江戸の町奉行と、消防[ 1 : 奉 行 の 定 義 、沿 革 ]「 奉 行 」 と は 、上 位 者 に 奉 じ て ( そ の 権 限 ) を 執 行 す る 機 関 で あ る 、と 定 義 さ れ る 。 律 令 時 代 ( りつ りょう じ だ い、七世紀 半 ば から 十 世紀頃 までの間、狭義 には 奈良時代 ) に 宮廷儀式 の 臨 時 執行者 を いう 場合 も あ っ た が、 鎌 倉 時 代 ( 1192 ~ 1333 年 ) 以 降、武家政権 の 職 制 のなかで 主 に 使 用 された。 鎌倉幕府 では 問 注 所 ( も ん ち ゅ う じ ょ、訴訟事務 を 所 管 する 機 関 ) ・ 侍 所 ( さ む ら い ど こ ろ、御家人 の 統 率 と 警 察 などの 任 務 に 当 たる 機 関 ) ・ 政 所 ( ま ん ど こ ろ、政 務 機 関 ) にそれぞれ 奉 行 が 置 かれ 、室町幕府 (1336 ~ 1573 年 ) へ と 制度 が 引き 継 がれて いった。 豊臣 政権 ( 1585 ~ 1603 年 ) では その 末期 に、 五 大 老 ( ご た い ろ う 、即 ち 徳川 家康 ・ 毛利 輝元 ・ 上杉 景勝 ・ 前田 利家 ・ 宇喜多 秀家 の 五 大 名 ) が 豊臣政権 の 政務 に 当 たったほか 、 五 奉 行 制 ( ご ぶ ぎ ょ う せ い ) を し き、豊臣 秀吉 配下 の 大名 を 任 命 し て 政 務 を 処理 させた。それらは、
[ 2 : 江 戸 幕 府 の 行 政 ・ 治 安 対 策 ]天正 18 年 ( 1590 年 ) に 徳川家康 は 豊臣秀吉 の 命 によ り、 三河国 ( みかわの く に、愛知県 東部 ) から 関東 に 転 封 ( てんぽう、国 替 え ) したが 、家康 は 駿府 ( すんぷ ) 町奉行 の 経歴 のある 板倉 勝重 と、彦坂 元正 に 対 して、最初 の 関東代官 ・ 江戸 町奉行 を 命 じ 、関東 八州 および 江戸 の 行政 ・ 治安維持 を 担当 させた。( 2-1、江 戸 町 奉 行 名 簿 か ら 抜 粋 ) ある 資料 に 依 れば、天正 18 年 (1590 年 ) から 幕末 の慶 応 4 年 / 明 治 元 年 (1868 年 ) までの 2 7 8 年間 に 、重 任 ( じ ゅ う に ん、再度 同 じ 職務 に 就 く ) を 含 めて 9 6 人 が 町奉行 の 職 に 就 い たが、その 中 から下記 の 町奉行を 適当 に 選 んでみた。
前述 したように 板倉 勝重 ・ 彦坂 元正 の 二 人 が 江戸の 町奉行 の 始 まり と され る が、彼 らは 町 方 ( ま ち か た、都市部 ) だ け で な く、同時 に 関東 一帯 の 農 村 ・ 山 村 ・ 漁 村 などの 村 方 ( む ら か た )に 対 する 支配 ( 行政 ・ 司法 ) も 兼 ねて い た。 その 後 慶長 6 年 ( 1601 年 ) に 、将軍 になる 以前 の 徳 川 秀 忠 の 側近 であった 青山 忠成 ( た だ し げ ) と 内藤 清成 ( き よ し げ ) が 町支配 ( 奉行職 ) を 担当 したが、これも 町 方 だけでな く 、村 方 を 含 む 関東 に 広範 な 権限 を 持 つ 、 関 東 総 奉 行 と 呼 ばれた 広 域 行 政 官 で も あ っ た。 慶長 11 年 ( 1606 年 ) に 関東総奉行職 が 廃 止 され、その 職 掌 が 町奉行 ・ 勘定奉行 ・ 関東郡代 ( かんとう ぐ ん だ い ) へ と 分割 された。 注 : 関 東 郡 代 と は かつては、幕府 直轄領 である 関 八 州 ( かん はっ しゅう ) の 民 治 を 司 る 関 東 代 官 という 職 制 があり、代々 伊奈 ( い な ) 氏 によって 世 襲 されて来た。 ところが 寛 政 4 年 (1792 年 ) に ある 事件 が 起 きて 伊奈 氏 が 改 易 ( か い え き ) となり、武士 の 身分 を 剥 奪 され、領 地 ・ 家 屋 敷 などを 没 収 された。そのため 徳 川 幕 府 は 関東 代官 に 代 わって 、新たに 「 関 東 郡 代 」 の 職を 設 置 した。 ( 2-2、専 任 の 町 奉 行 ) 町支配 の み を 司 ( つ か さ ど ) る、 本 来 の 意 味 で の 町 奉 行 が 制 定 されたのは、寛 永 8 年 ( 1631 年 ) 説 と、寛 永 15 年 ( 1638 年 ) 説 がある。 古 い 寛 永 8 年説 に 従 え ば、 加 々 爪 忠 澄 ( か が づ め た だ す み ) と 、堀 直 之 ( ほ り な お ゆ き ) が 初 めて の 専 任 町奉行 となった。 「 奉 行 」 と名 のつ く 徳川幕府 の 役職 は 全国 に 数 多 く あったが、江戸 の 町奉行 以外 は 遠 国 奉 行 ( お ん ご く ぶ ぎ ょ う ) と 呼 ばれ、幕府 直 轄 領 のうち 重要 な 場所 に 奉行所 が 置 かれて、その 土地 の 政 務 ・ 治安維持 を 取 り 扱った。 それらは 大 坂 ( 大 阪 ) 町奉行 ・ 京 都 町奉行 ・ 長 崎 奉行 ・ 伏 見 奉行 ・ 山 田 奉行 ( 伊 勢 国 山田、現・三重県 伊勢市 ) ・ 日 光 奉行 ・ 奈 良 奉行 ・ 堺 ( さか い ) 奉行 ・ 佐 渡 奉行 ・ 箱 館 奉行 などのように、都市名 を 付 けて 呼 ばれた。 そ して 江 戸 の 町 奉 行 の み が 、単 に 町奉行 と 称 した。 町奉行 の 職 務 を 現代の 役 職 に 例 えると、 東京都 知 事 ・ 東京地方 裁 判 所 長 ・ 東京消防庁 消 防 総 監 の 三 職 を 兼務 したようなもので、非常 に 多 忙 ・ 激 務 であったと いわれて いる。 従って テ レ ビ の 時代劇 で 見 るように 、奉 行 所 の 白 州 ( し ら す 、罪人が 座 る 奉 行 所 の 庭 には 白 い 砂 利 が 敷 かれて いたことに 由 来 する ) で 、奉行 自身 が 犯 罪 人 を 裁 く ことなど、めったに 無 かったと いわれて いる。 なお 江戸 の 町の 総 面 積 のうち 、武 家 の 所 有 地 が 6 0 パ ー セ ン ト 、寺 社 の 所 有 地 が 2 0 パ ー セ ン ト であり、町 人 の 所有 する 土 地 は 、 約 2 0 パ ー セ ン ト だったと いわれて いる。 町奉行 はこの 土地 を 支 配 し 、町 および 町人 に 関 する 司 法 ・ 行 政 ・ 治 安 ・ 消 防 などを 司 ( つ か さ ど ) っ た。 町奉行 は 寺社奉行 ・ 勘定奉行 と 共 に、三 奉行 と 称 され 、幕府 の 評 定 所 ( ひょう じょう しょ 、江戸幕府 の 最 高 裁 判 機 関 ・ 政 策 の 立 案 ・ 審 議 も お こ なう ) 一 座 の 構 成 員 と して 中 央 官 職 の 性 質 も 合わせ 持 った。 ( 2-3、町 奉 行 の 人 材 ) 町奉行 は 旗本 の 中 から 人材 を 登用 したが、奉行職 は 優 秀 な者 でな いと 務 まらな い ため、500 石 ・ 1,000 石 と いった 少 禄 の 者 からも 抜 擢 ( ばってき ) されることが 少 な く なかった。 前述 した如 く 、最初 ( 1631 年 ) に 「 専 任 の 町 奉 行 」 に 登用 された 加 々 爪 忠 澄 ( か が づ め た だ す み ) は、もともと 知 行 ( ち ぎ ょ う 、武士 が 主君 から 給付 ・ 保証 された 所 領 ) 5,500 石 の 武将 であった。 町奉行 を 務 めた 後 大 目 付 ( お お め つ け ) などを 歴 任 して 加 増 を 重 ね、最終的 には 9,500 石 に 加 増 された。しか し 寛永 18 年 (1641 年 3 月 10 日 ) 、江戸 日本橋 の 桶 町 ( お け ち ょ う ) から 出火 し て 大火災 となったが、大目付 と して 消火活動 の 総指揮 を 執 る 中、煙 に 巻 かれて 殉 職 した。 [ 3 : 公 事 方 御 定 書 ]江戸幕府 の 司 法 などに 関 する 基 本 法 典 は、 公 事 方 御 定 書 ( く じ が た お さ だ め が き ) である。享保 の 改革 を 推進 した 八代 将軍 ・ 徳 川 吉 宗 の 下 で 作成 され、寛 保 2年 ( 1742 年 ) に 完 成 した。 上 巻 ・ 下 巻 の 二 巻 から 成 り、上 巻 は 司法 警察 関係 の 基 本 法 令 8 1 通 をまとめたものであり、下 巻 は 旧 来 の 判 例 に 基 づ い た 刑 事 法 令 などを 収 録 したものであった。 特に 下 巻 は 御 定 書 百 箇 条 ( お さ だ め が き ひ ゃ っ か じ ょ う ) と 呼 ば れ て い た。 これらの 内 容 は 、 「 由 ( よ )ら し む べ し、知 ら し む べ か ら ず 」 という 「 論 語 ・ 泰 伯 編 」 の 意 味 を 転 じ て 、 為 政 者 は 庶 民 を 施 政 に 従 わせればよ いのであ り、「 そ の 道 理 を 庶 民 にわからせる 必要 はな い 」 と して、人々 や 社 会 に 公 表 されることは なかった。 そのため 庶 民 は 「 十 両 盗 め ば、首 が 飛 ぶ( 斬 首 ) 」 、 あ る い は 「 放 火 す れ ば 火 刑 」 に なることを 伝 聞 的 に 知 るのみ であった。 死 刑 に関 して いえば 「 御 定 書 」 制 定 直 前 には 、付 加 刑 を 含 む 六 種 類 の 死 刑 が 存 在 した。 それらは 鋸 挽 ( の こ び )き ・ 磔 ( は り つ け )・ 獄 門 ( ご く も ん、首を 刑場 にさらす ) ・ 火 罪 ・ 死 罪 ・ 下 手 人 ( げ し に ん、斬 首 刑 の 中 で 最 も 軽 く、死体 を 引き 取り、埋 葬 が 可能 ) の 制 度 がおこなわれて いたが、そのまま 「 公 事 方 御 定 書 」 に 組 み 入 れられ、幕 末 まで 存 続 した。 下 の表は 、江 戸 ・ 小 伝 馬 町 の 入 牢 者 の 記 録 である 「 御 証 文 引 合 帳 」 によって 作 成 された、幕 末 の 死 刑 の 統 計 である。
( 3-1、斬 首 よ り 一 段 軽 い 遠 島 ) 上 表 には 記 されて いないが、「 御 定 書 」 では 十 五 歳 未 満 の 幼 年 者 にも 刑 罰 を 科 し て い る。 下 巻 ( 御 定 書 百 箇 条 ) の 第 七 十 九 条 には、殺 人 および 放 火 につき 、 「 子 心 に て 弁 ( わ き ま え ) な く 」 これを 犯 した 者 を 十 五 歳 まで 親 類 に 預 け、その 後 遠 島 に 処 すべき も の と し て い る。 遠 島 は 斬 首 よりも 一段 軽 い 刑 であるが、死 にまさる 苦 しみがあると いわれた。絵 は 流 人を 乗せた 船 が 隅田川 に 架 かる 永代橋 ぎわを 行 くところで、流 人 船 は 500 石 の 航 洋 船 なので、実際 はもっと 大 き い はず。 関 東 における 遠 島 ( 流 刑 ) の 行き先 は、生活 の し 易 さ から 言うと、伊豆 大島 ・ 三宅島 ・ 八丈島 などは 良 い 方 で、利 島( と し ま ) ・ 神津島 ( こうず し ま) ・ 御蔵島 は 悪 い 方。特 に 御 蔵 島 は 流 人 にとって 最 悪 と 言 われて いた。 寛政 八年 ( 1796年 ) 製 の 「 八 丈 島 並 び に 伊 豆 七 島 之 記 」 によれば、 昔 時 ( せき じ、むか し ) は 伊豆七島 何 ( いず ) れ も 流罪場 な り し を、今 は 八 丈 ・ 三 宅 ・ 新 島 此 ( こ ) の 三 島 流人場 に て、三 宅 ・ 新 島 の 流 人 百 余 人 あ り( 以 下 略 )よい 島 の 中 でも 三宅島 は他 の島 よりも 良 いと いわれ、流 人 の 中でも 一 軒 の 所帯 を 持つ者 は、「 水 汲 み 女 」 を 抱 え、これを 妻 と した。また 八丈島 に 流 す者 も 数ヶ月 ほどは 三宅島 に 滞 留 させ、流 人 の 暮ら しに 慣 れさせた。 江 戸 表 を 流 人 船 の 春 船 ( 4~5 月 頃 ) で 出 帆 すれば、三宅島で 船 待 ち して、秋 の 用船 で 八丈島 へ 渡らせ、江 戸を 秋 船 ( 7~8月 頃 に 出 帆 ) すれば、三宅島 で 越 年 させ、翌 春 の 御用船 で 八丈島 へ 渡 らせた。しか し 三宅島 の 生活 は 楽 だとは いっても、資 力 の な い 者 は、小 屋 と 称 する 上代 の 穴 居 ( けっきょ ) のような 「 穴 ぐ ら 生 活 」 をする 有 様 であった。 [ 4 : 江 戸 の 火 事 ]江戸時代 ( 1603 ~ 1867 年 ) の 2 6 4 年間 を 通 じて、 江戸 で 起 きた 火 事 は 約 1,800 件 と いわれて いる。 江戸 初期の 市中 では 、燃 え 易 い 木 造 り と 紙 の 内 装を 施 した 家 屋 が 連 なり、 古 く か ら の 茅 葺 ( か や ぶ き ) 屋 根 ( 写真 ) ・ 板 葺 ( い た ぶ き ) 屋 根 の家 が 多 数 を 占 めて いた。 それに 加 え 、檜 ( ひ の き ) の 樹 皮 を 用 い た 檜 皮 葺 ( ひ わ だ ぶ き ) の 伝 統 的 手法 で 屋 根 を 葺 ( ふ ) いた 寺 院 ・ 神 社 など が 多 く 存在 したため、4 ~ 5 年 に 一 度 大 火 に 見 舞 わ れ た 。 茅 葺 ( か や ぶ き ) 屋 根 の 「 カ ヤ 」 とは、「 ス ス キ 」 ・ 「 チ ガ ヤ 」 ・ 「 ヨ シ 」 ( ア シ ) などの 、安価な 屋 根 葺 材 ( や ね ふ き ざ い ) の 総 称 で あ り、 「 草 屋 根 」 とも 称 した。 一 旦 家 から 出 火 すると 有効 な 消 火 技 術 ・ 消 火 設 備 が 無 かったため、周 囲 の 家 の 屋 根 に 「 飛 び 火 」 し 易 く、消 火 に 困 難 を 伴った。 名奉行 と して 評判 の 高かった 大 岡 越 前 守 忠 相 ( ただすけ、在 任、1717 ~ 1736 年 ) は、防 火 対 策 のため 町 屋 の 瓦 ( か わ ら ) 屋 根 化 を 奨 励 したが、町人の 住 宅 に 亙 が 用 いられることはあまり 無 かった。 この時代の 瓦 屋 根 は 本 瓦 葺 ( ほ ん が わ ら ぶ き ) と いい、平 瓦 ( ひ ら が わ ら ) と 丸 瓦 ( ま る が わ ら ) を セ ッ ト で 組 み 合 わ せて 葺 ( ふ )く も ので、 屋根 が 重 く な り、建物自体の 構造 が よほど 頑 丈 でな い と 採用 は 困難 であった。そのため、寺 院 や 城 郭 ( じ ょ う か く ) 以外 には 瓦 屋 根 の 使用は 少 なかった。 町人の家で 「 瓦 屋 根 」 が 使用 されるようになったのは、江戸 中 期 以降 であったが、普及が 遅 れた 理由 は 前述 した 屋根の 重 量 が 増す 他 に 、「 草 屋 根 」 に 比 べ 何倍も 高 価 であったからである。( 4-1、桶 町 火 事 と 、大 名 火 消 ) 寛永18 年(1641年) 1 月 に 、江戸 日 本 橋 桶 町 ( お け ち ょ う ) 現 ・ 東京都 中央区 八重洲 2 丁目 付近 から 夜 12 時 頃 出 火 。焼 失 面 積 9 7 町 、焼 失 家 屋 1, 9 2 4 戸 ( うち 武 家 屋 敷 1 2 1、同 心 屋 敷 5 6 ) が 焼 失 した。 御 成 橋 ( お な り ば し、東京都 ・ 品 川 区 大 崎 5 丁目 ) など の 堀 では 火 災 から 逃 れようと した 人々 の 溺 死 体 ・ 焼 死 体 3 8 8 人 を 収容 するなど 、数 百 人 が 死 亡 した。これは 江戸 開府 以来 初 めての 江戸市中 広 域 に わたる 大 火 であった。 幕府 はこれを 教 訓 に して 桶 町 火事 から 2 年後 の 寛 永 20 年 ( 1643 年 ) に 、 大 名 火 消 ( だ い み ょ う ひ け し ) を 制 度 化 した。 それは 6 万 石 以下 の 大 名 1 6 家 を 選 び 4 組 に 編 成 し、1 万石 につき 火消 し 3 0 人を 課 役 ( かや く / かえき 、仕事を 割 り 当てること ) と して 提供 させた。 1 組 当 たり 最大 4 2 0 人 を 1 0 日 交代 で 消 防 ( 消 火 作 業 ) に 従事 させる 制 度 であり、武 家 屋 敷 ・ 町 屋 に 関係 な く 、火 元 に 近 い 大名 が 出動 して 消 火 に 当 たった。 ( 4-2、明 暦 の 大 火 ) 明 暦 3 年 ( 1657 年 ) には 有名 な 明 暦 ( め い れ き ) の 大 火 、別 名 ( 振 袖 火 事 ) ( ふ り そ で か じ ) が 起 きて、死 者 10 万 8 千 人 と いう 江 戸 最 大 の 惨 事 が 起 きた。 火事 は 明 暦 3 年 1 月 18 日 から 19 日 にかけて 三 ヶ所 から 出 火 したが、最初 の 火事 は 図 ( 青 の 矢 印 は 延 焼 方 向 ) の 「1」 で示す 本 郷 丸 山 ( 東京都 ・ 文 京 区 本 郷 5 丁目 ) の 本 妙 寺 から 出 火 した。この 火 事 が 「 振 袖 火 事 」 と 呼 ばれた 理由 は、後で 説明 する。 [ 5 : オ ラ ン ダ 商 館 長 の 、避 難 体 験 記 ]現在 都心で 生活 する 大 勢 の 人 々 は、予 想 される 首 都 直 下 地 震 や それに 伴 う 火 災 などで 一 斉 に 避 難 することで、大きな 混 乱 や 事 故 が 発生する 危険性 が 指 摘 されている。 このような 民衆 の 避難 に 際 して の 大 混 乱 は、およそ 3 6 3 年前 の 江 戸 の 「 明 暦 の 大 火 」 でも 起 きて い た。 大火災 発生時 、第 四 代 将 軍 家 綱 に 拝 謁 ( は い え つ ) するため 長崎 から 江 戸 に 滞在 して いた 長崎 オランダ 商 館 長 ( ド イツ 人 ) ザ ハ リ ア ス ・ ワ ー ヘ ナ ー ル ( Z a c h a r i a s - W a g e n a e r ) は 、未 曽 有 ( み ぞ う、これまで 一 度 も なかった ) の 大 火 災 から 辛 う じて 逃 げ 出 し、避 難 することができた。 彼は 避 難の 一 部 始 終 を 日 記 に 残 して い たが、そこには、いつ の 時代 も 変 わらず 、災 害 に 翻 弄 ( ほ ん ろ う ) される 人 々 の 姿 が 、記 録 されて いた。そう した 的確 な 避難方針 を持 たずに 逃 げまどうことになった オランダ の 商館長 一 行 は 、かなり 運 が 良 かったと 言 える。なぜならば 彼 の 日記 を 見 る 限 り、避難先 選 択 の 方 法 は 風 向 き で は な く 、夜 を 過 ご せ そ う な 屋 敷 を 目 標 に して 避 難 したからである。この 状況下で ワ ー ヘ ナ ー ル 一 行 が 助かったことは、奇跡 であると 言っても 過言 ではな い。 ( 5-1、振 袖 火 事 、名 前 の 由 来 ) 江戸時代 前期 の 上方 ( かみかた、大阪 ) に 、町 人 階 級 の 世 相 ・ 人 情 を 描 い た 小 説 である 浮 世 草 子 ( う き よ ぞ う し ) や 人 形 浄 瑠 璃 ( に ん ぎ ょ う じ ょ う る り ) 作 家 ・ 俳 諧 師 ( は い か い し ) の 井 原 西 鶴 ( い は ら さ い か く、1642 ~ 1693 年 ) が いて 活躍 した。 彼が 書 いた 五 冊、五 巻 から 成 る 有 名 な 浮 世 草 子 『 好 色 五 人 女 』 があるが、その 巻 四 に 、 「 八 百 屋 お 七 」 の 題 名 で 書 いた 作 品 があった。そのために 、「 お 七 」 の 名 が 世間 に 広 く 知 られるようになった。 作 品 の 荒 筋 ( あ ら す じ ) と は 江 戸 の 本 郷 に いた 八百屋 の 娘 「 お 七 」 は、天 和 2 年 ( 1682 年 ) の 大 火 の 際 に 避 難 した 寺 で 寺 小 姓 と 恋 仲 となった。こ とになって いる----。井原西鶴 の 「 好 色 五 人 女 」 に 書 かれて 以来、「 お 七 」 は 多 くの 歌 舞 伎 ・ 人 形 浄 瑠 璃 に 脚 色 されたが、あ くまでも 小 説 ( 浮 世 草 子 ) の 主人公 であり、事実 とは 無 縁 であった。最も 可能性 の 高 い 火 事 の 原 因 は 下 記 にある。 麻布の 裕福 な 質屋 ・ 遠州屋 の 娘 ・ 梅 乃 ( 17 歳 ) は 寺 小 姓 ( てらこ しょう、住職 のそばに仕え、雑用を務 めた 少年、時 には 男色 の 相手 をする者 も いた ) に 一 目 惚 ( ぼ )れ し、その 小 姓 が 着て いた 着物 と同 じ 模様 の 振袖 ( ふ り そ で ) を 作 らせて 愛用 したが、ふと した 病気 がもとで 死 亡 した。両親 は 不 憫 ( ふ び ん ) に 思 い、娘 の 棺 に その 振 袖 を 掛 けて 寺 に 運 び 入 れた。 当時 の 習慣 では 葬 儀 の 前 に 死者 を 棺 に 入 れて 寺 に 運 び 込 むと、人生 の 終 焉 ( しゅうえん ) に 継 ぐ 旅 立 ち の 準 備 と して、現 世 で の 汚 れ を 洗 い 清 め 、新 生 児 が 出産 直後 に 産 湯 に 浸 ( つ ) かるように、「 来世 へ 生まれ 変 わると いう 願 い 」 を 込 めて、寺 の 湯 灌 場 ( ゆ か ん ば ) と いう 小 屋 で 遺 体 を 洗 い 清 める 、湯 灌 ( ゆ か ん ) を おこなった。 その際 に 棺 に 掛 けられて いた 「 着 物 」 や 、死 者 が 身 に 付 けて いた ク シ ・ カ ン ザ シ などの 「 装 身 具 」 は、湯 灌 場で 働 く 者 たちの 「 臨 時 収 入 、も う け 」 となった。 その後 この 振 袖 は 男 たちにより 古手屋 ( ふ る て や、古着屋 の こ と ) へ 売 られ、それを 買った 別 の 娘 の 物 になった。ところが この 娘 も この 振 袖 を 愛用 して い たが、しばら く して 亡 くなったため、また 棺 に 掛 けられて 寺 に 持ち 込 まれた。寺 の 湯 灌 場 の 男たちも 驚 い たが、またそれを 売却 し、 別 の 娘 の手に 渡 った。 ところが、その娘 もほどな く死 んで しま い、また 同 じ 振 袖 が 棺 に 掛 けられて 寺 へ 運 び 込 まれてきた。湯 灌 場 の 男 たち も 今度 はさすがに 気 味 悪 くな り、寺の 住 職 に 相 談 した。死んだ 娘 たちの親も 呼び 出されて 皆で 相談 した 結果、この 振 袖 を 寺 で 供 養 することに した。 この 寺 は 本 郷 丸 山 ( 東京都 文 京 区 本 郷 5 丁目 ) の 法 華 宗 ・ 徳 栄 山 本 妙 寺 と いう 寺 で、明暦 3 年 ( 1657 年 ) 1 月 18 日 14 時頃 のことであった。 住職 が 読 経 しながら 振 袖 を火中に 投 じたところ、強風 が 吹 き、その振 袖 は 火 がついたまま 空に 舞 い 上 がった。そ して本堂 の 檜 皮 葺 ( ひ わ だ ぶ き ) 屋 根 に 落 ち、火が屋 根 に 燃 え 移った。 ところで 江戸 の 町 は それまで 8 0 日間 も、雨 が 降 らず 乾 燥 して いた ため、火 は 強風下 で またた く 間 に 燃 え 広 がった。この 屋根 に 燃え 移った火は 消 し止 められずに 次々と 延 焼 し、湯島 から 神田明神、駿河台の 武 家 屋 敷 へ と 燃 え 広 がった。 最初 の 火事 が 未だ 消 火 されな いのに 、翌 1 9 日 の 10 時 頃 に 図 の 「 2 」 で 示 す 浄 土 宗 ・ 無 量 山 伝 通 院 ( で ん づ う い ん ) ( 現 ・ 東京都 文 京 区 小 石 川 3-14-6 ) に あった 表門 下 の 大 番 与 力 ( お お ば ん よ り き ) の 屋敷 から出火 し、同日 の 16 時頃 には 図の 「 3 」 で示す 麹 町 ( こ う じ ま ち ) 5 丁目の 町 屋 からも 出 火 した。 結局 江戸市街地 の 6 割 を 焼き 尽 く し 、北 部 の 大 名 屋 敷 や 江 戸 城 の 本 丸 、 天 守 閣 も 焼 失 し た。 そのため 天 守 閣 の 再建 が 計画 されたが、幕 閣 の 重 鎮 ( じ ゅ う ち ん ) であった 保 科 正 之 ( ほ し な ま さ ゆ き ) の 「 天 守 は 織 田 信 長 が 岐 阜 城 に 築 い た の が 始 ま り で あ っ て、城 の 守 り に は 必 要 で は な い 」と いう意見 により、江戸市街 の 復興 を 優先 する 方 針 となり、その後 天守閣 は 再建 されなかった。 ( 5-2、現 代 の 湯 灌、遺 体 の 衛 生 保 存 ) 写真は 現代 の 湯 潅 ( ゆ か ん ) の 様子 で、遺体を 棺 に入れる前 に 簡 易 バ ス タ ブ ( 浴 槽、b a t h t u b ) を 遺 族 家 の 部 屋 に 持ち 込 み 湯 灌 する 場合 は 、10 万円 前後 の 料 金 が 必 要 となる。 バ ス タ ブ を 使用 せずに 簡 略 化 する 場 合 には 、遺 体 を 清 拭 ( せ い し き ) し 、 男 性 の 場合 は 死 者 の ヒ ゲ を 剃 り、女 性 の 場合 は 死 化 粧 ( し に げ し ょ う ) を 施 す と、4 ~ 5 万円 の 料 金 が 掛 かる。また 遺 体 を 「 衛 生 保 存 」 する場合 には、15 ~ 25 万円 が 必 要 になる。 遺 体 の 衛 生 保 存 ( エ ン バ ー ミ ン グ 、 e m b a l m i n g ) につ いては、ホーム ページ の 表 紙 にある、「 サ ン デー 毎 日 の 記、( 随 筆 集 ) 」 の 第 2 項 に 「 エ ン バ ー ミ ン グ 」 の 題目 があり、義 母 の 実 施 例 が 記 載 して ある。 なお 遺 体 を 外国 から / 外国 へ 飛行機 で 輸 送 する 場合 には、国際的 に エ ン バ ー ミ ン グ の 実施 が 必 要 条 件 となる。
|