で、さらに老中 ( ろうじゅう ) 1 名などが加わり 六者による合議で決めましたが、現代の最高裁判所小法廷 ( 5 名 ) のようなものでした。

制度の面からいえば江戸時代の裁判制度は 原則 1 審制 であり、犯罪 ・ 訴訟内容の 重要度や 判断の困難性に応じて担当する審理部所が異なるという制度でした。そのため裁判の結果に不満があっても控訴の手段が無く、泣き寝入りをしなければなりませんでしたが、救済の道が全く無かったわけではありませんでした。めったに無いことですが、

  1. 目安箱 ( めやすばこ ) に判決の誤りがある旨を書面にして入れる。: 目安箱とは亨保の改革 ( 1716〜1745 年 ) で 八代将軍徳川吉宗が評定所門前に設置した直訴状 ( じきそじょう ) を受理する箱のことであり、毎月 3 回将軍が投書を閲読しました。

  2. 駕籠訴 ( かごそ ) をする : 江戸時代の越訴 ( おっそ ) の 一つ ( 注参照 )。

  3. 門訴 ( もんそ ) をする : 江戸時代に多数の者が領主や地頭、代官の門前に集まり訴えること。

の方法でしたが、死罪 ・ 遠島などの重罪犯人に対する刑の執行には老中の書面による同意が必要でした。

注:) 駕籠訴
駕籠訴とは控訴 ・ 上告の制度がなかった時代にその目的のためだけでなく、藩主 ・ 官吏の暴政 ・ 腐敗を訴える手段にも用いられました。駕籠訴をしようとする者は老中 ・ 奉行などの通行を待ち受け、「 願います願います 」 と叫び、訴状を差し出しました。

これに対してお供の者はこれを突き飛ばすこと 2 度。3 度目にしてようやく訴状を受け取り、当人の身柄を拘束するのが駕籠訴に対する当時の手続き ・ 慣習法でした。駕籠訴は律令制以降の全ての期間を通じて禁止されていましたが、特に徳川幕府は訴えを取り上げても、処分が重ければ死罪などを科しました。

宗吾霊堂

千葉県の方はご存じと思いますが、東京の上野と成田空港を結ぶ京成電鉄線で成田の近くに 宗吾 ( そうご ) 参道駅 がありますが、佐倉藩主堀田上野介の圧政により、農民が困窮したのを救うべく、名主をしていた 佐倉宗吾 ( 本名、木内惣五郎 ) が 、1653 年 に上野寛永寺に墓参する第 4 代将軍家綱に駕籠訴 ( かごそ ) をしました。

その結果農民は圧政から解放されましたが、宗吾とその家族は現在 宗吾霊堂 が建てられている地で 磔 ( はりつけ ) にされました。参道駅から徒歩で行ける距離に霊堂がありますが、何でも見てみよう、行ってみようの好奇心が旺盛だった私は、現役時代に一度訪れました。

[ 6:御定書百箇条 ]

吉宗像

江戸時代には法令一般のことを御定書 ( おさだめがき ) と称しましたが、その中でも江戸幕府の司法法典である 公事方 御定書 ( くじかた ・ おさだめがき ) ができたのは、前述した 8 代将軍吉宗の寛保 2 年 ( 1742 年 ) のことでした。これには上 ・ 下 2 巻あり、上巻は司法並びに警察に関する法令 81 ヶ条を収め、下巻には刑法及び司法規定 100 ヶ条から成っているので、下巻を 御定書百箇条 ( おさだめがき ・ ひゃっかじょう ) と呼び幕府役人の裁判指針としました。

武家政治における司法の原則は

民は依らしむべし、知らしむべからず

ですが、言葉の出典は論語の泰伯であり、子曰、民可使由之、不可使知之 、[ 孔子 いわく、民は 之 ( これ ) に 由 ( よ ) らしむ 可 ( べ ) し、之を知らしむ可 ( べ ) からず。] でしたが、この解釈も時代により変化しています。御定書百箇条は 一般には公表されない点から 秘密法典 であり、庶民の目に触れるものではありませんでした。つまり庶民は、犯罪に該当する行為とそれに対する刑罰を、伝聞により、あるいは自身の処罰体験により知ることになりました。

( 6−1、刑罰の種類 )


徳川時代の刑罰の種類 ( 正刑 )

 刑 罰 種 類備 考
敲 ( たた ) き軽 敲き ( 50 回 )
重 敲き ( 100 回 )
追 放軽 追放注1−1 項参照
中 追放注 1−2 項 参照
重 追放注1−3 項参照
所払い居住地より追い払う
江戸払い江戸市内に居住不許可
江戸10里四方払10 里四方に居住不許可
死 罪斬 罪断 首
火 罪火あぶり
獄 門斬った首を獄門台にさらす
はりつけ前 述
鋸引き注 2 参照
付 加 刑闕 所( けっしょ )財産没収のことで、追放以上の刑に科す
入れ墨追放、敲き以上の刑に科す
晒 ( さら ) し単独で、または付加して
引き回し斬罪以上の刑に科す
注:1 ) 追放

犯罪者を一定の地域に居住することを禁じた刑であり、当該罪人の住む国、悪事を働いた国にも立ち入り禁止。

  1. 軽 追放とは江戸 10 里 四方 ・ 京都 ・ 大阪 ・ 東海道筋 ・ 日光 ・ 日光道中での居住を禁じ、田畑 ・ 家屋敷のみを没収。

  2. 中 追放とは武蔵 ・ 山城 ・ 摂津 ・ 和泉 ・ 大和 ・ 肥前 ・ 東海道筋 ・ 木曽路筋 ・ 下野 ・ 日光道中 ・ 甲斐 ・ 駿河国 ・ での居住を禁じ、田畑 ・ 家屋敷のみを没収。

  3. 重 追放とは、関 八州 ・ 山城 ・ 摂津 ・ 和泉 ・ 大和 ・ 肥前 ・ 東海道筋 ・ 木曽路筋 ・ 甲斐 ・ 駿河国に居住することを禁じ、その田畑・家屋敷 ・ 家財 を没収する。

追放と 「 所払い、江戸払い 」 との違いは、追放では財産を没収する闕所 ( けっしょ ) 処分が付加されましたが、所払いには財産の没収がありませんでした。郡部に住みあるいは 村の者であれば居住する村への立ち入りを、江戸町人であれば居住する町への立ち入りを禁止しました。

江戸払いとは品川 ( 東海道 )、千住 ( 奥州街道 )、板橋 ( 中仙道 )、両国橋、四ツ谷大木戸 ( 甲州街道 ) などの境界から江戸の地域内に入ることを禁じましたが、何事にも抜け道があるもので、旅行中であれば ( 旅行中とすれば ) 通行しても良いとされ、立ち入り禁止の地域でも草鞋 ( わらじ ) ばきであればお咎 ( とが ) めなしでした。

注: 2 ) 鋸引き

鋸引き

御定書百箇条のうちの 71 条によれば鋸引は、主殺し、親殺しの大罪人に対しておこなわれましたが、首だけ出して穴に埋め、刀で両肩に傷を付け、その血を鋸 ( のこ ) に塗ってそばに置き、2 日間晒 ( さら ) しておきました。その間 望む者には鋸で罪人の首を挽 ( ひ ) くことができましたが、そのあと引き回しの上、磔 ( はりつけ ) にしました。

( 6−2、日本の礼儀と習慣のス ケッチ )

ところで、ペリーの黒船来航に遅れること 11 年目に イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日した イギリス人画家の シルバー ( Silver ) が、元治元年 ( 1864 年 ) から翌年にかけてまとめた江戸幕末当時の日本における風俗習慣などを描いた、「 日本の礼儀と習慣の スケッチ 」 ( Sketches of Japanese manners and customs ) という本があります。

この本は 1867 年に ロンドンで出版されましたが、下記の 2 枚目を除きその本に描かれた絵図からの引用です。人物の鼻が高く日本人らしくないのは、そのせいでしょうか!。

御定書百箇条 の条文の 一例を示しますと、

    たたきの刑

  1. 湯屋で人の着物に着替えた者 ( 板の間かせぎ ) は、敲 ( たたき ) 50 回。

  2. 巾着切り ( スリ )、袂探し ( たもとさが し ) の類は入れ墨または敲 ( たたき ) 100 回 。

  3. 軽い品でも度々窃盗を繰り返す者は死罪。

    不義密通

  4. 金子 ( きんす ) 10 両以上 、雑物 ( ざつぶつ ) は金に換算して 10 両以上を盗んだ者は 死罪。

    獄門首

  5. 人を殺して盗みを働いた者は、斬首の付加刑である獄門 ( ごくもん、 さらし首 )。

  6. 盗人の手引きをした者は死罪。

  7. 身体障害者 の所持品を盗み取った者は 死罪 。殺して所持品を盗んだ者は、( 江戸市中 ) 引き回しの上、獄門。


( 6−3、少年法の規定 )

最近、身障者やお年寄りを狙う ひったくり犯罪が増えていますが、足が弱く追いかけられないからだそうです。江戸時代には 社会的弱者を 死刑という厳罰 によって犯罪から守って いましたが、現代では 人権屋 弁護士の主張を受け入れて、 被害者を守らずに 弁護士にとって お客になる 加害者の少年 だけを、 「 罪の償い 」 もさせずに 少年法により手厚く保護 しています。

前述した御定書百箇条にも未成年に対する規定がありましたが、江戸時代には成人並に刑事責任が問える年齢は16 才から とし、それまでは成人の刑よりも軽くしました。たとえば、

  1. 子供心でわきまえがなく人を殺した者は、15 才まで親類に預け置き、それ以後は遠島。

  2. 子供心でわきまえなく火をつけた者は、15 才まで親類に預け置き、遠島。

  3. 盗みをした者は、大人のお仕置きよりも 1 等軽く申しつける。

  4. 親に縁座 ( えんざ、連座とほぼ同じ意味 ) して遠島追放になる息子が 15 才まで親類に預け置くところ、( 本人が ) 出家したいと申し、寺院より願いでた場合には出家させてもよい。

[ 7:小塚原刑場 ]

江戸時代に、打ち首以上の重罪 ( 火あぶり、はりつけ )に付加した刑に、引き回し、晒 ( さらし ) し、前述した獄門 ( ごくもん ) がありました。

引き回し

引き回しとは、小伝馬町 ( こでんまちょう ) の牢屋敷から罪人を引き出し馬に乗せ、 みせしめのために 市中を引き回し千住にある 小塚原刑場 ( こづかっぱら ) か 品川 ・ 鈴ヶ森の刑場に向かいましたが、死出の旅ということで、かつては罪人の求めに応じて道中で好きな物を飲食させたり煙草を吸わせたりしました。絵は前述した シルバーが描いたものです

フランスでもかつては ギロチンによる断頭処刑の直前に、 慈悲の 一杯 ( A cup of charity ) として、1 杯の ワインか、タバコが与えられるましたが、現在は死刑制度廃止のために 慈悲の杯は必要なくなりました

はりつけ

左図は刑場における磔 ( はりつけ ) の様子ですが、長さ 2 間 ( 3.6 メートル)の柱に腕木 ・ 足木 ・ 男性の場合は またがる腰掛木を取り付け、これを地面に寝かせて囚人を縛り付けてから柱を立て、2 人の非人が槍で左右の脇腹から反対側の肩口に穂先が突き出るように、絶命するまで 20〜30 回程度も交互に突き上げました。死後はそのままの姿で 3 日間 晒 ( さら ) しました。

小塚原刑場近くには、両国 ・ 回向院 ( えこういん ) の別院 が「 小塚原回向院 」 としてありますが、寺の住職でした川口厳孝の手記によれば、当時の小塚原刑場付近の様子について、

磔(はりつけ)

一つの人家もなく、草木森々 ( そうもく ・ しんしん ) と繁茂 ( はんも ) して悲愴惨憺 ( ひそう ・ さんたん、悲しく いたましくて見るに忍びない ) の状 胸に迫り、特に夜間は 一人の行人 ( こうじん、通行人 ) もなく、唯悲雲惨月 ( ただ ・ ひうん ・ さんげつ ) の此 ( こ ) の原中 ( はらなか ) を照らして、草虫の或いは血路 ( けつろ、血が流れた跡 ) に泣き、野犬の或は遠く吠えて、茲 ( ここ ) に其 ( そ ) の肉を求め−−−。

とありましたが、写真は 「 はりつけ 」 後に晒 ( さら ) された遺体 ( 場所は不明 )です。小塚原刑場に隣接する延命寺にある首切り大仏の説明板によれば、ここで処刑された人は江戸幕府の治世 250 年間に、 20 万人にのぼりました。


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