パナマ運河と日本の河川
[ 1 : 運河の定義 ]運河 ( Canal ) とは、人 ・ 物などを船で運ぶために、人工的に開削 ( かいさく ) した水路をいう、と辞典の大辞林にあります。 もちろん船が航行できる自然河川は無数にありますが、それらは可航河川 ( かこうかせん、Navigable River ) と呼びます。運河には外洋の波浪を避けるために沿岸の内陸部に建設された 沿岸運河 ( 水路 ) ( Intercoastal Waterway ) と呼ばれるものもありますが、日本でも例えば東北地方の 旧北上川の河口から松島湾を経由して阿武隈川 ( あぶくま がわ ) の河口まで、おおむね海岸線に並行して続く貞山運河 ( 注 : 参照 ) があります。
注 : 貞山運河 )( 1−1、パナマ共和国とは ) 1903 年に コロンビア共和国から独立した国で、面積は北海道より一回り小さい 7 万 5517 平方 キロメートルで、人口は横浜市の 2012 年 1 月推計の 369 万人より若干少ない約 345 万人 ( 2008 年 ) です。 殆どが スペイン人と先住民 ( インディオ ) との混血の子孫である メスティーソ ( Mestizo ) で、93 パーセントが カトリック教徒であり スペイン語が公用語です。主な産業としては運河に関わる海運業務、漁業、バナナ栽培、金融、運河の観光です。 これから述べる パナマ運河については、まず最初に以前書いた ここを読んで いただきますが、私が アメリカ海軍飛行学校の卒業飛行で、 テキサス州から 10 時間洋上飛行をして、 パナマ共和国の首都 パナマ ・ シティー にある米軍の アルブルック空軍基地 ( Albrook Air Force Base、現 ・ マルコス ゲラバ−ト、Marcos Gelabert 空港 ) に着陸し、パナマ運河を訪れたのは今から 54 年前の 1958 年 ( 昭和 33 年 ) のことでした。
学生 3 名 ( アメリカ人 2 名と私 ) で観光 タクシーを雇い、 パナマ運河の太平洋側と カリブ海側にそれぞれ 3 段ずつある ロック ( Lock、閘門、こうもん ) のうち、太平洋側にある スペイン語読みで ミラフロレス ( Miraflores ) ロックを見物しました。 タクシー運転手の案内で チャンバー ( Chamber 、注排水区画 ) の近くまで入り、説明を聞きながら太平洋の海面から 26 メートルの高さにある パナマ運河の水面まで船を上昇させ 、運河を通過し終わった船を今度は海面の高さまで降ろす仕組みをゆっくり見学することができました。
[ 2 : 閘門の仕組み ]
閘門 ( こうもん ) の仕組みを簡単に説明しますと、水位差のある水路に船を航行させる場合には、 二つの水門からなる水泳 プール状の 注排水区画 ( チャンバー、Chamber ) を設けます。 船を上昇させる場合は上図で A 船が移動してチャンバー ( 注排水区画 ) に入ると、チャンバー 内に注水することにより水位を上げ B 船の状態にします。運河の水面と同じ高さになると左側の水門の扉を開き、船が運河に移動して C 船の状態になります。 船を降下させる場合は逆に チャンバー 内の水を排水して水位を下げますが、この設備を閘門 ( こうもん、英語では ロック、Lock ) といいます。 下記の ユーチューブ 映像は太平洋岸の パナマ ・ シティー ( 市 ) 側から、 カリブ海側の コロン ( Colon ) 付近の リモン湾まで パナマ運河の航行を 75 秒間にまとめたものですが、ロック を通過する際に チャンバー の両岸が 1 段につき約 9 メートル下がる 光景は、 船の位置が相対的に上昇 することを示し、逆の場合は 船の位置が降下 することを示します。 ビデオ 映像では最初に船が ミラフロレス ロックで 2 段上昇し、次に ペドロ ミゲル ロック ( Pedro Miguel Lock )で 1 段上昇して 海抜 26 メートル の運河水面と同じ高さになります。 次に パナマ地峡に横たわる丘陵地帯を掘削するという最難関の工事現場である ガイラード ・ カット ( Gaillard Cut ) の狭い運河を航行します。私が見学した頃は時間帯を設けて大型船は 一方通行でしたが、その後拡幅 ・ 開削工事をして相互航行ができるようになりました。
狭い水路は ペドロミゲル ロック から ガツン ( Gatun ) 湖まで 12.6 キロメートル 続き、天然の広い ガツン湖 に入ります。出口の ガツン ロック ( Gatun Locks ) では船の高さを 3 段で 26 メートル 下げて、海面の高さ ( Sea Level ) に戻します。右の写真は ガイラード ・ カットを カリブ海方向に向けて航行する コンテナ船の様子ですが、奥に見えるのが ペドロ ミゲル ロックです。 下記を クリックすると 最初の 15 秒間は C M が流れますが 、続いて タンカーの船上から撮った パナマ運河の風景が放映されますので、ご了承下さい。
[ 3 : 運河計画の最初 ]15 世紀から 17 世紀前半にかけての大航海時代に、ポルトガル ・ スペインなどの ヨーロッパ諸国が海外進出をおこないましたが、新大陸には多くの スペイン人探検家たちが マルコ ・ ポーロの 東方見聞録 ( 注 : 1 参照 ) に記された ジパング の黄金、 あるいは伝説の ソロモン王 ( イスラエル王国、三代目の王で、在位は紀元前 10 世紀頃 ) が隠したとされる財宝を求めて、さらに当時は貴重品だった コショウ ・ ジンジャー ・ 肉桂 ( シナモン ) ・ ナツメッグ などの香料 / 香辛料を求めて、未知の大洋や地域に果敢に探検をおこいました。
注 : 1 )東方見聞録と記されていました。写真は 1124 年に建立され中国にまで ウワサ が伝わり、 東方見聞録の記述の基となった奥州平泉 ・ 中尊寺の金色堂です。
注 : 2 ) カタイ( 3−1、十字架の道 ) パナマ地峡を最初に探検した ヨーロッパ人は、 1501 年に南米北端の ベネズエラから金を探しにやって来た ロドリゴ ・ デ ・ バスチダス ( Rodrigo de Bastidas ) でした。 その 翌年 ( 1502 年 10 月 ) には例の新大陸を発見した コロンブス ( 1451〜1506 年 ) が第 4 次探検航海の際に、 140 名の乗組員からなる 4 隻の船団で パナマ地峡の ダリエン ( Darien ) に到達しました。 大西洋側 ( カリブ海側 ) から 28 日間の苦労の末、 パナマ地峡を横断して最初に太平洋岸に到達したのは スペインの探検家 バスコ ・ バルボア ( Vasco Balboa ) で、 1513 年のことでした。
二つの大洋を結ぶ道とその基地である パナマは、すぐに新世界における スペイン帝国の十字路 ( Cross Road )と市場 ( マーケット ) になりましたが、新大陸で採れた金や銀は太平洋沿岸を手製の粗末な船で運ばれ、パナマ地峡を人の背で横断して大西洋側の港に運ばれ、そこから スペイン本国に向けて船積みされました。
この道は エル カミーノ レアル ( El Camino Real、英語では The Royal Road ) つまり 「 王の道 」 といわれましたが、別名を 十字架の道 ( El Camino de Cruces 、The Road of the Crosses ) と呼ばれていました。その理由は道に沿って多くの死者の墓標 ( 十字架 ) が建てられていたからでした。 ちなみに 「 エル 」 とは スペイン語の男性名詞に付ける 定冠詞で、英語の the と同じ、「 カミーノ 」 は 道、「 レアル 」 は英語の Royal の意味の スペイン語です。 ( 3−2、碑文 ) 右上の墓標に書かれた文字の Q.E.P.D. とは スペイン語の Que En Paz Descanse の略で、「 死者の霊が安らかに憩 ( いこ ) うことを 」、 日本語にすると 「 死者の冥福を祈る 」 の意味ですが、 英語では R. I. P. 即ち Rest In Peace 「 安らかな眠りを 」 が墓標によく使われる言葉です。 しかし私はこの言葉を弔辞などで耳から聞くことはあっても、碑文として墓や慰霊碑に刻まれたものは 唯一の例外を除き 見たことがありません。欧米では 9 割が土葬であり 「 安らかな眠り 」 が死者にとって相応しい表現かもしれませんが、火葬が主である日本において、遺骨に対する 「 安らかな眠り 」 の言葉に違和感を覚えるのは私だけでしょうか?。
死者の霊は遺骨のある墓所ではなく日頃は仏壇の位牌 ( いはい ) に宿り、お盆の際には先祖の精霊を 「 あの世 」 から家に迎えそして送る民俗行事を毎年おこなうので、そこには日本人と欧米人との間に、死者や遺骨に対する意識の 違い ( 注:参照 ) があります。
注 : )意識の違い唯一の例外とは広島の原爆慰霊碑の碑文ですが、講和条約発効の 3 ヶ月後に作者は アメリカに媚 ( こ ) び へつらって 、 R. I. P. を含む 碑文 を作り上げたのだと思います。
多くの インディオを迫害 ・ 殺害した バルボアも太平洋発見の 6 年後に、 パナマ地峡にある大西洋岸の港町 ダリエンで、スペインの総督により反逆罪で死刑を宣告され、 斬首刑 に処されされましたが 44 才でした。 「 十字架の道 」 発見以後は スペイン人たちが続々とこの地にやってきましたが、パナマ地峡に住む原住民たちは地峡内の ジャングルを移動するのに川をよく利用していました。スペイン人たちは原住民から、ある川が南の海 ( 太平洋 ) へつながっている (?) という話を聞き、二つの海を結ぶ海峡の存在を信じるようになりました。 ( 3−3、パナマ地峡の運河構想 ) スペインの コンキスタドール ( 注 : 参照 ) の 1 人に エルナン ・ コルテス ( Hernan Cortes 、1485〜1547 年 ) がいましたが、彼は パナマ地峡にあるとされた海峡を求めて探索を続けましたが遂に発見できませんでした。そこで 「 まぼろしの海峡 」 探しに代わって、パナマ地峡に 「 運河を建設する構想 」 を持つようになりました。 彼は 1523 年に 神聖 ローマ帝国皇帝 ( 在位 1519〜1558 年 ) 兼 スペイン王 ( 在位 1516〜1556 年 ) の チャールズ 五世 ( スペイン名 カルロス、Carlos 五世 ) に対して運河の建設を提案しましたが、これが 人類史上最初の、 パナマ地峡の運河構想 となりました。
彼はその 2 年前の 1521 年に メキシコの アステカ ( Azteca ) 王国を征服したことでも知られていますが、その王国では太陽に栄養を与え、毎日天空に昇ってもらうには、人間の体から流れ出る血液と、生身の体から取り出された新鮮な心臓が必要だと アステカ人たちは考えました。 そこで彼らは ピラミッドの上で毎日毎日、生贄 ( いけにえ ) から心臓を取り出しては、太陽神に捧げたのでした。生贄 ( いけにえ ) の数が不足すると、戦争によりそれ用の捕虜を周辺の国から調達しました。
注 : ) コンキスタドール ( Conquistador ) 右の絵は悪名高い スペインの コンキスタドール、フランシスコ ・ ピサロ に命乞いをする インカの第 13 代で 最後の皇帝となった アタワルパ ( Atahualpa、1502 頃 〜 1533 年 ) ですが、金製品で大部屋を 一杯にし、銀で 二部屋を 一杯にすることを申し出ましたが、ピサロは莫大な金銀の財宝を受け取った後で、助命の約束を破り彼を殺害しました。
もちろん コロンブスの船団も原住民 ( インディオ ) 虐殺に関しては例外ではなく、第 4 次探検航海では多数の インディオを虐殺したことが報告されています。
指名手配 ポスターに書かれた文言は、 お尋ね者 クリストファー ・ コロンブス、 重窃盗罪、 大量虐殺、人種差別、 先住民族に対する強姦、拷問、手足の切断、文化の破壊を始めた大嘘つきの扇動者、 500年続く手前勝手な集団観光事業
コルテスの運河構想は 従兄弟である アルバロ ・ デ ・ サアベドラ ・ セロン ( Alvaro de Saavedra Ceron ) に引き継がれましたが、彼は以下の 四本の運河 ルートを考えました。
以上の 四本の ルートはかなり実現性のある ルートで、実際に地峡に運河が建設される段階でこの 4 本の ルートが検討されましたが、パナマ運河完成後 百年近く経つ間に それに代わる/補 ( おぎな ) う 第 2 パナマ運河建設の話が出る度に、この 三つの計画案が不死鳥のように蘇 ( よみがえ ) りました。 ( 3−5、フンボルト の、失われた運河 )
ドイツの自然地理学者で外交官も務めた アレクサンダー ・ フンボルト ( Alexander Humbolt 、1769〜1859 年 ) は 1799 〜 1804 年まで中南米を探査して歩きましたが、その調査報告を 33 冊の本にまとめて出版しました。その中で フンボルトは中米に 五箇所の運河建設可能地 を挙げています。 そのうちの 四箇所までは、 前項 ( 3−3 、四つの運河計画 ) で既に述べた場所と地理的にほぼ同じような所であり、ニカラグア ルートを最も可能性のある運河建設可能地としましたが、問題は残りの 1 箇所でした。
それは 人から聞いた話 として、 コロンビアの北西部を北に流れて カリブ海に注ぐ アトラト川 ( リオ アトラト、Rio Atrato ) と、 太平洋に注ぐ サン ・ ファン川 ( リオ サン ・ ファン、Rio San Juan ) を利用した運河で、 インディオ達によって すでに造られていた と報告していました。 サン ・ ファン川 上流の ノビタ村の宣教師の指導の下で、アトラト川の上流に流れ込む小さな 「 ラスパドゥラ川 」 を利用して 二つの川を水路で結ぶ運河の掘削工事が、 1788 年 に行われていたと伝えました。 この運河は コロンビア北部の チョコ ( Choco ) 県にある ラスパドゥラ運河 といわれ、スペイン人達はこの運河を利用して エクアドル ( 注 : 参照 ) で取れた ココアの原料となる カカオ豆 ( Cacao beans ) を、 コロンビア北部の港 カルタヘナ ・ デ ・ インディアス ( Cartagena de Indias、 英語では Cartagena of the Indies ) へ船で運んだといわれています。
しかしこの運河の存在は誰も確認していませんし、おそらく スペイン人達の密輸 ルートであったろうとする説もありました。今ではそれが初めから存在しなかったか、あるいはその後運河が使用されなくなり自然に戻ってしまい、人々の記憶から消え失せてしまったのかは不明ですが、これを 「 ラスパドゥラの失われた運河 」 と呼びました。 上の写真は カカオ豆ですが、右の茶色の実は常緑木の カカオノ木に成る実 ( カカオ ポッド、Cacao pod ) で、中に 30〜40 粒の カカオ豆が入っていて、これが ココアや チョコレートの原料になります。
注 : エクアドル ( Ecuador ) [ 4 : 植民地争奪戦の結果 ]15 世紀に始まった大航海時代に続く植民地獲得競争の結果、18世紀後半における新大陸での ヨーロッパ列強の勢力範囲はほぼ確定しました。
1818 年に チリが スペインから独立し、1821 年には ベネズエラと、中米 グアテマラが、同じく1822 年には エクアドルが スペインから独立しました。エルサルバドル ・ コスタリカ ・ ニカラグア ・ ホンジュラスを併せた地域が スペインから独立し、1823 年に中米連邦を結成しました。 ( 4−1、中米 ・ 南米諸国の発展の遅れ ) 1800 年代初頭の中南米には多数の人口密集地があり、人口も 2 千万人に増加し経済的にもそれなりに発達していましたが、その間に アメリカは世界最強の資本主義国へと発展し、1850 年には 工業生産高が初めて農業生産高を 追い越し 、鉄道は 3 万 マイル ( 4 万 8 千 キロ ) に達し世界 一の鉄道国になりました。 しかし スペインの植民地や独立した中米 ・ 南米諸国は、次第に アメリカの従属国 へと転落していきましたが、その理由について 一説によれば、
( 4−2、アメリカの裏庭、中米 ) 辞典の大辞林によれば中央 アメリカ ( 中米 ) とは、「 南 アメリカと北 アメリカをつなく細長い地域の総称であり、 メキシコの テワンテペック地峡から パナマ地峡の間をさすが、広義には メキシコ全土と西 インド諸島を含める 」 とあります。
かつては中米のことを アメリカの バックヤード ( Back-yard 、裏庭 ) と言いましたが、そこでは洗濯物を干すなど、 他人には見られたくない部分 、つまりアメリカ政府による 不正 ・ 陰謀 ・ 強欲な行為 が頻繁におこなわれたからでした。−−−特に カリブ海の権益獲得や パナマ運河の建設にからんで−−−。 ( 4−3、大きい杖と、大砲 )
また後述する第 26 代 アメリカ大統領 セオドラ ・ ルーズベルト の 大きい杖の外交 ( Big Stick Diplomacy )、つまり外交交渉に際しては 「 ソフトな口調で話すが、同時に大きい杖を用意して必要な時にはそれで力を振るう 」 行為を、中米諸国は頻繁に蒙 ( こうむ ) りました。 右の絵では大きい 「 こん棒 」 を持って カリブ海を 「 我が物顔 」 で動き回るのが ルーズベルトに似た男で、後に引き連れるのは多数の軍艦です。 ちなみに 1854 年に ペリー 艦隊が 二度目に日本に来航した際には、 8 隻の軍艦 を 横浜沖 に並べて大砲の空砲を 祝砲 ・ 号砲 ・ 礼砲などと称して、 二度の来航の合計で 100 発以上発射して日本を威嚇 ( いかく ) しました。それを背景にして幕府に開国を迫りましたが、これは典型的な 砲艦外交 ( Gunboat Diplomacy ) でした。 なお日本を太平洋戦争に追い込んだ 戦争犯罪人 の大統領 は、同じ ルーズベルト 姓でも、第 32 代の フランクリン ・ ルーズベルトでした。
[ 5 : レセップスの登場 ]
アメリカと イギリスが パナマ地峡をめぐって利権の主導権争いをする間に、フランスもこれに参入しましたが、その代表となったのが地中海と紅海とを結ぶ スエズ ( Suez ) 運河 を イギリスの執拗 ( しつよう、ねばり強くしつこい ) な反対にもかかわらず 1869 年に完成させた、 フランスの元外交官の レセップス ( Lesseps、1805〜1894 年 ) でした。 彼は 両洋間運河研究国際会議 を組織し、 1879 年に パリで会議を開催しましたが、ここで最大の問題となったのが、
スエズ運河が 「 シー ・ レベル 、海面高 ) 方式 」 を採用して成功したので、レッセップスは パナマ運河についても最初から 「 シー ・ レベル方式 」 を考えました。その理由は将来世界における船舶の大型化が予想されたからであり、閘門式 ( こうもん しき ) では船の大型化には対応できないと判断したからでした。( 写真は パナマ共和国の首都 パナマにある、彼の胸像です。) しかしこの方式には欠点もありましたが、 パナマ地峡には標高 100 メートル近い丘陵地帯を運河の水面下 15 〜 20 メートルまで掘り下げる必要があり、工事費が莫大になることでした。さらに太平洋側と大西洋 ( カリブ海 ) 側の 潮の干満の差 があることで、そえによる高潮を防ぐために ガツン湖に巨大な堰堤 ( せきてい ) を築く必要がありました。 レセップスの運河は当初 1888 年頃までに完成予定でしたが、掘削の技術的困難性や レセップス死亡などの デマが流布され、イギリスなどの国際金融資本の介入による パナマ運河会社の社債が 25 パーセント下落 したことなどによる資金難から、1888 年 12 月に工事が中止され、1889 年 2 月に パナマ運河会社は破産を宣告されました。 それだけに留まらずに レセップスは政界への贈賄の容疑で逮捕 ・ 起訴され、パナマ運河の完成を見ることもなく 1894 年に 89 才で死亡しました。彼の パナマ運河建設の夢は アメリカや イギリスの陰が見え隠れした国際金融資本の妨害行為 や、腐敗した フランス政財界によって葬り去られましたが、それ以後 フランスは パナマ運河から完全に手を引き、予想された筋書きに従って次には米国が運河建設に当たりました。
アメリカ政府はパナマ地峡に持つ種々の権益を考慮し、ニカラグア ・ ルートよりも パナマ ・ ルートで運河を造ることを強く望みました。上院における運河 ルート決定投票の前日になって、パナマ運河に賛成派の ロビイスト ( Lobbyist ) が ニカラグア政府発行の郵便切手を全員に配りましたが、そこには ニカラグアにある モトトンボ火山 ( Mototombo Volcano ) が過去に噴火した図柄が記されていました。
実はその直前に カリブ海の東部で、ドミニカの南にある フランス領の マンティニック ( Mantinique ) 島の ペリー 山 ( Mount Pelee 、1387 m ) が 1902 年の 5 月に大噴火し、町が時速 100 キロの火砕流 ( かさいりゅう ) に襲われて 2 分間で 2 万 8 千 人が死亡しました。 さらに同年 8 月にも再び噴火して、 1,100 人が死亡するという噴火による大災害があったばかりでした。 ニカラグアにある モトトンボ火山 は運河の予定 ルート からは 150 キロも離れた位置にありましたが、この郵便切手の図柄が与えた影響は絶大であり、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取るパナマ案 ( スプーナー 法 ) が議会で採決されました。この パナマ運河派を勝利に導いた郵便切手は、現在も パナマ運河博物館に展示されています。
[ 6 : アメリカによる、パナマ強奪 ]アメリカは 旺盛な侵略主義 に基づき、1889 年には サモア ( Samoa、東サモア )諸島を、1890 年には ハワイを併合し、1898 年には太平洋や カリブ海に植民地の島々を持つ スペインに宣戦布告をして プエルト リコ ・ グアム ・ フィリピン 諸島を併合し、 キューバには米国の傀儡 ( かいらい、あやつり人形 ) 政府を樹立しました。
米国海軍大学の教官 ・ 歴史家 ・ 戦略研究家の アルフレッド ・ マハン ( Alfred Mahan 、退役海軍少将、1840〜1914 年 ) が、1890 年 に有名な 海上覇権論 ( The Influence of Sea Power Upon History, 1660〜1783 ) を発表しましたが、その中で地中海の スエズ運河のように、カリブ海にも運河が必要であると説きました。
パナマ地峡は当時 コロンビアの領土でしたが、アメリカ政府は以前 ハワイの カメハメハ王朝 や キューバで使用した 常套手段 ( じょうとうしゅだん ) をここでも使用して、パナマ地峡を簡単に自国の支配下に置くことに成功しました。 運河地帯を権利金 1,000 万 ドル、年間使用料 25 万 ドル で 99 年間 ( つまり永久に ) 租借 ( そしゃく、外国の領土の一部を借りて、自国で統治する ) という アメリカにとって極めて有利な、 コロンビアにとっては屈辱的な条約を押しつけようとしましたが、 コロンビア議会がその批准を当然拒否しました。 すると それまで アメリカ政府から武器や資金の提供を受ていた マヌエル ・ アマドールを指導者とする 反乱 グループが、 1903 年 11 月 3 日に アメリカ海軍の支援を受けて、 コロンビアからの パナマの独立 を掲げて反乱を起こしました。 アメリカは 3 日後の 11 月 6 日に新 パナマ政府を承認し、その 12 日後に パナマ新政府は アメリカ政府との運河条約に署名し、パナマ運河の両側それぞれ 8 キロメートルの運河地帯 ( Canal Zone ) は 永久租借地、つまり アメリカが永久に主権を持つ領土となり、パナマ共和国も アメリカの従属国 になりました。 反乱グループの指導者の アマドールは 「 ご褒美 」 として、翌 1904 年に、パナマ共和国の初代大統領に選ばれましたが、当時の アメリカ大統領の セオドラ ・ ルーズベルト ( Theodore Roosevelt、1858〜1919 年 ) によれば、
と当時の行動を思い出して後に語っていました。写真は蒸気の力を使用した蒸気 シャベル( Steam Shovel ) ですが、運河掘削に初めて使用され作業効率を高めました。運河工事には 3 万人近い犠牲者を出しましたが、約 10 年の苦闘の末に 1914 年に パナマ運河は開通しました。 以後 アメリカ資本の パナマ運河会社は毎年莫大な利益を上げましたが、その一方で 富を収奪された パナマ共和国は 貧困にあえぎ 、首都 パナマにおける人々の生活は、昭和 33 年 ( 1958 年 ) 当時私が見た限り、敗戦直後 ( 1945〜46 年 ) の日本よりもずっと貧しい状態でした。工事については詳しくは、
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