江戸の町奉行と、消防


[ 1 : 奉 行 の 定 義 、沿 革 ]

奉 行 」 と は 、上 位 者 に じ て ( そ の 権 限 ) を 執 す る 機 関 で あ る 、と 定 義 さ れ る 。

律 令 時 代 ( りつ りょう じ だ い、七世紀 半 ば から 十 世紀頃 までの間、狭義 には 奈良時代 ) に 宮廷儀式 の 臨 時 執行者 を いう 場合 も あ っ た が、 鎌 倉 時 代 ( 1192 ~ 1333 年 ) 以 降、武家政権 の 職 制 のなかで 主 に 使 用 された。

鎌倉幕府 では 問 注 所 ( も ん ち ゅ う じ ょ、訴訟事務 を 所 管 する 機 関 ) ・ 侍 所 ( さ む ら い ど こ ろ、御家人 の 統 率 と 警 察 などの 任 務 に 当 たる 機 関 ) ・ 政 所 ( ま ん ど こ ろ、政 務 機 関 ) にそれぞれ 奉 行 が 置 かれ 、室町幕府 (1336 ~ 1573 年 ) へ と 制度 が 引き 継 がれて いった。

豊臣 政権 ( 1585 ~ 1603 年 ) では その 末期 に、 五 大 老 ( ご た い ろ う 、即 ち 徳川 家康 ・ 毛利 輝元 ・ 上杉 景勝 ・ 前田 利家 ・ 宇喜多 秀家 の 五 大 名 ) が 豊臣政権 の 政務 に 当 たったほか 、 五 奉 行 制 ( ご ぶ ぎ ょ う せ い ) を し き、豊臣 秀吉 配下 の 大名 を 任 命 し て 政 務 を 処理 させた。それらは、

  • 司法担当 : 浅野 長政 ( 甲斐国 甲府 22 万石 )

  • 宗教担当 : 前田 玄以 ( げん い、丹波国 亀山 5 万石 )

  • 行政担当 : 石田 三成 ( 近江国 佐和山 19 万石 )

  • 土木担当 : 増田 長盛 ( 大和国 郡山 22 万石 )

  • 財政担当 : 長束 正家 ( まさ いえ、近江国 水口 5 万石 )

であった。


[ 2 : 江 戸 幕 府 の 行 政 ・ 治 安 対 策 ]

天正 18 年 ( 1590 年 ) に 徳川家康 は 豊臣秀吉 の 命 によ り、 三河国 ( みかわの く に、愛知県 東部 ) から 関東 に 転 封 ( てんぽう、国 替 え ) したが 、家康 は 駿府 ( すんぷ ) 町奉行 の 経歴 のある 板倉 勝重 と、彦坂 元正 に 対 して、最初 の 関東代官 ・ 江戸 町奉行 を 命 じ 、関東 八州 および 江戸 の 行政 ・ 治安維持 を 担当 させた。


( 2-1、江 戸 町 奉 行 名 簿 か ら 抜 粋 )

ある 資料 に 依 れば、天正 18 年 (1590 年 ) から 幕末 の慶 応 4 年 / 明 治 元 年 (1868 年 ) までの 2 7 8 年間 に 、重 任 ( じ ゅ う に ん、再度 同 じ 職務 に 就 く ) を 含 めて 9 6 人 が 町奉行 の 職 に 就 い たが、その 中 から下記 の 町奉行を 適当 に 選 んでみた。


氏 名着 任 年移 動 年南 北 担 当
板倉 勝重
イタクラカツシゲ
天正 18(1590)慶長 6(1601)---
彦坂 元正
ヒコサカモトマサ
天正 18(1590)慶長 6(1601)---
青山 忠成
アオヤマタダシゲ
慶長 6(1601)慶長 13(1608)---
内藤 清成
ナイトウキヨシゲ
慶長 6(1601)慶長 13(1608)---
加々爪 忠清
カガヅメタダキヨ
寛永 8(1631) 寛永 17(1640)南町奉行
堀 直之
ホリナオユキ
寛永 8(1631)寛永 15(1638)北町奉行
大岡 忠相
オオオカタダスケ
享保 2(1717)元文 1(1736)南町奉行
遠山 景元
トオヤマカゲモト
天保 11(1840)天保 14(1843)北町奉行
佐々木 顕発
ササキアキノブ
文久 3(1863)元治 1(1864)南町奉行
都筑 峯暉
ツヅキミネテル
元治 1(1864)
3月14日
元治 1(1864)
7月6日
北町奉行
井上 清直
イノウエキヨナオ
文久2(1862)
慶応 2(1866)
文久3(1863)
慶応 3(1867)
南町奉行
北町奉行


前述 したように 板倉 勝重 ・ 彦坂 元正 の 二 人 が 江戸の 町奉行 の 始 まり と され る が、彼 らは 町 方 ( ま ち か た、都市部 ) だ け で な く、同時 に 関東 一帯 の 農 村 ・ 山 村 ・ 漁 村 などの 村 方 ( む ら か た )に 対 する 支配 ( 行政 ・ 司法 ) も 兼 ねて い た。

その 後 慶長 6 年 ( 1601 年 ) に 、将軍 になる 以前 の 徳 川 秀 忠 の 側近 であった 青山 忠成 ( た だ し げ ) と 内藤 清成 ( き よ し げ ) が 町支配 ( 奉行職 ) を 担当 したが、これも 町 方 だけでな く 、村 方 を 含 む 関東 に 広範 な 権限 を 持 つ 、 関 東 総 奉 行 と 呼 ばれた 広 域 行 政 官 で も あ っ た。

慶長 11 年 ( 1606 年 ) に 関東総奉行職 が 廃 止 され、その 職 掌 が 町奉行 ・ 勘定奉行 ・ 関東郡代 ( かんとう ぐ ん だ い ) へ と 分割 された。

注 : 関 東 郡 代 と は

かつては、幕府 直轄領 である 関 八 州 ( かん はっ しゅう ) の 民 治 を 司 る 関 東 代 官 という 職 制 があり、代々 伊奈 ( い な ) 氏 によって 世 襲 されて来た。

ところが 寛 政 4 年 (1792 年 ) に ある 事件 が 起 きて 伊奈 氏 が 改 易 ( か い え き ) となり、武士 の 身分 を 剥 奪 され、領 地 ・ 家 屋 敷 などを 没 収 された。そのため 徳 川 幕 府 は 関東 代官 に 代 わって 、新たに 「 関 東 郡 代 」 の 職を 設 置 した。


注 : 関 東 取 締 出 役 と は

江戸時代 後期 になると 関 八 州 ( か ん は っ し ゅ う 、つまり 上 野 ( こ う づ け、群 馬 県 ) ・ 下 野 ( し も つ け、栃 木 県 ) ・ 常 陸 ( ひ た ち、茨 城 県 ) ・ 上 総 ( か ず さ、千 葉 県 中部 ) ・ 下 総 ( し も う さ、千葉県 北部 ) ・ 安 房 ( あ わ、千葉県 南部 ) ・ 武 蔵 ( むさ し、東 京、埼 玉 県 ) ・ 相 模 ( さ が み、神 奈 川 県 ) にお いて 無 宿 人 や 浪 人 が 増 加 して 治 安 が 悪 化 した。

しか し 天 領 ( 幕府 直 轄 領 ) や 、私 領 ( 諸 大 名 領 ・ 旗 本 領 ・ 寺 社 領 や その 「 飛 び 地 」 な ど ) が 各地に 散 在 して い た た め 、広域的 な 治安維持 活 動 が 難 し い 状 況 に なっ て い た。

そこで 関 八 州 の 天 領 ・ 私 領 を 区別 な く 巡 回 し、治 安 の 維 持 や 犯罪 の 取 り 締 まりに 当 たる 関 東 取 締 出 役 ( か ん と う と り しまり で や く、俗 称 八 州 回 り ) が 創 設 された。

彼 らは 代官所 の 吏 員 である 手 代 ・ 手 付 の 中 から 任命 され、「 領 地 の 垣 根 」 を 越 えて 取 締 まる 権限 を 与 えられたため、無 法 者 ・ 犯 罪 者 などから 恐 れられた。しか し 徳 川 御三家 の 一 つである 水 戸 徳 川 家 の 領地 だけは、関東取締出役 にとって 管 轄 外 とされた。


( 2-2、専 任 の 町 奉 行 )

町支配 の み を 司 ( つ か さ ど ) る、 本 来 の 意 味 で の 町 奉 行 が 制 定 されたのは、寛 永 8 年 ( 1631 年 ) 説 と、寛 永 15 年 ( 1638 年 ) 説 がある。

古 い 寛 永 8 年説 に 従 え ば、 加 々 爪 忠 澄 ( か が づ め た だ す み ) と 、堀 直 之 ( ほ り な お ゆ き ) が 初 めて の 専 任 町奉行 となった。

「 奉 行 」 と名 のつ く 徳川幕府 の 役職 は 全国 に 数 多 く あったが、江戸 の 町奉行 以外 は 遠 国 奉 行 ( お ん ご く ぶ ぎ ょ う ) と 呼 ばれ、幕府 直 轄 領 のうち 重要 な 場所 に 奉行所 が 置 かれて、その 土地 の 政 務 ・ 治安維持 を 取 り 扱った。

それらは 大 坂 ( 大 阪 ) 町奉行 ・ 京 都 町奉行 ・ 長 崎 奉行 ・ 伏 見 奉行 ・ 山 田 奉行 ( 伊 勢 国 山田、現・三重県 伊勢市 ) ・ 日 光 奉行 ・ 奈 良 奉行 ・ 堺 ( さか い ) 奉行 ・ 佐 渡 奉行 ・ 箱 館 奉行 などのように、都市名 を 付 けて 呼 ばれた。 そ して 江 戸 の 町 奉 行 の み が 、単 に 町奉行 と 称 した。

町奉行 の 職 務 を 現代の 役 職 に 例 えると、 東京都 知 事 ・ 東京地方 裁 判 所 長 ・ 東京消防庁 消 防 総 監 の 三 職 を 兼務 したようなもので、非常 に 多 忙 ・ 激 務 であったと いわれて いる。

お白洲

従って テ レ ビ の 時代劇 で 見 るように 、奉 行 所 の 白 州 ( し ら す 、罪人が 座 る 奉 行 所 の 庭 には 白 い 砂 利 が 敷 かれて いたことに 由 来 する ) で 、奉行 自身 が 犯 罪 人 を 裁 く ことなど、めったに 無 かったと いわれて いる。

なお 江戸 の 町の 総 面 積 のうち 、武 家 の 所 有 地 が 6 0 パ ー セ ン ト 、寺 社 の 所 有 地 が 2 0 パ ー セ ン ト であり、町 人 の 所有 する 土 地 は 、 約 2 0 パ ー セ ン ト だったと いわれて いる。 町奉行 はこの 土地 を 支 配 し 、町 および 町人 に 関 する 司 法 ・ 行 政 ・ 治 安 ・ 消 防 などを 司 ( つ か さ ど ) っ た。

司法組織図

町奉行 は 寺社奉行 ・ 勘定奉行 と 共 に、三 奉行 と 称 され 、幕府 の 評 定 所 ( ひょう じょう しょ 、江戸幕府 の 最 高 裁 判 機 関 ・ 政 策 の 立 案 ・ 審 議 も お こ なう ) 一 座 の 構 成 員 と して 中 央 官 職 の 性 質 も 合わせ 持 った。


( 2-3、町 奉 行 の 人 材 )

町奉行 は 旗本 の 中 から 人材 を 登用 したが、奉行職 は 優 秀 な者 でな いと 務 まらな い ため、500 石 ・ 1,000 石 と いった 少 禄 の 者 からも 抜 擢 ( ばってき ) されることが 少 な く なかった。

前述 した如 く 、最初 ( 1631 年 ) に 「 専 任 の 町 奉 行 」 に 登用 された 加 々 爪 忠 澄 ( か が づ め た だ す み ) は、もともと 知 行 ( ち ぎ ょ う 、武士 が 主君 から 給付 ・ 保証 された 所 領 ) 5,500 石 の 武将 であった。

町奉行 を 務 めた 後 大 目 付 ( お お め つ け ) などを 歴 任 して 加 増 を 重 ね、最終的 には 9,500 石 に 加 増 された。しか し 寛永 18 年 (1641 年 3 月 10 日 ) 、江戸 日本橋 の 桶 町 ( お け ち ょ う ) から 出火 し て 大火災 となったが、大目付 と して 消火活動 の 総指揮 を 執 る 中、煙 に 巻 かれて 殉 職 した。


[ 3 : 公 事 方 御 定 書 ]

江戸幕府 の 司 法 などに 関 する 基 本 法 典 は、 公 事 方 御 定 書  ( く じ が た お さ だ め が き ) である。享保 の 改革 を 推進 した 八代 将軍 ・ 徳 川 吉 宗 の 下 で 作成 され、寛 保 2年 ( 1742 年 ) に 完 成 した。

上 巻 ・ 下 巻 の 二 巻 から 成 り、上 巻 は 司法 警察 関係 の 基 本 法 令 8 1 通 をまとめたものであり、下 巻 は 旧 来 の 判 例 に 基 づ い た 刑 事 法 令 などを 収 録 したものであった。

特に 下 巻 は 御 定 書 百 箇 条 ( お さ だ め が き ひ ゃ っ か じ ょ う ) と 呼 ば れ て い た。

これらの 内 容 は 、 「 由 ( よ )ら し む べ し、知 ら し む べ か ら ず 」 という 「 論 語 ・ 泰 伯 編 」 の 意 味 を 転 じ て 為 政 者 は 庶 民 を 施 政 に 従 わせればよ いのであ り、「 そ の 道 理 を 庶 民 にわからせる 必要 はな い 」 と して、人々 や 社 会 に 公 表 されることは なかった。

そのため 庶 民 は 「 十 両 盗 め ば、首 が 飛 ぶ( 斬 首 ) 」 、 あ る い は 「 放 火 す れ ば 火 刑 」 に なることを 伝 聞 的 に 知 るのみ であった。

死 刑 に関 して いえば 「 御 定 書 」 制 定 直 前 には 、付 加 刑 を 含 む 六 種 類 の 死 刑 が 存 在 した。

それらは 鋸 挽 ( の こ び )き ・ 磔 ( は り つ け )・ 獄 門 ( ご く も ん、首を 刑場 にさらす ) ・ 火 罪 ・ 死 罪 ・ 下 手 人 ( げ し に ん、斬 首 刑 の 中 で 最 も 軽 く、死体 を 引き 取り、埋 葬 が 可能 ) の 制 度 がおこなわれて いたが、そのまま 「 公 事 方 御 定 書 」 に 組 み 入 れられ、幕 末 まで 存 続 した。

下 の表は 、江 戸 ・ 小 伝 馬 町 の 入 牢 者 の 記 録 である 「 御 証 文 引 合 帳 」 によって 作 成 された、幕 末 の 死 刑 の 統 計 である。


死刑 の 種類文久2年
1862年
文久3年
1863年
元治元年
1864年
慶応元年
5~12月
1865年
種類別
合 計
引廻 し後
磔( はりつけ)
磔( はりつけ)
引廻 し後
獄 門( ごくもん)
16
斬 首 後
獄 門( ごくもん)
33241931107
火 罪( かざ い)
火 あぶり
10
引廻 し後
死 罪(斬首)
19141150
死 罪(斬首)74495458235
下手人
( げ しにん)
斬首
年 度 別
合 計
1399287109427


( 3-1、斬 首 よ り 一 段 軽 い 遠 島 )

上 表 には 記 されて いないが、「 御 定 書 」 では 十 五 歳 未 満 の 幼 年 者 にも 刑 罰 を 科 し て い る。

下 巻 ( 御 定 書 百 箇 条 ) の 第 七 十 九 条 には、殺 人 および 放 火 につき 、 「 子 心 に て 弁 ( わ き ま え ) な く 」 これを 犯 した 者 を 十 五 歳 まで 親 類 に 預 け、その 後 遠 島 に 処 すべき も の と し て い る。

永代橋

遠 島 は 斬 首 よりも 一段 軽 い 刑 であるが、死 にまさる 苦 しみがあると いわれた。絵 は 流 人を 乗せた 船 が 隅田川 に 架 かる 永代橋 ぎわを 行 くところで、流 人 船 は 500 石 の 航 洋 船 なので、実際 はもっと 大 き い はず。

関 東 における 遠 島 ( 流 刑 ) の 行き先 は、生活 の し 易 さ から 言うと、伊豆 大島 ・ 三宅島 ・ 八丈島 などは 良 い 方 で、利 島( と し ま ) ・ 神津島 ( こうず し ま) ・ 御蔵島 は 悪 い 方。特 に 御 蔵 島 は 流 人 にとって 最 悪 と 言 われて いた。

寛政 八年 ( 1796年 ) 製 の 「 八 丈 島 並 び に 伊 豆 七 島 之 記 」 によれば、 

昔 時 ( せき じ、むか し ) は 伊豆七島 何 ( いず ) れ も 流罪場 な り し を、今 は 八 丈 ・ 三 宅 ・ 新 島 此 ( こ ) の 三 島 流人場 に て、三 宅 ・ 新 島 の 流 人 百 余 人 あ り( 以 下 略 )

よい 島 の 中 でも 三宅島 は他 の島 よりも 良 いと いわれ、流 人 の 中でも 一 軒 の 所帯 を 持つ者 は、「 水 汲 み 女 」 を 抱 え、これを 妻 と した。また 八丈島 に 流 す者 も 数ヶ月 ほどは 三宅島 に 滞 留 させ、流 人 の 暮ら しに 慣 れさせた。

江 戸 表 を 流 人 船 の 春 船 ( 4~5 月 頃 ) で 出 帆 すれば、三宅島で 船 待 ち して、秋 の 用船 で 八丈島 へ 渡らせ、江 戸を 秋 船 ( 7~8月 頃 に 出 帆 ) すれば、三宅島 で 越 年 させ、翌 春 の 御用船 で 八丈島 へ 渡 らせた。しか し 三宅島 の 生活 は 楽 だとは いっても、資 力 の な い 者 は、小 屋 と 称 する 上代 の 穴 居 ( けっきょ ) のような 「 穴 ぐ ら 生 活 」 をする 有 様 であった。


[ 4 : 江 戸 の 火 事 ]

江戸時代 ( 1603 ~ 1867 年 ) の 2 6 4 年間 を 通 じて、 江戸 で 起 きた 火 事 は 約 1,800 件 と いわれて いる。

茅葺

江戸 初期の 市中 では 、燃 え 易 い 木 造 り と 紙 の 内 装を 施 した 家 屋 が 連 なり、 古 く か ら の 茅 葺 ( か や ぶ き ) 屋 根 ( 写真 ) ・ 板 葺 ( い た ぶ き ) 屋 根 の家 が 多 数 を 占 めて いた。

それに 加 え 、檜 ( ひ の き ) の 樹 皮 を 用 い た  檜 皮 葺 ( ひ わ だ ぶ き ) の 伝 統 的 手法 で 屋 根 を 葺 ( ふ ) いた 寺 院 ・ 神 社 など が 多 く 存在 したため、4 ~ 5 年 に 一 度 大 火 に 見 舞 わ れ た

茅 葺 ( か や ぶ き ) 屋 根 の 「 カ ヤ 」 とは、「 ス ス キ 」 ・ 「 チ ガ ヤ 」 ・ 「 ヨ シ 」 ( ア シ ) などの 、安価な 屋 根 葺 材 ( や ね ふ き ざ い ) の 総 称 で あ り、 「 草 屋 根 」 とも 称 した。

一 旦 家 から 出 火 すると 有効 な 消 火 技 術 ・ 消 火 設 備 が 無 かったため、周 囲 の 家 の 屋 根 に 「 飛 び 火 」 し 易 く、消 火 に 困 難 を 伴った。

名奉行 と して 評判 の 高かった 大 岡 越 前 守 忠 相 ( ただすけ、在 任、1717 ~ 1736 年 ) は、防 火 対 策 のため 町 屋 の 瓦 ( か わ ら ) 屋 根 化 を 奨 励 したが、町人の 住 宅 に 亙 が 用 いられることはあまり 無 かった。

平亙本瓦葺き

この時代の 瓦 屋 根 は 本 瓦 葺 ( ほ ん が わ ら ぶ き ) と いい、平 瓦 ( ひ ら が わ ら ) と 丸 瓦 ( ま る が わ ら ) を セ ッ ト で 組 み 合 わ せて 葺 ( ふ )く も ので、 屋根 が 重 く な り、建物自体の 構造 が よほど 頑 丈 でな い と 採用 は 困難 であった。そのため、寺 院 や 城 郭 ( じ ょ う か く ) 以外 には 瓦 屋 根 の 使用は 少 なかった。

町人の家で 「 瓦 屋 根 」 が 使用 されるようになったのは、江戸 中 期 以降 であったが、普及が 遅 れた 理由 は 前述 した 屋根の 重 量 が 増す 他 に 、「 草 屋 根 」 に 比 べ 何倍も 高 価 であったからである。


( 4-1、桶 町 火 事 と 、大 名 火 消 )

寛永18 年(1641年) 1 月 に 、江戸 日 本 橋 桶 町 ( お け ち ょ う ) 現 ・ 東京都 中央区 八重洲 2 丁目 付近 から 夜 12 時 頃 出 火 。焼 失 面 積 9 7 町 、焼 失 家 屋 1, 9 2 4 戸 ( うち 武 家 屋 敷 1 2 1、同 心 屋 敷 5 6 ) が 焼 失 した。

御 成 橋 ( お な り ば し、東京都 ・ 品 川 区 大 崎 5 丁目 ) など の 堀 では 火 災 から 逃 れようと した 人々 の 溺 死 体 ・ 焼 死 体 3 8 8 人 を 収容 するなど 、数 百 人 が 死 亡 した。これは 江戸 開府 以来 初 めての 江戸市中 広 域 に わたる 大 火 であった。

幕府 はこれを 教 訓 に して 桶 町 火事 から 2 年後 の 寛 永 20 年 ( 1643 年 ) に 、 大 名 火 消 ( だ い み ょ う ひ け し ) を 制 度 化 した。

それは 6 万 石 以下 の 大 名 1 6 家 を 選 び 4 組 に 編 成 し、1 万石 につき 火消 し 3 0 人を 課 役 ( かや く / かえき 、仕事を 割 り 当てること ) と して 提供 させた。

1 組 当 たり 最大 4 2 0 人 を 1 0 日 交代 で 消 防 ( 消 火 作 業 ) に 従事 させる 制 度 であり、武 家 屋 敷 ・ 町 屋 に 関係 な く 、火 元 に 近 い 大名 が 出動 して 消 火 に 当 たった。


( 4-2、明 暦 の 大 火 )

明 暦 3 年 ( 1657 年 ) には 有名 な 明 暦 ( め い れ き ) の 大 火 、別 名 ( 振 袖 火 事 ) ( ふ り そ で か じ ) が 起 きて、死 者 10 万 8 千 人 と いう 江 戸 最 大 の 惨 事 が 起 きた。

寺の本堂

火事 は 明 暦 3 年 1 月 18 日 から 19 日 にかけて 三 ヶ所 から 出 火 したが、最初 の 火事 は 図 ( 青 の 矢 印 は 延 焼 方 向 ) の 「1」 で示す 本 郷 丸 山 ( 東京都 ・ 文 京 区 本 郷 5 丁目 ) の 本 妙 寺 から 出 火 した。この 火 事 が 「 振 袖 火 事 」 と 呼 ばれた 理由 は、後で 説明 する。


明 暦 の 大 火 延 焼 図


[ 5 : オ ラ ン ダ 商 館 長 の 、避 難 体 験 記 ]

現在 都心で 生活 する 大 勢 の 人 々 は、予 想 される 首 都 直 下 地 震 や それに 伴 う 火 災 などで 一 斉 に 避 難 することで、大きな 混 乱 や 事 故 が 発生する 危険性 が 指 摘 されている。

このような 民衆 の 避難 に 際 して の 大 混 乱 は、およそ 3 6 3 年前 の 江 戸 の 「 明 暦 の 大 火 」 でも 起 きて い た。

大火災 発生時 、第 四 代 将 軍 家 綱 に 拝 謁 ( は い え つ ) するため 長崎 から 江 戸 に 滞在 して いた 長崎 オランダ 商 館 長 ( ド イツ 人 ) ザ ハ リ ア ス ・ ワ ー ヘ ナ ー ル ( Z a c h a r i a s - W a g e n a e r ) は 、未 曽 有 ( み ぞ う、これまで 一 度 も なかった ) の 大 火 災 から 辛 う じて 逃 げ 出 し、避 難 することができた。

彼は 避 難の 一 部 始 終 を 日 記 に 残 して い たが、そこには、いつ の 時代 も 変 わらず 、災 害 に 翻 弄 ( ほ ん ろ う ) される 人 々 の 姿 が 、記 録 されて いた。

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ワーヘ ナール は 江戸 で 定 宿 とする 日本橋 本石町 三丁目 長崎屋 の 戸 の 前 に 立って、火 災 の 状況を 観 察 して いた。「 火 炎 が 東 側 から、マ ス ケ ッ ト 銃 ( M u s k e t 、先 込 め 式 歩 兵 銃 ) の 射 程 距 離 内 ( つまり、2 0 0 ~ 3 0 0 メ ー ト ル ) の 距離 まで 延焼 して 来 て いる のが 、通 り の 間 から 見 えた 」

「 私はそれを ( 日本人 の ) 役 人 頭 ( や く に ん が し ら ) に 指 し 示 した。すると 彼 はす ぐに 槍 を 手 に 取 り、戸 の 前 に 出 た。そ して 皆 が いることを 確認 してから、我 々は 皆 四 時 半 頃 に そこから 立ち 去った。これで 我 々 は 宿 に 全 ての 荷物 を 置 き 去 り に して、こ の 無 慈 悲 な 炎 に 明 け 渡 して しまった 」

彼 はその 時 に「 通 り 」 で見た 光 景 につ いて、次 のように書 いて いる。「 しか し、恐怖 に 怯 ( お び ) える 避難民 たちが 大 勢 いた ので、我々 は ( 避 難 路 を ) 全 く 進 めなかった。

と いうのも、彼 らはこのような 火 災 の 時 に その 荷物 を 大きな 櫃 ( ひ つ、大 型 の 箱 ) に 入 れて、それを 砲 架 車 ( ほ う か し ゃ 、 G u n - c a r r i a g e ) に 似 たような 「 四 つの 車輪 の 付 いた 荷 車 」 に 載 せて 運 ぶ 習 慣 を持って いたからである 」

このように、荷 物 を 火 から 守 って くれる 「 耐 火 土 蔵 」 を 持 って いな い 人 々 は、荷物を 荷車 で 敏 速 に 運 び 出 して い た。この 荷 車 を 「 車 長 持 」 ( く る ま な が も ち ) と いう。

いざ と いう 時 に 俊 敏 に 荷 物 を 移 動 できるように、普段 の 生活 で 使 って いる 長方形 の 木箱 の 下 に 、車 輪 を 付 けたような 簡単 で 便 利 な 物 だった。しか し、このような 便 利 な物 が 避 難 経 路 で 大 きな 混 雑 を 引き 起 こ して しまうことは 想像 に 難 く な い。

「誰も ( 避 難 の ) 最後部 になりた く なかったので、民 衆 はすべて の 辻 に 設置 されて いる 木 戸 ( き ど、検問所 ) に 殺 到 して いた。それらの 木 戸 はあまりにも 混雑 したため、荷物を 担 いで いる 二 百 人 以 上 の 人々 が 何 度 もそれら の 木戸 の 前 で 足 留 めされた。時間 が 経 つほど 殺到 す る 民衆 の 数 がどんどん 増 えた 」

各 通り に このような 木戸 が 設 けられた 目的 は、治 安 のためであ り、盗 賊 の 逃 げ 道 を 閉 ざすためだった。木 戸 という 障害物 のために 多 くの 犠牲者 が出て いたにもかかわらず、幕府 は この 制度 を 改 めようと しなかった。「 人 間 の 命 」 よりも 「 治 安 」 の方を 重 ん じた のである。

「荷物を 持って いなかった 人 々 は 、櫃 ( ひ つ ) や 包 みの 上 によ じ 登って、逃 げ 道 を 探 して いた。我 々 も 同 じことをやって、最終的 に 仕方 な く 差 し 掛 け 小屋 や 屋根 の 上 に 登 った。

そう しなければ、すべ てを 燃 や し 尽 く す 炎 が 我 々 に 追 い つ い て、我 々 を 灰 にするのは 確実 だった。後 で 分 かったが、それこそが 荷物 を 担 いで 進 めなかった かわ いそうな 人々の 悲 し い 運 命 だった 」

「 我 々 は 最終的 に 郊 外 にある 江 戸 の 川 ( 隅 田 川 ) の 近 く に 辿 ( た ど ) り 着 い て、気 付 い たら 大勢 の 下 層 民 の 間 に 交 じって い た。そこで 我 々 が 物 乞 い であるかのように 二 ~ 三 回 断 られた 後 に、ようや く 貧 民 の みすぼら し い 小 屋 のなかに 入 れてもらった 」

火 は 火 災 旋 風 によって 大きな 川 をも 簡単 に 越 えて 行 く。 だからこそ、川 や 堀 を 頼 みにせず、風向 きを 見 て 避 難 経 路 を 選 択 することが 大事 になって くる。


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そう した 的確 な 避難方針 を持 たずに 逃 げまどうことになった オランダ の 商館長 一 行 は 、かなり 運 が 良 かったと 言 える。なぜならば 彼 の 日記 を 見 る 限 り、避難先 選 択 の 方 法 は 風 向 き で は な く 、夜 を 過 ご せ そ う な 屋 敷 を 目 標 に して 避 難 したからである。この 状況下で ワ ー ヘ ナ ー ル 一 行 が 助かったことは、奇跡 であると 言っても 過言 ではな い。


( 5-1、振 袖 火 事 、名 前 の 由 来 )

江戸時代 前期 の 上方 ( かみかた、大阪 ) に 、町 人 階 級 の 世 相 ・ 人 情 を 描 い た 小 説 である 浮 世 草 子 ( う き よ ぞ う し ) や 人 形 浄 瑠 璃 ( に ん ぎ ょ う じ ょ う る り ) 作 家 ・ 俳 諧 師 ( は い か い し ) の 井 原 西 鶴 ( い は ら さ い か く、1642 ~ 1693 年 ) が いて 活躍 した。

彼が 書 いた 五 冊、五 巻 から 成 る 有 名 な 浮 世 草 子 『 好 色 五 人 女 』 があるが、その 巻 四 に 、 「 八 百 屋 お 七 」 の 題 名 で 書 いた 作 品 があった。そのために 、「 お 七 」 の 名 が 世間 に 広 く 知 られるようになった。

作 品 の 荒 筋 ( あ ら す じ ) と は

梯子

江 戸 の 本 郷 に いた 八百屋 の 娘 「 お 七 」 は、天 和 2 年 ( 1682 年 ) の 大 火 の 際 に 避 難 した 寺 で 寺 小 姓 と 恋 仲 となった。

その後 彼 と 再会 した い 一 心 で 放 火 したため、東海道 に 面 し た 鈴 ヶ 森 ( す ず が も り ) の 刑 場 ( 現・東京都 品 川 区 南 大 井 ) で 火 刑 に 処 された。

こ とになって いる----。井原西鶴 の 「 好 色 五 人 女 」 に 書 かれて 以来、「 お 七 」 は 多 くの 歌 舞 伎 ・ 人 形 浄 瑠 璃 に 脚 色 されたが、あ くまでも 小 説 ( 浮 世 草 子 ) の 主人公 であり、事実 とは 無 縁 であった。最も 可能性 の 高 い 火 事 の 原 因 は 下 記 にある。

振袖

麻布の 裕福 な 質屋 ・ 遠州屋 の 娘 ・ 梅 乃 ( 17 歳 ) は 寺 小 姓 ( てらこ しょう、住職 のそばに仕え、雑用を務 めた 少年、時 には 男色 の 相手 をする者 も いた ) に 一 目 惚 ( ぼ )れ し、その 小 姓 が 着て いた 着物 と同 じ 模様 の 振袖 ( ふ り そ で ) を 作 らせて 愛用 したが、ふと した 病気 がもとで 死 亡 した。両親 は 不 憫 ( ふ び ん ) に 思 い、娘 の 棺 に その 振 袖 を 掛 けて 寺 に 運 び 入 れた。

当時 の 習慣 では 葬 儀 の 前 に 死者 を 棺 に 入 れて 寺 に 運 び 込 むと、人生 の 終 焉 ( しゅうえん ) に 継 ぐ 旅 立 ち の 準 備 と して、現 世 で の 汚 れ を 洗 い 清 め 、新 生 児 が 出産 直後 に 産 湯 に 浸 ( つ ) かるように、「 来世 へ 生まれ 変 わると いう 願 い 」 を 込 めて、寺 の 湯 灌 場 ( ゆ か ん ば ) と いう 小 屋 で 遺 体 を 洗 い 清 める 、湯 灌 ( ゆ か ん ) を おこなった。

その際 に 棺 に 掛 けられて いた 「 着 物 」 や 、死 者 が 身 に 付 けて いた ク シ ・ カ ン ザ シ などの 「 装 身 具 」 は、湯 灌 場で 働 く 者 たちの 「 臨 時 収 入 、も う け 」 となった。

その後 この 振 袖 は 男 たちにより 古手屋 ( ふ る て や、古着屋 の こ と ) へ 売 られ、それを 買った 別 の 娘 の 物 になった。ところが この 娘 も この 振 袖 を 愛用 して い たが、しばら く して 亡 くなったため、また 棺 に 掛 けられて 寺 に 持ち 込 まれた。寺 の 湯 灌 場 の 男たちも 驚 い たが、またそれを 売却 し、 別 の 娘 の手に 渡 った。

ところが、その娘 もほどな く死 んで しま い、また 同 じ 振 袖 が 棺 に 掛 けられて 寺 へ 運 び 込 まれてきた。湯 灌 場 の 男 たち も 今度 はさすがに 気 味 悪 くな り、寺の 住 職 に 相 談 した。死んだ 娘 たちの親も 呼び 出されて 皆で 相談 した 結果、この 振 袖 を 寺 で 供 養 することに した。

この 寺 は 本 郷 丸 山 ( 東京都 文 京 区 本 郷 5 丁目 ) の 法 華 宗 ・ 徳 栄 山 本 妙 寺 と いう 寺 で、明暦 3 年 ( 1657 年 ) 1 月 18 日 14 時頃 のことであった。

住職 が 読 経 しながら 振 袖 を火中に 投 じたところ、強風 が 吹 き、その振 袖 は 火 がついたまま 空に 舞 い 上 がった。そ して本堂 の 檜 皮 葺 ( ひ わ だ ぶ き ) 屋 根 に 落 ち、火が屋 根 に 燃 え 移った。


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ところで 江戸 の 町 は それまで 8 0 日間 も、雨 が 降 らず 乾 燥 して いた ため、火 は 強風下 で またた く 間 に 燃 え 広 がった。この 屋根 に 燃え 移った火は 消 し止 められずに 次々と 延 焼 し、湯島 から 神田明神、駿河台の 武 家 屋 敷 へ と 燃 え 広 がった。

最初 の 火事 が 未だ 消 火 されな いのに 、翌 1 9 日 の 10 時 頃 に 図 の 「 2 」 で 示 す 浄 土 宗 ・ 無 量 山 伝 通 院 ( で ん づ う い ん )  ( 現 ・ 東京都 文 京 区 小 石 川 3-14-6 ) に あった 表門 下 の 大 番 与 力 ( お お ば ん よ り き ) の 屋敷 から出火 し、同日 の 16 時頃 には 図の 「 3 」 で示す 麹 町 ( こ う じ ま ち ) 5 丁目の 町 屋 からも 出 火 した。

結局 江戸市街地 の 6 割 を 焼き 尽 く し 、北 部 の 大 名 屋 敷 や 江 戸 城 の 本 丸 、 天 守 閣 も 焼 失 し た。

そのため 天 守 閣 の 再建 が 計画 されたが、幕 閣 の 重 鎮 ( じ ゅ う ち ん ) であった 保 科 正 之 ( ほ し な ま さ ゆ き ) の

「 天 守 は 織 田 信 長 が 岐 阜 城 に 築 い た の が 始 ま り で あ っ て、城 の 守 り に は 必 要 で は な い 」

と いう意見 により、江戸市街 の 復興 を 優先 する 方 針 となり、その後 天守閣 は 再建 されなかった。


( 5-2、現 代 の 湯 灌、遺 体 の 衛 生 保 存 )

湯灌

入浴

写真は 現代 の 湯 潅 ( ゆ か ん ) の 様子 で、遺体を 棺 に入れる前 に 簡 易 バ ス タ ブ ( 浴 槽、b a t h t u b ) を 遺 族 家 の 部 屋 に 持ち 込 み 湯 灌 する 場合 は 、10 万円 前後 の 料 金 が 必 要 となる。

バ ス タ ブ を 使用 せずに 簡 略 化 する 場 合 には 、遺 体 を 清 拭 ( せ い し き ) し 、 男 性 の 場合 は 死 者 の ヒ ゲ を 剃 り、女 性 の 場合 は 死 化 粧 ( し に げ し ょ う ) を 施 す と、4 ~ 5 万円 の 料 金 が 掛 かる。また 遺 体 を 「 衛 生 保 存 」 する場合 には、15 ~ 25 万円 が 必 要 になる。

遺 体 の 衛 生 保 存 ( エ ン バ ー ミ ン グ 、 e m b a l m i n g ) につ いては、ホーム ページ の 表 紙 にある、「 サ ン デー 毎 日 の 記、( 随 筆 集 ) 」 の 第 2 項 に 「 エ ン バ ー ミ ン グ 」 の 題目 があり、義 母 の 実 施 例 が 記 載 して ある。 なお 遺 体 を 外国 から / 外国 へ 飛行機 で 輸 送 する 場合 には、国際的 に エ ン バ ー ミ ン グ の 実施 が 必 要 条 件 となる。


エ ン バ ー ミ ン グ に つ い て


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