解体新書、雑感
[ 1:翻訳の動機 ]解体新書といえば日本で刊行された初の人体解剖図書であり、オランダの医学書である ターヘル ・ アナトミア ( 右の写真 )を、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが、苦労して日本語に翻訳したことはご存じの事と思います。
オランダ語に精通していたわけでもない彼らが、難しい医学の専門書をなぜ翻訳したのでしょうか?。しかも杉田玄白自身について言えば、それ以前に オランダ人の商館長が長崎から江戸を訪れた際に、通詞 ( 通訳 ) として同行した西 善三郎から オランダ語習得の困難さを聞かされて、一旦はその習得を諦めた経緯がありました。 それまで日本の医者は中国から伝来した漢方医学を学びましたが、人体の構造については 五臓 六腑などという言葉を知るのみで、それがどういう物なのか内臓を見た医者もなく、どういう働きをするのかも知らない状態でした。ある時杉田玄白 (1733〜1817 年 ) は オランダ語の通詞 ( 通訳 ) が持っていた医学書の、「 ターヘル ・ アナトミア 」 に掲載されていた人体解剖図を初めて見て衝撃を受けましたが、福井 ・ 小浜藩の藩医であった彼は家老に早速頼み込んで高額の金 3 両を出して貰い、貴重な本を購入することができました。 彼は オランダ語の文章は読めなかったものの、初めて見た本の精密な人体解剖図に驚くと共に、従来の 漢方医学が説くところの人体の構造とは大きな違いがある のを知り、どちらの説が正しいのか実際に確かめる必要を感じました。そこで同じ考えを持つ仲間の医師達とも相談して江戸町奉行所に対し、医学研究の為に刑死人の腑分け ( 解剖 ) を申請しました。ある日の夕方に奉行所から、明日千住にある小塚原 ( こづかっぱら、刑場、現、東京都荒川区南千住 ) において腑分けをする旨の連絡がありました。 翌日杉田玄白は購入したばかりの医学書、「 ターヘル ・ アナトミア 」を懐にして喜び勇んで刑場に向かいましたが、その途中で待ち合わせた前野良沢も同じ医学書を既に長崎で手に入れ、持参して来たことを知りました。
今日こそは漢説 ( 漢方医学 ) が正しいか、オランダの腑分 ( ふわけ、解剖 ) 絵図が正しいのか、試す時でござるといって 二人は期待を新たにしました。
[ 2:腑分け ( 解剖 )]医師たち 6 人は連れだって小塚原にある腑分けの場所へ行きましたが、刑場の片隅には蓆 ( むしろ ) で囲った粗末な仮小屋が設けられていて、そこが腑分けの場所でした。死刑囚に対する打ち首、獄門の刑は半刻 ( はんとき = 1 時間 ) 前に既に執行済みであり、首は獄門台に架けられて 「 晒 ( さら ) し首 」 にされていましたが、それは老婆のものでした。彼女は京都生まれの 青茶婆 ( あおちゃばばあ ) と呼ばれた悪女でしたが、子供の養育料を目当てに子供を貰い受けては、何人も殺すという大罪を犯しました。
写真は青茶婆のものではなく、別人の晒 ( さら ) し首です。 獄門台は地上高 3 尺 5 寸 ( 105 センチ )、長さ 4 尺 ( 120 センチ、1 人用の場合 )、幅 1 尺 ( 30 センチ )、厚さ 2 寸 ( 6 センチ ) の板と決められていて、中央には長い 「 逆さ 釘 」 が出ていて、罪人の首はこの釘に刺して固定しました。写真の首の左右にある物は、晒し首の座りを良くする為に置かれた粘土の塊です。 杉田玄白が腑分けを見学してから 40 年後の 1815 年に書き、大槻玄沢が補訂した回想録の 蘭学事始 ( ことはじめ ) 、および菊池寛が書いた同名の小説の文章を以下に引用すれば、
さて、腑分け ( 解剖 ) のことは、 穢多 ( えた ) の虎松 という者が、このこと ( 腑分け、解剖 ) に巧みであるということで、あらかじめ約束しておいたということである。この日も、その者に執刀させようと決めておいたのであるが、当日、その者が急に病気になったというので、その祖父だという老人で、年齢が 90 歳であるという者が、代わりに出向いていた。 この人は元気な老人であったが、 若いときから腑分けを度々手掛けていて、すでに数人を腑分けしたことがある と語った。これまでの腑分けというのは、このような人に執刀をまかせて、その人がそれぞれの部分を指して、肺であると教えたり、これは肝臓である、腎臓であると、 切り分けて 示していたのであった。 これまで腑分けを見に行った人々は、ただそれを見ただけで帰って、「 我々は直 ( じか ) に内臓を見極めてきた 」 などと言っていたまでのことであった。もともと内臓にその名称が書き記してあるわけではないから、腑分けをする人が指し示すのを見て、分かったということで、これがその頃までの腑分けの見学の様子であった。
その日も老人は磨ぎ澄まされた出刃を逆手 ( さかて ) に持つと、獣の肉をでも割 ( さ ) くように、死体の胸を ズブズブと切り開いていった。首が胴体から離れて半刻 ( はんとき、1 時間 ) と経っていない刑死体からは、出刃の切先が進むに連れて、固まりかけている血が トロトロと滲み出た。 前野良沢も杉田玄白も、ターヘル ・ アナトミアの胸の絵図を開きながら、真っ赤に開かれていく 死体の胸と、解剖図とを一心に見比べていた 。老人があれやこれやと指し示しては、心臓 ・ 肝臓 ・ 胆臓 ・ 胃の他に、名前のついていない物を指して、「 名称は知らないけれども、自分は若いときから数体を手がけて腑分けしているが、いずれの腹内を見ても、ここにこのような物があり、あそこにこのような物がある 」 と示して見せてくれた。
老人がまた言うには、「 今まで腑分けの度に、見学の医師の方々にこれらの内臓を指し示してきたのであるが、誰 1 人として、それは何か?、これは何か?、といって、質問されたお方も無かった 」 と言った。杉田と前野が共に持参した オランダ医学書の解剖図と死体の臓器とを照らし合わせてみた結果、違っている箇所はひとつも無かった。( 左上の写真は現代の腑分け 「 解剖 」 ですが、 手術との違いは誰も マスクをしていないことです。)
[ 3:中国人と西洋人の内臓の違い? ]老人が述べたところの 「 名前を知らない物 ( 臓器 ) 」 を、解剖図によって照らし合わせて考えてみると、「 動脈 ・ 静脈 」 の 2 本の血管の太い幹や、また 「 小腎 ( 副腎 ) 」であった。古来の漢方医学書に説明している肺の 六葉両耳とか、肝臓の 左 三葉 右 四葉などという区別もなく、腸や胃の位置や形状も東洋医学の古説とは大いに違っている。官医 ( 江戸時代の幕府お抱えの医師 ) の岡田養仙老、藤本立泉老などは、そのころまで 7 〜 8 度も腑分けを ( 見学 ) されたということであるが、内臓の様子が漢方医学の説明と大きく違っていたので常に当惑し、疑問の点は解けなかった。 つくづく思うに中国人と西洋人とでは、人体 ( の内臓 ) に違いがあるのであろうか?などと書いた書物を見たこともあったのは、きっとこのためであろう。さて、その日の解剖を終わって、いっそのこと骨の形をも見ておこうと、刑場に野ざらしになっている骨などを拾い取って、いろいろ調べてみたところ、これらもまた従来の漢方医学の説とは異なり、どれも オランダの解剖図と同じであることを知って、皆驚嘆するばかりであった。( 引用終 了)
[ 4:ターヘル ・ アナトミアの翻訳 ]杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らは オランダ医学書の記述の正確さを改めて認識すると共に、医術を以て主君に仕える者がその基本となる人体の真の形さえも知らずに、今日まで医師の仕事をして来た点について深く反省しました。そこで 何百年もの間日本の医師に受け継がれて来た誤りの多い漢方医学とは決別し、蘭方医学へと切り替えることに決め、ぜひともこの本を翻訳して多くの医師に読んでもらおうと決心しました。 翻訳作業は翌日の 1771 年 3 月 5 日から数人の有志が集まって始まりましたが、彼らの中に オランダ語に通じたものは誰もいませんでした。貧弱な オランダ語の知識だけで辞書も無しに医学書の翻訳に当たることは、杉田が 「 蘭学事始 ( ことはじめ )」に記しているように、 艫 ( ろ ) 舵 ( か じ) なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋 ( ぼうよう ) として寄へき ( 頼るべき )なく、ただ呆れにあきれて
というのも偽らざる気持ちだったと思いますが、杉田が 38 才の時でした。その後 3 年の歳月を掛けて解体新書 ( 4 巻と解剖図 1 巻、計 5 巻 ) が 1774 年に完成しましたが、翻訳者の名前の中に グループの中心的存在でした前野良沢の名前はありませんでした。その理由とは
[ 5:ケガレの思想 ]ここで問題がありますが、医師である杉田や前野が自分で直接腑分け ( 解剖 ) を執刀せずに、なぜ、穢多 ( えた ) の虎松にさせようと最初から計画したのでしょうか?。その答は幕府によって医師が死体に触れるのを禁止されていたとする説がありますが、そうではなく当時の社会に広く行き渡っていた、死体に対する 「 穢、ケガレ 」 の思想からでした。古事記、日本書紀の記述によれば、死んだ妻の イザナミ を慕って夫の イザナギ が黄泉 ( よみ ) の国を訪れたところ、見てはならないという忠告を無視して イザナギ が妻の死骸を見ると多くの 「 ウジ 」 が湧いていました。驚いて逃げ出すと イザナミが後を追いかけてきましたが、振り切って地上に逃げ戻りました。そこで 黄泉 ( よみ ) の国で体に付着した穢 ( ケガレ) れを清める ために、筑紫 ( つくし、九州 ) の 阿波岐原 ( あわぎはら )で禊ぎ ( みそぎ ) をしました。 これが穢れ ( ケガレ ) やお祓 ( はら ) い、禊ぎ ( みそぎ ) の起源を説明した神話ですが、神代の昔から日本人は神道でいう所のもろもろの ケガレ ( 血の ケガレ、罪の ケガレ、お産の ケガレ ) などの中でも、死の ケガレ、 死穢 ( しえ ) を最も忌み、恐れていました。つまり解剖する際には当然のことながら死体に触れるので、死の 「 ケガレ 」 が自分の身にも伝染すると考えたから執刀しなかったのでした。
神道においては、穢れや罪はあたかも ゴミや ホコリ などの物質のように考えて、これを禊ぎ ( みそぎ ) や祓い ( はらい ) によって水で洗い流したり、払い落とすことができると考えられています。しかし写真のような交通安全に効果があるお祓 ( はら ) いなど本来あるはずがなく、その目的は 車の 「 ケガレ 」 を取り除き、清浄な状態にすること に他なりません。お祓いの時に唱える 「 祓え詞 」 ( はらえことば )、を知りたい人は ここをクリック 。
私は子供の頃に東京都 ・ 豊島区 ・ 巣鴨にある お婆ちゃんの原宿 と最近呼ばれるようになった 「 トゲ抜き地蔵 」 の近くで育ったので、近くの荒川区にある小塚原や泪橋 ( なみだばし ) の話は大人から聞いて知っていました。 「 市中引き回し 」 の付加刑がある死刑囚が小伝馬町 ( 現、東京駅、八重洲口近く ) の牢屋敷から引き出されて小塚原の刑場に行く際には、病気 ・ 衰弱などで馬に乗れない者は モッコ に乗せられ、元気な者は 後ろ手に縛られて裸馬に乗せられて、罪状を記した紙製の幟や 「 捨て札 」 と共に死出の旅路をたどりました。 刑場の 4 百 メートル手前に橋がありましたが、二度と戻ることのないこの橋で囚人は皆、泪 ( なみだ ) を流したからとも、あるいは見送りの肉親達とここで最後の別れを許されたので、双方共に泪を流したからとも言われ、この橋を昔から 「 泪橋 」 と呼んでいました。その橋も太平洋戦争後には川が埋め立てられて無くなり、交差点に名前だけが残されています。
ところで小塚原 ( こづかっぱら ) の名前の由来は 骨ガ原 ですが、江戸時代には北町奉行所扱いの公開処刑は骨ガ原でおこない、南町奉行所扱いのものは前述した東海道品川宿近くの鈴ヶ森刑場で執行されました。 右の絵は斬首の様子ですが、首を切り易い様に着物の襟を上半身裸に近い状態に下げた死刑囚を、非人 3 名で土壇場 ( どたんば ) に抑えつけ、打ち役 ( 首切り )同心が首を切り落としました。なお刑死人の衣服は非人たちの余禄 ( よろく、臨時収入 ) になり、死体から剥ぎ取った衣服を洗濯して、古手屋 ( 古着屋 ) に売る慣わしでした。 刑死人の遺体は幕府の指示により埋葬が禁じられていたので、裸のままで 打ち棄て られましたが、土を浅く被せただけなので雨が降ると土が流れて死体が露出しました。野犬や トンビ、カラスなどが死体を喰い散らして骨が周囲に散乱するなど、奥州街道沿いの 骨ガ原 は屍臭と共に鬼気迫る状態で、日が暮れると刑死人の人魂が出るといわれ誰も通らなかったそうです。また物の本によれば、現場から 千数百 メートル南にあった浅草の吉原遊郭では、風向きによっては屍臭が漂って来たので、臭気除けに線香を焚く日もありました。 ちなみに九州平戸藩の藩主でした松浦 ( まつら ) 静山 ( 1760〜1841 年 ) が、隠居して 62 才になった 1821 年 11 月 17 日の甲子 ( きのえ ・ ね ) の夜から書き始めた、江戸時代最大の随筆集である 甲子夜話 ( かっし ・ やわ ) がありますが、その中に東海道 ・ 品川宿の南にある 鈴ヶ森刑場 について以下の記述があります。それによると、
穢臭 ( えしゅう、屍臭のこと )を風吹き送りて堪え難く、かつ刑場にて屍 ( しかばね ) を喰い馴れたる犬ども垣根を越え来れば、小児など、うかと戸外に出し難しとありました。刑場周辺に 「 打ち棄て 」 られた遺体の腐臭が我慢し難いということで、刑場に面した東海道を歩く旅人も大名行列の 一行も、鼻を抑えながら通行したのに違いありません。
[7:観臓記念碑 ]昭和 50 年代 ( 1975 年 ) に大阪から東京に転勤しましたが、休日になると持ち前の好奇心から都内の名所、旧跡は勿論のこと、千葉県佐原市にある伊能忠敬の旧宅や記念館、そして重税にあえぐ農民の為に 4 代将軍家綱に直訴を行い、磔 ( はりつけ ) になった佐倉宗吾の霊を祀る宗吾霊堂を尋ねるなど、近県にも足をのばし おのぼりさん を趣味にしました。
京浜急行電鉄の大森海岸駅近くの、第 1 京浜国道沿いにある鈴ヶ森の刑場跡は以前に訪れていたので、次は小塚原の刑場跡を訪れました。J R 常磐線と私鉄の東武線の線路に囲まれ、南千住駅の近くに刑場跡がありましたが、そこには 骨( こつ ) 通り商店街 があり、延命寺という寺もあって、境内には有名な 首切り地蔵 がありました。この地蔵は寛保元年 ( 1741 年 ) に刑死人の菩提を弔う為に建立されたもので、高さが 3.6 メートルありました。
なお延命寺はすぐ傍にある小塚原回向院 ( えこういん ) から分離した寺ですが、 小塚原回向院 は慶安 4 年 ( 1651 年 ) に小塚原に刑場が新設された後に、刑死人を供養する為に本所にあった回向院の住職の 弟誉 義観 ( ていよ・ぎかん ) が、寛文 7 年 ( 1667 年 ) に常行堂を創建したのが始まりといわれています。 回向院の本堂入口右手に 「 観臓記念碑 」 が建てられていて、玄関前の壁面には レリーフ銅版が嵌め込まれていますが、観臓記念碑は日本医学会が大正 11 年 ( 1922 年 ) に建てたものです。ターヘル ・ アナトミアの表紙の扉絵を模して作られたその銅版には、「 観臓記念碑 」 の文字があり、
明和 8 年 ( 1771 年 )3 月 4 日、蘭学者の杉田玄白 ・ 前野良沢 ・ 中川淳庵諸子が刑死者の腑分け ( 解剖 ) に立会い、後日 『 解体新書 』 を大成。我邦西洋医学の淵源となると刻まれていました。刑死人の腑分け ( 観臓 ) がもたらしたものは、日本医学史上だけでなく思想 ・ 科学史上にとっても特筆すべき事柄でした。 ところで小塚原を横切る鉄道工事や道路工事の際には今でも多数の人骨が発掘されるそうですが、明治 6 年 ( 1873 年 ) に刑場が廃止されるまでの江戸時代の 250 年間に処刑された人の数は、首切り地蔵の説明板によれば小塚原の刑場で 20 万人が、鈴ヶ森の刑場では 10 万人 が処刑されたとありました。当時は 「 10 両盗めば首が飛ぶ 」 という厳罰主義と、犯罪に対する連座制を採用していたため、死罪になった者が多かったのでしょう。
[ 8:蘭方医学との決別 ]
前述のごとく、解体新書は オランダ語の ターヘル ・ アナトミアを苦労して翻訳したものですが、実は ターヘル ・ アナトミアは オランダ人によって書かれた本ではなく、原本はドイツ医学校の教授で ドイツ人の ヨハン ・ アダム ・ クルムス が ドイツ語で出版したものであり、 オランダ人がそれを オランダ語に翻訳 して出版したものでした。 このことは明治維新以後に日本の医学を引き続き オランダを手本とするか、ドイツを手本とするかの論争の際に大きな影響を与えました。オランダが 1641 年に長崎の出島に商館を設置して以来、2 百年にわたり通商交易に伴う西洋文化の紹介を受け、その間に シーボルトなどから近代的な蘭方 ( オランダ ) 医学を学びましたが、明治維新後に、オランダ医学とはなぜ決別したのでしょうか?。その理由をこれまで知りませんでしたが、72 才になった去年になって、ようやく分かりました。 明治元年 ( 1868 年 ) の太政官布告で
西洋医術の義、これまで止めおかれ置き候えども、自今その所長においては、御採用これあるべく、仰せ出され候う事と東洋医学ではなく西洋医学の採用が決定されました。しかし西洋医学といっても従来からの オランダ医学だけではなく、英国、フランス、ドイツ、米国の医学もありました。 そこで明治 3 年 ( 1870 年 ) に相良知安の建議によって、ドイツ医学の導入が決定されましたが、非情とも思われるその選択理由とは、
「 蘭 ( オランダ )はすでに 国勢弱くして直 ( じか ) に独 ( ドイツ ) ・ 仏 ( フランス ) の書を読んで翻訳せり。英 ( イギリス ) は国人 ( 日本人 ) を侮 ( あなど ) り、米 ( アメリカ ) は新国にして医あまり無し。とありました。 その結果、明治維新以後に森 鴎外を初め多くの医師が ドイツに留学し ドイツ医学を学び帰国した結果、カルテまで ドイツ語で書くようになりました。しかし ドイツも第 2 次大戦で敗戦国になった結果、今では医師の留学は米国 一辺倒になり、先進医療を学ぶには英語の語学力が必要な時代になりました。
中国−− オランダ −− ドイツ −− 米国
と時代によって巧みに医学の先達 ( 教師 ) を取捨選択しながら、日本は進んだ外国の医学知識、医療技術を取り入れて来ました。ところで カルテは今でも日本語ではなく、ドイツ語で書くのでしょうか?。もしそうであればいつまでも権威付けの為に外国語で書かずに、今や電子 カルテの時代なので自国語で書くべきだと思います。
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