パナマ運河
[ 1 : 船の進路 ]右にある中米、カリブ海の地図を見ながら、質問の答を選んで下さい。 パナマ運河を東寄りの コースで進むと、私が パナマ運河を初めて訪れたのは昭和 33 年 ( 1958 年 ) の夏でしたが、ご存じのように パナマ運河は日本から東にあります。従って パナマ運河を東寄りの コースで行くと カリブ海 ( 大西洋 ) に通じるものとばかり思っていました。ところが現地に行って初めて分かりましたが、実は太平洋に出るのです。
左は運河の拡大図ですが赤い線で表す パナマ運河は、太平洋側の入り口にある首都の パナマ ・ シティ ( バルボア )から、カリブ海 ( 大西洋 ) 側にある クリストバル港 ( コロン ) まで北北西の方向に作られていました。 つまり カリブ海 ( 大西洋 ) に行く為には 東寄りではなく、西寄りの コース で航行するのです。今では毎日約 37 隻( 年間 1 万 3 千隻 ) の船が パナマ運河を通過しますが、その当時は太平洋戦争終了後 十数年しか経っていなかった為に海運活動が活発ではなく、日に 十数隻程度でした。 運河の両側からそれぞれ 5 マイル ( 8 キロ ) の範囲は運河地帯 ( Canal Zone ) と呼ばれていて、1903 年に パナマが コロンビアから 独立した ( 正確に表現すれば、米国が パナマ運河の予定地域を自国のものにするために独立させた ) 時から、 永久租借地として米国の支配下にありました。。 運河地帯から 一歩金網の塀の外に出るとそこは別世界で、パナマ共和国の首都でありながら道路の舗装も 十分でなく市街が汚れていました。パナマ人にとって仕事といえば運河会社に雇われること、運河会社で働く アメリカ人の家で家政婦や下男をすること、運河を訪れる数少ない観光客に土産物を売ることだけでした。バナナや砂糖 キビ農業以外の産業もなく、米国が支配する運河地帯との経済格差が歴然としていました。 通貨の単位は パナマ地峡を横断して白人として最初に太平洋を発見し、アメリカが大陸であることを確認した スペインの探検家、 バルボア ( Balboa、1475 頃〜1519 年 ) の名前からとった バルボア でしたが、彼が カリブ海側から 9 月 1 日に出発し パナマの山岳地帯を横断して、 28 日後に太平洋を発見した時の様子を記録係の オビエード ( Oviedo ) は以下のように記しています。
1513 年 9 月 29 日の聖 ミゲルの日に、 バルボアは 26 人の仲間と共に太平洋の波にその足をひたした。居合わせた人々は皆 水を手にすくい、北のもう一つの海 ( カリブ 海 ) のように塩からいかどうかを調べようと、初めて口にする物のように水を口に含んでみた。パナマ市内では U S ドルも流通していましたが事前の注意では、外国通貨と交換できない バルボアで釣り銭を受け取るなといわれました。 戦後は民族主義の台頭により アジア ・ アフリカにおける旧植民地から 100 を越える国が独立しましたが、イギリス ・ フランスが実質支配していた スエズ運河を エジプトの民族主義者 ナセル大統領が国有化を図った為に、英 ・ 仏にそそのかされた イスラエルとの間に、第 2 次中東戦争 ( スエズ動乱 ) が起きました。その結果昭和 31 年 ( 1956 年 )12 月には イギリス ・ フランスが、エジプトによる スエズ運河の国営化を認めざるを得なくなりました。 第二次大戦後も続いていた欧米諸国による植民地支配は、 国家による犯罪 であると国連総会で非難決議されたこともあって、米国政府も、平成 11 年 ( 1999 年 ) 12 月 31 日に運河地帯の租借権を パナマ共和国に返還することになりました。その結果それまで 100 年近く 米国に奪われてきた運河の収益 を、パナマ人の手にようやく 半分だけ取り戻す ことができました。
パナマ共和国はそれにより国の経済が活性化して、最近では中米の金融 センターとして大きく発展して高層 ビルも建ち並びました。写真は近代化された パナマ ・ シティ− の様子ですが、パナマは 便宜置籍船 ( Flag of Convenience 、次項参照 )の国としても、世界的に有名です。
[ 2 : 船籍港と便宜置籍船 ]人には国籍があるように船にも国籍があり、さらに本籍地に相当するものに船籍港があります。日本の法律によれば船籍港とは船舶所有者が船舶の登記、登録をして 船舶国籍証書 の交付を受ける土地のことです。20 トン以上の船であれば、船尾の船名の下には必ず船籍港が書いてあります。
写真は英国の豪華客船、「 クイーン ・ メアリー ・ 2 」 の船尾ですが、名前の下に書いてあるのが イングランド南部にある港町の サウサンプトンです。船は登録した国の法律により保護されると共に、その国の法律により規制されますが、法律面で本国よりも有利な条件の国に船籍を移すことが、戦後は活発に行われるようになりました。それが便宜置籍船の制度です。 参考までに世界的に知られている便宜置籍国、及び日本の登録船舶隻数、総 トン数の数値を示しますと、パナマなどでは国の経済規模、国力に比較して不釣り合いな数と船腹 ( 容積 ) を保有しているのが分かります。日本の場合隻数が多いのは 小型船舶が多い為で 、平成 15 年の統計によれば日本の船会社が所有する 外国航路の船舶 のうち、 約 90 パーセント ( 1,789 隻 ) は船籍港を外国にした便宜置籍船です。
( 殺された日本人は ) 確か ユニトラ海運の期間雇用の船員で関係者から聞いたところでは、フィリピン人の操舵手を苛 ( いじ ) め抜いて殺されたと言われています。 この 2 等航海士に同情を寄せる日本人職員は皆無と思います。自業自得です。( 2012、Feb. 7 ) [ 3 : 運河建設の犠牲者 ]ご存じのように パナマ運河を最初に計画し着工したのは、それ以前の 1869 年に スエズ運河の開削工事に成功した フランス人の レセップス でした。その当時 パナマ共和国は存在せず コロンビアの領土でしたので、フランス政府は コロンビアと協定を結んで 1880 年に工事を開始しました。
アメリカは早い時代から パナマ地峡の重要性に目を付けていて、幌馬車で半年も掛かった ロッキー山脈越えの 西部開拓 への別 ルートとして、1855 年には パナマ地峡に写真の横断鉄道を建設済みでした。 西部開拓者の中には長期間の苦痛な旅を強いられる幌馬車の利用を嫌い、アメリカの東海岸から船で パナマにある大西洋岸の港町 コロンに行き、そこから パナマ地峡の 80 キロを鉄道で横断して太平洋岸の バルボア ( パナマ ・ シティ )まで移動し、そこから再び船に乗り サンフランシスコなどに向かう者もいました。 スエズ運河の砂漠地帯とは異なり熱帯地方にある パナマ運河の工事では、下記の原因による予想外の難工事だったため 22,000 人の労働者が死亡 しました。運河予定地の 4 割まで掘削したところで レセップスが指揮する フランスの運河会社は経済的に破綻し、工事を中止してしまいました。 この失敗を喜んだのは他でもない アメリカでした。早速 1902 年に フランス運河会社から運河掘削の権利と運河の所有権を 4 千万 ドル で買い取り、さらに 運河経営に有利なように、1903 年に パナマ地域を コロンビアから独立させて共和国とし 、パナマ運河建設に乗り出しました。 パナマ運河の難工事の原因とは、
それまで原因不明の風土病だった マラリアと黄熱病 が蚊によって媒介されることがようやく解明されましたが、これを知った アメリカは建設に着手するまでの 2 年半を、運河建設地域内での環境衛生の整備改善に費やしました。 蚊の発生する池や水溜まりはすべて浚い、湖には オイル ( 石油 ) を撒いて蚊の幼虫が呼吸できないように水面に膜を作りました。写真は蚊を撲滅するために草地に オイルを散布する馬車です。
ジャングルは更地にし、建物の窓にはすべて防虫 ネットを張り、水を溜めるあらゆる容器には蓋をしました。外部からくる列車に対しては徹底した検疫を行い、感染者の隔離と治療のための病院を建設し、コレラなどの伝染病の発生を防ぐ為に上下水道を整備しました。
写真は黄熱病患者用の隔離 ベッドで周囲に防虫 ネットを張り、患者の血液を吸った蚊による黄熱病の伝染を防いでいました。
前述のように フランスの運河会社が管理した工事中には労働者 22,000 人の死者が出ましたが、その後米国による運河工事でも完成までに 5,600 人の死者 が出ました。その内訳は白人が 350 人、西 インド諸島からの黒人労働者 4,500 人、その他 750 人でした。 パナマ運河完成までに出た犠牲者の数は 合計 27,600 人 で、運河 1 キロメートル当たり 死者 345 人 の割合でした。 写真は難工事だった ゴールド ・ ヒルの 一部を掘削して運河を通した ガイラード ・ カットの工事風景ですが、パナマ運河は約 10 年の歳月と 3 万人近い犠牲者、3 億 8 千 7 百万 ドル の工事費を掛けて 1914 年に開通しました。
しかしこの死者の数に驚いてはいけません。スエズ運河の場合には コレラの発生などもありましたが、 12 万人 の労働者が犠牲になりました。スエズ運河 1 キロメートル当たり 750 人 、つまり遺体を運河に縦に並べた長さ以上の犠牲者が出たことになります。
[ 4 : パナマ運河の仕組み、ロック ( Lock ) ]理想的な運河の計画としては水面が太平洋や大西洋の 海面と同じ高さ ( シーレベル、 Sea Level ) になるようにして、しかも大型船が航行可能なように 水深を 30 メートル程度 まで掘り下げることです。しかしその為には パナマ地峡にある丘陵を、80 キロの長さにわたり切り崩し掘削する必要があり、莫大な費用と労力を必要とするため、パナマ運河では 海抜 26 メートルの所 に パナマ運河の水面を設定しました。
つまり運河に入る船は海面からその高さまで持ち上げてから運河を航行し、運河から出る際にはその分だけ船を海面迄下ろす必要がありますが、その為の設備が巨大 プールとも言うべき ロック( 閘門、こうもん、Lock )です。
カリブ海 ( 大西洋 ) 側から太平洋側に向けて パナマ運河を通行する場合について説明しますと、船が コロンの近くにある クリストバル港 ( リモン 湾 ) から運河に入るには、まず左の写真にある ガツン ・ ロック ( Gatun Lock、閘門、こうもん ) に入ります。 3 段ある チャンバー( chamber、注排水区画 )の全景がよく見えますが、 各段の段差は約 9 メートルあります 。写真では手前の船が 一段目の チャンバー( 区画 ) に入るところで、左の遙か前方の船は既に 26 メートルの高さまで船体を ロックで持ち上げられたので、3 段目の チャンバー( 区画 ) を出て ガツン湖にある航路に向かう所です。 1 段目の チャンバー( 区画 ) に船が入ると入り口の扉を閉め、次に人造湖の水を チャンバーに注入して船体を約 9 メートル上昇させますが、この間の注水所要時間は 約 8 分 です。2 段目の チャンバーの水面と同じに高さになると、船は 1 段目の チャンバー から 2 段目の チャンバーへと移動します。2 段目で同じく約 9 メートル上昇して 3 段目の チャンバーに入ります。 3 段目の チャンバーで船の上昇が終了すると合計で 26 メートル上昇したことになり、ガツン湖の水面と同じ高さになります。すると ロック ( 閘門、こうもん、Lock ) を出て太平洋側にある ペドロ ・ ミグエル ・ ロック ( 閘門、こうもん、Lock ) に向かいます。
船を引き入れた チャンバー に注水し船を上昇させるのに消費される人造湖の水は、パナマ運河全体で年間に 19 億 トン に及ぶといわれていますが、パナマ運河の輸送能力を左右する要素の一つが、熱帯地方に降る雨水を 3 箇所で貯めた人造湖の貯水量です。 逆に船を海面まで下ろす際には、ロックの各段毎に船が浮かぶ チャンバーの水を、今度は排水することにより船の高度を降ろします。写真は太平洋側にある ミラフロア( スペイン語読みで、ミラフローレス )・ ロックの 夕景ですが、そこには 2 段式の チャンバー があります。パナマ運河の全長は合計 80 キロメートルの長さになり、通過には待ち時間を除き通常 9〜10 時間掛かります。
[ 5 : パナマックス、 Panamax ]写真で見ると チャンバー は小さいように見えますが、実際に傍で見るとかなり大きなものです。右の写真では目 一杯 コンテナを積み込んだ コンテナ船が、チャンバーの壁ぎりぎりで通過しています。ところで船の大きさを表現する言葉に パナマックスがありますが、パナマ運河を 通行可能な最大の船の サイズ のことです。その大きさは以下の通りです。なお赤字は チャンバーのサイズです。
北米東海岸と日本との航海で、パナマ運河を利用することにより、3,000 海里 ( 約 5,500 キロメートル ) の距離を節約できます。パナマ運河を通行する船の 43.9 パーセント は アジア向け / アジアからの船です。
旅客を乗せて世界 一周する クルーズ船や米海軍の原子力空母も、全て パナマックス以下の サイズで建造されます。左の写真は クルーズ船が ミラフロレス ・ ロックで隣の チャンバー を通過中ですが、チャンバー の壁にある擦り傷は、恐らく パナマックス船の接触によるものです。 参考までに チャンバーの側壁と パナマックス船の船体との隙間は、計算上 片側で僅か 60 センチ しかありません。
右の写真は ガツン ・ ロックを通過中の大型 クルーズ船の船尾ですが、パナマ運河を通過する船の 23 パーセントは パナマックス船です。 ここで質問します。
船はどの様な方法で、チャンバー 内を移動しますか?。
参考までに スエズ運河 では、中東の原油を運ぶ超大型 タンカー、 V L C C ( Very Large Crude Carrier ) クラスの 25 万 トン の船まで航行できます。
[ 6 : ラック ・ レ−ル ]質問の答は左の写真です。チャンバーの両岸には線路が敷かれていて、そこを移動する電気機関車により船は曳航されます。しかも ロックの各段毎に高度差 9 メートルの急傾斜を登り下りできる様に、機関車側には電動歯車を設け、線路には歯車と噛み合う凹凸を刻んだ ラック ・ レール ( Rack rail ) を設けていました。 ここでは日本の三菱重工が製造した重量 50 トン、290 馬力の電気機関車が船とつないだ ワイヤーを牽引していました。( 左 2 枚のうちの右側の写真では、チャンバーの岸にある ラック ・ レールの凹凸が見えます。)
ラック レ−ルといえば日本の旧国鉄にも、ラック ・ レ−ルを使用していた区間があったのをご存じですか?。昭和 19 年 ( 1944 年 ) の夏に米軍機の空襲を避ける為に当時小学校 5 年生だった私は、クラスメートと 一緒に東京から長野県の山奥の寺に 学童集団疎開 をしましたが、その際に通った旧信越本線の横川〜軽井沢間 ( 今では廃線となり、日に 8 本の路線 バスによる運行中)にあった碓氷 ( うすい ) 峠の急勾配に アプト式 の ラック ・ レールがありました。 横川駅〜軽井沢駅間の 11.5 キロの区間に トンネルが 26、橋梁が 18 箇所もあり、線路の勾配が 1,000 メートルにつき 66.7 メートル上昇するという難所でした。信越本線の ラック ・ レ−ルは昭和 38 年 ( 1963 年 ) に新 ルートの建設に伴い廃止されましたが、現在では静岡県にある大井川鉄道、井川線の アプトいちしろ駅 と長島 ダム間だけで使用されています。 ところで質問の答の続きですが、船の大きさによって牽引する電気機関車の台数が決められますが、大型船で片側 3 台、通常で片側 2 台がよく使われます。ロックへ出入りする際には タグ ・ ボートを使いますが、チャンバー内の移動には特別な場合を除き タグ ・ ボートや 船の エンジンは使いません。
[ 7 : パナマ運河の 強敵 、コンテナ貨物列車 ]昔々学生時代に横浜港の近くで巨大な箱が トレーラーで運ばれるのを見ましたが、それが船舶用 コンテナを見た最初でした。コンテナ輸送 システムは1950 年代に米国の海運会社である Sea-Land 社 ( 現在は合併して、 メルスク ・ シーランド、Maerks Sealand 社 )が開発し、それまでかなりの部分を人力に頼っていた港湾荷役作業を コンテナ化することにより、効率化と省力化をもたらしました。 最初は貨物船に コンテナを積みましたが、後には コンテナ専用船が就航しました。 横浜港に日本初の コンテナ専用船が入港したのは昭和 43 年 ( 1968 年 ) のことでしたが、荷役作業を奪われるとして港湾労働者たちが入港に大反対しました。 ちなみに 英語で ギャング ( Gang ) と言えば組織犯罪者集団のことだけではなく、港湾労働者の 一団の意味もありますが、かつては港湾荷役作業の発注の際に、ワン ・ ギャングと言えば 1 組の グループ、つまり 25 人 の荷役労働者 の意味でした。
その後は コンテナ専用船の建造が進み、高速の コンテナ船が横浜から北米の シアトルまで 7 日 〜 8 日 、ロサンゼルス港まで 9 日 〜 10 日 で コンテナを運び、そこから長距離 トレーラーに コンテナを積み替えて北米大陸を横断して 五大湖周辺、中西部や東海岸の都市に荷物を運びました。 その方法が パナマ運河経由よりも時間が掛からなかったからであり、 Sea-Land 社は水陸の輸送を結合し、しかも ドア ・ ツー ・ ドア ( 戸口から戸口へ ) の物流を開拓しました。後に更なる効率化を求めて トレーラー による輸送から、次には貨物列車輸送に切り替えました。写真の船は日本郵船所有の コンテナ船で数千個もの コンテナを 一度に運びますが、船籍は パナマです。
[ 8 : ダブル ・ スタック ・ トレイン ]大型 コンテナを大量に貨車で運ぶには、写真にあるように ボギー( Bogie ) 台車に、長さ 40 フィート ( 13 メートル ) の コンテナを 上下 2 段に搭載 します。 切り離しできない台車 5 台が 1 組となった コンテナ専用車両を 1 両の単位として扱いますが、写真の 1両で合計 10 個の コンテナを搭載し、5 台の 連結部分を含めて 長さが 85 メートルになります。それをさらに 15 両から 28 両連結して走るので、1 列車では 150 個から 280 個の コンテナを運ぶことになります。 コンテナ輸送列車の長さは 1.5 キロから 2.5 キロにもなりますし、1 列車で運ぶ貨物の量は 2 万 トンから 3 万 トンに及びますが、長大な大陸横断の 2 段積み コンテナ輸送列車のことを、 ダブル ・ スタック ・ トレイン ( Double Stack Train ) と呼びます。
日本郵船など日本の定期外国航路会社も アメリカの大陸横断 ダブル ・スタック ・ トレインの運行をおこなっていて、従来の パナマ運河経由の ルートと比べると、輸送時間を大幅に短縮できるようになりました。 運行時刻表による専用列車の直接運行のため スケジュールも正確なものとなり、米国西海岸の シアトルや ロサンゼルスの コンテナ埠頭で コンテナ貨物列車に搭載された貨物は、列車乗務員の交代以外 ノンストップの運行により 五大湖周辺の シカゴには 3 日で 、ニューヨーク、ボストンまでは 約 6 日で輸送 しています。 前述した第 2 パナマ運河の建設計画はあってもなかなか実行に移されないのは、ダブル ・ スタック ・ トレイン輸送との競争により、 その採算性に疑問がある為といわれています 。つまり今後とも、 運河は 一つで足りる とする計算なのだそうです。
しかし列車の コンテナ輸送にも弱点があります。背が高い コンテナを上下 2 段に積む為に、トンネルの通過は不可能ですし、電気機関車用の架線が張られた線路は走行できないことです。 ダブル ・ スタック ・ トレインによる輸送は アメリカや オーストラリアのように、広大な土地でディーゼル機関車による牽引が発達した地域で使用できても、トンネルが多く殆ど電化された日本の鉄道では不可能です。
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