江戸の町奉行と、消防 ( 続き )


( 5-3、回 向 院 の 創 建 )

両国の回向院

明 暦 の 大 火 後 、第 4 代 将軍 家 綱 ( 在 位 1651 ~ 1680 年 ) の 命 により 、何 万 人 もの 身元不明 の 焼 死 体 な ど を 船 で 隅 田 川 の 対 岸 にある 本 所 ( ほ ん じ ょ ) 牛 島 新 田 ( う し じ ま し ん で ん ) に 運 び 、 五十 間 ( 9 0 メ ー ト ル 、別 説 では 六十 間 、 1 0 8 メ ート ル ) 四 方 の 大 穴 を 掘 り 、そこに 遺体 を 埋 葬 した。

その 際 に 無 縁 仏 の 冥 福 を 祈 り 、犠 牲 者 の 霊 を 弔 う 「 万 人 塚 」 ( 集 団 慰 霊 墓 地 ) が 作 られたが、それが 写 真 の 浄 土 宗 ・ 諸 宗 山 ・ 回 向 院 ・ 無 縁 寺 ( え こ う い ん 、む え ん じ ) 東京都 ・ 墨 田 区 両 国 2 丁目 ) の 始 まり ( 1 6 5 7 年 ) となった。

隅田川-荒川

そ の後も 安 政 大 地 震 ( 1855 年 、震 源 地 は 現 ・ 東京都 ・ 江 東 区 で、マ グ ニ チ ュ ー ド 6.9 ) の 無 縁 仏 を は じ め、江戸市内 の 水 死 者 や 焼 死 者 ・ 刑 死 者 など 横 死 者 ( おう し しゃ、天 命を 全 う しな いで 死 ぬ 人 、不 慮 の 死 者 ) の 無 縁 仏 も 埋 葬 して いる。

境 内 には 江戸 後期 に 10 年 以上 大 名 屋 敷 を 専 門 に 盗 みに 入 り、最後 は 「 市 中 引 き 回 し の 上、獄 門 」 に 処 せられた 「 義 賊 の 伝 承 」 で 知 られる 、 鼠 小 僧 次 郎 吉 ( ね ず み こ ぞ う じ ろ き ち ) の 墓 もある。

裸馬

「 市中 引き 回 し」 は 死 罪 以上 の 判 決 を 受 けた 罪 人 が 受 ける 付 加 刑 ( ふ か け い ) であり、単 独 の 刑 罰 ではな い。 罪人 は 伝馬町 の 牢屋敷 から 出 された後、縄で 縛 られて 馬 に 乗 せられる。

罪 状 が 書 かれた 木 の 捨 札 ( すて ふ だ ) や 紙 で 出来 た 幟 ( の ぼ り )、刺 股 ( さ す ま た、逮 捕 道 具 ) や 槍 を持った 非人 身分 の 雑 色 ( ぞ う し き ) が 周 りを 固 め、南 ・ 北 町奉行所 の 与 力 と 同 心 が 検 視 役 と して 後ろを 固 め、江戸市中を 辿 ( た ど )った。

時代劇 等では 罪人は 鞍 ( く ら ) の 付 い て いな い 裸 馬 ( はだかうま ) に 乗せられて いるが、実際は 菰 ( こ も ) を 敷 いた 鞍 の上に 乗 せられて いた。


[ 6 : 消 火 体 制 の 強 化 ]

明 暦 の 大火を 経験 した 幕 府 は、それまでの 「 大 名 火 消 」 だけでは 大 火 災 に 対 応 できないことを 悟 り、翌年 の 万治 元年 ( 1658 年 ) に は 「 大 名 火 消 」 に 加 えて、幕 府 「 直 轄 の 火 消 」 と して、旗本 による 定 火 消 ( じ ょ う び け し ) を 制 度 化 した。


( 6-1、定 火 消 、じ ょ う び け し )

それは、石 高 ( こ く だ か ) 四 千 石 以上 の 旗本 4 名 ( 秋山正房 ・ 近藤用将 ・ 内藤政吉 ・ 町野幸宣 ) を選 び、火消人足 を 抱 えるため の 役 料 と して 3 0 0 人 扶 持 ( ふ ち ) を 支 給 し 、それぞれに 与 力 ( よりき ) 6 名  同 心 ( どう しん ) 30 人 を 付 属 させた。

注 : 与 力 ・ 同 心 と は

戦国時代 の末期 に、騎馬 を 許された 者 は 与 力 ( よ り き ) 、許 されな い 者 は 同 心 ( ど う し ん ) と 呼 ばれるようになった。 このような 習 慣 は 徳川 の 世 になっても 残って いて、与 力 の 人 数 は 「 騎 」 ( き ) と 数 えた。

彼らは 江戸幕府 直属 の 下 級 武 士 ( 御 家 人 、ご け に ん ) であり、将軍 との 拝 謁 ( は いえつ、お目通 り ) を 許 されず 、旗 本 よりも 身分 が 低かった。与 力 は 寄 騎 とも書き、配下 の 同 心を 指 揮 ・ 監 督 する 言わば 下級 管理職 であった。

ところで 東 海 道 五 十 三 次 ( つ ぎ ) の 浮 世 絵 ( 木 版 画 ) などで 有 名 な 歌 川 広 重 ( う た が わ ひ ろ し げ 、1797 ~ 1858 年 ) は 、 火 消 同 心  ( ひ け し ど う し ん ) の 家 に 生まれ、15 歳 から 27 歳 まで 1 2 年間 、武 士 ( 本 名 、安藤 重右衛門 ) と して 火 消 同 心 の 仕 事 を しながら、浮 世 絵 師 の 兼 業 を して いた。

天保 3 年 (1832 年 ) に 養祖父 ( 安藤家 ) 方 の 嫡 子 「 仲 次 郎 」 が 17 歳 で 元 服 したので 、 「 同 心 の 職 」 を 仲次郎 に 譲 り、それ 以後 絵 師 の 仕 事 に 専 念 するこ とに した。

日本橋

絵 は 歌 川 広 重 描 く 東海道 五 十 三 次 ( つぎ )で 、出発地 は 江 戸 の 日 本 橋 。ここ から 京都 まで 1 2 4 里 ( 約 4 9 2 キ ロ メ ー ト ル ) ある。 時 鐘 が 「 明 け 七 つ 」 ( 午 前 四 時 ) を 打 つ と 木 戸 が 開 かれ 、一 日 が 始 まる。

日本橋 の 近 く の 魚 市 場 から 威 勢 の い い 魚 商 人 が 魚を 担 い で 行 く。大 名 行 列 の 先 頭 が 高 く 立 てる 毛 槍 ( け や り ) が 橋 を 渡 って 来る 。 橋 の 「 た も と 」 右 側 では 二 匹 の 犬 が 遊 んでいて、背景には 火 消 の 「 火 の 見 櫓 」 が 複 数 見 える。

話を 元 に 戻 すと、幕 府 は 四 組 の 定 火 消 ( じ ょ う び け し ) のために、最 初 は 、麹 町 半 蔵 門 ( こう じ まち はんぞうもん ) 外 ・ 飯 田 町 ・ 市ヶ谷 佐 内 坂 ( い ち が や さ な い ざ か ) ・ 御 茶 ノ 水 の 四カ所 に 定 火 消 屋 敷 と、火 消 道 具 を 与 えた。

そこに 定 火 消 の 妻 子 をは じめ、与 力 ・ 同 心 や 臥 煙 ( が え ん ) と 呼 ばれた 火 消 人 足 約 100 人 を 屋敷内 に 居住 させて 勤務 に 就 かせるという、正式な 消防隊 を 設 置 した。

注 :  臥 煙 ( が え ん ) と は

臥烟 について 歌 川 広 重 の 「 江 戸 乃 華 」 ( え ど の は な ) では、以下のように 記 して いる。

火消 卒 ( かえんそつ、火消 しの 小 者 ) を 「 が え ん 」 と いう。即 ち 臥 烟 の 音 称 な り。この 臥 烟 と いうものは 江戸者 多 し、極 寒 と いえ ども 邸( や し き ) の 法 被 ( はっぴ ) 一 枚 の 外 ( ほ か ) 衣 類を 用 い ず。

消火 に 出る 時は 満 身 の 文 身 ( い れ ず み ) を 現 し、白足袋 はだ し、身体 清 く、男 振 ( お と こ ぶ り ) 美 し く 、髪 の 結 様 ( ゆ い よ う ) 、法 被 ( はっぴ ) の 着 こな し、粋 ( い き ) に して 勢 よ く、常 に 世 間 へ は 聊 か ( い さ さか、少 し ) の 無 理 も 通 りければ( とおったので )、

寒 ( さ む さ ) の 苦 ( く ) を 忘 れて、身 柄 ( み が ら 、身 分 の 良 い ) の 家 の 子息 ( しそ く 、むすこ ) 等 の 臥 烟 に 身を 誤 る 者 少 し とせず ( す く な く な い ) 、此 者 共 ( こ の も の ど も ) 皆 大部屋 に 一 同 起 臥 ( き が 、生 活 すること ) し、部屋頭 の 取締 りを 受 く。

火の見櫓

各 定 火 消 の 屋 敷 には 高さ 三 丈 ( 9 メ ー ト ル ) の 「 火 の 見 櫓 」 を設 け、昼夜 三 人 の 「 火 の 番 」 が つ いて 出火を 見張 り、太鼓 ・ 半鐘 ・ 板木 ( ばんぎ、合 図 のために 叩 き 鳴らす 板 ) などを 備 えて いた。

それは 武家地 だけでなく、一般 町 屋 の 消 火 にも 当 たらせた。この 定 火 消 は 大 名 火 消 の後を 受 け、享保年間 (1716 ~ 1736 年 ) に 町 火 消 が 整備 されるまでの間、市中 の 防火 ・ 消火 に 重要な 役割を 果 た した。

その後 定火消 の 組数 は次第 に増加 し、元禄 8 年 ( 1695 年 ) には 最 多 の 1 5 組 となったが、以後 漸減 ( ぜ ん げ ん ) して 文 政 2 年 ( 1819 年 ) 以後 、定 火 消 は 江戸城 の 郭 内 ( か く な い ) だけの 消 防 に 当 たり、烈風時 の 火 災 や 大 火 の 時 だけ、町方 の 消 火 に 出 動 することに なった。


( 6-2、町 火 消 )

武家方 の 「 大 名 火 消 」 ・ 「 定 火 消 」 に 対 して、町奉行の 監督下に 置 かれた 町 人 の 消 防 組 織 を、 「 町 火 消 」 ( ま ち ひ け し ) と い う。明 暦 大 火 の 翌 年 に 当 たる 万 治 元年 ( 1658 年 ) から、町方の 自 衛 消 防 組 織 が 町 々から 自発的 に、あるいは 町奉行 の 命 により 幾 度 か 試 みられた。にもかかわらず 実際 には 長 続 きせず、ほ とん ど 組織化 するこ とはなかった。

八代将軍 吉宗 の とき、防 火 対 策 の 全 般 にわたって 大改革 が 行 われ、町奉行 大 岡 忠 相 ( お お お か た だ す け ) は 享保 3 年 (1718 年 ) 10 月、各 町名主 に 町 火 消 組 合 の 設 置 を命 じ た。

しか しこ の 火 消 組 合 の 割 り 方 ( 区 域 分 け ) では 消防 の 効果 が 悪 いと いうことで、1720 年に 再度組合 の 割 り 直 しを し て 整 備 したのが、 「 い ろ は 四 十 七 組 」 ( 後 に 四十八 組 ) と、本所 ・ 深川 の 十六 組 が 組 織 された。当時の 町火消 は 江戸っ子 の 人気 を 集 め、歌舞伎 の 「 め 組 の 喧 嘩 」 の 題材 にもなった。

風下

まとい

その組織は 隅田川 以西の 町々を 約 2 0 町 ぐら い 宛、地域的に 七 組 の 小組 に 分 け、い ・ ろ ・ は ・ 四十七 文字 を 組 の 名 に した。但 し 「 へ ・ ひ ・ ら 」 の文字は 語音 が 悪 い ので、代 わ り に 「 百 ・ 千 ・ 万 」 に 変 えた。 このとき 纏 ( ま と い ) や 小旗 を 定 め、各組は 纏 ( ま と い ) 1 ~ 2 本 に 小旗 をもって 目印 と した。


( 6-3、破 壊 消 火 )

長屋の柱切り

江戸の 町 で 火災が 発生 した 場合 には、 延焼 を 防 ぐために 火 元 やその 付近 より 風 下 の、 まだ 火 が 及 んで いな い 家屋 などを 壊 して 取 り 払 い 、火元 との 間 に 十分な 空間 を 作 ることで 延 焼 を 防 ぎ 被 害 を 食 い 止 める 「 破 壊 消 火 」 が 基本 であった。 図は 「 ノ コ ギ リ 」 で 半分 切り目 を 入 れた 柱 を、引き 倒 そうとする男 たち。

特に 江戸市中は 度 重 なる 大 火 によ り、庶 民 が 暮 らす 長 屋 などは、家主側 が 「 火 災 の 発 生 」 を 前提 に 建 築 してお り、柱 の 太 さが 二 寸 ( 約 6 セ ン チ、通 常 の 半 分 ) しかな い 安 普 請 ( や す ぶ し ん ) が 多 く 、長屋 の 引き 倒 しが 容 易 であったと いう。


( 6-4、消 火 ポ ン プ )

江戸時代 の 消火方法 は 基本的 に 「 破 壊 消 火 」 であると 前 項 で 述 べたが、 正確 に 言うと 消 火 ポ ン プ の 役 目をする 竜 吐 水 ( り ゅ う ど す い ) と いう 名 の 道 具 があった。

竜吐水ポンプ

これは 明 和 元 年 ( 17 6 4 年 ) に 江戸幕府 より 町 々 に 給 付 された ポ ン プ 式 放 水 具 であり、火 事 ・ 火 災 の 際 には、屋根 の上 に 水 をかけ、延 焼 防 止 をする 程 度 の 消 火 能 力 しか 持 たなかったとされる。

日頃は 自 身 番 屋 に 常 備 された 木 製 の 箱 型 であり、ポ ン プ へ の 給水は 絵の 右下 にある 二 人 で 担 ぐ 玄 蕃 桶 ( げ ん ば お け ) でおこなった。箱 型 給 水 タ ン ク に 入 れられた 水 を 二人 による 手 押 し ポ ン プ で 噴 出 させる 装置である。性能 と しては、屋根に届 く のが 「 や っ と 」 といわれている。

一 説 によれば、竜 吐 水 は 享 保 年 間 ( 1716 ~ 1736 年 ) に オ ラ ン ダ から 渡 来 した とされる。また 別の説によれば 、長崎 で 発 明 されたとも いわれて いる。 名前の 由来 は、あたかも 竜 が 水 を 吐 く 様子 に 見 立 てて 名付 けられたとも。なお 東京 では 改造 して 、明 治 中 頃 まで 使 用 した。

ちなみに第 二 次 大 戦 末 期 の 各 都 市 では 、内 務 省 ( 現 ・ 総 務 省 ) 防 空 総 本 部 の 指 示 により、空 襲 に 対する 防 火 体 勢 確 保 のための 訓 練 が各 町 内 会 ・ 隣 組 により 実 施 された。私 は 小学生 の 頃 にそれを 見 たが、7 6 年前 の 様 子 を 知 りた い 人 は、下記 を ク リ ッ ク。


防 火 訓 練、火 はたき


 

[ 7 : 町 奉 行 の 年 俸 ]

  • 家 禄 ( かろ く、主君が その 家臣 である 武士 に 与 えた 俸禄 ( ほうろ く )。 家 につ いて 支給 され、江戸時代には 世 襲 化 して いた。高 禄 の 者 は 領 地 を 、普通 の 武士 は 米 穀 を 支給 された ) が 3,000 石 以下 の 者が 、江戸の 町奉行 に 任命 された 例 は 、80 パーセント を 越 える。

  • さらに 家 禄 が1,0 0 0 石 以下 の 者が 任命 された 例 も 少な くな く、9 0 0 石 の 池 田 長 恵 ( いけだ なが しげ ) をは じめ、2 2 名 も いた。

  • 幕末 ( 嘉永 6 年1853 年 、ペ リ ー の 黒 船 来 航 以後 ) における 町奉行登用 に 至 っては、 前頁 の ( 2-1 、町奉行 名 簿 ) の 最下位 にある、佐 々 木 顕 発 ( さ さ き あ き の ぶ ) ・ 都 筑 峯 暉 ( つ づ き み ね て る ) ・ 井 上 清 直 は、家 禄 が 僅 か 2 0 0 俵 ( 8 0 石 ) であった。

    これらは 家 禄 の 多 少 よりも 人 材 を 重 視 して 町奉行 に 登 用 したからであり、それはまた 如 何 に 町奉行 の 職 そのものを 重 要 視 されて いたかを 示 して いた。


寛文 6 年 ( 1666 年 ) 当時 、町奉行 の 役 料 ( 年 俸 ) は 1,0 0 0 俵 ( 約 4 0 0 石 ) であったが、享保 8 年 ( 1723 年 ) から 町奉行 は 大目付 ・ 勘定奉行 ・ 百人組 ( 二十五 騎組 ・ 伊賀組 ・ 根来組 ・ 甲賀組 の 4 組 からなり、各組 に 1 0 0 人 ずつ の 鉄砲足軽 が 配 されたが、その 鉄砲隊 の こと ) の 頭 ( か し ら ) と 同 じ 役 高 ( 年 俸 ) の 、 3,0 0 0 石 が 支 給 された。

幕末の 慶 応 3 年 ( 1867 年 ) 9 月 には ( 米 で 支給 する ) 役 高 ( 年 俸 ) は 廃 止され 、役 金 ( 貨 幣 による 年 俸 ) 2,5 0 0 両 と なった。


町奉行所では、与力 が 南北各町奉行所 毎に 25 騎、同心は 各町奉行所 毎 に100 ~ 120 人 ほどが 勤務 して いた。

[ 8 : 江 戸 時 代 の 裁 判 ]

8-1、将 軍 じ き じ き の 裁 判

江戸時代 の 初期 には 、初代将軍 徳川 家康 ・ 二代 将軍 秀忠 ・ 三代 将軍 家光 などの 将軍 自身 が、大 名 や 寺 社 の 処 罰 や 重 要 な 案 件 について、直接 事実審査を 行 い 判 決 を 下 して いたが、これを 御 直 裁 ( ご ち ょ く さ い ) と いった。


注 : 柳 川 一 件 ( や な が わ い っ け ん )

江戸時代 初頭、対朝鮮外交 を 担って いた 対馬藩 では 李氏朝鮮 と 徳川政権 との間 の 外交文書 つまり、「 国 書 の 偽 造 」 が 慢性的 に 行 われて いた。それは 幕府 にも 朝鮮王朝 にも 秘 密 裏 に 行 われて いたが、ある時 藩主 ( 宗 義成 ) と 対 立 した 対馬藩 家老 の 柳 川 調 興 ( や な が わ し げ お き ) によって幕府に 暴 露 ( ば く ろ ) された。

それにより 政権中枢 を 巻 き 込 んで 寛永 12年(1635年)4月27日、三代将軍 ・ 家光 の目 の 前 で、宗 義成、柳川調興の 直接 の 口頭 対決 が行われた。将軍 家光 自ら解決 に 乗 り出すほどの 徳川幕府 を 揺 るがす 一 大 ス キ ャ ン ダ ル へと 発 展 したが、世に 言う 「 柳 川 一 件 」 であった。

御 直 裁 判 の結果、対馬藩主 宗 義成 は 忠 告 のみ で 「 お 咎 め な し 」 、密 告 した 家老 の 柳川 調 興 は 津 軽 へ 流 罪 、国書 の 偽造 に 関 わった 僧 玄 方 は 盛岡藩 へ 配 流 ( は い る、流罪 と同 じ ) された。


このような 将軍 の 直 裁 ( ちょ く さ い ) を 、御 直 裁 判 ( ご ち ょ く さ い ば ん ) と 呼んで いた。しか し 三 代 将軍 家光 が 脳血管 疾患 により 4 8 歳 で 急 死 すると、側 室 「 お 楽 の 方 」 が 産 んだ、「 竹 千 代 」 が 世 子 ( せ い し 、世 継 ぎ ) になった。

そ して 1651 年 10 月 に、江戸城 において 将 軍 宣 下 ( しょう ぐ ん せ んげ、 天皇 による 征夷大将軍 の 任 命 ) を 受 け、 僅 か 1 0 歳 で 第 四 代 将軍 家綱 に 就任 し、内大臣 に 任 じられた。

四 代 将軍 家綱 は 幼年 であったため、事実上 将軍 直 裁 は 不可能 となり、御 直 裁 判 はおこなわれな く なった。


注 : 越 後 騒 動

五代 将軍 綱吉 は 天和 ( てんな ) 元年 ( 1681 年 ) に 越 後 国 高 田 藩 ( 藩主 松 平 光 長 ) 2 5 万 石 で 起こった 「 世 嗣 ( せ い し 、よ つ ぎ ) 争 い、別 の 説 によれば 藩 政 を 巡 る 対 立 」 の 越 後 騒 動 を 直 裁 したが、厳 しい 処分 が 下された。

高田藩 は 改 易 ( か い え き ) となり、主席 家老 の 小 栗 美 作 ( お ぐ り み ま さ か ) は 切 腹、他 の 2 名 は 八 丈 島 に 遠 島 と なった。これが 将軍 による 御 直 裁 判 の 最 後 となった。


8-2、町 奉 行 に よ る 裁 判

 江戸市中では 武家地 寺社領 寺社 や 町人地 が 混在 し、身分 により 管轄 する 役所 が 異 なるなど 非常 に ややこ し い 状態であった。そのため 町奉行所 ・ 勘定奉行所 ・ 寺社奉行所 などは、 自らの 権限 のみで 判 決 を 出 せる 「 刑 罰 の 範 囲 」 、即 ち 「 専 決 権 」 が 定 められて いた。

例 えば、死 刑 や 遠 島 などの 重 罪 判 決 は 幕 府 の 各 奉行所 の 「 専 決 権 」 を 超 えて いるため、老 中 へ 「 仕 置 伺 」 ( し お き う か が い ) を 提出 し、老 中 は 評定所 へ 諮 問 し 評定所 の 審 議 を 基 に 判決を 決 め、形式的 に 将軍 が 採 決 した。


 

[ 9 : 町 奉 行 の 組 織 ]

町奉行 の 配下 を 図示 すると 下記 のようになる

管理職部 下非正規雇用
(1)
非正規雇用
(2)
内 役 与力
うちや くよりき
外 役 与 力
そとや くよりき
内 役 同 心
う ちやくどう しん
----
外 役 同 心
そとやくどう しん
岡 っ 引
おかっぴき
下 っ 引
したっぴき
町 方 自
衛 組 織
町 年 寄
まちど しより
町政を司る
町役人の筆頭
名 主
なぬ し
自 身 番
じ しんばん
--木 戸 番
きどばん
牢 屋 奉 行
( 世 襲 制 )
牢 屋 同 心
ろうや
どう しん
牢 役 人
牢 名 主
ろうなぬ し
弾左衛門
だんざえもん
被 差 別 集 団
関八州 の 頭 領
--処 刑 時 の
執 行 手 伝
死 体 処 理
警 備 埋 葬
山田浅右衛門
やまだあさえもん
--罪人の首斬り
世 襲 職
--


[ 10 : 町 奉 行 所 の 構 成 員 、そ の 他 ]

  1. 内 役 ( う ち や く、または 内 = な い ) 与 力 ( よりき ) とは、以前 から 主 人 に 仕 え 気 心 の 知 れた 家 臣 を、主 人 の 町 奉 行 就 任 に 伴 い、与 力 の 職 名 で 任 用 したもので、いわば 町 奉 行 の  私 設 秘 書  を いう。

    内 役 ( う ち や く ) 同 心 とは、奉行所 内 での 主 に 事 務 的 な 仕 事 をする者 を いうが、内 勤 の 仕 事 の 中 には 犯 罪 人 の 吟 味 ( ぎんみ、取り調 べ ) と、裁 判 担 当 も 含 まれる。

  2. 江戸 南 町 ・ 北 町奉行所 で、警 察 業 務 を 執 行 する 「 廻 り 方 同 心 」  ( ま わ り か た ど う し ん ) は、南 北 合 わせて 3 0 人 にも 満 た ず、 人 口 1 0 0 万 人 に 達 し た 江 戸 の 治 安 を 維 持することは 困 難 であった。

    そのため、同 心 は 私 的 に 「 岡 っ 引 」 ( お か っ ぴ き ) な ど を 雇 っ て い た が 、その 数 は 「 岡 っ 引 」 が 約 5 0 0 人 、そ の 下 の 「 下 っ 引 」 ( し た っ ぴ き ) を 含 めて 約 3,000 人 い た と いわれて いる。

    「 岡 っ 引 」 や 「下 っ 引 」 は 奉行所 の 正規 の 構成員 ではなく、俸給 も 任命 もなかったが、同 心 から 手 札 ( 小 遣 い ) を 得 て いた。

    「 岡 っ 引 」 の 正 式 名 称 は、江 戸 では 御 用 聞 き ( ごようき き )、関 八 州 では 目 明 か し ( め あ か し ) 、上方では 手 先 ( て さ き ) あるいは 口 問 い ( く ち と い ) と 呼 び、各地方で呼び方は異なって いた。

    水桶

  3. 江戸 の 町 は 戦国時代の 余 風 ( よ ふ う、残って いる 風 習 ) から 治 安 に 問題 があり、市中では 喧 嘩 ( け ん か ) ・ 刃 傷 ( に ん じ ょ う )  ・ 辻 斬 り ( つ じ ぎ り ) ・ 強 盗 などが 頻 発 して いた。

    そのため 各 町 は 自 らの 身 を 守 るため、 自 身 番 と 木 戸 番 を 設 けて いた。自 身 番 ( 写 真 ) は 家 主 と 店 子 ( た な こ、借 家 人 ) 、町 で 雇 った 番 人 ( ガ ー ド マ ン ) で 成 り 立って いた。

    番屋は 彼 ら の 溜 まり 場 だけでなく、町 事 務 所 ・ 駐 在 所 ・ 消 防 署 に当たる 機 能 を 持 ち、入り 口 に 纏 ( ま と い ) ・ 鳶 口 ( と び ぐ ち ) ・ 水 桶 などの 防火用具 を 備 えて いた。

  4. 木 戸 番 の 小 屋 も、木 戸 そのものも 町 の 費 用で 設 備 し 、番 人 も 雇って いた。番人は 番 屋 の 辻 向 か い に 立つ 木 戸 番 屋 に 住 み 込 んで、町 に 出 入りする 者 を チ ェ ッ ク し た。

    拍子木

    怪 し げ な 人 間 がやって 来 ると 拍 子 木 ( ひょう しぎ ) を 叩 き 、火事 が 起 きると 番屋 の 屋根 に 登 って 半 鐘 を 打 ち 鳴ら して 知 らせた。

  5. 町奉行の直属の部下は、与 力 である。彼 ら の 概 略 の 数 は 五十 騎 (人)~ 七十 騎 (人)で、南 北 の 町奉行所 に 半 数 ( 約 二十五 騎 ) ずつ 勤務 して いた。

    同 心 は 二百数十人 で、時代により若干 異なるが、南 北 の 町奉行所 に ほぼ 半数 の約 1 0 0 人 ず つ 勤 めて いた。

  6. 待遇 については、与 力 は 約 二 百 石 ( 米 俵 に 換 算 して、500 俵 )、 同 心 は わずかな 扶 持 米 ( ふ ち ま い ) と 、金 ( カ ネ ) だけ。与 力 の 収入 の 「 五 分 の 一 」 から 「 十 分 の 一 」 と 言 われて いた。

  7. 何 ごとにも 裏 ( ウ ラ ) があるもので、町奉行所 勤 めは 何 かと 「 余 得、ワ イ ロ 」 が あった。他 の 部 所 ( 勘 定 奉 行 所 ・ 寺 社 奉 行 所 ・ 火 付 盗 賊 改 方 ( ひ つ け と う ぞ く あ ら た め か た ) の 与 力 ・ 同 心 は 、足 下 にも 及 ばな いほど、豊 かに 暮 ら して いた。

  8. 町奉行所 与 力 ・ 同 心 の 拝領屋敷 ( は い り ょ う や し き ) は 、現 ・ 東京都 中央区 兜 町 ( か ぶ と ち ょ う ) 西八丁堀 ( に し は っ ち ょ う ぼ り ) から 茅場町 ( か や ば ち ょ う ) 西側 の 「 八丁堀 界 わ い 」 にあった。

    そのため いつ の 頃 からか  「 八 丁 堀 」 と いえば、与 力 ・ 同 心 を 指 すよう になった。

  9. 当時 の 武 家 社 会 は 世 襲 制 であり 同 心 の 子 ( 長 男 ) は 、ほとんど 無 条 件 で 同 心 になれた。元 服 ( 十 五 歳 ) 前 から 父親 の 組 で 「 無 給 の 見 習 い 」 と して 働 いた。その後 採用されると 「 有 給 の 見 習 い 」 となり、年 に 二 両 ほどの 役 料 が 支 給 された。

  10. 与力 の 子も 同 じで、元 服 ( げ ん ぷ く ) 前に 奉行所 へ 仕えて、父親 の 組 で 「 無 給 見 習 い 」 を 勤 めた。ある程度 仕事を 覚 えると、「 正 式 の 見 習 い 」 に昇 格 した。同 心 と 違って、役 料 は 白 銀 十 枚 ( 約 七 両 ) であった 。一 定 の 年 限 を 経 て 「 本 勤 並 」 に 出 世 すると、二十 両 に 昇 給 した。

  11. 「 蛙 ( か え る ) の 子 は 、蛙 ( か え る ) 」 、「 子 は 親 のたどった 道 を 歩 むも の 」 と いう 諺 ( こ と わ ざ ) が ある が、江 戸 時 代 には 本 人 の 能 力 ・ 努 力 とは 無 関 係 に、生 まれながら の 「 身 分 」 と いう 階 層 間 の 壁 ( 格 差 ) が 存 在 し た。

    同 心 から 与 力 へ、 与 力 御 家 人 、ご け に ん ) から 町 奉 行 の 属 す る 旗 本 ( は た も と ) へ の 身 分 の 移 動 は 、 不 可 能 で あ っ た

  12. 江戸時代の 死刑 には、次の 六 種 類 があった。

    • 下手人( げ しにん )= 私欲 にかかわらない 喧嘩 ・ 口論 などによる 殺人の場合は、斬 首 のみで、付加刑 はな し。刑死体 の 引き取り、 埋 葬 も 可 能。

    • 死 罪 = 利欲 にかかわる 殺人 の 場合、斬 首 の 上、刀 の 切 れ 味 を 試 すため、胴 体を 試 し斬 りにされ、埋葬 禁止、捨ておく、家屋敷・家財を没 収 。

      斬首

      幕 府には 腰 物 奉 行 ( こ し も の ぶ ぎ ょ う ) 」 と いう 役 職 が 存在 したが、これは 将軍 の 佩 刀 ( は い と う ) や 諸 侯 から 献 上 された 刀 剣 を 管理 し、また 将 軍 から 諸 侯 に 下 賜 される 刀 剣 に つ いて 差 配 する役 職 であった。

      腰物奉行 の 仕 事 の ひとつに、刀 剣 の 価 値 を 決 める 上 で 最 も 重 要 な 「 切 れ 味 を 試 して 記 録 する 」 と いう 役 目 があった。その役を 拝 命 し 死刑囚 を 斬 首 した後 に、胴 体 を 「 試 し 斬 り 」 したのが、「 刀 剣 の 切 れ 味 鑑 定 人 」 とも いうべき 山 田 浅 右 衛 を 代 々 名乗 る 山 田 家 ( 浪 人 ) の 家 業 で あ り、明治 15 年 (1882 年 ) まで 続 いた 。

      さらに 山田 浅右衛門 家 は 人間の 肝 臓 ・ 脳 ・ 胆 嚢 ( た ん の う ) ・ 胆 汁 等 を 原 料 と し、労 咳 ( ろ う が い、肺 結 核 ) に 効 く と いわれる 丸薬 を 製造 して いた。これらは 山 田 丸 ・ 浅 右 衛 門 丸 ・ 人 胆 丸 ・ 仁 胆 ・ 浅 山 丸 の 名 で 販売 され、山田 浅右衛門 家 は 莫 大 な 収 入 を 得 て い た。

      しかし 明治 3 年 ( 1870 年 ) に 刑 死 者 の 「 試 し斬 り 」 と 、人 胆 ( じ ん た ん ) 等 の 取り扱 い ・ 販売 が 禁 止 され、山田浅右衛門 家 は 大きな 収入源 を 失った。 

      明治15年(1882年) 1月に 旧 刑 法における 斬首刑 が 廃 止 され 絞首刑 が採用された。

    • 獄 門 ( ご く も ん )= 市中 引き 回 し の 上、斬 首 した。死体 は 胴体を 試 し斬 りにされ、首 は 3日 間 晒 ( さ ら ) された。これは 平安時代 中期 から 明治 初期 まで続 いた 刑 罰 の 一 つであり、大衆 へ の 「 見せ しめ 」 と して 行 われた 「 晒 ( さ ら ) し 首 」 のことである。

      御用提灯

      鎌倉時代 までは、斬 首 した 罪人の 首 を 鉾 ( ほ こ ) に 突 刺 して 町 中 の 大路 を 渡 した( 移 動 展 示 し た ) 後、その首を 「 左 獄 」 な い し 「 右 獄 」 の 門 前 の 樹 に 掛 けて 「 さ ら す 」 ことが 多 かったので、いつ しか 梟 首 ( き ょ う し ゅ、首 を 晒 す ) ことを 獄 門 ( ご く も ん ) と 呼 ぶようになった。

      さらす 板 に 裏 から 五 寸 釘 を 三 本 まとめて 打ち 込 み そこへ 首 を 刺 して、首が 安定するように 周囲を 粘 土 で 固 めた。

    • 磔 刑 ( た く け い 、はりつけ ) =市中 引き 回 しの上、磔 柱
      槍(やり)

      ( た くちゅう、はりつけ 柱 ) に 固 縛 ( こ ば く ) して、左 右
      から 槍 で 脇 腹 から入り 反対側 の 肩 に 穂 先 が 突き 出るまで 突 き 上げる。これを 二十 回 ~三十回 程度 繰り返す。 図で 右 は 女 性 ・ 左 は 男 性 の 処 刑 者。

    • 鋸 挽 ( のこぎりびき ) = 江戸時代 に 科 されていた 6 種類の 死刑 の中 で 最 も 重 い 刑 罰 であり、「 主 殺 し 」 に のみ 適用 された。市中 引き回 し の 上、首 だけ 箱 の上に 出 して 埋 められ 2 日間 生きたま ま 晒 し者 にされ、刑 場で 磔 ( は り つ け ) に される。

      見物人に 鋸 挽 きの 真 似 事 をさせたが 本当に行った者が いて、以降 は 横 に 血の 付 いた 鋸 を 添 えた。鋸挽 きでは 処 刑 は しない。

    • 火 罪 ( かざ い ) = 放火犯 に 適用 される。

      鉄柱

      馬に乗せて 市中 引き 回 しの 後、刑 場で 刑 木 ( 鉄 の 棒 ) に 付 けてある 輪竹 の中に入れて 固 縛 する。 体 の下半分 の 周 囲 に 薪 ( ま き ) を 二重 ~ 三重 に 積 み 上 げて、その周 囲 を 「 茅、 カ ヤ 」 で 何重にも 覆 い 、蓑 虫 ( み の む し ) 状 にする。

      それに 火 を 付 けて 処 刑 するが、火刑 に 使用 する 薪 は 二 百 把 ・ 茅 ( カ ヤ ) は 七 百 把 使用する と 言 われて い る。

      処刑者 の 苦 痛 軽 減 のた め ( ? ) 、「 火 あ ぶ り 」 の 点 火 以 前 に 、縄 で 首 を 絞 め て 絶 命 させて い た とする 説 も ある。死後 三 日 間 晒 ( さ ら ) された。

サ ン デ ー 毎 日 の 記 ( 随 筆 集 ) の 項 目 5 5 にある、解 体 新 書 ・ 雑 感 も 読 まれた し。


参考 になる 動画 は 下記 にあり。

鈴 ヶ 森 ・ 小 塚 原 刑 場 跡


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