刑罰と町奉行所
[1:日本最古の法律 ]日本最古の成文法典 ( 法律 ) といえば、第 42 代 ・ 文武 ( もんむ ) 天皇 ( 在位 683〜707 年 ) の時代の大宝元年 ( 701 年 ) に制定された、国家の基本法である 大宝律令 ( たいほうりつりょう ) ですが、律 ( りつ、) 6 巻、令 ( りょう ) 11 巻から成り立っていました。それを更に改正した養老律令 ( ようろうりつりょう ) が第 44 代 ・ 元正 ( げんしょう ) 天皇の時代に作られましたが、施行されたのは 757 年からでした。律 とは法律の意味ですが特に古代においては犯罪や刑罰について定めた 刑法典 のことであり、 令 ( りょう ) とは行政の組織や作用に関する、国の行政組織法、国家公務員法などのように 国家の組織全般 について定めた法典のことでした。令制に基づき神祗官( じんぎかん、天神地祇の祭祀を執行し、諸国の官社を司る )と国政を統括する太政官 ( だじょうかん、当時の読みでは、オオイ・マツリゴトノ・ツカサ ) が置かれましたが、その下には行政の実務を担当する八つの省が設置されました。 その中には刑罰や裁判を司る役所の 刑部省 ( ぎょうぶしょう ) がありましたが、「 うたえ ( 訴え ) のつかさ ( 司 )」、あるいは 「 うたえただす( 訴え 糺す ) のつかさ ( 司 )」 とも呼ばれました。 刑部省は司法全般を管轄し、裁判 ・ 監獄の管理 ・ 刑罰の執行等を担当しましたが、軽い罪については各役所の司 ( つかさ 、責任者 ) が判決を下しました。
[ 2:律令時代の流刑 ]( 2−1、流刑の第 1 号とは )記紀 ( 古事記、日本書紀 ) の記録に残る 流 ( る 、流刑のこと ) の最初とは、第 19 代 ・ 允恭 ( いんぎょう ) 天皇の 24 年 ( 未だ元号が無かった時代、435 年 ? ) に、皇女の 軽大娘女 ( かるの おおいらつめ ) が、同じ母を持つ長兄の 木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) と 近親相姦 をしましたが、古事記によれば伊予国 ( いよ、愛媛県 ) に流刑された木梨軽皇子を追って伊予に行き、そこで心中をしたとされます。 しかし日本書紀によれば、允恭 天皇には 9 人の子供 ( 男 5 人、女 4 人 ) がいて木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) は長男であり、軽大娘女 ( かるの おおいらつめ ) は次女でしたが、皇位を継ぐべき木梨軽皇子に代わって、 彼女だけが伊予に流刑にされた と記されていました。その後の木梨軽皇子 ( きなしかるの みこ ) については 暴虐 ・ 淫乱な性格 のために臣下に背かれ、三男の穴穂皇子 ( あなほの みこ、後の第 20 代 安康天皇 ) の軍に囲まれ自殺したとされます。 ( 2−2、近親結婚 )
近親相姦はともかく、近親結婚はかつての 「 日本の天皇家 」 だけのことではなく、エジプトで発掘された黄金製の仮面でお馴染みの ツタンカーメン王の ミイラの DNA 解析から、彼の父親とは エジプトで宗教改革を行った 「 アクエンアテン 王 」 であり、母は 「 アクエンアテン 王の姉妹 」 で、つまり王と王妃は兄と妹の関係であったことが判明しました。
当時は、近親結婚が珍しいことではなく、こうした累積が推定年齢 17〜19 才で死んだ ツタンカーメン王の病弱という 遺伝的体質 をもたらしました。近親相姦と近親婚は社会的認知度において大きく異なりますが、権力者が長い世代にわたって同族による支配を維持すると、 血統の純潔性 を保とうとする理由から近親婚が多くなり、その結果生物学の法則に従い 虚弱 ・ 矮小 ・ 生殖能力喪失 が起きるといわれています。 13 世紀以後、 オーストリアなどの中部 ヨーロッパを中心に勢力を誇った名門王家に ハップスブルグ ( Habsburg ) 家 がありましたが、その特徴は婚姻により領土を拡大したことでした。1556年に ハップスブルグ家は オーストリア系と スペイン系の二つに分裂しましたが、婚姻により領土が ハップスブルグ一族以外の者に継承されるのを防ぐために、 スペイン系 ハップスブルグ王家は近親結婚を繰り返しました。
青い血 ( Blue blood 、高貴な血統 ) を守るために王家では、伯父と姪などの近親結婚を繰り返した結果、誕生した子供の多くが幼くして死亡し、あるいは カルロス 2 世 ( 写真 ) のように虚弱で知的障害を持つ王位継承者が生まれましたが、彼には世継ぎの子供が無く、 1700 年に スペイン ・ ハップスブルグ王家は断絶しました。つまり名門王家滅亡の原因は、生物学の法則がもたらした 近親結婚の弊害でした 。 ( 2−3、大宝律令以後の流刑 ) 軽大郎女 ( かるの おおいらつめ ) の事件から 260 年以上経った大宝元年に、前述した大宝律令 ( 701 年 ) が制定されましたが、律の中には 3 種類の流刑 ( るけい ) が規定されました。 律令に記された距離の単位である 「 里 」 は中国からもたらされたもので、隋 ・ 唐の時代により ・ 地域により 1 里 = 400〜600 メートルと変化したので、中間の 500 メートル と仮定すれば、
続 ( しょく ) 日本紀によれば、神亀元年 ( 742 年 ) からは距離によらず具体的に 「 流配遠近の規則 」 を定め、遠流 ( おんる ) では伊豆大島、安房 ( 房総半島 )、常陸、佐渡、土佐と定め、中流では伊予、諏訪とし、近流 ( こんる ) では越前、安芸としました。 ちなみに奈良時代の僧 弓削 ( ゆげ ) の道鏡 が、時の天皇である未婚の第 46 代 ・ 孝謙女帝 ( 在位 749〜758 年、重祚して第 48 代 ・ 称徳女帝、在位 764〜770 年 ) と男女の関係を持ちました。 彼は 破戒 ( はかい、宗教的戒律を破った ) 僧でありながら女帝の愛人として出世を極めましたが、女帝が死ぬと直後の 770 年に、私の故郷である下野国 ( しもつけのくに、栃木県 ) の薬師寺に流されました。当時としては距離的にも文化的にも遠流 ( おんる ) も遠流、大遠流でした。詳しくは ここにあります。
天皇・上皇側が企てた軍事 クーデターに荷担した公家 ・ 武士達の領地 ・ 荘園はすべて没収されましたが、二つの乱を境にして天皇は軍事 ・ 政治上の影響力を失って 単なる飾り物 となり、王朝文化は次第に消滅して行きました。
[ 3:検非違使 ]検非違使 ( けびいし ) とは読んで字の如く、非違 ( ひ い、法律に外れている 非法や 違法 ) を検察 ( 誤りや 不正の有無などを調べる ) するのを役目とする検非違使庁に所属する役人のことですが、後の関白や中納言と同様に律令に規定された官位 ・ 官職ではないので、 令外官 ( りょうげのかん ) でした。 右上図は長さ 26 メートルにおよぶ国宝の 「 伴 ( ばん ) 大納言絵巻 」 に描かれた、武装した検非違使たちです。検非違使は平安時代初期の弘仁年間 ( 810〜824 年 ) に設置され、当初は京都市中における 強盗 ・ 殺人 ・ 謀叛 ( むほん ) 人など取り締まりや逮捕が中心でしたが、のちに訴訟や裁判も扱うようになり、その権威が強大になりました。 そのために律令制のもとで設置されていた刑部省 ( ぎょうぶしょう ) はその職務 ・ 権限を次第に検非違使庁に奪われることになり、有名無実化しました。
平安時代前期の貞観 8 年 ( 866 年 ) に平安京の南面の正門である応天門が放火されるという事件が置きましたが、藤原氏の密告により大納言 ・ 伴善男 ( ばんのよしお ) が逮捕され、有罪となり流刑に処されました。 上の絵 ( 伴 大納言絵巻 ) は放火の疑いを掛けられた伴 ( ばん ) 大納言を逮捕に向かう検非違使の一行ですが、一説によれば藤原氏の陰謀であり、これにより伴 氏 ( 大友氏 ) は没落し、藤原氏による摂関政治 ( せっかんせいじ、摂政と 関白になり政権を握った政治形態 ) の基礎を築くことになりました。
[ 4:御成敗式目 ( ごせいばいしきもく ) ]式目 の 「 式 」 とは法式の施行規則のことですが、「 目 」 とは条目のことであり、式目とは法令 ・ 規則を箇条書きにしたものでした。源頼朝が鎌倉幕府を開いた当時 ( 1185 年 ) には裁判に関する成文法が存在しておらず、表向きは養老律令 ・ 公家法には拠らずに、武士の実践道徳を 「 道理 」 として道理 ・ 先例を基づく裁判をしてきたとされます。鎌倉時代の鎌倉幕府の将軍を補佐し政務を統括する最高職にあった第 3 代の執権 ( しっけん ) 北条泰時 ( 1183〜1242 年 ) が、 1225 年に法曹官僚系の評定衆 ( ひょうじょうしゅう ) を設置しましたが、後に彼らに命じて編纂させたのが貞永元年 ( 1232 年 ) に完成した御成敗式目 ( ごせいばいしきもく ) といわれた鎌倉幕府の法律集でした。 貞永式目、関東式目ともいわれますが、源頼朝以来の慣習法や先例などを基に成文化したもので全部で 51 箇条からなり、以後徳川家康が 1615 年に最初の 13 箇条から成る武家諸法度 ( ぶけしょはっと ) を制定するまで、武士の基本法として機能し続けました。
[ 5:江戸時代の裁判制度 ]江戸時代にはどのような人がそれぞれの役所で、裁判 ( 司法判断 )をおこなってきたのかをみると
注:) 駕籠訴 [ 6:御定書百箇条 ]江戸時代には法令一般のことを御定書 ( おさだめがき ) と称しましたが、その中でも江戸幕府の司法法典である 公事方 御定書 ( くじかた ・ おさだめがき ) ができたのは、前述した 8 代将軍吉宗の寛保 2 年 ( 1742 年 ) のことでした。これには上 ・ 下 2 巻あり、上巻は司法並びに警察に関する法令 81 ヶ条を収め、下巻には刑法及び司法規定 100 ヶ条から成っているので、下巻を 御定書百箇条 ( おさだめがき ・ ひゃっかじょう ) と呼び幕府役人の裁判指針としました。 武家政治における司法の原則は 民は依らしむべし、知らしむべからずですが、言葉の出典は論語の泰伯であり、子曰、民可使由之、不可使知之 、[ 孔子 いわく、民は 之 ( これ ) に 由 ( よ ) らしむ 可 ( べ ) し、之を知らしむ可 ( べ ) からず。] でしたが、この解釈も時代により変化しています。御定書百箇条は 一般には公表されない点から 秘密法典 であり、庶民の目に触れるものではありませんでした。つまり庶民は、犯罪に該当する行為とそれに対する刑罰を、伝聞により、あるいは自身の処罰体験により知ることになりました。 ( 6−1、刑罰の種類 )
注:1 ) 追放追放と 「 所払い、江戸払い 」 との違いは、追放では財産を没収する闕所 ( けっしょ ) 処分が付加されましたが、所払いには財産の没収がありませんでした。郡部に住みあるいは 村の者であれば居住する村への立ち入りを、江戸町人であれば居住する町への立ち入りを禁止しました。 江戸払いとは品川 ( 東海道 )、千住 ( 奥州街道 )、板橋 ( 中仙道 )、両国橋、四ツ谷大木戸 ( 甲州街道 ) などの境界から江戸の地域内に入ることを禁じましたが、何事にも抜け道があるもので、旅行中であれば ( 旅行中とすれば ) 通行しても良いとされ、立ち入り禁止の地域でも草鞋 ( わらじ ) ばきであればお咎 ( とが ) めなしでした。
注: 2 ) 鋸引き( 6−2、日本の礼儀と習慣のス ケッチ ) ところで、ペリーの黒船来航に遅れること 11 年目に イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日した イギリス人画家の シルバー ( Silver ) が、元治元年 ( 1864 年 ) から翌年にかけてまとめた江戸幕末当時の日本における風俗習慣などを描いた、「 日本の礼儀と習慣の スケッチ 」 ( Sketches of Japanese manners and customs ) という本があります。 この本は 1867 年に ロンドンで出版されましたが、下記の 2 枚目を除きその本に描かれた絵図からの引用です。人物の鼻が高く日本人らしくないのは、そのせいでしょうか!。 御定書百箇条 の条文の 一例を示しますと、
最近、身障者やお年寄りを狙う ひったくり犯罪が増えていますが、足が弱く追いかけられないからだそうです。江戸時代には 社会的弱者を 死刑という厳罰 によって犯罪から守って いましたが、現代では 人権屋 弁護士の主張を受け入れて、 被害者を守らずに 弁護士にとって お客になる 加害者の少年 だけを、 「 罪の償い 」 もさせずに 少年法により手厚く保護 しています。 前述した御定書百箇条にも未成年に対する規定がありましたが、江戸時代には成人並に刑事責任が問える年齢は16 才から とし、それまでは成人の刑よりも軽くしました。たとえば、
[ 7:小塚原刑場 ]江戸時代に、打ち首以上の重罪 ( 火あぶり、はりつけ )に付加した刑に、引き回し、晒 ( さらし ) し、前述した獄門 ( ごくもん ) がありました。
引き回しとは、小伝馬町 ( こでんまちょう ) の牢屋敷から罪人を引き出し馬に乗せ、 みせしめのために 市中を引き回し千住にある 小塚原刑場 ( こづかっぱら ) か 品川 ・ 鈴ヶ森の刑場に向かいましたが、死出の旅ということで、かつては罪人の求めに応じて道中で好きな物を飲食させたり煙草を吸わせたりしました。絵は前述した シルバーが描いたものです フランスでもかつては ギロチンによる断頭処刑の直前に、 慈悲の 一杯 ( A cup of charity ) として、1 杯の ワインか、タバコが与えられるましたが、現在は死刑制度廃止のために 慈悲の杯は必要なくなりました
左図は刑場における磔 ( はりつけ ) の様子ですが、長さ 2 間 ( 3.6 メートル)の柱に腕木 ・ 足木 ・ 男性の場合は またがる腰掛木を取り付け、これを地面に寝かせて囚人を縛り付けてから柱を立て、2 人の非人が槍で左右の脇腹から反対側の肩口に穂先が突き出るように、絶命するまで 20〜30 回程度も交互に突き上げました。死後はそのままの姿で 3 日間 晒 ( さら ) しました。 小塚原刑場近くには、両国 ・ 回向院 ( えこういん ) の別院 が「 小塚原回向院 」 としてありますが、寺の住職でした川口厳孝の手記によれば、当時の小塚原刑場付近の様子について、
とありましたが、写真は 「 はりつけ 」 後に晒 ( さら ) された遺体 ( 場所は不明 )です。小塚原刑場に隣接する延命寺にある首切り大仏の説明板によれば、ここで処刑された人は江戸幕府の治世 250 年間に、 20 万人にのぼりました。
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