ドゥーリットルの空襲[ 1 : 日本初の空襲を目撃 ]支那事変 ( 日中戦争、昭和 12 年、1937 年開始 ) 当時から日本は支那 ( 中国 ) 大陸の軍事目標に渡洋爆撃 ( 海を越えて爆撃に行く ) をしても、相手側から空襲を受ける危険性はまったくありませんでした。ところが日米開戦から僅か 4 ヶ月後の昭和 17 年 ( 1942 年 ) 4 月 18 日には、空母 ホーネットから発進した ドゥーリットル 中佐率いる 16 機の B−25 爆撃機により、東京、川崎、名古屋、神戸などが初めて空襲されました。 実はその当時、東京の国民学校 ( 小学校のこと ) 3 年生だった私は、 日 本 初 の 空 襲 の 様 子 を 目 撃 しま した 。 それは昼過ぎのことで したが自宅の前で見て いたので、調 べるとその日は 土曜日 で午後 から 学校 は 休 みで した。 爆音が したので 空を 見上 げると濃 い 藍色 と いうか 黒っぽ い 感 じの 大 きな 飛行機 が、低高度で 北東方向から J R 山手線、大塚駅の上空を通 り、南西 の方向へ 飛んで行くのが見えま した。 その時には地上からの対空砲の射撃も無く、迎撃の戦闘機も飛んで来ず、敵の飛行機だとはまったく知らずに、大きな飛行機が異常に低 い 高度 を飛んで行 くのを見 て いま した。空襲警報の サイレンが鳴り響いたのは、すこ し 経ってからで した。 日本の東方洋上に配備 した 哨戒艇 からの報告で 米国空母部隊 の 本土接近 を知 りながら、長距離爆撃機を空母から発進させて空襲するとはまったく思わずに、航続距離 の短 い 艦載機 による 空襲 は 翌日 以降になるものと油断を した為に、相手に隙を突かれたので した。写真は空母 ホーネットから発艦する日本爆撃の B−25 爆撃機。 この空襲による被害は少なかったものの、これまで日本の防空体制は万全であると国民に豪語していた陸海軍の面目は 丸 つぶれになると共に、敵機の侵入 易々と 許 した 防空監視体勢 の 不備 と、1 機も捕 捉、撃 墜できずに 全機 を 中国大陸 や ソ 連領 に逃走 させた 迎撃体勢 の 欠陥 を、国民 の 前にさら しま した。 16 機のうち ソ連領の ウラジオストックに不時着した 1 機を除き、残り 15 機は全て中国本土にたどりついたものの、11 機の乗組員は落下傘降下をし、4 機は不時着したので機体は全て破壊されてしまいました。参加した乗組員 80 名のうち、日本軍の捕虜になったもの 8 名、重傷 3 名、海上に不時着後の溺死 2 名、落下傘降下中の死亡 1 名でした。 軍事作戦としては見るべき成果がなく、指揮した全機を失った ドゥーリットル中佐は、パールハーバーに対する 日本海軍 の 攻撃 で 打 ちひ しがれた アメリカ国民の士気を高めたので、 2 階級特進 して 准将 に任命 され、議会 の 名によって大統領が授与する最高の勲章である 名誉勲章、「 T h e - M e d a l- o f- H o n o r 」を与えられました。
[ 2 : 灯火管制 ]大東亜戦争(太平洋戦争のことを当時はこのように呼びました)開始後から防空演習が頻繁に行われるようになりましたが、その手始め は夜間の灯火管制でした。訓練の警戒警報が発令されると各家庭では窓に黒い カーテンを下ろしたり、照明を小さくして室内の明かりが 外部に漏れないようにしました。その際に少しでも明かりが外に漏れると、町内を警戒中の警防団員から注意をされました。街灯も消えた真っ暗な町内を通行する人や 、無灯火で自転車に乗る人などは衝突防止のために蛍光塗料を塗った丸い バッジを胸に付けていました。
その頃から児童達は防空頭巾と称する厚い綿の入った頭巾を家庭で作ってもらい、それを肩から下げて登校するようになりましたが、 空襲の際にそれを被ることで爆撃を受けた際の頭部や顔面の負傷を防止する為でした。 また爆撃を受けた場合に取る姿勢として、地面に低く伏せて両手で目と耳の孔を押さえるように先生から教わりましたが、爆風から目 や鼓膜を守る方法でした。 阻塞気球 ( そさいききゅう ) という兵器があったのを知る人は今では殆どいないと思いますが、当時の陸軍が使用していた金魚の形をした気球のことです。防空上の目的から重要な地域や施設の上空にこれを上げて係留し、敵機が地上攻撃をする際に飛行の障碍となる役目をさせるものでした。 防空演習の度に私の家の 2 階からは数個の気球が空に上がっているのが見えましたが、その高さは日本ではせいぜい数百 メートル程度でした。写真は 91 式繋留気球ですが、これを上げたり降ろしたりするには沢山の人手が必要でした。 この防護装置が B−29 の空襲の際に役立つたという話は、これまで見聞きしたことがないので、多分役に立たなかったのでしょう。 しかし ハワイの真珠湾を攻撃する日本軍にとって、真珠湾が阻塞気球で防衛されているかどうかは重要な情報でした。そのため日本から ホノルル総領事宛の極秘電報では真珠湾上空に気球があるかどうか、またはそれを上げようとする兆候があるかどうかを出来うる限り、毎日報告せよとありました。 開戦の前日に ホノルル総領事の喜多長雄から日本に送られた電報には、阻塞気球が上がってないことと、今が奇襲攻撃の絶好の機会だと述べられていました。この阻塞気球を使用したのは日本だけでなく、ドイツや イギリスも使用していました 。 昭和 18 年 ( 1943 年 ) のこと、当時 10 才でした私は家から 5 キロの所にある後楽園球場 ( 東京 ドームの前身 ) まで、友人と自転車に乗り遊びに行きましたが、その当時の後楽園球場の周囲は雑草の生えた広い空き地となっていて、そこには陸軍の高射砲部隊が配備されていました。写真は昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の、後楽園球場の様子です。。
周囲には聴音機や照空灯などもあり、その周辺にあった数少ない ビルの屋上には、高射機関銃 ( 対空機関砲 ) が銃身を空に向けて備え付けられていましたが、日本の防空能力、対空砲火とはこの写真と同じ程度のものでした。
ビクター、レコードの広告に、主人の声 ( His master's voice ) が拡声器 ( ラッパ ) から出てくるのを不思議そうに聴いている犬の姿がありますが、当時の陸軍ではこれに似た聴音機を対空測的兵器として使用していました。
左側のは巨大な ラッパ 状集音器や大型、中型の集音器など 4 個を組み合わせた機械を、360 度旋回可能な台に乗せたものでした。音感に優れた聴音兵がそれを使用して飛行する 敵機の方向や機数などを測定し 、高射砲部隊に連絡するという原始的な仕組みでした。
しかし米国や英国では、太平洋戦争開戦前の昭和 15 年 ( 1940 年 ) 頃から既に レーダーを開発して いて、敵機の方位、距離を探知していましたが、聴音機は第 1 次大戦 ( 1914 年 〜 1918 年 ) において使用された、 30 年近く前の役立たずの兵器 を未だ使用していました。敗戦後は野球場に隣接する高射砲部隊がいた空き地には、後楽園競輪場ができました。
しか し 夏 になるとその水槽 に ボ ウ フ ラ が 涌 く ために、蚊 が 異常 に 多 く なったので 皆 が 困 りま したが、その 対策 と して 水槽 で 金魚 を 飼 うことになりま した。金魚 に ボ ウ フ ラ を 食 べ させたのです。 防火訓練 の 際 には 各町内 に 消 防 ポンプも 消防用 の ホースも 無 かったので、警防団員 の 指揮 のもとに 隣組 の 主婦 が バ ケ ツ ・ リ レ ー で 前述 の 防火水槽 から 水を 運 び 消火 を したり、焼夷弾 に 見 立 てた 花火 や 発炎筒 を 「 ム シ ロ 」 や 砂袋 を 使 い 消 す方法を 訓練 して いま した。 訓練日は 予め 知 らされて いたので、バ ケ ツ ・ リ レ ー の 際 に 水槽 から 金魚 を 汲 み 出 されな い 様 に、どこの 家庭 でも 防火用水槽 の 金魚 を 予 め 別 の 容器 に 避難 させておきま した。
防火訓練は バ ケ ツ、梯 子、ム シ ロ、 「 火 はたき 」 などの 四つの道具 を使っておこなわれま したが、 火 はたき について知る人は今では殆ど いな いと 思 います。 それは 物干 し 竿 のような 長 い竿 の 先 に 縄を 沢山 付けた 「 はたき 」 で、火災 が家 の 軒先 など 高 い所 に 飛 び 火 した場合 に、火を 叩 いて 消 すために 使う 道具 で したが、誰 が 考 えても 焼夷弾攻撃 による 火災 には 全 く 効果 の 無 いことは 明 らかで した。 レーダー や 飛行機 に 見 られる 米国 との 技術力 の 格差 は 歴然 たるもので、生産力 では 10 倍 以上の 開 きがありま した。 竹 槍 で B−29 爆 撃 機 ( に 対 抗 する ) という 日 米 の 国力 の 違 いを 自虐的 に 表現 した 言葉が 敗戦後 に 流行 りま した。 当時の 都 市 住 民 は 江 戸 時 代 さ な が ら の 火 消 し 道 具 で あ る 「 火 は た き 」 や バ ケ ツ ・ リ レ ー による 水運 びなどで、最新技術 の 粋 を 尽 く した B−29 爆 撃 機 による 大 規 模、無 差 別 の 焼夷弾攻撃 に 立 ち 向 かうことを 余儀 な く されま した。
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